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2011年11月27日 (日)

互いに愛し合う     Ⅰヨハネ4:7-11

1つの書物に頂点があるように、きょうの箇所は、ヨハネ第一の手紙の頂点、クライマックスと言えます。7-11節までの間に、愛ということばがなんと13回も出てきます。きょうの箇所を一言でまとめますとこうなります。「神は愛であり、神の愛を知っている者は、互いに愛し合うべきである」ということです。では、神の愛はどこに示されたのでしょう?ヨハネは「ここに愛があるのです」と言っていますが、神の愛の極致はどこにあるのでしょうか?きょうの聖書の箇所は有名なグレート・テキストの1つですので、語る方が負けてしまいます。でも、負けて良いのです。なぜなら、聖書のことばそのものを読んだだけで、満たされるからです。

1.神の愛を知る

 私たちが互いに愛し合う愛とはどのようなものなのでしょうか?世の中では愛が歌われています。教会ではこのように愛が説かれています。私たちは一般的にどういうものを愛するでしょうか?美しいもの、価値あるもの、自分を愛してくれる人を愛するには努力はいりません。男性だったら美人でしょうか?女性だったら宝石でしょうか?子どもたったら自分を可愛がってくれる人でしょうか?でも、それらと反対のものを愛することができるでしょうか?醜いもの、価値のないもの、自分に敵対する人を愛することができるでしょうか?たとえばゴキブリを愛することができるでしょうか?ゴキブリは醜いし、価値がないし、バイ菌を運び込む敵であります。か弱そうな女性でも、新聞紙を丸めて「えぃ!」と叩くのではないでしょうか?もし、人間が罪の中に生まれ、醜くて、神さまに敵対して歩んでいるとしたらどうでしょう?聖くて、義なる神さまは一体どうするでしょうか?「えぃ!」とやられても文句が言えないかもしれません。しかし、神さまのご性質の中には、愛があります。その愛は私たち、人間の愛とは全く違います。美しくなくても、価値がなくても、自分を愛してくれなくても愛する愛です。ギリシャ語ではアガペーの愛と言います。言い換えるならば、無条件の愛です。残念ですが、無条件の愛は、人間は持っていません。無条件の愛は神さまにしかありません。

 ヨハネは何と言っているのでしょうか?Ⅰヨハネ4:7,8「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」このところには、「愛のある者は神を知っている。愛のない者に神はわかりません」と書いてあります。このところにある「知る」はギノスコーで、体験的に知るということばではなく、「分かった」「知るに至った」ということばです。たとえば、1+1は、2です。1+1=2はギノスコーで「分かった」という分野です。これはだんだん分かったのではなく、あるときに分かったのです。そして、1+1=2という知識は増えもしないし、減りもしません。でも、この世には、1+1が必ずしも2にならないことがあります。私たちは「理屈どおりにならないことがある」ということを知ります。これは体験的に知るという方であり、ギリシャ語ではオイダという言葉です。それでは、「イエス・キリストは救い主である」ということを知るのはギノスコーでしょうか?それとも「体験的に知る」のオイダでしょうか?これは、ギノスコーという「知る」です。「イエス・キリストは救い主である」という知識は完全であり、減ることも増えることもありません。しかし、「イエス・キリストが私の人生のあらゆる面においても救い主だなー」と知るのは体験的に知るオイダです。 

実は、ヨハネが言っている「神を知る」という「知る」は、ギノスコーという「知る」です。神を知るのは、神からの霊、つまり啓示によって分かるのです。私たちがいくら研究しても、神さまを知ることはできません。神さまの方から、「私はこういう者だよ」と教えられて、「ああ、あなたが神さまですか!」と初めて分かるのです。その直後、私たちは神から生まれます。神から霊的に生まれると神さまがますます分かります。神さまと日々、交わると「ああ、本当に神さまは愛なんだなー」と体験的に分かるようになります。私たちは信仰生活において、ギノスコーの分野もオイダの分野もどんどん広がっていきます。でも、最初はギノスコーの「知る」が必要です。神の愛も同じです。9節と10節に、「ここに神の愛が示された」「ここに愛がある」と書いてあります。ここってどこでしょう?Ⅰヨハネ4:9,10「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」ここに示されている神の愛というのは、父がひとり子を世に遣わしたことです。つまり、父が罪のためになだめの供え物として御子を遣わしたことです。言い換えると、父なる神さまが私たちの罪を贖うために、御子を与えたことです。どこに与えたのでしょう?それは十字架です。十字架で死なせるために、御子イエス様をこの世に遣わしたということです。だけど、これがどうして神さまの愛なのでしょう?また、それゆえに、互いに愛し合うべきなのでしょう?これは私たちの方から理解しようとしてもできないことです。神さまの方から、教えていただかなければなりません。そして、あるとき、「ああ、神さまは愛なんだ。だから、互いに愛し合うべきなんだ」と分かるのです。

2.なだめの供え物

9節と10節に、「ここに神の愛が示された」「ここに愛がある」と書いてあります。その中心的なものがこれです。「神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」どこに神の愛があるのでしょうか?それは、父なる神さまが、なだめの供え物として御子を遣わされたことにあるのです。ですから、私たちは「なだめの供え物」とは何なのか知る必要があります。「なだめの供え物」という言葉が新約聖書の3つの書物にあります。第一はローマ人への手紙3章です。ローマ3:25「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。」なだめの供え物に神ご自身の義が現れていると書いてあります。神さまは義なるお方です。1つの罪もそのままにしておくことはできません。罪であるならば、必ず、さばかなければなりません。もし、「どんな罪でも赦すよ」と言ったならば、そのときから神さまは神でなくなります。人間はアダムの子孫であり、生まれたときから罪を持っています。そして、成長して大きくなるにしたがって様々な罪を犯します。アダムの罪、先祖が犯した罪、そして自分が犯した3つの罪のためにさばかれるべき存在です。では、どうしたら神さまは犯した罪を赦すことができるのでしょうか?それは血を流すことが必要です。血というのはいのちであります。いのちと引き換えに、罪が赦されるのです。罪はいのちである血でしか贖うことができません。それで、御子イエスはご自身の血を流して、神が義であることを証明されたのです。私たちは十字架を見るとき、「ああ、神さまは義なるお方で、罪はさばかなければならない。だから、御子イエスを十字架でさばいたんだ。私たちの罪のためにイエス・キリストはさばかれたんだ。」と知るべきです。万引きをどうしてもやめられない子どもがいました。お父さんはそれまで、何度か、お尻や手を叩きました。しかし、それでも子どもの万引きは止みませんでした。そのとき、お父さんは竹刀を取り出し、息子を叩きました。大きな音がしましたが、息子は痛くありませんでした。「どうしてだろう?」と薄目を開けると、なんとお父さんは息子の上においていた自分の腕を叩いていたのです。息子は「お父さんやめて!」と叫びました。お父さんは「いや、お前は盗みが罪であることをわかっていない!」と、なおも自分の腕を叩きました。腕から血が飛び散りました。息子は「わかったよ、わかった。お父さんもうやめて!」と叫びました。それから、その息子は万引きをしなくなったそうです。なぜなら、お父さんの心を痛めていたことを知ったからです。

「なだめの供え物」が記されている第二番目の箇所は、ヘブル人への手紙です。ヘブル9:5「また、箱の上には、贖罪蓋を翼でおおっている栄光のケルビムがありました。」ヘブル人への手紙の「贖罪蓋」はギリシャ語で「ヒラスティーリオン」ですが、「なだめの供え物」と同じことばです。契約の蓋を贖罪蓋と言い、贖罪の日に、大祭司が至聖所に入り、その蓋に清い動物の血を注ぎました。大祭司がイスラエル全体の罪を贖うために、年に一度だけ、清い動物の血をたずさえて、至聖所に入りました。ふだんは、至聖所には決して入ることができません。その日だけです。そこに、契約の箱が安置されており、契約の箱の上には、金でできた蓋があります。蓋の両側から中央に向かって、天使ケルビムをあしらった像が翼を広げています。その真中に、血が注がれるのです。しかし、動物の血では限界があります。毎年、毎年、それを繰り返さなければなりません。そこで、イエス様はまことの大祭司として来られ、ご自身の尊い血をささげました。ヘブル9:11-12「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」キリストの血よって、一度で永遠の贖いを成し遂げられたのです。福音書においては、イエス・キリストの十字架の死として歴史的な事実として記されています。しかし、ヘブル人への手紙においては、それは贖いの完成であると記されています。

