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2011年9月25日 (日)

三つの誘惑    Ⅰヨハネ2:15-17 

先週は毛利佐保伝道師が、教えの賜物をフルに発揮して、良きメッセージを取り次いでくださり感謝します。私もCDで聞いて大変、教えられました。きょうは、3つの誘惑と題して、ヨハネ第一の手紙からメッセージさせていただきます。この世の背後には悪魔がいて、何とか私たちを「神さまから離そう、離そう」とやっきなっています。悪魔は私たちの自由意思はコントロールできません。だから、人々が手に入れたい欲望を目の前に置いて、それを自らの手で選択させ、罪の中に招き入れるのです。この3つの誘惑は不思議なことに、聖書の始めと真中、そして、終わりの3箇所に書いてあります。創世記3章はアダムとエバが誘惑に負けた記事です。そしてマタイ4章はイエス様が悪魔から誘惑を受けて勝利した箇所です。きょうは、それらの記事も参考にしながら共に学びたいと思います。

1.肉の欲

第一は肉の欲、肉体に対する欲望です。創世記3章に何と書いてあるでしょう。創世記3:6「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く」と書いてあります。エバはその木の実を見て、「ああ、美味しそうだなー、一口、食べてみたいなー」と思ったのです。私たちもデパ地下を歩いていると、「わぁー、美味しそうだなー」と思うものがいくつもあります。マタイ4章で悪魔はイエス様をどのように誘惑したのでしょうか?イエス様は40日40夜、断食をして空腹を覚えておられました。そういう人には何が必要でしょうか?マタイ4:3「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい」と誘惑しました。お腹が減ると、丸い石が、丸いパンに見えてくるでしょう。イエス様は石をパンに変えるくらい、何でもありませんでした。しかし、それをしないで、「人はパンだけで生きるものではない、神のことばである」と退けました。すごいですね。アダムとエバは誘惑に負けましたが、イエス様はその誘惑に勝利しました。

では、私たちはどうでしょうか?「肉の欲」とは、食欲だけではありません。性欲もあれば、いろんなものを消費することの喜びも含まれます。女性は一般的に食欲に弱いですが、男性は性欲に弱いかもしれません。テレビのCMを見て多いのは何でしょう?ビールのコマーシャルが非常に多いですね。他にコーラー、ハンバーグ、ケンタッキー、チョコレート、カレー、カップラーメンがあります。また、グルメ番組や産地直送のTVショッピングがあります。バスでも観光や温泉だけではなく、産地のものを食べられるバイキングがセットになっています。カニやステーキ食べ放題。梨、桃、いちご、みかんの食べ放題。それで、5,980円なんて言われると「行こうかなー」と思います。行ったらどうでしょう?「元を取らなくちゃ」と腹いっぱい食べるでしょう。私は先週、大津バプテストのセルの会議が終った後、明石の井上先生が牧会している教会に行きました。土曜日の朝と夜、近くのレストランに行きました。そこはバイキング形式で、食べ放題でした。私は貧しい家庭で育ったので、どうしても、お皿にいっぱい盛ってしまいます。家にいるときは、粗食なんですが、外に出るとどいう言う訳か食べたい。井上先生から「そんなに取るの?」と笑われました。やっぱり、心の奥底に「元を取らなければ」という思いがあるんですね。

戦後は、とても貧しかったので、食欲に弱いという人はいるかもしれません。町を歩くと、「うぁー、ウェート、オーバーしているんじゃないの」という人が結構いらっしゃいます。今は、食べられなくて困っている人はあまりいません。逆に、「ダイエットして、痩せたい」と言う人が大勢います。現代は消費文明です。どれくらい多く消費するかが喜びになっています。文明国になればなるほど、ゴミや生ゴミが増えてきます。人々は大きな胃袋を抱えて、「もっとくれ、もっとくれ」と叫んでいます。私も近くのアリオのヨーカドーに行くときがあります。前の人の籠を見ると、「え?そんなに食べられるの?」と、驚くことがあります。どうして、必要以上に、食べたり、飲んだりしなければならなのでしょう?それは心の奥底が満たされていないからかもしれません。イエス様は「この水を飲んでも、また渇く」と言われました。また、イエス様は「私の食物は、父の御心を行うことです」とも言われました。私たちは、この世のものだけではなく、神さまがくださる食べ物や飲み物も必要です。もし、心が満たされていないならば、食べても飲んでも満足しないばかりか、それらの中毒になってしまいます。大体、この世のものはみな、中毒性があります。お酒、マックのハンバーグ、ポテトチップス、コーラー、コーヒーも中毒性があります。私たちはそれらのものを「急にやめろ!」と言われても無理です。その代わり、心を満たす、神のことば、神の飲み物を内側に入れます。そうすると、この世が与える、肉の欲を欲しがることが抑えられるのです。

2.目の欲

第二は目の欲です。創世記3章で、エバはどうだったでしょう。創世記3:6「目に慕わしく」と書いてあります。マタイ4章ではどうでしょうか?悪魔はイエス様に対して「神殿の頂から、飛び降りてごらんなさい。神の御使いがあなたを支えるから」と言いました。何故でしょう?その当時、メシアは神殿の頂から、突然、現れ、大いなる奇跡を行うことが期待されていました。子供のヒーローものがみなそうです。ヒーローはどういう訳か、崖の上とか、ビルの上など、高いところに現れます。そこで、自分の名前を名乗り、「ひゅー」と飛び降りてきます。イエス様も奇跡を行なって、人々を驚かせて、「私がメシアだ」と言えば、言えたはずです。でも、イエス様は「主を試してはならない」と、それを拒まれました。人の注目を集めたい、パフォーマンス指向、皆さんにもあるのではないでしょうか?AKB48も、カラや少女時代もパフォーマンスが売り物です。私も、なぜ、そんなに詳しいのでしょう?

