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2011年10月30日 (日)

神から生まれた者   Ⅰヨハネ3:8-12

この世には2種類の人しかいません。第一は悪魔から出た者、悪魔の子どもです。第二は神から生まれた者、神の子どもであります。人は悪魔の子どもか、神様の子どもか、どちらかであって、中間はありません。私がこういうことを言うと、「人は神さまから造られたものであり、みんな神さまの子どもではないか」と反発する人がいるかもしれません。確かに人は神さまから造られた存在です。しかし、アダムが罪を犯してから、すべての人が悪魔の支配下にあり、悪魔の所有物になっているのです。これが聖書的な考えです。もし、すべての人が神さまの子どもであるなら、救われる必要もありません。キリストが来られたのは、悪魔のしわざを打ちこわし、その中にいた私たちを救い出すために来られたのです。

1.悪魔から出た者

悪魔から出た者の特徴は何でしょうか?Ⅰヨハネ3:8「罪を犯している者」と書いてあります。しかし、ギリシャ語の現在形は、継続を意味しますので「罪を犯し続けている者」と訳すことができます。一方、神から生まれた者の特徴は何でしょうか?Ⅰヨハネ3:9「だれでも、神から生まれた者は、罪を犯しません」と書いてあります。これも正しく訳すと「罪を犯し続けません」となります。ヨハネは10節で「そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします」と言っています。聖書を良く見ると、「悪魔から出た者」と書いてありますが「悪魔から生まれた者」とは書いてありません。厳密に言いますと、人はすべて神さまから生まれ、神さまの子どもであったのです。ところが、初めに悪魔が罪を犯しました。おそらく、天使長の一人が「神になりたい」と高慢になって、天から落とされたのだと思います。その後、神さまはアダムとエバを創造し、エデンの園に住まわせました。そこに、悪魔がやってきて、「これを食べたら、神のように善悪を判断する者となる」と誘惑しました。二人がそれを食べたということは、神の主権を犯したということです。そのため二人は堕落し、全人類に罪が入りました。それだけではありません。エペソ2章にあるように、人々は自分の罪過と罪との中に死んだ者となりました。そして、空中の権威を持つ支配者、悪魔のもとで生きるようになりました。ですから、悪魔の支配で生きる人は、神に逆らい、肉と心の望むままを行います。つまり、罪を犯し続けるのがライフ・スタイルだということです。

神さまはそれでも、私たちに良心を与えました。だから、できるだけ悪いことをしないように努力します。悪いことをすると良心が咎め、「ああ、悪いことをしたなー」と後悔します。でも、中には良心が麻痺して、悪いことを平気で行う人もいます。Ⅰヨハネ3:10「義を行わない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです」とあります。そして、12節には兄弟を殺したカインについて言及しています。12節「カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました」と書いてあります。世の中には、カインのように人を殺す人、犯罪人がいます。最近は人を殺して、首と同体を離して、どこかに埋める事件が多くあります。カインがアベルを殺して、土の中に埋めましたが、全く同じです。私たちはテレビや新聞を見ながら「ああ、ひどいなー、なんて悪い人なんだ。世の中にこんな人がいるとは」と嘆くかもしれません。確かにこの世には、善良な人、罪を犯さないように努力して歩んでいる人がいます。では、「彼らに全く罪がないか」というとそうではありません。人を実際に殺すようなことはしていないかもしれませんが、人を憎んだり、「馬鹿者」と言ったり、「あいつがこの世からいなければ良いのに」と思っているかもしれません。それは、実際に人を殺したか、心の中で殺しているかの違いです。神さまの目から見たら、50歩、100歩であります。私たちも殺人者の予備軍です。私たちも姦淫の予備軍です。私たちも窃盗の予備軍です。私たちも詐欺師の予備軍です。違いは摘発されて、法的に裁かれたかどうかです。しかし、神さまの前の裁判では、みんな黒、有罪です。なぜでしょう?すべての人が悪魔の支配のもとにあって、罪を犯す罪の奴隷だからです。私たちはすべて悪魔の持ち物だったのです。このまま悪魔と一緒に、火と硫黄の燃える地獄に投げ込まれる運命だったのです。パウロはエペソ2章で「生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」と述べています。つまり、神のさばきを受ける子どもであったということです。

クリスチャンはひょっとすると、罪を犯す人たちを、別人のように思っているかもしれません。「私はあんなひどい人たちとは違う!」と言うかもしれません。「ビフォー、アフター」というテレビ番組があります。古いどうしようもない家が、匠のわざによって、全く新しい家になります。一番最後に、音楽がかかり、「ビフォー」の家の各部分と、「アフター」の家の各部分と対比されます。先月、井上先生が牧会している、明石の清水ベテル教会におじゃましました。その教会は一般の家を教会堂にリフォームした教会でした。普通の家が本当に、教会堂らしくなっていました。井上先生もあの番組の音楽を入れながら、「ビフォー」と「アフター」が交互になるようにDVDを作っていました。私たちも長年クリスチャンをやっていると、罪の中にいた「ビフォー」を忘れてしまうかもしれません。そして、世の中の人たちを「ああ、とんでもない人たちだ」と眉をひそめるかもしれません。しかし、かつては、私たちは悪魔のもとで、罪の奴隷だったということを忘れてはいけません。そういう自覚がないと、世の人たちに伝道できません。また、神さまの恵みがどれほどすばらしかったのか感激が失せてしまうでしょう。私たちは毎週のこの礼拝において「ビフォー、アフター」を確認すべきです。かつては、アメージンググレースのように、「卑劣な罪を犯し、盲目で、失われていた」存在でした。しかし、今は、驚くばかりの恵みで、罪赦され、眼が開けられ、神の子どもとなったのです。アーメン。

2.キリストのみわざ

Ⅰヨハネ3:8「神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ち壊すためです」。神の子とは、イエス・キリストであり、悪魔のしわざを打ち壊すためにこの世に来られたということです。では、「悪魔のしわざ」とは何でしょう?「悪魔を滅ぼす」ということでしょうか?そうではありません。悪魔が滅ぼされるのは、黙示録にあるように、千年王国の後であります。「打ち壊す」というギリシャ語は「廃棄する」「無効にする」「拘束力のないものとする」という意味です。つまり、キリストは悪魔が持っている力を取り除き、活動できなくするために来られたということです。しかし、悪魔は今も忙しく活動しています。それなのに、力を取り除くとはどういう意味でしょうか?イエス・キリストは私たちを救うために2つのことをしてくださいました。私たちの側から言うと救いは2つの要素があるということです。第一は、イエス様は十字架において、私たちのすべての罪を贖ってくださいました。悪魔のしわざは、私たちの罪であります。私たちが罪を持っているなら、合法的に、罪と死の中に捕らえておくことができたのです。アダム以来、すべての人類は罪のもとにあり、また、自分も罪を犯したので、悪魔はそれを訴えることができます。でも、イエス様は十字架で血潮を流し、私たちを訴える律法を満たしてくださいました。キリストが律法を全うされたので、悪魔はキリストの内にある人を「罪あり」と訴えることができません。第二は、悪魔が罪ある人たちを、自分の国の持ち物としていたということです。生まれつきの人間は神から離れ、失われていただけではありません。なんと、悪魔の持ち物、奴隷となっていたのです。イエス様はご自分が復活するとき、ご自分の領土を造りました。そして、イエス様を信じる者は全て、ご自分の領土の中に移されることになったのです。イエス様は私たちの罪を贖いましたが、同時に、悪魔の支配から私たちを贖ってくださったのです。

