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2011年12月25日 (日)

この方こそ主キリストです    ルカ2:8-20

ただ今、読まれた聖書箇所から、たくさんのクリスマス・キャロルが作られています。ほとんどの讃美歌は、1番、2番、3番と聖書の物語の順番になっています。ですから、クリスチャンにとってはクリスマスのメッセージは、馴染みのものとなっています。語る方も「どこの箇所から語ろうか」と悩んでしまいます。でも、聖書のことばは生きていますので、いつでも新しいメッセージを下さいます。きょうは、「主の使いが何を言い、どんなふうに賛美したか」にポイントをあてたいと思います。

1.大きな喜び

ルカ2:10-12御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」10節に「すばらしい喜び」とありますが、原語では「メガレー」であり、「大きい、巨大な、驚くべき」という意味のことばです。ですから、「大きな喜び」の方が妥当です。また、メガは100万倍という単位でも知られています。今年は、メガ・マックが安く食べられた時がかなりありましたね。ところで、どうして御使いは御子の誕生が、大きな喜びであると言ったのでしょうか?私は3つの意味がここに隠されているように思います。どうして、御子の誕生が大きな喜びなのか?第一は、「きょう」預言が成就されたからです。御子が生まれるという預言は、イザヤ以降の預言者が多く語っています。何百年も待ってきたメシヤが「きょう生まれた」となると、その喜びはいかばかりでしょうか?人間でも10月10日、待って「きょう生まれた」と喜びます。750年も待って、「きょう生まれた」という喜びは、メガ級の喜びではないでしょうか。聖書に「きょう」という言い方が良く出てきます。イエス様はザアカイに「きょう、あなたの家に泊まることにしている」と言われました。ザアカイは時を延ばさずに、すぐ、イエス様をお家にお招きしました。すると、イエス様は「きょう、救いがこの家に来ました」と言われました。ヘブル315「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」とあります。ある人たちは、「明日、信じよう」「いつか信じよう」と決断を延ばすかもしれません。しかし、神さまには、神さまの時があります。神さまが「きょう」と言われたら「きょう」なのです。私たちは「きょう」という日を逃してはいけません。私もいろんな失敗や後悔を重ねて生きてきました。しかし、1979年4月15日、「きょう、今晩、イエス様を信じます」と決断できたことは、人生の最も偉大な成果であると確信しています。結構、失敗してきましたが、そういうものはどうでも良くなります。大切なことを明日に延ばしてはいけません。人生において成功する人は、「きょう」をちゃんと生きる人であります。

どうして、御子の誕生が大きな喜びなのか?第二は、すべての民に与えられるからです。10節には「この民全体のため」と書いてあります。日本語が悪いわけではありませんが、英語はfor all the peopleです。人々の前に定冠詞がついていますので、「ユダヤ人のような特定の民たちのためかな?」と思ってしまいます。しかし、私は「救い主を待ち望んでいるすべての民」という意味が込められていると思います。驚くべきことに、天の御使いは最もすばらしい知らせを、野宿をしていた羊飼いに知らせました。羊飼いは一箇所に留まれないので、安息日を守ることができませんでした。そのため、人々から「汚れている」と思われていました。しかし、すべての民の筆頭に羊飼いが選ばれたのです。今で言うなら、夜間に、道路工事をしている作業員やガードマンに現れたということです。本当に寒い中でご苦労様です。ところで、御使い、天使は、「知らせを持ってくる」というアンゲロゥから来ています。天使の大切な使命は、知らせを伝えるということです。今年はアイフォンがとても流行りました。アイフォンはアップルの創立者、ステーブ・ジョブスが発明しました。彼は今年、亡くなられましたが、非常に創造的な頭脳の持ち主でした。「だれでもが情報に平等にアクセスできるように」とコンセプトで、アイフォンとかクラウドが作り出されたそうです。その「だれでもが」に羊飼いが入っています。御使いは、神様から「野宿している羊飼いに御子の誕生を伝えよ」という命令を受けました。神さまの恵みというのは、高いところではなく、低いところに流れるということが分かります。

どうして、御子の誕生が大きな喜びなのか?第三は、生まれた子どもが「主キリスト」だからです。11節には「救い主がお生まれになりました」とあり、さらに、「この方こそ主キリストです」とあります。「主キリスト」という呼び方は、新約聖書中、ここしかありません。生まれた子どもは、救い主であるけれども、主キリストでもあるということです。救い主というのは、「個人個人の罪を贖い、救ってくださる神様」というイメージがあります。クリスチャンであるなら、もれなく救い主イエス様を心に受け入れていらっしゃると思います。でも、「主キリスト」となるとどうでしょう。主というのは、当時、「王様、主人、領主」という意味がありました。しかし、旧訳聖書で主という場合は、全世界を支配しておられる神さまの呼び名です。つまり、「救い主」であると個人的な救いになりますが、「主キリスト」となると全世界を統べ治める王なるキリストという意味合いになります。私たちクリスチャン、教会はどうしても「救い」を個人的なことに捉える傾向があります。そして、社会や政治は世の中、任せというところがあります。しかし、主キリスト様は世界を治める王様です。つまり、主キリスト様は、個人だけではなく、全世界の希望なのです。日本の今年の政治を振り返ってみてどうでしょうか?東日本の大震災で大きく狂ってしまいました。津波の被害が、原発にまで及び、国家予算がいくらあっても足りません。どこからそのお金を持ってくるのか?いろんな政策を立てましたけど、国会で通ったものは1つもないということです。日本は、ビジョンを持った指導者がいないのでこうなっているのかもしれません。日本の希望、日本の救いは、全世界を統べ治める王なるキリストから来るのではないでしょうか?イエス・キリストは主であり、個人の救いだけではなく、国家の世界を正しく導く、主なる神さまです。ですから、本来なら国をあげて、主イエス・キリスト様を仰いで、助けと導きをいただかなければならないのです。

アフリカのウガンダとロシアの隣の国ウクライナは、「聖書を土台とした政治でなければ」と立ち上がりました。牧師が大統領を助け、議員にも多数のクリスチャンがいます。残念ながら、2010年にウクライナは大統領が代わり、ロシア寄りに逆戻りしたようです。台湾でもクリスチャンの総統が多く立っています。韓国の場合は、最近の大統領はクリスチャンです。なんとか日本も、聖書を土台とした政治を行なえるように祈っていきたいと思います。日本の教会はマイノリティ、少数派コンプレックスがあります。だから、どうしても小さく、狭く考えてしまいます。私たちの信じている神様は世界大、宇宙大の神さまです。今年の10月、『二つの翼』という韓国の弟子訓練セミナーを終了しました。そのとき、講師のキム・ソンゴン牧師は「21世紀リーダーの座右の銘」ということを話してくださいました。第一は、世界的に考え、地域的に行動する。第二は、世界的な夢を持つが、自分の場所から夢をなす。第三は、一番地域的なものが、一番世界的なものになれる。第四は、単純なグローバルではなく、グローカル(グローバルとローカル)を持たなければならない。最も世界的であり、最も地域的である。第五は、自分自身をしっかり治める(管理する)とき、他の人も治める(管理)できる。つまり、世界と地域、世界と個人の両方の目を持つということでしょうか。イエス・キリストは個人の救い主ですが、同時に世界の主キリストです。クリスマスの喜びは、個人の喜びでもありますが、すべての民に与えられる大きな喜びでもあります。