目の欲はだれにでもあります。これは容姿ということです。女性ですと、「もっと美しくなりたい」ということです。男性ですと郷ひろみのように「いつまでも、かっこ良くありたい」ということです。テレビCMでは、やはりお化粧のコマーシャルが多いですね。アイシャドー、マスカラ、ファンデーション、化粧水…色んなので化けた後、それをさっと洗い流すものもあります。だったら、はじめからしなければと思いますが、そういう訳にもいきません。たまに、電車でお化粧している若い人を見ます。ずっと、目をいじっている人がいます。最初は、目を大きく開け、アイスクリームを取り出すような機械で何かやります。それから、黒い棒で伸ばし、最後にアルミのような板で整える。目だけで、20分かかります。髪の毛や顔を入れたら、たぶん1時間はかかるのではないでしょうか?それよりも、「中味を磨け」と言いたくなります。しかし、男性にも人によく見せたいという欲望があります。使徒の働き12章にヘロデという王様が出てきます。彼はヤコブを剣で殺したあと、ペテロをも捕らえにかかりました。使徒12:21-23「定められた日に、ヘロデは王服を着けて、王座に着き、彼らに向かって演説を始めた。そこで民衆は、『神の声だ。人間の声ではない』と叫び続けた。するとたちまち、主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫にかまれて息が絶えた」とあります。使徒パウロは普通にしていたのですが、ヘロデは自分を何か偉大な者であるかのように見せたかったのです。

目の欲とは容姿だけではありません。ある聖書の訳では「心が切望しているもの」とあります。肉の欲が肉体に関することであるなら、目の欲は心や思いに関することであります。「目は心の窓である」とイエス様がおっしゃいました。その人が何を欲しているか、何で満たされたいのか?それは、「心が欲しているものである」と言い換えても良いのです。どうして、人々は目立ち立ちことをしたいのでしょうか?それは、たぶん人々からうとんじられたり、無視されて育ったからかもしれません。あるいは価値がないと思われていたかもしれません。そうすると、「私はここにいますよ」「私はこれだけ価値がありますよ」とアピールしたくなります。「人から認められたい。」「人から重要な人物と思われたい。」そういう思いはだれにでもあるのではないでしょうか?だから、人々は一生懸命、働いたり、良いことをします。それで、正当な評価を得れば満足しますが、ある場合は、認められない場合があります。そういうときは、失望落胆し、この世を恨むかもしれません。もし、人の評価で自分の価値を量るならば、どうなるでしょう?エレベーターのように、上がり下がりするような人生になるでしょう。テレビに出てくる人たちは、人の拍手喝采の量で自分の価値を評価しています。彼らはエンターティナーですが、私たちはそうであってはなりません。イエス様はメシアとして、まだ何もしていないのに父なる神さまから何といわれたでしょうか?マタイ3:17「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ」。イエス様はまだ、何もしていないのに、父なる神さまから是認され、評価されていたのです。行いではなく、存在そのものが認められていたのです。だから、サタンから誘惑されても平気だったのです。私たちも、「神さまがどう私を見ておられるか、どう思っていらっしゃるか?」ここに焦点をあわせるなら、目の欲に誘惑されることはありません。

3.暮らし向きの自慢

第三は暮らし向きの自慢です。口語訳は「持ち物の誇り」と訳しています。これを持ったら、「幸せになるだろうなー」という物です。アダムとエバはどうだったでしょうか?創世記3:6「賢くするという木はいかにも好ましかった」。これは、神の代わりに善悪を知ることができるということです。人間はより多くの知恵や知識を持ちたいという欲望があります。では、イエス様の場合はどうだったでしょうか?マタイ4章、悪魔はイエス様を非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて何と言ったでしょう。マタイ4:9「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう」と言いました。ルカ福音書には「それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです」と言っています。イエス様はここで、「馬鹿こけ、これは神さまのものだ」とは言いませんでした。悪魔は本来、人間のものであったものを、人間が罪を犯した後、横取りしていたものと思われます。つまり、この世の物の背後には、悪魔がいるということです。

私たちは自分が何を持っているかによって、自分を量る傾向があります。昔、自分が小さな貿易会社に勤めていたころ、社長の車を運転したことがあります。クラウンを運転していて、自分が何か特別な存在のように思えました。たまにアウディに乗っている人を見ると、私などは振り返ってしまいます。乗っている人は「ああ、振り向かれたかなー」と思うかもしれません。女性ですと、ハンドバックとか、指輪、洋服、靴、そういうもので自分の価値を高めることはないでしょうか?高級品を身につけていると、「自分はすごいんだ」と思うのではないでしょうか?また、住んでいる家はどうでしょうか?一戸建てでお庭がついている、○○ハウス。いや、注文住宅。家の中は高級な家具調度品。大塚家具というのは結構、高いですね。「いや、うちはニトリで良い」という人もいるかもしれません。やっぱり、暮らし向きの自慢というのは、人間の中にあります。携帯でも新型を持っているだけで気分が良いのではないでしょうか?世の中は、「これを持ったら、リッチな気分を味わえますよ」「これを買ったら、快適な生活を送れますよ」と誘惑してきます。ある人たちは、大きな借金までして、そういう生活をしようとします。生活のレベルを上げ過ぎたため、破産状態になっている人もいます。

私たちはこの地上で生きるためにいろんなものが必要です。家や車、家財道具、電化製品、衣類、装飾品、無いよりもあった方が良いに決まっています。でも、なぜ、これが誘惑になるのでしょうか?それは神さま以外のものに頼ってしまうことになるということです。物があれば大丈夫、お金があれば大丈夫。そうすれば、神さまに頼る必要がありません。そして、自分が持っているものをどうしても誇りたくなります。持てば持つほど、プライドも高くなり、神さまは低い存在になります。ベン・ウォン師のおじょうさんがネパールへ短期宣教に行ったことがあるそうです。今から、10年以上前です。当時のネパールは非常に貧しく、不衛生な国でした。おじょうさんが、テントに泊まったら、なんとサソリが入ってきたそうです。もちろん、おトイレも粗末で、穴がぽこんと掘られ、ちょっとした囲いがあるだけです。お嬢さんは、またネパールに行きたいと言ったそうです。若い人は欧米を旅行するよりも、カンボジアやバングラディッシュに行ったほうがよっぽど勉強になるかもしれません。おそらく、人生観が変わります。でも、現代文明を全部否定して、貧しくなるというのは不可能です。私たちはそういう生活に慣れてしまいました。贅沢はよくないかもしれませんが、ある程度のものはやはり必要です。でも、物があれば快適で幸せかというと、それだけではないということも知る必要があります。イエス様は金持ちの人に「人の命は持ち物によらない」と言われたことは真実だと思います。

結論:

