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2012年2月26日 (日)

御国をもたらす     ルカ4:16-21 

ヨハネ第一の手紙が終りましたので、3月からはペテロ第一と第二の手紙からメッセージしたいと思います。2月の最後の週、1週空いていますので、特別なメッセージを用意させていただきました。ルカ4章のみことばは、イエス様がこれから公生涯を始めるに当って、語られた宣言文であります。「キリストのマニフェスト」と言っても過言ではありません。「ご自分がメシヤとして、どのようなことを行うのか」ということをイザヤ書の巻物から語られました。ルカ4章の内容は、イザヤ書61章から引用したものです。当時はヘブル語をギリシャ語に訳した70人訳を使っていたので、微妙に違うところがありますこれが、日本語に訳されるとさらに混乱してしまいます。しかし、きょうは釈義の方は後回しにして、イエス様がなさろうとしておられた5つの働きに注目したいと思います。

1.福音宣教

イエス様がなさろうしておられた最初の働き(ミニストリー)は何でしょうか?18節の初めに、「私の上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を宣べ伝えるようにと、私に油を注がれたのだから。」とあります。イエス様の地上での第一の働きは、福音を宣べ伝えることでした。福音とはgood newsですが、一口では言えない内容ではないでしょうか。クリスチャンに「福音って何ですか?」と聞くとどう答えるでしょうか?「福音って何ですか?」「いやー、すかっと、爽やかですよ」。コカ・コーラ飲んでも、すかっと、爽やかしますよ。「福音って何ですか?」「いやー、気持ち良いですよ」。お風呂に入っても気持ち良いですよ。福音って何でしょう?「良い知らせ」には違いありませんが、単なる良い知らせではありません。マタイ11:28「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」私たちは、この地上でいろんな重荷を背負って生きています。現代は就職難の時代で、仕事にありつくことが大変です。また、年金とか介護保険で大丈夫だろうか?」と、老後の心配があります。ある人は、過去に犯した失敗や罪責という重荷を負っています。人の顔が怖くて学校にも会社にも行けない人がいます。イエス様は十字架ですべての重荷を負って死んでそれらを葬ってくださいました。そして、三日目に復活して、神さまとの和解の道を設けてくださいました。負いきれない重荷があるのは、造り主である、神さまから離れているためですイエス様を信じて、神様と和解するとき、重荷が取り去られ、本当の平安がやってきます。ある人は「宗教はきらいです」と言うかもしれません。「いえ、キリスト教は宗教ではありません」と答えても良いですが、こう答えたらどうでしょうか?「宗教」「結び直す」というラテン語から来ています。人との絆も大切ですが、先ず、神さまとの絆を回復することが大切です。テレビや冷蔵庫の電源が切れていると動きません。私たちも神さまから離れているので、いろんな問題や重荷で苦労しているのです。イエス様は「すべての重荷を負っている人は、私のところへ来なさい。休ませてあげよう」と招いておられます。こんな風に説明したらいかがでしょうか?

「それでも結構です」と言う方がおられるでしょう。でも、思い煩わないでください。みことばは何と言っているでしょうか?貧しい人々に福音を宣べ伝えるように言われています。そうです。人は心が貧しくならないと、福音には耳を傾けないのです。「大丈夫、間に合っています」と言います。しかし、「大丈夫」でないときが、必ずやってきます。そのときに、また福音を伝えてあげれば良いのです。それまでどうしたら良いでしょう。松戸の岡野先生が「生活伝道」ということを教えておられます。それは見返りを求めないで、福音の愛で愛するということです。その人に、ただ愛して仕えることです。すると、やがて、「どうして私にこんなことをするのですか?わけを教えてください」と言うでしょう。そのとき、自分を変えた、神様の愛を証しすれば良いのです。福音は神学的に勉強すればするほど、恐れがやってきます。論理的に、複雑に話したりしがちです。一番大切なのは、「自分がイエス様を信じてどうなったか?」です。自然食品やサプリメントと同じように、「こんな風に良かったよー」と証しすれば良いのです。昨年の暮れ、クリスマスコンサートで、ダンボール証がありました。「金がすべて」から、「愛がすべて」とか、いろいろありました。人によって、救いの窓口が違うんだなーと思いました。教会にいろんな人がいるのは、いろんな人が救われるためです。福音宣教と言うとくなりますが、自分が今、持っているものから始めてください。

2.解放

第二は「主は私を遣わされた。捕らわれ人には赦免を」ですこれはどういう意味でしょうか?原文を直訳しますと「捕虜から解放する」ということです。「もう、あなたは奴隷じゃありませんよ」ということを知らせてあげるということです。イスラエルは歴史において、2回、捕虜の時代がありました。1つはエジプトのパロ王のもとで奴隷の生活をしていました。主がモーセを遣わして、彼らを救い出しました。2つはバビロンの捕囚の期間がありました。そのときは、主がクロス王を立てて、エルサレムに帰還させました。この世の人たちは、何に縛られているでしょうか?罪と死の力によって縛られています。そして、その背後にはサタンがいるのです。イエス・キリストが来られたのは、罪と死の中にいる人々を解放するためです。そのために、イエス様は十字架で死なれ、三日目に、よみがえられたのです。だれでも、イエス・キリストを信じるなら、サタンの支配から、神の支配に移されるのです。しかし、この世の人たちは、偽物の神さまを拝んでいます。人間が考え出した神社仏閣や、死んだ人間を拝んでいます。さらには、占い師や拝み屋に通っている人さえいます。その背後には悪霊がいるので、最後には恐れとジンクスで縛られていまいます。あっちの方角が良いとか、この日は悪いとか、この色は良いとか、みんな嘘です。悪魔は嘘つきの父と呼ばれており、神のかたちに似せて造られた人間をまどわしているのです。病気が治ったり、ちょっと良いことがあったとしても、その人の魂をつかまえて離しません。偶像礼拝を悔い改め、悪魔との契約を断ち切るときに、本当の解放がやってきます。イエス・キリストの御名には力があるので、悪霊どもは逃げていきます。最も重要なのは、偶像礼拝の罪を悔い改め、まことの神さまに立ち返ることです。そうするなら、イエス・キリストの御名によって、暗やみの力から、完全に解放されることができます。

日本では、教会であっても悪魔とか悪霊のことをほとんど話しません。だから、悪霊は隠れて働いています。家族の中の一人が救われても、他の家族が救われないのは何故でしょう?それは、悪魔がその家系を握っているからです。仏教の場合は、先祖代々から続いているので、そう簡単に救われません。仏壇やお墓を守らなければならないので、ついつい妥協してしまいます。そうすると、子供たちは信仰を持つことが困難になります。座間キリスト教会に三畑長老さんという人がいました。救われる前は、お酒が本当に好きで、奥さんから「それだけ好きだったら」と、頭からお酒をかけられたそうです。初めて教会に来た日、三畑さんは一番後ろで、斜に構えて聞いていました。その日、大川牧師がヨハネ2章から水がぶどう酒に変わったお話をされました。そのとき、「イエスさんて話がわかるねー」といっぺんでイエス様が好きになったそうです。その後、イエス様を信じて、ご長男と一緒に相模川で洗礼を受けられました。家に帰ってくると、仏壇と神棚が目にとまりました。「こんなの本当の神さまじゃない」と仏壇と神棚を引き降ろして、庭に出しました。それを、まさかりで割って、風呂を沸かしたそうです。「気持ち良-」と言ったかどうか、わかりませんが、救われてから、どれが本物か目が開かれたのです。その後、何となったでしょうか?社員が数名、家族全員、孫、ひ孫さんまで救われました。イエス様はあなたに解放を与えてくださいます。