2.大きな賛美

ルカ2:13-14 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」羊飼いたちに御子の誕生を知らせた御使いはお一人です。その直後、多くの天の軍勢が現れて、神さまを賛美しました。「天の軍勢」とは、天使の軍隊です。ふだん戦いにあけくれている天使が、賛美に駆けつけたということです。私たちは、その前に霊の世界がどうなっているのか知る必要があります。まず、天使たちは、「いと高き所に、栄光が、神にあるように」と賛美しました。「いと高き所」とは、神さまがおられる第三の天のことを意味します。「天は7つある」という人もいますが、ここでは単純化したいと思います。パウロは第三の天に上って、イエス様から直接、啓示を受けた人です。たまに、そういうところに引き上げられる人がいます。うらやましいですね。そして、天使たちは「地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」と賛美しました。「地の上」つまり、地上は第一の天です。ここには物質があり、生物や人間が住んでいます。地上は自然科学の法則が支配する場所です。目で見て、手で触れる、三次元の世界です。しかし、「第三の天」と「第一の天」の間に、中間層があります。パウロはエペソ2章で「空中の権威を持つ支配者」と言いました。つまり、神様がおられる「第三の天」と私たちが住んでいる「第一の天」の間に、「第二の天」があるということです。「第二の天」こそが、悪霊と天使が活動している場なのであります。そして、目には見えませんが、悪しき霊と神からの天使が日夜、戦いを交えています。悪しき霊は、親分であるサタンと共に、人間を苦しめるために働いています。一方、天使は神さまから命を受けて、神の子たちを守り、導いています。目には見えませんが、天使は私たち神の子らのために働いているのであります。そして、天使たちの中には、もっぱら戦いに従事している軍隊があるということです。その軍勢が、今宵こそは、御子の誕生に駆けつけ、賛美したということです。ベートーベンのレコードジャケットに天の軍勢が賛美している中世の絵を見たことがあります。天使は賛美だけではなく、竪琴やリュートを奏で、トランペットを吹いています。自衛隊の中にも「音楽隊」というのがあるでしょう。行進しながら、いろんな楽器を奏でます。荒くれの天使たちが、その時だけは、賛美したり、楽器を奏でて、御子イエスの誕生を祝ったということです。ハレルヤ!ある人は、「あまりにも大勢の天使がベツレヘムに出現したため、天は空っぽになった」と言っています。天使たちが、総動員で、賛美したのですから、それは、それは、大きな賛美であったと思われます。

次に、賛美の内容を見ていきたいと思います。「いと高き所に、栄光が、神にあるように」とはどういう賛美で、どういう願いでしょうか?これは、天使たちの賛美でもあり、願いでもあります。いと高き所とは、神さまがおられる天のことです。その神さまに必要なもの、当然あるべきものとは何でしょう?「栄光」です。栄光は神さまだけのものであり、神さまに当然あるべきものです。私たちは神さまの被造物ですから、やはり、神さまの栄光をほめたたえ、神さまに栄光があるように願わなければなりません。たとえば、私たちが毎週、祈りと共に賛美している「主の祈り」はどうでしょうか?第一に来るものは「御名があがめられるように」であります。これは父なる神さまがほめたたえられ、栄光があるようにという意味です。私たちは、このように毎週、主が復活した日を覚えて、公の礼拝をささげています。しかし、初代教会の頃は、毎日、宮で礼拝をささげ、家々でも礼拝をささげていました。毎日、礼拝しても良いのです。そして、礼拝の目的は、「御名があがめられるように」と願い、賛美することです。私は最初、保守的な教団に属していましたので、「聖日礼拝を厳守しなさい」と言われました。これは律法ですから、本来的にはおかしいのですが、恵みとして受け止めたので良かったと思います。私はクリスチャンになってから日曜日の礼拝を中心に生きるようになりました。一週間の頂点が、日曜日の礼拝です。ですから、なんとか日曜日の礼拝をささげられるようにスケジュールを調整しました。数年後、直接、献身をしましたので、それが当たり前になりました。牧師としてメッセージを取り次いでいますが、「まず、自分自身が神さまを礼拝するんだ」ということを忘れていません。優先順位ということばがありますが、「御名があがめられるように」と神さまを第一にすると、他のことがらがなんとかなっていくことも事実です。第一のものを第一とする。これは、生活に背骨ができるということです。第一のものを第一としないならば、イカやタコのようにぐにゃぐにゃになります。時間においてもお金においても、「第一のものを第一とする」なら、何とかなるものです。主日礼拝のときだけではなく、日々の生活の中で、「御名があがめられるように」と願い求めるならば、何と幸いでしょうか。幸いが追いかけてくるでしょう。

次に天使たちが賛美し、願ったことが「地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」ということです。戦いにあけくれている天の軍勢が、地の上に平和があるように願っているのです。おそらく、天の軍勢は地の上が平和であるように戦っているのかもしれません。しかし、悪の力が増して、戦争や飢餓、さまざまな天災が襲って人々を苦しめています。今年、起きた3.11の東日本大震災と津波は聖書的にどう考えたら良いのでしょうか?ある人は、「人間の強欲がそうさせた」と言いました。また、ある人は「神さまがいるなら何故、あんなことが起きたの?」と恨んでいるでしょう。根本的な理由は、人間が神さまから離れたために、自然界が人間の言うことをきかない状態になっているということです。日本は4枚のプレートがぶつかり合っている、地震大国です。日本国内の活断層も数え切れないほどあります。ちっちゃな日本が、これまで海の上に浮かんできたのも不思議です。この度の大地震は科学的には、プレートどうしのエネルギーが高まり、あるときに放出せざるを得なかったということです。しかし、霊的にはサタンがそれを用いたということです。大勢の人の命が失われ、原発事故まで起きました。そこには人間の不注意さもあったかもしれませんが、悪魔が最悪になるように手を伸ばしていたということも否めません。悪魔はある程度、自然界に介入することができます。福音書で、イエス様がガリラヤ湖で起きた突然の嵐に「静まれ、黙れ!」と命じたのもそういう意味があります。悪魔は船に乗っているイエス様と弟子たちを嵐によって、亡き者にしようとしたのです。では、神さまは私たちに何を願っておられるのでしょうか?世の終わり、世界各地に大地震が起こることが預言されています。この地上は永遠に続くものではありません。ですから、悔い改めて、神さまと和解しなければなりません。キリストを信じて、永遠の御国に席を置くこと、これが究極的な平和です。

しかし、私たちは一定の期間、地上で生活をしなければなりません。天使たちは、地の上に住む私たちに平和があるようにと賛美し、祈っています。聖書で言われている「平和」は「戦争がないように」という政治的な意味だけではありません。平和はヘブル語ではシャロームと言いますが、そこにはいろんな意味が含まれています。平和、繁栄、健康、和解などの意味が含まれています。イスラエル人にとって、平和は人間生活における、すべての恵みを表しています。これこそ、神さまのわざ、神さまの賜物だということです。今年は、みなさんにとって平和、平安な年だったでしょうか?やはり、3.11の東日本大震災と津波が、あらゆるところに影響を与えたのではないでしょうか?直接、被害に会わなかった人でさえも、悲しみと痛みを覚えたことと思います。原発事故も伴い、本当に日本中が揺り動かされた年でした。この先も、目途が立たない地域がたくさんあります。私たちは、神様のふところで生きるならば、どういう状況の中でも、平和、平安を見出せるのではないかと思います。韓国のある金持ちが「平安」というテーマで二人の画家に絵を描いてもらいました。自分が気に入った方を高価な値段で購入すると約束して、描かせました。一人の画家は、静かな湖面に二羽の白鳥が浮かんでいる絵を描きました。朝もやの中に、二羽の白鳥が仲睦まじく泳いでいる。いかにも、平和、平安を思い起こさせる絵です。もう一人の画家は、全く別の絵を描いてきました。ごうごうと落ちる大きな滝が全面に描かれています。右に目をやると、一本の木の枝がすっと伸びていました。なんと、その枝に巣があり、親鳥がヒナに餌をやっています。ヒナは親鳥のもとで安心していますが、水が当るならば、巣ごと滝つぼに落ちてしまうでしょう。金持ちは、後者の絵を買ったそうです。