ヘンリ・ナーウェンという人の本が日本の牧師たちの間でとても読まれています。銀座の教文館にもたくさん並べられていました。彼はオランダのカトリック司祭で、大学教授でした。50代になってから霊的な不安を体験し、知的障害者の施設で働くようになりました。彼は自分の知識や体験が通用しない世界に放り込まれました。その生活を通し、自らの過去が、いかに能力を誇示し、人々の関心を集め、権力を手にしようとする欲求に影響されていたかを知ったということです。ヘンリ・ナーウェンも「イエス様が受けたような誘惑をそこで受けた」と、ある本に書いてありました。第一は「自分の能力を示すこと」、第二は「人の関心を買うこと」、第三は「権力を求めること」です。彼は20年間もイェールやハーバード大で教え、また司祭でした。彼はたくさんのものを持っていたので、人々を教えることができ、導くことができると思っていました。しかし、知的障害者の施設で働いてみて、そういうものが全く役に立たないことを知ったのです。そして、能力を示すことから祈りへ、人気を求めることから仕えることへ、導くことから導かれることへと変えられたのです。イエス様も神の子でしたから、奇跡を行い、パフォーマンスし、天国の奥義を示すことができました。しかし、地上の人たちは、地上のことしか分かりませんでした。「今、食べられれば良い。」「この病気が治れば良い。」「生活が豊かになるように祝福してください」というものでした。現代の教会もある意味では、人々に一時的なものを提供して終っているところがあるかもしれません。人が集まっている大きな教会は良い教会。設備やスタッフが充実しているのは良い教会。そのように祝福された教会が人々に祝福を与えることができる。「だから、神さま、もっと私たちを祝福してください。もっと私たちに力を与えてください。もっとあなたの奥義を示してください」。何か、似ていることをしているように思います。

イエス様は「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。」と言われました。私たちはこの世がいつか滅びることは知っています。しかし、世にあるものは、いつまでも続くと勘違いしているのではないでしょうか?「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。」今さら、驚きます。「え、神さまがくださったものじゃないのですか?」では、一体、だれがくれたのでしょうか?それはこの世の神である悪魔です。悪魔はこれら地上のものをつかませ、これがすべてであるかのように思わせます。肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢こそが、いつまでも続くものであるかのように思わせます。これらの欲に捕まった人たちはどうなるのでしょうか?この世のものを愛すれば愛するほど、神さまを愛さなくなります。私たちの心が1つの部屋だとすれば、どうでしょう?そこにいろんな欲望や関心ごとがつまっています。あるとき、KGCの交わり会がありました。そこで、自分が今、願っているものを証ししました。ある人が「オーブンが欲しい」と言いました。私は「プリンターが欲しい」と言いました。「良い仕事が見つかるように」と言う人もいました。そこでは、だれも言いませんでしたが、結婚相手が欲しい人もいたでしょう。そうすると、心の中に神さまのおられるところはどこになるのでしょうか?神さまが家具調度品の裏側に追い込まれるかもしれません。なんと、私たちの関心ごとはこの世のものなのでしょう?悪魔はその点で、本当に成功しています。日本中、いや、韓国もアメリカの人たちも、「これを持てば幸せになれる」「これをしたら人々から注目される」と誘惑され、それに負けています。どうぞ、この世とこの世のものは過ぎ去ることを認めましょう。

では、一体、何が永遠に続くのでしょうか?Ⅰコリント13章に書いてあります。Ⅰコリント13:13「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」アーメン。この世のものがすべて悪いと言っているのではありません。私たちは所有者ではなく、過ぎ行くものの管理人であることを自覚すべきです。そして、これらのものを、信仰と希望と愛のために用いるのです。そうすると、それらのものを自分の欲を満たすのではなく、神さまと隣人のために用いることができます。そうするとその人は、世のものの奴隷ではなく、むしろ管理者です。ハレルヤ!イエス様はマタイ6章でこのように言われました。マタイ6:32-33「こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」神の国とその義を第一に求め、優先順位を立てながら、この世の誘惑に勝利していきたいと思います。

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2011年9月18日 (日)

 「父と母を敬うとは?」  出エジプト 20:12、エペソ6:1-4  [ 伝道師 毛利佐保 ]

聖書の中には、家族、家庭、社会生活、教会のあり方について語られている箇所がたくさんあります。

本日の聖書個所は「イスラエルの民をエジプトから導いたモーセが、シナイ山で神からいただいた「十のことば」、十の戒め「十戒」の中のひとつです。

十戒は皆さんご存知の通り、1.ほかの神々があってはならない、2.偶像を造ったり拝んだりしてはならない。3.みだりに主の御名を唱えてはならない、4.安息日を守りなさい、5.父と母を敬いなさい、6.殺してはならない、7.姦淫してはならない、8.盗んではならない、9.隣人に対し偽りの証言をしてはならない、隣人のものを欲しがってはならないという十の戒めがあります。今日のメッセージでは、この第5番目の戒め、

<出エジプト記 20:12>

あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。

というみことばを新約聖書のエペソ書でパウロが引用して訓戒している箇所がありますので、そのみことばと照らし合わせながら「父と母を敬う」とはどういう事なのかを考えていきたいと思います。

*********************

聖書を読みましょう。

<エペソ6:1-4>

6:1 子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。

6:2 「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、

6:3 「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。

6:4 父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。

※「父と母を敬うとは?」

第一番目のポイントは、

1.世の風潮に惑わされないで神様に聞きましょう。

・・・ということです。

時代はどんどん変化していきます。

聖書の中でも、旧約時代~新約時代と親の権威は移り変わっていきました。

では、どのように親の権威が移り変わっていったかということを、旧約時代~現代まで見ていきましょう。

Ⅰ.旧約聖書の時代

旧約聖書においての両親の位置づけは、「両親は子どもに対して神の権威を代表する者」 でした。

従って家庭における宗教の教育は、両親に課せられた重大な責任でした。両親は子どもを生んで、ただ育てるだけで親としての責務を果たしているわけではなく、神の戒めを正しく教え、信仰によって養育する必要がありました。そうすることによって、地上における神の代行者としての親の責任を果たすことになりました。

