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2012年1月29日 (日)

神のあかし      Ⅰヨハネ5:6-12

6から12節まで、「あかし」という言葉が、9回記されています。「あかし」は英語ではwitnessと言いますが、明らかに法律用語です。証言とか、証拠という意味です。しかし、ギリシャ語では殉教、殉教者という意味もあります。となると、命をかけた証言ということになります。ヨハネは自分が見たこと聞いたことを、あかししています。そして、そのあかしがどんなに真実であるか、この手紙で証言しているのです。

1.神のあかし

 Ⅰヨハネ5:6-8「このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。あかしするものが三つあります。御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。」このところに、「あかしするものが三つある」と書かれています。申命記19章に「ひとりの証言では足りない、二人または三人の証言によって立証されなければならない」と書かれています。ですから、ヨハネはイエス様が神の御子であることを、3つもので証言しています。第一は水です。イエス・キリストは水によって来られたということです。ほとんどの聖書注解は、水とはバプテスマであり、それはイエスの洗礼のことであると述べています。しかし、「水」ということをユダヤ人が見ると、それは「羊水」であるとすぐ分かるそうです。ヨハネはヨハネによる福音書3章で、「人は水から生まれただけでは神の国に入れない」と言いました。水とは母の胎であり、肉体的な誕生を意味しています。イエス・キリストはマリヤの胎から生まれました。これは肉体的な誕生、神が受肉したということを意味しています。当時、グノーシスという異端が出現していました。彼らは「肉体は悪であり、神さまが肉体を取ることなんかありえないんだ。肉体を持ったように見えたんだ」と主張しました。これを「仮現論」と言います。しかし、イエス・キリストは確かに、水によってこの地に来られ、私たちと同じ肉体を持っていたのです。ヨハネはそのことをⅠヨハネ1章でこのように証言しています。Ⅰヨハネ1:1-2「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。」ヨハネは「私はいのちのことばについて、聞いて、目でじっと見て、手でわさりましたよ」とあかしをしています。「ことばは肉体になった」ということを証言しているのです。

 第二のあかしは、血です。これはイエス・キリストが十字架で流した血のことであります。さきほどのグノーシスという異端は、「神さまは十字架にはかからなかった。あそこで死んだのはナザレのイエスという人間なんだ。キリストは十字架にかかる前に天に帰ったんだ」と言いました。十字架はどの世界でも躓きでありました。しかし、ヨハネは「イエス・キリストは確かに十字架で血を流し、罪の贖いを成し遂げられのだ」と証言しています。ヨハネによる福音書19:34-35「しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである。」ヨハネは「イエス様のわき腹から、血と水が出てきた。目撃した者があかしをしているんだから、真実なんだ」と述べています。どうして、イエス様のわき腹から血と水が分離して出たのでしょうか?イエス様は槍で刺されて死んだのではありません。「すべてが完了した!」と叫んだとき、心臓が破裂したのです。その場合、血と水が分離することが医学的に証明されているようです。とにかく、ヨハネはイエス様が血を流して、贖いを全うされたということを見て、それを証言しているのです。先々週、このところで関東コーチングセミナーが開かれました。現在、練馬グレースチャペルの主任牧師は、横田義弥先生です。彼はイエス様の十字架を思うと、涙が出て語れなくなると言いました。横田先生は2年くらい前、小笠原先生から主任牧師になれといわれたとき、祈るために山奥に行ったそうです。大柄な先生が、膝をかかえて祈ったそうですが確信が来ない。そこで、エディ・レオのメッセージをカセットテープで聞いたそうです。そのとき、「キリストの血が私たちを聖めて、神さまに近づくことができるんだ」とヘブル書から語っていました。「そうか、キリストの血なんだ!私の能力とかきよさではない」と確信が来たそうです。イエス・キリストが十字架で血を流し、贖いを全うされたのは物語ではなく、事実なのです。

 第三のあかしは、御霊です。御霊は神さまですから、ヨハネは「これは神のあかしである」と述べています。ヨハネ15:26「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」このみことばは、イエス様がおっしゃっています。ですから、真理の御霊がわたしについてあかしするとは、キリストについてあかしするということです。これはどういう意味かと申しますと、私たちに「イエスは神の御子であり、キリストである」ということをあかしして下さるということです。どうでしょうか?私たちが何らかのかたちで、神さまを求めたときがありました。そのとき聖書を読んだかもしれないし、ゴスペルの歌だったかもしれないし、あるいはだれかが話してくれた福音かもしれません。そのとき、神の霊があなたの霊に「イエス様は救い主である。あなたは彼を受け入れるべきだ」と語りかけたのではないでしょうか?このような肉声ではなく、細き御霊の声であります。それで、あなたは納得したか、降参したか、わかりませんが、受け入れたのではないでしょうか?このように御霊は外からあなたに向かって語ってくださいます。しかし、イエス様を受け入れた瞬間から、今度は、あなたの内側からあかししてくださいます。ローマ8:16 「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」アーメン。このように、神の御霊が、キリストをあかししてくださるのです。このようにキリストを証言することが、聖霊の最も重要な働きであります。

 でも、その証言を受け入れないならどうなるのでしょうか?世の中には、そんなの信じなれないという人がたくさんいます。Ⅰヨハネ5:9-10「もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。」御霊のあかしは、神からのあかしです。もし、ああ、それは神のあかしですと信じる者は、自分の中に同じあかしを持っています。「アーメン、イエスは神の御子であり、キリストです。イエス様は肉体ともってこの世に来られ、十字架で血を流されました。そして、私は、そのイエス様を信じていることを御霊と共に証します。」すばらしいですね。きょうは洗礼式がありますが、まさしく、そのことを洗礼によってあかしするわけです。人は、一人で神さまの前に告白するだけで救われます。でも、洗礼式の場合は公に、自分が信じていることを言い表すことです。そうすると、ああ、「この人は確かにイエス様を信じたんだ」ということを、複数の人が認め、その証人となるということです。1週間後に「あれは嘘だったんです。忘れてください」とは言えないのです。信仰を告白するということは、それだけ重みがあるということです。しかし、この聖書の証言、あかしを信じない人もいます。神の御霊がそう証言しているのに、「私は信じない」と言ったらどうなるのでしょうか?ヨハネは「神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです」と言っています。神さまの証言を信じないということは、「神さまは偽り者であり、嘘つきだ」と言う人です。すごいですね。私たちは御霊の証言、つまり、福音の前に立つとき、信じるか信じないか、2つに1つしかありません。もし、信じないと言うなら、神さまが嘘を言っているから信じないということになるのです。イエス様は肉体をもってこの地に来られ、十字架につき血を流して、贖いを全うされました。このお方を救い主として信じるときに、人は救われるのです。

これは、これは神の霊、御霊も私たちに語っています。どうでしょうか?神さまは嘘を言われるお方でしょうか?「神の子イエスなんていなかったんだ。十字架で人が救われるなんて嘘だ。天国も地獄もないんだ。人は死んだら無になるんだ。聖書も作り話で嘘っぱちさ。」そうでしょうか?ヨハネの証言、聖書の証言、神の御霊の証言をアーメンと受け入れる人は幸いです。その人が救われるか、救われないかは、その証言を受け入れるか受け入れないかにかかっているからです。イエス様が十字架で血を流したのですから、私たちも命をかけて信じるしかありません。

2.救いのあかし

後半は、「イエス様を信じたらこういうことになりますよ」というあかしです。これは聖書が「救われている人はこうですよ」という、私たちに向けての証言であります。Ⅰヨハネ5:11-12「そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」ここに「いのち」と書かれていますが、これはヨハネ独特の表現です。普通、「いのち」と言ったらギリシャ語ではプシュケーです。これは「魂」とか「生命」という意味です。しかし、ヨハネはゾーエーというギリシャ語で「いのち」と言っています。ゾーエーの命は、自然のいのちではありません。神のいのちであり、永遠のいのちという意味があります。ですから、この世の多くの人たち、イエス様を信じていない人は、プシュケーの命は持っているかもしれないが、ゾーエーの命は持っていないということになります。ゾーエーの命は永遠のいのちですから、「救い」と同じ意味であります。ただ今から、この聖句から、1つ1つ一緒に学びたいと思います。最初の質問は「だれが、永遠のいのちを与えてくださるのでしょうか?」11節のはじめに、「そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ」と書いてあります。ですから、神さまです。神さまが私たちに永遠のいのちを与えてくださるということです。アーメン。

第二の質問は「永遠のいのち、救いはだれが持っているのでしょうか?」これは、持っているというよりも、永遠のいのちを与える手段と言っても良いかもしれません。「そしてこのいのちが御子のうちにあるということです」。はい、御子イエス様のうちにあるということです。イギリスの聖書は「神さまが私たちに永遠のいのちを与えてくださった。そして、そのいのちが御子のうちにあることを見出した」と訳しています。神さまが永遠のいのちを与えてくださったらそれで良さそうなものです。しかし、そのいのちはイエス様のうちにあるということです。これをたとえるとこうなると思います。私たちのところに、郵便小包、あるいは宅配便が来ます。私たちはそれを受け取るとき、「はい、確かに受け取りました」とハンコかサインをします。もし、私たちがそこにいない場合は、彼らはそれを持ち帰って、再び配達してくれます。私たちは受け取ったら箱を開けて、中味を取り出します。そこで、品物が自分のものになるのです。神さまは救いの入った箱を送ってくださいます。が、それを受け取って、開ける作業が残っています。また、パソコンをなさる方はよくご存知だと思いますが、ダウンロードという作業があります。マイクロソフトでもダウンロードセンターがあり、アップデートをするために必要です。私たちはマイクロソフトからクリックして、ダウンロードします。すると、自分のパソコンまであるデーターが運ばれてきます。それだけではダメなんです。「開く」というところをクリックします。すると、「同意しません」と「同意します」のチェックがあります。わざわざ、「同意します」というところをクリックしないと、自分のパソコンにインストールされません。もう、パソコンにデーターが、来ているんですが、それを開いて、同意しないとダメなのです。何か救いの関係と似てはいませんか?神様からの救いは私たち一人ひとりに届けられています。そして、救いはイエス・キリストという箱の中にあるということです。イエス・キリストを開いて、「受け取ります」と同意すれば良いのです。いや、同意しなければなりません。