これはエジプトにいたイスラエルの民が贖われたことと同じです。エジプトの王様、パロはイスラエルを所有し、自分の町を建てるために奴隷として使っていました。彼らは神によって造られ、神の名前がついていたのに、パロ王のもとで奴隷として暮らしていました。しかし、主はモーセを指導者としてイスラエルを解放しようとしました。そのときに、主は2つのことをしました。第一は1歳の羊を殺して、血を流し、それをかもいと柱に塗らせました。その血が塗ってある家の住民は神の怒りが過ぎこしたのです。その中には良い人も悪いひともいたでしょう。でも、血が塗ってある家にとどまっている限りはさばかれることはありません。第二は、主はモーセを通して10の災いをエジプトに下しました。10番目の災いこそが、血が塗られていない家の長子を殺すということです。エジプト人はそのことをしなかったので、王様の長子から奴隷、家畜まで長子が神によって打たれて死にました。それでパロはどうしたでしょう?「お前ら、出て行け!」と解放しました。エジプトから出て行かせたのです。しかし、途中で気が変わり、パロたちは戦車に乗って追いかけました。目の前は紅海、後ろはエジプトの軍勢が追いかけてきます。しかし、モーセが杖を上げると海が別れ、イスラエルの民は海の底を歩いて渡りました。その後、エジプト軍が追いかけてきましたが、モーセが杖を降ろすと、海が元通りになりました。エジプト軍は戦車もろとも、海の底に沈んでしまいました。エジプトからの脱出は、私たちクリスチャンの救いと同じであります。小羊の血によって神の怒りから贖われました。もう1つはモーセによってパロの支配から解放されたということです。私たちもイエス様を信じたときに、悪魔が支配しているこの世から救い出されて、御子の支配に移されたのです。コロサイ1:13-14「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」アーメン。この箇所にも、罪の赦しと、悪魔からの解放ということが書かれています。

「私たちはどこにいるのか?」ということを知らなければ、悪魔にやられてしまいます。確かに私たちは罪の世の中に生きています。テレビや新聞のニュースを聞いて、「本当にひどいなー」と思うでしょう。そして、「世の中には、悪い人たちがいるから気をつけなければ」と思うでしょう。それは間違ってはいません。用心すべきです。でも、もっと大切なのは、私たちは霊的にどこに住んでいるかです。かつては悪魔の支配にいましたが、今は御子の支配に移された存在であるということです。悪魔、悪霊は勝手に私たちに危害を加えることはできません。なぜなら、私たちは神の国の住民であり、神の子だからです。何か悪さでもしようものなら、「イエスの御名によって退け!」と命じれば良いのです。悪魔は私たちを恐れてはいませんが、私たちの背後にある御子の権威を恐れているのです。ですから、キリストのみわざ、イエス様がどんなにすばらしいことをしてくださったのか、忘れてはいけません。

3.神から生まれた者

やっと本論まで来ました。Ⅰヨハネ3:9「だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。」ここにある、「罪を犯しません」とは、罪を習慣的に犯さないという意味です。つまり、神から生まれる前は罪を犯すことが普通であり、当たり前のことでした。しかし、神から生まれたら、罪を犯すことが普通でなくなったということです。その人の何かが変わったのです。さきほど、救いとは罪が赦され、悪魔の支配から解放されることであると申し上げました。しかし、それではまだ不十分なのです。なぜなら、私たち自身が変わらなければ、また罪を犯してしまうでしょう。イスラエルの人たちも、エジプトから解放されましたが、やっぱりエジプトが恋しいとつぶやきました。その後、律法を与え、約束の地に彼らを住まわせました。しかし、イスラエルは律法を破り、偶像礼拝を行って堕落してしまいました。神さまは「これではいけない、彼らに新しい心を与えなければならない」とお考えになられました。すばらしいことに、新約時代にそのことが成就されました。人はイエス様を救い主として信じると、霊的に生まれ変わり、神の子どもとされます。神の子という身分だけではなく、神の子という性質が与えられます。これを新生とか、新創造と呼んでいます。ヨハネは、「だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです」と言いました。これは聖霊によって生まれた者に、神の種、神の命が与えられているので、罪を犯し続けないということです。すばらしいことではないでしょうか?

道徳というのは、外側からその人を矯正し、押さえつけることです。「…してはいけませんよ。こういうことになるから」と教えます。私たち自身も自分に対して、「…してはいけない」と言い聞かせます。でも、どうでしょうか?人が見ていないとき、あるいは刑罰が伴わないものであれば、平気でそれを破ります。この間、テレビで見ました。はまぐりを取ってはいけないところで、人々がはまぐりを取っています。そこは漁師さんたちがはまぐりを養殖しているので、勝手に取ってはいけないのです。人々は看板を見て、十分、分かっているはずなのですが、監視員がいないと獲ってしまいます。そして、海岸の道路は「漁師さんが通るので、駐車をしてはいけません」と町で看板を立てています。でも、公安委員会が立てたものでないため、交通違反にはなりません。それで、潮干狩りをする人たちの車が止まっています。監視員につかまると、人々は取ったはまぐりを海に返します。人は罰則がないと、きまりを守らないというところがあります。だから、この世においては、やってはいけない罪に対しては、罰則を設けます。では、教会も犯してはいけない罪とそれに伴う罰則を提示すべきなのでしょうか?実際、ジョンカルバンは、ジュネーブにおいて、教会規則を設定し、罰則も与えました。そのため、再洗礼派の人たちは死刑にされました。

確かに、旧約時代は、人々に律法を守らせ、守らない者には罰を与えました。しかし、新約の時代はそうではありません。神さまは私たちがイエス様を信じたときに、聖霊によって新しく生まれ変わらせ、そこに神の種を与えてくださったのです。神の種とは神さまの命であり、神の性質であります。私たちが罪を犯したいという誘惑に駆られたとき、神さまの命が働き、罪に打ち勝つことができるのです。それは自分の意志や努力ではありません。私たちの内側に与えられている命の法則が働くのです。ですから、私たちがすべきことは道徳を守るように意志力を増すことではありません。自分の意志に頼るのではなく、むしろ神さまの命の法則に落ちるのです。パウロはローマ8:2で「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです」と言いました。私たちの肉は「ああ、罪を犯したいなー」という罪の法則の力を受けています。しかし、私たちの内側にある神のいのち、御霊の法則が「そうではない、あなたはこっちの方に行くんだ!」と守ってくれます。では、私たちの意志をどこに向けるべきなのでしょうか?「この罪を犯してはいけない」「あの罪も犯してはいけない」と罪のリストを1つ1つあげて、それを避けるべきなのでしょうか?そういうことをわざわざしてはいけません。そうではなく、私たちの意志を罪から解放してくださるイエス様に向けるのです。罪が来たら「ハレルヤ!イエス様、あなたを礼拝します」と礼拝します。イエス様に向くと、いのちの御霊が自動的に働くのです。イエス様と聖霊は連動しています。私たちが「イエス様!」と呼ぶと、聖霊様が私たちの内側で働くのです。イエスの御名は、罪と悪魔に勝利させます。また、イエスの御名は、聖霊様を発動させ、そこに救いをもたらしてくださるのです。

まとめて言うとこうなります。救いとは、私たちが罪赦され、悪魔の支配から御子の支配に移されたことです。しかし、それだけではありません。私たちが神の子としてふさわしい生き方ができるように、神さまは新しい命を与えてくださいました。それは神さまの性質であり、罪に打ち勝つ力でもあります。神の種、神の命があるので、私たちは栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていきます。これを神学的には新生から聖化へと向かうと言います。新生とはイエス様を信じて新しく生まれた状態です。これを私たちは「救われた」と言います。しかし、新しく生まれたら成長していくのが本当です。赤ちゃんもこの世に誕生したときは大きな喜びがあります。でも、その赤ちゃんがずっと赤ちゃんのままであったら、親は悲しむでしょう。赤ちゃんが成長して、やがては一人前の大人になることがゴールです。私たちも神の子どもとして、霊的に生まれました。その後は、神の息子、神の娘として立派に成長していくのが本当です。私たちが霊的に成長する1つのしるしがあります。それは、幼い時に犯した罪をだんだん犯さなくなるということです。赤ちゃんのときはちょっとした段差でころんで、泣いたでしょう。しかし、大きくなると石ころがあってもころばなくなります。足もひざも強くなり、義の道を進むことができるようになります。ですから、人間の成長と霊的な成長は似ているところがあります。人間は成長すると親の気持ちがだんだん分かるようになります。同じように、霊的な子どもも、父なる神様の気持ちがだんだん分かるようになります。時々、私たちは神さまを悲しませるようなことをするかもしれません。でも、すぐ悔い改めて、正しい道に戻ります。御子イエス様はこの地上で、父なる神さまといつも交わり、みこころの内を歩まれました。イエス様は私たちが地上でどのように生きるべきか、模範をも示されました。「罪を犯さない」というのは悪い表現ではありません。でも、もっと積極的なのは「みこころの内を歩む」ということです。では、みこころの内を歩むとは具体的なはどういうことなのでしょうか?ヨハネはⅠヨハネ3:11でこのように教えています。「互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。」兄弟を愛すること、姉妹を愛することが、神の子どもの大事な特徴の1つです。ヨハネは「互いに愛し合うべきであるということは」神の教え、神のみこころであるとはっきり示しています。神から生まれた者として、また、大人へと成長しつつある者として、「互いに愛し合う」ことに力を向けていきたいと思います。

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2011年10月23日 (日)

神の子ども    Ⅰヨハネ3:1-7 

この世では、人に悪いことをさせないためにどうするでしょうか?「してはいけない」という規則をたくさん作ります。その次には、それを破った場合は、罰を加えるというものです。それで、人は悪いことをしなくなるのでしょうか?ますます、犯罪が巧妙になるばかりか、かえってひどくなるのが実情です。私たちはクリスチャンになるとき、行いではなく、恵みによって救われました。しかし、教会はクリスチャンになってから、「こういうことをすべきであり、こういうことをしてはいけませんよ」と新しい規則を作ってきました。つまり、「救われたのは恵みだけれど、救われてから行いや努力も必要ですよ」と言っているようなものです。しかし、それは立派な詐欺ではないかと思います。では、聖書は何と教えているのでしょうか?