そういうわけで、両親に服従することは神に服従することと同様に考えられていました。

この十戒が与えられた部族時代は、父親の権威は驚くべきものでした。家長であったばかりか、統治の長、軍事的指導者、裁判官でもありました。剣を使っても、法律を使っても、呪いを使っても、子どもを生かしたり、殺したりすることができましたし、子どもに対する権力は絶対的でした。

当時はイスラエルの民たちが自分の所属する部族の一員であると認識することが重要であって、自分自身が何者であるかとか、個人というものは二の次でした。ですから、部族社会では、人はその人自身である以前に父の息子という立場でした。

またこの時代は、子どもの数というのは富と力のしるしでした。

ヨブ記には、家の繁栄のしるしとして、大家族であったことが、羊や牛の群れと同様に書かれています。

そういうわけで、たとえ利己的な父親でも、自分の家族を守るためにそれなりに面倒をみることは当然でした。だから文句のない忠誠と服従とで親を尊敬するように子どもを教育することが可能でした。

Ⅱ.新約聖書の時代

しかし、パウロの時代には大きく変わってきたようです。

そのころの地中海流域は人口が増加し過ぎたようで、必死で子どもを産まないようにする方法が盛んだったそうです。家族生活は崩壊し始めていました。

ですから、パウロはエペソの6章でこの第五戒を引用したときにこのような言葉を付け加えました。

<エペソ6:4>

父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。

「子どもをおこらせてはいけません。」・・・とパウロは付け加えたのです。

子どもは親に対しておこっても良い時代になったんですね~~。

旧約時代では、無条件に完全に支配できたはずの自分の子どもでしたが、ここでは、親の方にも戒めの言葉があります。親という立場を乱用することがないようにして、しっかり子どもを育てなさいと書かれています。

旧約の時代とはかなり違っていますね。旧約時代は親に対して子どもが意見するなどということは考えられなかったはずですが、パウロの時代には子どもが親に対して、自分の考えを言えるようになってきたということでしょうか。

Ⅲ.近世~近代(モダニズムの時代)

                   

では次に、啓蒙思想などが出てきた中世は割愛して、もう少し新しい時代18世紀~20世紀あたりの近世~近代では親の権威はどのようになっていったかを見て行きましょう。

19世紀の文学者グリム兄弟の作品のひとつに「としよりのおじいさんと孫」という話があります。

このお話はこの時代の様子をうまく表していると思いますのでご紹介します。

************** 「 としよりのおじいさんと孫」 *****************

昔、小柄な老人がいた。

目はしょぼしょぼ、手は震え、ものを食べるときはカタカタ食器を鳴らして不愉快な音をたて、うまくスプーンで食べ物を口に入れることができないので、食べ物をテーブルクロスによくこぼした。

他に住む所もなかったので、所帯をもった息子と一緒に住んでいた。

嫁は現代的な女で、家庭の中で年寄りの舅に耐えるべきではないと思った。

「もう我慢ができないわ!私の幸せがダメになるわ。」と嫁が言った。

そこで嫁と息子は老人の腕を優しく、だがしっかりと掴んで、台所の隅に連れて行った。

小さな椅子に座らせ、僅かな食べ物を粗末なボールに入れて渡した。

それから老人は、食卓の方を悲しそうにしょぼしょぼと見ながら、いつも隅で食事をした。

ある日、老人はいつにもまして手が震え、食器を落として割ってしまった。

「豚のように食べるのなら、飼い葉桶で食べなさい。」と嫁は言った。

そこで小さな木の飼葉桶を作り、老人はそれで食べるようになった。

この夫婦には4歳になる息子がいて、二人はこの子をとてもかわいがっていた。

ある日、夫はその子が木切れで熱心に何かを作っているのを見て、「坊や、何を作っているんだい?」

と、尋ねてみた。

「お父さん、ボク、飼葉桶を作ってるの~」

・・・とほめられることを期待して、親の顔をニコニコと見ながら子どもは答えた。

「ボクが大きくなったら、お父さんとお母さんに食べ物をあげるときに使うんだ~ 」

夫婦はしばらく何も言わずに顔を見合わせていた。

・・・それからちょっぴり泣いた。

それから、隅に行くと、小さな老人の腕をとり、食卓に連れ戻した。気持ちの良い椅子に掛けさせ、お皿に食べ物をとってあげ、それからは、音を立てたりこぼしたり物を割ったりしても、文句を言う人はなかった。

*******************

グリム童話は、残酷な結末が結構多いのですが、この話はわりと爽やかな結末ですね。この小話が語っているのは、「親を大事にしなさい。さもなければ、自分の子どもたちが将来あなたを大事にしてくれませんよ。」という戒めのようですね。

この時代は、「モダニズム(近代主義)の時代」と言われています。

モダニズムは20世紀以降に起こった芸術運動を指しますが、思想や体系としては、権威主義的なものから啓蒙主義を経て人間理性中心へと変わって行った時代です。人間中心、進歩主義、産業中心、画一化といわれるこの時代は、良くも悪くも人々は団結し、みんなが信じる共通の真理がありました。また、一つの目標に向かってみんなで進むことができた時代でした。科学なども発達しました。

ですから、親の権威に関してもこのグリム童話のように、

「親を大事にしなさい。さもなければ、自分の子どもたちが将来あなたを大事にしてくれませんよ。」

と言われると「ああ、やっぱり親は大事にしなきゃね。」「そうだね。」とみんなが思うことができました。

親の権威に関しても、かろうじて「あった」と言えます。

Ⅳ.現代(ポストモダンの時代)

では現代、21世紀はどうでしょうか。現代は近代の後の時代、「ポストモダンの時代」と言われています。

ポストモダンは、みんなで共通の真理を持つことがなく、中心になるものもありません。個々が自由に動き、自分の価値観を大切にする時代です。おのおの大切にするものが違いますから、先ほどの小話のように、両親を大事にしている姿を自分の子どもにばっちり見せて育てたとしても、将来思ったように自分を大事にしてくれるかどうかは怪しいですよね・・・。

「親の権威は地に落ちた」と言った感もありますが、正しく言えば画一化されていた近代の“親の権威”という言葉に対する認識が、現代は変わってしまったということかもしれません。