そして、Ⅰヨハネ2:2「なだめの供え物」とあります。また、Ⅰヨハネ4:10「神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子」とあります。神さまは義であると同時に愛なるお方です。神のかたちに似せて造られた子どもを、さばいて、滅ぼしたくはありません。しかし、そのまま赦すならば義が立ちません。どうしたのでしょうか?これは私の想像です。聖書に書いてありません。父なる神さまにはひとり子がおられました。永遠の神さまが、永遠の昔に生んだ、ひとり息子です。父なる神さまは息子に「私は人類の罪を赦して、救ってあげたい。人類がこのまま滅びに行くのは忍びない」と言いました。息子は「良いでしょう、お父さん。私を地上に送ってください。そして、私の上に全人類の罪をおのせください」。父なる神さまは「愛する息子よ。そうすればお前は、罪となってさばかれ、地獄に行くことになるんだよ」と言いました。息子は「お父さん。それでも構いません。私を地上に送ってください」と言いました。ヨハネ3:16には、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と書いてあります。私たちは本来、罪ある者として、滅びるべき存在でした。しかし、御子イエス様が私たちの代わりにさばかれることによって、私たちは生きる者となったのです。ここに神の愛があるのです。厳密に言うならば、父の愛は罪のさばきのために、御子をなだめの供え物として遣わすことでした。また、御子の愛とは、だまって、なだめの供え物となったということです。ここに神の愛があるのです。

3.互いに愛し合いなさい

 日本人は、よく「お互い様」と言います。それは、「両方とも同じ立場や状態に置かれている」という意味です。英語では両者とも同じ状況下にある場合、in the same boatと言います。「私たちは同じ船に乗っている」という意味です。「同じ穴のムジナ」とも訳されています。一見、無関係でも、同じ仲間、同じ運命のもとにあるということです。クリスチャンとは、どんな立場、どんな運命のもとにあるのでしょうか?Ⅰヨハネ4:11「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」私たちは互いに愛し合う前に、自分たちが、どれほど神さまから愛されているかを知るべきです。どれほど愛されているかというと、私たちはこのままではさばかれ、永遠の死を迎える存在でした。しかし、神さまが御子イエスをなだめの供え物として遣わしてくださいました。御子イエスは私たちの罪を負って、さばかれ死なれました。それゆえに、私たちの罪は取り除かれ、信じるだけで永遠の命が与えられました。ハレルヤ!私たちが救われるためには、神さまの大いなる犠牲があったということです。「ああ、神の愛の背後には犠牲があったんですねー、感謝します。」となります。すると、どうなるでしょうか?私たちが互いに愛し合うとき、自分は神さまから多大な恩義を受けています。図式に表したいと思います。ここにAさんがいます。「お互い様」と言っても、目の前のBさんからはお中元もお歳暮もいただいていません。でも、その前に、イエス様の贖いという大きな贈り物を神さまからいただいています。神さまは「私に返さなくて良いから、それを目の前のBさんにあげなさい」と命じておられます。「ああ、そうですか」とAさんはBさんを愛します。では、Bさんの立場から言うとどうなるでしょうか?「お互い様」と言っても、目の前のAさんからはお中元もお歳暮もいただいていません。でも、その前に、イエス様の贖いという大きな贈り物を神さまからいただいています。神さまは「私に返さなくて良いから、それを目の前のAさんにあげなさい」と命じておられます。「ああ、そうですか」とBさんはAさんを愛します。これが、互いに愛し合うということです。

 日本人は「お互い様」と言う場合、人間同士のことです。巡り巡って、いつか自分のところに返ってくるからという気持ちがこめられています。人間同士だと貸し借りがあるない、あるいは世話になっているかいないか、考えてしまいます。私たちはそれぞれ心の中に通帳を持っています。この人にはこれまであのこと、このこと、いろいろお世話になっている。だから、ちょっとした失礼があっても、「良いですよ」と赦します。また、その人が困っているなら、「いざ鎌倉」とばかり、喜んでお助けするでしょう。しかし、別の人はこれまであのこと、このこと、イヤな思いをさせられてきました。お世話になっているどころか、いろんなお世話しても返してもらったことは一度もありません。だから、心の通帳はゼロかマイナスになっています。そのとき、相手からいやなことを言われました。少々、損失をこうむったかもしれません。そのとき、「もう、赦さない」「もう、助けてあげない」と思うのではないでしょうか。だって、そうでもしないと収入と支出のバランスシートが合わないからです。これが、人間同士の愛の限界です。私たちの心の通帳を見ますと、神さまから無限大の赦しと無限大の愛がどっかーんと振り込まれています。だれかに支払っても、支払っても、心の通帳はプラスのまんまです。相手を見ると、「んー、損するなー、痛いなー」と思うかもしれません。しかし、神さまを見ると、「んー、いっぱいもらっているからなー」となります。みなさん、これが互いに愛し合うということなんです。互いにと言っても、二人の間に、多大な愛と犠牲を与えてくださった神様がおられるのです。私たちは愛なる神さまを介して、互いに愛し合うことが可能なのです。私たちは時々、「愛せないなー、赦せないなー」と思うときがあるかもしれません。そのときは、自分がどれだけの愛をいただいているか、Ⅰヨハネ4章の7節から11節から考える必要があります。

 「ここに愛がある」とヨハネが言っています。私たちは神の愛をみことばから啓示を受けて、知る必要があります。まず、「神さまは愛なんだ」と、ギノスコーで知る必要があります。その後に、神の愛を体験して知る必要があります。あとから、「ああ、神さまは本当に愛なんだ。アーメン」と、オイダという体験的な知識がやってきます。その次に、互いに愛することを実行します。すると、「ああ、神さまが私たちを赦して、愛するって、大変なことだったんだ」と分かります。これは、ギノスコーであり、オイダでもあります。区別するのが難しいです。別に区別しなくても良いかもしれません。どっちだって良いのです。昔、本田弘慈先生から、『ここに愛がある』という伝道メッセージを何度か聞いたことがあります。先生は、最後に「さっちゃん」のことを良く話されました。そのとき、「ああ、前にも聞いたなー」と思うのですが、聞いて、また感動するお話なんです。小学生のさっちゃんには、お母さんがいました。お母さんはひどいやけどで、醜い顔をしていました。さっちゃんは、授業参観日には、「お母さん、絶対に来ちゃだめよ」と断りました。さっちゃんは、滅多に友だちを家に呼びません。なぜなら、「さっちゃんのお母さんはお化けみたいだ」と言われるのがイヤだからです。あるとき、さっちゃんの誕生会をどうしても自分の家でやることになりました。なぜなら、友だちの誕生会に招かれて、こんどは自分の番になったからです。お母さんがごちそうを準備してくれて、誕生会が開かれました。友だちは「さっちゃんのお母さんはいないの?」と言いました。さっちゃんはとっさに「さっちゃんにはお母さんはいないの。あの人は家のお手伝いさんなの」と言いました。友だちが帰ってから、お母さんはさっちゃんに「お話があるの」と言いました。あなたも、大きくなったから話すわ。さっちゃんが2歳くらいのことだったわ。私が買い物に戻って来ると、お家が火事だったの。人々が止めたけど、私は燃える火の中に飛び込んで、あなたを助けたのよ。後から分かったんだけど、さっちゃんが、マッチで遊んでいたらしく、その火が何かに燃え移ったらしいの。お母さんの顔は、その時のやけどなのよ。でも、さっちゃんが無事で大きくなって、お母さんとっても嬉しいわ」と言いました。さっちゃんは「お母さん、ごめんなさい。お手伝いさんなんて言って」と謝りました。それから、さっちゃんは胸をはって、友人にさっちゃんのお母さんは日本一のお母さんと自慢して言ったそうです。

なだめの供え物とは、イエス様の十字架です。十字架とは、当時、最も醜悪で、残酷な死刑の道具であり、「ローマ市民は手を触れてはいけない。呪われるから」と、避けられていました。その十字架にイエス様がかかり、私たちの罪を負われ、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか?」と叫ばれました。ある人たちは「どうせ、復活するから良いだろう」と言います。しかし、Ⅱコリント5:21「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました」と書いてあります。イエス様は全く罪のないお方だったのに、罪そのものとなり、神さまから捨てられました。これまで、一瞬たりとも、御父から離れたことがないのに、捨てられたのです。この痛みと苦しみはイエス様しか分かりません。ここに愛があるのです。醜い十字架こそが、神さまと御子イエスの愛の現れなのです。この愛を知るとき、私たちは互いに愛し合うことが可能になってくるのです。

