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2011年8月28日 (日)

新しい命令    Ⅰヨハネ2:7-11

先週は十戒を守っている方々の証しを取り上げました。十戒を守ることはすばらしいことです。悪いことでは決してありません。でも、旧約の時代は過ぎ去り、私たちは新約の時代に生かされていることを忘れてはいけません。せっかく救われ、クリスチャンになったのに、相変わらず、旧約の中に生きている人たちがいます。イエス様が十字架につき、あがないを成し遂げられました。私たちもキリストの内にあるなら、何かが変わったはずです。律法自体は変わりません。なぜなら、「天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることがない」と書いてあるからです。では、一体、何が変わったのでしょうか?

1.新しい命令

Ⅰヨハネ2:7-8「愛する者たち。私はあなたがたに新しい命令を書いているのではありません。むしろ、これはあなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いている、みことばのことです。しかし、私は新しい命令としてあなたがたに書き送ります。これはキリストにおいて真理であり、あなたがたにとっても真理です。なぜなら、やみが消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。」このところに「新しい命令」が2回、「古い命令」が2回、記されています。ヨハネは、「新しい命令ではなく、むしろ古い命令である」と言いながらも、「新しい命令として書き送る」と言っています。ユダヤ人からクリスチャンになった人は、古い命令とは何かピンと来ました。それは、十戒を代表とする神さまの律法です。詩篇119篇では、律法のことを「戒め、おきて、仰せ、みことば、み教え」というふうに置き換えています。私たちは律法、つまり神さまの教えを守り、行うべきであります。では、旧約時代と新約の私たちでは、一体、何が変わったのでしょうか?律法は永遠であって変わりません。変わったのは、神様の前における私たちの立場であります。旧約においては、律法を守らなければ神様の前に義と認められませんでした。罪を犯した場合は、動物の血を流し、罪の悔い改めをしなければなりませんでした。しかし、新約においてイエス・キリストが律法を全うし、律法の呪いから私たちを解放してくださいました。私たちは律法を守り行うことではなく、キリストを信じることによって、神の前に義とされるのです。

私たちはイエス様を信じてクリスチャンになりました。ハレルヤ!でも、相変わらず、律法は存在しています。では、律法は不必要なのでしょうか?律法は道路の標識やセンターライン、ガードレールのようなものです。もし、私たちがセンターラインを超えるなら、対向車線とぶつかるでしょう。制限速度が50キロなのに、80キロで運転したら、事故を起こす可能性が高くなります。また、スピード違反で捕まるかもしれません。このように律法は正しくて、中立的なものです。でも、私たちの中にある肉が、神の律法に対して逆らうのです。頭では「それは、正しいし、守るべきである」ということは知っています。でも、体が言うことを利きません。パウロは「自分でしたいと思う善を行わないで、かえってしたくない悪を行っています。…私は本当にみじめな人間です」と叫んでいます。パウロは、また、Ⅱコリント3章で、このように書いています。Ⅱコリント3:6「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」文字、つまり律法は、人を殺します。しかし、御霊は人を生かすのです。私たちは肉で、つまり自分の意思や力で律法を守ることはできません。また、神さまも「肉で律法を守るように」とは願っておられません。どうすれば良いのでしょう?それは、神の御霊が私たちに宿っており、御霊の法則、御霊の助けによって律法が守れるようになるということです。だから、パウロは、「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました」と言っているのです。旧約と新約の決定的な違いは2つあります。第一は、キリストが律法を完成し、私たちを律法の呪いから解放してくださったということです。第二は、聖霊によって私たちの心が新しくなり、聖霊により頼むならば律法の内を歩むことができるということです。私たちの周りには、この世においても、神の国においても、数限りない、法律、律法、規則があります。でも、私たちはこれら2つの恵みによって、律法に縛られないで、自由に生きることが可能なのです。