ですから、「親の敬い方もそれぞれでいいじゃないか。田中さん家や鈴木さん家がこうでも、うちはこれでいいじゃないか。」と考えるのです。

しかしここで大切なのは“聖書は何と語っているか”ということです。

聖書は

6:1 子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。

「両親に従う」ということは「正しいこと」だとパウロは言っています。

「正しいことだからです。」とはっきり言われると、何にも言えなくなりますね。

しかもここでは、「両親の面倒をみなさい。愛しなさい。」とか言っているのではなく、「従いなさい」なのです。

ポストモダンの時代は曖昧な時代でもあります。

「みんな違ってみんないい」という言葉や、「ナンバーワンよりオンリーワン」という言葉をよく聞きますが、“互いの価値を認め合う” という点ではとても聖書的で素敵だと思いますが、注意する必要もあります。

例えば、「いろんな考えがあるからパパは君の考えを尊重するよ。パパはパパ。君は君。もし君がパパに従いたいと思ったら従えばいいよ。」と言ってあげたいけれど、そうなると聖書のみことばの本来の意味からずれてしまいます。聖書は旧約の時代から一貫して「あなたの父と母を敬いなさい」と語っています。

ですから、「いやぁーん、もう!イエス様の言う事もパウロの言う事もこの時代にマッチしてないし、ちょっと変えてみてもいいんじゃない?“あなたの父と母を敬いたかったら敬いなさい”とかに・・・。」

などと言いたくなっても、聖書のみことばは永遠で、「あなたの父と母を敬いなさい」という戒めは、変更不能の戒めなのです。

ですから、父と母を敬うとはどういうことなのかを、世の風潮に惑わされないで聖書のみことばを読み返し、神様に祈って聞いて実行する必要があるのではないでしょうか。

※「父と母を敬うとは?」 第一番目のポイント

1.世の風潮に惑わされないで神様に聞きましょう。

・・・ということでした。

しかし今までの話は、理屈や頭では理解できても、実際に両親を敬い従うことを実行に移せるのかというと、いろいろと難しい問題があります。

例えば、両親の仲が良い円満な家庭に育てば、子どもたちも自然と、両親を敬い、従えるものですが、とてもじゃないけれど、両親のどこをどう見たら敬うことができるのだろうか?という家庭に育った人には、このような主の命令は苦痛でしかありませんね。

また、天涯孤独に育った人、敬いたくても両親はもうすでに亡くなってしまった人もいます。

「この聖句は自分には全く当てはまらない」と感じておられる方は、どう受け取れば良いのでしょうか。

※「父と母を敬うとは?」

第二番目のポイントは、

2.みことばの本質を知り幸せになりましょう

実はこの聖書の「父と母」とは自分の両親のことを指しているだけではないのです。

ウエストミンスター大教理問答という、改革派の教理問答がありますが、そこにはこう書かれています。

**********************

<ウエストミンスター大教理問答 問124>

問124 第五戒の父や母とは、だれのことであるか。
答 第五戒の父や母とは、本来の両親ばかりでなく(1)、すべて年齢(2)や賜物(3)での上の人、特に家庭(4)・教会(5)・または国家社会(6)のいずれであれ、神のみ定めによって、権威上わたしたちの上にある人を指すのである。


(1) 箴言23:22,25、エペソ6:1、2  (2) Ⅰテモテ5:1,2  (3) 創世4:20,21,22、45:8
(4) 列王下5:13  (5) 列王下2:12、13:14、ガラテヤ4:19  (6) イザヤ49:23

***********************

第五戒の父と母とは、「神のみ定めによって、権威上わたしたちの上にある人を指す」

と、広い意味ではこのように考えられています。

ということは、とんでもない上司にも、大嫌いなあの人にも、従わなければならないのか?!

・・・ということになりますね。

ではなぜ、神様はそこまで、権威に従い敬いなさいと言われるのでしょうか。

聖書の次のみことばを見て行きましょう。

<エペソ6:2-3>

6:2

「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、

6:3

「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。

・・・権威に従い敬いなさいと主が言われるのは、私たちがしあわせになるためなのです。

出エジプトに書かれているモーセの十戒では、「あなたの齢が長くなるためである。」とだけ記されていますが、申命記5:16に書かれている十戒には、「それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。」と、「しあわせ」という言葉が加えられています。

この「しあわせ」とは、どのような状態になることを言っているのでしょうか?

世の人々がうらやむような生活の事をいっているのでしょうか?財産や地位や名誉を得ることでしょうか?

それも祝福ですが、「本当の幸せ」とは、「神様とともに歩む」ということではないでしょうか。

イエス様を信じて、クリスチャンになっても、私たちの人生には辛いことがたくさんふりかかってきます。でも、

そんな時でも不思議と心に平安があったり、立ち上がる力が湧いたりするのは、私たちの創造主、完全で、真実で、永遠なるお方、主がともにおられるからです。イエス様が私たちのくびきを負ってくださるからです。

権威上私たちの上にある人は、神様が権威を与えた人なのです。また、神様は私たちにとって最高の権威者です。神様は私たちの父と母でもあるということです。「あなたの両親に従いなさい、父と母を敬いなさい。」というみことばは、神の戒めに従いなさいということです。神様からの戒めを守ることによって、私たちは神とともに歩む幸せと、神からの大いなる祝福を得るのです。また、その幸せは、愛の連鎖となって、私たちの周りの人をも幸せにしていきます。

そしてその幸せは教会にも広がっていきます。

先ほど現代はポストモダンの時代だという話をしました。現代は個人主義の時代ではありますが、「誰かと何かを共有したい。どこかで繋がっていたい。」と思うのもポストモダンの特徴です。ですから、FacebookやMixiなどのソーシャルネットワークなどが盛んになるのです。私たちは何か共有するものを見つける時、無意識に良いものを選びとろうとします。教会は、主に在って人と人とがリアルに繋がることが出来る場所です。

教会を知らない人たちが、この亀有教会に繋がっていたいと思うような場所にして行けるといいですね。

そのためにも、主の戒めに従うことが大切です。神様は私たちに素晴らしい命令をくださっています。

聖書に書かれている神のご命令は、時には厳しく耳が痛いこともありますし、理解しにくい箇所もあります。でも、すべての命令が、私たち人間が幸せになり、豊かになるようになるためのものばかりなのです。

