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2012年3月25日 (日)

聖なるものとなれ   Ⅰペテロ1:31-21  

前回、お話しましたが、「聖い」ということは、神さまのものになったということが第一の意味である」と申し上げました。しかし、本日はもっと積極的に「聖なるものとなれ」と命じられています。なぜ、ペテロは強い口調でこういうことを言っているのでしょう?それは、終わりの時代になると愛が冷え、さまざまな罪が増してくるからです。パウロもテモテでこのように言っています。テモテ3章に「終わりの日には困難な時代がやって来る。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者神よりも快楽を愛する者になる」とあります。私たちは困難な時代に生かされていますが、どのようにしたら聖なるものとなれるのでしょうか?

1.父なる神の御目のもとで

新改訳聖書は「聖なるものとされなさい」となっていますが、これだと受け身的になります。しかし、新共同訳は「聖なる者となれ」となっており、こちらの方が原文に忠実な訳です聖なるものとなる理由が1章16節にあります。「それは、わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならないと書いてあるからです。私たちを召してくださったお方は聖なるお方です。また、私たちはこの方を「父」と呼んでいます。つまり、聖なる神さまの子どもからです。一般に、子どもは父にうものです。だから、ペテロは15節で「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。」と言うのです。この世の人たちはいろんな宗教を信じています。不思議なことにその人は、自分が信じている神様に品性が似てくるそうです。たとえば、アッラーの神を信じているイスラム教徒はどうでしょうか?彼らの主張は「片手にコーラン、片手に剣」ですから、どうしても暴力的になります。ご利益を与える新興宗教を信じている人は、どうでしょうか?なんだか、利己的な顔立ちがします。仏教はこの世のものを否定しますので、「諦め」が支配しているように思います。当亀有教会がなぜ、明るいのでしょうか?それは主の恵みを強調しているからです。律法を強調している教会は、さばかれいる感じがするでしょうでも、私たちは、キリストにあってすべての咎めが去ったので、赦しの中を生きています。いつまでも続く「信仰、希望、愛」をスローガンにしています。

でも、きょうの箇所はとても厳しい箇所ではないでしょうか?私は最初、ホーリネスの神学校に行きました。そこは、聖めを強調していましたのでわたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない上段の構えで言われました。でも、律法的で、「寄らば切るぞ」という雰囲気がありました。「献身した者は、聖くあるべきだ」というのが、全面的に出ていて、人間味が欠けていました。そういう人が牧師になるとどうなるでしょう。講壇と私生活のギャップが大きくて、どうしても偽善的になるのではないでしょうか?アメリカでは90%以上の牧師がポルノに葛藤を覚えているそうです。日本の牧師は、表面は何とか繕っていても、裏では苦しんでいるのではないでしょうか?ですから、この聖さということを、律法で捉えるのではなく、恵みで捉えるべきです。なぜなら、律法になると、どうしても肉が罪を生み出してしまうからです。では、恵みによって聖くなるとはどういうことなのでしょうか?新約聖書の時代、聖い人が2種類いました。第一はパリサイ人、律法学者たちです。彼らは汚れたことから離れ、律法を守っていました。そして、律法を守れない罪人や取税人とは決して、交わろうとしませんでした。パリサイ人たちは「自分たちは彼らと違う。自分たちは聖いんだ」と自負していました。もう1種類はイエス様とその弟子たちです。イエス様は聖いお方でしたが、罪人や取税人と交わり、一緒に食事までしました。弟子たちは聖いイエス様と一緒にいても気を使うことはありませんでした。自由な雰囲気の中で、聖い生活をしていたと思います。私たちはパリサイ人、律法学者たちの聖さではなく、イエス様とその弟子たちのような聖さを求めるべきであります。でも、どうしたらそのようになれるのでしょうか?

答えは、17節にあります。1:17「また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。」「恐れかしこんで」という訳は、宗教的過ぎる表現です英語の聖書はaweという単語を用いています。畏敬という意味で、尊敬と恐れが合わさった感情であります。私たちの神さまは人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方です。神さまは公平なお方です。自分が罪を犯してさばかれる立場であったら怖いですね。でも、私たちの神さまは、「父」なる神さまです。もし、私たちが父なる神さまを恐れ、そして親しく交わるならどうでしょう?んなことが可能なのでしょうか?地上におられたイエス様は父なる神さまと親しく交わっていました。イエス様は父なる神さまの御目のもとでいつも暮らしていたのです。だから、聖い生活ができたのです。私たちもイエス様にあって、神さまは父です。父なる神さまから、召され、父なる神さまの子どもです。私たちの中にはアダムの種ではなく、造り主である神さまの種が宿っているのです。キリストにあって古い人であるアダムは死んだのです。私たちはキリストにあって新しく作られたものです。コロサイ3:9-10「互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。たちはアダムに属する古い人を脱ぎ捨て、造り主に似た新しい人を着ているのです。

神を恐れるということは、怖いと思うことではありません。畏敬という意味であり、尊敬と恐れが合わさった感情です。旧訳聖書の神さまは確かにそういうイメージがあります。しかし、イエス様の贖いを通して見るならば、神さまは慈愛に満ちた父なる神様です。だからと言って、神さまをめてはいけません。神さまはこの自然界を造られたとき、自然の法則と道徳的な法則一緒に造られました。私たちは、自然の法則に支配されていることは容易に認めます。たとえば、万有引力の法則からは逃れることができません二階から落ちたら怪我をします。熱いものは冷めるという、熱力学第二法則にも支配されています。でも、神さまは道徳的な法則も同時に造られました。もし、私たちがその法則を破るならば、たとえクリスチャンであっても、罪の刈り取りをしなければなりません。神さまが愛だからすべて赦されるということではありません。確かにクリスチャンであれば、罪赦され、天国には行けます。しかし、私たち自身がこの地上で刈り取りをするか、私たちの子孫が刈り取りをするかどちらかになります。ダビデは姦淫と殺人の罪を犯しました。彼が罪を認めて告白したら即座に赦されました。しかし、ダビデの家から剣が離れず、性的な罪も起こるようになりました。実際、ソロモンはたくさんの外国の女性を愛して堕落しました。列王記を見ると血なまぐさい事件がたくさん起こっています。明らかに、ダビデの咎が、その子孫に影響を与えています。ですから、私たちは神を恐れなければなりません。それは神さまが造られた道徳的な法則を守るべきだということです。現代は「でき婚」があたりまえのようになっています。しかし、それは明らかに神さまの法を犯しています。だから、必ず、その罪を刈り取るときがやってくるのです。でも、私たちの神さまはイエス・キリストの神さまです。父なる神さまは、キリストにあって私たちを赦そう、その咎を打ち壊そうとされるお方です。だから、私たちは愛であり、善である神さまを裏切ってはならないのです。聖い生活は、父なる神さまの御目のもとで生きるときに可能になってくるです。しかし、それは窮屈な生活ではなく、親しい交わりからくる自由な生活です。コリント3:17-18「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。」アーメン。

2.キリストの尊い血によって

私たちは以前、どのような生活をしていたのでしょうか?14節「以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わないようにとあります。福音を知らず無知であったため、さまざまな欲望に支配されていたということです。どんな欲望でしょうか?ペテロ4:3「あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。」わぁー、私はノンクリスチャンのとき、好色、お酒、宴会騒ぎが大好きでした。会社の忘年会で、上野のキャバレーに連れて行ってもらいましたが、「世の中はこんなに楽しいものか!」と感動しました。「忌むべき偶像礼拝とありますが、イスラエルの人たちはこれでやられてしまいました。偶像礼拝の背後には好色や性的罪があったようです。人々は偶像の前で踊っ戯れ、汚れたことをしていたようです。日本にもいろんなお祭りがありますが、こういう罪と関係するものもたくさんあるのではないでしょうか?聖書の福音を知らず、無知であったためです。さらに、私たちはどのようなところから贖われたのでしょうか?18「ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたと言っています。日本人が先祖伝来、持っている空しい生き方とはどんなことでしょうか?「長いものには巻かれろ!」というお上に対する姿勢のゆえに、真の民主主義国家になれません。また、地方に行けば行くほど、お寺や仏壇にしばられ、クリスチャンになることが容易でありません。また、「頑張り努力、勤勉」が美徳とされています。それら自体は決して悪くはありません。しかし、神さまの抜きの「頑張り努力、勤勉は、精神が病んでしまいます。日本に鬱病やさまざまな依存症、自殺者が多いのはそのためではないでしょうか。「勉強して良い学校に入り、良い会社に入る」という価値観も問題です。良い学校に入るために勉強するのではありません。人格的に豊かになり、考え方を広く深くするために勉強するのです。大学に入ると半数以上は勉強しません。入社後は、資格を取るときだけ勉強します。後は、飲んでカラオケにったり娯楽番組を見て、本を読むことがありません。