3.奇跡と癒し

18節半ば「盲人には目の開かれることを告げるために」とあります。イエス様の公生涯の3分の1は、奇跡と癒しに費やされました。あるとき、牢に捕らえられていたバプテスマのヨハネが、弟子を遣わして、尋ねさせました。「あなたが本当に来るべきお方でしょうか?」と。その時、イエスさまは報告せよと、おっしゃったでしょうか?目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」(マタイ11:5-6)そうです。るべきメシヤのしるしは、目の見えない人が見えて、足のなえた人が歩き、らい病さえもきよめられるということでした。さらに、イエス様は弟子たちにも、同じことをするようにお命じになられました。昔の聖歌にとても強烈な歌がありました。差別用語だということで、今はあまり歌われなくなりました。「耳しいよ、聞けよ。目しいよ見よ、足なえよ歩け、おーしよ歌え」。イエス福音教団の穐近牧師が踊りながら、この聖歌を講壇から歌っていました。穐近牧師は日系人でしたが、「私を日本に遣わして下さい」とマッカーサーに直訴した宣教師です。当時の日本の教会は、リベラルの影響を受け、聖書をそのまま信じていませんでした。「今は癒しや奇跡はない。霊的な盲人が見えて、霊的な足なえが歩き、霊的に耳が聞こえない人が聞くんだ」と解釈していました。穐近牧師は、聖書を頭にせながら、「聖書は頭に載せるものではない。聖書はそのまま信じて、実行することなんだ」と説教しました。

医学が発達した今日、奇跡や癒しは不要なのでしょうか?教会は病人のためにとりなして祈るかもしれません。しかし、多くの場合、「このお薬を用いてください。医療機器やお医者さんを祝福してお持ち意ください」と祈るのではないでしょうか?神さまは自然のものを作ったので、そういう祈りも悪くはありません。でも、いくら人間の医学が進んでも病気はなくなりません。むしろ、治療法のない難病が増えています。人は病気を直すために病院に行くかもしれません。でも、人が死ぬのも病院であります。過半数は病院で死ぬのです。イエス・キリストは十字架で、病を負われました。だから、病の癒しも、贖いの中に含まれているのです。イエス様はマルコ16章で「病人に手を置けば癒されます」とおっしゃいました。これは賜物があるとかないとかではなく、信じる者、すべての人に対する約束です。薬やお医者さんを否定しているのではありません。私たちは、あまりにもそういうものを過信して、病の癒しを過少評価しているということを言いたいのです。神の健康が与えられることを信じます。モーセは120歳まで生きましたが、病気で死んだのではありません。神さまがお召しになったから死んだのです。私もそういう死に方をしたいと思います。病の癒しは神さまのみこころです。ヨハネ2「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」

4.心の癒し

第四は心の癒し、インナーヒーリングです。「しいたげられている人々を自由にし」とあります。カウンセリングと言っても良いかもしれません。この世のカウンセリングは罪の問題は扱いません。絶対者なる神も罪の悔い改めもありません。しかし、キリスト教は霊的な救いだけを強調し、心の問題についてはあまり触れてきませんでした。「人は救われたら、すべてが新しくなったんだ。古いものは過ぎ去ったんだ」と言ってきました。ところが、心の傷があったり、歪んだ考えがあるために正しい信仰生活ができないということが近年、分かってきました。しいたげられている人々とはどういう意味でしょうか?社会的に圧迫されている人々が身分を回復するという意味もあります。しかし、現代的には、「虐待されている人々」というふうにも取ることができます。昔は虐待という言葉は、なかったんじゃないかと思います。躾とか教育という名で、ひどい虐待が繰り返されて来たのではないでしょうか。『隠された児童虐待』という本にこのようなことが書いてありました。両親からどのような虐待を受けたかというアンケート調査があります。第一は身体的虐待です。殴る、蹴る、つねる。体を縛って蹴る。押入れや物置に閉じ込める。家から追い出す。長時間正座をさせられる。第二は放置の虐待(ネグレクト)です。親にかまってもらえなかった。ちょっとでも悪いことをすると、罰として食事を与えてもらえなかった。よく留守番をさせられた。自分の言動を親兄弟から無視された。父親に暴力をふるわれていても母親は助けてくれず、横で何もしないで見ているだけだった。第三は性的虐待です。実際には家庭内セクハラです。加害者は父親や兄、おじさんや近所の人です。第四は心理的虐待です。一般的には虐待というよりも「支配」とか「コントロール」と呼んだ方が良いかもしれません。まず、言葉の面では、「言うことをきかないと怒るよ」と脅された。「泣く子は弱虫だ」とののしられた。「なんでこんなことができないの」とバカにれた。「~しなさい」といつ親の常識を押し付けてきた。態度の面では、「威圧的な態度で脅かした」「悲しい顔や困った顔をして、罪悪感を与えるようにしてきた。」「親を怒らせると1ヶ月以上も無視された。」両親以外には、兄弟姉妹からの虐待さらに祖父母、おじ、おばからの虐待があります。以下は辛い環境に適応しようとして、子供たちが必死に身につけた習慣です。自分の感情を無視し続けてきたので、自分の感情に鈍感になってしまった。限界まで我慢するが、一度キレると激怒する。「~しなければならない」という考えが多い。自分がどう思うかではなく、すべて人に合わせるようにする。楽しいことを期待するといつもがっかりするので、最悪の状況をいつも考えておく。自分の気持ちより、周りの気持ちを優先させる。嫌われるのが怖いので「良い子」「良い人」を演じてしまう。

以前、蒲郡の石原先生が、共依存の癒しのためにキャンプを開いたことがあります。心の蓋を開けると悪いものが「ばーっ」と出て収集がつかないことがよくありました。さらに、キャンプから帰ってくると怪物のようになって、自己主張をし始めます。何でも、コントロールされているように過剰反応します。ですから、「心の癒し」は行わない教会もあります。積極的思考やみことばを宣言することによって、上から押さえつけるというものです。また、ある教会は、そういう人たちを全国から集め、共同生活をしながら、癒していくということもやっています。それは、特別な賜物と召命のある教会でしょう。では、私たちはどうすれば良いのでしょうか?私はこのような礼拝説教を、カウンセリング的な説教にしています。韓国のチョーヨンギ先生も同じです。会衆に「こういう心の傷は、このように癒されますよ」と告知します。それを聞いて、心当たりのある方は、自分でイエス様から癒しをいただきます。エリヤハウスのように、小グループでミニストリーをし合うのも良い方法です。私が今、最善だと思っているのは、インターバル式、段階的に癒しを受けるという方法です。本人が癒しを求め、こちらも了解して、一定のきまりの中で、ミニストリーを行うのが良いと思います。とかく教会は、傷のある人を重んじ過ぎて、牧師も教会もふりまわされる傾向があります。教会に、そういう人は常に存在します。でも、医療のように、緊急の場合は手術をしますが、そうでない場合は漢方を用いたりします。彼らにとって、一番、有効なのは神の共同体です。教会が心のリハビリーセンターの役割を果たしたら何と幸いでしょうか?

5.神の国について語る

ルカ4:19「主の恵みの年を告げ知らせるために」とあります。ある教会は「働き」と言えば、福音宣教のことしか話しません。癒しや解放をまったくしない教会もあります。それでは、イエス様の働きを継続していることにはなりません。イエス様は現在、どのように存在しておられるのでしょうか?そうです。復活、召天したキリストは、かしらとして全宇宙を支配しておられます。では、キリストのからだはどこでしょうか?教会こそがキリストのからだであり、2000年前、イエス様がなされた働きを継続するために存在しているのです。私たち一人ひとりが、キリストのからだの器官であり、それぞれの賜物を差し出して、イエス様の働きを推し進めるのです。私たちは救われて天国に行くだけの存在ではありません。この地上で、イエス様の働きを担うために、御国をもたらすために召されているのです。でも、ここで私たちが持たなければならない概念は、神の国であります。天国は神の国の1つの段階ですが、すべてではありません。教会は人は死んだら、天国に行くんだということを強調してきました。そうするとどうなるでしょう?イエス様を信じて、洗礼を受けました。「ああ、死んだら天国に行けるんだ。それまで、自由、気ままに生活しよう。だって、天国行きが決まっているんだから」となるでしょう。救いというものが、天国行きの切符を得ることぐらいにしか、思われていません。今では、この世の人たちも、「死んだらみんな天国に行くんだ」と考えています。テレビで芸能人のお葬式が放映され、「○○さんは天国に行きました」と言います。悪いとは言いませんが、天国のバーゲンセールです。