第三は、では、だれが永遠のいのちを持っているのでしょうか?これは、どういう人が永遠のいのちを持っているかという質問になります。どういう人でしょうか?「御子を持つ者はいのちを持っており」と書いてあります。「持つ」とはギリシャ語で「持つ」という意味ですが、「悪霊に憑かれている」という場合も、同じことばを使います。「キリストに憑かれている?」というのも変ですね。簡単に言うと、人格的で霊的だということです。悪霊も心を開いて、こちらからお願いしない限りは簡単には入って来れません。私たちがイエス様に心を開いて、「受け入れます」と願うならば、イエス様が聖霊によってお入りくださるのです。だから、クリスチャンというのは、聖霊によって、イエス様が内側に住んでおられるということです。イエス様は霊ですから、イエス様を信じても体重は変わりありません。クリスチャンになったら、500グラムくらい増えるとわかりやすいのですが、そういうことはありません。でも、はっきりしていることは、イエス様を心の中に有している人は、永遠のいのちも同時に有しているということです。

第四、最後の質問ですが、どういう人が永遠の命を持っていないのでしょうか?「神の御子を持たない者はいのちを持っていません」。そうです。神の御子である、イエス様を持っていない人は、永遠のいのちも持っていないということです。持つとは、信じると同じ意味です。しかし、ヨハネはなぜ、持つとか持たないとか、そういう言い方をしたのでしょうか?ヨハネは、いつもは、信じるとか信じないという言い方をするのに何故でしょうか?信じるというのは、漠然として分からないところがあります。頭で知的に信じるという信じ方もあれば、全面的に信頼して信じるという信じ方もあります。その人が、どの程度、信じているのか客観的に見定めるのは不可能です。でも、持っているか持っていないかとなるとどうでしょうか?持つというのは、非常に物質的で、非常に分かり易い表現です。「あなたは、今、1万円持っていますか?」と聞かれたらどうでしょうか?「それは頭で知的にという意味でしょうか?」「それとも全面的に信頼してという意味でしょうか?」そのように聞く人はまずいません。持っているか、持っていないかすぐわかります。しかし、中には、お財布の中にいくらお金が入っているか分からない人がたまにいます。金持ちなのかズボラなのか、分かりません。でも、そういう人であったとしても、ちょっとお財布を調べると分かります。持っていたら、「持っている」。持っていなかったら、「持っていない」と答えるでしょう。でも、どうなのでしょうか?問題は、イエス様を持っていないことが、1万円をもってないことと同じくらい明白かどうかということです。これは、「自分がクリスチャンか、それともクリスチャンでないか」ということが分かると同じです。表現を変えるなら、「自分は救われて永遠のいのちがあるか、あるいは自分には救いも永遠のいのちもないか」です。

 こういうことを聞いて不安になる人がおられるでしょうか?「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません」。この言葉を聞いて、「あれー、私には救いも永遠のいのちもないみたいだ。その確信がない」という人はおられるでしょうか?それとも、「ああ、私はイエス様を持っているので、やっぱり救われているんだ。永遠のいのちもあるし、天国にも行ける!」と改めて確信を持たれたでしょうか?みなさんに、ここで挙手を願うわけにはいかないでしょう。どうぞ、確信がない場合は、後日、私のところに電話をしてください。そして、再び、私が福音を伝え、信仰告白へと導かせていただきます。でも、イエス様を信じることが、物を持つことと同じくらい、確かなことなのでしょうか?いのちの問題を何か論理で証明することは難しいと思います。たとえば、私が5歳のこどもに、「○○ちゃんは生きている」と聞いたとします。その子はどう答えるでしょうか?私の心臓は鼓動して、脈もあります。考えることもできるし、手足を自由に動かすこともできます。息もしているし、瞳孔も開いていません。このように答える子どもはまずいないでしょう。おそらく、「ほら、生きているよ」と答えるでしょう。生きていることは、本人が一番良く知っています。それを客観的に表現することはできないかもしれませんが、本人は分かるのです。同じように自分がイエス様を持っていて、永遠のいのちがあるということを知っているのは本人です。同時に、自分はイエス様を持っていないし、永遠のいのちもないということを知っているのも本人です。私はこれまで150人近くの方々に洗礼を授けてきました。でも、その中には、「人間的にお世話になっているので、仕方なく」という人もいたかもしれません。実際に、洗礼を受けて、次の週から全く来なくなった人もいます。きょう、この後、洗礼式があるのに、恐ろしいことを言っています。言いたいことは、本当に信じているかどうか分かっているのは、本人自身だということです。もし、イエス様を信じているなら、本当に救いの確信があり、永遠のいのちがあるという確信があります。でも、人間は生き物ですので、時には救いの確信がなくなったりすることもあるでしょう。鬱病になったり、悪霊にやられた場合、そういうことがあるようです。その時はどうしたら良いのでしょうか?それは「聖書にそう書いてあるから」と答えるのが一番です。私はイエス・キリストを持っています。だったら、救いも永遠のいのちもあるのです。「私はイエス様を失いたくありません。イエス様は私の救い主、私のいのちです。」もし、そのように告白しておられるなら、確実に、救いと永遠のいのちはその人にあります。世の中では、最後に気持ちだとか、気力だとか言います。アスリートの人の人たちは「最後は気持ちの勝負だ」と良く言います。でも、クリスチャンはそうではありません。「最後は神のみことばです。みことばが何と言っているか」であります。子どもの讃美歌に「主われを愛す」という曲があります。しかし、英語の歌詞を直訳するとこうなります。「イエス様は私を愛しています。私はこのことを知っています。なぜなら聖書がそのように私に言っているからです。彼に属する小さい者達は弱くとも、彼(イエス様)は強いのです。」聖書のみことばに立つとき、救いの確信はゆるぐことはありません。

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2012年1月22日 (日)

世に勝つ者      Ⅰヨハネ5:1-5

どの国民であれ、「いつ、どこで、だれから生まれたか」ということを重要視されるのではないでしょうか?旧約聖書を見ると、「だれの子どもなのか」というが重要なアイディンテティでした。父親で身分が決まってしまうようなところもありました。しかし、クリスチャンはイエス・キリストを信じると新たに生まれることができます。私たちの霊的な父親は天地を造られた神様です。なんとすばらしいことでしょうか。ヨハネは私たちのことを「神によって生まれた者」と呼んでいます。そして、Ⅰヨハネ5章のはじめで、神によって生まれた者には2つの特徴があると教えています。

1.兄弟を愛する者

 神によって生まれた者の第一の特徴は、兄弟姉妹を愛するということです。Ⅰヨハネ5:1-2「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。」使徒ヨハネは、「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです」と言っています。知らない人は「イエス・キリスト」と聞くと、イエスがファーストネームで、キリストがファミリーネームみたいに思ってしまうでしょう。イエスは確かに名前ですが、キリストは職名であります。キリストは、元来、「油注がれた者」ですが、救い主とかメシヤという意味になります。当時、イエスという名前はかなり付けられていたようです。しかし、キリストはだれにでも付けられる称号ではありません。キリストはギリシャ語ではキューリオスですが、当時、ローマ皇帝がキューリオスとして崇められ、皇帝礼拝がなされていました。ですから、その当時「イエスがキューリオスです」と告白したら、コーマ皇帝を否定することになります。その人は、捕らえられ、死刑になるでしょう。私たちが「イエスはキリストです」と告白するのは、「私はイエス様を救い主として信じます」という告白と同じなのです。

 「イエスはキリストです」と心から告白するとどうなるのでしょうか?ヨハネは、「その人は神によって生まれたのです」と言っています。ヨハネ3章には、ココデモの物語が記されています。彼はユダヤ人の指導者でしたから、身分、知識、経験、宗教心、すべてを備えていました。しかし、イエス様は「新しく生まれなければ、神の国に入ることはできません」と言われました。いくら立派でも生身では神の国に入れないということです。新しく生まれるとは、「上から生まれる」という意味です。私たちが「神のひとり子、イエス様を信じます」と告白すると、神さまが私たちを新たに生まれ変わらせてくださるのです。信じるのは私たちがすべきことですが、新生させてくださるのは神であり、神の霊です。本当のクリスチャンであるなら、霊的に新しく生まれ変わった存在です。これを英語ではボーンアゲィン・クリスチャンと言います。しかし、アメリカやヨーロッパに行きますと、名ばかりのクリスチャンが大勢います。イエスはキリストであることを頭で知っていますが、霊的に生まれ変わっていないのです。聖書も読んでいるし、教会にも通っている。しかし、心からイエス様をキリストとして信じていません。だから、同然、霊的にも生まれ変わっていないのです。日本にはたくさんのミッションスクールがありますが、ほとんどの学生はボーンアゲィンしていません。教養として聖書を学び、知識としてイエス・キリストを知っているだけだからです。ヨハネは「もし、本当にイエスがキリストであることを信じたならば、神から生まれた存在である」と言っています。そして、「神から生まれたなら、このようなことが普通になりますよ」と言っています。それはどんなことでしょうか?

 第一は生んでくださった方を愛するということです。生んでくださった方とは父なる神さまのことです。神さまは単なる神さまではなく、「お父さん」です。新生した人の特徴は神さまを「お父さん」と呼べるということです。あひるなどは、卵からかえったとき、最初に見たものが自分のお母さんだと思うそうです。あひるが最初に猫を見たら、猫がお母さんになります。人間を見たら、人間がお母さんになります。ある人たちは祈るとき、「愛する天のお父様」と祈ります。これは信仰がなければとても言えないでしょう。主の祈りも「天にいます我らの父よ」と祈り出すので、信じていない人には苦痛ではないでしょうか?だけど、神さまを信じると、聖霊の助けによって、「アバ父よ」「お父さん」と呼ぶことができるようになるのです。それでは、第二の特徴は何でしょうか?神さまを愛する人は「その方によって生まれた者をも愛します」。「その方」とは神さまですから、神によって生まれた他の人たちをも愛するということです。イエス様を信じて神の子どもになったのは自分一人だけではありません。他にもイエス様を信じて神のこどもになった人がいます。いわば、兄弟姉妹です。イエス様を信じて、本当に霊的に生まれ変わった人は、他の兄弟姉妹を愛するようになるのです。もし、「私は教会の人を、だれ一人愛することはできません。みんな私のライバル、私の敵です」と言ったら、その人の救いは怪しいものとなります。J.BフィリップスはⅠヨハネ5:1,2をこのように訳しています。「イエスをキリストであると本当に信じている人はだれでも、神さまの家族の一員です。父を愛しているその人は、父の息子たちを愛さずにはおられません」。なぜでしょう?自分の中に神の愛があるからです。それまでは、愛することが至難の業でした。しかし、クリスチャンになると神の種が宿るので、愛することが自然になるのです。昔、We are the Worldという歌がありました。アメリカの選りすぐりの歌手が歌っていました。その歌詞の中に、We are all a part of God’s great big family, you know love is all we need.「私たちはみんな神の偉大な家族の一人だから、すべての人に愛が必要なんだよ」と歌っていました。歌やスポーツはそういう力があります。しかし、私たちは神によって生まれ変わることによって、そのことが可能になるのです。