私たちは以前、さまざまな欲望に支配され、父祖伝来の空しい生活をしていました。では、だれが私たちをその中から何をもって贖ってくださったのでしょうか?1:18-19「ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」アーメン。ペテロにとっては、銀や金は朽ちる物であると考えられています。1:7「火で精錬されつつなお朽ちて行く金」とありました。私は「いやー、銀や金はさびないし、永遠のものじゃないの?」と思います。しかし、この地上のものはいつかなくなります。ペテロが考えたゴールは、新しい天と新しい地でした。そうすると、この地上にある銀や金は朽ちる物の中に入ります。しかし、ペテロが言いたかったことは、以下のことです。銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。当時、物を買ったり売ったりするとき、銀や金が用いられました。「贖う」ということばは、「買い戻す」という意味があります。奴隷を買い戻して、自由にしてあげることき、銀や金を差し出したと思います。でも、私たちは、さまざまな欲望に支配され、父祖伝来の空しい生活をしていました。その中から贖い出すためには、銀や金では足りないのです。一体、何が必要なのでしょうか?傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血による」のです。旧訳聖書の時代、生贄に捧げる羊は、傷や汚れがあってはなりませんでした。一歳の傷のない完全な羊を捧げなければなりませんでした。イエス・キリストこそ、神の小羊であり、その尊い血によって私たちは贖われたのです。いや、キリストの尊い血でなければ、私たちは贖われなかったのです。

私たちはキリストの血による贖いを強調しても、強調しすぎることはないと信じます。はっきり言って、この考えは他の宗教にはありません。神道にも仏教にもありません。イスラム教にもヒンズー教にもありません。戦後、キリスト教の良い部分を取り入れた新興宗教がたくさん興りました。天理教、霊友会、立正佼成会、創価学会、いろいろあります。彼らもいろんな救いを説きますが、キリストの血による贖いがありません。何故でしょう?人間の罪を言わないからです。罪ではなく、業とか、煩悩、汚れ、弱さに置き換えているからです。罪は汚れではありません。これはだれか、罪のない方が、いのちをもって贖うしかありません。残念ですが、全人類は、アダムの子孫から生まれたので、贖い主にはなれませんでした。人類史上、罪がまったくないお方は、神の子であるイエス・キリストだけしかいませんでした。このお方が、一回ですべての罪を贖ったのです。ヘブル9:12「やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」アーメン。まことの神さまは、御子イエスの血以外は受け入れません。「過ぎ越し」のように、御子イエスの血が塗られている人だけを、裁かないで、赦すことに決めておられるのです。他の宗教の方々が「血なまぐさい」とか、「狭い」とか、馬鹿にしても心配することはありません。なぜなら、世の終わりが近づいています。同時にそれは、すべての人が義なる神さまの前に立つときが近づいているということです。白黒、つけられるときが来るということです。

でも、贖うとは罪の赦しだけではありません。解放するという意味がそこに含まれています。私たちは、この世のさまざまな欲望と父祖伝来の空しい生活から解放され、永遠に向かって生きる必要があります。この解放のためにも、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血が必要なのです。ブラック・ゴスペルにキリストの尊い血を賛美した曲があります。Oh the blood redeeming blood, Jesus blood shed for me. And on how precious is the blood.「贖いの血、私のために流されたキリストの血。なんと尊い血なのでしょう。」罪の中に縛られている人が、どうやったら立ち直れるのでしょうか?それができる人は、「ああ、私のためにキリストの尊い血が流されたんだ」と心から理解した人だけです。罪を犯して、刑に服している人たちがたくさんいます。アメリカでも日本でも、刑務所がパンク状態だと聞きます。しかし、何年間かそこで服役しても、4割の人が出てから、また罪を犯すそうです。なぜなら、刑務所は罰を与えるためにあり、更正要素が低いからです。そこでは人間の尊厳が著しく破壊され、出所してからも前科者になります。その人の心の中に「すまなかった」という気持ちは起こりません。むしろ、「ちくしょう、あんなことぐらいで」と恨みや憎しみが増すのではないでしょうか?私も学校の先生から、数え切れないほど、叱られ、罰も受けました。高校生のときは万引きでつかまったときもあります。その時の先生の目は、私を人間として見ていません。「何と言う、破廉恥なことを!」と見下げられ、存在を汚されたという感じがしました。「いやいや、私はそういう犯罪人ではありません」とおっしゃるかもしれません。しかし、どんな罪であれ、人間尊厳を卑しめる力があります。傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血だけが、罪で破壊された人間の尊厳を回復する力があるのです。

を犯すと、だれを悲しませているのでしょうか?それは私たちを造られた父なる神さまであります。私たちが罪を犯すとき、父なる神の御前で犯しているのです。人よりも、神さまであります。社会への償いが必要ないと言っているのではありません。罪を犯し人の尊厳を回復するのは傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血しかありません。もし、罪を犯した人が、罪赦され、尊厳が回復されるまで行ったらどうなるでしょうか?「ああ、私がこうなるために、キリストの尊い血が流されたんだなー、ありがとうございます。」もったいなくて、わざと同じ罪を犯さなくなります。法的なものもありますが、最後は、神さまと人格的な関係で、人は立ち直るのではないでしょうか?ヨハネ8章に姦淫の場で捕らえられた女性の物語が出てきます。イエス様は彼女に何とおっしゃったでしょうか?ヨハネ8:10-11「イエスは身を起こして、その女に言われた。『婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。』彼女は言った。『だれもいません。』そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」もし、イエス様が「売女め」と言ったならどうなるでしょう?また、同じことをするでしょう。でもイエス様は「婦人よ」と言いました。これは、イエス様がヨハネ2章で、マリヤに言ったのと同じ呼び方です。そして、イエス様は「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさいと彼女を解き放しました。この女性が、「わぁー、ラッキー。また、罪を犯そう」とは思わないでしょう。なぜなら、罪が赦され、尊厳が回復されたからです。キリストの血は罪によって壊れた、あなたの尊厳を回復する力があります。

ヘブル9:14「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」アーメン。福音を語るとき、キリストの血を語らないわけには行きません。福音は「良い知らせ」という意味です。キリストを信じだけで、罪赦され、救われるという良い知らせです。でも、その背後には、尊い血が流されたというキリストの犠牲を忘れてはいけません。そして、キリストの血は私たちの良心をきよめ、死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にしてくれます。なんという力でしょう。きよめられるというのは、単に罪を犯さないことではありません。死んだ行いから離れ、生ける神に仕える者となるということです。これまで罪のためにささげていた体を、生ける神に仕えるためにささげるということです。私たちはこのように祈りたいと思います。「神様、ありがとうございます。以前は、罪に染まって、無目的で生きていた私たちを、キリストの尊い血で贖ってくださいました。これからは、神さまの御用のために尊く用いてくださることを感謝します。」アーメン。

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2012年3月18日 (日)

信仰の試練        Ⅰペテロ1:6-12 

信仰というのは、目に見えない神様を信じるのですから大変な作業です。特に、キリスト教の場合は、信じる対象が見えません。いわゆるご本尊がないので、日本人に伝わりにくいのかもしれません。もっぱら、聖書のみことばを聞いて、「ああ、そうなのか?」と信じるケースが多いのではないでしょうか?ローマ10:17「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」アーメン。みことばもそう言っていますので、そのとおりだと思います。しかし、一旦、イエス・キリストを信じると心の中に変化がやってきます。「目には見えないけど、確かにいらっしゃるなー」と分かるようになります。決して、洗脳されているわけではありません。霊的な目が開かれたので。きょうは、私たちが持っている信仰がどのくらい確かなものかを学びたいと思います。