私たちは神の国がどのようなものであるか知らなければなりません。神の国とは神さまの支配であり、それは段階的にやってきます。どのようにでしょうか?この地上はやがて終わりがやってきます。ヨハネ黙示録のような患難時代がやって、信じない者はさばかれます。イエス様を信じている者は復活し、千年王国で報いを受けます。その後、神さまは私たちのために新しい天と新しい地を造られ、そこで永遠に暮らすことができるのです。では、天国とはどこでしょうか?ユダヤ人は神ということばを避けるために、あえて天と置き換えました。本来は神の国と言う意味なのですが、いつからか死んだ魂が行くところになりました。間違いではありませんが、そこはゴールではありません。最終的なゴールは新しい天と新しい地です。イエス様は「主の恵みの年を告げ知らせるために」というところで、巻物を係りの人に渡しました。しかし、イザヤ書にはその先のことが記されています。「の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め」とあります。イエス様はあえて、今後来る、「神の復讐の日」をカットしたのです。しかし、世の終わり、イエス様が再び来られるとき、「神の復讐の日」が起こるのです。しかし、イエス・キリストを信じる者が復讐を免れ、「恵みの年」を喜ぶことができるのです。私たちは、やがて来られるイエス様と再会するまで、イエス様の働きを継続する必要があります。

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2012年2月19日 (日)

この方こそ、まことの神    Ⅰヨハネ5:18-21

きょうで、ヨハネ第一の手紙からの講解説教はおしまいです。ですから、本日の説教はこの手紙のまとめというか、結論的なものになると思います。大体、手紙の一番最後には、全体を要約したり、あるいは「これだけは書き送りたい」という大事なことを書くものです。では、ヨハネが最後に言いたかった事というのは何なのでしょうか?ヨハネは、第一に私たちはどういう者であるか、第二は私たちが信じている方はどういう方であるか書いています。

1.私たちはどういう者か

神の御子イエスを信じている人はどういう者なのでしょうか?Ⅰヨハネ5:18-19「神によって生まれた者はだれも罪を犯さないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。私たちは神からの者であり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています。」「神によって生まれた者」とは、一体、だれのことを指しているのでしょうか?私たちクリスチャンです。イエス様を信じると、私たちは霊的に新しく生まれ変わります。これを新生と言います。生まれつきの人は罪を犯すのが普通であり、罪を犯しても何とも思いません。しかし、神によって新たに生まれた人の性質は違います。「だれも罪を犯さない」と書いてあります。原文のギリシャ語は、継続を意味します。正しく訳すならば、「罪を犯し続けない」という風になります。どういうことかと言うと、罪を犯すことが普通でなくなるということです。罪を犯すと具合が悪くなり、同じ罪を犯さないように方向転換するということです。これを悔い改めと言います。なぜ、そんなことをするのでしょうか?私たちの中に神の性質、種が宿っているので、罪を犯し続けることができないのです。道徳というのは外側からいろんな圧力をかけて、規則を守るように強制します。規則には規則、きまりにはきまりというように、やがては膨大な数になるでしょう。しかし、神によって生まれると、聖霊によって性質が変わります。そして、聖霊が内側から働いてくださるのです。私たちの頑張りとか意思ではなく、聖霊の助けと導きによるものです。

では、「神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです」とはどういう意味でしょうか?「神から生まれた方」とは、神の御子、イエス様のことです。悪い者とは悪魔です。ヨハネ10章にも似たようなみことばがあります。ヨハネ10:28「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」アーメン。私たちの命はイエス様の御手の中にあります。私は洗礼準備会でこのようなたとえを用います。ここに百円玉があるとします。百円玉とはあなたの命です。これを右手でぎゅっと握りました。だれかがやって来て、手の中にある百円玉を取ろうとします。簡単に取れるでしょうか?私を打ち倒さない限り、不可能でしょう。ましてや、主イエス・キリストの御手の中に握られていたらどうでしょうか?悪魔でさえも、あなたの命を奪い取ることはできません。これが救いの確かさであります。しかし、一節に恐ろしいことが書かれています。「私たちは神からの者であり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています」。まことに残念ですが、福音派の教会でも、このみことばの意味を知らない人たちがたくさんいます。ある人たちは、「イエス・キリストの十字架と復活で、悪魔は破れ、この世は神さまのご支配のもとにある。だから、悪魔のことは気にしなくても良い」と言います。そうではありません。主の再臨が来るまで、この世は悪魔の支配下にあります。キリストの十字架で変わったのは、この世であっても、神のご支配の中で生きることができるということです。イエス様はヨハネ17章でこのように言われました。ヨハネ17:14-15「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。」このみことばからも分かるように、私たちはこの世に生きていますが、この世のものではありません。だから、この世は私たちを憎み、さらに、悪い者が私たちに攻撃を加えようとするのです。そのために、私たちは、神様から守っていただく必要があるのです。

ヨハネがこの手紙の中で一番、言いたかったテーマは何でしょうか?私たちに何があると、悪い者によって攻撃を受け、ある時は敗北してしまうのでしょうか?逆に言うと、私たちに何がないと、悪い者に常に勝利できるのでしょうか?それは「罪」です。罪の問題は、Ⅰヨハネ1章にも書いてありました。もし、私たちに罪があるならば、神さまとの交わりが絶たれてしまいます。その人はやみの中を歩んでいることになり、悪い者の標的になるでしょう。悪い者はあなたの救い、永遠のいのちは奪い取ることはできません。しかし、あなたを罪の中にとどまらせ、敗北的なクリスチャンにすることは可能です。私たちが罪から離れ、神さまとの交わりを回復する手立てとは何でしょうか?神さまの前で、罪を言い表すことです。するとどうなるのでしょうか?神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪からきよめてくださいます。でも、神さまが私たちを赦すのは、イエス・キリストが流された血潮のゆえであります。御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめるのです。そして、私たちは再び、神さまと親しい交わりを持ち、光の中を歩むことが可能になります。悪い者、悪魔がなぜ、キリストの血をいやがるのでしょうか?キリストの血がその人の罪を取り除くと、訴える口実がなくなるからです。罪こそが悪魔の餌であり、私たちを訴える材料なのです。私たちに罪がなければ、悪魔はおそれるに足らずであります。だから、私たちクリスチャンは常に、キリストの血に隠れつつ、神さまの光の中を歩む必要があります。もし、自分の義で立とうとするならば、悪魔にやられてしまいます。キリストの贖いによって与えられる、神さまの義を着るのです。そうすれば、悪魔が支配しているこの世であっても、勝利し続けることができるのです。

数週間前、ある集会で、こういうことが話題になりました。私たちクリスチャンに罪があるか、ないかということです。私は「私には罪がありません。なぜなら、神さまから義と認められているからです」と答えました。すると、周りにいる人たちが怪訝そうな顔をしていました。「では、原罪があるだろう」と聞かれ、私は「肉の性質は確かにありますが、原罪はありません」と答えました。「それは、ジョンウェスレーが言う、キリスト者の完全ですか」と言われました。そこでは、神学的な話をしてもしょうがないので、そのまま帰ってきました。家内に「あなたには罪がありますか?」と聞きました。「罪はありません」という答えが返って来ました。「うぁー」さすがだなーと思いました。数日後、ある先生から、「鈴木先生が言われたことはどういう意味ですか?」という電話がありました。そこで、ローマ5章から8章までの流れを簡単に説明して答えました。私たちはキリストと共に葬られ、キリストと共によみがえりました。そのことによって、私たちはもうアダムの子孫ではないのです。そのため、アダムから来る原罪は断ち切られました。あるのは肉の性質です。肉が律法によって刺激され、罪を生み出すのです。たとえ、そうであってもパウロはこう言っています。ローマ8:1-2「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」アーメン。私たちは法的に義と認められており、罪がない者として見られているのです。もし、私たちが単なる「赦された罪人」であったら、罪を犯すことが当たり前になるでしょう。なぜなら、自分は罪人だと思っているからです。でも、私たちはキリストにあって義人であり、聖徒なのです。罪を犯すことが当たり前ではないのです。たとえ、罪を犯すことがあっても、義人であり聖徒なのです。ヨハネはパウロと表現の仕方が幾分違っています。法的な意味ではなく、生命的な意味で教えています。クリスチャンは神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。この世は悪い者の支配下にあります。しかし、私たちの命は、イエス様の御手の中にあります。だから、悪い者は私たちに触れることができないのです。このように、キリストにあって、自分が何者であるかを知るということは、とても重要です。聖書が私たちを何者と言っているか、そこに焦点を合わせていけば、そのように生きることができるようになるのです。