 さらにヨハネはこう言っています。Ⅰヨハネ5:3「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」神の命令とは何でしょうか?Ⅰヨハネ4:21です。現代の聖書は章とか節がありますが、原文の聖書にはありません。だから、本来はくっついているのです。Ⅰヨハネ4:21「神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。」そうです。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきであり、それは神さま命令です。ヨハネは「その命令は重荷とはなりません」と述べています。重荷とは、詳訳聖書によると「飽き飽きすること」「過酷なこと」「耐え難いこと」とも言い換えられることばです。みなさん、人を愛するということは、結構、大変なことではないでしょうか?相手にされなかったり、拒絶されるかもしれません。自分の方だって、嫌な人から近づいて来られたら、「どうしよう」と構えるんじゃないでしょうか?現代は、通話料がただであったり、いろんな人とメールをやりとりできます。私のところにも「通話料がタダだから…」と言って、電話をかけてくる人がいます。「あなたの通話料がただでも、私の時間はただじゃないんだ。用件だけにしてくれ」と言いたくなります。メールが来ても、「返事を出したくないなー」という場合もあるでしょう。私たちは意識はしていないかもしれませんが、人によってランク付けをしているのではないでしょうか?「この人だったら、1時間くらい話しても良い」。「この人だったら、早く切りたい」とか。

たまに、ユニクロに買い物に行くときがあります。カウンターで会計をしている人は、とても輝いて見えます。営業の顔、営業の声なんでしょうが、「よくやるなー」と感心します。おそらく、そういう人は一日の仕事を終えたら、「ぶすー」っとなって、もう口も利きたくないという感じになるでしょう。私たちも営業で兄弟姉妹を愛することは可能かもしれません。しかし、近いうちにメッキがはがれます。「よして!なれなれしい」とか言われ、興ざめするかもしれません。教会だから、兄弟姉妹だからといって、互いに愛し合うということは簡単ではありません。お互いの距離を計ったり、「この程度は良いだろうかな?」みたいな探索が必要です。でも、いつでも忘れてはいけないことがあります。私たちは、かつては罪人でした。キリストによって贖われ、神の子どもとされたのです。今も、不完全で、罪の性質や弱さがあります。でも、自分たちの父は神さまで、神の愛が注がれています。だから、愛することをチャレンジするのです。ちょっとやそっと傷ついても愛することをやめてはいけません。Ⅰコリント13:13「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」永遠に続くものは愛です。だから、私たちは小さなことで、「傷ついた」とか「躓いた」と甘ったれたことを言ってはいけません。なぜなら、同じ、天の父を持つ兄弟姉妹だからです。本当の兄弟姉妹は良く喧嘩するものです。喧嘩をしながら、仲良くなり、愛を学ぶのです。本当の愛は、傷つき、汚れながら学ぶのです。でも、そこには確かに、神の愛が流れています。これは神の命令ですから、私たちは、愛することをやめてはいけないのです。大川牧師が「愛には卒業はない。一生、愛の課題に立ち続けるしかない」と言ったことを思い出します。私たちは、神の子どもとして、愛の課題に立ち続けるしかないのです。でも、それは重荷にはなりません。イエス様が十字架でお互いの罪を負い、聖霊様が愛を注いでおられるからです。

2.世に勝つ者

神によって生まれた者の第二の特徴は何でしょうか。Ⅰヨハネ5:4-5「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」ここに「なぜなら」と書いてありますので、前のことと何か関係しているようです。第一のポイントでは神から生まれた者は神を愛し、神から生まれた者たちをも愛するということでした。つまり、兄弟姉妹を愛するという命令は重荷にはならないということです。それでは、世とは何でしょうか?ヨハネによる福音書にも、たびたび「この世」とか「世」という名称が出てきましたが、どういう意味でしょうか?実は「世」というのは、神に敵対している人たちのことを言うのです。そして、世の背後には、この世の神であるサタンが支配しているというのがヨハネの考えです。と言っても、キリスト教会の中には、「この世界は神様が造られたので、神様が支配しているんだ。サタンが支配しているなんてとんでもない」と言う人たちが半分くらいいるでしょう。20,30年くらい前に、霊的戦いということがクローズアップされました。アルゼンチンから来られた、アナコンディアという伝道者が、「サタンよ、よく聞け。お前の汚い手を離せ!お前を縛る」と天に向かって叫びました。それから、癒しや奇跡を行ったのですが、ものすごく、強烈でした。つまり、空中の権威を持っているサタンを縛ってから、ミニストリーをするというものでした。日本の教会は、外国と比べてサタンや悪霊の働きは顕著でありません。どちらかと言うと、隠れて働いています。なぜなら、キリスト教会の中でも、そういうものを認めていない教会が多いからです。ある教会は「悪魔はいない」というヒューマニズム、またある教会は「そういう時代は終わったんだ」という神学を持っているからです。

でも、新約聖書を見ると「世」「この世」というのは、神を認めず、神に敵対している人たちのことです。それは、アダムとエバが神に敵対してから始まったことです。神さまはこの世を救おうとアブラハムを選びました。そして、アブラハムの子孫、イスラエルの民が世界の祭司となることを願いました。しかし、旧訳聖書を見るとわかりますが、イスラエルは不信仰と不従順の歴史です。そのため、神さまは、御子イエスをこの世に送りました。イエス様は30歳で公生涯を始められます。開口一番、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と言われました。これはどういう意味でしょうか?神の国がイエス様と一緒にやってきたということです。アダム以来、この世は神に反逆して生きてきました。そこへ、神の国が「どーん」と、楔形のように突入してきたのです。イエス様は神の国はどういうものなのか、教えました。山上の説教は、いわば神の国の律法です。そして、多くの人たちの病を癒し、悪霊を追い出し、死人さえよみがえらせました。神の国とはこういうものであると、デモンストレーションしたのです。デモンストレーションは、企業が新商品などの説明のための実演を行うことです。テレビを見ますと、商品を実演している番組があります。司会者が説明し、もう一人の人が商品を実際に使ってみせます。拭き掃除するクロスとか、台所用品、健康器具、いろいろあります。それを、テレビカメラの前で実演します。すると、どこからか「わぁー」と、感動の声が聞こえます。ある場合は、20人くらいの人が後ろに座って、「すごい!」とか言ったりします。おそらく、サクラでしょう。でも、実際に、商品がすごいことを見ると買いたくなります。「さあ、30分以内に申し込まれるとこの特別価格で提供します。」テレビの画面に「商品が少なくなっています」「注文が殺到しています」とか出ると、「早く注文しなくちゃ」と焦ります。同じように、神の国を口で説明するたけでは、不十分です。それで、イエス様は人々に癒しと解放を与え、神の国を体験させたのです。これは、パウロがいう「みことばに伴うしるし」であります。特にユダヤ人はしるしを求めたので、イエス様はこれに答えたのです。最大のしるしは、イエス様ご自身が死んで3日目によみがえったことです。でも、そんなしるしを間近に見ても、ユダヤ人たちは信じませんでした。なぜでしょう?なぜ、人は、神の国がすばらしいと分かっても入ろうとしないのでしょう?

 神の国のギリシャ語は、バシレイアーでありまして、支配、統治、王国という意味です。英語ではkingdomです。王様が治める国であります。つまり、人が神の国に入りたいと願うなら、神さまに頭を下げなければならないということです。だって、神さまが王様なのですから、その支配下に服するのが当然ではないでしょうか。でも、生まれつきの人間は、そんなことはしたくありません。神さまじゃなくて、自分が王でありたいのです。これが罪人の本心です。ユダヤ人の指導者は、イエス様が神の子であり、メシヤであることを目の前で見たのです。でも、信じませんでした。もし、信じたら、頭を下げなければならないからです。そうしたら、これまで自分が持っていた宗教的立場や地位をなくすかもしれません。だから、イエス様を殺したのです。信じるとは、決断です。決断は英語でdecisionと言います。decisionのもともとの意味は、一方を殺し、一方を生かすという意味があるそうです。たとえばここに、コカコーラとオレンジジュースがあるとします。もし、私はコカコーラを飲むと決断したら、オレンジジュースは捨てなければなりません。「いや、私は両方飲む」と言って、コカコーラとオレンジジュースを混ぜたらどうなるでしょうか?気持ち悪くて飲めません。同じように、私たちが神の国に入ることを決断したなら、この世のものは捨てなければならないのです。主イエス・キリストを信じるなら、釈迦やもろもろの神を捨てなければならないのです。結婚も同じです。もし、私がだれかと結婚したいならば、他の女性を全部捨てなければなりません。「いや、二人と結婚します」となると、重婚罪になります。結婚後、他の女性と密かに付き合っていたら、不倫であり、姦淫です。日本は多神教が土台にあるので、霊的な純潔ということが良くわからない人がいます。

 ヨハネがなぜ、「私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか」と言ったのでしょう?もし、私たちは「イエス・キリストの神を信じます」と決断したなら、どういうことになるでしょうか?それは、私は「この世に属しません。神の国に属します。イエス・キリストの神が私の神です」ということなのです。するとどうなるでしょうか?この世があなたに歯向かってくるでしょう。この世はあなたを敵とみなすでしょう?なぜなら、この世の背後には、神の敵であるサタンがいるからです。サタンにとって、あなたが自分の国から、キリストを信じて神の国に入るということは大打撃です。自分の大切な持ち物を失ったのですから、これほど悔しいことはありません。サタンは、被害を最小限に食い止めるために、何とかしなければなりません。だから、あなたの親しい人を使って、やめさせるか、迫害を加え、あなたの思いをくじこうとするのです。イエス様は何とおっしゃったでしょうか?マタイ10:34-36「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。」アーメン。信仰には確かに戦いが伴います。悪魔はそれでも諦めません。私たちをなんとか敗北的なクリスチャンにしよう、影響力のないクリスチャンにしようと誘惑してきます。悪魔は肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢をぶらさげて、この世にとどまるようにさせるのです。私たちが神さまと兄弟姉妹を愛するのではなく、この世のものを愛し、この世のものにエネルギーと力を向けさせるのです。でも、「世と世の欲は滅び去ります」。私たちは神の国に一度、入ったなら、王である神のみこころに焦点を合わせて生きるしかありません。もし、私たちが王である神さまの支配のもとで暮らすならどうでしょう?父なる神さまは守りと平安とすべての必要を与えて、保障してくださるでしょう。今の日本政府は社会保障をなんとかしようと考えています。消費税も10%になるかもしれません。でも、外国の工場で製品を作るので雇用問題が解決しません。円高、ドル安・ユーロ安で輸出が成り立ちません。若者は国民年金も納めていない人が大勢います。確かに、この世においては問題があります。しかし、私たちは神の国に属していることをお忘れなく。神さまが私たちの王様であり、王なる神さまが私たちの必要を面倒見てくださるのです。この世はますます希望をなくし、悪くなるでしょう。欲望、憎しみ、人殺し、嘘、偽りが支配するでしょう。治療できない病気もたくさん出ています。世に勝つのは、こういう罪や誘惑に勝利するということです。神さまは私たちに信仰の大盾を与えてくださいました。イエス・キリストを信じる信仰こそが、悪い者が放つ、火矢を消すことができるのです。イエス・キリストが死と悪魔に勝利しました。私たちも主イエス・キリストに従っていくなら、その勝利を得ることができるのです。