1.神のこども

ヨハネは、何よりも先に、私たちが神どもであることを自覚するようにと教えています。私たちが神さまの子どもとなるために、神さまはどんなことをしてくださったのでしょうか?Ⅰヨハネ3:1「私たちが神の子どもと呼ばれるために、──事実、いま私たちは神の子どもです──御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。」しかし、原文とか英語の聖書は、「見よ!」で始まります。何を見るのでしょう?英語の聖書はSee how great a love「見よ、何と偉大な愛でしょう」となっています。また、詳訳聖書はincredible of love、となっています。incredibleとは、「信じられない、驚くべき、途方もない」という意味です。よく、アメリカ人の若い人が、Oh! incredibleと言います。日本語の聖書は父の愛が後から書かれているので、感動があまり伝わってきません。本当は、「見よ。御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったのでしょう。私たちが神の子どもと呼ばれるために。事実、私たちがそうです。」となるべきです。このところで強調されるべきことは、御父の偉大な愛があったということです。では、偉大な愛とは何のことでしょう?ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」偉大な愛とは、父なる神さまが、ひとり子を与えてくださったということです。神のひとり子イエスは、私たちの罪のため十字架につき、贖いを成し遂げられました。私たちは御子を信じることによって、罪赦され、神の子どもとされるのです。ハレルヤ!御父の偉大な愛のゆえに、救われ、神の子という身分が与えられたのです。

 ヨハネは私たちに「罪を犯さないように」とは命じていません。その代わり、「あなたがたは御父の偉大な愛を受け、神の子どもとされましたよ!」と言っているのです。なぜでしょう?この世の人たちは、御父の愛も知らないし、その愛を受けてもいません。だから、自分が何者であるかも分かりません。そのため彼らは罪を犯し、罪の中で生きるのです。でも、私たちは神さまの大きな愛を受け、神の子という身分まで賜りました。すると、当然、自分は何者なんだという意識、アイディンテティが自分の中に生じるのです。箴言23:7の直訳は「彼は心の中で考えている人そのものである」です。言い換えると、人は「自分はこういう者だ」と考えているように、行動するということです。これをセルフ・イメージとも言いますが、自分が自分をどう思っているかとても重要です。なぜなら、人は自分が思っている自分にふさわしく生きるからです。学校で先生が「お前は不良だ!」と生徒に言ったとします。言われた生徒は「ああ、私は不良なんだ。それだったら、不良らしく振舞うべきだなー」と思うわけです。世の中のしつけや教育があまり効果を上げていないのは、自分が何ものかを教えないで、「ああしてはいけない」「こうしてはいけない」と教えているからです。もし、自分が何者であるかを知るならば、それにふさわしい行動をするでしょう。ルイ17世は子どもであったため、フランス革命後、死刑を免れました。しかし、革命家は憎きルイ16世の子どもが天国に行けないように、極悪人と一緒に牢に入れました。極悪人は子どもであるルイ17世に、「神を呪う言葉を吐け」とか、さんざん悪いことを教えました。しかし、ルイ17世は何と言ったでしょうか?「ぼくは王子なので、そんなことはしない!」と断ったそうです。残念ながら、ルイ17世は栄養失調から来る病気で10歳で亡くなりました。「自分はだれなのか?」ということを本当に知ったならば、私たちはそれにふさわしい生き方をするではないでしょうか。

 さらにヨハネは、「神の子どもとされた私たちの後の状態はどうなのか?」言及しています。Ⅰヨハネ3:2-3「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。」ヨハネは、「私たちは既に神の子どもではあるが、後のことは全部分かっていない。しかし、これだけははっきりしていますよ」と言っています。はっきり分かっていることは、「キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見る」ということです。同じことをパウロもⅠコリントで言っています。Ⅰコリント13:12「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。」アーメン。私たちはイエス様のことを完全には分かっていません。逆に判っていないから信仰が必要なのです。私たちは天に行ったら、イエス様をはっきり見ることができるでしょう。でも、それだけではありません。私たちはキリストに似た者となるということです。キリストに似た者とはどういう意味です。それは顔かたちではありせん。キリスト様が持っていらっしゃる品性に似た者となるという意味でしょう。その品性とは、愛、柔和さ、きよさ、高貴さであります。

 ヨハネはそういう望みをいだいている者はみな、「キリストが清くあられるように、自分を清くします」と言っています。でも、「この地上で適当に暮らして、終わりの日に、キリストに似た者になれば良いんじゃないの」と言いたくなります。どうせ、地上でいくらがんばっても、100%似た者になることは不可能です。では、キリスト様のようにきよくなるのは、死んだ後のことなのでしょうか?ここが問題です。私たちは「清い」というと、世の中から遠ざかり、禁欲的な生活を送らなければならないと思ってしまいます。イエス様の時代、清い人が3種類いました。1つは「自分は清い」と言っているパリサイ人、律法学者でした。彼らは律法を守り行い、清い生活をしていました。しかし、心の中は「ねたみや争い」でいっぱいでした。外側は確かに清かったでしょうが、内側は汚れたものでいっぱいでした。2つ目はエッセネ派と言われる人たちです。バプテスマのヨハネもその一人ではないかと思われていますが、彼らは荒野で生活していました。俗世間から離れ、質素な生活をして、神様を礼拝していました。中世の修道士もそのような生活をしていました。汚れた世とは交わらないという生き方です。3つ目はイエス様のような生活です。イエス様は清いお方でしたが、町や村にでかけました。取税人や罪人と一緒に食事までしました。でも、イエス様は御父と親しく交わり、み旨を行い、清い生活をしていました。神学的に、「イエス様が本当に笑ったかどうか」研究の対象になったことがあります。新約聖書に「カンラカンラと笑った」とは書いていません。しかし、私は、イエス様は笑ったと思います。たとえばペテロが大漁の奇跡を見て、驚いたとき、「私は罪人です。私から離れてください」と言ったときです。当時の船は狭いのですから、離れたら海に入るしかありません。そのとき、イエス様は笑ったんじゃないかと思います。とにかく、イエスさまは清いお方ではありましたが、世の中でちゃんと生活していました。30歳までは大工をし、父ヨセフが亡くなった後は、家族を支えていたと思われます。そのように考えますと、私たちが一般的に「清い」という考えと、聖書が言う「清い」は、ずれがあるようです。

 ガラテヤ書5章に御霊の結ぶ実について書かれています。御霊の実こそが、イエス様に似たきよさではないかと思います。ガラテヤ5:22-23「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」これらの品性をあわせたものがイエス様に似たきよさであると信じます。そして、これは御霊の恵みによって、この地上でも与えられるものです。私たちはやがて、イエス様と顔と顔を合わせるまで、少しずつではありますが、御霊によってイエス様に似た者となることができるのです。私たちはすでに神のこどもです。神のこどもとしての身分は確かにありますが、神様は、実質も神の子となることを願っています。

