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2012年3月 4日 (日)

予知と選び        Ⅰペテロ1:1-2 

日本では、エグザイルというグループが歌と踊りで大変人気があります。1節に「寄留している人々」とありますが、ある英語の聖書はエグザイルとなっています。エグザイルは、国外追放、国外流浪、逃亡者という意味です。また、この語はギリシャ語でディアスポラと言いまして、異邦人間に散らされたユダヤ人のことです。ペテロはキリスト者として迫害を受け、散らされて、寄留している人たちに手紙を書きました。あて先が、ポント、ガラテヤ、カパドキ、アジア、ビテニヤとなっていますので、現在のトルコ全域であります。おそらく、ペテロはローマから、紀元63年くらい、回覧する手紙として書き送ったものと思われます。ところで、きょう取り扱う、「神の選び」は物議をかもしだすような主題であります。宗教改革者ジョン・カルヴァンは神の主権を強調したのは良いのですが、「神の選び」ということも言いました。あとで、そのことが「予定説」となり、救いに選ばれている人と、遺棄される人が定まっているんだという学説にまでなりました。今でも、改革的な信仰を持っている人たちは、予定説を強調し、神に選ばれている人が救いを得るように伝道します。そして、一度、信じた者は滅びることがないまで言います。カルヴァンの後、アルミニウスという神学者が出て、神の主権よりも、人間の意志を強調しました。キリストによってすべての人は救いに招かれているが、自分の意思で信じなければならないということです。そのため、一人でも多くの人が信じるように熱心に伝道します。ホーリネスの神学校で、尾花晃先生の証を聞いたことがあります。尾花先生が学生の頃、柔道部の先輩に後ろから羽交い絞めされ、「キリストを信じるか」と強制されたそうです。苦しさのあまり「信じます」と言いました。それでも、ちゃんと信仰が与えられたのですから、アルミニウスの流れをくむ教団もアリだと思います。でも、自分の意思でキリストを選んだとしたならどうでしょう?この先、自分の信仰がおかしくなる場合もあるでしょう?ヨハネ15:16「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」とあります。神の選びと人間の意志の関係は微妙ですが、聖書には「神の選び」もちゃんと記されています。それでは、神の選びとはどういうものなのか、ペテロ1:1-2からともに学びたいと思います。

1.神の予知による選び

 原文や英語の聖書は予知の前に、「選び」ということばが出てきます。しかし、日本語の聖書は「選ばれた人々へ」と一番最後に来ています。読み方によっては、「父なる神の予知による選び」となります。しかし、日本語の聖書のように、一番最後に「選び」を来るように訳したならばどうなるでしょう。父なる神の予知の選び、聖霊の聖めの選び、イエス・キリストへ血の注ぎかけを受ける選びとなります。いろいろ考えましたが、三位一体の神が、「選び」に参与していると見る方が、意味が豊かになるように思いました。ですから、第一のポイントは「神の予知による選び」であります。予定と予知は少し違います。予定となると、始めから救われる者が決められている、運命論的なニュアンスがあります。一方、予知となるとどうでしょうか?神さまはすべてのことを知っておられる永遠の神であります。ですから、だれが信じるか、だれが信じないかをも知っておられます。そして、この地上にイエス・キリストがやって来られ、すべての人の罪を贖いました。ということは、キリストを信じて救われるチャンスはだれにでも与えられているということです。キリストにあって、だれでも、救いの候補者なのです。たとえば、ユダというキリストの弟子のことを考えてみましょう。どの時点からか分かりませんが、イエス様はユダがご自分を裏切るということを知っておられたと思います。しかし、ヨハネ13章の始めに何と書いてあるでしょう。「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」文語訳の聖書は「極みまで愛したもう」となっています。限界まで愛したということです。その中には、ユダも含まれていましたイエス様は、最後の晩餐のとき、「あなたがたのうちの一人が私を裏切ります」と言いました。そして、密かに、ぶどう酒で浸したパンをユダに与えました。イエス様は「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい」とユダに言いました。その言葉はヨハネ以外だれも知りませんでした。つまり、イエス様は「私はお前がこれから何をしようとしているか知っているよ」と最後のチャンスを与えたのです。それでも、ユダは悔い改めず、心を頑なにして、外に出て行きました。オリーブの園で捕らえられるときも、「友よ。何のために来たのですか?」と言われました。イエス様はユダのこころをご存知でしたが、悔い改めるチャンスを最後まで与えたのです。