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2012年1月15日 (日)

互いに一つ心になり    ローマ12:15-16

私たちの体にはいろんな器官があります。教会もキリストのからだにたとえられ、いろんな人が組み合わされ、いろんな働きをするように召されています。ローマ12:4-6「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので…」。パウロは教会をキリストからだにたとえて説明しています。キリストがかしらであり、私たち一人ひとりは、そのからだの器官なのです。私たちのからだにいろんな器官があるように、キリストのからだにもいろんな器官があります。その器官とは賜物のことであり、神様から与えられた様々な能力です。私たちには大きく分けて、2種類の賜物があります。1つは生来の賜物であり、努力して得たものや才能が含まれます。生まれつき手先の器用な人もいれば、生まれつき声の良い人がいます。才能に恵まれている人は、あまり努力しなくても、それができるということです。もう1つはイエス様を信じて、新しく生まれた時に与えられるものです。それを聖霊の賜物と言いますが、多くの場合、これまでなかったものが急に現れ出します。どちらにしても、与えられている賜物を用いるならば、効率の上がる働きができるばかりか、あまり疲れません。逆に賜物がないのに、使命感だけでやっていると、効率が上がらないばかりか、疲れる一方です。パウロは私たちに与えられたそれぞれの賜物を用いるように教えています。しかし、その前に、大事なことを教えています。それが、互いに一つ心になるということです。ローマ12:15、16「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。」です。「互いに一つ心になる」という意味は、2つの意味があります。第一は「互いに心を分かち合う」ことであり、第二は「互いに賜物を分かち合う」ということです。

1.互いに心を分かち合う

 第一に互いに一つ心になるとは、互いに心を分かち合うということです。パウロは、「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」と命じています。JB.フィリップスはこの箇所をこのように訳しています。「幸いなことがあった人は、その幸いを分かち合いなさい。悲しいことがあった人は、その悲しみを分かち合いなさい」と訳しています。みなさん、これが神の家族であり、キリストの共同体ではないでしょうか?家族や夫婦の間で、今日、起こったこと、最近考えていることを話し合わないでしょうか?特に楽しかったことや、悲しかったことは分かち合うべきでしょう。ある人が、楽しいことを分かち合えば倍になり、悲しみを分かち合えば二分の一になると言いました。昨年の末、ある姉妹が階段を踏み外して大怪我をしました。礼拝後、クリスマスの飾りをはずしていた時です。日曜日ですから、病院がやっていなくて、救急車の中で長時間待たされました。その知らせを聞いて、みんなが痛みを覚え、祈りました。メーリングリストにも流れ、他の人たちも祈りました。元旦の礼拝に見えられたとき、みんなが「大変だったねー」と励ましました。教会はキリストのからだにたとえられています。小指を椅子の角にぶっつけときはどうでしょうか?「うぁー」と口で叫び、その痛みが全身に走り、涙が出ます。指でさすったり、冷蔵庫から保冷剤を出してきて、冷やすでしょう。体の全器官が総動員して、痛みに対処するでしょう。「小指だから、まぁ良いか?」という人はいません。もし、そういう人がいたら、凍傷を起こして、足が壊死しているのかもしれません。つまり、互いに一つになるとは、互いに命を分かち合うということです。

 私たちが、互いに心を分かち合うために、妨げになるものがあります。それは、教えたり、さばいたりすることです。「どうして階段から落ちたの!」と言ったらどうなるでしょうか?本人がわざと落ちたのではなく、気が付いたらもう落ちていたのです。しかし、親であったら、自分の子どもこんなことを言うかもしれません。「どこ見ていたの?ぼっとしてたんだろう!」と叱ったり、さらには頭をこづいたりします。本人は既に痛みを味わっているのに、追い討ちをかけるようなものです。妻に対してはどうでしょうか?「なんだよ、こうすれば良かったのに」と忠告したり、教えたりします。1時間くらいたってから、「ああ、痛かったんだよね」と同情します。残念ながら、親しい家族には、それがないときがあるのではないでしょうか?教会内ではどうでしょうか?ローマ12章に7つの賜物がありますが、その中の、教える人、勧める人、預言の人、指導の人は教えたり、さばいたりする傾向があります。慈善の賜物の人は自然に、「ああ、何と大変だったろう」と心から同情することができるでしょう。クリスチャンとして成熟してきますと、「今は教える時ではない、心から同情するときだ」と自制することができます。神の家族、キリストのからだにおいて何よりも重要なことは、「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣く」ことです。

 カウンセリングや心理学では、「共感」とか「傾聴」という用語が用いられます。私も仕事柄、相談や面談を受けたりすることがあります。若い頃はよく失敗しました。会話の途中から割り込んだり、自分のことを語ったり、教えたり、さばいたりしました。人の話をだまって聞いていられないのが、私の性分でした。失敗を重ねてから、いくつかのことを学びました。人は自分のことをだれかに話すことによって、重荷の半分が取り去られるということです。キリスト教会では「聞き屋」と言って、駅前に椅子を持ち出して、だまって聞く奉仕をしている方がいます。でも、人の話を聞くと、怒りや悲しみ、恐れ、不信感…いろんなものを一緒に受けます。向こうは悪いものを吐き出しているので良いかもしれませんが、聞く方は、その何分の一かを受けしまうことになります。ハッピーなことを聞くのならともかく、否定的なことを聞くと、私たちの魂や霊がダメージを受けます。ですから、専門に人の話を聞く人は、いろんな知恵や技術が必要でしょう。でも、ここで言われていることは、友だちの一人として、兄弟姉妹の一人として分かち合いを受け止めるということです。カウンセリングや心理学を学んだ人の欠点は、わざとらしいということです。自然ではなくて、「あなたを治療してやっています」みたいな感じがします。素人の方がかえって、自然で良いのです。たまには「そうじゃないだろう」みたいに反論しても良いのです。もちろん技術も学ぶことは大切ですが、もっと重要なのは神の愛であり、兄弟愛です。昨年、ゴスペルで賛美した歌にBe Blessedがあります。これは、苦しみの中にある兄弟姉妹を励ます歌ですが、その歌詞がとても感動的です。「私はあなたのために祈り続けます。あなたのことを見ておられる神様に頼って良いのですよ。あなたのために祈っている私に頼って良いのですよ。」という歌詞です。私たちは「全面的に頼られたらどうしよう?」と心配します。ところが、神さまがなさってくださる分野と自分ができる分野を分けるならどうでしょうか?そして、私ができる最大のことは、あなたのために祈り続けるということです。祈りによって、神さまのところへ、その人の苦しみや悲しみを運んであげるということです。ですから、私たちができる最大の分かち合いは、その人の重荷を祈りによって、神さまのところへ届けるということです。私たちはその人の重荷を、自分で負うべきものもあるでしょう。分かち合ってもらっても、負いきれないものもたくさんあります。私たちには、神さまがおられるので、その重荷を神さまにとどけることができるのです。私たちの分かち合いは神さま、イエス様を媒介した、分かち合いなのです。

2.互いに賜物を分かち合う

何度か申し上げていますが、ローマ12章は前半が聖霊の賜物、後半はその賜物をどのように用いるか心構えについて書かれています。同じような構造が他にもあります。たとえば、Ⅰコリント12章の前半は9種類の聖霊の賜物について書かれています。そして、12章の後半から13章までは賜物を用いるための心構えが記されています。つまり、「賜物を用いるとき、いろんな問題も起こるので、こういうことを気をつけるのですよ」と教えているのです。その中で、最も起こりやすい問題は、賜物の優劣を競って、仲たがいをしてしまうということです。だから、ローマ12:6でもこのように教えているのです。ローマ12:16「互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。」互いに一つになれない最も大きな障害は高ぶりです。自分の賜物は優れていて、他の賜物は劣っているという考えです。人間の体の器官を考えるとどうでしょうか?人間の体で最も重要で、最も高ぶって良い器官はどこでしょうか?右腕でしょうか?サッカー選手だったら足でしょうか?やっぱり、心臓だと答えるでしょうか?いや、脳が一番大切だ。料理人にとっては舌だ。ピアニストにとっては指だ。ある人にとっては腎臓かもしれないし、肝臓かもしれません。生命に関わる器官は確かに重要です。でも、他の器官が失われたなら、とても不便に感じるでしょう。目は体の中で最も弱い器官です。この目が失明したなら、生活の幅が大きく減ってしまうでしょう。では、耳だったら良いのでしょうか?耳が聞こえないと、人との会話が制限されます。Ⅰコリント12章で何と教えているでしょうか?Ⅰコリント12:21-25「そこで、目が手に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うことはできないし、頭が足に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うこともできません。それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。」

 アーメン。教会の中で一番、目立って格好のよい賜物は何でしょうか?こうやって話している牧師の賜物と勧めの賜物かもしれません。いや、賛美の賜物と言うかもしれません。実際、アメリカでは賛美をリードしながら、メッセージを語っている人もいます。あるいは、みんなの前で預言したり、癒しのわざをする人でしょうか?分け与える賜物や指導の賜物も目立ちます。ここに億万長者が来られて、「10分の1を捧げます」と言ったら、嬉しいんじゃないでしょうか?では、奉仕の賜物や慈愛の賜物はどうなるでしょうか?補助や管理、もてなしの賜物は不必要なのでしょうか?すべての賜物で最も多いのは、奉仕の賜物と言われています。最も少ないのは、牧師とか預言者です。もし、この教会に30人の牧師の賜物がいたらどうなるでしょう?私はいっぺんに失業してしまうでしょう。でも、奉仕の賜物が多いのはなぜでしょう?牧師が持っている勧めの賜物はいわば口であります。口は体の中で一個で良いのです。それよりも、腕や手、足、目など実際に動いてくれる多くの器官が必要なのです。私たちはキリストのからだなる教会における、かけがえのない器官なのです。問題は、自分の役目を知っているかどうかです。また、奉仕というのは教会という建物の中だけではありません。みなさんが毎日、触れている人々や会社、家庭などのコミュニティで発揮されるべきものなのです。イエス様の地上での生涯はどのようだったでしょうか?町々や村々に出かけ、教え、癒し、助け、様々な必要を満たしてあげました。もちろん、生活のために仕事をしているかもしれません。しかし、その中に「キリストの愛をもって人々に奉仕をしているんだ」という要素があることを忘れてはいけません。こうやって集まる日曜日の奉仕も重要ですが、月曜日から土曜日までの、日常の奉仕も重要なのです。