2.私たちが信じている方はどういうお方か

第二は、私たちが信じている方がどういうお方であるか、それを知ることがとても重要です。Ⅰヨハネ5:20-21「しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。」私たちが信じている方とはどういうお方なのでしょうか?このところに登場しているお方はお二方おられます。第一は神の御子です。御子イエス・キリストとも書かれています。第二は「真実な方」と二回書かれています。真実な方とはだれでしょうか?もちろん、真実な方とは、父なる神さまのことです。ヨハネ第一の手紙に、同じように呼ばれている箇所があるのでしょうか?Ⅰヨハネ1:9「神は真実で正しい方」と書かれています。「神の愛」「神は愛です」と何度も記されていますが、「真実な方」と言われているのはここだけです。なぜ、ヨハネは「愛なる方」と言わないで、「真実な方」と紹介しているのでしょうか?このところの分脈から判断しますと、「悪い者」とは悪魔のことです。ヨハネは悪魔のことを何と言っているでしょうか?ヨハネ8:44「悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」そうです。悪魔のうちには真理がありません。悪魔は偽り者であり、また偽りの父です。悪魔と反対に、父なる神さまは真実なお方です。となると、悪魔との戦いはどのような戦いになるのでしょうか?それは、真理における戦いです。もし、私たちが真理とは何であり、偽りとは何であるかを知るならば、悪魔に勝利することができるのです。だから、18-20節には「知る」という言葉が、3回記されています。特に、20節前半には、「しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています」と書いてあります。そうです。神の御子であるイエス様が「真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださった」ということです。この世の人は、悪魔をまるで神さまのようにあがめて礼拝しています。逆に、まことの神さまを悪魔のように遠ざけています。なぜでしょう?神の御子であるイエス様を通して、神様を見ていないからです。聖書以外の書物を読んだり、宗教家の教えを聞いているからです。恐ろしいことに、日本では霊能者や占い師の言うことを信じている人がたくさんいます。日本の仏教のほとんどは密教と結びついていますので、悪しき霊が影響しやすいのです。

私たちが悪しき霊、あるいは悪魔との戦いにおいて最も費やすべきことは、真理とは何かを知る作業です。では、真理とは何なのでしょうか?多くの人たちは、片方に真理があって、もう片方に偽りがあると考えています。また、片方に善があって、もう片方には悪があると考えています。しかし、それは正しくはありません。真理とか善は真中にあるのです。そして、右端と左端の方に偽りとか悪があるのです。それを狭い道にたとえることができます。道幅が2メートルくらいの農道で、両脇には溝があるとします。その道を自転車で走る場合は、道の真中を走らなければなりません。右側に寄り過ぎると溝に落ちます。反対に左側に寄り過ぎると溝に落ちます。真理というのは真中にあるのです。そして、極端なものが偽りであり、悪なのです。信仰生活は極端の溝にはまらないように進む、スリルあるものなのです。悪魔が、神さまが造られた世界にやって来ました。悪魔は造り主ではありません。悪魔ができるのは、神さまが造られたものを、良いものを悪いものに歪めていくことです。しかし、それを悪い方に変えるというのは、両脇の溝にはまらせることです。たとえば、セックスに関して、一方は不品行や乱交をするように誘惑します。もう一方には「セックスは悪いものであるから絶対それから遠ざかるべきである」と言ってきます。憎しみに関してはどうでしょう?一方は「クリスチャンは決して憎しみなんか持つべきではない。何に対しても、忍耐を持ち、我慢する。どんなことに対しても、感情を持つべきではない」と言ってきます。悪魔は自分のことを憎んで欲しくないからです。しかし、神さまは咎を憎む者を愛しておられます。悪霊に関してはどうでしょう?一方には「悪霊などいないんだ。そんなの時代遅れだ」と言います。もう一方は「すべてが悪霊のせいだ。病気も家族に争いがあるのも悪霊のせいだ」と言ってきます。このように悪魔は良いものを悪いものに歪めて変えていきます。そして、どちらかの極端に生きるように誘惑します。私も心理学やカウンセリングについて長い間学びました。しかし、キリスト教会にも両極端があります。神学を強調する人たちは、「神を信じていない心理学者の言うことを聞くな。私たちは新しく生まれ変わったのだから、過去のものは過ぎ去ったのだ」と言います。一方、心理学を強調する先生は、人間の罪のことを全く話しません。「社会のせいだ、おいたちが悪かったんだ」と言います。人間には霊もあるし、心もあります。私たちは両者をバランスよく取り扱う必要があります。

イエス・キリストの中には、神と人がバランスよく存在していました。イエス様はまことの人であり、まことの神でした。イエス様は私たちが神さまのもとでこのように暮らすべきですよ、と模範を示してくださったのです。クリスチャンになると、聖められ過ぎて、世の人たちと交わらない人がいます。しかし、イエス様は取税人や罪人たちと一緒に食事をしました。その時、律法学者やパリサイ人は何と言ったでしょうか?「食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」と馬鹿にしました。もし、私たちがこの世の人たちと全く交わらなかったなら、伝道することは不可能です。しかし、彼らの誘惑にはまってしまう危険性も同時にあります。また、私たちはイエス様を見ると、神さまがどんなお方か分かります。イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハネ14:6)と言われました。ある聖書学者はこのみことばを、イエス様は「真理でいのちの道である」と訳しました。イエス様は、神さまのところへ行く唯一の道なのですが、真理でいのちの道であるということです。ある人たちは、イエス様抜きで、イエス様をバイパスして、神様のところへ行こうとします。多くの場合、彼らが主張する神さまは、本当の神さまではありません。愛とか恵みばかり強調されて、義のない神さまであったりします。あるいは、全知全能であっても、人格のない神さまであったりします。ヨハネは最後に「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい」と言いました。ヨハネ第一の手紙の最後のことばは唐突過ぎるでしょうか?でも、このように文脈を見ながら、学ぶと、「イエス様抜きの神さまは、偶像になるんだなー」ということが分かります。偶像とは人間が自分たちの都合の良いように作った神さまです。日本の新興宗教は、先祖崇拝を絶対はずしせません。聖書の良いところを取り入れたり、ある場合はキリストも神さまの一人であると言います。でも、そこに存在しないものがあります。それは人間の罪であり、罪を贖う救い主がいないのです。復活もなければ、御国の完成もありません。魂がどこか知らないところで、フラフラ暮らすのです。当然、地上での生き方にも支障をきたしてきます。なぜなら、真理に即した生活をしていないからです。私たちはイエス・キリストを通して、神様に到達することができるのです。また、すべての真理もイエス・キリストを通して分かるのです。