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2011年11月20日 (日)

神からの霊     Ⅰヨハネ4:1-6

きょうは霊的なことをお話したいと思います。キリスト教会でも霊的なものを全く排除し、教え中心のところもあります。また、ある教会は奇跡や預言など、神秘的なことばかり追い求めます。片方は知的過ぎて、まるで哲学になっています。もう片方は知性を捨て、神秘的な霊の世界に入り込んでいます。神さまは私たちに知性をくださいました。知性も必要です。しかし、世界には私たちの知性では理解しえないこともたくさんあります。ですから、右に偏り過ぎてもいけないし、左に偏り過ぎてもいけません。信仰においてもバランスが必要です。

1.霊だからと言って

Ⅰヨハネ4:1「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。」戦後は物質を追い求めました。その後、「心の時代」ということが言われました。そして、今は「スピリチュアル」という言葉がさかんに聞かれるようになりました。髪の毛を黄色に染めた人と和服を着た太目の人が「スピリチュアル、スピリチュアル」と言っています。昔は霊能者と言いましたが、今はスピリチュアル・カウンセラーと呼び方が上品になりました。多くの人が解決をいだだこうと、そういうところに通っています。日本人は西洋の教育を受けました。ですから、頭では「目に見えないものは信じない」という合理主義です。しかし、心はアニミズム的で霊の存在を信じています。だから、スーパー・コンピューターを設置するときは、神主を呼んで御祓いをしてもらうそうです。おそらく、あのスカイツリーを建築するときも、工事の安全を祈願したことでしょう。頭では「そんなのジンクスだ、迷信だ」と思っています。しかし、心では「得体の知れない力がこの世には存在するんだ」と恐れています。だから、何か悪いことが立て続けに起こると、御祓いをしてもらうのです。また、就職や結婚などの人生の岐路に立たされたとき、神がかったものに助けを求めるのです。

大学でちゃんと勉強した人がいます。その人は、科学的に証明できないものは信じない人です。しかし、占いが当ったり、不思議な体験をすると、コロッとひっくり返ります。科学しか信じないという人に限って、危ないのです。なぜなら、霊的なことに対して免疫がないからです。そういうことが起こると、世界観がひっくり返ってしまい、今度は何でも信じるという極端な方に傾きます。だれとは言いませんが、そういう人が政界や経済界、芸能界にもたくさんいます。何か重要な決断をするとき、霊能者のところにお伺いを立てに行くようです。しかし、その背後には悪魔、悪霊がいるのです。ここに「にせ預言者」と出ていますが、平たく言えば、神さまの代わりに告げる人のことです。彼らは「お告げ」とか「おことば」と言うかもしれません。そこには真理も多く含まれているので、「ああ、もっともだなー」思うかもしれません。でも、その背後で語っている霊が重要なのです。現代訳聖書はⅠヨハネ4:1をこう訳しています。「愛する皆さん。人が何かを語る場合、その人の語ったことの背後に、その人の実体とも言うべき霊がある。その霊にはいろいろあって、神からのものもあれば、そうでないのもある。だから、それを区別しなさい。今日、多くの偽預言者が現れて来ているからである」。現代訳の尾山令仁先生は、「その人の語ったことの背後に、その人の実体とも言うべき霊がある」と言っています。霊は実体であり、本当にあるのです。その霊がにせ預言者を通して、もっともらしいことを語っているのです。全部、嘘ではありません。全部、嘘だったらばれるでしょう。だから、そこにいくつかの真理が含まれています。本物に限りなく似てはいますが、本物ではありません。

にせ預言者の背後にいる実体ともいうべき霊とは、悪霊であり悪魔です。聖霊と比較して、諸霊と言ったりもします。では、なぜ諸霊はそんなことをするのでしょうか?人間は本来、神さまから造られた神の子どもであります。しかし、ほとんどの人たちは造り主から、離れて生きています。そこに悪霊が付け込み、人々を惑わし、造り主から遠ざけ、救われないようにするのです。そして、本来は神の子である人々をいたぶり、奴隷にし、滅ぼそうとしているのです。大体、そういう「お告げ」や「おことば」をいただいた人は、どうなるでしょう?ジンクスや恐れにますます支配されます。どういう方角が良いのか、どういう色が良いとか、どういう食べ物を食べるとか、いちいち指示されます。ある人は階段をいつも右足から昇るとか、お風呂に入るときも右足から入ると決めています。常にそういう占いや霊能者から、あるいは悪霊から直接、聞いている人たちがいます。しかし、みなさん本当の神さまは細かいことまで指示しません。私たちに自由意思を与えておられますので、「自分で考えなさい」と言われます。

韓国の『二つの翼』でこういうお話を聞きました。ある人が牧師先生のところに相談に来たそうです。お祈りすると、白い服を着たイエス様が現れ、「きょうは○○しなさい。明日は○○しなさい」と言います。これは本当でしょうか?お祈りするとイエス様がいつも現れる?では、霊を試してみなさい。イエス様が来られたら、「ナザレ・イエスの御名によって出て行け!」と一発殴られても良いからやってみなさい。光の御使いとして装っている可能性があるので、一回だけ試してみなさい。その人がお祈りをすると、また、現われました。その時、「イエスの御名によって出て行け!」と言いました。頭から角みたいなものが、にゅっと生え、出て行ったそうです。聖霊の働きはこと細かく干渉しません。悪霊が「ああしなさい、こうしなさい」と言うのです。神は私たちに自由意志を与えておられます。私たちの人格を尊重します。「ああしろ、こうしろ」、結果的に自分が拘束されます。神さまは私たちが成長すると私たちにゆだねるのです。霊だからといって、みな信じてはいけません。神さまは私たちに、一般恩寵として知性と意思を与えておられることを忘れてはいけません。

2.ためしなさい

Ⅰヨハネ4:1後半-3「それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。」ヨハネは「それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい」と言っています。では、どのようにしたら、神からの霊か、反キリストの霊なのか分かるのでしょう?ヨハネは「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです」と言っていますが、これはどういう意味でしょうか?当時、グノーシスという神秘主義的な異端がはびこっていました。彼らは「肉体は悪なので、神さまは肉体を取らない。キリストも肉体はなかった」と主張しました。彼らもキリストを信じてはいましたが、それは肉体を持たない天使のような存在でした。でも、本当の救い主は肉体をもってこの世に来られました。なぜでしょう?それは人類の身代わりなって罪を引き受けるためです。言い替えると、私たちの罪の贖いを成し遂げるために十字架にかかられたということです。贖いなしで、キリストを信じると言う場合、その信仰は怪しいものとなります。世の中には数多くの宗教があり、彼らの説く救いがあります。しかし、人類の罪を贖われたキリストによる救いは1つだけです。他の宗教には残念ですが、「罪の贖い」がありません。だから、人となって来たイエス・キリストを告白するかどうかが、決め手になるのです。

もう1つはだれを告白するかです。「イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。」とあります。使徒パウロはⅠコリント12章でこう言っています。Ⅰコリント12:3神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。厳密に言えば、Ⅰヨハネは「告白する」で、Ⅰコリント12章は「言う」です。しかし、両者は同じことを表現しようとしていることは確かです。告白する、あるいは言うということは、重みがあります。イエス様は「心に満ちていることを口が話すのです」と言われました。悪霊はイエス・キリストが大嫌いです。ヤコブ書には「悪霊どもは身震いしている」と書いてあります。ですから、もしその人の中に悪霊がいるならば、あるいは悪霊によって語っている人ならどうでしょう?その人に、「イエスは主です」と告白してみてくださいと頼んだら良いです。おそらく、「イ、イ、イ…」と詰まってしまうでしょう。なぜでしょう?「イエスは主である」という告白は、聖霊様がなさせる事柄だからです。逆に、その人の中に聖霊がおられるなら「イエスはのろわれよ」とは言えないのです。もし、その人が、「イエスはのろわれよ!」と言えるなら、その人の救いは怪しいでしょう。きっと、救われていないのかもしれません。