では、何のために賜物を用いて、奉仕をするのでしょうか?それは神の国をもたらすためです。なぜなら、イエス様は神の国をもたらすために、地上で働いたからです。同じ勤めをイエス様は教会に与えておられます。なぜなら、教会はキリストのからだだからです。昨年、役員会で「当亀有教会の理念は何なのか?」いろいろ話し合われました。神さまはこの地上にたくさんの教会、ローカルチャーチの存在を許しておられます。ローカルチャーチ、地域教会は普遍的教会の代表であります。私は、神さまは、1つの地域教会で全部をしなさいとは命じておられないと信じます。1つ1つの地域教会にも賜物と召命があります。究極的な目標は、1つなのですが、地域教会によって賜物が異なります。特に、どんな牧師がそこに配属されているか?どんなリーダーがそこに配属されているか?また、どんな人々が集っているか?工場地帯なのか?農村部なのか?あるいは商業地域か?住居地か?土浦とかつくばに行くと、研究機関に勤めている方が多くいらっしゃいます。緻密で理論的な人が多いと思います。TGC、土浦ゴスペルクワイヤーのメンバーを見ますとそういう感じがします。歌う曲を録音し、自分たちで一生懸命、練習し、全部覚えています。そこへ行くとこの葛飾区亀有はどうでしょうか?両さんや寅さんに代表されるように、ちょっといい加減で、ちょっと人情に篤い。とても面白いんだけど、底知れない力知を備えている。神さまは亀有教会がどのように伝道牧会したら良いのかご存知です。そして、他の教会とは違った、賜物と召命を用意しておられると信じます。でも、私がどうしても曲げられないものがあります。それは「御国をもたらす教会です」。セルチャーチになるとか、セルチャーチどうのこうのは申しません。この地に御国をもたらす教会です。主の祈りでも「御名があがめられ、御国がきますように」と祈ります。ですから、聖書的であると確信します。では、どのように、この地に御国をもたらすのでしょうか?それはキリストのからだなる教会においてです。キリストがかしらで、私たち一人ひとりは器官なのです。そのために、神さまから与えられたそれぞれの賜物と召命を差し出し、それを組み合わせる必要があります。

 もう一度、本題にもどりますが、互いに一つになれない最も大きな障害は高ぶりです。では、どうしたら高ぶりを排除して、一つになれるのでしょうか?JB.フィリップスはこの16節を「他の人とハーモニーを持って生活しなさい。上流気取りしないで、普通の人に興味を持ちなさい。自分の意見だけを主張しないように」と訳しています。ハーモニーという考えはとても重要です。ハーモニーとは調和という意味ですが、音楽でもよく用いられます。違う音色どうしが、組み合わされて1つになるということです。ソリストも悪くはないですが、合唱やオーケストラの方が迫力があります。そのためには、自分の賜物を知り、そして他の人と協力するということです。協力という漢字はとても聖書的です。十字架のもとに、力を組み合わせるということです。年末に大学のチアリーダーのコンテストがありました。一人ひとりバク転やバク宙ができます。さらに、組み合わせ体操みたいなことをします。上がるとき、ひねりを加えながら、他の人から持ち上げられます。口で説明しても分からないかもしれませんが、持ち上げられ腕の上に止まるのが最も難しいんです。バランスを崩して、落ちるチームが何組もありました。同じのを3つ作るのですが、1組が崩れると失敗になります。チームワークってとても難しいと思いました。教会もチームワークが必要です。そういっている私は、チームワークが非常に苦手で、スポーツはみんな個人競技が好きでした。学校では、バレーボール、サッカー、ラグビー全部ダメでした。唯一、ソフトボールは打つことだけが好きでした。こういう人が、チームワークだというのですから、矛盾があります。つまりこういうことです。生まれつきの肉においては個人プレーが好きです。しかし、霊においてはチームワークでなければならないということです。なぜなら、私たちはキリストのからだにおける大切な器官だからです。一人で「御国が来るように」と、働いても限界があります。ちょっと腰が痛い人を癒すくらいしかできません。癒しも重要ですが、御国には、たくさんの働きがあります。どうぞ、違う賜物、違う性格の人を排除しないで、ハーモニーを持つことを考えましょう。ハーモニー、調和は、違う者どうしが組み合わされることです。違う者どうしが組み合わされることによって、ダイナミックな働きができるのです。隣の人に「あなたと私、違うから良いのですね」と言いましょう。「あなたと私、違うから良いのですね」。アーメン。

 もう一つ高ぶりによる争いは、同じ賜物同士に起こることがよくあります。たとえば、腕は右腕と左腕があります。片方が利き腕で、片方は支える方です。目も2つあります。耳も2つあります。他に肺や腎臓、生殖器など2つあります。なぜ、同じものが2つあるのでしょうか?1つの理由はスペアです。1つ何らかの理由で働けないとき、もう片方がその代わりをするというものです。鼻の穴が片方つまってたら、もう片方があります。それでもダメだったら口があります。目や耳が2つあるのは、スペアのためだけではありません。2つあるのは距離感が分かるためです。また、1つの器官が働いているとき、もう1つの器官が休むというのもあるようです。交替交替で働くということです。教会でも同じ賜物があるとどうでしょうか?賜物が同じだと優劣がはっきりします。どっちが上手かどっちが下手か分かります。そして、同じ賜物の場合、とても気になります。ある場合は、対抗意識を持ってしまいます。私も他の牧師が説教すると、「釈義的にどうなのか、構成はどうなのか」と、コンピューターが動き出します。ライバル意識を持ったり、ある場合は、「おお、この人にはかなわない」と敬服したりします。でも、どうして教会内に同じ賜物があるのでしょうか?それは体の器官と全く同じです。1つはスペアーとして、交替交替で働くためです。1人が疲れたら、他の人が支えるということが必要になるでしょう。でも、もう1つの理由は、キリストのからだなる教会の働きを拡大するためです。葛飾区亀有の奉仕だったら同じものはそんなに要らないかもしれません。しかし、年齢別、地域別、あるいは対象が異なる場合は必要になってきます。神さまは「生めよ。増えよ。地を満たせ」と命じられました。「御国が来るように」とは、亀有だけではなく、首都圏、あるいは日本全国に拡大することを意味しています。イエス様は弟子たちにこうお命じになられました。使徒1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」エルサレムが亀有だったら、ユダヤは首都圏でしょうか?サマリヤは日本、地の果てとはまさしく世界であります。御国が拡大するように1つ心になって、与えられた賜物を用いていきたいと思います。

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2012年1月 8日 (日)

望みを抱いて喜び    ローマ12:12

新年のメッセージはローマ12章から語っています。12章の前半はおもに神さまの賜物について書かれています。そして、12章後半はそれらの賜物を動かすための心構えについて書かれています。心構えとは、私たちの気持ち、態度ですから、私たちに責任があります。元旦では、熱心さを保つことを学びました。そして、本日は希望を保つことについてお話したいと思います。希望はまるで風船のようなものです。膨らむ時もあれば、縮むときもあります。また、あるときは、バーンと破れてしまう時もあるでしょう。みなさんの希望の風船は膨らんでいるでしょうか?それともしぼんでいるでしょうか?

1.望みを抱く

もう一度、ローマ12:12をお読みいたします。「望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。」原文を直訳したある聖書はこう訳しています。「希望の中で喜び、苦しみの中で耐え、祈りの中でぐらつかず辛抱するように」と。in hope, in affliction, in prayerと語呂合わせしています。「希望の中で喜ぶ」と訳すならば、希望がなければ喜べないことになります。私たちは色んなことを望み、色んなことを希望して生きています。「将来、ああいうふうになれたらならなー」と憧れます。「いつか、あれを持ちたい、あれを買いたい」と望むかもしれません。「お年玉もらったら、あれを買いたい」とかあったでしょうか?あるいは、「こういうふうになったらなー」と何かを目指すかもしれません。すると、自然と喜びがわいてきます。夢や希望を抱くことはとても楽しいことです。しかし、現実はどうでしょうか?箴言13:12「期待が長びくと心は病む。望みがかなうことは、いのちの木である。」望みがかなえられたら、うれしくて喜びいっぱいになります。しかし、なかなかそれが叶えられないと心が病んでしまいます。心が病むとは、おそらく、失望落胆するということでしょう。失望落胆がひどくなると、鬱になったり、自ら命を絶つ場合もあります。残念ながら、多くの人が失望落胆でやられています。日本の牧師たちも例外ではありません。教会がなかなか成長しない。あれだけやったのに、ビジョンが実現しない。日本で一番多い教会の人数は、20名台だそうです。30名いかなくて、苦しんでいます。サタンが一番、用いる道具は何でしょうか?何千年も、この道具を使って、神の人さえも倒してきました。人々を倒せる最も成功率の高い道具とは何でしょう?それは「失望落胆」です。何度も、何度も、その道具を用いているので手垢がついて汚れています。

みなさんの中でも、長い年月、チャレンジしてきたのに思いどおりならなかった。「ああ、もうやめてしまおうか?」「もう、諦めてしまった。」「もう、その話はよしてくれ。」そういうものはないでしょうか?どうして、私たちは思い煩ったり、イライラするのでしょうか?それは目標の立て方に問題があるからではないでしょうか?「ああなったらいいなー、こうなったらいいなー」と、私たちはいろんなことを望んだりします。何故、思いどおり行かないのでしょうか?それは、自分の思いどおりにならないことを望んでいるからです。私たちは自分の思いどおりにならないものと、自分の思いどおりになるものとを分ける必要があります。自分の思いどおりにならないものとは、他の人が噛んでいる望みです。たとえば、子どもがこうなったら良いのに?妻あるいは夫がこうなったら良いのに?牧師だったら、教会がこうなったら良いのに。国がこういうことをやってくれたら良いのに。これらのものは相手がいますので、自分の思いどおりになりません。子どもも夫や妻も、教会員すらも、自分の敵になります。自分のやりたいことを邪魔するかもしれせん。人を動かしたり、人を変えるということはものすごくエネルギーを費やします。そういうことをしている人は、いつも思い煩ったり、イライラして過ごしているでしょう。私たちは目標を他の人が噛まないものに変えるべきです。だれも、邪魔することができない望みとは、自分に関することです。柔和で良い母親になることはだれも妨げることはできません。自分が忠実な会社員になることは、だれも妨げることはできません。自分が神さまと人々を愛する牧師になることはだれも妨げることはできません。私たちは境界線を超えて、他の人の責任、他の人がやることにクビを突っ込んでいる可能性があります。そうです。境界線を設け、自分の思いどおりになるところから始めるべきです。「ヤベツの祈り」というのがありました。Ⅰ歴代誌4:10「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」彼は、「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように」と祈っています。もし、神さまが地境、境界線を広げてくださるならば、その範囲まで関われば良いのです。地境を超えて何かをすると、コントロールになり、軋轢が生じるでしょう。神さまが広げてくれた分だけ、やれば良いのです。そうすると苦しむことがぐっと減るでしょう。どうぞ、自分がどんなことを望んでいるのかチェックしてみましょう。