1.信仰の試練

第一は、私たちが持っている信仰が本当に確かなものなのか、ということです。ペテロ1:6-7「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」ここに、試練ということばが2回出てきます。英語の聖書では、2種類の試練が出てきます。第一はtrialで良いか悪いか試験するという意味のことばです。車でもどのくらい耐久性があるのか、長時間走らせて試験します。第二はtemptationで、誘惑という意味の試練です。イエス様が40日40日断食した後で、悪魔が誘惑するためにやってきました。しかし、それは同時に、メシヤとしてこれからやっていけるか試験でもありました。同じように、私たちに思いがけないことが起こったなら、1つは試験であり、もう1つは誘惑になるのです。「神さまを信じているのに、どうしてこんなことが起こるんだ。もう、神さまを信じるのはやめてしまおう」と躓きになる場合もあります。しかし、ペテロは私たちの信仰がどうなることを願っているでしょうか?あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。私たちの信仰が試されて、金よりも尊いものとなるということです。金を精錬するときは、まず、下から火をたいてドロドロに溶かしますそうすると上に金粕が浮かんできます。それをすくって取ります。それを何度か繰り返すと純金になるです。純金になると自分の顔が映るそうです。でも、ここには朽ちて行く金よりも尊くなるというのは金よりももっとすごいということでしょう。

どうでしょうか?イエス様を信じて、洗礼を受けた後は、救いの喜びがいっぱいになります。しかし、まもなくすると信仰の試練がやってきます。「神さま、どうしてこんなことが起こるの?」ということが、立て続けに起こります。信仰を守るために、親しい人と別れなければならなくなるでしょう。新しく友だちになる人もいれば、去っていく友だちも出てきます。今までは、変なところへ一緒に行ったのに、「いや、私は行かないよ」と言う。「なんだよ、付き合い悪いな!」と言われるかもしれません。上司から「これやってくれ」と頼まれる。しかし、それが正しいことでないときは、「いえ、私はできません」と断らざるを得ない時もあります。すると、上司から迫害されるでしょう。私たちが、この世において信仰どおり生きていこうとすると、風当たりが強くなります。パウロはテモテに「確かにキリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」(テモテ3:12)と言いました。逆に、「イエス様を信じた後も、全く迫害はありません。気持ち良いですよ」という人が、むしろおかしいのです。そういう人は、この世の流れに妥協して生きているのかもしれません。また、神さまは私たちの信仰がグレードアップするように、あえて試練を与えられます。たとえば、水泳のコーチを受けていると想像してみましょう。今度の大会で、100メートルで優勝したいと願うとします。そのためには、フォームを変えたり、体力をアップする必要があるでしょう。趣味で泳いでいる場合は、そういうことはありません。でも、記録を出すためには、苦しい練習を乗り越えなければなりません。私は大川牧師のもとで8年間いました。先生は普通の信徒には「良いよ、良いよ」ととても優しい。しかし、「献身します」と言ったとたん、ものすごく厳しくなります。日曜日の夜の説教をスタッフが担当したときがあります。ある、私が説教しました。反省会をしようと階段を登る途中、大川牧師は「今の説教、良いところが1つでもあったか?」と聞きました。きついですね。でも、今の私があるのは、大川牧師のおかげです。

もし、私たちに信仰があるならば、以下のことが内側からあふれてきます。ペテロ1:8-9「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。「信仰の結果」は英国の聖書は「あなたの信仰の収穫を刈りとっている」と訳しています。信仰の結果というのは、いわば信仰の実であります。私たちの信仰は目には見えませんが、いずれ、目に見えるものとして現れてくるのです。私たちはそのことによって、「ああ、この人は本当にイエス様を信じているなー」と分かります。それでは、信仰の実とはどのようなものでしょうか。第一は「イエス・キリストを見たことはないけれども愛しており」とあります。そうです。イエス様を愛しているかどうかが、ポイントです。当時の宗教家は信仰熱心でした。しかし、イエス様を愛するどころか、敵対していました。むしろ、取税人や罪人、遊女たちの方がイエス様を熱心に愛しました。なぜ、イエス様を愛したのでしょうか?それは、多くの罪が赦されたからです。「ああ、私はイエス様によって罪が赦されたんだ。私のために死んでくださりありがとうございます。」ここから、イエス様に対する愛が生まれてきます。罪の赦しを経験していない人は、イエス様を愛しません。「イエス」「イエス」と呼び捨てする人がいます。そういう人は、本当に信じているかどうか疑わしいです。

第二はいま見てはいないけれども信じておりとあります。この信じるとは、どういう信仰の実なのでしょうか?英国の聖書は、trustと訳しています。trustというのは、「信用する、信頼する、任せる」という意味があります。信じるということを、より生活化した表現ではないでしょうか?夫婦の関係はどうでしょうか?10年、20年と試練を乗り越えていくと、信頼関係が生まれるでしょう。イエス様との関係も同じで、「信じる」から、「信頼する」というふうになるのではないでしょうか?人は裏切ります。自分も人を裏切る時があります。でも、イエス様は裏切ることはありません。イエス様はどこまでも真実なお方です。詩篇23篇の羊飼いのようであります。詩篇23:4「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」イエス様、どうして死の陰の谷を歩かなければならないのですか?」イエス様は「ここを通過しなければ、新しい牧草地にいけないんだよ」とおっしゃるかもしれません。「ああ、そうですか。わかりました」。でも、ある場合は、どうしてなのか教えてくれない場合もあります。そのときは、文句を言わないで、だまって、イエス様に従うしかありません。でも、イエス様は大丈夫です。イエス様にゆだねていく人生ほど、力強く、安定している人生はありません。第三は、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。おどるような喜びです。救われている人には喜びがあります。どんな喜びでしょうか?それは、永遠の滅びから永遠の命に移されたという喜びです。聖書を信じれば信じるほど「いやー、救われて良かった!」と思うのではないでしょうか?それまでは、真理も命もなく、この世に流されて生きていました。滅びに向かっていることなどちっとも知りませんでした。しかし、イエス様を信じた後自分は失われていた存在であることが分かります。でも、今は救いを得ています。「うぁー、感謝だ。アーメン」と喜びが湧き上がってきます。5億円の宝くじもすばらしいけど、永遠の滅びから救われたことはもっとすばらしいのではないでしょうか。このように、信仰の対象であるイエス様は目には見えませんが、救われたならば、信仰の実が見えてきます。それは、イエス様を愛する愛であり、信頼であり、喜びです。

2.信仰の土台

私たちが信じているこの福音は、突然、降ってわいたものなのでしょうか?それとも、昔から預言されてそれが成就したものなのでしょうか?ペテロ1:10-13「この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。」この箇所は、長くて、ちょっと難解です。私も何回も読んで、どう語るべきか悩みました。しかし、ここには簡単に言うと、3つの流れがあります。第一は預言者たちです。第二は福音を最初に語った人たちです。第三は福音を告げ知らされた人たちです。ちなみに、私たちは第三の福音を告げ知らされ、信じたグループに入っています。私たちは車に乗るとき、エンジンやミッションがどうなっているのかほとんど意識しません。ハンドルを回して、ギアを入れるだけです。パソコンにおいてはどうでしょうか?スイッチを入れて、アイコンを押すだけです。箱の中がどのように動いているのか、ほとんど考えません。同じように、私たちは聖書に書かれている福音を信じて救われました。しかし、その福音がいつ頃発生し、だれが福音を伝えたのか、あまりわかりません。ペテロは信じている人たちに、この福音はちゃんとした過程で生まれたことを証言しています。

まず第一に、福音は旧約の預言者たちによって、預言されました。彼らがキリストについて預言したとき、2つのことが目にとまりました。それは、キリストの苦難とそれに続く栄光であります。彼らはそのことを、キリストの御霊によって教えられました。しかし、それがだれのことであり、いつ実現されるのかよくわかっていませんでした。彼らは示されたことを、ただ忠実に書きとめようとしたのです。キリストの苦難とそれに続く栄光に関して、特に詩篇やイザヤ書に記されています。たとえば、詩篇22:1「 わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」とあります。これは、イエス様が十字架で叫ばれた叫びです。また、イザヤ53:4-5「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。イザヤ書53篇は「苦難のしもべ」として、ユダヤ人にも知られていましたが、一体だれのことなのか分かりませんでした。旧約の預言者たちは、ただ、聖霊が示すように書いたのです。しかし、まるで十字架を見たかのように預言しているのは、なぜでしょう?ペテロは、キリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたと言っています。それにしても、旧約時代にキリストの御霊がおられたのでしょうか?