我が家では、18年生きていたクルという猫が死にました。その猫から学んだ一番のことは「平安」であります。クルは我が家で生まれたので、自分が人間の一人だと思っていたのかもしれません。気性がおとなしく、食べては、外で日向ぼっこしていました。主人である私がドアを開けたり、餌を与えたり、ある時はおしっこをひっかけたところを拭きました。本人は全く、心配せず、いつもゴロゴロ言っていました。しかし、高齢なのか急に食欲がなくなり、階段も上り下りするのがやっとになりました。動物病院に行って注射を打ってもらいましたが、回復しませんでした。いよいよ、歩けなくなっても、私たちが傍に行くと、ゴロゴロ言っていました。最後は、家内が看取り、真夜中、亡くなりました。クルは、ぜんぜん、明日のことを心配せず、死ぬまで生きたという感じです。私たち人間は彼らよりも高度なので、ちょっとしたことが起きると心配し、平安でなくなります。本来なら、父なる神さまのもとで、安らげるはずなのに、すぐ平安をなくします。イエス様は「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか」と言われました。野の草は炉に投げ込まれるまで、ソロモンの栄華よりも、着飾っています。それは、神さまが野の花を装っていてくださるということです。私たちはたとえ明日、いや、今晩、命が取られることがあっても、神さまは野の花よりも、良くしてくださるのです。私たちにとって、死はすべてを取り去る最も恐ろしいものです。でも、神さまが生死の主権を握っておられます。イエス様が死に勝利したのですから、私たちは地上で最後まで生きれば良いのです。あとは復活があるだけです。大切なのは、生かされている限り、主をあがめ、地に平和がくるように働くことです。最後の一息まで、主を信頼し、主をあがめ、平和がくるように願い求めたいと思います。

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2011年12月18日 (日)

男の子を産む     ルカ1:26-35

「クリスマス」というと馬小屋で生まれた赤ん坊のイエス様というイメージがあります。夜空には星が輝き、御使いが歌い、羊飼いや東の博士たちが訪ねてくるというシーンです。とてもロマンチックで良いと思いますが、聖書はもっと現実的で力強いメッセージを語っています。その男の子に、ダビデの王位が与えられ、やがて永遠の御国を治めます。この方を王として受け入れるなら、御国に入ることができます。神さまはエデンの園ではなく、イエス様が王として治める永遠の御国を私たちに用意しておられます。ですから、「クリスマス」は「王としてお生まれになったこの方をあなたはどうしますか?」という問いかけを与えてくれています。

1.御国の王

 ルカ132-33「その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」これは、イエス様が生まれる前に、御使いによってマリヤに語られた預言です。このところから気づくことは、神である主は、その子に、ダビデの王位をお与えになるということです。そして、その子はヤコブの家、イスラエルを治め、その国は終ることがありません。つまり、イエス・キリストが王となって治める永遠の御国があるということです。なぜ、ここにダビデという名前が登場するのでしょうか?それは、ダビデを通して与えられた契約だからです。Ⅱサムエル7:12-13「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」この預言の意味は、ダビデの子孫に王国を確立させるということです。ユダヤ人は「メシヤはダビデの家系から生まれる」と、信じていました。だから、盲人のバルテマイは、「ダビデの子イエスよ、私をあわれんでください」と叫んだのです。そして、弟子たちもイエス様がローマを倒し、イスラエル王国を復興させてくださると堅く信じていました。しかし、神さまの計画には順番がありました。御国の完成ではなく、まず、御国に入る人々を集めることでした。そのために、イエス・キリストが十字架にかかり、罪の贖いを成し遂げる必要があったのです。残念ながら、ユダヤ人は、そのことを理解できず、十字架に躓いてしまいました。

 私たち日本人は「王国」という意味をあまり理解できません。昔、邪馬台国という国があって、卑弥呼という女王が治めていたと言われています。3世紀には日本列島に砦の町があったようです。しかし、天皇制、武家社会、民主主義と歴史が進み、王国という意味がよく分かりません。ヨーロッパの国々は、昔は王国でしたが、今では多くが民主主義の国家になっています。国王や王女は象徴になっています。少し前に、ブータンの国王が王妃と共に日本に訪れました。アジヤには国王が実際に国を治めている国がまだまだあります。多くの場合、王様は身勝手なことをして、民衆を苦しめる独裁者になります。しかし、民主主義が本当に理想的な国家を作ることが可能なのでしょうか?国民は税金が安い方が良いでしょう。だから、減税を約束してくれる議員を選びます。国民はあんまり先のことを考えていません。だから、国の借金はかさむ一方です。最近は大阪府と大阪市が注目されています。「独裁」とか「独断」とは言われていますが、ビジョンを持った強いリーダーシップを持った人が求められているようです。実はイスラエルが初めから王国だったわけではありません。イスラエルは神さまが主、つまり王様として治める国でありました。しかし、カナンに移り住んでから、民たちが「私たちをさばく王を与えてください」とサムエルにねだりました。主は祭司サムエルに「あなたを退けたのではなく、彼らを治めている私を退けたのだ」と言いました。サムエルは王様があなたがたを治めたら、どういうことになるか、その弊害を語りました。「息子が兵隊のために取られ、畑の最も良いものが王の家来に与えられる。穀物やぶどう、羊の十分の一が取られ、王の奴隷になるよ」と言いました。それでも民たちは、サムエルの言うことを聞かず「どうしても私たちの上に王がいなくてはいけません」と主張しました。イスラエル第一代目の王様がサウルです。でも、彼は二度も不従順の罪を犯し、王位から退けられました。その後、ダビデ、ソロモンと続きますが、ソロモン王の後は国が北と南に二分されました。その後のことが列王記第一と第二に記されていますが、ひどい王様ばかりです。かろうじて、南ユダ王国のヒゼキヤやヨシャパテは良い王様でした。人間が王になって民を治めてもうまくいかないことが聖書に書かれています。それは中世のヨーロッパの歴史を見てもわかることです。人が一旦、権力を持ったらば、堕落することが歴史から証明されています。

 では、どうしたら良いのでしょうか?神さまの計画は、ご自分の御子イエスが王となって、ご自分の王国を治めさせることでした。そのことが、先週、学んだイザヤ書9章にも記されていました。イザヤ96-7「ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれるその主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」旧訳聖書の神さまは「万軍の主」と呼ばれました。その神さまが、ひとりの男の子をダビデの王座に着かせ、その王国を治めさせるということです。新約聖書では、イエス様が弟子たちに「御国が来るように祈れ」と言われました。それはどういう意味でしょうか?これは、「神が世を治め、神が王としての主権と権力を現わし、神が全世界の王になるように」ということです。ある人たちは、母マリヤに抱かれた赤ん坊のイエス様を思い描いています。しかし、このお方は、御国の王として、初めから来られたのです。マタイ福音書に東から来た博士の記事があります。彼らはヘロデ王に、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか?」と尋ねました。そのとき、ヘロデは恐れ惑いました。その男の子が王様だったら、自分が王でなくなるからです。私たちは、御国に入るためには、イエス様を王として認め、そのご支配に自分をゆだねなければなりません。御国においては、イエス様が王であり、私たちはその民であります。しかし、イエス様は専制君主でもなければ、無能な王様でもありません。「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君と呼ばれる」お方です。愛と正義とによって私たちを正しく治めてくださいます。残念ながら、御国はまだ完成していません。目に見えない神の支配だけが来ています。やがて、キリスト様が再臨されてから、その領土が現れるでしょう。今の時代、「あなたは神と和解し、来るべき御国に入りますか?」という招待状が来ています。招待状とは、別の言い方では御国の福音です。イエス様を信じる者だけが、いのちの書に名前が記され、御国が完成した暁に、栄光のからだをいただいて入国することができるのです。

黙示録には、人々が右と左により分けられる日が来ることが記されています。黙示録2127「しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都に入れない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、入ることができる。」アーメン。私は何度か、飛行機に乗って外国に行ったことがあります。そこには入国管理局というのがあって、パスポートとビザが必要です。ビザが不要の国もありますが、最低限、パスポートは必要です。パスポートがないと、その国に入れてもらえません。『最後の審判』という絵を何人かの人が描いています。共通しているのは、主イエス・キリストが裁き主として中央に描かれていることです。キリストが永遠の御国に入る者と、永遠の滅びに行く者とを裁いています。絵を見ると、滅びに行かされた人々が崖からよじ登って御国に入ろうとします。ところが、御使いたちが、槍で彼らを突き落としています。下では角の生えた鬼どもが、嫌がる人々を燃える火の中に引っ張って行きます。私たちは生きているうちに、イエス様を御国の王として受け入れる必要があります。選択は本人の自由ですが、世の中にはかけがえのないものというものがあります。ぜがひでも、何を差し置いてでも、御国に入るべきではないでしょうか?マタイ1112「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」デバートのバーゲンセールには、主婦たちがわれ先にと突進します。今の時代は、閉店ギリギリの時刻です。神さまは、閉店の時刻を遅らせてまでも、一人でも多くの人を御国に入れたいと願っているのです。