私は『二つの翼』という韓国の弟子訓練プログラムを先月、卒業しました。1段階が4日間あり、それが6段階までありましたので、計1年半かかりました。講師はプサンのキム・ソンゴン牧師です。プサンは仏教のお寺がとても多く、プサンだけで韓国全体のお寺を養っているそうです。また、占いや拝み屋がとても多く、霊的に最も悪い場所だそうです。そういうところで、4000人以上の教会になったのですから、たいしたものです。福音を伝えますが、単なる福音ではなく「福音の絶対的な能力」です。つまり、イエスの御名によって病を癒し、悪霊を追い出すことによって神の国が来ていることを証明するのです。その教会では、牧師は3時間、セルリーダーは2時間、一般聖徒は1時間祈ることが決まりになっています。なぜなら、悪霊の力がとても強いので、それだけ祈らないとやっていけないからです。日本も八百万の神がいるというので、セミナー期間、プサンでは200人のとりなし手が祈っていました。セミナーは、朝9時から夜の9時半くらいまでとても長いんです。最初、賛美と祈りを1時間くらいやります。各セッションの前にも賛美と祈りがあります。大声で賛美し、大声で祈ります。それを4日間やるとどうなるでしょう?その次の日曜日、力があるんですね。同じメッセージを語っているのですが、内側に力があります。なぜでしょう?やっぱり、イエス様を賛美し、大声で祈ったからです。悔い改めもするし、信仰の告白もしたからです。そのため、内側の汚いものが吐き出され、聖霊に満たされて帰ってくるわけです。だから、力があるんですね。当教会はセルチャーチを目指してから祈祷会を全部やめました。私は一人でも声を出して祈っていますが、教会員はそうでないかもしれません。やっぱり、定期的に大声で賛美し、大声で祈るときを持たないといけないと思います。とにかく、「イエスは主である」と口で告白したなら、聖霊に満たされ、信仰も増すということです。

3.霊を見分ける

Ⅰヨハネ4:5-6「彼らはこの世の者です。ですから、この世のことばを語り、この世もまた彼らの言うことに耳を傾けます。私たちは神から出た者です。神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。私たちはこれで真理の霊と偽りの霊とを見分けます。」もう1つそれが神さまから来ているか、悪霊から来ているのか見分ける方法があります。この世には2種類の人間しかいません。第一はこの世の者です。この世の者とは、この世に属する者と言う意味です。第二は神から出た者です。「出た」というギリシャ語は「エン」ですが、起源、源、出どころ、出生、所属を表す前置詞です。私たちは、かつてはこの世に属していました。悪魔の支配のもとにあり、罪と死の奴隷でした。みんなかつてはそうだったのです。しかし、イエス様のことばを聞いて、神様のもとに来て救われたのです。J.Bフィリップスという人は「この世の子ら」と「神の子ら」とに分けています。世の中には、「この世の子ら」と「神の子ら」の二種類いるわけです。それでは、両者の特徴とは何でしょうか?「この世の子ら」の特徴は、「この世のことばを語り、この世もまた彼らの言うことに耳を傾ける」ということです。この世のことばとは、私たちの理性にぴったりで、納得のいくものでしょう。世の中には、絶対的なものはなく、すべてが相対的である。善と悪は時代によって人間が決めるもの。同性愛者にも人権があり、できちゃった婚もあり。できるだけ権利を主張し、義務は最小にとどめる。教育の場では、聖書や神さまの話はタブーであり、進化論しか教えない。目に見えるものがすべてであり、人生は生きているうちが花である。死んだら天国に行くか、ひょっとしたら何かに生まれ変わるだろう。こういうのが、この世のことばです。そして、その背後には、にせ預言者、反キリストがいます。反キリストが政治や教育、経済、芸術、娯楽に手を伸ばしていたらどうでしょう?「世の終わり」に詳しい先生によると、反キリストは黙示録にあるような準備をしているそうです。黙示録13章に「刻印を受けない者は、買うことも売ることもできない」と書いてあります。科学者は、将来、すべての個人情報が入った、マイクロチップを額か手に埋め込むことを考えているようです。黙示録に「背教の教会」が記されていますが、やがて、すべての宗教が統一されるでしょう。「私はキリストしか信じない」という人は迫害され、買うことも売ることもできなくなります。

一方、神から出たもの、「神の子ら」の特徴は何でしょう?「神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾ける」とあります。「私たちの言うことに耳を傾ける」とはどういう意味でしょうか?「私たち」とは使徒ヨハネや使徒パウロ、あるいは神の預言者たちです。今で言うなら、旧訳聖書と新約聖書です。エペソ2:20「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」当亀有教会が日本基督教団から出て、単立になった理由の1つがこれです。亀有教会のニュースレターができました。これは、お付き合いのある教会の先生方に「新しい歩みを始めましたよ」と送る案内です。その中に、「亀有教会が目指す価値観」というのが書いてあります。4つありまして、第一は「かしらなるキリストに聞き従う教会」です。教会はキリストのからだであり、教会のかしらはイエス・キリストです。単立教会は牧師がかしらになる傾向があるからです。牧師も教会員もみんなかしらなるキリストに聞くのです。第二は「神のことばである聖書を土台とする教会」です。すべてのキリスト教会は聖書を信じているでしょう。でも、「創世記から黙示録まで、神の霊感によって書かれた誤りなき神のことばである」と信じている教会は半分くらいしかないでしょう。私たちは全部、丸ごと、聖霊によって霊感された神のことばであると信じます。第三は「互いに愛し合い、互いに仕え合う教会」です。本当はセルチャーチにしたかったのですが、セルと限定すると、うまくいかないところがあります。しかし、聖書に「互いに愛し合い、互いに仕え合う」と書いてあるのでみんなが同意できると思います。第四は「伝道し、弟子を作り、教会を生み出す教会」です。これまで教会は教団に全部任せていました。宣教師の派遣、牧師の育成、教会の開拓を地域教会がやってきませんでした。そのため、それらが全部、弱ってしまいました。先ほどのプサンの教会もそうですが、オンヌリ教会、ラルフモアーのホープチャペル…まず、教会が取り組んでいます。

神の子は聖書のみことばに耳を傾けるということです。私がこうやって公の礼拝で、聖書からメッセージを取り次いでいることはとても重要なことです。私のことばが神のことばなのではありません。私は誤りなき神のことばである聖書から語っているのです。パウロがテモテにこのように命じています。Ⅱテモテ2:15「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。」アーメン。真理のみことばをまっすぐに説き明かす、このことが重要です。みなさんは牧師が「聖書から正しく語っているなー」と思う限りは、どうぞ耳を傾けてください。「怪しいなー」と思ったら、どうぞ耳をふさぐか、私を追い出してください。イエス様はヨハネ10章で、「羊は彼の声を知っているので、彼について行く」と言われました。クリスチャンは神の子であり、聖霊を内に宿しています。だから、神のことば、すなわちイエス様のことばであるなら、「アーメン」と同調して聞き従うのです。自分の声ではなく、内なる御霊の声に耳を傾けてください。ローマ・カトリックでは、黙想を強調し、自分の声に耳を傾けなさいと指導します。しかし、私たちは霊的存在なので、悪魔の声も人の声も自分の声も入ってきます。昔、夜、ラジオを聞くと、外国の放送も入りました。遠くのモスクワや北朝鮮の放送も入りました。霊の世界もそれと同じです。霊だからと言って、みな信じてはいけません。イエス様を主と告白するチャンネルに合わせるのです。いつもイエス様と交わっているなら、御霊の声がどれか分かります。

悪霊の話をずいぶんしたので、最後にこのみことばをもってまとめなければなりません。Ⅰヨハネ4:4「子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。」私たちクリスチャンは、神さまから生まれ、神さまに属するものです。イエス・キリストが悪魔に勝利したので、その中にいる私たちも悪魔に勝利したのです。そして、私たちのうちにおられるイエス様は、この世のうちにいる悪魔よりも力があるのです。私たちには御子イエス・キリストの血が注がれています。悪魔は私たちを訴えることはできません。また、私たちの内には聖霊によってイエス・キリストが宿っています。私たちはキリストの御名の権威を用いることができます。イエス様はご自分が持っておられる、すべての力と権威を私たちに授けてくださいました。ですから、ピストルに実弾である神のみことばを詰め込みましょう。御霊の剣をいつでも抜けるように準備しましょう。救いのかぶと、信仰の大盾を取りましょう。正義の胸当てを付け、真理の帯を締め、福音の靴を履きましょう。今、野球の日本シリーズが行われているようです。私たちは選手としてどこに属したら良いのでしょう。チーム・ジーザス、イエス様に属するべきです。たとえ補欠であっても、イエス様のチームに属していれば勝利を味わえるのです。イエス様はこの世と悪魔に勝利されました。だから、私たちも主にあって勝利できるのです。