2.罪を犯さない

Ⅰヨハネ3:6「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。」これを読むと驚かれるのではないでしょうか?「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません」とあるからです。リビングバイブルは「罪を犯し続けない」と訳しています。英語の詳訳聖書は「習慣的に罪を犯さない」と訳しています。では、本当はどうなのでしょうか?ヨハネは「キリストのうちにとどまる」と「罪を犯しません」の両方を動詞の現在形を使っています。これは継続的行為、習慣、態度を表すそうです。と言うことは、その人が「キリストのうちにとどまっています」。継続して、習慣的にとどまっているわけです。そして、同じ人が罪を犯すことがあるかもしれません。でも、それは継続的ではありません。つまり、罪を継続して、習慣的には犯さないということです。キリストにとどまっている人が、どうして罪にもとどまることが可能でしょうか?一時的には罪を犯すことがあっても、罪のないキリストに戻るということです。9節に何と書いてあるでしょう。「だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。」こっちの方がもっと強烈です。私たちは神から生まれた、神の子どもです。神のいのちがあるので、罪を犯し続けることができないのです。つまり、かつての古い私たちは罪を犯すのが当たり前であり、罪を犯しても何の痛みも感じませんでした。かえって「気持ち良い」と感じたかもしれません。しかし、キリストを信じて新しく生まれ変わると、神さまのいのちが与えられます。そうすると、罪を犯すことが当たり前ではなく、不自然になります。神のいのちが私たちを支配しているので、「罪を好んで犯したい」とは思わなくなるのです。ですから、キリスト教の場合は、道徳とは全く違います。道徳は外側から「ああしてはいけない。こうしなさい」と、人を変えようとします。それは、一時的にできたとしても、人が見ていなければやっちゃうでしょう。しかし、神さまはそうではなく、新しい命を与え、おのずと罪を犯さないように性質を変えてくださるのです。罪の法則に対する、御霊の命の法則です。

また、ヨハネは、イエス様が罪に対して画期的なことをされたことも延べています。Ⅰヨハネ3:4-5「罪を犯している者はみな、不法を行っているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。キリストが現れたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。」私たちの性質が変わることも大切ですが、実はこのことがもっと重要なのです。「キリストは現われたのは罪を取り除くためであった」とありますが、ここから私たちはヨハネ1章のバプテスマのヨハネのことばを思い出します。ヨハネ1:29「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」と同じ意味です。多くの場合、「私たちはイエス様が十字架で私たちのすべての罪を負われた。そのことによって、私たちの罪が取り除かれたんだ」と言います。私もイエス様は「私たちの過去の罪、現在の罪、将来犯すであろう罪をも負われたのです」とメッセージします。このことは救いのメッセージとしては間違いありません。そのとおりです。でも、それだけでは罪を取り除くことはできません。確かに、私たちが犯す行為の罪は取り除くことができるでしょう。でも、私たち自身の中には、罪を犯す性質があります。私たちは律法に逆らいたい、律法なんか守りたくないという生まれつきの性質が宿っています。イエス・キリストは十字架で血を流し、代価を払って私たちを贖い出してくださいました。では、その代価はだれに支払われたのでしょう?神さまは私たちをどこから買い取ってくださったのでしょう。ある人は、サタンの支配下から買い取られたとか、罪過から買い取られたとか、あるいはこの世から買い取ってくださったと言います。しかし、それらは正しくありません。合法的な手続きで買うということは、元の所有権が合法的であったことを認めるということになります。神さまはサタン、罪悪、この世が合法的だと認めたことはありません。彼らは非合法的に私たちをぶんど取り、そして支配していたのです。神さまは十字架上の救いによって私たちをこれらから救い出してくださいました。ですから、この面から言えば、救われたのであって買い取られたのではありません。

 では、いったい神さまはどこから私たちを買い取られたのでしょう。ウィットネスリーの『命の経験』という本から引用させていただきます。ガラテヤ4章5節には「これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。」とあります。私たちは神の子としての身分を受けるために、何が必要であったか書かれています。私たちは一体、どこから買い取られて、神の子どもとなることができたのでしょう?そうです。神さまは私たちを律法の下から贖いだされた、つまり、律法の下から買い取られたのです。私たちは罪を犯して堕落したとき、サタン、罪悪、この世の下に落ち込んでそれらの奴隷になりました。しかし、それだけではありません。神の公義にそむき、神の律法を犯して、罪人となってしまったのです。罪人となってしまったので、私たちは神の律法の下に落ち込んだのです。そして、この律法に拘留されたのです。ですから、もし神が私たちを神の義なる律法の下から解放したいのなら、神の律法の要求を完全に満たすような、完全な代価が払われなければなりません。この代価が、神の御子によって流された尊い血なのです。この尊い血が神の律法の要求を満たしたので、私たちは神の律法の下から贖い出されたのです。…あまり感動はありませんでしょうか?みなさん、律法の下にある人間は、いつも「あなたは律法を満たしていない」とか「罪を犯していますよ」とさばかれます。律法はこれで良いということがありません。あなたが生きている限り、律法はあなたを追いかけ、「あなたには罪があります」と私たちを告発するでしょう。でも、イエス様が代価を払い、律法の下から、つまり律法の奴隷から贖い出し、神の子としてくださったのです。私たちが救いを得た、その日以来、もはや律法の支配下にいないのです。ハレルヤ!

 あなたは律法の支配下から、花婿なるキリストのもとに移されました。律法はあなたに罪があると告発します。しかし、もう、あなたは律法とは別れたのです。だれと結婚したのですか?そうです。イエス・キリストと結婚したのです。イエス様は本当に優しくて、あなたが罪を犯さないように守り、導き、励ましてくださいます。私は生まれてこの方、ずっと、叱られ、怒られてきました。家の中だけではありません。小学校で、中学校で、高校で、先生からいつも、いつも叱られてきました。友人からも、会社の人たちからも、批判や非難を浴びました。また、サタンからも「お前には罪がある。お前はこういうことをした。お前はダメなやつだ」と訴えられてきました。クリスチャンになってから、罪が赦されたはずなのに、神様から「まだ足りない。なまけている。罪を犯している」と叱られている気がしました。教会員からも、役員会からも「牧師らしくない。そこが違う」と批判されている気がします。テレビを見ると、「日本の首相にはなりたくないなー」と思います。もちろん、なれませんけど。首相は選ばれたときは、高められます。でも、まもなく非難やバッシングを受け、辞職に追い込まれます。牧師も政治家も面の皮が厚くなければできません。だけど、聖書は何と言っているでしょう?「これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです」とあります。律法から贖いだされたとは、もはや律法の下にはいないということです。それは、具体的にはどういう意味でしょうか?もう、だれからも咎められない、訴えられないということです。咎めが去ったということです。パウロはローマ8章で何と言っているでしょう?ローマ8:33-34「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」アーメン。律法から贖い出されたということは、だれからも罪に定められない、咎められないということです。もし、「罪あり」と訴えられることがあったら、イエス様が神の右の座でとりなしてくださいます。

まとめると、本当の神の子どもとはどういう人でしょうか?第一は、自分は神の子どもなので神の子どもらしく生きます。そして、人格的にもキリストに似るようになるということです。第二は、神の子どもは罪を犯し続けないということです。なぜなら、神のいのちが与えられているからです。また、神のこどもは律法から贖われたので、罪を責められることがないということです。これまでは、私のように「また何か言われるんじゃないかな」とびくびくしていたかもしれません。そういう生き方は、律法の下にある人です。神さまが私たちの味方であるなら、だれからも訴えられることがありません。しかし、現実には私たちの過失や怠惰のゆえに、人々からさばかれることがあるでしょう。でも、「私は律法の下にはいないのだから、だれからもさばかれない」という信仰を持っていたらどうでしょう。今までは、ちょっと注意や忠告を受けたとき、「ああ、さばかれた」と過剰反応していたかもしれません。でも、心の深いところに「キリストのゆえに、咎めは去った。裁かれない」という確信があればどうでしょう。「ああ、ごめんなさい。今後は、気をつけます」となるのです。さらには「正してくれてありがとう」と感謝することができるのです。これが神の子の生き方です。神の子はたとえ、罪を訴えられても壊れないのです。反対の立場から言うなら、どうなるでしょう。神の子は律法の肩を持って、人を訴えてはいけません。むしろ、イエス様のように人々をとりなし、犯した罪を軽くする人です。神の子は贖い主イエス様のようになるべきです。人の罪を責めるのではなく、むしろ、人の罪を贖おうとするのです。

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2011年10月16日 (日)

注ぎの油    Ⅰヨハネ2:24-29

ヨハネは反キリスト、あるいは偽り者に惑わされないようにと注意しています。なぜなら、世の終わりになると自分がキリストだと名乗ったり、偽預言者が多く現われるからです。では、どのようにして教会は正しい教えに基いた信仰を保ち続けることできるのでしょうか。ヨハネは「とどまっている」とか「とどまっていなさい」と何度も述べています。私たちは何にとどまるべきなのか、3つのポイントでメッセージさせていただきます。