最後に、20節の後半をお読みいたします。「それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。」聖書では、イエス・キリストが神さまであると直接、言っているところはほとんどありません。しかし、Ⅰヨハネ5:20は、イエス・キリストが「まことの神、永遠のいのち」であると書かれています。どの英語の訳の聖書も、そうなっています。私は「キリスト教」という言い方はあまり好きではありません。しかし、「絶対にキリスト様の名前ははずせないなー」と思います。なぜなら、キリストを通して、神さまのことが分かるし、キリストを通して神さまのところに行けるからです。さらにイエス・キリストご自身が神さまでもあります。カール・バルトは20世紀の最大の神学者だと言われています。私はちょっと立場が違うのですが、カール・バルトが強調したことには賛成です。彼はキリスト論をとても強調しました。「たとえ聖書に間違いがあったとしても、キリストを証言していることにおいては正しい。キリストこそが受肉したことばであり、啓示の中心である」と言いました。私はキリストを証言している聖書も誤りのない神のことばだと信じています。でも、キリストを通して聖書を読まないと、律法主義になったり、単なる教えになることがあります。キリストを通して神さまを見るならば、愛であり義なる神さまが分かります。哲学者であり、科学者であるパスカルがクリスチャンであることはとても有名です。パスカルも妹のジャクリーヌも天才でした。宮廷において名声を得ていた彼女が、突然、修道院に入りました。姉も結婚し、パスカル一人だけが残されました。パスカルはその才智ゆえに、社交界でも人気を博していました。しかし、人々の「きらびやかな楽しみ」に付き合うのに限界を感じました。11月23日午後10時半、突然、「火」が臨みました。奇跡が、夜の12時半まで続きました。そのとき、パスカルはこのように叫びました。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。哲学者および識者の神ならず。確実、確実、感情、歓喜、平和。イエス・キリストの神。わが神、すなわち汝らの神。キリスト!キリスト!キリスト!」パスカルはすべてを放棄して、イエス・キリストに完全に服従することを誓いました。パスカルは、自らの証明を忘れないように、「覚え書き」を肌着に縫いつけていたようです。パスカルはキリストと出会って、神さまがわかり、真理がわかり、永遠に至る人生が分かったのです。私たちもヨハネのように告白したいと思います。「この方こそ、まことの神、永遠のいのちです」アーメン。

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2012年2月12日 (日)

「神と人、人と人との和解」 エペソ2章10節-18節  毛利佐保師

<エペソ2章10節-18節>

2:10

私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

2:11

ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、

2:12

そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。

2:13

しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。

2:14

キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁 を打ちこわし、

2:15

ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、

2:16

また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。

2:17

それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。

2:18

私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。

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エペソ人への手紙はパウロの著書であると考える人と、パウロ著者説を否定する人がいますが、伝統的に支持されてきたのは、紀元60年ごろ、パウロがローマの獄中で書いたという説です。

このエペソ人への手紙は、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙、ピレモンへの手紙の4つの手紙と合わせて、獄中書簡と呼ばれています。

パウロはこのエペソ人への手紙の中で、神様と、神様から離れてしまった人間との和解と、ユダヤ人と異邦人との和解について語っています。

本日は、神と人との和解、人と人との和解について、聖書から見て行きたいと思います。

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まず、1つ目のポイントは、

①私たちは神の作品です

◆「隔ての壁」OUTSIDE(外側)と INSIDE(内側)とは?どういうことでしょうか。

パウロは2:11-12で、異邦人に対してこう言いました。

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2:11

ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、

2:12

そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。

**********

この時代のユダヤ人たちは、自分たちは神から契約をいただいたイスラエルの国民として、特別に選ばれた存在、INSIDE(内側)の者であると自認していました。

ですから、異邦人たちはユダヤ人から見れば、OUTSIDE(外側)の人たちでした。

しかし、パウロはこう続けています。

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2:13

しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。

2:14

キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、

2:15

ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。

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この「隔ての壁」とは当時エルサレムの神殿内にあった石造りの壁で、ユダヤ人と異邦人を分け隔てたシンボルだった壁のことです。(プロジェクターの図参照)

異邦人の巡礼者はこの神殿の壁の中へは入れませんでした。この異邦人の庭というところで礼拝をしました。ユダヤ人の女性は壁の中には入れましたが、この婦人の庭という所で礼拝し、神殿の中へは入れませんでした。

14節には、「二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし」と書かれていますが、これは、敵対していたユダヤ人と異邦人という二つのものをキリストの血によって一つにしたという意味です。

「平和の君」なるイエス様は、この隔ての壁を打ち壊し、ご自分の肉においてユダヤ人と異邦人、奴隷と自由人、男女の間にあった「敵意」を廃棄されました。

パウロがここで言ったように、イエス様はすでにその十字架の贖いによって、壁を廃棄してくださいました。

ところが、私たちの世界には、今もなお「敵意」とも言える隔ての壁がたくさんあります。

広義では、国と国との争いの壁、民族や人種の偏見や差別の壁などがあります。

また、狭義では、育った環境やお金や学歴などの壁、職場や学校での人間関係の壁、親子や友人との壁、また教会の中にも隔ての壁はあります。

知らず知らずのうちに自分がOUTSIDE(外側) にされたり、INSIDE(内側)になっていたりします。

あるアメリカの宣教師の先生がこんなことを言っていました。

「私は親の仕事の関係で幼いころ日本に来ました。高校を卒業するまで日本にいましたが、自分の母国は日本ではなく、アメリカだとずっと思っていました。なぜかというと、日本に住んではいるけれど、自分はアメリカ人なので、日本ではOUTSIDEの扱いを受けていたからです。大学生になって、アメリカに戻りました。自分の国です。ところが、母国のアメリカでも、自分はOUTSIDEでした。“サードカルチャーキッズ”と呼ばれて、アメリカ人としては扱われませんでした。」

このような文化の壁、帰国子女の問題は、本人や周りの人たちが前向きにとらえて考えなければ、その人が自分のアイデンティティー(自分の存在証明)を失ってしまうような悲しい結果になってしまいます。

また、みなさん自身にも、隔ての壁はあるのではないでしょうか。

例えば、「あー私はこの場所、この人たちとはどうも馴染めない。私はここではOUTSIDEの人間だなぁー。」と疎外感を感じることがあったり、逆に、「あの人は、私たちとはちょっと違うよね。」と仲間内でINSIDEしてかたまってしまって、その人を閉めだしたりしていませんか。

もちろん、何でもかんでも仲間に入れてあげなきゃダメな訳ではありませんが・・・。

例えば、大の大人が幼稚園児のコミュニティーにはどんなに頑張っても入れませんし、女性限定のコミュニティーだと言っているのに、男性が入れてもらえないからと言って「隔ての壁だ!」とは言えませんよね。

そうではなくて、入ることができる・・・いや、入るべきコミュニティーであるのにも関わらず、「敵意」とまでは言わなくても、歓迎されていない雰囲気を味わったという経験とか、反対に、入れてあげれば良かったのに、歓迎してあげなかったといった経験などは、みなさんあるのではないでしょうか。

また、グループでの話だけではなく、個人的にも隔ての壁はあります。

どうしても好きになれない人、苦手な人、表面上はうまく付き合っているように見えても、自分の中に見えない隔ての壁を作ってしまって、ストレスを溜めてしまう。

・・・私たちは、そのような隔ての壁をどうして作ってしまうのでしょうか。

それは私たち人間にある罪の性質から来るのではないでしょうか。

神様はこの世界にあるすべての被造物をお造りになりました。

聖書の冒頭、創世記1章には、神様の創造のストーリーが書かれています。

その中でも人間は、神の似姿、神の御性質を受け継いで、造られたと書かれています。

ここには、そもそも隔ての壁、OUTSIDEもINSIDEもありませんでした。

しかし、アダムとエバが神に背いてから、この世界はおかしくなってしまいました。

だからと言って「そうそう。アダムとエバが全部悪いの!人間はみんな罪人だから仕方ない!」と開き直ってあきらめてしまうなら、せっかく神の似姿、神の御性質をいただいたのにもったいないですし、それは神様の御心ではありませんよね。

なぜかというと、先ほどの、エペソ2:10では、

「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」

と聖書が語っているからです。

私たちは神の作品です。

良い行ないをするために造られたのですから、良い行いに歩まなければなりません。

そのためには、神様と人間が和解をし、人と人とが和解をする必要があります。

では、どうすれば和解することができるのでしょうか。

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2つ目のポイントは・・・

②イエス様によって和解する

********

2:16

また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。

********

実はエペソのこの箇所に書かれている「和解」という言葉は、ただの「和解」ではありません。「特別な和解」という意味があります。ギリシャ語の原文では、 avpokatalla,xh|(原型 avpokatalla,ssw アポカタラソー) という珍しいことばで書かれています。