2番目のポイントは、

2.みことばの本質を知り幸せになりましょう

でした。

最後に三つ目のポイントです。

3.親の務めを果たしましょう

もうひとつ、大切な事をパウロは語っています。

<エペソ6:4 >

父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。

聖書は、子どもに対して父と母を敬いなさいという戒めを与えるとともに、父や母なる立場である人々、権威上、上の立場となる人々にも、訓戒を与えています。

「子どもをおこらせず、主の教育と訓戒によって育てなさい」

「子どもを育てる」ということは、愛と忍耐がなければできないことです。子どもは何度でも失敗をします。

その失敗を大きな愛で赦し、慈しみ、導かなければなりません。また子どもはまったく私たちの思い通りにはなりません。私も一人ばかり子どもがおりますが、何かあるたびに親として責任を感じてしまうような時も多々あります。また、会社で言えば、手塩にかけて育てた部下が恩を仇で返すような形であっさりと辞めてしまったり、裏切られたりということもあります。

親の立場に立つ人たちはいろんな葛藤を覚えながらも、イエス様を模範として子どもたちを導いていかなければなりません。

イエス様は弟子たちをどのように育てましたか?

イエス様は、当時地位の低かった女性や子どもたち、疎んじられていた病人たちや、奴隷たちにどのように接して育ててくださいましたか?

このポストモダンの時代に、権威が失墜しつつある状況の中で私たちは子どもを、部下を、自分より弱い人や守らなければならない人たちをどう育てていけばいいのでしょうか?

エペソの6章でパウロはこのあと、奴隷と主人に対して訓戒し、このみ言葉が記されています。

<エペソ6:18>

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

主のみことばに聞き従い、父と母を敬っていきましょう。そして、幸せになりましょう!!

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2011年9月11日 (日)

特別礼拝

本日は、ダイタオ・カメイ師を招いての特別礼拝になりましたので、原稿が用意できませんでした。

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2011年9月 4日 (日)

子、若者、父    Ⅰヨハネ2:12-14

教会は「神の家族」とも言われています。この世の家族には、父や母、兄や弟、姉や妹がいます。同じように、神の家族、教会には霊的な父、若者、子供と3種類存在しています。お断わりしますが、父の中には、母も含まれていることを申し上げます。私たちは癒され、成長して、地上の家族で得られなかったものを神の家族で得ることができます。「子、若者、父」というメッセージは当教会では、何度かお話したテーマです。しかし、改めて、これらの3段階で何を学び、何を克服しなければならないのか、霊的な成長段階を考えたいと思います。

1.子どもたち

霊的な子どもには何が必要なのでしょう?Ⅰヨハネ2:12「子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。」霊的に生まれた子ども、つまりイエス様を信じたばかりの人が必要なのは、「罪が赦されている」ということです。「救いの確信」と言っても良いかもしれません。人がイエス様を信じるとき、「罪の赦し」から入る人もおれば、「永遠の命」とか「人生の意味」など、他のテーマで救われる人がいます。「ああ、自分は罪人である。罪の赦しが欲しい」と願って救われた人は、おそらく半分以下でしょう。でも、洗礼を受けて、クリスチャンなってから「ああ、私には罪がある。イエス様の十字架は私のためだったんだ」と理解する人の方が多いのではないでしょうか。そこで気付く人は良いのですが、クリスチャンになってから罪を犯して、「もう赦されないんじゃないだろうか?神様もあきれているんじゃないだろうか?」という人もおられるかもしれません。だんだん、罪責感が大きくなり、やがては教会からも離れてしまう。そういう人がおられるかもしれません。救われたばかりの人が必要なのは、「赦しの確信」、「救いの確信」であります。イエス様が十字架についたのは私たちの罪の赦しのためであります。イエス様はそのとき、私たちの過去の罪、現在の罪、そして将来、私たちが犯すであろう罪をも背負って、代価を払ってくださったのです。だから、たとえ罪を犯しても、神の子であることと永遠のいのちはなくしません。救いは神様からの一方的なプレゼントですから、行いによってなくすことはないのです。

では、罪を犯すと何をなくすのでしょうか?それは神さまとの親しい交わりです。神さまの私たちに対する愛は100%、いつでも変わりません。変わるのは罪を犯した私たちの側の方です。アダムとエバが神さまの御顔を避けたように、私たちもそうなります。何か後ろめたい気持ちになります。でも、神さまはキリストにあって、永遠の愛をもって私たちを赦しておられます。人間の愛は「これっきりの愛」ですが、神さまの愛はエンドレス・ラブ、限りない愛です。Ⅰヨハネ1:9はクリスチャンなった人ためのみことばです。Ⅰヨハネ1:9「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」アーメン。神さまの前に、「私はこれこれ、しかじかの罪を犯しました」と告白すれば良いのです。もちろん、だれか隣人に被害を及ぼしたときには、謝ったり、償う必要があるでしょう。でも、最も根本的なことは、神さまとの関係です。私たちが罪を告白するならば、イエス様の血潮によってきよめられます。まるで、ホワイトボードに書いた文字が消されるように、ぱっと消されます。罪を犯したら告白する、罪を犯したら告白する。これを繰り返していくと、だんだん、同じ罪を犯さなくなります。赤ん坊が立ち上がるとき、何度もころびます。赤ん坊がころんだとき、「またころんだのか!今度はころばないように注意しなさい」と叱る親はいません。私たちは独り立ちするまで、何度も失敗し、罪を犯すこともあります。でも、キリストにあって神さまは永遠に赦してくださる。たとい、罪を犯しても、神の子としての身分、永遠のいのちはなくすことがない。この確信に立つことが大切です。

もう1つの子どもの必要があります。Ⅰヨハネ2:14「小さい者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが御父を知ったからです。」みなさんの地上のお父さんはどういう人だったでしょうか?ある日曜学校の先生が、「天の神様は、みなさんのお父さんのような方なのですよ」と言ったそうです。すると、ある子どもは「そんな神さまだったら、いらない」と次の週から来なくなったそうです。私たちが「イエスさま」「聖霊さま」と呼んでも、同じような名前の人はまずいません。しかし、「天のお父様」というと、「ああ、もう一人いたなー」と地上の父を思い浮かべます。不思議なことに、私たちは地上の父を通して、天の父をイメージするところがあります。みなさんの地上の父はどういう人だったでしょうか?権威主義的で独裁的なお父さんだったでしょうか?ある家庭ではお母さんと子どもたちがわきあいあいにしていました。しかし、お父さんが帰る車の音を聞くと、子どもたちは、「さーっ」と自分の部屋に入ります。また何かうるさいことを言われるのが嫌だからです。あるお父さんは、無口で何も答えない。「お父さん、きょうのテストで80点取ったよ」。新聞を見ながら「うん」。「お父さん、きょうの運動会で1位だったよ」。テレビを見ながら「うん」。子どもである自分を励ましてくれたことがない。日本やアジアではこういうお父さんが多いようです。また、あるお父さんはギャンブルやお酒を飲んで、家庭を守らない。いい加減なお父さんがいるかもしれません。また、家庭によっては、長期の出張、離婚、死亡のために、「いないお父さん」がおられるかもしれません。