2.御国の備え

 私たちの側からは、イエス様を信じて、御国に入るということが必要です。しかし、神さまの方では、私たちを受け入れる準備が必要でした。どんな準備だったのでしょうか?ルカ1:26-27「ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。」とんで、ルカ1: 34-35「そこで、マリヤは御使いに言った。『どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。』御使いは答えて言った。『聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。』」その当時、ナザレの町にどれくらいのおとめがいたのでしょうか?ルカは「ナザレという町のひとりの処女」と書いています。しかも、彼女はヨセフと婚約中でした。婚約者がいるなんて、ちょっと厄介です。でも、それゆえにヨセフが彼女をベツレヘムに伴い、そこでお産をすることができました。さらにはヘロデ王から逃れるため、エジプトまで一緒に下ったのですから、神さまの深いご計画かもしれません。問題は「処女から子どもが生まれるかどうか?」ということです。これはクリスチャンであっても、いや、神学者でも信じない人がいます。神さまはなぜ、躓きを与えるような方法で御子イエスを誕生させたのでしょうか?保守的な聖書学者はこのように説明します。もし、ヨセフと自然な関係で生まれたなら、アダムの原罪を受け継いでしまう。救い主には罪があっては身代わりになれない。ダビデの家系を守りながらも、罪から自由になるためには、聖霊の介在が必要だったのです。聖霊は無から有を呼び出す神です。創世記12「地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。『光があれ。』すると光があった。」この時は、地球がまだ出来上がっていませんでした。かたちが出来ていない地球の上を、神の霊が覆っていました。「動いていた」とは、「雌鳥が卵を孵化させようとバタバタ羽ばたいている」状態であります。その時、神さまが「光あれ」と言われました。すると光がありました。それは、聖霊が神のことばによって、光を創り出したということです。この先、同じように神さまがことばを発し、聖霊が物質を創り出すというようになっています。世の中の生物学者が何と言おうとも、処女マリヤは聖霊によってイエス様を身ごもったのです。それ以上でも、それ以下でもありません。聖書に「そうだ」と書いてあれば、私たちは「アーメン」と信じるべきです。

 ルカは医者でした。医者として、イエスさまが人間として生まれ、人間として成長していった様を医学用語で説明しています。たとえば、ルカ240「幼子は成長し、強くなり、知恵に満ちていった。神の恵みがその上にあった。」また、ルカ252にも同じような表現があります。「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。」メシヤはどうして、30歳の大人で天から来ないで、赤ん坊としてこの世に生まれたのでしょうか?それはあらゆる年代の代表となるためです。言い換えるなら、あらゆる年代の救い主になるためです。だから、イエス様はおなかにいる嬰児の子どもから、大人の気持ちも分かるのです。ある人は、子どものとき虐待を受け、「私の気持ちなんかだれも分からない」と言うかもしれません。しかし、イエス様は理解することができます。イエス様はナザレの村の人たちから「マリヤの子、私生児」として思われていました。「だから、親戚がいるはずのベツレヘムの宿に泊まれなかった」とエリヤハウスの先生がおっしゃっていました。生まれてまもなく、ヘロデ王から命を狙われ、ヨセフに連れられ、エジプトに逃れました。少し前、ターミネーターという映画がありました。幼子イエス様に、ターミネーターが送られたのです。王になる前に抹殺するためです。そのため、イエス様はナザレというメシヤが出そうもないところで育ったのです。イエス様は30歳まで沈黙の人生を送っていました。父ヨセフが死んだ後は、大工をしながら母マリヤと兄弟たちを支えていたようです。ヨセフとマリヤとの間に、自然に生まれた子どもが少なくとも弟が4人、妹が複数いたと思われます。兄弟たちはイエス様が救い主だとだれも信じませんでした。しかし、ペンテコステの前、「イエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ祈りに専念していた」とあります。主の兄弟の中の、ヤコブとユダが聖書の書簡を書いています。二人はイエス様の弟ではなく、「主イエス・キリストのしもべ」と紹介しています。イエス様は仕事を持ち、家庭に仕えていました。それは何故でしょう?仕事を聖め、家庭を聖めるためです。中世では、神さまに仕える仕事、聖職者だけが尊いと思われてきました。しかし、ルターは「神さまから召された仕事ならば聖い。それは天職(ベルーフ)である」と言いました。イエス様は、最後、人類の最大の敵である死を経験し、また、その死に勝利されました。

ヘブル人への手紙にこのように書かれています。ヘブル29「ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。」神の子が御使いよりもしばらくの間、低くされました。イエス様は死の苦しみを受けましたが、「その死はすべての人のために味わわれたものです」とあります。イエス様は本来、不死の神さまでしたが、人間となって死を味わわれました。しかし、それだけではありません。イエス様は死に勝利したのです。ヘブル214-15「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」私たちは血と肉体を持っているために、必ず死がやってきます。しかし、イエス様は私たちのように血と肉体を持ち、その死によって、死の力を持つ悪魔を滅ぼしてくださったのです。イエス様は死んで復活したことにより、死に勝利されました。それゆえに、死のとげは取り去られたのです。クリスチャンにとって、死は滅びではなく、御国に入る門となったのです。イギリスのチャーチル首相は、非常に熱心なクリスチャンであったことでも知られています。彼は生前、自分のお葬式のプロデュースをしたそうです。「自分のお葬式のときには、こういうプログラムで、こういう歌を歌って、こういう演出をしてほしい」と、プロデュースしました。そして、彼のお葬式には、彼が願ったとおりのことが行われました。聖パウロ大聖堂で荘厳な賛美歌が流れる中、彼の葬儀が淡々と進んでいきました。日本で言うなら、しめやかに行われました。いよいよ葬儀が終わりに近づいた時に、軍人の格好をした人が、ラッパを吹きました。それは軍隊で毎晩吹かれる消灯ラッパでした。つまり、一日の終わりを告げるラッパなのです。「今日も一日終ったぞ。ベッドにつけよ。一日、ご苦労さん」というようなメッセージがこめられて、消灯ラッパが吹かれるのです。つまり、「チャーチルという一人の偉大な人の人生が終ったぞ。ご苦労様」ということです。その演出によって人々が静かに深い悲しみを覚えている時です。今度は突然、起床ラッパが鳴ったのです。「朝だぞ、起きよ」というラッパです。チャーチルはこの演出を通して何を伝えたかったのでしょうか。彼はこう言いたかったのです。「自分は死んだのではない。新しい御国の朝によみがえったのだ。だから、みんな悲しまないでくれ。私は今日、生きているのだ。新しい人生、新しい一日を生き始めたのだ」と。キリストにあって、死は終わりではないのです。

 私たちが御国に入るためには私たちの罪が取り除かれる必要があります。罪があるままでは、御国に入ることができません。イエス様は私たちが持っている罪を取り除くために、最後に十字架にかかって死んでくださいました。ヘブル人への手紙926-28「しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」昔、宣教師が作ったトラクト(伝道用のチラシ)には、27節の「人間には、一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている」というみことばだけが書かれていました。死後のさばきだけが強調されていました。そのトラクトを見て、怖がる人はいても、喜ぶ人はあまりいないでしょう。しかし、ヘブル人への手紙が言いたいことは、キリストが、多くの人の罪を負うために一度、死んで、さばきを受けられたということです。そして、たた一度の死によって、罪を取り除いたということです。これが、キリストの初臨です。神との和解を成し遂げるために、人間として来られたということです。しかし、二度目に来られるとき、再臨は、「彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです」。それは私たちの滅びた肉体を復活させるために来られるのです。私たちの肉体が、滅びない栄光のからだへと復活することが、贖いの完成だからです。そうすることによって、私たちは永遠の御国に住まうことができるのです。神様は私たちのために、永遠の御国と永遠のからだとを備えてくださるのです。神さまは永遠の御国を私たちのためにご用意されています。そこでは、御子イエスが王です。私たちがそこに入るためには、神との和解が必要です。イエス様は私たちの罪を取り除き、和解を成し遂げるために、この地上に来られたのです。