第二は福音を最初に語った人たちです。12節半ばに、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々とあります。この人たちは、ペンテコステの日、二階座敷で祈っていた人たちで。使徒たちを含め、120人の人たちがいました。彼らはイエス・キリストが死なれたことと三日目に復活したことは知っていました。しかし、それは聖書的にどういう意味なのか分かりませんでした。でも、聖霊が臨んだときに、「あのことはこのことだったのか!」と分かったのです。ペテロはペンテコステの日、ヨエル書と詩篇16篇を引用して説教しました。復活されたイエス様ご自身も、二人の弟子に教えています。ルカ24 24:25-27 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。アーメン。キリストの苦しみとそれに続く栄光とは、別な言い方をすると、キリストの十字架と復活です。旧の預言者にはそれが十字架とは預言されていませんでしたしかし、弟子たちは、あのイエス様が、私たちの罪を負ったので、十字架の上で裁かれ、神から捨てられたと分かったのです。そして、イエス様がご自分の命で罪を全部、贖ったので、父なる神さまは、墓からイエス様をよみがえらせたのだと分かったのです。十字架と復活を目撃し、聖霊を受けて理解した人たちが、最初の福音の宣教者でした。彼らは30年間、ひたすら宣べ伝えました。でも、天に昇られたイエス様が、再び来られませんでした。目撃者がだんだんと死んでいきます。これでは、良くないと福音書が書かれたのです。ですから、福音書は最初の目撃者たちの証言の記録であります。

第三は福音を告げ知らされた人たちです。これは、ペテロが手紙を送ったポント、ガラテヤ、カパドキアなど、小アジアの人たちがもちろんそうです。パウロたちがギリシャやローマに福音を宣べ伝えました。今は21世紀ですが、どのように福音が宣べ伝えられたのでしょうか?4世紀から16世紀、福音はヨーロッパ全地域を満たしました。中世の時代は、福音がかなりゆがめられてしまいました。なぜでしょう?教会が聖書を隠したので、多くの人々は、因習や風習の中で生活していました。16世紀、宗教改革が起こり、儀式や制度よりも、聖書を重んじるようになりました。ローマカトリックも刺激され、福音が南米や東南アジアに伝播されるようになりました。日本は1546年にザビエルによって福音がもたらされました。大勢の人がキリシタンになりましたが、豊臣と徳川幕府によって禁制となりました。なぜなら、封建制度を脅かすからです。イギリスからメイ・フラワー号が北アメリカ大陸に出発しました。北アメリカ全土が福音に満たされました。ヨーロッパとアメリカの教会は多くの宣教師をアジアに派遣しました。中国、インド、東南アジアに福音が宣べ伝えられました。しかし、第一次、第二次世界大戦が勃発。中国は共産国になりましたが、地下で福音が広がっていきました。そして、20世紀は南米とアフリカにリバイバルが起こりました。カトリックの形式的な信仰に対して、プロテスタントが新しい命を与えました。様々な部族の言葉に聖書が翻訳されています。今は、10-40と言われる、緯度が10度と40度の間にある国々が残っています。イラン、イラク、サウジアラビア、トルコ、パキスタン、アフガニスタンいわゆるイスラム圏であります。この場所が、ものすごく難しいのです。

 日本という国はどうなのでしょうか?大阪のある教会の牧師が、「日本の仏教を学びなおす」とホームページで書いてありました。釈迦はインドの出身の人ではありません。ネパールで生まれました。世界がもし百人の村だったら、キリスト教徒は33人だそうですが、仏教徒は6人くらいです。もっと驚くべきことに、仏教が始まったと日本人が思っているインドでは、現在、全人口の中で0.8%しか仏教徒はいないのです。日本に仏教を伝えてくれた中国でも、全人口の8%しか仏教徒はいません。では、なぜ日本には仏教徒が多いのでしょう。そこに、ある博士の論文を引用しながら、2つの理由を上げています。第一は、1640年、宗門改めと檀家制度、寺請け制度、法事と仏壇を家々に設置させたこと第二は、仏教による死者供養を制度化したこと。つまり、約250年間の徳川幕府による怨念が、まだ、日本を支配しているということです。家内が2月末に岩手のお葬式に行きました。5日間、いろんなことがあり、驚いたそうです。地方によっても違いますが、「死出の旅」というイメージは共通しています。亡くなった人にわらじを履かせ、脚絆を巻き、杖を持たせます。棺の中に小銭をいれます。本当に、「あの世」の旅支度です。儀式は一回ではありません。7日、49日、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、三十三回忌、五十回忌こういう法要は、仏教だけではなく、儒教や神道からも来ているようです。最後は成仏し、仏になるのでしょうか?これが日本の風習であり、正しいと思われている来世観です。

こういう日本に福音が入るためには、何を強調する必要があるのでしょう?私は救いとは、天国に行くということよりも、神の国に入るということだと思います。神の国とは、永遠の御国であり、永遠の住まいです。これに似た考えは、神道や仏教にもあります。常世の国とか極楽浄土と言うかもしれません。しかし、それらは作り話であり、人間の願望から生まれたものです。なぜ、福音というのでしょう?私たちはこのままでは、神の国に入ることはできません。なぜなら、罪があるからです。罪があるかないかは、神の律法と私たちの良心が教えてくれます。イエス・キリストがなぜこの世に来られたのか?それは、私たちの罪を帳消しにし、私たちに神の義を与えるためです。そのために、イエス・キリストは私たちの罪を負い、苦しめられ、神から捨てられたのです。イエス様は十字架で「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。本来なら、私たちが地獄から叫ばなければならなかったのです。イエス様は私たちのすべての罪を贖ったので、父なる神は、イエス様を死からよみがえられました。イエス様は栄光を与えられ、天に昇られました。それは、私たちも義とされ、私たちもよみがえり、私たちも神のみとに行けるんだという保です。日本では死んだ人が、どこか知らないところへ旅立ちます。しかし、私たちは生きているうちに神の国に入り、日々、天のエルサレムに向かっているのです。この地上では、私たちは旅人であり寄留者です。エグザイルです。福音とは何でしょう?イエス・キリストの十字架と復活を信じるなら、行によらず、恵みによって救われるということです。魂に救いを得たならばどうなるでしょう?この世においても、愛、信仰があり、喜びがあります。確かに、この世では試練があります。でも、私たちの信仰は金よりも尊いものとなり、いよいよ、神さまを心から仰ぐ者とされるのです。

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2012年3月11日 (日)

生ける望み       Ⅰペテロ1:3-5

ペテロは「神さまがほめたたえられるように」と最初に挨拶しています。私たちの信じている神様はどんな神さまなのでしょうか?まず、「私たちの主イエス・キリストの父なる神」とあります。神さまは、私たちの父である前に、主イエス・キリストの父なる神です。神さまには息子が独りしかいません。しかし、私たちが主イエス・キリストを信じると、養子とされ、神さまを「お父さん」と呼ぶことができるようになります。また、神さまは「大きなあわれみ」持つお方です。あわれみ深い神さまです。大きなあわれみとは、私たちを罪ある者と見ない、罪として取り扱わないということです。なぜでしょう?私たちが、罪を贖われたイエス・キリストを信じているからです。3節から5節に、神さまの大きなあわれみが具体的に3つ伸べられています。神さまはご自身の大きなあわれみのゆえに、どのようなものを私たちのために、ご用意しておられるのでしょうか?