1.初めから聞いたこと

ヨハネは、初めから聞いたことにとどまるように命じています。Ⅰヨハネ2:24-25「あなたがたは、初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いたことがとどまっているなら、あなたがたも御子および御父のうちにとどまるのです。それがキリストご自身の私たちにお与えになった約束であって、永遠のいのちです。」初めから聞いたことにとどまっているなら、御子および御父のうちにとどまっていることであり、永遠のいのちが与えられるということです。では、「初めから聞いたこと」とは何でしょうか?「初めから聞いたこと」とは、イエス様が語られたことばです。ヨハネもその一人ですが、使徒たちはイエス様が語られたことばを記憶し、それを書き留めました。でも、最初から私たちが持っているような聖書というのはなかったと思われます。彼らはいくつかの塊として記憶し、それを伝えて行ったのでしょう。やがて、人はこれを信じれば救われるという福音の標準みたいなものを作ったのではないでしょうか。それをギリシャ語ではケリュグマと言いますが、日本語では「使信」とも訳しています。つまり、公に宣べ伝えられたメッセージの内容であります。もし、伝えるべき使信を標準化すれば、次から次へと伝えられてもずれることはありません。

Ⅰコリント15章にそういうものの証拠があります。Ⅰコリント15:1-4「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと」ここには、幾度も「宣べ伝えたもの」と書かれています。おそらく、パウロ自身も「宣べ伝えたもの」を受け、それをコリントの人たちに宣べ伝えたのでしょう。その内容というのは「キリストが罪のために死なれ、葬られ、三日目によみがえられたこと」です。パウロは、「私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです」と言っています。パウロが言っていることと、ヨハネが言っていることは、ほとんど同じです。教会も礼拝中にケリュグマ、使信をみんなで告白したり、あるいは説教で宣言しています。当教会ではあまりやりませんが、「使徒信条」というのがあります。そこには、まさしく、キリストの受肉、十字架の死、復活、王としての支配、再臨まで含まれています。たまには、告白すべきだと思いますし、礼拝で告白すべきだという声もあります。私は最初の頃「使徒信条」を告白しましたが、10年前くらいから、あまり礼拝で告白しなくなりました。

使徒信条は使徒たちが亡くなった後にできたものです。初期の頃はキリストに関する誤った教えがたくさん世に出てきました。そのため、キリストのなされたことを確認するためにも使徒信条を告白しました。でも、啓蒙主義以降、聖書に攻撃の矛先が向けられました。19世紀には自由主義神学が起こり、「聖書は本当に神のことばなのか」疑われるようになりました。そして、聖書は他の書物と同じように批評学の名のもとでバラバラにされました。結局、「これはモーセが書いたのではない。これはパウロが書いたのではない。聖書に書かれているイエスと歴史的なイエスとは違う」とまで言い出しました。それでも、教会はケリュグマ、使信をかろうじて守ってきました。しかしながら、現代の教会は、聖書のその他の部分は自由主義神学に妥協してしまったのです。多くの教会は「聖書は全部正しいとは言えないが、使徒信条だけは正しい」として告白しているのです。私が牧師として一番、主張したいのは、ヨハネが言う「初めから聞いたこと」とは、「使徒信条のイエス・キリストの受肉と死と復活のことだけではない」ということです。私はイエス様が弟子たちに教えた1つ1つのことばも守るべきだと思います。また、イエス様がなされた奇跡やしるしもすべて事実であり、意味があると思います。それだけではありません。旧訳聖書と新約聖書は、神のことばであり、それらを丸ごと信じ、丸ごと守り行うべきだと思います。もちろん、イエス様の新しい契約のもとでという条件付きです。私たちはイエス様が弟子たちに教えた教え全部に、とどまるべきです。

2.そそぎの油

Ⅰヨハネ2:26-27「私は、あなたがたを惑わそうとする人たちについて以上のことを書いて来ました。あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、──その教えは真理であって偽りではありません──また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。」第二は、そそぎの油があなたがたのうちにとどまっている。だから、他の人たちから教えを受ける必要はないということです。J.Bフィリップスは「人間的な教師から教えられる必要はない。御霊がすべてのことをあなたがたに教える」と訳しています。「そそぎの油」とは何でしょう?今、もう言ってしまいましたが…。御霊、聖霊ですね。ヨハネ14章に同じような表現があります。ヨハネ14:26「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」アーメン。ヨハネ16:13「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。」イエス様は、真理の御霊、聖霊のことを話す前に、「しかし」と言ってから話しています。「しかし」というのは、前のことを否定して、「実はこうだよ」という接続詞です。弟子たちは「イエス様がいなくなったら、だれが教えてくれるのだろう」と心配しました。そして、イエス様自身も、話すことがたくさんあるけれど、弟子たちにはそれに耐える力がないということを知っていました。「しかし、真理の御霊が来ると、私が話したことを思い起こさせ、教え、真理に導いてくれる。だから、大丈夫だ」ということです。

弟子たちは実際、そのことを体験しました。ペンテコステの日、天から聖霊が下りました。弟子たちはそそぎの油を受けたのです。すると、一斉に預言や異言を語りました。それだけではありません。旧訳の預言とイエス様がおっしゃったことが、マッチしたのです。そして、イエス様が十字架で死んで、よみがえらなければならなかった理由を知りました。だから、ペテロは聖霊に満たされ、火を吐くようなメッセージを語りました。それで、3000人が福音を信じて救われたのです。数日後、生まれつき足なえの男が癒されて、またペテロがメッセージしました。今度は5000人がイエス様を信じました。それで、当時の指導者は驚いて、ペテロたちを捕らえ、裁判にかけました。再び、ペテロは聖霊に満たされて、キリスト以外に救いはないことをメッセージしました。それで彼らはどう思ったでしょう?使徒4:13「彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。」アーメン。彼らは、自分たちこそ聖書の専門家だと思っていました。しかし、聖書を学んでいない、無学な普通の人たちが、あのような教えをしてびっくりしたのです。真理の御霊、聖霊が彼らに教えたので、だれも太刀打ちできなかったのです。

今の時代も同じことが言えます。近年、教会に復旧したのが、ディボーションあるいはQ.Tと言われるものです。これは聖書のみことばを深く思う、黙想するということです。日本では榎本保郎先生がアシュラム運動でことのことを教えました。榎本先生は聖書の全部が神のことばと信じない神学校を出ていましたが、「みことばに聴く」ということを徹底した先生です。それから、キャンパスクルセードやナビゲーターが、Q.T「静思の時」を広めました。それまでの、ディボーションは「荒野の泉」とか「日ごとの糧」のように、だれかが書いた本を読んで、祈るというのが主流でした。そうではなく、聖書だけを静かに読んで、そこから教えや適用をいただくようにしたのです。そこで、問題になるのが、一般の信徒が、聖書を読んでも間違って解釈するのではないかという心配です。「やっぱり、牧師とか正しい教師から教えてもらわないとだめだろう。」まるで、中世のカトリック教会のようなことを言っていたのです。しかし、聖書に何と書いてあるでしょう。「真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます」、「彼の油がすべてのことについてあなたがたを教える」とあります。多くのクリスチャンは、こういう約束があるにも関わらず、「聖書は分かりにくいからやっぱり解説書が必要だ」と直接、聖書を読むことを避けてきました。そうではありません。1章でも、たった10節でも良いです。静かな心で、じっくり何度も読んでいると、「ああ、こんなことが書いてあるなー」「ああ、こういうことなのか」「ああ、すばらしい」という発見が必ずあります。聖書は難しい書物ではありません。聖書は読んで分かる書物です。なぜでしょう?聖書は聖霊なる神が書いたのです。聖霊がいわば聖書の著者です。だったら、著者である聖霊に聞けば、一番良いのではないでしょうか?