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2011年12月11日 (日)

ひとりのみどりご     イザヤ9:1-7 

本日からクリスマスのメッセージをお届けしたいと思います。きょうの箇所はイザヤ書における、有名な降誕の預言であります。ある説によりますと、旧訳聖書にイエス・キリストに関する預言が350位あるそうです。世界に聖人とか教祖といわれる人が大勢いますが、イエス様のように生まれる1000年以上も前から、預言されている方もいません。釈迦とか孔子、マホメットも、生まれる前から預言されていたわけではありません。しかし、イエス様の場合は、どこで生まれ、だれから生まれ、どのような生き方をするか、どのように死ぬか、復活後どうなるか?一生涯のことがこと細かく預言されています。そして、新約聖書においてそのことが成就され、これからも成就されつつあります。預言と成就ということから考えても、救い主はイエス・キリストしかおられない、唯一のお方だということが分かります。

1.メシヤの御姿

 イザヤ9:6「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」。イザヤは来るべきメシヤがどのようなお方か、4つの特長をあげています。聖書で4というのは、東西南北、世界を表しています。また4つというと、4つの福音書を思い浮かべることができます。4つの福音書はイエス・キリストを4つの方向から語っています。ですから、この箇所から、4つの方向でメシヤを語るのは聖書的ではないでしょうか。「不思議な助言者」はマタイ、「力ある神」はマルコ、「永遠の父」はヨハネ、「平和の君」はルカによる福音書に当てはまるように思えます。おそらく、日本に、こんな風に話している牧師はいないでしょう。これこそが、神の知恵、神さまの油注がれたメッセージです。神さまは、毎週、毎週、毎回、毎回、ワンダフルなメッセージをくださっています。

 まず、「不思議な助言者」ですが、英語ではWonderful Counselorです。イエス様は知恵と知識にあふれていました。イエス様の教えを最も詳細に記しているのが、マタイによる福音書です。当時、聖書の専門家と言えば、律法学者でした。ある人たちは「ラビ」と呼ばれ、大変尊敬されていました。しかし、マタイ5章から7章までの山上の説教を見るとどうでしょうか?イエス様がよく用いた表現があります。「『○○してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、私はあなたがたに言います。」と言われました。イエス様が引用したのは、当時の教えでした。当時の指導者は律法とその解説をセットにして、権威あるものとして教えていました。しかし、その解説の多くは、神さまの戒めが曲げられ、人間的なものになっていました。それに対して、イエス様は「私はこう言う」「私はこう言う」と律法の真の意味を教えました。イエス様の教えを聞いた人々はどのように思ったでしょうか?マタイ7:29「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである」。そうです。律法学者たちは「○○と書いてある」「○○と言われている」と間接的に語りました。しかし、イエス様は肉体をとられたロゴスとして、「私はあなたがたに言います」と直接的に語ったのです。その先、何度もパリサイ人と律法学者はイエス様をことばの罠にかけようとしました。その度ごとに、イエス様は深い知恵をもって、答えられました。彼らは一言も反論できず、しっぽを巻いて退散せざるを得ませんでした。まさしく、イエス様こそ、イザヤ書が預言した、不思議な助言者でした。今、世の中ではカウンセリングがとても流行っています。昔はフロイトが主流でしたが、今はオカルト的なものまで多種多彩です。世の人たちは問題解決を求めてそういうところに行きます。クリスチャンも、キリスト教カウンセリングに行っており、あるところは、3ヶ月待ちのところもあるそうです。そういうところに行くのは結構です。でも、イエス・キリストこそ、Wonderful Counselorです。聖書のことばをよく読んで、祈るならば、聖霊様が解決を与えてくださると信じます。

 第二はメシヤの特徴は「力ある神」です。イエス様が力ある神として表されているのは、マルコによる福音書です。教えよりも、イエス様がなされた奇跡に多くの文面をさいています。マルコによる福音書の特徴は「すると」「すぐに」「それから」という接続詞でつながっていることです。イエス様がどんどん移動して、奇跡を行っています。人々の病を癒し、悪霊を追い出し、死人さえよみがえらせました。イエス様は「神の国が近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」と宣教しました。そのことと、イエス様の奇跡と何の関係があるのでしょうか?神の国が近づいたとは、この世に神のご支配がやって来たということです。この世においては、病や悪霊、死が支配しています。しかし、イエス様と一緒に神の国がやってきたのです。するとどういうことが起こるのでしょうか?天気図では温暖前線と寒冷前線というものがあります。温暖前線と寒冷前線がぶつかる所には、積乱雲が発生します。激しい雷雨になったり、ときには竜巻が発生します。同じようにサタンが支配しているこの世に、神の国が侵入すると、どういうことが起こるでしょうか?隠れていた悪霊が声をあげて出て行くでしょう。病人がたちどころに癒され、死人さえもよみがえります。なぜでしょう?神の国には死も病もないからです。イエス様がたくさんの奇跡をなされたのは、神の国が一体、どういうものであるかを証明するためです。いわば、神の国のパフォーマンスです。伝統的な教会は癒しや奇跡を行なうのを邪道だと批判してきました。それは聖書的ではありません。なぜなら、イエス様も使徒たちも力あるわざを行なったからです。マルコ福音書で、イエス様がこのように私たちに命じておられます。マルコ16:17-18「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」アーメン。イエスさまは「力ある神」であり、私たちにも主の御名によって、それをせよと命じておられます。

第三のメシヤの特徴は「永遠の父」です。イエス様がご自分を「父」とおっしゃっている箇所はどこでしょうか?そうです。それはヨハネによる福音書です。弟子のピリポは父を見せてほしいとイエス様に求めました。ヨハネ14:9-10イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。現代風に言いますと、「いやになっちゃうなー、ピリポ。私を見た者は父を見たのと同じなんだよ」ということです。残念ですが、クリスチャンであっても、神さまが父であることをよく知らない人がいます。神学校でも「神は全能であり、聖であり、善であり、愛である」と教えます。しかし、神さまが父であるということをあまり教えません。祈るときも、「神さま」と呼ぶことはできても、「天のお父様」と呼べない人がいます。なぜでしょう?それは地上の父との間に問題があり、歪んだめがねをかけているからです。どうしたら天の父が分かるのでしょうか?第一は地上の父を赦し、愛し、敬うことによって、歪んだめがねが取り外されます。第二は聖書からイエス様を知り、イエス様と親しく交わることです。第三は霊的な父を持つことです。聖書の時代、学校がありませんでした。ある年齢に達した子どもをラビに預けました。ラビは、父の代わりに人生のすべてを教えました。現代で言うなら、メンターです。霊的な父を持ちましょう。そうしたら、父なる神さまのことがもっと良く分かります。私も10年前、インドネシアのエディ・レオ師にあってから、心が癒され、父の心を持つことができました。教会にはお兄さんはたくさんいますが、父が少ないのです。あなたも霊的な父になりましょう。

 第四のメシヤの特徴は「平和の君」です。ルカ福音書2章には天の軍勢が御子の誕生をこのように賛美しています。ルカ2:14「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」平和こそが、ルカ福音書のテーマです。どうしてそのようなことが言えるのでしょうか?ルカ福音書に出てくる人たちの多くは当時、世の中から排斥されている人でした。女性、子ども、取税人、やもめ、病気の人が出てきます。たとえ話においては、サマリヤ人、いなくなった一匹の羊、ほうとう息子、貧乏人のラザロです。イエス様はそういう弱い人たちのところに行って、彼らの手を取り、恵みを与え、彼らの尊厳を回復してあげました。私たちは平和というと、国際連合とか首脳会談、様々な平和運動を連想するかもしれません。しかし、イエス様のやり方はそうではありませんでした。名もない人々のところに出かけ、福音を宣べ伝え、病を癒し、御国に招きました。御国には身分の上下、貧富の差もありません。マリヤはこのように賛美しています。ルカ1:51-53「主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。」地上と天国は、まるで正反対です。高い者が引きおろされ、低い者が高く引き上げられるのです。これこそが、平和の君である、イエス・キリストの価値観です。イエス・キリストは、まさしく「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」なのです。