 私たちは神さまの予知による選びを知るとき、とても励まされます。神さまは私たちがお母さんのお腹の中にいるときもご存知でした。詩篇139篇には、生命が一日も始まらないのに書物に書き記したと書いたとあります。私たちが子供のとき、父や母から拒絶されたこともあるでしょう。家庭や学校で、自分の存在がおびやかされたときもあるでしょう。人生の意味や目的も分からず、この世から消えてしまいたいと悩んだときもあったでしょう。しかし、父なる神さまの御眼は私たちに注がれていたのです。イエス様がある人たちを選びのために予知していたことが、新約聖書で分かります。ヨハネ1章の後半で、イエス様が何人かの弟子を召しています。ピリポがナタナエルに「モーセが預言していた方に会った」と言いました。しかし、ナタナエルは「ナザレから何のよいものが出るだろう」と否定しました。ところが、イエス様は彼に対して「これこそ、本当のイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない」と言いました。ナタナエルは「どうして私をご存知なのですか?」と聞きました。イエス様は「私はピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです」と答えました。ナタナエルは驚いて「先生。あなたは神の子です。イスラエルの王です」と告白しました。ナタナエルは知りませんでしたが、イエス様は、彼がイスラエルの救いのために祈っている姿を見ていたのです。私は町田に住んでいたとき、モルモン教の若者から伝道されました。そのとき、「キリストはいらない」と言いました。モルモン教はともかく、クリスチャンから誘われたとき、「キリストは結構です」と断るのではないでしょうか?最初から、素直に信じた人はほとんどいないと思います。それでも、神さまから選ばれていたというのは、何というあわれみでしょう。ルカ19章にザアカイという取税人のことが書いてあります。彼は興味本位で、木の上からイエス様を待ち伏せしていました。しかも、イエス様を高いところから見下ろしていたのです。それでも、イエス様は彼に何とおっしゃったでしょうか?「ザアカイ。急いで降りてきなさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」。なんと、イエス様はザアカイの名前を知っておられたし、彼の家に泊まる予定までしていました。エリコの町には、ザアカイよりも良い人がたくさんいたでしょう。イエス様は、あえて人から嫌われている取税人のかしらを選びました。やっぱり選びはあります。でも、私たちの思いとは異なります。私たちの基準で、「この人は選ばれているだろうし。この人は選ばれていないだろう」と考えてはいけません。イザヤ55:8-9「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。──【主】の御告げ──天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。アーメン。私たちの思いを越えて、神さまの選びがあることを感謝します。

2.聖霊の聖めによる選び

 2節「御霊の聖め」とあります。つまり、聖霊の聖めを通して選ばれたということです。「聖め」という意味は、道徳的に聖いということではありません。もともとの意味は、聖別するという意味です。出エジプト記やレビ記にありますが、神さまの目的や用途にささげるとき、「聖別する」と言います。神様を礼拝するために、動物、パン、祭壇、器、衣服、祭司などを聖別しました。たとえば、ここに1ともしびがあるとします。昔はオリーブ油を入れて、光をともしました。もし、それが家庭ではなく、会見の天幕で使うとなるとどうでしょう。形はまったく同じでも、それは神さまのために聖別されたともしび皿です。私洗礼のとき、ガラスの器に水を入れます。そのガラスの器は洗礼式だけに使います。家に持ち帰って、そこに野菜サラダを入れたりはしません。なぜなら、そのガラスの器は洗礼式のために聖別されたものだからです。クリスチャンも神さまから聖別された存在です。それまでは世の中、自分の欲望を満たすためだけに生きてきました。ところがある日、「あなたは神さまのものです」と証印を押されました。エペソ人への手紙1章にそのことが書いてあります。エペソ1:13「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。」おそらく、聖霊ご自身が証印なのかもしれません。神さまは「あなたは私のものですよ」というしるしに、聖霊を与えたのだと思います。とにかく、クリスチャンは神さまのものであり、聖別された存在です。もし、あなたが自分の聖さや道徳性ではなく、神さまの所有とされたことによって聖いんだと知るならどうなるでしょうか?自分のことから離れ、自分を召してくださった神さまの方に目が行くのではないでしょうか?とか、神さまの目的にかなう者になりたいと思うようになるでしょう