もし、地上のお父さんがそういうお父さんだったらどうなるでしょうか?「天のお父様も、独裁的でこわい方だ。」いつ罪をさばかれるかびくびくして生きることになります。天のお父さんも無口で何も答えてくれない。そうすると、3分くらいお祈りをしたら、もう祈ることがなくなります。天のお父さんも、いい加減で頼りにならない。そうすると、神さまを頼らないで、自分の力で生きるようになるでしょう。ある牧師は、自分が5歳のとき、父親が亡くなったそうです。やがて、救われてクリスチャンになりました。「天のお父様」とお祈りしても、「天が空っぽのような気がした」とおっしゃっていました。この地上に完全なお父さんはおそらくいないでしょう。私たちは何らかの形で傷や欠けがあり、ゆがんだ父親像を持っています。でも、イエス様は「私を見たものは父を見たのである」とおっしゃいました。また、神の家には霊的な父・母がおります。ですから、イエス様を知ることによって天の父を知ることができます。また、教会での親しい交わりと保護によって、その人はちゃんとした天の父を知ることができます。赤ちゃんが両親の交わりを必要としているように、霊的に生まれた子どもも、交わりが必要です。励ましや慰めを与え、みことばによる建て上げによって、癒され、成長していくことができるのです。

2.若者たち

霊的な若者には何が必要でしょうか?若者にも2つの必要があります。Ⅰヨハネ13後半「若い者たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。」ここには、「悪い者に打ち勝った」とありますが、悪い者とはだれのことでしょうか?悪い者とは悪魔と悪霊のことであります。ヨハネ8章には、悪魔は「偽りの父である」と言っています。ヨハネ黙示録12章では「兄弟を、日夜、神の御前で訴えている者」と書かれています。また、エペソ6章には「悪魔の策略に対して立ち向かいなさい。…私たちの格闘は血肉に対するものではなく、悪しき霊との戦いである」と書かれています。私たちは、イエス様を信じてクリスチャンになりますが、その後が、また問題であります。私たちはクリスチャンになる前の、いろんなゴミを持ったまま生きています。あるものは捨てましたが、あるものはまだ大事そうに持っています。悪習慣、心の傷、汚れ、怒りや反抗心を持っているかもしれません。悪魔と悪霊は、私たちが持っているゴミを餌にして、私たちに悪さをしかけてきます。生ゴミがあると、カラスやねずみがやってきて、悪さをします。どうでしょうか?カラスをおっぱらったら良いのでしょうか?ねずみをおっぱらったら良いのでしょうか?一度、おっぱらっても、彼らは、また戻ってくるでしょう。どうすれば良いのでしょうか?そうです。生ゴミを排除すれば良いですね。それと同じで、悪霊を追い出す前に、処理されていない隠された罪、悪習慣などを神さまの前に差し出せば良いのです。神さまは光ですから、明るみに出されたものを、処理して、それから解放してくださいます。 

これは、私が経験的に知っていることですが、こういう癒しと解放は、早めにやった方が良いと思います。洗礼を受けて10年もたつと「こんなもんだろうなー」と妥協してしまいます。第一回目は救われて、まもない頃、行うべきです。そのとき、大きな罪とか、偶像礼拝などの霊的な罪を取り扱います。私はインドネシアの解放のキャンプを見たことがあります。そこには、200人くらいキャンパーが集まっていました。信じたけれども、まだ洗礼を受けていない人が80人くらいいました。一番、悪霊現象が起きたのは、性的な罪を扱ったときです。結婚前の性交渉、性的な傷や汚れ、レイプ等の赦しと解放を宣言しました。そうすると何十人もの姉妹たちが、声をあげて泣き、悪霊現象も起きました。悪魔は、そういう罪や傷を握って、その人を成長させないようにしています。ですから、信仰をぐらつかせている大きな罪は、早めに処理すべきであります。そして、解放された後は、心の傷や思いの分野をボチボチ取り扱っていくべきです。ローマ12:2「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」これは、クリスチャンなってからの大きなテーマです。霊的に救われていても、思いが古いままの人がたくさんいます。「どうせ私はダメだ」とすぐ諦める人はいないでしょうか?「私は人から愛されない」「私はああゆう人は苦手だ」「私は最後まで成し遂げることができない」など、束縛されているかもしれません。この世ではいろんなカウンセリングや心理学的なものがあるでしょう。私たちもそういう手法を取り入れることも可能です。でも、重要なことは私たちの古い価値観を神の国の価値観に取り替えることであります。では、どうしたらそれが可能なのでしょうか?