2.メシヤの出どころ

 前後しますが、イザヤ書9章のはじめをお読みいたします。イザヤ9:1-2「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」この箇所はエリザベツの夫、ザカリヤが引用している預言でもあります。ここに「ゼブルンの地とナフタリの地」とありますが、北イスラエルの2部族の名前であります。北イスラエルは南北分裂後、紀元前722年、アッシリヤによって滅ぼされました。その時、アッシリヤはおもだった人たちを国外に連れ去り、その代わりに他国の人たちをそこに住まわせました。その結果、雑婚と混合宗教が起こり、主なる神に対する信仰さえもなくなってしまいました。まさしく、苦しみとはずかしめを受け、異邦人の地になってしまいました。ところで、メシヤである、イエス・キリストはどこからお出になったのでしょうか?マルコ1:9「その頃、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川でヨハネからバプテスマをお受けになった」とあります。続いて、マルコ1:14「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えていわれた。『時が満ち、神の国が近くなった。悔い改めて福音を信じなさい』」。そうです。イエス様がご自身をメシヤとして啓示し、福音宣教を始められたのは、ガリラヤでした。都であるエルサレムではありません。はずかしめを受けた異邦人のガリラヤだったのです。そして、そこに住んでいた人たちはどうなったのでしょう?「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」アーメン。福音の光によって、人々は、やみから光に移されました。「死の陰の地」というのは、らい病患者がいるようなところであります。現在はそういう言葉は使ってはいけないことになっていますが、死を待つしかない人々のところに、いのちの光が照ったということです。

 神さまのなさることって、不思議ではないでしょうか?普通だったら、主の都、エルサレムから始めるべきではないでしょうか?なのに、神さまは北方のナザレのガリラヤを選ばれました。当時の人々は「ナザレから何の良いものが出るだろう」と言っていたところです。吹き溜まりのような場所から、メシヤがお出になられたのです。そして、イエス様が選んだ弟子たちのほとんどが、ガリラヤの漁師たちでした。一人だけ都会出のエリートがいましたが、それはイスカリオテのユダです。他の人たちはみな、漁師とか取税人、熱心党員でした。だから、一部の聖書学者たちは、「漁師であったヨハネがギリシャ語で聖書を書けるだろうか?」と疑っています。イエス様はあえてイスラエル大学の出身の人ではなく、あまり学問のない、普通の人たちを選ばれました。ある人がルターに「どうして神様は普通の人を選ばれたのでしょうか?」と、質問しました。ルターは「神さまは普通の人がお好きだからです」と答えたそうです。大変失礼ですが、この礼拝堂におられる方も、普通の人ではないでしょうか?大学教授とか国会議員の方はおられるでしょうか?パウロはⅠコリントでこのように言っています。「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。」(Ⅰコリント1:27,28)

 主のご降誕、クリスマスはどういう人たちのためにあるのでしょうか?私はイザヤ書の9章に書かれているような人たちのためではないかと思います。それは、苦しみ、はずかしめを受け、やみの中、死の陰の地に住んでいる人たちです。エペソ2章にあるように、「罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」私たちは本来、神さまの子どもとして造られたのに、罪の中で死に、サタンの支配下にありました。自分が闇の中にいることさえもわかりませんでした。イエス様を信じて救われた後、「ああ、私は闇の中にいたんだ!」と分かるんです。私はクリスマスのメッセージを伝えるときに、どうしても自分のおいたちを語らなければなりません。私は8人兄弟の7番目として生まれました。高校生の頃だったでしょうか?クリスマスの日、学校の帰り、秋田駅の近くでチョコレートを買いました。これを妹にでもあげたら喜ぶだろうなと思ったからです。もう、上の6人の兄や姉は就職とか結婚で家にはいませんでした。駅から家までの近道は田んぼです。雪が固まっているので、歩けます。その当時、駅を越えて村にはいる左手に十字架の立っているお墓がありました。ずっと後から、カトリック教会のお墓であることが分かりましたが、とっても気持ちが悪くて、ぜったいそっちは見ませんでした。たんぼの雪だけが真っ白で、空も風景も真っ暗でした。子どもの頃から、母に「きょうはクリスマスだけど」と何かくれるのをせがみました。すると母は「うちにはクリスマスはないよ。クルシミマスだよ」と言いました。父はあまり働かないばかりか、お酒を飲むとよく荒れました。毎年、暗いクリスマスでした。そういうクリスマスとは縁もゆかりもない者がこうやって講壇から「クリスマスとは?」と偉そうに話しているのは奇跡ではないでしょうか?

 私が25歳で、救われて献身した教会は座間キリスト教会でした。その教会は日本ホーリネス教団の中にありましたが、成長しない教会が座間教会と三鷹教会だったそうです。だから、教団の人たちは「座間三鷹」と馬鹿にして言ったそうです。しかし、大川牧師が就任してから、みるみるうちに教会が大きくなりました。私が救われた年は1年で52名の受洗者が与えられ、教団で最も大きく成長していました。その時、大川牧師は「昔は座間三鷹だったけど、今は座間を見ろ、だ」と冗談半分に言っていました。「座間から何の良いものが出るだろう」と言われていたのに、大きな教会が生まれたのです。何と、私はその教会からこちらの教会に24年前、赴任してきました。当時、前任者の牧師は教会を開拓するためお辞めになるところでした。山崎長老さんが、座間キリスト教会の礼拝テープを聞いて、とっても恵まれていました。「礼拝メッセージで涙を流したのは初めてだ」と言っていました。山崎長老が「大川牧師の弟子はいないか?」ということで、私に白羽の矢が当りました。私も家内も「日本基督教団は信仰がないので行きたくない」と断るつもりでした。教団の委員は「東支区に6人も無任所の牧師がいるのに、どこの馬の骨かわからない若造を迎えるのか」と反対したそうです。しかし、山崎長老と役員さんは「他の血を入れたいので、ぜひ」と、多くの反対を押し切って、私を招聘しました。1987年、私たちはこの亀有教会に嫁いで来たのです。その年のクリスマス、全部、私が準備しました。飾り付けも催しも、です。イブ礼拝では私がオー・ホーリーナイトを歌い、3歳くらいの娘とダンスまでしました。しかし、今ではゴスペルクワイヤーが立ち上がり、飾りつけも教会員がみなしてくれています。先週の日曜日の夜、1階と2階、そして礼拝堂を見て、本当に感動しました。

 葛飾区亀有の地はどういうところでしょうか?「やみの中を歩み、死の陰の地に住んでいた」と言うと怒られるでしょうか?神さまは私を亀有に遣わしてくださいました。もちろん、私よりもすばらしい牧師がたくさんいるでしょう。でも、「私だから良かった」ということもあるかもしれません。「私だから躓いて来ない」という人もおるかおしれません。その比率はどうか分かりません。でも、神さまは取るに足らないこの私を用いてくださり、この場所に群を起こしてくださいました。これは神さまのご計画、摂理のみわざではないでしょうか?思えば、この教会においては、奏楽が一番のネックでした。ピアノ、エレキドラム、キーボード、マイクも揃えましたが、やる人がいませんでした。当初から、銀行員の中野さんがギターで賛美をリードしてくれました。そして、2000年にゴスペルが立ち上がり、毛利兄姉が与えられ、ぐっとバージョンアップしました。今では、第一礼拝、第二礼拝、CSも独立して賛美をして礼拝を持っています。ステージで複数の人たちが、毎週、賛美をリードしてくれています。これこそ、主のみわざではないでしょうか。異邦人の葛飾区亀有は「光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」のです。アーメン。今年、日本基督教団から独立しました。中心的な理由は聖書に土台した教会を作るためです。イエス・キリスト様が、聖書を土台にしているこの教会をこれからも祝してくださると信じます。