私は現在、2つのことに首を突っ込んでいます。1つはJCMNセルチャーチネットワークで、もう1つは常磐セルです。セルチャーチを目指しても、なかなかセルチャーチになりません。教会員を動かそうとしても難しいですね。数年前、台湾から来た奉仕者にケチョンケチョンに言われたのがトラウマになっています。心の奥底からやる気が出ないというか、苦しいというか…。セルチャーチのコーチングも惰性でやっているという感じです。来週は全国のコーディネーターの会議が大津であるのですが、今年は行きません。去年は冬の京都見物がてら行きましたが、今年は予算的にも無理です。また、1月17日から3日間のセミナーがあり、亀有教会が会場になっています。牧師自らが音響をやり、賛美をし、司会もするので、みんなから馬鹿にされています。ちょっと憂鬱です。また、常磐セルですが、1月末、万座温泉でリトリートあります。題名が「主の愛と温泉につかろう!」なんですが、今年は申込みが本当に少ないのです。40名バスに乗らないと貸切バスが出ません。今のところ、申込みが12名です。昨年は地震もあったので、その影響があるのかもしれません。私も皮膚が治らないので、温泉に行きたくないのです。これもちょっと憂鬱な要素です。この間、家内にボロッと愚痴を言ったらこう言われました。「あなた何でもやるからでしょう。どうして断れないの!」。「ああ、そうなんだよなー」と答えました。セルチャーチは、小笠原先生のもとでやっています。関東のコーディネーターです。常磐セルは尾山謙仁先生のもとでやっています。副幹事みたいなものです。最近は李光雨先生のセミナーの書記みたいなものもやっています。「なんだかなー、性格なのかなー」という感じです。私も日本人の一人で「しがらみ」みたいなもので縛られているのでしょうか?昨年を表す漢字は、「絆」だったようです。「絆」、確かに大切なものです。でも、日本の場合は、甘えとか、くされ縁、あるいは「しかなたくて」という要素も入っているかもしれません。何が言いたいかと申しますと「境界線」「地境」であります。自分の責任、自分がやるべきことがあります。しかし、他の人の責任、他の人がやるべきことにクビを突っ込んでいる場合もあるかもしれません。そうすると、他の人の悩みが自分の悩み、他の人の失望が自分の失望になる恐れがあります。もう一度言います。自分がどんなことを望んでいるのかチェックしてみましょう。人に○○してもらいたい。人に○○して欲しい。これは他の人に関する希望です。そういう希望には多くの抵抗が伴うでしょう。そうではなく、自分に関する目標にしたらどうでしょうか?良い夫、良い妻、良い牧師になるためにはどうしたら良いでしょう。朝30分散歩することはだれも邪魔できません。30分家事を手伝うことはだれも邪魔できません。30分聖書を読んで祈ることはだれも邪魔できません。どうぞ、自分の思いどおりなる範囲から始めましょう。そうすると、神さまが祝福して地境を広げてくださるでしょう。そうしたら、望みも広くなり、喜びも大きくなるでしょう。

2.望みを抱いて生きる

後半は望みを抱いて生きるにはどうしたら良いか、4つのポイントでメッセージをお届けしたいと思います。第一は刺激を受けるということです。年を取るとだんだん感動がなくなります。また、「何をやってもおんなじ」みたいに、保守的になります。そうすると、希望もなくなり、やがては失望落胆の沼にはまりこんでしまいます。私たちは努力してでも、色んなものを見たり、どこかへ行ったり、人と会ったりして刺激を受ける必要があります。ご自分がやっているものと違う、全く畑違いのところからも学ぶ必要があります。そうすると、感動とともに、希望がわいてきます。「あんな風になれたらなー」「こんな生き方があるのか」「ああ、こんな世界があるのか、すごいなー」。そうすると自然と希望がわいてきます。昨年の11月、家内と白樺湖に行きましたが、そこに「世界の影絵・きり絵博物館」がありました。八ヶ岳を背景にしたメルヘンチックな、それも大きな切り絵でした。いや影絵というのかもしれません。後ろからライトアップされて、切り絵が浮かび上がる幻想的なものでした。近くに寄るとものすごく繊細であり、すべて剃刀の刃で切ったものでした。「うぁー、小さなものでも大変なのに、こんな大きなものを!なんと根気がいる作業だろう!」と感動しました。どこかへ出かけて何かを見る、とても良いことです。また、私は牧師として、積極的な考えを与える本を多く読みます。アメリカのジョエル・オースチンは毎週、数万人の会衆の前で語っていますが、本当に希望を与えるメッセンジャーです。「積極的思考か?」と蹴飛ばさないで、読んでみるのです。また、いろんなセミナーにでかけ、うまくいった人の話を聞きます。多くの牧師たちは、立場が違うとか、ねたみも加わって、そういうところに出て学ぼうとしません。私たちは、一生学びです。謙遜に、だれからも学ぼうという心構えが必要です。すると、何か刺激を受けて、希望がわいてきます。テレビのアンビリーバブルという番組、所さんのダーツの旅、何でも良いです。とにかく、感動して刺激を受けることです。そうすると、希望の灯がぽーっと燃えてきます。

第二は希望の灯を簡単に消さないということです。希望は日本語で「まれな望み」と書き、「めったにないことを望む」というニュアンスがあります。ですから、「これをしようかな」「こうなりたいな」「こうありたいな」と望んでも、ぱっと消えてしまいます。希望は現実という水をかけられるとすぐ消えてしまいます。多くの人は「現実は厳しいかなー」「現実の壁は厚い」とか言ってすぐ諦めます。この間、テレビで、子どもに対してのインタビューを見ました。アナウンサーが子どもに「クリスマスプレゼントで何をもらったの」と聞きました。すると「望遠鏡」と答えました。「何を見るの?」と聞いたら、その子は「宇宙」と答えました。「わぁー、すごいなー」と思いました。さらに、子どもに「将来何になりたいの?」と聞きました。すると、「床屋さん」と答えました。床屋さんが悪いわけではありません。「普通は、宇宙飛行士だろう。何だか夢がないなー」とがっかりしました。マタイ福音書でイエス様はこのようにおっしゃいました。マタイ12:20「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは」。折れかかっている葦、くすぶっている燈心なんか、どうでも良いだろう?そうではありません。イエス様はくすぶっている燈心を消すことをなさらないのです。みなさんは、「ほくち」というものを知っているでしょうか?「火の口」とかいて「ほくち」ですが、サバイバルでよく使います。摩擦で火を起こしたり、火打石で火を起こしたりします。ほくちは、半分、炭みたいになった麻や植物の茎です。「ほくち」は小さな火ですが、馬鹿にできません。それがないと火を起こすことができないからです。希望の火も「ほくち」のようなもので、その火種がないと、信仰も生まれないのです。希望と信仰は兄弟みたいなものであり、希望が信仰になるのです。どうぞ、心に生まれた希望を消さないで、それが信仰になるまで燃え立たせましょう。

第三は耐え忍ぶということです。ローマ12:13「望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい」とあります。大きな夢や希望には、大きな試練が伴います。たとえば、ある人が音楽家として生きるとなったら、それは険しい道です。また、ある人がサッカーの選手になると思ったなら、それも険しい道です。今はお笑いがブームですが、お笑いで生きるということも、大変な道です。何千人、何万人の中から一人生き残るような確率です。浮かんでは消え、浮かんでは消える世界です。昨年、パンクブーブーと言うコンビが、漫才で優勝したようです。彼らがコンビを結成したのは2001年です。10年かかっています。下ずみ生活で終ってしまう人がほとんどでしょう。日本語の聖書は「患難に耐え」ですが、英語にはいろんな訳があります。「苦しみの中における辛抱」あるいは「困難の中で堅く立つ」とも訳されます。私が子どもの頃、若乃花というお相撲さんがいました。体は小さいけど、強い横綱でした。若乃花は「人間、辛抱だ」と言いました。稽古場に「辛抱」と書いてあるのを見た記憶があります。直接、行ったわけではなく、何かの映像です。「我慢するとか、辛抱する」というのは、現代人が失っている心構えではないでしょうか?何でもインスタントリーで、苦労しないで手に入るものを求めます。時間がかかったり、面倒なものは、ポイと捨てます。やっぱり、一度、「こうしよう」「こうしたい」と望んだなら、簡単に捨ててはなりません。私も人にはこうやって偉そうに言っていますが、もうひどいもんです。中学のとき、ブラスバンド部は1週間でやめました。トランペットの人が多くて、トロンボーンに回されたからです。陸上部は1週間でやめました。高校ではボクシング部を半年でやめました。最初のデビュー戦で、TKOで負けたからです。長続きしているのは、キリスト様を信じる信仰です。これだけは、長続きしています。牧師も続けてやっています。昨年、私が親しくしていた牧師は数名やめました。みなさん、単なる希望だと花火のように消えてしまうでしょう。しかし、神さまから来る希望もあります。ピリピ2:13「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」これは、新共同訳ですが、神さまが私たちの内側に働いて、望みや願いを起こさせるということです。使徒パウロは異邦人の伝道に召された人です。パウロの心の中に、いつかはローマに行って伝道したいという思いがありました。すると、ある夜、イエス様から「あなたがエルサレムで私を証をしたように、ローマでも証をしなければならない」と言われました。パウロは囚人としてローマに向かいましたが、パウロが乗った船が大嵐に巻き込まれました。使徒27:20「太陽も星も見えない日が幾日も続き、激しい暴風が吹きまくるので、私たちが助かる最後の望みも今や絶たれようとしていた」とあります。でも、夜、御使いがパウロに現れ「恐れてはいけません。パウロ、あなたは必ずカイザルの前に立ちます」と言いました。パウロは数多くの苦しみや試練に会いましたが、ローマのカイザルの前に立ちました。ですから、私たちは、それが神さまからいただいた希望であるなら、簡単に手放してはなりません。なぜなら、神さまが共にいて実現させてくださるからです。