1.生ける望み

 ペテロ1:3「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」望みとは、希望と同じです。でも、「生ける望み」とは何でしょう?おそらく、生き生きした、わくわくするような希望でしょう。では、希望が全くない状態を何と言うでしょうか?絶望、暗やみ、死というふうになるでしょうか?『夜と霧』を書いたビクトール・フランクルはアウシュビッツを乗り越えた精神科医です。彼はどんな状況においても、希望を失わないように。絶望の中あっても希望こそが生きる力になるんだ」と言っています。孤独死というのがありますが、先月、さいたま市で家族3人餓死していたというニュースがありました。「60代の夫婦と30代の息子がどうして、死ななければならなのか」と思います。住民票の登録もなかったそうです。その家族には、生きる希望が全くなかったのかもしれません。希望の対局となるものは絶望であり、死であります。しかし、何故、そのようになってしまうのでしょうか?神さまが造られた生き物、すなわち被造物は、生きるように造られています。「できるだけ増え広がり、死ぬまで生きる」それが、生き物の本能です。でも、人間だけは希望がないと死んでしまう、特別な生き物なのかもしれません。人間のどこかが狂っ場合は、生きることよりも死を選ぶのかもしれません。

 大きなあわれみを持っておられる父なる神さまは、私たちが生ける望みを持つことができるように2つのことをしてくださいました。第一はイエス・キリストが死者の中からよみがえられたことであります。正確に言えば、父なる神がイエス・キリストを死者の中からよみがえらせたのです。死んだイエス様は何もできませんでした。なぜなら、死んでいたからです。でも、父なる神さまが全能の力をもって、御子イエスをよみがえらせたのです。ここに希望があるのではないでしょうか?もし、私たちの中にいのちがなくなった場合どうするでしょうか?自分では、もう何もすることができません。しかし、父なる神さまがイエス様をよみがえらせたように、よみがえらせるならどうでしょう?人類のすべてが死に飲み込まれてしまいます。この死に対して、誰ひとり勝利した人はいません。だから、人々は死を必然的なものとして受け入れます。仏教では死とは、決して避けられないものであり、諦めるしかありません。しかし、イエス・キリストだけが、死に勝利して、よみがえられたのです。それだけではありません。イエス・キリストは初穂であり、キリストを信じる者も、その復活にあずかることが出来るのです。復活こそが、私たちの究極的な希望であります。死は終わりではないのです。最後に復活があるのです。このような来世観を持つ者に、失望とか絶望はありません。人生でどんなことがあっても、どんな死に方をしたとしても、最後は復活があります。「終わりよければ、すべて良し」であります。レンタルでDVDを見ることがあるかもしれません。昔、インディジョーンズのシリーズを良く見ました。ハラハラ、ドキドキします。でも、安心して見られます。なぜなら、この主人公は絶対死なないということを知っているからです。結末を知っているので、安心して見られます。私たちの人生も同じです。一寸先闇だ」と言われますが、私たちにとっては「一寸先が復活」なのです。

 第二は神さまは私たちを新しく生まれ変わらせてくださいました。キリスト教は死んでから生まれ変わるのではありません。生きているうちに、キリストを信じて、生まれ変わる必要があります。ヨハネ3章には、「新しく生まれる」と書いていますが、本当は「上から生まれる」という意味が正しい訳です。上からとは、神さまによって生まれるということです。人はお母さんのお腹から生まれると肉体的な命を持ちます。その命をギリシャ語ではビオスとかプシュケーと言います。犬や猫もこの命を持っています。でも、この命だけでは、永遠の御国で生きることはできません。神さまが持っている永遠のいのちが必要です。この命は、復活の命とも言われるゾーエーです。私たち人間がイエス様を信じて、心に受け入れるなら、神の霊が私たちを生まれ変わらせてくださるのです。風がどこから吹いてどこへ行くのか見えません。御霊も同じように、その人の上に吹くのです。御霊ご自身は見えませんが、そのわざを見ることができます。なぜなら、人が霊的に生まれ変わると、内側から神のいのちが湧きあがって来るのです。愛、喜び、平和、そして希望がわきあがってきます。この希望は環境や状況によらない、神からの希望です。子どもの頃、裏山ある泉に行ったことがあります。木の棒で、わざと泉をかき回します。泉は、泥んこみたいになります。しかし、10分、20分たつと、透明な水が湧いて来ます。やがては、もとのきれいな泉になります。この世ではいろんな苦しみがあります。しかし、イエス・キリストが死者の中からよみがえられ、神が私たちを新しく生まれさせてくださいました。だから、生ける望みが湧き上がってくるのです。

2.朽ちない資産

ペテロ1:4また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。私たちは生ける希望も必要ですが、資産がなければ豊かな生活を送ることができません。しかし、どうして、「朽ちることもなく汚れることもなく、消えて行くこともない資産」と書かれているのでしょうか?当時、資産にはどのようなものがあったでしょうか?畑や家屋、牛やろば、羊、穀物が入った倉庫、晴れ着、肉桂、香油、金や銀などがありました。絹とか麻でできた着物は、やがて朽ち果てるでしょう肉桂、香油は何年くらい持つでしょうか?金や銀は盗まれる可能性があります。これを現代風に考えたらどうでしょうか?家屋も30年たったらガタがきます。この教会も建てて19年になりますが、いろんなところにガタがきました。外壁や屋根を補修しなければなりません。音響設備も寿命が来たようです。人間が造ったものは、老化して、最後にはなくなります。消費社会というか、新しいものを買うようになっています。でも、神さまが備えてくださる資産はそうではありません。朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産であります。

数年前、トランスフォーマーという映画を見たことがあります。ある若者が黄色いスポーツカーを手に入れました。手に入れたというよりも、向こうの方が若者を気に入った風でした。その黄色いスポーツカーはとてもおんぼろで、いたるところに錆がありました。しかし、メッチャ性能が良くて、高速で走ります。しかし、そのスポーツカーは単なる車ではなく、宇宙生命体でした。トランスフォーム(変態)すると、ロボットになります。いろいろ事件があって、最後のシーン、どうなったでしょう。なんと、そのスポーツカーがピッカ、ピッカになるのです。なぜなら、その車が宇宙生命体なので、朽ちないのです。「あんな車が欲しいなー」と思いました。神さまは宇宙全体を造りました。この地球も造りました。すべてのものは神さまのものです。黙示録21章には聖なる都エルサレムについて書かれています。道路は透き通った純金です。城壁や土台はすべて宝石でできています。私は土木で働いていたことがあるのである程度知っています。道路には砂利とアスファルトを敷きます。建物の土台は強度のあまり高くないコンクリートを使います。しかし、神さまはどうでも良いような所に、純金や宝石を用いるとは、どんなに金持ちなのでしょうか?NHKで見たことがありますが、ある星雲は全部、金でできているそうです。核融合で、ものすごい圧力がかかって、価値のある金属になるのかもしれません。もし、私たちが神さまの子供になったなら、どういう権利を持つことができるのでしょうか?そうです。私たちはイエス様と同じ、御国の世継ぎです。「世継ぎ」と言っても、高速の入口の「四つ木」ではありません。ローマ8:17「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」アーメン。

私は貧しい家庭の8人兄弟の7番目で生まれました。なぜ、うちが貧しかったのか、後で知りました。おじいちゃんは、意地っ張りだったのでしょうか?財産を放棄したようです。また、おばあちゃんは、地主の娘だったようですが、こおり1つで嫁いで来たようです。私の父は、本家に「っちの財産をよこせ!」と談判に行ったそうです。しかし、もらえなくて、怒って、本家の座敷に馬を放ったそうです。おじいちゃんとおばあちゃんは、主張したらもらえるはずの財産を「いらない」と断ったのでしょう。私もおじいちゃんに似たのか、とても意地っ張りでした。人の世話になるのが大嫌いでした。今でもそういうところがあり、道に迷っても道を聞くことがめったにありません。家内が「聞きなさい、聞きなさい」と言うので、仕方なく聞いて、助かったことがたくさんあります。その程度ならともかく、神さまを知らない人たちは、せっかくもらえるはずの、遺産を放棄しているわけです。父なる神さまは宇宙全体を所有しているのですから、たとえ何百億人いても、有り余るほどでしょう。一人でも多くの人が、意地をはらないで、イエス様を信じて神の子となっていただきたいと思います。父なる神さまは、あわれみに富んだお方で、多くの人が救われて、御国の世継ぎになってもらいたいと願っておられます。御国の世継ぎは、だれ一人貧しい人がいません。みんな億万長者です。