私はこの方法で、いつもメッセージを準備します。駆け出しの頃は、注解書や参考書を読んで、こことあそこをくっつけて、1つの説教にしようとしました。すると頭がものすごく痛くなります。そればかりではありません。恐れで一杯になり、まだ、足りないような気がします。借り物なので、話し方に力がなく、「…と書いてあります」「そう言われています。ご参考までに…」全然、力がありません。でも、注解書や参考書を読まないで、まず、聖書をじっくり瞑想して、神さまからメッセージをいただきます。その後に、注解書で確認したり、例話を入れます。でも、メッセージは神さまからいただいたという確信がありますので、全然、違います。どうぞ、聖霊は牧師にだけ働くのではありません。みなさんにも聖霊のそそぎの油がとどまっています。だから、毎日、ご飯を食べるように、霊の食物、みことばをいただいてください。真理の御霊が家庭教師のようにあなたに教えてくれます。そして、一日中、聖霊は共におられ、あなたに知恵と導きを与えてくださいます。

3.キリスト

第三はキリストのうちにとどまるということです。Ⅰヨハネ2:27の後半から「また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現れるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。」アーメン。構成から見てみますと、キリストのうちに正しくとどまるためには、2つのことが必要です。第一は、はじめから聞いたことにとどまるということです。これは現在の私たちで言うなら、聖書のみことばにとどまるということです。もしも、聖書のみことばが正しくないならば、神さまもイエス様もゆがんでしまうからです。第二は、そそぎの油が私たちのうちとどまるとうことです。聖霊がみことばの意味を解き明かし、神さまのみ旨とイエスの教えを理解させてくださるのです。第三は、最終的にキリストにとどまるということです。聖書、聖霊、そしてキリストです。なぜ、このような順番なのでしょうか?ヨハネが生きていた頃は、イエス様お一人で十分でした。イエス様ご自身がことばであり、教える助け主でした。弟子たちは目の前におられるイエス様にとどまることはとても容易でした。そのお方に、ただ、着いて行けば良かったのです。でも、イエス様は天にお帰りになり、その後、使徒たちも天に帰りました。残されたのは、イエス様がなされたことと、その教えを記した聖書です。そして、イエス様の代わりに来られた聖霊様です。だから、私たちの時代は、どうしても、聖書と聖霊を通して、イエス様に出会うしかないのです。たまには、聖書と聖霊をバイパスして、イエス様に出会う人もいます。インドネシアではイスラムがとても盛んで、キリスト教徒たちを迫害します。あるとき、イスラムの人が建物の前にやってきました。連日の雨のため、水溜りができていました。目の前の建物は普通の建物です。しかし、その水溜りに建物だけが写っていたのではありません。イエス・キリストが大きく写っていたのです。「うぁー」と、イスラムの人たち全員が、そこに打ち倒されました。そして、起き上がったときにはみなクリスチャンになっていたそうです。リバイバルが起こっているところではそういうことがあります。でも、そうでないときは、ちゃんと聖書、聖霊、イエス・キリストと順番を踏むべきなのです。

では、キリストのうちにとどまるとはどういう意味でしょうか?実は、前の聖書と聖霊のとどまるはちょっと表現が違っていました。そのことに気付いていたでしょうか?第一は「初めから聞いたことがとどまっているなら」と書いてありました。主役が初めから聞いたことで、こちらは受身です。第二は「そそぎの油があなたがたのうちにとどまっています」と書いてありました。これも、主役がそそぎの油で、私たちは受ける方です。とどまるかとどまらないかは、聖霊次第みたいなところがあります。でも、第三は「キリストのうちにとどまっていなさい」となっています。あきらかに主役は私たちであり、「意思を持って、そうしなさい」ということです。英語の聖書には、キリストにとどまるということをいろんな表現をしています。J.Bフィリップスは「キリストのうちに継続的に生活しなさい」と訳しています。英国の聖書は「キリストのうちに住みなさい」と訳しています。リビングバイブルは「いつまでも、主と親しい友好関係を保ちなさい」と訳しています。「キリストにとどまる」とはヨハネの中心的な教えです。ヨハネ15章にぶどうの木のたとえが書いてあります。ヨハネ15:4「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」ここからも分かるように、キリストにとどまるかどうかは私たちの責任です。神さまは私たちの意思を尊重しておられます。もし、私たちがキリストにとどまるなら、キリストも私たちの中にとどまるのです。そして、どうなるのでしょうか?キリスト様が実を結ばせてくださるのです。私たちはキリストを離れては実を結ぶことができません。枝である私たちが、幹であるキリストにとどまるときに、キリスト様から命が流れてきて、結果的に実を結ぶのです。とどまるのは私たちがすべきことであり、実を結ぶのはキリスト様の責任です。

どうでしょう?この世は逆を行っているのではないでしょうか?特にスポーツの世界では結果を出さなければなりません。サッカーでもいくら惜しいシュートをしても、入らなければ意味がありません。スポーツの世界は結果がすべてです。ビジネスもそういうところがあるのではないでしょうか?途中の努力とか関係ありません。ある場合は、動機すらも関係ありません。動機が多少不純でも結果が良ければ良いのです。人々は結果を出すために、一生懸命頑張っています。ごく一部の人が結果を出して、頂点を極めます。しかし、多くの人は挫折したり燃え尽きたりします。なぜでしょう?結果ばかりに、フォーカスを当てているからです。私たちはイエス様を信じてクリスチャンになったかもしれません。でも、ある人は思いが変わっていません。「やっぱり頼れるのは自分だけだよな」「まず、お金を稼がなくては」。牧師なら「何とか人数を増やして、教会を大きくしたい」ということでしょうか。私もそういうふうに、30年がんばってきました。でも、それは結果であり、実なのです。香港のベン・ウォン師は「実よりも根が大切なのです。根とは本質です」と口をすっぱく言ってきました。根のまわりに、土があります。その土の中に嘘と真実があり、嘘がいっぱいの場合は、木も育ちません。だから、嘘を真実に置き換える作業が必要だということです。結果よりも、本質が重要だということです。私たちも、本質である、キリストご自身にとどまることが大切なのです。

ある人たちは聖書の教え、教義にとどまっています。カルバンやルターはたくさんの信条を作りました。ある教会ではそういう信条や教理問答を学んで、それを守ろうとしています。それでは人間は変わりません。キリストのうちにとどまるとは、人格関係であり、単なる教えではありません。何故、私たちが教えを守るのでしょうか?それはイエス様を愛しているからです。そして、イエス様の愛を受け、イエス様に従うときに、結果的にそれらの教えを全うしているのです。教えが第一に来るときは、それは律法主義になり、人を死なせます。「文字は殺し、御霊は生かすからです」。私たちはたえずイエス様と交わり、イエス様に聞くのです。すると、イエス様の方からやる気が与えられます。なんと、意思や努力や力さえもイエス様がくださるのです。ある人は、「やる気は別だ」と言いますが、信仰は意思信仰ではありません。私たちの生まれつきの意思は弱いのです。聖書に「主の御名を呼ぶものはみな救われる」とあります。朝、起きれないとき、どうするでしょう。「ああ、あと5分寝たい。ああ、起きたくない。でも起きなければ」。もがけばもがくほど、ふとんにのりが付いたようにへばりついて離れません。でも、その時、試してください。「イエス様、イエス様、感謝します」と言ってみてください。1,2分後、自動的に起きることができます。「ああ、あの人を赦せない」「ああ、あのことが心配でたまらない」「ああ、イヤな出来事を思い出した」、そんなとき「ハレルヤ!イエス様、あなたを礼拝します」と言ってみてください。瞬間的に思い煩いが去り、平安に満たされます。イエス様にとどまることはそんなに高尚なことでも、難しいことでもありません。日々、イエス様と交わり、イエス様と共に歩むことなのです。そうすると、あとから結果である実が結ばれていきます。

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2011年10月 2日 (日)

反キリスト     Ⅰヨハネ2:18-23

中東問題は、世の終わりの目印と言っても過言ではありません。今、パレスチナ自治区が国として認めて欲しいと、国連に求めているようです。アラブ諸国はイスラエルを共通の敵とみなして、パレスチナを後押ししています。おそらく、アメリカはパレスチナの国連加盟に対して、拒否権を行使するでしょう。そうしないと、イスラエルを強硬姿勢に追いやることになるからです。しかし、結果的に、オバマ大統領はアラブ諸国に対して、信用をなくし、大変苦しい立場になります。聖書は、イスラエルが孤立した後、大規模な戦争になると預言しています。その後、一人の人物が現れ、中東の紛争を終らせます。世界中から英雄としてもてはやされたその人物こそが、反キリストのかしらであります。私たちは今後のニュースに注目すべきであります。