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2011年11月13日 (日)

神の命令     Ⅰヨハネ3:21-24 

「命令」ということばは、日本人は苦手です。命令と聞いただけで、戦争を思い出すでしょうか?あるいは、命令と言われると反発したくなるでしょうか?聖書には神さまの命令がたくさん記されています。しかし、その命令は私たちを不幸にするものではなく、幸福にするためのものです。親は子どもに命じるときがあります。多くの場合は、子どもを守るためのものです。「道路に急に飛び出すなよ」とか「宿題を今日中に済ませなさい」と言います。それは子どものことを思って命じているのです。神さまは、私たちを愛しておられます。そして、神さまも私たちが安全で、幸いを得るように、命令を与えてくださいました。それは不可能な命令ではなく、キリストにあって負い易い命令です。

1.神の命令

神さまが私たちに命じていることは何でしょうか?「命令」はギリシャ語でエントレーですが、他の箇所では「戒め」「律法」とも訳されています。ある英語の訳では、commandmentになっており、十戒と同じことばです。神さまの人間に対する命令ですから、絶対に守らなければなりません。少し前に、当教会の聖書日課で、伝道者の書を読み終えました。「ダイヤル一日一生」でも解説していますので、たまにお聞きください。この書は「空しい、空しい。人生とは空しいものだ」と、仏教の教えとよく似ています。そして、12章の最後に、結論というべきものが記されています。伝道者の書12:13「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」と書いてあります。少し古い口語訳聖書は「神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である」と訳しています。本分?昔は「学生の本分とは○○である」と言われましたが、現代ではそんな言い方はしないでしょう。人間の本分、とても重いことばです。旧訳聖書は「人間の本分は神を恐れ、その命令を守ることである」と教えています。では、福音書では何と言われているでしょうか?マタイ22章で、イエス様は律法学者から「律法の中で、大切な戒めは何ですか」と聞かれました。イエス様はたくさんある旧訳聖書の戒めをたった2つにまとめました。マタイ22:37-39「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。これがたいせつな第一の戒めです。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。最も大切な神の戒めは、第一に神さまを全身全霊で愛することです。第二は、隣人を自分自身のように愛することです。とてもわかりやすいですね。

では、ヨハネは何と言っているでしょうか?旧訳聖書、福音書、そしてヨハネの手紙から語ろうとしています。啓示としてはパウロやヨハネの手紙が一番すぐれています。なぜでしょう?旧訳聖書と福音書は、イエス様が十字架にかかる前のこと、つまり古い契約のことを語っているからです。もちろん、新しい契約についても語っていますが、それは預言としてであります。厳密に言いますと、新しい契約は、イエス様が十字架で贖いを成し遂げられてから効力を発揮したのです。ヨハネは十字架の贖いを通過した後の、神の命令を書いています。だから、「神を恐れよ」とか「神を信じなさい」あるは「神を愛しなさい」とは書いていません。それらは古い契約時代の古い命令です。では、新しい契約における新しい命令とは何なのでしょうか?Ⅰヨハネ3:23「神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。」おおー、なんと鮮明で、なんと分かり易いのでしょう。神様が私たちに与えておられる命令とは何でしょう?2つあります。第一は、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じることです。第二は私たちが互いに愛し合うことです。神様は第一に、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じることを願っておられます。いや、命じておられます。命令、戒め、掟であります。なぜ、でしょう?御子イエスを信じたなら、人間の神さまに対する要求がすべて満たされるからです。なぜなら、御子イエスが私たちの代わりに、律法を全うし、また律法の責めも負ってくれたからです。神さまは私たちが御子イエスを信じたら、「もう十分ですよ」とおっしゃるのです。ところで、「キリストの御名」とありますが、御名とは何でしょう?御名とは、単なる名前ではなく、ご人格という意味です。「キリスト全体、丸ごと」という意味です。だから、イエス様はヨハネ福音書で「いのちのパンである私を食べよ」と命じているのです。食べるということは、丸ごとイエス様を私たちのうちに取り込むということです。つまり、イエス様を信じるとはイエス様を自分の中に受け入れ、イエス様と一心同体になるということです。そして、信じるという中には、信頼、忠誠、服従、依存が含まれます。キリストの御名を信じるとは頭だけではなく、私たちの全存在をかけるということです。

神様が私たちに与える第二の命令とは何でしょう?「キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。」ここにも、「キリスト」が入っています。神様は「私が命じたとおりに」とはおっしゃっていません。「キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合いなさい」と命じておられます。古い契約は何と命じられていたのでしょう?「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ですしかし、この戒めは古いのでしょうか?ヨハネはⅠヨハネ2章でこのように教えています。Ⅰヨハネ2:7-8「愛する者たち。私はあなたがたに新しい命令を書いているのではありません。むしろ、これはあなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いている、みことばのことです。しかし、私は新しい命令としてあなたがたに書き送ります。」これは、古い命令なのですが、ヨハネは「新しい命令として書き送ります」と言っています。何故、ヨハネはあえて新しい命令として言い換える必要があったのでしょう。古い命令から、新しい命令になる過程において、何があったのでしょう?そうです。先週、学びました。キリスト様が私たちのために命を捨ててくださいました。ですから、私たちも兄弟のためにいのちを捨てるべきなのです。古い命令と新しい命令との間に、イエス・キリストの十字架があるのです。イエス様は弟子たちに「私が愛したように、互いに愛し合いなさいよ」と前から命じていました。しかし、それができませんでした。いつから本当にできるようになったか?イエス様が十字架に死なれ、本当の愛を示してからであります。それから、弟子たちには古い戒めではなく、新しい戒めになったのです。ですから、新しい命令、新しい戒めとは、「キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合いなさい」ということなのです。

私たちの周りには赦せない人が何人かいるでしょう。「あの人は好きじゃない。イヤだ。とても愛せない」。そういう人がいるんじゃないでしょうか?「はい、それは鈴木先生です」と言われるかもしれませんね。ありえるかもしれません。でも、そういう人はメッセージも聞きたくないので、礼拝にも来ないでしょう。でも、新約の戒めを心から理解している人は、好き嫌い関係なく、礼拝に参加してメッセージを神さまからいただく人です。日本人は義理人情に篤い国民です。よく、間に人を立てて、和解したり、契約を成立させたりします。仲介者、仲人、交渉人という人もいます。中に立つ人というのは、両者を知っている人で、両者は何らかの恩義を受けています。つまり、直接的にはいろいろ問題や不満があるけれど、間に立ってくれる人の顔を立てるということです。「その人がそういうなら良いでしょう」となります。私たちの最大の仲介者とはだれでしょう?イエス・キリスト様であります。もし、イエス様があなたに「あの人のことを赦してあげなさい」とお命じになられたならどうしますか?「ムーリー。イエス様、無理ですよ」と一蹴できるでしょうか?イエス様は「言いたかないけど、私はあなたのあの罪も、あの罪も、あの罪も赦してあげたのですよ。あの人の罪くらい赦してあげられないのですか」と言います。「いや、だめです。あの人だけは例外です」。イエス様は「私の十字架に免じて、赦してやってはもらえないだろうか」と懇願します。私たちの上に重石が載って、辛くなり、最後に何と言うでしょう。「主よ。わかりました。赦します」となるのではないでしょうか?愛することは、赦すことでもあります。多く赦された者は、多く愛するのです。私たちはイエス様によって多大の罪が赦されました。だから、私たちも自分の隣人、兄弟姉妹を赦すのです。赦したら、こんどは神の愛が注がれ、愛せるようになります。神の命令とは何でしょう?「私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。」

2.神の命令を守る者

もし、私たちが、神さまの命令を守ったならどのような保障、約束、祝福があるのでしょうか?神さまが私たちに命令を与えた理由は、私たちが幸いに生きることができるためです。人間だったら、みな、「幸福になりたい、幸せになりたい」と思うでしょう。多くの人は、幸福を人生の目標にしています。たとえば、「幸せになるために結婚する」と言います。あるいは「あなたをきっと幸せにします」と約束するかもしれません。ある人は「幸せになるためキリスト教を信じます」、あるいは「キリスト教の目的は人間が幸せになることです」と言うかもしれません。私は幸福を人生の目標にしたら失敗すると思います。カール・ブッセが「山のあなたの空遠く幸い住むと人のいふ」と言いました。また、「青い鳥」という童話もあります。幸福は追いかければ、追いかけるほど遠くに行って、なかなかつかまえることができません。虹も、そうでが、虹を追いかけても、虹をつかむことは決してできません。では、あらためて、キリスト教の幸福観を申し上げたいと思います。幸福を人生の目的にしてはいけません。幸福は人生のボーナスです。神さまの命令を守るとき、ボーナスとして幸福が訪れるのです。幸福は神さまに従うことによって受ける、おまけであります。昔、グリコのおまけがありました。キャラメルよりも、おまけが目当てだったかもしれません。でも、大事なのはおまけではありません。神の命令に従うことが大事なのです。では、私たちがキリストの御名を信じ、互いに愛し合うという神さまの命令を守るならば、どのような保障、約束、祝福、つまり幸福があるのでしょうか?