3.最終的な救い

ペテロ1:5 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです。「終わりのとき」とはいつのことでしょうか?これこそが、ペテロの主題でもあります。「終わりのとき」とは、イエス様が再び来られる日のことであります。これを神学的には、「再臨」と言います。クリスマスは「初臨」と言いまして、イエス様が人類を贖うために人となって来られました。その御姿があまりにも謙遜だったので、ほとんどの人がイエス様を神さまだとは認めませんでした。神さまの和解を受け入れるように」と、へりくだって来られたからです。しかし、世の終わりに来られるイエス様は全く違います。ヨハネは「髪の毛は羊毛のように白く、その目は燃える炎のようであり、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようである」と黙示録に書いています。ヨハネは再臨のイエス様を見て、足もとに倒れ、死人のようになりました。それだけ、権威があって恐ろしいということです。そうです。再臨のイエス様はこの世を裁くために来られるのです。世の終わりは、患難の時代であり、星が天から落ち、月も太陽も光を失います。疫病とか迫害で、多くの人が苦しさのあまり死のうとしても、死の方が逃げていきます。この世は終ります。しかし、その後に、千年王国がやって、この地のすべてが回復されます。その後どうなるのでしょうか?キリストにある者は新しい天と新しい地に迎え入れられます。しかし、キリストを信じない人は、神の前に立って、その行いに応じてさばかれます。さばかれた者は、永遠の火の中に投げ込まれます。不思議なことに、信じている人も信じない人もみんな復活します。キリストを信じていた人は永遠の御国に入るために復活します。しかし、キリストを信じていない人は、永遠の滅びに行くために復活するのです。

さて、私たちはこの後、どうなるのでしょうか?もし、私たちが生きているうちにイエス様が来られたなら、死なないで栄光のからだに変えられて、御国に入ることができます。これはとてもラッキーな人たちです。宣教学的には、2030年代にイエス様が再臨なさるのではと言われています。なぜなら、その頃、マタイ24章の「御国の福音が全世界に宣べ伝えられるのが完了するからです。もし、そうであれば、私たちも可能性があるかもしれません。結婚したい人は早く結婚した方が良いし、結婚しなくても構いません。使徒パウロはコリント7章で「時は縮まっています。今からは、妻のある者は妻のない者のようにしていなさい。もしそのままにしていられたら、その方がもっと幸いですと言っています。しかし、きょう主題はそういうことではありません。「最終的な救い」についてお話したいと思います。英語のある聖書は、まさしく、final salvationと言っています。救いに最初も最終もあるのでしょうか?私たちクリスチャンは、「私はいついつ救われました」と言います。この「救われた」というのは、「イエス様を信じて、罪の赦しと永遠のいのちをいただいた」ということです。ある人は洗礼を受けた日と重ねる人もいますが、どちらでも構いません。とにかく、イエス様を信じたら、霊的に生まれ変わり、永遠の命を内側にいただいています。私たちクリスチャンには、肉体的な命もありますが、同時に永遠の命も所有しているのです。しかし、肉体的な命には限りがあります。100年持ちません。死んだら、土の中に葬られます。これを肉体的に「眠った」と言います。私たちの魂は眠りませんが、肉体眠るのです。眠るとは、いつか覚めるということです。キリスト教の葬儀でも、「永眠」と言ったりします。しかし、「永眠」は正しくありません。「休眠」の方が正しいのです。なぜなら、世の終わり、イエス様が来られたときに復活するからです。

さて、なぜ、それでは「最終的な救い」と言うのでしょうか?神さまがご計画している救いとは、ギリシャ的な救いではありません。ギリシャ人霊魂の不滅ということを信じていました。しかし、肉体的な復活は信じていませんでした。なぜなら、肉体は悪であり、肉体の中に霊魂が閉じ込められていると信じていたからです。つまり、肉体は不要であるということです。しかし、キリスト教の救いは、罪の贖いだけではありません。この肉体が贖われたときに、救いが完成するのです。肉体の贖いとは、すなわちイエス様のように栄光のからだへと復活することです。この栄光のからだで、私たちは新しい天と新しい地において、永遠に暮らすのです。もし、肉体なしでフどこかで暮らすというのなら、不完全な救いであり、聖書が言う救いではありません。今から15年くらい前に、教会の墓地を作りました。場所は手賀沼の近くにあるラザロ霊園です。うちの教会の墓地は、大変、凝っていて、内側にタイルが貼ってあります。床が1階のロビーと同じタイルで、壁は外壁のタイルと同じものです。実際に、タイル屋さんが、お墓の中に入って工事をしました。後から聞いた話ですが、職人さんはとっても怖かったそうです。なぜなら、十字架がたくさん並んでいるからです。日が暮れてくると、もっと怖くなります。おそらく、ドラキュラかゾンビを想像したのでしょう。私も正直、怖い思いをしました。お墓の石が完成した後、白と赤の玉石を敷きに行ったときです。業者に頼むと高いので、私がホームセンターから10何袋買って、それを代車で運びました。ところが、そこに着いた時は、日が暮れていました。真っ暗なところを、何回も代車で玉石を運ぶ途中、ちょっと怖くなりました。うちの教会のお墓は、ずっと奥にあるので大変でした。でも、当教会のお墓に何と書いてあるかご存知でしょうか?「主よ、来たりませ」であります。これは、黙示録22章から取ったみことばです。今の訳では「主イエスよ、来てください」です。つまり、墓の中に眠っている聖徒たちが、願っていることばです。「主イエスよ、来てください。そうしたら、私たちは栄光のからだによみがえります」と、言うことです。墓石に書かれていることばで、最も多いのが、「復活」です。「私はよみがえり命」というのもあります。眠っている人たち全員が復活を待ち望んでいるのです。それはいつ起こるのでしょうか?世の終わり、イエス様が再び来られる日です。

私たちは世の終わりの終わりに住んでいます。世界終末時計というのがあり、今年で5分になったそうです。2010年より1分進みました。なぜでしょう?核兵器拡散の危険性が増大したことや、福島第一原子力発電所事故が起きたことなどによるそうです。彼らが言う、世界終末時計というのは、核戦争などによる人類の滅亡(終末)を言っているのであって、私たちの言う世の終わりではありません。この世の人たちも、「世の終わり」が来ると言います。しかし、それは人類の破滅、地球の破局を意味しています。私たちはそういう意味だけではありません。確かに、この世は終わりを告げるでしょう。しかし、その時、主イエス・キリストが天から降りて来られ、御国をもたらしてくださるということです。主の祈りで「御国が来るように」という祈りがあります。これは単なる神の支配という意味ではありません。神の支配が目に見えるかたちで、やってくるようにという意味です。私たちの信じていることが絵空ごとではなく、実際に起こるのです。キリスト教の救いは、ミッションスクールで教えているような精神的なものではありません。本当の救いは、霊も魂も肉体も救われることです。そして、永遠の住まい朽ちない資産があり、そして主にある兄弟姉妹が仲良く暮らすところがあるのです。そこには死も涙もなく、悲しみも、苦しみもありません。そこには太陽も月もありません。神であられる主と小羊とが都のあかりだからです。私たちのゴールは新しい天であり、新しい地です。私たちはそこで栄光のからだをいただき、永遠に暮らすのです。ハレルヤ!私たちは神のことば聖書から聞くと、生ける望みが湧き上がります。きょう、明日と、永遠の命を生きていることを知るのです。きょうは奇しくも3.11の日です。願わくば、土地や財産、家屋、そして家族を失った方々に、永遠の住まいと朽ちない資産と永遠のいのちが与えられますようにお祈りしたいと思います。私たちも生ける望みをもって、世の終わりに備えましょう。

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2012年3月 4日 (日)