Ⅰヨハネ2:14後半「若い者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。」若者が悪い者に打ち勝つためには、神のことばが必要です。また、私たちがこの世に生きてきたために、間違った考えをたくさん植えつけられました。否定的な考え、ゆがんだ見方、あるいは親や先祖から受け継いだ罪の連鎖があるでしょう。自分ではわかっているけれど、そちらの方に傾いてしまう。それは、何らかの咎が作用しているからです。自分の間違った考えは何なのかを認識し、それを悔い改め、神の価値観に置き換える必要があります。そのために、神のことばをよく学び、自分の中に取り込み、みことばに従う必要があります。それが、神のことばのうちにとどまるということです。ヘブル4:12「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」アーメン。神のことばが鋭いメスのようになって、心のいろいろな考えやはかりごとを切り分けることができるのです。私はものごとを最後までやり通すことができない人でした。集中力に欠けて、時間内に、作文、絵、テストを終えることがでませんでした。私は子どもの頃、親や兄弟から「ヤスは不器用だから」「ヤスは落ち着きがないから」と良く言われて育ちました。それが私のマインドに入ったため、大切なときに、混乱して成し遂げることができないのです。しかし、クリスチャンになって解放を受けてから、カオスからコスモスへに移りました。自分の中に調和が与えられ、物ごとに集中し、最後まで成し遂げることができるようになりました。毎週の説教においても、「必ず、神さまが与えてくださる」という信仰があります。みなさんの中にも、ある部分が悪魔に握られて、自由になれないという部分はないでしょうか?必ずしも悪魔でなくても、ある法則の中に縛られている。そのため、敵の思う壺になって、神さまの栄光を現すことができない。そういう部分があるかもしれません。この課題を乗り越えないと、信仰はあっても世的なクリスチャンになってしまいます。私たちは、この世の流れに流されるのではなく、流れに逆らって進む必要があります。ルカ福音書に、イエス様は強い者に打ち勝ったとあります。そして、その分捕りものをあなたに分け与えたいと願っておられます。主にあって、私たちは悪い者に打ち勝つことができるのです。

3.父たち

 Ⅰヨハネ2:13「父たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。」Ⅰヨハネ2:14後半「父たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。」 なぜ、ここに「神さま」と書かないで、「初めからおられる方」と書いたのでしょうか?「初めからおられる方」つまり、神さまは、世の初めから、永遠の計画をもっておられます。エペソ3:11「私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた神の永遠のご計画によることです。」永遠と言う意味は、「すべての時間を越える。時間に制限されない」という意味です。世界が創造される前に、永遠の計画があったということです。それが、私たちの時代に成就されなければならないし、永遠に成就されるべきものだということです。霊的な父は、神さまの永遠の計画を知り、その計画に加わろうとする人です。では、神さまはどのようにして、ご自分の永遠の計画を成就しようとしておられるのでしょうか?それは教会です。神さまはキリストのからだである教会を通して、ご自身の永遠の計画を成し遂げたいと願っておられるのです。エペソ1:22-23「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」神さまはどんなお方でしょう?神さまはいっさいのものをいっさいのものによって満たすことのできるお方です。目に見えるものから、目にみえないものすべてです。神さまは、この世のあらゆる分野に対して、ご自身が持っている良いもので満たしたいと願っておられます。政治、芸術、教育、ビジネスの分野において。しかし、それには入れ物(器)が必要です。その入れ物にあたるものが教会です。私たちは神の福音をこの世に持ち運び、人々を神の国にお入れする働きが必要です。これは救いのリバイバルです。しかし、もう1つ、教会はあらゆる分野に神さまが持っている良いものを満たすことが必要です。それは、この世の人たちが神の栄光を仰ぐようになるためです。霊的な父は神さまの永遠の計画を知って、それを自ら実行する人です。自分の個人の救いだけではなく、「御名があがめられ、御国が来るように」働く人であります。もちろん、この世界は過ぎ去ってなくなります。でも、この世において忠実に働いた人たちを、神さまは再びお召しになって、「キリストによる千年王国を、一緒に治めよう」と願っておられます。霊的な父とは、個人の救いに留まるだけではなく、この世が、日本が救われるような働きを担う人です。

 聖書には、父の必要が1つしか書いていませんが、私はあえて2つ申し上げたいと思います。なぜなら、子どもたちが2つ、若者たちが2つだったからです。ここに「父たち」とありますが、この世では、どういう人が父と呼ばれるのでしょうか?男性が年を取ったら自然に父なるでしょうか?どういう人が父なのでしょうか?そうです。子どもがいる人が父なのです。男性の場合は、子どもを生むというよりも、儲けるという方が正確かもしれません。聖書には霊的な父親について書かれています。Ⅰコリント4:14-15「私がこう書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく、愛する私の子どもとして、さとすためです。たといあなたがたに、キリストにある養育係が一万人あろうとも、父は多くあるはずがありません。この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。」パウロはコリント教会のクリスチャンを「愛する私の子ども。あなたがたを生んだ」と言っています。これはどういう意味でしょう?それは私たちが福音を伝えることによって、その人が「私はイエス様を信じます」と告白して、新しく生まれた場合です。導いた人が霊的な父であり、導かれた人は霊的な子どもです。だから、長年クリスチャンをやっていても、福音によって一人も導いたことがないなら、父ではありません。しかし、中学生であっても、他の人を導いたなら、霊的な父になることができるのです。

 この世の中はとても複雑になっています。同じように、教会の伝道も複雑になっています。個人で福音を宣べ伝えるというよりも、特別伝道集会とかコンサートを開いて、救いを与えようとします。そうすると自分がやったことは、チラシを配ったこと。あるいは、賛美の奉仕をしたことです。専門家が説教し、入信に導きます。種まきは自分たちがやり、刈り取りは専門家ということになります。そうすると、一番、おいしいところを牧師や伝道者が取ることになります。でも、牧師や伝道者が親身になって育てられれば良いのですが、生みっぱなしということもあります。私などは洗礼を授けて、「あとは礼拝に続けてきなさい」みたいなところがありました。ちゃんと育てないために、ポロポロ落ちたことは否めません。一番、良いのは導いた人が霊的な父になり、その後も、面倒を見ることです。私を導いてくれた職場の先輩は、礼拝や祈祷会に一緒に行って、となりに座ってくれました。信仰に関する悩みや問題を、いつも解決してくれました。2年くらいたって、やっと独り立ちできました。その後は、自分で、いろんな先生や本を通して学ぶことができました。しかし、はじめからそれができたわけではありません。霊的な父がいたので、受洗後に起きた、危険な出来事も乗り越えることができたのです。どうぞ、恵みによって霊的な父、霊的な母になりましょう。不思議なことに、子どもを育てると、こちらが成長します。私もコーチングをやるようになってから、成長させていただいたと感謝しております。それまでは、「自分のことが良ければ、それで良いや」みたいなところがあったからです。父の心を持つと、子どもが自分を追い越しても悔しくありません。前は、みんなライバルだったので、「10年早い!」とか言っていたのですが、父の心を持つと、子どもの成功は私の成功になります。親にとって、子どもが自分を乗り越えることは、喜びであります。父なる神様は、私たちが子ども、若者と段階を踏んで、やがては霊的な父となることを願っておられます。

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