では、ヨハネが言う「新しい戒め」とは何でしょうか?ヨハネはいつ、イエス様から新しい戒めを聞いたのでしょうか?それはヨハネの福音書に書いてあります。ヨハネ15:12「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」。ヨハネ15:17「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。」不思議なことに、イエス様は弟子たちに「十戒を守れよ」とか、「父なる神さまを、心を尽して愛しなさいよ」とは命じませんでした。その代わり「互いに愛し合いなさい」と命じました。使徒パウロもガラテヤ書でこう言っています。ガラテヤ5:14「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語をもって全うされるのです。」「がーん」であります。教会はこれまで、「どのように十戒を新約的に守るべきなのか」探求してきました。また、「神さまを愛するとはどういうことなのか」検討してきました。たとえば、「安息日は土曜日だけど、私たちは日曜日を主日として公の礼拝を捧げるべきである」と決めました。だから、「日曜日に休まないで、仕事をするとは何ごとだ」とさばきました。また、「割礼の代わりに洗礼がある。その洗礼は浸礼でなければならない」と主張する教派もあります。また、「礼拝は神さまの前に出ることであり、正装し、式順にのっとって静粛に行なうべきである。」「聖餐式のパンとぶどう酒はこういうものであり、こういう人しか加われない」。このように、私たちは「神さまをどう愛するべきか」「神さまの戒めをどう守るべきか」を追求してきました。しかし、イエス様はそれよりも「あなたがたは互いに愛し合いなさい。これが私の戒めです」と言われました。教会は、教理や儀式を守ることに努力してきましたが、そのことで互いに争って来ました。残念ながら、互いに愛し合うことは二の次、三の次にしてきたところがあります。

イエス様はパリサイ人や律法学者を大変、嫌われました。彼らは律法を守ろうとしましたが、その代わり、愛はなおざりにしました。ひょっとしたら、今の教会も彼らと同じことをしているのかもしれません。「互いに愛し合いなさい」。これは古い命令を集約した、新しい命令であります。もし、互いに愛し合っているなら、その人たちは神の戒めを守り、また神を愛している人たちなのです。つまり、互いに愛し合っているということは、神さまを愛していることの証拠なのです。「私たちは神さまを愛しています」と言いながら、兄弟姉妹どうし、争っていたならば、その愛は疑わしいものになります。ヨハネ第一の手紙は、できれば話したくない、説教者泣かせの書物であります。説教、メッセージは「何を信じるべきなのか?」というテーマは案外、話しやすいんです。しかし、「互いに愛し合いましょう」というのは、話しづらいテーマです。なぜなら、「あなたは互いに愛し合っていますか?」と問われるからです。教会において、牧師自身が罪を犯す場合があります。その中でも性的な罪は致命傷であります。ある教会で牧師が性的な罪を犯しました。公に悔い改め、数名の牧師の指導のもとで、2年間の訓練期間を過ごしました。しかし、それでも赦されませんでした。なんと、「本当に罪を悔い改めているか分からない」ということでした。私はその教会において必要なのは、罪のさばきではなく、愛であると思いました。ヨハネ8章で姦淫の女性は即、赦されました。イエス様は「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。今から罪を犯してはなりません」と言われました。それでOKだったのです。でも、教会は、特に性的な罪の場合は赦そうとしないのです。私たちは新約の時代に生きていながら、十字架以前の、律法の時代に逆戻りする傾向があります。

ヨハネは古くて新しい戒めをあなたがたに書き送りますと言いました。古くて新しい戒めとは、互いに愛し合うことです。この命令はイエス・キリストの十字架と聖霊による助けを通過したものです。逆に言えば、十字架と聖霊なしでは、律法で断罪されて死ぬしかありません。私たちは十字架と聖霊以降の新しい民であることを忘れてはいけません。どうぞ、律法主義を避けて、互いに愛し合うという新しい戒めを守ることに、力を注いでいきたいと思います。

2.やみと光

Ⅰヨハネ2:9-11「光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです。」前半は、「兄弟を愛する」という新しい戒めについてお話ししました。後半は、逆に兄弟や姉妹を憎むとどうなるかということです。やみと光については、Ⅰヨハネ1章にも記されていました。やみは、罪を犯している姿であって、神さまとの交わりが断絶している状態です。その背後には悪魔がいます。逆に光は公明正大とか真理を象徴しています。神さまご自身が光であり、その子どもたちは光の内を歩むべきであるということです。ヨハネは、私たちと光であられる神さまとの交わりを強調しています。しかし、ここでは、兄弟姉妹との関係を教えています。つまり、兄弟を愛する者は光の中にとどまり、兄弟を憎むものはやみの中にいるんだということです。教会は「光である神さまとの関係が良ければ、兄弟姉妹との関係はどうでも良い」みたいなところがありました。しかし、ヨハネはそうじゃない、兄弟姉妹を憎むならば、やみが支配し、やみの中を歩んでしまうと教えています。これはどういう意味でしょうか?光の中に移されたクリスチャンが、やみを歩むことがありえるのでしょうか?おそらく、これはこのように考えることが可能であろうと思います。人がイエス様を信じるなら、光であられる神さまのもとに移されます。その人は、全体が光の中にいるわけです。しかし、良く見ると、その人の中に暗い部分もあるということです。ある部分だけが、光が届かない、暗い部分があるという状態です。それは具体的にはどういうことでしょうか?