このアポカタラソーという言葉は、エペソのこの箇所の他には、コロサイの手紙 の1章20、22節に出てくるだけです。他に「和解」を表す「カタラソー」ということばは、ローマ書とかにも出て来ますが、このアポカタラソーという言葉には特別な意味があるので、ここで使われているようです。

その特別な意味というのは・・・

①一つの立場のものが、異なるもう一つの立場に変換される。

②破壊された対人関係の「間」を回復させる。

③「敵意・憎しみ」を「好意、好み」に変える。

といったダイナミックなものです。

またこの言葉は、動詞、過去形、3人称、単数を表していますので、これは明らかに、「神が和解させてくださった」という神の行為を示しています。

また、ここでは仮定法を使っています。この仮定法が、文法上の大きなポイントとなっています。

つまり、「キリストの十字架による和解が成立したのであるならば(仮定法)」、両者(エペソの場合は異邦人とユダヤ人)の間にある「敵意」が壊されないはずはない!というニュアンスにも受け取れます。

ですから神様は、破壊されきった対人関係を回復し、「敵意や憎しみ」ですら、イエス様の十字架によって葬りさり、「好意」と変えて、両者をアポカタラソー、特別な和解へと導いてくださったのです。

これは、ありえない神の御業です!!

また、イエス様の和解の方法は、私たちには想像することすらできない驚くべき方法です。

Amazing Grace という賛美はみなさん良くご存じだと思いますが、この歌詞を作ったジョン・ニュートンは、イエス様によってまさに驚くべき方法でアポカタラソー(和解)させていただいた人です。

彼はイギリスに生まれました。3歳の時よりお母さんから聖書の教育を受けましたが、そのお母さんは、彼が7歳の時に亡くなってしまいました。

その後、彼は反抗期を迎え、非行を繰り返して、果ては奴隷船の船長にまでなってしまいました。

奴隷船とは、アフリカで捕えられた人々を、アメリカなどに連れて行く船です。

奴隷船の内部はこのように(プロジェクター参照)なっていて、アフリカで暮らしていた人を売ったり買ったりしては、このように箱詰めにして、まったく人間扱いをしないで運んだそうです。

この中の2割以上の人が、アメリカに着く前に亡くなってしまったそうです。

生き残った人々も、奴隷として売られて、そこでは人間扱いはほとんどされずに一生を送りました。

そんな奴隷船の船長をしていたジョン・ニュートンは、ある時、嵐に会っていのちの危険にさらされました。そんな時彼の口から思いがけない言葉が出てきました。

「神よ!私を助けてください。私の人生をあなたに捧げます。」

助かった彼は悔い改めて、何年か後に奴隷船の船長を辞めました。

(すぐ辞めなかったのはなぜだろうと思いますが、)その後、英国国教会の牧師となりました。

そして、Amazing Grace の歌詞を作りました。1番の英語の歌詞を見てみましょう。

*******************

Amazing grace! How sweet the sound

「アメージング  グレイス」なんという優しい響き

That saved a wretch like me!

こんなにけがれた私をも救ってくださった
I once was lost but now am found

暗闇を歩いていた私に神の御手が差し伸べられた
Was blind but now I see

盲人に一筋の光が与えられたように

********************

ジョン・ニュートンには、奴隷となった人たちとの間に大きな隔ての壁がありました。

しかし彼はイエス様によって神と和解し、人々にイエス様を証することにより、人とも和解しました。

・・・ここまでの話なら、みなさんの中には「ジョン・ニュートンの話なら飽きるほど聞いたよ」と思われる方も多いでしょう。特にゴスペル関係の方々。

でも、実はAmazing Grace のメロディーにまつわる話で、先ほど申し上げた「私たちには想像することすらできない驚くべき方法」でイエス様が和解させてくださったという、Amazingなお話があります。

Amazing Graceのメロディーは、「アイルランドとスコットランドの民謡を掛け合わせて作られたのではないか?」とか、「アメリカ民謡だ」などと言われていますが、最近違った説が出てきたそうです。

Amazing Grace のメロディーは、奴隷船に乗せられたアフリカの人たちが、船の中で歌っていたのではないか?」という説です。

つまり、ジョン・ニュートンが奴隷船で彼らを運んでいた時に、耳にして覚えたメロディーが曲としてつけられたのではないかというのです。

箱詰めにされて運ばれた人たちの歌は、嘆きの歌だったのかもしれません。あるいは自分を励ますための歌だったかもしれません。祖国を思っての祈りと慰めの歌だったかもしれません。

いずれにしても、もし、彼らが奴隷船で歌った歌と、罪深かったジョン・ニュートンの悔い改めの歌詞とが融合されて、Amazing Graceという賛美ができたのだとしたら、これこそ、Amazing Grace!「おどろくばかりの恵み」だと思いませんか?

なぜなら、ジョン・ニュートンはイエス様を通して神様と和解をし、そして神様は「Amazing Grace」という歌を与えて、加害者と被害者を融合させ、イエス様の十字架によって隔ての壁を打ち破り、究極の和解をさせてくださったからです。

これは、先ほどの2:16のみことば、 「両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」・・・このみことばの通りだと思いませんか?

この話が本当だとしたら、これこそ想像することすらできない驚くべき和解の方法です。

ジョン・ニュートンの時代から300年近く経った今もなお、このAmazing Grace という賛美はいろんな国で歌い継がれています。私たちは、この賛美を歌うたびに憐れみ深い神の愛を改めて知るのです。

しかし、どうでしょう。今の私たちは、この憐れみ深い神の愛に応えているでしょうか・・・。

イエス様は、2千年前にこの地に来てくださって、この地に平和をくださろうとしてくださったのに、人間は未だに悔い改めず、今もあちこちで私利私欲のために争いが絶えず、平和がなく、罪の中にいます。世界中に差別と貧困があります。

その原因を作っているのは、私たち人間であって、私たちは今も、2千年前にイエス様を十字架につけた群衆たちと変わらないのです。

神様は、アフリカで捕えられて連れて来られた人々が、奴隷として売り買いされている様子を、どんなに悲しい思いで見ておられたか、イエス様を通して、御自身と人間との和解、人と人との和解をどんなに望んでおられたかと思うと、このAmazing Graceにまつわる話は、あまりにもリアルで、私たち人間の愚かで哀れな姿を見せつけられます。

イエス様によって神様と和解をしましょう。そして私たち人間同士も和解をしましょう。

まず、身近な身の周りの思い当たる人と和解しましょう。

その人との隔ての壁を打ち破り、OUTSIDE とか、INSIDE とかではなく、アポカタラソー和解しましょう。

今の自分にはとても無理だと思っても、「敵意は十字架によって葬り去られ」たのです。

イエス様は私たちに想像することすらできない驚くべき和解の方法を用意してくださっています。

ですから期待して祈っていきましょう。

********************

そして、最後に3つ目のポイント、聖書は私たちに大切なことを語っています。

③御霊によって神に近づく

ということです。

**********

2:17

それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。

2:18

私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。

**********

と書いてあるのです。

天の父なる神様と、御子なる神イエス様と、聖霊との三位一体の、唯一なる神の真理がここに示されています。私たちが、平和の君なるイエス様によって神様と和解をし、天の父のみもとに近づくことができるのは、聖霊のみわざによるのです。

私たちは神の作品です。神は私たちが日々良い行いに歩めるように造ってくださり、その良い行いをもあらかじめ備えてくださっています。また、イエス様を通して神と人、人と人との和解がなされ、聖霊によって父のみもとに近づくならば、私たちの周りは平和で満ちあふれるはずです。

そのような豊かな信仰生活を送れるように、日々祈って参りましょう。

本日のポイントをもう一度見てみましょう。

①私たちは神の作品です

②イエス様によって和解する

③御霊によって神に近づく

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2012年2月 5日 (日)