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2011年12月 4日 (日)

神は愛です       Ⅰヨハネ4:12-21

聖書を読むと、そこには鍵となることば、キーワードがあります。キーワードをつかまえると、文章全体の構造が見えてきます。きょうの聖書箇所のキーワードは、「全うされる」「完全なものとなる」という言葉です。ギリシャ語ではテレオゥですが、英語ではperfectです。perfectを動詞で使うと「…を完全にする」「…を完成する」という意味になります。しかし、聖書では、これが受身の完了形になっています。has been perfected「完成される」「全うされる」となります。では、どのようにして、「神の愛が完成される」のでしょうか?このことばが、12節から21節まで3回出てきますので、3つのポイントでお話ししたいと思います。

1.互いに愛し合うことによって

 私たちが互いに愛し合うことによって、神の愛が完成されるということです。私たちは神の愛を受けています。果たして、神の愛を受けていないクリスチャンがおられるでしょうか?復習になりますが、神の愛はどこに示されたのでしょうか?神さまが私たちにいのちを与えるために、御子イエスを遣わされました。御子イエスはなだめの供えものとして、十字架にかかって死んでくださいました。私たちはイエス様を信じたことにより、罪赦され、永遠のいのちをいただくことができました。このように、私たちがさばかれないでいのちを得たのは、神さまの愛のゆえであります。クリスチャンであるならば、もれなく、神さまの愛を受けています。私たちは、神さまの子どもとして、目に見えるものから、目に見えないものまでたくさんのものをいただいています。この地上でも、経済的な祝福、健康、心の平安、守りをいただいています。家族や友人、兄弟姉妹、仕事、奉仕も神さまからいただいたものです。今、お座りになっている周りの人をごらんください。あなたが教会に来て、クリスチャンにならなければ、決して出会うことのなかった兄弟姉妹がいるのではないでしょうか?私たちは新しいコミュニティ、共同体の中に生きています。やがて、この地上の生活が終ると、御国に永遠の住まいがご用意されています。すべてが、神さまの愛、神さまの恵みであります。

 でも、ヨハネは神の愛を受けているだけでは不十分であると言っています。Ⅰヨハネ4:12「いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです」とあります。そうです、互いに愛し合うことなしには、神の愛は私たちのうちに完成されないのです。面白いことに20-21節は、12節と同じ内容を語っています。ヨハネ4:20-21「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。」神さまは霊ですから、目には見えません。では、どうしたら、目に見えない神さまを愛していることが分かるのでしょうか?それは、目に見える兄弟姉妹を愛しているかどうかで分かります。ヨハネは「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です」と言っています。みなさんは、神の愛をいただき、同時に神さまをも愛しておられると思います。でも、本当に神さまを愛しているのでしょうか?もし、兄弟姉妹を憎んでいるとしたら、偽り者、つまり本物のクリスチャンではありません。本物のクリスチャンとは、神さまを愛し、また兄弟姉妹を愛している人であります。神さまを愛してはいるけど、相変わらず兄弟姉妹を憎んでいるならば偽物であります。さきほどのperfect「完成する」を使うならば、神の愛が完成されていない人であります。本当のクリスチャンは、神さまを愛し、そして兄弟姉妹を愛する人であります。もし、神さまは愛するけれど、ある兄弟、ある姉妹を相変わらず憎んでいるとしたら、完成していない人であります。

 言い換えると、神さまを愛することと、兄弟姉妹を愛することはセットなのであります。日本語では一対と言いますが、英語ではそれをpairと言います。日本語では「1足の靴」と言いますが、英語では、a pair of shoesと言います。shoesと複数形になっています。2つの靴があって1足なのです。靴下もa pair of socksです。2つの靴下があって1足なのです。調べてみましたら、ハサミもズボンも手袋もめがねも、複数形になっています。当たり前のことですが、靴は右と左あって1足の靴なんです。どうでしょう?左足だけ靴をはいて、右足が素足の人を見たことがあるでしょうか?片足だけ靴を履いて歩いたら、どうなるでしょう?ペタンコ、ペタンコとなって、すっごく歩きづらいですよね。「両方履くか、両方素足か、どちらかにしてくれ」と言いたくなるでしょう。しかし、クリスチャンは、こと愛に関しては、このようにやっている恐れがあります。とても信仰熱心で、神さまを愛しています。「天のお父様!イエス様!」と愛しています。奉仕も熱心にしているかもしれません。でも、兄弟姉妹を愛せないで、憎んでいる。教会では「ハレルヤ!イエス様、あなたを愛します」。しかし、家に帰ると妻を「ビジュ、ビジュ」叩いている。その人は、片方の足に靴を履いていますが、片方には靴を履いていない状態です。それでクリスチャンの歩みをしたなら、どうなるでしょう?とてもぎこちないですね。ヨハネは「もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです」と言っています。神さまを愛します。そして、兄弟姉妹を愛するならば、その愛は完成されるのです。神さまを愛することと、兄弟姉妹を愛することは、2つで1つ、分けることができません。目に見える兄弟姉妹を愛するならば、目に見えない神さまを愛していることになるのです。どうぞ、神さまの恵みによって、愛を完成させていただきましょう。

2.救いを受けることによって

 私たちは救いを受けることによって、神の愛が完成されるということです。Ⅰヨハネ4:17前半「このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。」「このことによって」とありますから、前の事柄があって、神の愛が完成させられるということです。文脈を見ると、その内容は、13-16節だと思われます。13節に「神は私たちに御霊を与えてくださった」と書いてあります。14節には「御父が御子を世の救い主として遣わされた」とあります。15節には「イエスを神の御子を告白するなら」とあります。16節には「神の愛を知り、信じるなら」とあります。これらを全部1つにまとめるとどうなるのでしょうか?「救いを受ける」ということではないでしょうか?イエス様を信じて、救いを受けるとはどういう意味なのでしょうか?第一に、神の御霊をうちにいただくということです。神の御霊をいただくと、どうなるのでしょうか?13節後半「それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。」とあります。そうです。イエス様を信じたら、私たちの中に神の御霊が宿ります。ということは、私たちの内に神さまがおられるということです。同時に、私たちは神の霊の中にも住んでいます。神さまは霊であり、どこにでもおられる、つまり偏在しておられます。ということは、私たちは神さまの中にいるということです。第二に、救いを受けるとは、御父が遣わした御子イエスを、神の子です」と告白することです。新共同訳は「公に言い表す」と訳しています。救いを受けると、公にイエス様は神の子であると告白する。それは洗礼を意味しています。そうすると、どうなるのでしょうか?15節後半「神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます」とあります。第三に、救いを受けるとは、「神の愛を知り、神の愛を信じる」ということです。そうすると、どうなるのでしょうか?16節後半「神のうちにおり、神もその人のうちにおられます」とあります。ヨハネの書物は本当に繰り返しが多いというか、くどい書物です。私は家内から、たまに「くどい」といわれます。しかし、ヨハネは私以上です。でも、ヨハネの書物は、よーく見ると、統一性、ハーモニーがあります。

 これら3つの中の1つだけを取り上げたいと思います。それは16節です。「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます」。本日のメッセージのテーマになっている「神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにいる」とはどういう意味でしょうか?私たちが神のうちにいるとは、愛のうちにいることと同じです。なぜなら、神は愛だからです。うちにいるとは、ギリシャ語や英語で言うと、「住む」「とどまる」「ずっといる」という意味です。もし、私たちは愛なる神さまの中で住むならば、どうなるでしょうか?それはまるでエデンの園のようであります。神様は、人間が必要なすべてのものをエデンの園に備えました。食べもの、安全、健康、仕事、伴侶、お家…全部ありました。アダムは堕落以前、仕事をしていたと思います。畑を耕したり、動物の名前をつけました。本当に豊かな生活をしていました。しかし、人類に問題が起きたのは、罪を犯して、エデンの園を追い出されたときからです。食べ物も、安全も、健康も、仕事も、伴侶も、お家も、すべて自分で得なければならなくなりました。日本では「自分を信じる」ということが、美徳とされています。一方、日本人ほど保険に入っている国民はいないそうです。生命保険、がん保険、火災保険…今は、地震保険があります。アメリカの保険会社は日本をターゲットにしています。なぜなら、日本人は恐れやすく、心配しやすい国民だからです。そこへ行くと南米の人たちは楽天的です。一日分をかせいだら、仕事を途中でやめて家に帰るそうです。彼らは、明日のことは心配しないで生きています。日本人は、明日の分、来月の分、来年の分も心配しています。なぜでしょう?神さまの愛の中に生きていないからです。