 第四は究極的な希望を持つということです。みなさん、この地上では思いを成し遂げられないことがたくさんあります。「思い半ば」でということもあるかもしれません。昨年の3.11東北大震災で2万人以上の人々が津波に飲み込まれました。テレビで歯医者さんが身元を確認するために働いた映像を見ました。その歯医者さんは、歯を見るとその人の生活が大体分かると言っていました。ある小学生は虫歯が一本もありませんでした。「よっぽど両親から大事にされて育てられたんだろうなー」と言いました。ところが、その両親も津波に飲み込まれて死んでいたことがわかったそうです。本当に、それを見て、やるせない思いをいたしました。東北大震災のことを抜きにして、希望を語ることは可能かもしれません。しかし、亡くなった一人ひとりには、いろんな人生があり、いろんな希望があったのだと思います。日本では無念とか無常と言うかもしれません。本当に人間的には、何も言うことはできません。しかし、聖書から言うならば、究極的な希望は御国であり、復活にあります。イエス・キリストは「神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と言われました。悔い改めるとは、方向転換するということです。この世の人たちは、まことの神を否定し、滅びに向かっています。神様は、救いの道をキリストにあって備えてくださいました。この地上に生まれたすべての人は、津波に飲み込まれないかもしれませんが、死に飲み込まれてしまいます。死はすべての人に臨む、最も恐ろしい津波です。しかし、イエス・キリストは十字架で私たちの罪を贖い、3日目によみがえりました。キリストを信じる者は、たとえ死んでもよみがえることができます。それだけではありません。神さまは、私たちに神の国を用意しておられます。そこは「死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」永遠の御国です。私たちはこの地上で生きているうちに、死ぬ前に、キリストを信じて、御国に入る必要があります。これがキリスト教の究極の希望です。永遠の御国、復活こそが、私たちの究極な希望です。2年くらい前でしょうか?私は李光雨師からカウンセリングを受けました。小学校5年生のとき、郵便局に並んでオリンピックの記念切手シートを手に入れました。あるとき、上の兄が俺にくれと言って、切手の引っ張り合いになりました。兄が切手をぐちゃぐちゃにしたので、私は大声で泣きました。すると、傍で見ていた父が、「こんなものがあるからだ」と言って、薪ストーブの中にくべました。傍に父がいたのに、ちゃんと治めてくれませんでした。それ以来、切手収集、いや、すべての収集をやめました。「翻弄される中で、なんとか生き延びること」これが私の世界観でした。しかし、三郷の「嵐の湯」という健康ランドから、車で帰る途中です。タオルを忘れていたことに気がつきました。「あー、タオルか。保管してくれるだろう。ま、なくてもいいや」と思いました。その瞬間、「がー」っと来ました。「私が失ったすべてのものは、御国にある」という思いが来ました。そこには、切手もあると思いました。これまで得られなかった、たくさんのものが、御国にある。それを考えたら、車の中で運転できないくらい嗚咽しました。御国に行ったら、早産で失った子どもにも会えるでしょう。地上で失った、目も足も腕も取り返すことができます。私たちは子どものときから、多くのものを失いました。喪失のトラウマというものがあります。だから、新たに希望を抱くことができないのです。でも、大丈夫です。私たちが失ったすべてのもの、いや、それよりもすばらしいものが御国にあります。私たちは「御国が来ますように」と祈ります。また、キリスト教会は一人でも多くの人が御国に入るようにと福音を宣べ伝えるべきであります。救霊、福音宣教こそが教会の第一の使命であり、希望だからです。

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2012年1月 1日 (日)

霊に燃え主に仕えよ   ローマ12:11

新年明けましておめでとうございます。今年は元旦礼拝と聖日礼拝を合体しました。第一礼拝の方も、CSの子どもたちも一緒に「10時半から礼拝を捧げよう」ということになりました。よろしくお願いします。昨年、聖務表に「こういうメッセージをしようかなー」と予定しておきました。しかし、年末、考えるところがあって、1月1日、8日、15日とローマ12章からのメッセージに変更させていただきました。やはり、元旦礼拝は1年の基調となるような、貴重なメッセージになりますので、それなりの準備をさせていただきました。

1.熱心さとは

もう一度、ローマ12:11をお読みいたします。「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」原文には「勤勉」という言葉にあたるものはありません。もし、ローマ12:11を原文に忠実に訳すならこうなります。「熱心さを衰えさせず、聖霊に燃やされて、主に仕えなさい」となります。他の英語の聖書でもそうですが、「熱心さ」をどうこうするのは私たちの責任だということです。また、霊的に私たちを燃やさせてくださるのは、聖霊であります。つまり、熱心さを保つ責任は私たちの側にあり、同時に聖霊の助けも必要だということです。熱心さというのは、とても重要な私たちの心構え(態度)であります。私たちは熱心なセールスに負けて、ついつい買ってしまうことはないでしょうか?これは韓国の牧師から聞いた話です。その牧師が子どもの頃、薬売りが村に回ってきたそうです。ヘビとか猿とか一緒に連れてくるので、物珍しくて人々が空き地に集まってきます。「子どもはあっちへ行け、商売の邪魔だ!」と追い散らされます。そして、大人たちに向かって「これを飲むと元気が出るよ。1週間後に効果が出るから試してごらん。絶対に効くから!」と売っていました。多くの人がそれを買っていきました。同じ時間、広場の反対ではキリスト教の一人の伝道師が「悔い改めて、キリストを信じなさい」と朝から夕方まで伝道していました。しかし、そちらの方にはだれも行きません。1週間ずっと、空き地の片方では薬売りが商売し、空き地のもう片方では伝道師が伝道していました。最後の夕方になり、薬売りが品物を片付けながら、伝道師にこう言ったそうです。「伝道師さん、私が売っている薬は偽物ですが、みんなが買っていきます。あなたが語っているお話は本物かもしれないけど、だれも聞きません。なぜでしょう?私は偽物を本物であるかのように売っています。しかし、あなたは本物を偽物であるかのように語っています。1週間たったので、次の町へ行きます。さようなら」。伝道師が足りなかったのは熱心さでした。熱心であれば、たとえ偽物でも本物みたいに見えるということです。キリスト教の異端と言われるグループは非常に熱心です。私たちの2,3倍も熱心なので、多くの人たちがそちらの方に行きます。最近は、新天地という異端が教会に入り込み、自分たちのグループに連れて行っているそうです。とても熱心な上に、愛に満たされているので、フラフラと行ってしまうのです。

熱心さは、昨年の私に欠けていたものです。色々やったけど、うまくいかない。日本中の牧師が、「どうやっても教会が成長しない」と閉塞感(行き詰まり感)を覚えています。教会に若者がいません。子どもたちも来ません。平均年齢が60歳-70歳という教会がざらにあるそうです。牧師も高齢化して、後継ぎがいないため大変困っています。人は年を取ると自然に熱心さがなくなります。私もどういう訳か熱心さがものすごくなくなりました。生理学的にいろいろ調べてみました。これは、聖書と違い、絶対的なものでありませんので、参考までに聞いてください。30代になると創造力ががくんと落ちます。クリエィティブ、物を創り出す頭脳は20代後半で衰えます。40代になると体力ががくんと落ちます。立ち上がるとき、「どっこいしょ」と言ったら、赤信号です。50代になると記憶力ががくんと落ちます。「あれあれ、あの人」と代名詞で言うようになります。60代になると気力ががくんと落ちます。70代になると精力ががくんと落ちます。80代になると骨密度ががくんと落ちます。骨粗鬆症(こつそしょうしょう)と言って、骨がもろくなって骨折しやすくなります。90代になると意識ががくんと落ちます。記憶が飛ぶようになり、自分がだれかも分からなくなります。これが生身の人間です。私ももうすぐ60なので、気力ががくんと落ちる世代に入ろうとしています。この教会に不任したときは、34歳でしたが、本当に気力に満ちていました。「3年で、この教会が100名になる」と豪語していました。いまだ、それがなっていません。熱心さが失せているのは、そのせいでもあります。100名になったら、「よーし」と頑張れるかもしれません。

でも、みなさん今、言ったことは、生身の人間の話です。聖書ではこれを肉と言います。肉というのは、クリスチャン、ノンクリスチャン関係なく作用するものです。しかし、私たちは肉に逆行する聖霊の力があります。聖霊に満たされていたなら、気力や体力の限界も気にせずに生きられます。旧約聖書ではカレブが良い例です。カレブとヨシュアだけが、約束の地に入ることができました。他の人は不信仰のためみんな荒野で死んで、その人たちの子どもが約束の地に入ることができました。約束の地と言っても、そこには先住民が住んでいました。戦って、彼らを追い出さなければそこに住むことができません。ある者たちは臆病風に吹かれて、妥協しましたがカレブは何と言ったでしょうか?ヨシュア14:10-12「今や私は、きょうでもう八十五歳になります。しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。あの日、あなたが聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。」カレブは85歳でしたので、人間的にはもう老人です。しかし、カレブの中には熱心な信仰がありました。体も壮健で、戦争にも耐えられると言いました。カレブは私たちの模範です。普通だったら、隠居して、老人クラブにでも入っている年です。しかし、「あの日に約束されたこの山地を私に与えてください」とリベンジを誓っています。彼は45年間、荒野にいましたが、その熱心な信仰は衰えていなかったのです。