みこころにかなう願い     Ⅰヨハネ5:13-17

私たちはいろんなことを神さまに願い求めます。しかし、あるものは答えられ、またあるものは答えられません。これまでのことを振り返って、自分が願い求めたことの何%が答えられているでしょうか?もし、「半分は答えられています」とおっしゃる人がいたなら、すばらしいと思います。私たちの祈りは、宝くじのように確立が低いものなのでしょうか?きょうは、どのように願い求めたなら、もっと与えられるのかを、聖書から学びたいと思います。

1.みこころにかなう願い

新約聖書において「求めたら与えられる」という有名な箇所はどこでしょうか?そうです。マタイ7:7「求めなさい。そうすれば与えられます」と書いてあります。ここに「神さまに求めるなら与えられる」と約束されています。確かに、求めるということは良いことであり、求めなければ決して与えられないものがあります。現代はとても便利な時代です。「必要は発明の母」と言われるように、求めたからこそ、そうなったのだと思います。では、信仰生活においては、どうでしょうか?求めたものがすべて与えられたでしょうか?「下手な鉄砲数打てば当る式で、たくさん求めたら、その中の何%はかなえられるだろう。」祈りとはそういうものなのでしょうか?もう1箇所、「求めたら与えられる」というみことばがあります。ヨハネ16:23-24を抜粋します。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。」このところには、「イエス様のお名前によって求めたなら、父なる神は、何でもお与えになる」と約束されています。マタイ7:7よりも限定されています。なぜなら、イエス様を信じて、神様と親子関係になった人たちが対象だからです。しかも、「イエス」という名前を用いたら、父なる神さまは何でも与えてくれるというのです。どうでしょう?クリスチャンの方は、イエス様のお名前によって、何十回、何百回も、求めてきたと思います。でも、正直なところ、どのくらいの確立で与えられたでしょうか?「私は、30%はかなえられた」と思う方はどの位いらっしゃるでしょうか?「私は、50%はかなえられた」と思う方?「私は、70%はかなえられた」と思う方?あまり、分からないという方は2種類あると思います。1つは祈った祈りをチェックしていない人です。昔、山崎長老さんは、「祈りのノート」を持つことを提案しました。あの時は、70%くらい答えられたように記憶しています。ちゃんとチェックしたから分かったのです。もう1つは、かなえられたかどうか分からない漠然とした祈りです。たとえば、「世界に平和が来ますように。みんなが幸せになれますように」という祈りは、答えられたかどうか判断しようがありません。

では、どのようにしたら、私たちの祈りが「下手な鉄砲数打てば当る」式でなく、100発100中の祈りへと近づくことができるのでしょうか?それがきょうの聖書箇所です。Ⅰヨハネ5:14-15「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」これは、マタイ7章やヨハネ16章よりも、高度な求め方ではないでしょうか?では、この祈りは他の祈りとどこが違うのでしょうか?そうです。「みこころにかなう願いをするなら」と書かれています。何事でも、みこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださる。「わぁー、なんとすばらしいことだろう。やったー。これで100%祈りがかなえられる!」でも、難しいのは、「神さまのみこころは何か」ということを知ることです。「これは、自分からの願いなのか、神さまが私たちに願っていることなのか」どちらなのでしょう?おそらく、神さまのみこころというのは、神さまが私たちに願っていることだと思います。そして、もし、私たちが神さまの願っていることを求めたならば、神様は「よくぞ、求めてくれた。ようし、かなえてあげる」とおっしゃるのではないでしょうか?インドネシアの話です。あるとき、お父さんは息子に「最近、欲しいものはないか?」と聞きました。息子は「ゲーム機が欲しい」と言いました。お父さんは「ゲーム機も良いが、もっと必要なものがあるだろう?」と言いました。実は、少年の学校は家からとても離れていました。少年は毎日、学校まで1時間くらい、野を越え、山を越え、歩かなければなりませんでした。息子は少し考えた後「それじゃ、自転車が良いなー」と言いました。お父さんは「自転車と言ってもいろいろあるけど、どんな自転車が欲しいの?」と聞きました。息子は「そうだね。学校まで行くためには、マウンテンバイクが良いなー」と言いました。お父さんは「よーし。3日後に買ってあげるから待ってね」と言いました。実は、お父さんはマウンテンバイクを既に買っていたのです。それを納屋に隠してあったのです。息子が、マウンテンバイクを求めるのを待っていたのです。

もし、私たちが神のみこころにかなう願いをするなら、必ず与えられます。「下手な鉄砲数打てば当る」式の求め方ではなく、神のみこころに合う求め方をすべきです。そのためには、2つのことが必要です。第一は聖書を読むということです。聖書には神のみこころが記されています。私たちは聖書を読むことによって、神さまの価値観に基づいた考え方を持つことができます。これまでは、ただ自分の欲望のために生きて、他の人のことなど考えませんでした。また、目に見えるものがすべてであって、地上のことしか考えませんでした。しかし、聖書を読み続けていくと、何が重要なのか分かります。このように、聖書には一般的な神のみこころが示されています。第二は御霊によって祈るということです。聖書を読んでから、神さまに祈り求めます。そのとき、私たちの願いと神さまのみこころが交差します。ある場合は、神さまのみこころと私たちのおこころとに、かなりのズレがあるかもしれません。しかし、継続して祈っていくと、御霊が「いや、神さまのみこころはこうだから、ここを修正しなさい」と教えてくれます。祈り続けることによって、聖霊が私たちの自己中心的な願いを聖めてくださるのです。そして、「ああ、これが神さまのみこころなんだ」と確信をもって祈ることができます。それはまるで、ボートが岸壁に接岸するときのようです。ボートに乗った人が岸壁に近づくと、岸にいる人のところにロープを投げます。そして、岸壁のポールにロープを結わえてもらいます。ボートに乗った人はそのロープを「よいしょ、よいしょ」と手繰り寄せます。そのとき、乗っている人は、まるで岸が自分に近づいてくるように見えます。本当はボートが岸に近づいているのですが、まるで岸が自分に近づいてくるように錯覚するのです。これが、みこころにかなう祈りです。神さまのみこころに、自分の祈りが変えられていくのです。そして、だんだんと、神のみこころに近づいていくのです。そのためには、私たちは自分の心を空しくして、ただ、神のみこころがなるように願う必要があるでしょう。「どうしても、これしかない」という自己中心的な願いを一度捨てる必要があります。父なる神さまの本当の願いは、求めたものを与える以上に、私たちの人格を取り扱いたいのです。たとえば、ある女性が理想の男性と結婚したいと願っています。ハンサムで、信仰深く、経済的にも安定した男性と結婚したいと祈り求めます。そうするとどうでしょう。自分もそれにふさわしいように努力するでしょう。スタイルを良くしたり、内面も整えるでしょう。西洋では、わがままな王女が整えられるという童話がたくさんあります。神さまは理想な人と結婚させたいのですが、同時に、その人自身も良くなるように願っておられるのです。

祈りには大きく分けて、求める祈りと交わる祈りがあります。求める祈りとは、さまざまな必要を求めたり、他の人のためのとりなしがあるでしょう。また、交わる祈りとは、神さまと対話する祈りです。聖書を読んでいるときもそうですが、道を歩いているとき、仕事をしながらも、交わることができます。大きな問題を抱えているときには、断食して集中して祈ることも必要でしょう。入学、就職、結婚、家を建てるとき、あるいは神さまの奉仕を選ぶとき、神様のみこころを求める必要があります。そのとき、確信が来るまで祈らなければなりません。練馬グレースの小笠原先生は「祈り抜く」という表現をします。「これだ!」という神さまからの確信が来たら、もう、それに向かって進むのです。みことばに「神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです」とあります。そうです。まだ、目には見えていなくても、手で触っていなくても、すでにかなえられたと知るのです。私たちに必要なのは、信仰の目であり、信仰の手です。神さまは私たちが信仰によって歩むことを願っておられます。最初は小さなものが祈りによって与えられることを経験します。次はもっと大きなことを求めることができます。それが与えられると、さらに大きなことを求めることが可能になります。なぜでしょう?私たちの信仰が大きくなったからです。もし、私たちの求める願いと神さまが私たちに与えたいという願いを比較するならば、どちらが大きいのでしょうか?私は神さまが私たちに与えたいという願いの方がはるかに大きいと思います。天国の倉庫には、私たちに送るべき荷物がたくさん用意されているそうです。ある人が、天国の倉庫を見たそうです。すると、「受取人不在」で戻ってきた品物が山積みされていたそうです。なぜしょう?一、二度は求めたけれど、途中で祈り求めることをやめたからです。神さまが「さあ、今、与えよう」と思ったとき、その人は、もういなかったのです。どうぞ、そのようにならないように、神さまのみこころを求め、みこころにあった祈りをし続けましょう。もう一度、みことばをお読みいたします。Ⅰヨハネ5:14-15「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」アーメン。