1.反キリスト

ヨハネは終わりの時に、反キリストが出現すると言っています。マタイ24章にも同じことが書かれています。反キリストとは何でしょう?まず「私がキリストである」と人々を惑わす人です。人々を偽キリストの方に誘って、本当の信仰を与えないようにします。さらには、本当にキリストを信じる者に対して、迫害を加え、根絶やしにしようとします。ヨハネは紀元後100年近くまで生きていました。その当時、グノーシスという異端が力を増し加えていました。グノーシスとは元来、知識という意味ですが、神秘的なことをして深い知識を求めます。彼らにとってキリストも深い知識を求める1つの方法でありました。しかし、いろんな神々や天使、諸霊を混合させた怪しげな宗教でした。彼らは、聖書よりも、神秘的な体験で得られる悟りを求めていたので、だんだん本質からずれて行きました。最初はキリスト教会の中にいたと思われますが、そこから出て行き、別の群を作ったものと思われます。しかし、ヨハネは「彼らはもともと、私たちの仲間ではなかったのです」と厳しく言っています。

この世の多くの宗教は、いろんな神々、諸霊を合体させています。日本にはインドの神さま、中国の神さま、日本古来の神さまを寄せ集めて、ご本尊にしているものもあります。彼らは1つよりも、大勢いた方が、御利益があると思っています。近くに、柴又の帝釈天があります。帝釈天というのは、密教の守護神で、インドから来た神さまです。毘沙門天もインドや中国から来た、戦いの神さまです。仏教でも密教というのがありますが、大乗仏教と違い、非常に神秘的です。修行を積んだり、呪文を唱えたり、癒しや奇跡も行ないます。新興宗教にも、そのような共通したところがあるようです。しかし、現代において最も驚異的なのがニューエイジの出現です。ヨーロッパのキリスト教会は非常に低迷しています。スペインなどでは若者たちは教会に行かないで、東洋の禅とか、霊的な体験を求めているそうです。ニューエイジはオカルト、チャネリング(死者と語る交霊術)、呪文が含まれます。彼らもキリストを認め、自分も神さまの子どもであるとまで言います。しかし、彼らの神さまは私たちのような人格を持っていません。彼らの救いは、宇宙の大霊なる神と一体化することです。自分が神の一部になり、神が自分になる汎神論的なものです。ニューエイジは音楽や科学、マンガ、ゲームにどんどん入り込んでいます。ヒーリングの音楽の半分以上はニューエイジです。筑波大学の村上和雄という人は『人は何のために祈るのか』『生命の暗号』などの本を書いていますが、完全なニューエイジです。また、子供たちのマンガやゲームもニューエイジの影響を受けています。「セーラー・ムーン」「遊戯王」「ジョジョの奇妙な冒険」というマンガがありました。彼らの特徴は自分ともう1人の自分がいることが特徴です。もう一人の自分は霊であって、特別な力を備えています。自分が戦うというよりも、自分の分身である霊(スピリット)が戦うというような構造です。映画ですと「マトリックス」「インセプション」もその部類です。サタンは仮想の現実を作らせ、そこがまるで現実であるかのように思わせます。ホーム・ページを見ますと、「自分は天使の一人だ」と完全に行っている人もいます。

 では、なぜ、本当の信仰から離れ、異端の方に走ってしまうのでしょうか?1つは教理の1箇所だけを極端に強調し、他の教理を捨ててしまうことです。エホバの証人というキリスト教の異端がありますが、彼らは地獄のさばきを否定しました。その代わり、14万4000人の中に入って、千年王国を受け継ぐことが彼らの救いです。キリストも神さまではありますが、エホバである神様から造られた低い存在とみなされています。彼らは神さまを「エホバ」と呼びますが、それは不可能です。エホバはイスラエル民族が呼んだ神さまの名前であり、私たち異邦人は無理です。私たちはイエス・キリストという贖い主がいてこそ、神さまに近づくことができるのです。そして、私たちは神さまをエホバではなく、「天の父」「お父さん」と呼びます。また、異端の特徴は霊的な体験、預言、さまざまな奇跡を強調します。私は奇跡や預言も信じています。しかし、聖書が土台であり、聖書の方が勝っていることを疑いません。マルコ16章には「みことばに伴うしるし」と書いてありますから、みことばが第一で、しるしや奇跡はそれを証明するものです。しるしや奇跡はおまけであり、あれば良いけれど、なくても良いのです。今、預言喫茶というのがとても流行っているようです。コーヒーを一杯注文したら、預言をしてくれるクリスチャンがやっている喫茶店があるようです。私は預言を否定しません。神さまは今も、預言を通して語られるでしょう。でも、クリスチャンが基本的にしなければならないことは、毎日、聖書を読んで、そこから神の御声を聞くことです。自分でちっとも聖書を読まないで、「預言してください」とあちらこちらに行くのはとても危険です。その人は、占いの霊にはまってしまうでしょう。多くの預言は、私たちが既に神さまから語られていることの確認であります。「ああ、やっぱり神さまはわかっていてくださったんだ」というものがほとんどです。

 世の中はますます終わりに向かっています。そうしますと、隠れていたものがだんだん表面化し、反キリスト的なものがどんどん出てきます。これまでは、密かに騙していましたが、仲間が多くなると、信仰を持っているクリスチャンを真っ向から攻撃してくるでしょう。そこで、私たちは自分が持っている信仰が本物なのか、偽物なのか試されるでしょう。多くの教会がそう言うから本当だろうと考えないでください。日本の半分以上の教会は「聖書は誤りなき神さまのことばである」と信じていません。かろうじてキリストの十字架の贖いを信じているかもしれません。しかし、アダムとエバの歴史性、処女降誕、数々の奇跡、終末論は信じていません。聖書のある部分は理性が受け付けないので信じないのです。私たちは理性を尺度にしてはいけません。それは啓蒙思想が唱えたことです。私たちは聖書がそう言うなら、「アーメン」と信じるしかありません。私は宗教ということばはあまり使いたくありません。しかし、あえて言うなら、キリスト教は聖書の宗教、永遠に変わらないみことばに土台した宗教です。そして、聖書の中心は、私たちのために十字架にかかり、3日目によみがえられた、イエス・キリストです。ですから、私たちは聖書を土台とした教会にちゃんと留まるべきです。虫のように、甘い水を求めて、さまよっているとパクっと食べられてしまいます。自分が洗礼を受けて、属している教会を母教会と言います。他の教会から来られて、客員として留まっておられる。そういう方を決して拒みません、歓迎します。でも、教会員として、メンバーシップがあるなら、相互責任があります。ある場合は、指導や訓戒を受けるかもしれません。でも、お客さんには決してそういうことはしません。「縛られるのが嫌だ、自由にさせて」という人は構いません。でも、世の終わり、ますます誘惑が強まり、反キリストが横行してくるでしょう。イエス様はヨハネ10章で「私の羊は私の声を聞き分けます。また私は彼らを知っています。そして彼らは私について来ます」と言われました。

2.偽り者

 Ⅰヨハネ2:23「だれでも御子を否認する者は、御父を持たず、御子を告白する者は、御父をも持っているのです。」私たちは神さまのところへどのようにして行くことができるのでしょう。イエス様はヨハネ14:6「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」と言われました。なぜ、イエス様以外には、神さまのところへ行けないのでしょうか?このことはとても重要です。旧訳聖書において、イスラエルの民は神さまから特別に選ばれていました。彼らは律法と儀式という古い契約によって、神様に近づくことができました。しかし、私たちは異邦人であり、イスラエルの民ではありません。では、イスラエルの民だったら大丈夫なのでしょうか?いえ、彼らも律法を全うできなかったので、やはり、イエス・キリストが必要です。すべての人類は罪の中にあるので、キリストの贖いがなければ、神さまのもとへ行くことができないのです。では、その人が本当に信じて、救われているのか、どうやって分かるのでしょうか?