 そうするとどうなるでしょう?あなたは神さまが召してくださった召しにふさわしい者になろうと自然と努力するのではないでしょうか?私は25歳まで、酒、タバコ、パチンコ、マージャン、オンナなんでもやってきました。しかし、洗礼を受けて、クリスチャンなってから、「これは私にふさわしくない」と1ずつ捨てることができました。聖書に「そういうことをやめろ」と具体的には書いてありません。私が「良くないなー」と思ったからやめたのです。でも、完全に聖くなったかというとそうではありません。悪い冗談や皮肉、乱暴な言葉は残りました。私の中で、「こういうものは、私の特徴だから仕方がない」と妥協しているからかもしれません。自覚が足りないと言えばそれまでですが、やはり、生まれや育ちが影響しているのだと思います。でも、すばらしいことに、聖霊様が私たちが実質的に聖くなるように働いてくださいます。聖霊が内側から、私たちに働きかけてくださるのです。道徳や規律は外側から私たちを締め付けます。しかし、聖霊は私たちの内側から、ジェントルに優しく働いてくださいます。私たちは聖霊を消したり、悲しませることも可能です。でも、私たちが聖霊様を認め、歓迎し、従うならば、どんどん働いてくださいます。そして、ガラテヤ書5章に書いてあるような聖霊の実を結ばせてくださるのです。ガラテヤ5:22-23「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」とあります。ということは、聖霊様は選ばれた者にふさわしくなるように、私たちを聖めてくださるということです。ハレルヤ!でも、私たちが聖くなることの順番を忘れてはいけません。第一の聖別は、神さまのもとのなったということです。イエス様を信じて、証印としての聖霊が与えられました。「あなたは神さまのものですよ」と「ツバ」がつけられたのです。そして、第二の聖別は、私たちに与えられた聖霊様が、内側から働いてくださるということです。聖霊様が私たちが選ばれた者にふさわしくなるように、御霊の実を結ばせてくださるということです。まさしく、聖霊様は「いたれりつくせり」の神さまです。

3.キリストの恵みによる選び

 2節後半「イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ」とあります。ヨハネによる福音書は、キリストを信じるならば永遠の命が与えられると言います。しかし、ペテロの手紙は「信じる」よりも、もっと強い表現を用いています。「イエス・キリストに従う」また、「その血の注ぎかけを受ける」という風に書いています。なぜでしょう?なぜ、そんな強い表現を用いたのでしょうか?それは、ペテロが手紙を書き送った、人たちの状況と関係があります。ペテロ1章を読むと分かりますが、「さまざまな試練」「信仰の試練」「キリストの苦難」という表現がよく出てきます。つまり、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジア、ビテニヤの人たちは、寄留しているでさまざまな試練に会っていたということです。だから、「信じる」よりも、「イエス・キリストに従う」あるいは、「その血の注ぎかけを受ける」という強い表現を用いたのだと思います。どうでしょう?私たちが、世の終わり、迫害下にあるとしたなら、クリスチャンとはどういう存在ということになるでしょうか?やっぱり、「イエス・キリストに従う者、キリストの血の注ぎかけを受ける者です」と信仰の告白をすべきでしょう。一般に、「神さまを信じる」と言うと、「神様の存在を信じる」というふうに受け取られがちです。人々が「私は唯一の神を信じています」と言っても、喜んではいけません。ヤコブ書には「悪霊どももそう信じて、身震いしています」と書いてあります。悪霊どもは唯一なる神さまを信じてはいますが、神さまには絶対に従いません。ですから、その次に「あなたは「イエス・キリストに従いますか?」と質問したらどうでしょうか?おそらく、「キリストとは何者か?私は自分が生きたいように生きる」と答えるでしょう。そういう人は、神さまから選ばれているとは言えません。神さまから本当に選ばれている人は、「信じる」ということと、「従う」ことの両方ができている人です。