マタイ7章でイエス様はこのようなことを話されました。マタイ7:1-5「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」たとえば、兄弟のあることについてさばくとします。Ⅰヨハネ2章で言うなら「兄弟を憎む」と置き換えても結構です。兄弟を憎むならば、自分にもやみの部分ができるということです。それはまるで、梁のように自分の目を覆ってしまいます。もし、梁(材木)のようなものが、目の中にあったら、どのくらい正常に見えるでしょうか?10%くらいは見えても、90%は見えないかもしれません。90%が覆い隠されてしまったら、結構、厳しいですね。これはこういうことです。もし、私が兄弟あるいは姉妹を憎んだとします。私もたまにあります。すると、ある部分が暗くなります。そこの部分だけ、見えません。見えないとどうなるか?躓いてしまって、自分も同じような罪を犯してしまうということです。しかし、それだけではありません。同じような罪を犯しても、神さまの赦しやあわれみが受けられないということです。なぜなら、自分がさばいている、あるいは憎んでいるからです。さばくと赦しをいただけない。憎むとやみが覆ってしまう。そこには共通した呪いがあります。

私たちは小さい時に、お父さんやお母さんが自分に対してした悪いことで怒ります。そして、「あんなふうにならならいぞ」「あんなことは絶対しないぞ」と誓うかもしれません。しかし、いざ、自分が親になり、子どもを持つと、同じことをしている場合があります。なぜでしょう?父や母を憎んでいるからです。憎んでいる部分だけやみになるので、つまずいてしまうのです。「そんなことはしない、そんなことはしないぞ!」と思っていても、気がついたら同じことをしている。よく、子どもを虐待している親がいます。その親は好きで子どもを虐待しているのではありません。「あんな親のようにはならないぞ!あんなひどいことはしないぞ!」と強く思っているのに、そうなるのではないでしょうか?それがやみの力です。ヤコブ1:20「人の怒りは、神の義を実現するものではありません」と書いてあります。怒りや憎しみは、神の義を全うできないということです。李先生に言わせますと「怨念晴らし」であります。今、李先生のもとで「教役者のための学び」を受けていますが、長いです。2010年2月からですから、1年半、16回目の学びが先週ありました。ゴールは逆転勝利でありますが、その前に、どうしても解決しなければならない課題があります。それは怨念晴らしであります。怨念晴らしは、負のエネルギーです。憎しみ、恨み、怒り、「くそー、今に見返してやるぞ!」です。私も昨年の9月で逆転勝利を経験し、光の中で、さわやかな生き方をしています。しかし、時々、やみが覆うときがあります。私のテーマは「不当な扱いを受けると自分の世界が壊れる」であります。悪く言われたり、計画をじゃまされたり、思いがけないことが起こるとやはり、グラグラときます。そのとき、条件反射的に「くそっ」と思います。でも、あのときから「それでも私は壊れない」という信仰がありますので、ほどなく乗り越えることができるようになりました。これは、私のテーマですが、みなさんも、自分はどういうことをされたら、憎んだり、怒ったり、恨んだりするでしょうか?どんなとき過剰反応をするのか、知る必要があります。人によっては軽く見られたり、存在を否定された場合にそうなる。あるいは無理じいさせられた、つまりコントロールされた場合にそうなる。人から理不尽な扱いを受けた場合にそうなる。もし、自分の世界のテーマを知るならば、対処するのが楽ではないかと思います。めんどうかもしれませんが、自分はどういう時に、憎んだり、怒ったり、恨んだりするのか統計をとったら良いと思います。そのところに。神さまの癒しと解放をいただくのです。