予知と選び        Ⅰペテロ1:1-2 

日本では、エグザイルというグループが歌と踊りで大変人気があります。1節に「寄留している人々」とありますが、ある英語の聖書はエグザイルとなっています。エグザイルは、国外追放、国外流浪、逃亡者という意味です。また、この語はギリシャ語でディアスポラと言いまして、異邦人間に散らされたユダヤ人のことです。ペテロはキリスト者として迫害を受け、散らされて、寄留している人たちに手紙を書きました。あて先が、ポント、ガラテヤ、カパドキ、アジア、ビテニヤとなっていますので、現在のトルコ全域であります。おそらく、ペテロはローマから、紀元63年くらい、回覧する手紙として書き送ったものと思われます。ところで、きょう取り扱う、「神の選び」は物議をかもしだすような主題であります。宗教改革者ジョン・カルヴァンは神の主権を強調したのは良いのですが、「神の選び」ということも言いました。あとで、そのことが「予定説」となり、救いに選ばれている人と、遺棄される人が定まっているんだという学説にまでなりました。今でも、改革的な信仰を持っている人たちは、予定説を強調し、神に選ばれている人が救いを得るように伝道します。そして、一度、信じた者は滅びることがないまで言います。カルヴァンの後、アルミニウスという神学者が出て、神の主権よりも、人間の意志を強調しました。キリストによってすべての人は救いに招かれているが、自分の意思で信じなければならないということです。そのため、一人でも多くの人が信じるように熱心に伝道します。ホーリネスの神学校で、尾花晃先生の証を聞いたことがあります。尾花先生が学生の頃、柔道部の先輩に後ろから羽交い絞めされ、「キリストを信じるか」と強制されたそうです。苦しさのあまり「信じます」と言いました。それでも、ちゃんと信仰が与えられたのですから、アルミニウスの流れをくむ教団もアリだと思います。でも、自分の意思でキリストを選んだとしたならどうでしょう?この先、自分の信仰がおかしくなる場合もあるでしょう?ヨハネ15:16「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」とあります。神の選びと人間の意志の関係は微妙ですが、聖書には「神の選び」もちゃんと記されています。それでは、神の選びとはどういうものなのか、ペテロ1:1-2からともに学びたいと思います。

1.神の予知による選び

 原文や英語の聖書は予知の前に、「選び」ということばが出てきます。しかし、日本語の聖書は「選ばれた人々へ」と一番最後に来ています。読み方によっては、「父なる神の予知による選び」となります。しかし、日本語の聖書のように、一番最後に「選び」を来るように訳したならばどうなるでしょう。父なる神の予知の選び、聖霊の聖めの選び、イエス・キリストへ血の注ぎかけを受ける選びとなります。いろいろ考えましたが、三位一体の神が、「選び」に参与していると見る方が、意味が豊かになるように思いました。ですから、第一のポイントは「神の予知による選び」であります。予定と予知は少し違います。予定となると、始めから救われる者が決められている、運命論的なニュアンスがあります。一方、予知となるとどうでしょうか?神さまはすべてのことを知っておられる永遠の神であります。ですから、だれが信じるか、だれが信じないかをも知っておられます。そして、この地上にイエス・キリストがやって来られ、すべての人の罪を贖いました。ということは、キリストを信じて救われるチャンスはだれにでも与えられているということです。キリストにあって、だれでも、救いの候補者なのです。たとえば、ユダというキリストの弟子のことを考えてみましょう。どの時点からか分かりませんが、イエス様はユダがご自分を裏切るということを知っておられたと思います。しかし、ヨハネ13章の始めに何と書いてあるでしょう。「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」文語訳の聖書は「極みまで愛したもう」となっています。限界まで愛したということです。その中には、ユダも含まれていましたイエス様は、最後の晩餐のとき、「あなたがたのうちの一人が私を裏切ります」と言いました。そして、密かに、ぶどう酒で浸したパンをユダに与えました。イエス様は「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい」とユダに言いました。その言葉はヨハネ以外だれも知りませんでした。つまり、イエス様は「私はお前がこれから何をしようとしているか知っているよ」と最後のチャンスを与えたのです。それでも、ユダは悔い改めず、心を頑なにして、外に出て行きました。オリーブの園で捕らえられるときも、「友よ。何のために来たのですか?」と言われました。イエス様はユダのこころをご存知でしたが、悔い改めるチャンスを最後まで与えたのです。

 私たちは神さまの予知による選びを知るとき、とても励まされます。神さまは私たちがお母さんのお腹の中にいるときもご存知でした。詩篇139篇には、生命が一日も始まらないのに書物に書き記したと書いたとあります。私たちが子供のとき、父や母から拒絶されたこともあるでしょう。家庭や学校で、自分の存在がおびやかされたときもあるでしょう。人生の意味や目的も分からず、この世から消えてしまいたいと悩んだときもあったでしょう。しかし、父なる神さまの御眼は私たちに注がれていたのです。イエス様がある人たちを選びのために予知していたことが、新約聖書で分かります。ヨハネ1章の後半で、イエス様が何人かの弟子を召しています。ピリポがナタナエルに「モーセが預言していた方に会った」と言いました。しかし、ナタナエルは「ナザレから何のよいものが出るだろう」と否定しました。ところが、イエス様は彼に対して「これこそ、本当のイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない」と言いました。ナタナエルは「どうして私をご存知なのですか?」と聞きました。イエス様は「私はピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです」と答えました。ナタナエルは驚いて「先生。あなたは神の子です。イスラエルの王です」と告白しました。ナタナエルは知りませんでしたが、イエス様は、彼がイスラエルの救いのために祈っている姿を見ていたのです。私は町田に住んでいたとき、モルモン教の若者から伝道されました。そのとき、「キリストはいらない」と言いました。モルモン教はともかく、クリスチャンから誘われたとき、「キリストは結構です」と断るのではないでしょうか?最初から、素直に信じた人はほとんどいないと思います。それでも、神さまから選ばれていたというのは、何というあわれみでしょう。ルカ19章にザアカイという取税人のことが書いてあります。彼は興味本位で、木の上からイエス様を待ち伏せしていました。しかも、イエス様を高いところから見下ろしていたのです。それでも、イエス様は彼に何とおっしゃったでしょうか?「ザアカイ。急いで降りてきなさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」。なんと、イエス様はザアカイの名前を知っておられたし、彼の家に泊まる予定までしていました。エリコの町には、ザアカイよりも良い人がたくさんいたでしょう。イエス様は、あえて人から嫌われている取税人のかしらを選びました。やっぱり選びはあります。でも、私たちの思いとは異なります。私たちの基準で、「この人は選ばれているだろうし。この人は選ばれていないだろう」と考えてはいけません。イザヤ55:8-9「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。──【主】の御告げ──天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。アーメン。私たちの思いを越えて、神さまの選びがあることを感謝します。

2.聖霊の聖めによる選び

 2節「御霊の聖め」とあります。つまり、聖霊の聖めを通して選ばれたということです。「聖め」という意味は、道徳的に聖いということではありません。もともとの意味は、聖別するという意味です。出エジプト記やレビ記にありますが、神さまの目的や用途にささげるとき、「聖別する」と言います。神様を礼拝するために、動物、パン、祭壇、器、衣服、祭司などを聖別しました。たとえば、ここに1ともしびがあるとします。昔はオリーブ油を入れて、光をともしました。もし、それが家庭ではなく、会見の天幕で使うとなるとどうでしょう。形はまったく同じでも、それは神さまのために聖別されたともしび皿です。私洗礼のとき、ガラスの器に水を入れます。そのガラスの器は洗礼式だけに使います。家に持ち帰って、そこに野菜サラダを入れたりはしません。なぜなら、そのガラスの器は洗礼式のために聖別されたものだからです。クリスチャンも神さまから聖別された存在です。それまでは世の中、自分の欲望を満たすためだけに生きてきました。ところがある日、「あなたは神さまのものです」と証印を押されました。エペソ人への手紙1章にそのことが書いてあります。エペソ1:13「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。」おそらく、聖霊ご自身が証印なのかもしれません。神さまは「あなたは私のものですよ」というしるしに、聖霊を与えたのだと思います。とにかく、クリスチャンは神さまのものであり、聖別された存在です。もし、あなたが自分の聖さや道徳性ではなく、神さまの所有とされたことによって聖いんだと知るならどうなるでしょうか?自分のことから離れ、自分を召してくださった神さまの方に目が行くのではないでしょうか?とか、神さまの目的にかなう者になりたいと思うようになるでしょう