第一は心が安らかであるということです。別の表現では心に責めがないということです。このことは、Ⅰヨハネ3:19-21に書いてあります。19節には「神の御前に心を安らかにされる」とあります。20、21節には「たとい自分の心が責めても大丈夫」と書いてあります。私たちの心には良心というものがあります。良心とは、いわば心に書かれた律法です。イスラエルの人たちは、石に書かれた律法がありました。しかし、私たち異邦人には良心という板に書かれた律法があります。私たちが罪を犯すと良心が責めます。良心は罪を犯さないようにさせる神さまからの一般的な恵みです。しかし、石に書かれた律法が万能でないように、心の板に書かれた良心も万能ではありません。なぜ、良心は不完全なのでしょう?こういうことです。神さまが「キリストにあって赦すよ」と宣言したにも関わらず、良心が自分を赦さないということがあります。いわゆる罪責感がそうです。恥意識、未達成感、トラウマもその中に入るかもしれません。良心は体重計みたいなものです。体重計は大事に扱っていると正しい重さを知らせてくれます。でも、体重計に衝撃を与えたらどうでしょうか?ドーン、ドーンと上でジャンプしたり、放り投げたらどうでしょうか?どこかがおかしくなり、正しい数値を示さなくなるでしょう。心で言うなら、平安がなく、罪責感や恥があるということです。でも、ヨハネは何と言っているでしょうか?20節「たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。」アーメン。私たちの心よりも大きな神さまに信頼すべきです。私たちの良心を神さまに向けたらどうなるでしょう?ヘブル9:14「キリストの血が私たちの良心をきよめる」と書いてあります。ヘブル9:22「心に血の注ぎを受け、邪悪な良心をきよめられる」とあります。キリストの血によって良心がすすがれ、きよめられるのです。その結果、大胆に、神さまの御前に出ることができるのです。キリストにあって、もう責めも咎めもありません。心が安らかなのです。これこそ、幸福な人生の1つではないでしょうか。

第二は何でも神からいただけるということです。Ⅰヨハネ3:22「大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。」「何でも」とはどのようなものでしょうか?何でもです。福音書でイエス様は「求めるなら与えられる」と何度も何度も約束しておられます。しかし、私たちは求めるものは何でも神さまからいただいているでしょうか?正直に答えるとどうでしょうか?神さまに求めて与えられたものと、求めても与えられなかったものがあるはずです。では、求めて与えられたものと、求めても与えられなかったもの、どちらが比率的に高いでしょうか?信仰の人ジョージ・ミューラーみたいな人はともかく、求めても与えられなかったものの方が多いのではないでしょうか?そうなると、このみことばは何なのでしょうか?眉唾でしょうか?ヤコブは、求めても与えられないのは何故か理由を述べています。ヤコブ1:6-7「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」そうです。求めても与えられないのは、心に疑いがあるからです。二心のある人とは、信じる心と信じない心がある人です。しかし、全く疑わないで100%信じられる人っているのでしょうか?おそらくいないと思います。でも、私たちは疑い、つまり不信仰をできるだけ避けて、信じる方を選び取る必要があります。私たちの心から疑いをできるだけ取り除き、求めたら与えられるという信仰の領域をできるだけ広げるのです。そうすると、求めたら与えられる確立がぐっとアップするでしょう。どうしたら良いのでしょうか?私たちの言葉を変えることです。私たちはイエス様のお名前によって、一心不乱になって求めます。病が癒されるように、必要なものが与えられるように、問題が解決されるように祈ります。「イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。」その後が、問題なのです。「しかし、現実は難しいよなー」「いやー、相変わらず痛むよなー」とポロっとつぶやかないでしょうか?それは、「今、祈った祈りをキャンセルします」と言っているようなものなのです。なぜなら、自分の口で否定しているからです。旧約聖書に「主を待ち望め」と何度も言われています。祈り求めたら、主を待ち望むのです。そうすれば、時がかなったら与えられます。信仰とは、目で見えていなくても、手でも触っていなくても、「既に得ている」と確信することです。

第三は神さまが私たちのうちにおられるということです。Ⅰヨハネ3:24「神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。」「神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられる」とはどういう意味でしょうか?実は同じことをイエス様も福音書でおっしゃっていました。ヨハネ14章10節「私が父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか」。これはイエス様がピリポに言ったことばです。これは、イエス様と父なる神さまが一体だということです。イエス様は、神が共におられるインマヌエルの神さまでした。しかし、私たちが神の命令を守るなら、つまり御子イエスを信じ、互いに愛し合うなら、神さまがともにおられるということです。しかし、これはどのようにして私たちに実現したのでしょうか?それは「神が私たちに与えてくださった御霊によって」であります。私たちがイエス様を信じると、神の霊であられる聖霊が私たちの内に宿ります。そうすると、神がその人と共にいることになります。チョーヨンギ先生が「神さまはどこにいますか?」というお話をされたことがあります。創世記を見ると、神様はエデンの園におられました。でも、アダムとエバはエデンの園から追い出されました。もう、エデンの園がどこにあるかも分かりません。出エジプト記を見ると、神様はシナイ山におられたと書いてあります。モーセだけが、神さまに近づくことができました。地が震え、雷鳴がとどろくシナイ山には恐ろしくて登れません。さらに、神さまは幕屋におられたようです。神が臨在する至聖所には年に一回、大祭司しか入れません。その後どうなったでしょう?ソロモンが神殿を建てました。立派な神殿です。そこに神さまはおられました。でも、バビロンによって神殿が壊されました。その後、ナザレのイエス様の内に宿られました。イエス様は十字架に付き死なれました。霊を神さまの御手にゆだねられました。ああ、もう神さまはどこにもおられないのでしょうか?イエス様が天にお帰りになって、10日後、ペンテコステの日に聖霊が降りました。聖霊はキリストの御霊であり、神の霊でもあります。なんと、イエス様を信じる者には、もれなく聖霊が宿るようになったのです。あなたは今、どの時代に住んでおられるでしょうか?神の箱に宿った、旧訳聖書の時代でしょうか?イエスさまと共におられた福音書の時代でしょうか?私たちは、ペンテコステ以降に住んでいます。もう、約束はかなえられたのです。神の命令を守る者に、つまり御子イエス様を信じ、互いに愛し合うなら、神が共におられるのです。ハレルヤ!