 聖書は、「御子イエスを告白するか、それとも否認するか」が決め手であると言っています。では、御子イエスを告白するって何でしょう?Ⅰコリント12:3「神の御霊によって語る者はだれも、『イエスはのろわれよ』と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません。」とあります。主というのはギリシャ語でキュリオスと言いますが、当時、ローマ皇帝がキュリオス、主であり、神的存在でした。ヨハネの頃は、ものすごく迫害が強くなりました。もし、人が「イエスは主である」と言うならば、ローマ皇帝は主ではないということになります。もし、それを公に告白するならば、捕らえられて火あぶりの刑にされるかもしれません。ですから、その時代、「イエスは主」と言うことは命がけだったのです。でも、キリスト教が国教になって平和な時代がやってきたらどうでしょうか?「イエスは主です」「私はイエスを信じます」と告白しても、本当にそうなのか分かりません。口で告白しても心ではそうでないかもしれません。また、信じると言っても、どの程度、信じているのでしょうか?ある曲芸師が、ナイアガラの滝の両側にロープを張って、その上を渡ったそうです。その後、大勢の人たちに向かって「私は一人の人を背負って、向こう側に渡ることができるでしょうか」と言ったそうです。人々は「ああ、きっとできるでしょう」と賛成しました。曲芸師は「できる」と言った人に、「では、私の背中におぶさってください。あなたを背負って行きましょう」と言いました。すると、その人は「無理」と断ったそうです。曲芸師は他の人にも呼びかけましたが、一人もいませんでした。最後に、曲芸師の息子が彼に背負われて、向こう側まで無事渡ったということです。信じるというのは、頭で信じるのではありません。「ひょっとしたら死んでしまうかもしれない」と自分の存在をかけて信じるのが本当の信仰です。でも、イエス様は私たちを決して裏切るようなお方ではありません。私たちは真実でなくても、彼は常に真実だからです。

 では、偽り者とはどういう人でしょうか?ヨーロッパやアメリカでは、洗礼を受けていても、クリスチャンである人がとても少ないと言われています。日本の仏教と同じで、「うちはキリスト教だよ。幼児洗礼も受けたよ」と言います。でも、個人的にキリストを救い主として受け入れていません。聖書は1つの物語であり、良くても哲学か思想です。彼らにはキリスト教の文化や思想があります。「神はおられる。隣人を自分のごとく愛せよ。」くらいは信じています。でも、頭の中は、この世の考えでいっぱいです。合理主義、ヒューマニズム、功利主義に満ちています。この世で成功をおさめ、お金持ちになることが第一です。教会でも毎週、そういうことを話しています。特にアメリカの大教会ではそうです。しかし、偽り者とは、もうちょっと高度だと思います。自分はクリスチャンであると名乗りながら、実はそうではないということです。彼は自分だけが偽り者ではなく、裏で、偽り者を増やすことをしています。聖書では、「毒麦」「ヤギ」「パン種」などとも言われています。私は今の時代、霊を見分ける賜物が本当に必要だと思います。いろんな癒しや奇跡を行い、預言や異言を話したとしても、それが本当に神の霊から来たものなのか?あるいは、悪魔から来たものなのか見極めることが必要です。反キリストの組織は、偽り者を正統的な教会にもぐりこませ、内部から分裂させていくということも聞いたことがあります。表面から見たら、熱心なクリスチャンかもしれません。でも、内部はそうではない。そういうこともありえるのです。

 では、私たちはどうしたら良いのでしょうか?Ⅰヨハネ2:24「あなたがたは、初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いたことがとどまっているなら、あなたがたも御子および御父のうちにとどまるのです。」ヨハネは初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせなさい」と言いました。逆に言うと、「新しい教え」は危険であるということです。私もそうですが、牧師や教師が教えている教えは、新しい教えではありません。聖書にはじめから語られていた教えを、再発見し、それを、洋服を変えて語っているに過ぎません。伝道者の書1:9-10「昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。『これを見よ。これは新しい』と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。」アーメン。16世紀、ルターは信仰義認を唱えましたが、ちゃんとパウロが語っていたことです。18世紀、ジョン・ウェスレーが聖化(きよめ)ということを唱えましたが、聖書が教えていたことです。20世紀、ペンテコステ運動が起こりましたが、やはり聖書で言われていたことです。今は、セルチャーチとかハウスチャーチなどと言われていますが、そういう教会論は新約聖書にあったことです。私たちは「むしろ、聖書に立ち返ろう」と教えています。内容は古くて同じものですが、伝え方とか、方法論が新しいだけです。でも、本質的なものは全く変わりません。

松戸に岡野先生という牧師がおられます。私たちの常磐セルの仲間から、「仙人」と呼ばれています。ほとんど現在のキリスト教会の神学とかには興味がなく、ただ、聖書を信じて、それを行うことに徹しています。私は1996年から「教会は共同体だとか、人間関係だ」とか言ってきました。しかし、岡野先生ははじめから、関係中心の伝道をしていました。地方に行くと歌っている賛美も古くて、話している内容も古いなーという教会もあるでしょう。確かに、方法や手段は古いかもしれません。でも、教えている内容はほとんど同じです。私は都内に住んでいるので、毎月のように、聖会やセミナーに出掛けることができました。そのこと自体はとても感謝なことなのですが、頭の中で統制がとれなくなってしまいます。いろんな知識やいろんな情報が交錯し、焦点が絞れなくなります。ある教会は、毎年、新しい方法を取り入れています。「昨年はあのプログラムだったけど、今年はこのプログラムを入れよう」とやっています。まさしく、プログラム教会です。人間はいつか飽きますので、いつも新しいプログラムを導入しなければなりません。大切なのは本質です。本質は何なのか、その本質に留まる必要があります。その次には聖霊に導かれ、時代を見ながら、方法を変えていくべきでしょう。本質は変えないけど、方法は変えて良いということです。それは、伝道でも、賛美でも、教え方でも共通しています。

ヨハネは、偽り者にならないで、御子および御父のうちに留まることを教えています。ところで、当教会が単立になって数ヶ月になりますが、たとえて言えば船の進路を変えたということです。今、進路を変えて新しい航路を進み始めたところです。最近、私自身の中に「伝道をしなければ、弟子訓練をして後継者を育てなければ」というあせりがありました。私は教会のビジョンを立てるとどうしても、5年後は何名、10年後は何名と右肩上がりのグラフを書いてしまいます。なぜなら、韓国のチョーヨンギ師の影響を受け、大きな信仰を持って求めるなら必ずそうなると信じてきたからです。しかし、ウィットネス・リーがある本の中で「献身」とはどういう意味なのか教えくれました。その中の2つだけお分かちしたいと思います。これは御子および御父のうちに留まることと同じことだからです。第一はこういうものです。「献身の意義は供え物となる事ですから、ささげられたものは全く神のためのものです。ですから献身の目的は神に用いられ、神のために働くことです。しかし神のために働くには、先に神に働いてもらわなければなりません。神に働いてもらった人だけが、神のために働ことができるのです。神のためにどれだけ働けるかは、神にどれだけ働いてもらったかによります。」アーメン。そうです。神さまに働いてもらわなければ、私は何もできないんだということです。神さまに働いてもらわないで、自分が先にやろうとしてきたところが多々あります。自分が勝手に描いたビジョンを神さまに押し付けてやってきました。イエス様はヨハネ5章で「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行なうことができません」と言われました。父なる神さまが働いておられるなら、はじめて、私たちも働くことができるのです。第二はこうです。「牛が供え物としてささげられ、火で焼かれたならば灰と化し、何もなくなります。すべてが終ってしまうのです。同じように献身の結果とは、前途を絶つことです。ある兄弟姉妹は、献身した後も、まだ自分の理想を追っています。それはその人の前途がまだ断ち切られていなことを証明しています。」私は「10年後、カウンセリングとかコーチングして生活できるだろうか?どこに住もうか?でも、家を持つことができるだろうか?」と心配していました。しかし、その本には、「わたしたちの前途も全く一握りの灰と化し、神以外の一切の出口が断たれ、神だけがわたしたちの前途であり、わたしたちの道です。」とありました。「うぁー、私は半分しか焼かれていない、生焼けのはん祭だったなー」と思いました。だから、自分の老後のことを心配していたのです。神さまにささげたなら、私の前途は絶たれますが、神さまが責任を取ってくださいます。神さまを差し置いて、自分で「ああしたい、こうしたい」というのはおかしな話です。御子および御父のうちに留まるとは、神さまに献身することと同じです。「主よ、あなたが働いてくださるなら、私はあなたのために働くことができます。」ただ、業績を上げるために、がんばるというのはクリスチャンの生き方ではありません。まず、神さまに徹底的に働いてもらって、それから神さまのために働くことができるのです。また、将来のことを思い煩う必要もありません。なぜなら、私たちは神さまから買われた者であり、主権はみな神さまの手中にあるからです。どうぞ、永遠に変わらないみことばと御子および御父のうちにとどまりましょう。

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