 そうするとどうなるでしょう?あなたは神さまが召してくださった召しにふさわしい者になろうと自然と努力するのではないでしょうか?私は25歳まで、酒、タバコ、パチンコ、マージャン、オンナなんでもやってきました。しかし、洗礼を受けて、クリスチャンなってから、「これは私にふさわしくない」と1ずつ捨てることができました。聖書に「そういうことをやめろ」と具体的には書いてありません。私が「良くないなー」と思ったからやめたのです。でも、完全に聖くなったかというとそうではありません。悪い冗談や皮肉、乱暴な言葉は残りました。私の中で、「こういうものは、私の特徴だから仕方がない」と妥協しているからかもしれません。自覚が足りないと言えばそれまでですが、やはり、生まれや育ちが影響しているのだと思います。でも、すばらしいことに、聖霊様が私たちが実質的に聖くなるように働いてくださいます。聖霊が内側から、私たちに働きかけてくださるのです。道徳や規律は外側から私たちを締め付けます。しかし、聖霊は私たちの内側から、ジェントルに優しく働いてくださいます。私たちは聖霊を消したり、悲しませることも可能です。でも、私たちが聖霊様を認め、歓迎し、従うならば、どんどん働いてくださいます。そして、ガラテヤ書5章に書いてあるような聖霊の実を結ばせてくださるのです。ガラテヤ5:22-23「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」とあります。ということは、聖霊様は選ばれた者にふさわしくなるように、私たちを聖めてくださるということです。ハレルヤ!でも、私たちが聖くなることの順番を忘れてはいけません。第一の聖別は、神さまのもとのなったということです。イエス様を信じて、証印としての聖霊が与えられました。「あなたは神さまのものですよ」と「ツバ」がつけられたのです。そして、第二の聖別は、私たちに与えられた聖霊様が、内側から働いてくださるということです。聖霊様が私たちが選ばれた者にふさわしくなるように、御霊の実を結ばせてくださるということです。まさしく、聖霊様は「いたれりつくせり」の神さまです。

3.キリストの恵みによる選び

 2節後半「イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ」とあります。ヨハネによる福音書は、キリストを信じるならば永遠の命が与えられると言います。しかし、ペテロの手紙は「信じる」よりも、もっと強い表現を用いています。「イエス・キリストに従う」また、「その血の注ぎかけを受ける」という風に書いています。なぜでしょう?なぜ、そんな強い表現を用いたのでしょうか?それは、ペテロが手紙を書き送った、人たちの状況と関係があります。ペテロ1章を読むと分かりますが、「さまざまな試練」「信仰の試練」「キリストの苦難」という表現がよく出てきます。つまり、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジア、ビテニヤの人たちは、寄留しているでさまざまな試練に会っていたということです。だから、「信じる」よりも、「イエス・キリストに従う」あるいは、「その血の注ぎかけを受ける」という強い表現を用いたのだと思います。どうでしょう?私たちが、世の終わり、迫害下にあるとしたなら、クリスチャンとはどういう存在ということになるでしょうか?やっぱり、「イエス・キリストに従う者、キリストの血の注ぎかけを受ける者です」と信仰の告白をすべきでしょう。一般に、「神さまを信じる」と言うと、「神様の存在を信じる」というふうに受け取られがちです。人々が「私は唯一の神を信じています」と言っても、喜んではいけません。ヤコブ書には「悪霊どももそう信じて、身震いしています」と書いてあります。悪霊どもは唯一なる神さまを信じてはいますが、神さまには絶対に従いません。ですから、その次に「あなたは「イエス・キリストに従いますか?」と質問したらどうでしょうか?おそらく、「キリストとは何者か?私は自分が生きたいように生きる」と答えるでしょう。そういう人は、神さまから選ばれているとは言えません。神さまから本当に選ばれている人は、「信じる」ということと、「従う」ことの両方ができている人です。

 もう1つの表現は、「その血の注ぎかけを受ける」という表現です。「その」とは、イエス・キリストであります。ですから、「イエス・キリストの血の注ぎかけを受ける」ということです。みなさんは、イエス・キリストの血の注ぎかけを受けていらっしゃるでしょうか?「血の注ぎかけ」とはどういう意味でしょうか?このことは出エジプト記に書いてあります。出エジプト記29:20-21「あなたはその雄羊をほふり、その血を取って、アロンの右の耳たぶと、その子らの右の耳たぶ、また、彼らの右手の親指と、右足の親指につけ、その血を祭壇の回りに注ぎかける。あなたが、祭壇の上にある血とそそぎの油を取って、アロンとその装束、および、彼とともにいる彼の子らとその装束とに振りかけると、彼とその装束、および、彼とともにいる彼の子らとその装束とは聖なるものとなる。」一般的に神さまのものとして聖別するとき、油を塗りました。しかし、このところでは、きよい動物の血を塗ると書いてあります。ウィットネ・スリーという人が、「油塗りと血を塗ることの関係」をある本の中で書いています。油塗りの意義は、神の成分を私たちの内に塗りこみ、私たちを神と交わらせ、神と調和、連合させることです。しかし、私たちの多くの部分は神と合わないものです。私たちの多くの状態は神の聖、義、栄光にふさわしくないのです。ですからここで、血を塗ることが必要です。血を塗ることは、私たちの神と合わない箇所を清め、神にふさわしくない状態を除き去ります。」そういえば、ヨハネ一章では、血が塗られることが書いてありました。そして、ヨハネ二章には、油塗りのことが書いてありました。つまり、キリストの血は、私たちの内側を清めてくださるのです。そうしたなら、私たちは主の生ける臨在を感じ、神さまが内側で働いて下さり、神さまと交わりがあるようになるのです。やはり、「信じる」よりも、「その血の注ぎかけを受ける」方が一段深いように思えます。 神さまは私たちを本当にご自分のものにするため、キリストの血を注ぎ、内側を清めてくださいます。それゆえに、私たちは神さまと親しく交わることができるのです。

 きょうの説教題は「神の予知と選び」でしたので、最後に、ヤコブエサウのことを話したいと思います。母リベカのおなかの中双子がいました。そして、どちらが先に出るか争っていました。最初にエサウが生まれましたが、弟は彼のかかとをつかんでいました。ヤコブという名前は「かかと」から来ています。当時、兄は長子として、家督を継ぐことになっていました。しかし、兄のエサウは長子の権利を軽んじました。ヤコブが作った赤いレンズ豆の煮物と交換したのです。さらに、ヤコブは目が見えないイサクまで騙して、長子の祝福を得ました。そのことに対して、神さまはヤコブを怒ったでしょうか?なんと、神さまはヤコブを愛しています。エサウはどうでしょうか?ヘブル12:16-17「不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。エサウは、本当は、長男として家督を継ぐように選ばれていたのです。でも、エサウはそれを軽んじました。そして、弟であったヤコブが汚い手を使って、長子の権利を得ました。実は神さまはそのことを予知していました。創世記29章で主は母リベカにこう言われました。創世記29:23「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」神さまは二人のことを予知していたのです。エサウが長子の権利を捨て、ヤコブがそれを奪い取ることを、です。ヤコブは神さまから選ばれ、イスラエルという名前が与えられました。そして、イスラエルの先祖になりました。人格的にはかなり問題があったのに、神さまは、信仰を持っていたヤコブを愛し、ヤコブを選んだのです。

二人のことは、ローマ9章にも書いてあります。ローマ9:13-15「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。神はモーセに、わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむと言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」ハレルヤ!私たちはキリストにあって、神さまのあわれみを受けている存在です。生まれや育ちがどうであろうとも、キリストにあって、神さまから選ばれた存在です。自分の意思や信仰が、これから先、変わることがあるかもしれません。しかし、私たちの意思や信仰以上に、神さまの選びがあることを感謝します。

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