旧訳聖書では神が共におられるということが救いでした。神が共におられる、これ以上の幸いはないのです。あなたは神が共におられるということを感謝したことがあるでしょうか?モーセはかつて神のしもべと言われました。アブハラムは神の友と呼ばれました。エリシャは神の人と呼ばれました。なぜなら、彼らと神さまが共におられたからです。新約聖書の私たちはどうでしょうか?「神のしもべ」「神の友」「神の人」みんなすばらしいです。しかし、もっとすばらしい立場があります。それは、「神の子」です。私たちクリスチャンは、神の息子、神の娘なのです。イエスさまが長子で、私たちはみな、その兄弟姉妹なのです。どうぞ、神さまが共におられ、神の子という身分が与えられていることを喜びましょう。私たちは、私たちにすばらしいことをしてくださった、神さまをもっと喜ぶべきです。神さまを喜んだらどうなるのでしょう?そうです。私たちは幸せになれるのです。喜ぶことは、感情ではなく、意志ですから選ぶことができます。私たちが神さまを喜べば、幸福がやって来るのです。幸福は山のかなたにあるのではなく、私たちのすぐ近くにあります。私たちと共におられる神さまを喜び、感謝します。

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2011年11月 6日 (日)

兄弟を愛する     Ⅰヨハネ3:13-20

ヨハネは、兄弟を愛するように何度も勧めています。これはキリストを信じて救いを受けたものが互いに愛し合うということです。ここに「兄弟」と書いていますが、「兄弟姉妹」救われた者たち、クリスチャンのことを言っているのです。一番最初はイエス様が弟子たちに互いに愛し合うように命じました。次は弟子であるヨハネが、「互いに愛し合うように」と、私たちに勧めています。しかし、元来からある日本の愛は「かわいがる」とか「いとしく思う」という意味です。聖書が言う愛とは、やはりズレがあります。きょうは、聖書が言う愛とはどのようなものなのか、3つのポイントで学びたいと思います。

1.命から来るもの

愛は命から来るものです。先週は救いということのいくつかの局面をお話ししました。第一はキリストの十字架の血潮によって罪が贖われた、つまり罪が赦されたということです。第二はキリストによって悪魔の支配から、御子のご支配のもとに移されたということです。第三はキリストを信じたとき、神の種、新しい命が与えられたということでした。内側の性質が変わったということです。ヨハネは今日の箇所で、それらのことをまとめて、死から命に移ったんだと言っています。Ⅰヨハネ3:14「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。」ヨハネは、死のうちにとどまっている人と命に移った人を愛という観点から対比しています。死のうちにとどまっている人はどうなのでしょうか?兄弟を愛さないということです。もっと言うならば、15節「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。」とあります。愛さないだけではなく、兄弟を憎むということです。憎む者は人殺しと同じだということです。この世においては、人を憎むことを殺人だとは言いません。人を憎んだだけで、殺人と同じならば、これまで何十人、何百人殺していたか分かりません。かつての私たちは、人を憎むことは普通であって、人殺しをしているなどとは全く思いませんでした。私の口癖は「ちくしょう」でした。「ちくしょう」「ちくしょう」と言いながら頑張っていました。と言うことは、私のエネルギーは恨みであり、憎しみだったということです。つまり、心の中で、人を殺しながら生きていたということです。なんということでしょう。まさしく、カインの末裔であります。

しかし、そういう者がキリストを信じて救いを受けました。それは言い換えると、死からいのちに移ったということです。いのちに移ったらどうなったのでしょうか?憎しみがだんだん消え、その代わり、愛が芽生えてきたということです。イエス様を信じてもすぐ、愛の人になる訳ではありません。長い間、狼に育てられた子どもが、パッと人間らしく生きられないのと同じです。だれか、自分の食べ物を取るんじゃないかと「ウォー」と威嚇します。だれかが近づくと傷つけられるんじゃないだろうかと「キー」と爪を出すかもしれません。しかし、既に自分は神のいのちに移されています。さらに、神の愛がいのちと共に入ってきます。そうするとどうでしょう?だんだん、愛が生まれ、兄弟や姉妹を愛することができるようになるのです。これは不思議です。これまでは、自分に何か良いことをしてくれるから、自分の味方だったら愛するという条件付きでした。でも、神さまの愛が注がれると、こっちから進んで愛せるようになるのです。兄弟、姉妹を愛するというのは、救われた結果であり、証拠と言っても良いでしょう。みなさんも、そういう経験はないでしょうか?最初は、「クリスチャンって気持ち悪い」と思ったことはないでしょうか?みんなニコニコして、「ハレルヤ!」「感謝します!」とか言って、「ちょっとおかしいんじゃないだろうか?」あるいは、「偽善者かもしれない」と思ったのではないでしょうか?しかし、洗礼を受けて、その交わりに入っていると、いつしか同じようなことをしている自分がいます。「あれー?何だかなー」。それは、イエス様を信じて救われたからです。何べんも言いますが、キリスト教は道徳とか修養ではありません。神のいのちであり、奇跡であります。私たちは奇跡を生きているのです。ハレルヤ!ガラテヤ書5章に「御霊の実は愛である」と書かれています。私たちがイエス様を信じると内側に聖霊が与えられます。この聖霊が、愛という実を結ばせてくださるのです。私たちが愛するのは、いのちに移された結果、つまり救われたからなのです。ハレルヤ!

2.自己犠牲

愛とは自己犠牲です。愛がだんだん成熟してくると、自分のことはどうでも良くなり、むしろ、兄弟姉妹の方が大事になってくるということです。Ⅰヨハネ3:16「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」すごいですね。私が最初にこのみことばを読んだときは、ハンマーで頭を叩かれた気がしました。「そんなの、ありえなーい!」と思いました。人のために死ぬなんて、よっぽどでないと、できないですね。数年前に『タイタニック』という映画がありました。あの豪華客船は絶対に沈まないという自信があったので、救命ボートの数が少なかったのです。最初は子どもや女性を乗せました。やがて、金持ちはわれ先にと乗り込み、定員数に達していないのにボートを降ろしました。定員数を乗せたら、恐らく倍は乗れたでしょう。救命胴衣さえもみんなに行き渡りません。そこには、自分さえ助かれば良いというエゴが映し出されていました。しかし、楽団の人たちは最後まで、船上で演奏をしていました。人間の生まれつきの本能は自分の命をまず守りたいということです。この間、ある方の知り合いが北海道で大事故に見舞われたことを聞きました。地元の先輩が助手席に乗り、本土から来た後輩に運転をさせました。北海道での運転を慣れさせるためです。まだ、10月半ばというのに雪がちらついていたそうです。突然、キツネが道路に飛び出して来ました。後輩は急ハンドルを切って、道路標識に激突したそうです。道路標識に守られ、崖から下には落ちなかったそうです。しかし、道路標識に助手席を当てたので、先輩は大怪我をしました。大たい骨が折れて、骨盤に食い込んだということです。運転手の後輩はほとんど怪我はなかったそうです。なぜでしょう?とっさに、自分をさけたのです。しかし、助手席のことは考えなかったのです。自分の命だけは守りたいというのは、人間の本能であります。

ところが、このⅠヨハネ3:16は「人のために命を捨てろ」と真逆のことを言っているようです。しかし、この聖句を見ると、その前に何か書いてあります。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから・・・」となります。つまりは、「キリストが自分のためにいのちを捨ててくださった」ということを心底、体験するならば、ということです。不思議なことに、Ⅰヨハネ3:16とヨハネ3:16はリンクしているところがあります。ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」どこか、共通しています。神さまがひとり子を与えたという意味は、十字架に御子を与えたということです。まさしく、キリストは私たちの救いのために、ご自分のいのちを捨ててくださったのです。もし、キリスト様が「そんなのいやだ。十字架になんかかかりたくない」と天にお帰りになったらどうでしょう?贖いは成立しないことになり、私たちは今も罪と死の中にいたことでしょう。でも、イエス様はご自分の命を捨ててくださったのです。それゆえに、私たちに救いが与えられました。それは神の愛であり、キリストの愛がそうさせたということです。イエス様は私たちを愛しておられたので、ご自分の命を捨てられたのです。ですから、新約聖書で「愛」ということを語るとき、必ず、イエス様の犠牲的な愛を考えなければなりません。明治の文豪、二葉亭四迷はロシア文学の研究家でもあり、ツルゲーネフの作品を訳しました。あるとき、I love youにあたるロシア語を日本語に訳そうとしました。彼は、二日二晩、悩んだ末、「私は死んでもいいわ」と訳したそうです。彼は、愛とは死ぬこと、命を捨てることだと分かったのです。

また、Ⅰヨハネ3:16を英語の聖書で読むとこれまた感動します。「命を捨てる」ということを、lay downと書いています。直訳すると「身を横たえる」ですが「命を捨てる」という意味もあります。ギリシャ語では「置く、横たえる」が第一の意味です。「命を捨てる」という意味は見つかりません。しかし、どうでしょう?イエス様は十字架に身を横たえました。すると、ローマ兵が手と足に釘を打ち付けました。その後、彼らは十字架につけられたキリストをロープで引っ張りながら、十字架として立てたのです。ということは、身を横たえるとは、十字架の死とやはり関連があります。サイモンとガーファンクルが「明日に架ける橋」というすばらしい歌を歌いました。サイモンが作詞をしたと思いますが、なんとその歌詞がこのⅠヨハネ3:16と同じです。Like a bridge over troubled water I will lay me down.「私が橋となって、激流の中に身を投げ出すよ」と訳せます。まさしく、聖書の兄弟愛を歌った歌ではないでしょうか?私たちの最大の友とはイエス・キリスト様であります。私たちの神さまとの間には、罪という永遠の淵があります。罪人である私たちはどんなに頑張っても、義なる神さまのところへは行けません。このままでは、私たちは死んで、さばかれ、永遠の滅びに行くしかありません。ところがイエス・キリストが十字架で死なれ、罪の代価を払って、3日目によみがえられました。そのことによって、私たちと神さまの間に、十字架の橋をもうけてくださったのです。私たちは橋となられたイエス様を渡りさえすれば、神さまのところへ行くことができるのです。そこはまさしく天国であり、永遠のいのちがあります。私たちはイエス様を信じて、自己犠牲の愛を悟りました。そうすると、今度は、兄弟、姉妹のために命を捨てることができるようになるのです。この愛は、私たちの本能的な愛ではなく、神さまが与えてくださる超自然的な愛なのです。