 もう1つの表現は、「その血の注ぎかけを受ける」という表現です。「その」とは、イエス・キリストであります。ですから、「イエス・キリストの血の注ぎかけを受ける」ということです。みなさんは、イエス・キリストの血の注ぎかけを受けていらっしゃるでしょうか?「血の注ぎかけ」とはどういう意味でしょうか?このことは出エジプト記に書いてあります。出エジプト記29:20-21「あなたはその雄羊をほふり、その血を取って、アロンの右の耳たぶと、その子らの右の耳たぶ、また、彼らの右手の親指と、右足の親指につけ、その血を祭壇の回りに注ぎかける。あなたが、祭壇の上にある血とそそぎの油を取って、アロンとその装束、および、彼とともにいる彼の子らとその装束とに振りかけると、彼とその装束、および、彼とともにいる彼の子らとその装束とは聖なるものとなる。」一般的に神さまのものとして聖別するとき、油を塗りました。しかし、このところでは、きよい動物の血を塗ると書いてあります。ウィットネ・スリーという人が、「油塗りと血を塗ることの関係」をある本の中で書いています。油塗りの意義は、神の成分を私たちの内に塗りこみ、私たちを神と交わらせ、神と調和、連合させることです。しかし、私たちの多くの部分は神と合わないものです。私たちの多くの状態は神の聖、義、栄光にふさわしくないのです。ですからここで、血を塗ることが必要です。血を塗ることは、私たちの神と合わない箇所を清め、神にふさわしくない状態を除き去ります。」そういえば、ヨハネ一章では、血が塗られることが書いてありました。そして、ヨハネ二章には、油塗りのことが書いてありました。つまり、キリストの血は、私たちの内側を清めてくださるのです。そうしたなら、私たちは主の生ける臨在を感じ、神さまが内側で働いて下さり、神さまと交わりがあるようになるのです。やはり、「信じる」よりも、「その血の注ぎかけを受ける」方が一段深いように思えます。 神さまは私たちを本当にご自分のものにするため、キリストの血を注ぎ、内側を清めてくださいます。それゆえに、私たちは神さまと親しく交わることができるのです。

 きょうの説教題は「神の予知と選び」でしたので、最後に、ヤコブエサウのことを話したいと思います。母リベカのおなかの中双子がいました。そして、どちらが先に出るか争っていました。最初にエサウが生まれましたが、弟は彼のかかとをつかんでいました。ヤコブという名前は「かかと」から来ています。当時、兄は長子として、家督を継ぐことになっていました。しかし、兄のエサウは長子の権利を軽んじました。ヤコブが作った赤いレンズ豆の煮物と交換したのです。さらに、ヤコブは目が見えないイサクまで騙して、長子の祝福を得ました。そのことに対して、神さまはヤコブを怒ったでしょうか?なんと、神さまはヤコブを愛しています。エサウはどうでしょうか?ヘブル12:16-17「不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。エサウは、本当は、長男として家督を継ぐように選ばれていたのです。でも、エサウはそれを軽んじました。そして、弟であったヤコブが汚い手を使って、長子の権利を得ました。実は神さまはそのことを予知していました。創世記29章で主は母リベカにこう言われました。創世記29:23「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」神さまは二人のことを予知していたのです。エサウが長子の権利を捨て、ヤコブがそれを奪い取ることを、です。ヤコブは神さまから選ばれ、イスラエルという名前が与えられました。そして、イスラエルの先祖になりました。人格的にはかなり問題があったのに、神さまは、信仰を持っていたヤコブを愛し、ヤコブを選んだのです。

二人のことは、ローマ9章にも書いてあります。ローマ9:13-15「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。神はモーセに、わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむと言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」ハレルヤ!私たちはキリストにあって、神さまのあわれみを受けている存在です。生まれや育ちがどうであろうとも、キリストにあって、神さまから選ばれた存在です。自分の意思や信仰が、これから先、変わることがあるかもしれません。しかし、私たちの意思や信仰以上に、神さまの選びがあることを感謝します。

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