 もう1つは、「神もその人のうちにおられます」です。愛なる神さまが私たちの中に住んでおられるということです。なぜ、こんな表現をするのでしょうか?それは、私たちはこの世に生きているからです。この世とは、神に敵対している人たちのことを表します。イエス様は「世にあっては患難があります」(ヨハネ16:33)と言われました。また、パウロは「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。」(Ⅱコリント4:8)と言いました。私たちはクリスチャンであっても、この世に住んでいます。裏切り、そねみ、迫害、試練、批判、告発…いろいろあります。仲間もいますが、どうしても衝突や仲たがいが起こることがあります。そういうときに、自分の内側に愛なる神さまが住んでおられるという信仰が重要です。愛なる神さまは私たちに何とおっしゃっているでしょうか?「私があなたの味方、あなたを見捨てない。私は世の終わりまで共にいるよ。だから、勇気を出しなさい。」と励ましや慰めをくれます。神さまは、私たちのよりどころ、力の源です。この世にあって私たちを内側から助けてくださるのです。イエス様がどうして、地上でも満たされて暮らすことができたのでしょう?イエス様は「私が父におり、父がわたしにおられる」と言われました。神学的には難しいですが、私たちもそれに近いのではないかと思います。だから、17節後半に「なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです」と書いてあります。私たちが救いを受けるということは、イエス様のような状態になるということです。私たちが愛なる神さまの中にいて、私たちの中に愛なる神さまがおられるということです。神の愛が完成されるとは、神さまの愛の中にどっぷりつかっているということです。

3.恐れを締め出すことによって

 恐れを締め出すことによって、神の愛が完成されているということです。Ⅰヨハネ4:18「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」この箇所には、「完全」ということばが2回出てきます。1つは形容詞で、「完全な愛は恐れを閉め出す」となっています。もう1つは、受身の完了形です。ここでは「愛が完全なものとなっていない」と否定形になっています。恐れは不信仰と同じように、私たちが持ってはならないものです。ここでは愛と恐れが対立的なものとして表現されています。神さまの愛は完全な愛です。私たちは神さまの完全な愛の中で、過ごすことができます。そして、完全な愛は恐れを閉め出します。もし、恐れるならば、刑罰が伴うと書かれています。これはどういう意味でしょうか?神さまが「コラ、恐れるな」と、バシッと私たちに刑罰を加えるのでしょうか?愛なる神さまがそのようなことはしないと思います。私はこのように解釈しています。神さまはこの世界を秩序あるものとして作りました。そこには自然科学の法則があります。また、道徳的な法則もあります。もし、私たちはその法則に逆らうなら、当然、その報いを受けるはずです。私が2階から飛び降りたら、万有引力のゆえに地面に打ち付けられ、大怪我をするでしょう。打ち所が悪ければ、死ぬかもしれません。これは私が自然界の法則に反するようなことをしたからです。このことと神さまが愛であることとは別問題であります。

同じように、私たちが神さまの愛を信頼しないで、恐れるとどうなるでしょう?神さまが罰をくださるのではなく、道徳的な法則によって私たちに刑罰が下るということです。このことを水の上に浮いている船にたとえることができます。重たい鉄の船がどうして、水の上に浮いていられるのでしょうか?それは、船が水を締め出しているからです。これを理科では浮力と言います。船は鋼鉄でできており、1滴の水も入らないように溶接されています。しかし、何かの理由で、船底に穴があいたらどうなるでしょうか?タイタニック号ではありませんが、どんどん水が入ってきます。船にはハッチがあって、それ以上、浸水しないように工夫されています。浸水を止めて、ポンプで水を外へ吐き出せば、沈没しないで浮いていられます。恐れとは何でしょう?恐れとは船底か船体に穴が空いている状態のことです。恐れを自分の中に入れているとしたら、それはとても危険です。ヨブ記はとても複雑な書物で、一言で語ることができません。でも、ヨブが大きな災難を受けてしまった原因があります。それは恐れです。ヨブ3:25「私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。」ヨブを直接的に打ったのはサタンです。「もしかしたら、こんなことが起こりはしないだろうか?」と恐れたのです。そこから、サタンが災いをもたらしたのです。しかし、よく見ると神さまはヨブをサタンから守っていたのです。ヨブ1:10「あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。」これは、サタンの証言ですから、何ともいえませんが、神さまがヨブと、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしていたとあります。この垣こそ、完全な愛とは言えないでしょうか?でも、神さまはヨブを試すために、その垣を一時的に取っ払ったのです。

今は新約聖書の時代です。ヨブは確かに試されましたが、愛なる神さまはそういうことはしないと思います。なぜなら、主イエス・キリストが私たちの代表として試みに会われ勝利されたからです。でも、私たちはこの世に生きています。私たちはこの世という海に浮いている船であります。私たちと海水の間には、神さまの完全な愛があります。それは鋼鉄に匹敵するほど丈夫なものです。私たちは船として、この世のものを排除しながら、浮いています。でも、この世はなんとか船に侵入しようと圧力をかけてきます。水圧と同じです。恐れというものは、鋼鉄の船体に穴を開けるほどの破壊力があります。ある人が聖書に「恐れるな!」と何回書いてあるか調べたそうです。なんと、365回もあるそうです。365は何かの数字と同じです。つまり、神さまは365日、毎日、「恐れるな」「恐れるな」とおっしゃっているということです。主は恐れおののく人と共にいることができません。子どもに自転車の乗り方を教えたことがあるでしょうか?子どもがハンドルを握り、後ろからお父さんが荷台をしっかり押さえています。スピードが出てくると、子どもは「怖い」とか言って、ハンドルを放します。すると、いくら後ろで押さえていても、ハンドルが「くにゃっ」と曲がって、前には進めません。子どもがハンドルを握ってさえいれば、お父さんがどこまでも押して行けるのです。人生のハンドルを握るのはあなたです。神さまが後ろから支えて、あなたの人生を押してくれます。だから、何かを恐れてハンドルを放してはいけません。

3つものが私たちの愛を完成させてくれます。第一は互いに愛し合うことによって神の愛が完成されます。第二は救いを受けることによって神の愛が完成されます。第三は恐れを締め出すことによって神の愛が完成されます。このメッセージを準備して思ったのですが、神さまが最初にくださった愛は不完全だったかということです。私たちがイエス様を信じて救われたとき、霊的に新しく生まれました。その時の愛は不完全だったのでしょうか?私は神さまの愛は、完全な愛だったと思います。しかし、神さまは、その完全な愛が、私たちの内に完成されるというプロセスを歩むように計画されました。たとえば、ここに5歳の子どもと、30歳の大人がいるとします。5歳の子どもは人間として不完全でしょうか?たとえ、子どもであっても、目もあるし、手もあるし、歩けるし、自分で考えることができます。人間としては完全です。しかし、いろんなところが成長していません。私たちも信仰の年数がどうであれ、神さまの完全な愛をいただいていることは確かです。問題は、私たちの中で、神の愛を成長させる、完全なものとさせていただくということです。何べんも言いましたが、これは受身の完了形です。私たちが成長させ、私たちが完全なものにするのではありません。神さまの恵みによって、神の愛が私たちの中で完全なものとなるのです。どういう訳か、神さまは、一度で全部、完成させようとは考えておられません。天国に行くまで、共に歩みながら序々に、完全なものとなるようにしたいのです。まるでお菓子のバームクーヘンです。バームクーヘンは焼いては巻いて、焼いては巻いて、手間暇かけて作るお菓子じゃないでしょうか?世の中、何でもインスタントですが、私たちの内に神の愛が完成されるまでには時間がかかります。「神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。…愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。」

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