この世では、「最後は気持ちだ」とか、「心が折れないことだ」と良く言います。ところで、明日の2日、3日と箱根駅伝があります。一番、面白いのは五区の山登りです。後ろだった選手が、5人、6人も追い抜いてトップに出るシーンを見ると興奮します。「山登りの神」とか言っちゃったりしますが、それだけ除けば、すばらしいものです。また、最後のゴールのシーンも見ものです。実力は同じでも、最後は気持ちです。心が折れたらダメなんです。マラソンでは追い抜くとき、一機に追い抜くそうです。20~30メートルくらい離すと、相手の心が折れて、「もう、だめだな」と思うのです。何をやるにしても、最後は気持ち、気力の問題です。日本の教会は、なかなか成長しません。2000年前後には、「ああ、日本にもリバイバルが来る」とみんな希望をもってやっていました。しかし、2010年になっても、何も起こりません。弟子訓練もダメだった。セルもダメだった。あれもやったけど、これもやってみたけどダメだった。日本の牧師のほとんどは、無気力になっています。ある人たちは、鬱とか燃え尽きのために、医者のお世話になっている人もいます。有名なハワイのウェイン・コディーロも鬱になったことがあるそうです。ウェイン・コディーロ牧師はとっても明るく、積極的で、何においても熱心な人です。何故、そんな人が鬱になったのでしょう?ある本の中でこうおっしゃっています。カルフォルニアに樹齢1000年、高さ80メートルにもなるセコイヤの木が群生していました。ところが、数年前、その木がごう音とともに倒れてしまいました。ヨセミテ公園ではそういうことが度々あるので、専門家が来て調査しました。あんなに堂々としていた木が、なぜ突然倒れてしまったのでしょう?暴風も、火災も、洪水も、落雷でもありませんでした。倒れた木を調べても、動物や虫によるダメージを受けた形跡はありません。しかし、調査を続けた専門家たちは、驚くべき結論に達しました。原因は、ハイカーの通行だったのです。長年にわたって、木の根元を大勢の人が歩いたために根が傷ついてしまったのです。今では、巨木の根の周りに囲いを作って守っているそうです。私たちもまた、壊れ易い根を持っているということです。それを聖なる囲いと呼んでいます。私たちの根っこを守らないと、身体的、精神的、あるいは道徳的な破綻が突然やってくるかもしれません。長い年月を通して、少しずついのちを縮め、人格をむしばみ、自分が何者で、どうあるべきかという核となる部分が壊れてしまうかもしれません。

2.熱心さを保つため

では、どうしたら私たちは「熱心さを衰えさせず、聖霊に燃やされて、主に仕える」ことができるのでしょうか、4つあげたいと思います。第一は日々のディボーションです。落ち込んでいたウェイン・コディーロは聖書に出てくるいろんなメンター(霊的な父)に会いました。ヨセフも牢獄に入れられて2年間、忘れ去られてしました。エリヤは失意のどん底に沈み、力を失ったことがあります。エレミヤもみんなから捨てられてしまいました。ウェイン・コディーロは自分に鞭を打つように、メッセージをし、ミニストリーをしていましたが、もう限界でした。しかし、ひとつだけ彼がやめなかったことがあります。それは、日々のディボーションです。ディボーションが彼の人生を救ってくれたのです。ディボーションとは、毎日、聖書を読んで、教えと励ましをいただき、神さまと交わることです。毎日、どういうものが私たちの根っこを踏ませているのでしょうか?毎日の通勤、果てしなく続くメール、携帯メール、電話、騒音、おしゃべり、渋滞。人ごみ、駆け引き、テレビ、近所の犬、請求書。心配事。責任。締め切り。山のような雑用。子どものわがまま、壊れた人間関係。これらの「通行人」は私たちの上にのしかかってきます。ほとんどの場合、それを避けることはできません。必要なのは、最も大切な部分を守ることです。それは、私たちを創られた方とつながる魂の部分を守ることなのです。日々のディボーションという習慣によって、自分の根の周りに聖なる囲いを築くことができます。一年の計は元旦にありと申しますが、どうぞ、2012年、毎日、聖書を読んで祈るということを実行しましょう。せめて、週3日でも構いません。榎本保郎先生は「5分聖書を読み、5分瞑想し、5分祈る」という、15分運動を提唱しました。一日24時間、1440分の中から、15間分裂くことは不可能でしょうか?

どうしたら、「熱心さを衰えさせず、聖霊に燃やされて、主に仕える」ことができるのでしょうか?第二は、熱心になれないときもあることを認めるということです。矛盾しているでしょうか?私たちの人生、力がどうしても出て来ないときもあるということです。言葉を換えるなら、弱いときもあるということです。神さまは私たちをあえて、そういうところを通らされるのかもしれません。やる気が全くないどころか、鬱になる場合もあるでしょう。ウェイン・コディーロは、「私が鬱になることなんてありえないよ」と言っていました。しかしある時、燃え尽きという仲間を連れてやってきました。なんと、鬱と燃え尽きが一緒にやってきました。残念なことにキリスト教会では鬱は聖書時代のハンセン氏病のように思われています。善意の助言者からしばしばこのように言われます。「罪を告白した方が良いよ」「もっと祈らなきゃ」「教会を変えたら」「信仰が足りないんじゃない」「もっと聖書を読まないとね」。まるでヨブを訪ねて来た友人たちのようです。しかし、聖書には鬱になった人のことがたくさん記されています。詩篇42、43篇には「わがたましいよ、なぜ、お前はうなだれているのか?」という叫びが何度も記されています。あのマザー・テレサもこのように告白したことがあります。「神さまは私を愛してくださっていると教えられてはいますが、現実はあまりにも暗く、冷たく、空っぽなので、私の魂は凍りついてしまいました」。あのエイブラハム・リンカーンもこう告白しました。「私は今、世界で最も不幸な人間だ。…この状態から抜け出せるかどうかは分からない。正直なところ、抜け出せる気が全くしないのだ」。どうして鬱になるのでしょう?長期間にわたるストレス、大きな喪失感、未解決の問題、完璧な仕事へのプレッシャーなどがあげられます。でも、神さまはあえてその時に学ぶべきレッスンを与えておられるのです。主はパウロに「私の恵みはあなたに十分である。というのは、私の力は弱さの中に完全に現われるからである」(Ⅱコリント12:9)と言われました。ということは、私たちが弱いときも神さまがおられ、何かを完成させようとしておられるということです。人生において、熱心になれない、鬱的になるときもあるでしょう。お先、真っ暗なときもあるでしょう。そういう状態でも、主が共におられ、主が私の代わりに働いておられるのです。そうすると逆に、私たちの魂が強められるのです。自分でなんとかしようともがくと泥沼にはまる一方です。しかし、弱さを甘んじて受け、主のふところに安らぐのです。そうすると、主が引き上げてくださるのです。鬱や燃え尽き、弱さもまんざら捨てたものじゃないということです。

第三は何でしょう?それはよく休むということです。ウェイン・コディーロが燃え尽きと鬱から得た中心的な教訓は「よく休む」ということでした。十戒の四番目はこうです。「六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし、七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない」。人間は、神さまから強制的に休めと命令されなければ、休めないとは何と愚かな生き物でしょう?へとへとに疲れ切り、倒れそうになっている時ほど、燃え尽きによる鬱に対して無防備になってしまう時はありません。イエス様でさえ、疲れを感じた時には「寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」と言われました。鬱から立ち直り、回復へと向かい始めるための最初の一歩は休むことです。ウェイン・コディーロはこう言っています。私は自分の行動スケジュールをカレンダーに書き込み、その後で空欄を見つけては「ではこの日に休もう」と決めていました。けれど今は違います。私は今では休息のリズムを作るために、まず初めに休む日を決めてスケジュールに書き込み、その合間に集会やプログラムを入れるようにしました。ですから私が疲れていてもいなくても、休みたいと思っても思わなくても、私は休息を取ります。あるとき私はカヌーで2時間のレースをしていました。カヌーの脇には栄養補給用のジェルがあり、そして背中には水を入れたバッグを背負い、チューブで飲めるようになっていました。するとコーチが言いました。「30分おきにジェルを食べなさい」「コーチ、お腹が空いていなかったら?」「それでも30分おきに食べなさい。そして15分おきに水を3口飲みなさい」「コーチ、喉が渇いていなかったら?」「それでも15分おきに飲みなさい」「喉が渇いていないのになぜ飲むんですか?」「喉が渇いてからでは、手遅れです」。もし喉の渇き具合を基準にしてから水を飲むなら、あなたの体はすでに脱水症状を起こしています。じつは多くの場合、私たちはミニストリーの現場で、喉が渇くまで働いてから飲もうとします。ですからミニストリーで燃え尽きてしまうのです。手遅れです。休むことは、良い仕事をするための、大切な仕事です。

第四は何でしょう?それは、聖霊に燃やされることです。これまでは、心理的なことや肉体的なことを申し上げました。しかし、クリスチャンの究極的な熱心さとは聖霊から来るものです。いくら意識して、熱心になろうと努力しても限界があります。熱心にやっても、あとからガクンとくることがあります。そのためには、聖霊による熱心さをいただかなければなりません。昨年の末、いくつかのゴスペルコンサートがありました。23日はクライマックスで「これで、終ったなー」と思いました。今回は難しい曲が多くて、練習量をいつもよりも増やさなければなりませんでした。自主練習のため、何曲かユーチューブで原曲を聞きました。牧師のような立場のビショップが賛美をリードする曲もあります。ビショップ自身がリードして、ソロで歌っています。何と言う霊力でしょうか?もう、力と賛美が内側からあふれています。呼びかけが、クワイヤーだけではなく、会衆全体に行き渡ります。もう、みんな満たされて、恵まれています。「うぁー、違うなー」と思いました。私たちの場合は、自分たちがなんとか間違わないように歌うという感じです。しかし、本場のものは、熱いものがあふれて、それが人々のところに行きわたるのです。「いやぁー、すごいなー」と思いました。彼らも「おー、ホーリゴーストが、ホーリゴーストが何かしておられる」と言っています。やはり、聖霊による熱いものが、人々に行き渡り、神様を仰がせるのです。昨年は『二つの翼』という学びを終えました。新大久保の教会に300人くらい集まって、朝から晩まで賛美し、祈り、学びました。結構、熱い学びでした。ところが、新松戸リバイバルチャーチの清沢先生は釜山のカンファレンスに教会員を連れて行きました。そして、ご主人の清沢光平先生が、声を枯らして帰ってきました。向こうで叫んで、祈って来たため、声が枯れたのです。そして、私に何と言ったでしょう。「鈴木先生、霊圧が違うよ、霊圧が」と言いました。霊圧?霊の圧力?おそらく、聖霊の臨在が濃厚であるということでしょう。亀有教会は明るくさっぱりした教会です。しかし、霊圧が足りない。私も霊圧が足りない。どこから来るのでしょうか?やはり主と親しく交わり、主に向かって祈りを捧げるということでしょう。簡単にいうと祈るということです。本当の熱心さ、聖霊からくる真の熱心さは祈りしかありません。時代が進み、いろんな便利なものが出てきます。情報がすぐ手に入る時代です。原始的かもしれませんが、神との祈りです。聖霊様からくる熱心さをいただくことです。2012年、霊に燃え主に仕えたいと思います。熱心さを保つためには、いろんな工夫や心構えが必要でしょう。でも、最も大切なことは、祈りです。私たちが祈りをささげることによって、神さまから、聖霊様から、熱心さがやってくるのです。2012年、熱心さを衰えさせず、聖霊に燃やされて、主に仕えましょう。

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