3行いと真実

 愛とは行いと真実の伴ったものであるということです。Ⅰヨハネ3:17-19「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。」とかく、愛というのは、ことばや口さきだけで終わりがちです。私も講壇から「愛とはこういうものである」と10時間くらい語ることが可能です。実際、私も結婚式の司式を200組以上してきましたので、愛についてすらすらと語ることができます。しかし、愛について語ることと、実際に愛することは隔たりがあります。J.Bフィリップという人は、「愛は単なるセオリーや言葉ではありません。真実にそして実際に愛そうではありませんか」と訳しています。theoryというのは、理論、理屈という意味です。うぁー、教会というところは、一番、愛を語っているところかもしれません。しかし、実際に兄弟姉妹を愛しているかというと、どうでしょうか?ヤコブの手紙にも似たことが書いてありました。ヤコブ2:15-16「もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、『安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい』と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。」まさしく、ことばや口先だけです。教会ではありませんが、私は23歳の頃、百合丘のバッテングセンターでアルバイトをしていた時がありました。建設業を辞めて、就職口を捜していたときです。失業保険もなくなり、厳しい時でした。あるとき、事務の女の人が「きょうは頑張ったわねー、お昼はカツどんでも良いわねー」と言いました。私はてっきり「カツどんが出るのかなー」と、午前の仕事を終えて、休憩室に戻りました。ぜんぜん、そういう気配もありません。私は事務の人に「あれ?お昼、カツどんを出してくれると言ったんじゃないですか?」と聞きました。すると、「カツどんでも食べたら」という提案だったらしいのですね。私は「紛らわしいことを言うなよ!」と怒った記憶があります。アルバイトの先輩に聞いたら、「そんなことがあるわけないだろう」と言われました。彼女はクリスチャンではありませんが、私たちは似たことをしているのではないでしょうか?

愛の伝道者、岸義紘先生は、「愛は名詞ではなく、動詞です」とメッセージされたことがあります。そういえば、聖書に出てくる愛は、名詞よりも動詞形が多いかもしれません。特に、Ⅰヨハネ3章、4章、5章に「愛する」という動詞がたくさん登場します。私はヤコブの手紙もそうでしたが、ヨハネの手紙から連続して語るのは初めてです。ヤコブの手紙は厳しすぎてイヤでした。またヨハネの手紙は、愛さなければならないのでイヤでした。牧師がこういうことを言うと躓くかもしれませんね。正直、私はあまり愛されないで育ちました。狼少年のように一人で生きて、生きて、生き抜こうとがんばってきました。ところが、25歳でクリスチャンになり、神さまの愛を知りました。でも、愛し方をほとんど知りません。人との愛となると面倒なことが多々起こります。衝突したり、傷つけあったり、誤解したり、うまくいかないことが多いのですね。だから、教会は「イエス様、あなたを愛します」でやっていれば良いです。教会に来て、神さまを礼拝して、ちょっと挨拶して帰れば、ぶつかり合うことはありません。多くの牧師は、礼拝説教を終えたら、ほとんど、人とは会いません。集会では話しますが、個人的に話すというのは少ないです。面談やカウンセリングはありますが、自分のことはおそらく話さないでしょう。愛を語ることはあっても、実際に兄弟姉妹を愛するということが少ないのです。しかし、私は1996年に、セルチャーチ、共同体の教会を奨励しました。「教会は建物ではなく、互いに愛し合い、互いに祈り、互いに助けるところが教会なんだ」と言いました。そして、みんなが、積極的に交わり、具体的に愛し合うことを勧めました。

すると当然、牧師自身のあり方というのも問われます。従来の牧師では互いに愛し合う、共同体を作るのは難しいところがあります。講壇から降りて、互いに交わることをしなければなりません。でも、そこにはリスクも伴います。地金が出るというか、欠点や心の傷も見せることになります。いわゆる「ため口」も聞くことになり、新たな傷も受けるでしょう。でも、それが本当の教会なのです。セルチャーチという名前を使う、使わないはともかく、新約聖書の教会は、互いに愛し合い、互いに祈り、互いに助ける教会であります。ですから、傷を受けるリスクを負うことを当然覚悟しなければなりません。また、相手を傷つけてしまうこと、失敗すること、それも覚悟しなければなりません。お互いに親しくなると、つい、思っていることを話すでしょう。他人であれば、見過ごすところを、兄弟姉妹であれば、親切心も加わって、「こうしたら」と言いたくなります。「余計なお世話です」という時もあるかもしれませんが、多くの場合は、兄弟愛から来るものです。結婚生活もそうですが、ハネムーンの後に葛藤期がやってきます。最初は猫をかぶって「私たち気が合うわねー」とやってきました。しかし、親しくなると地金が出て、葛藤期を迎えます。1年後か、2年後です。そのとき、諦めて離婚する人もいます。そうではなく、いろんな衝突を調節してから、本当の親密さがやってくるのです。これは兄弟姉妹の間でも同じです。

浅草の東京ホープチャペルの西田先生も4年前からセルチャーチを始めました。いきなり、20個くらいセルができてとっても楽しかったそうです。しかし、1,2年たったら、ものすごく教会が荒れたそうです。空中分解するセルがどんどん出てきました。そのとき、エリヤハウスをみんなが受けることにしたそうです。エリヤハウスというのは心の傷の癒しをするミニストリーです。教会は「神の家族」と呼ばれています。多くの兄弟姉妹は自分が生まれ育った家庭の傷を持っています。その傷を今度は、神の家族で取り替えそうとします。自分が得られなかったものを、教会で得ようとします。ある人が「私に無条件の愛をくれ」と言います。こっちも「私にも無条件の愛をくれ」と言います。でも、無条件の愛を持っている人はほとんどいません。神さまは無条件の愛をもって愛してくれますが、人間の場合はそうではありません。「教会は、無条件の愛を説いているんじゃないか!」と牧師に言っても、その牧師がそうでありません。日本にはセルチャーチに対して2つの考えがあります。1つは問題が起こるのでセルチャーチをしない。「集会が終ったら、さっさと帰るように。『ハレルヤ!感謝します』と信仰によって勝利するように」言います。もう1つは、当教会のように問題が起こることを覚悟してセルチャーチになることです。私も何度もセルチャーチはやめようと思いました。役員の方からも「うちの教会はセルチャーチなのですか」「うちの教会はセルチャーチではありませんよ」と言われました。私はセルチャーチという名前にはこだわりません。でも、教会は神の家族であり、キリストのからだです。ですから、信仰は神さまと自分の関係だけでは成り立ちません。どうしても兄弟姉妹と交わり、兄弟姉妹と一緒に働いて神さまの使命を果たさなければなりません。兄弟姉妹との交わりは選択科目ではなく、必須科目であります。兄弟姉妹を愛さなければ、本当の信仰はないんだと言わざるを得ません。

あるセルセミナーで、私が司会をしました。ベン・ウォン師が愛についてのメッセージをした後、私が最後に「私には愛がないので、神さま、どうか愛せるように助けてください」と祈りました。ベン・ウォン先生が私の祈りに意義を唱え、次のセッションはそのことが1時間、話し合われました。神さまは「人を愛せない」という人を愛する人に変えられるかということです。ベン・ウォンが教えてくれた結論はこうです。神さまは私たちの意志を変えて、愛することができるように変えてくださるのか?それは不可能です。私たちが自分の意志で愛しますと言えば、神さまの愛が私たちから出てきて、愛せるのです。なぜなら、神さまの愛が私たちの内側に既にあるからです。神さまは私たちの中にご自分の愛があるので、互いに愛し合いなさいと命じているのです。

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