2.みこころにかなうとりなし

後半は、求める祈りの1つ、とりなしの祈りについて学びたいと思います。「とりなし」とは、当人に代わって、こちらが神さまに求めることです。当人が、まだ未信者であったり、クリスチャンであっても祈れない状況にある場合です。Ⅰヨハネ5:16-17「だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。不正はみな罪ですが、死に至らない罪があります。」このところに、二種類の人がいることが分かります。一人は死に至らない罪を犯している兄弟であり、もう一人は死に至る罪を犯している兄弟です。第一の問題はここで言われている「死」とは何かということです。どちらも兄弟と呼ばれているので、イエス様を信じている人であります。クリスチャンであるならば、永遠の死に行くことはありません。たとえ罪を犯したとしても、天国に入ることができます。私はこの死とは、肉体の死であると思います。その人が、ある罪を犯したために、さばきとして、肉体的な死を迎えるということです。Ⅰコリント5章にも、同じようなことが書いてあります。Ⅰコリント5:5「このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。」この聖句から分かることですが、私たちは重い罪を犯すことによって、サタンに引き渡され、肉体的に死にます。しかし、そのことによって、霊が主の日に救われるということです。肉体的な死はさばきであり、そのことによって、地上の罪が帳消しになるのかもしれません。あるいは、もうこれ以上、地上で罪を犯さないように、神さまが命をお取りになるのかもしれません。使徒の働き5章にアナニアとサッピラという夫婦のことが出ています。彼らは土地代をごまかして、聖霊を欺いたために死にました。では、この夫婦が地獄へ行ったかというとそうではありません。確かに肉体的には死にましたが、霊においては救われ、天国に入ることができたと信じます。

私たちは人々のためにとりなすとき、死に至る罪を犯している兄弟姉妹のために祈っても、聞かれないと言うことです。私たちの祈りは神さまに届いているのですが、サタンがすでにその人を支配しているので、心が頑なになり、罪を悔い改めないということでしょう。神さまがその人を直接、さばくというよりも、サタンに引渡してしまうのです。結果的に、その人は肉体的に死ぬということです。パウロの弟子かもしれませんが、信仰からはずれた人たちがいました。Ⅰテモテ1:19-20「ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。その中には、ヒメナオとアレキサンデルがいます。私は、彼らをサタンに引き渡しました。それは、神をけがしてはならないことを、彼らに学ばせるためです。」ここには、背教者とは書いていませんので、はっきり分かりません。しかし、「サタンに引渡した」とありますので、あきらかに裁きです。なぜなら、サタンは最終的には、その人の命を奪うからです。私たちはこういう箇所から、神を恐れるということを学ぶ必要があります。当教会のように、福音的な教会は、主の恵みを強調します。神のさばきについてはほとんど語りません。聖書を連続して学んでいますので、どうしてもこういう厳しい箇所に当ることがあります。一般のクリスチャンは重い罪を犯したり、躓いた場合は教会に来なくなります。救いをなくしたわけではないのですが、霊的に眠っている状態です。ですから、リバイバルの可能性はいつでもあります。しかし、問題なのは教会の指導的な立場にあたっている人が重い罪を犯した場合です。間違った教えを広めたり、お金をごまかしたり、パワハラ、セクハラをやめない場合です。牧師や伝道者、役員は一般のクリスチャンよりも影響力があります。悔い改めない場合、神さまは教会を守るために、さばきを下すこともありえるということです。私は、ケネス・ヘーゲンが書いた本を10冊以上読みましたが、そういうケースが書いてありました。ある牧師に癒しと奇跡の賜物が与えられました。その人が会衆の前に立つと霊的な力で人々が押し倒されました。そして、多くの人の病が癒され、奇跡も起きました。ところが、その牧師は高慢になって、さらには聖書的でないことも語り出しました。ケネス・ヘーゲンがその牧師のためにとりなしの祈りをしました。すると、神さまが先生に言われました。「もう、彼のために祈らなくても良い。私は彼の命を取ることを決めているから」と。1ヶ月位たったら、その牧師は本当に死んでしまったのです。私たちは神を恐れなければなりません。特に人々の前に立つ牧師やリーダーたちです。ヤコブ3:1「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」

もう1つ、このこところで言われていることは、とりなしの祈りです。Ⅰヨハネ5:16「だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。」さきほどの例は、極端な場合であり、多くの人たちは死に至らない罪を犯している人たちです。だから、結構、長く生きているのではないでしょうか。神さまのご性質は、愛であり、恵みであり、あわれみです。私たちを喜んで赦したいのです。とりなしの祈りで最も有名な聖書箇所は、アブラハムがロトのために祈ったことです。創世記18章にその物語が書いてあります。主はソドムとゴモラの罪があまりにも重いので、滅ぼすことを決めていました。そして、そのことを神の友である、アブラハムに告げました。アブラハムはソドムとゴモラにはロトとその家族がいるので、一生懸命にとりなしました。最初に「その町に50人の正しい人がいたら、滅ぼさないでください」と願いました。でも、だんだん不安になり、45人、40人、30人、20人、10人と下げていきました。最終的に、主は「滅ぼすまい、10人のために」と約束しました。しかし、ソドムとゴモラには正しい人が10人いなかったのです。結局、その町は火と硫黄とによって滅ぼされました。でも、主はアブラハムの祈りを聞いていたので、御使いを遣わして、ロトとその家族を救い出してくださいました。残念ながら、ロトの妻は後ろを振り返ったので、塩の柱にされてしまいました。でも、何故、主はアブラハムにソドムとゴモラに対するさばきを、前もって告げたのでしょうか?それは、アブラハムがとりなすことによってロトとその家族を救い出したかったからです。神様はご自分のみこころを行なうために、とりなす人を今も求めておられます。しかし、なぜ、そんなややこしいことをしなければならないのでしょうか?イエス様は弟子たちに「みこころが地でも行われるように祈りなさい」とお命じになられました。天においてはみこころは完全になされますが、問題はこの地であります。この地は人の罪とそれを食い物にしている悪魔が支配しています。神さまは、ご自分の義を曲げて、この地に介入することはできません。しかし、誰かが、その人の罪をとりなしてくれるならば、神さまは合法的に助けられるのです。ですから、神さまは今でも、「あの人のために、祈ってくれないか」と私たちにお声をかけるのです。それは寝ている真夜中かもしれないし、道を歩いている時かもしれません。子供のために、夫や妻、あるいは兄弟姉妹のために「祈れ!」とお命じになるのです。そのとき、私たちは「ぱーっ」とその人の顔が浮かびます。そして、その場にしゃがみこんで祈るならば、どうでしょう。あとから、「こういう不思議なことがありました。恐ろしい事故から免れました。」などという証しを聞くでしょう。神様が私たちのとりなしの祈りに応え、御使いを遣わしてくださったとしか思えません。

使徒パウロはエペソ6章の後半で、「すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽し、また祈りなさい。また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください」とお願いしています。どうぞ、兄弟姉妹のためにお祈りしましょう。そして、神さまのみことばを取り次ぐ、牧師のためにも祈ってください。日曜学校のため、ジュニアのため、そして病の中で戦っている兄弟姉妹のために祈ってください。さらに、日本の国民が危機の時代にあって、福音に耳を傾けるようにお祈りください。神さまのみこころにおいて、私たちに対する一番の願いは何でしょう?Ⅰテモテ2:4-5「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」

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