ところで、9月18日は神戸のベテル清水教会、井上先生が牧会している教会で奉仕することになりました。同じ日は毛利佐保伝道師がかわりにメッセージをすることになりましたのでお祈りください。井上先生とは24年来の付き合いですが、先生には敵がいません。だれとも争ったりしないのであります。先生の教会は、ついこの間、会堂建築をされました。私のところにも感謝の報告のお手紙が届きました。その中に外部からの献金のご芳名みたいなものがありました。全国の日本基督教団ばかりか、他教団、いろんな方々からの会堂献金がありました。その数、100くらいあったのではないかと思います。井上先生は二代目のクリスチャンです。一代目は私のように荒削りなところがありますが、二代目は温和というか、初めから角が取れています。弱点は迫力に欠ける、灰汁がないことでしょうか。でも、そんなに大勢の人から支援を受けられるというのは、やはり、人と争わないということでしょう。また、井上先生自身が人のことを悪く言っているのをほとんど聞いたことがありません。もちろん、先生にも「あの人とはどうも会わないなー」という人がいるでしょう。でも、先生は表立って争わない。時間はかかりますが、向こうの方から出て行く。そして、教会の一致と平和が保たれるのです。私などは「対決すべきかな?」と緊張するところがありますが、人と争わない平和の道を学ぶ必要があると思います。私は家内から「洗濯もの干してくれた」と言われると、「そんなの聞いてないよ」と、ついけんか腰になります。「節約してね」と言われると、「まるで、俺が無駄使いしているみたいじゃないか」と思います。なんだか、回路が変というか、変なトランジスタが中間に入っているとしか思えません。そのトランジスタを通すと、何か不当な扱いを受けていると感じるわけです。

結論ですが、私たちは全体的には光の中に移されました。神さまの光は絶対であり、クリスチャンであるなら、もれなく神さまの愛と赦しと恵みを受けています。しかし、受ける私たちの側に問題があります。神様は100%愛で愛してくださっても、受けるこちらに欠けがあるので、50%くらいしか届いていないかもしれません。生活がうまくいかないのは、「自分の努力とがんばりが足りないからだ」と思っておられますか。しかし、そうでしょうか?その前に、神さまから来る愛と恵みを十分、受ける必要があるのではないでしょうか?50%どころではなく、70%、80%、90%を受けるならば、もっと変わるのではないでしょうか?また、憎んだり、さばいたりするのではなく、むしろ兄弟愛をもって愛するならどうでしょうか?この世では人間関係よりも、仕事をして生産高を上げる方により力を傾けるでしょう。しかし、互いに愛し合うことに、もう少し時間とエネルギーを向けるならどうでしょうか?これは、職場だけではなく、家庭においても実行可能ではないでしょうか?人間は関係の生き物と言っても過言ではありません。関係がうまく行けば幸福感を得られますし、関係がうまくいかないと不幸になります。今はどうか分かりませんが、昔は、「味の素」の調味料をよく使いました。田舎では、何にでも味の素を振り掛けました。クリスチャンにとって必要なのは、ちょっとした愛を加えることであります。横断歩道を渡るときでも、待っている車に「すみません」と手を上げると、運転手さんも手をあげてくれます。交通整理をしているガードマンに、こちら側も「ご苦労様です」と挨拶すると良いと思います。なぜなら、あのような仕事はとても殺伐としているからです。香港のベン・ウォン師は、スタッフとすれ違うとき、肩をポンと叩いたり、椅子をちょっとだけ蹴ったりするそうです。相手は「ああ、私のことを気にかけているんだなー」と思うそうです。愛するとは、そう大それたことではありません。神さまから受けている愛を、ちょっと分かち合うだけで良いのです。私たちは伝道というと、緊張してしまいますが、親切にすることから初めてはいかがでしょうか?そのうち、語るべき福音がみつかると思います。私たち全体はすでに神さまの光、神さまの愛の中に移されています。神さまの光、神さまの愛を十分いただいて、隣人に少しでも分かち与えていきたいと思います。

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2011年8月21日 (日)

なだめの供え物    Ⅰヨハネ2:1-6

先週、お話しましたが、私たちが罪を犯してなくすものは、神さまとの交わりです。しかし、私たちが罪を犯しても永遠のいのち、神の子である身分は失いません。罪を犯してなくすのは、神さまとの親しい交わりです。でも、私たちがその罪を神さまの前で告白するならば、御子イエスの血によって赦され、すべての悪からきよめられるのです。そして、きょうからⅠヨハネ2章に入りますが、この手紙が書かれた目的が記されています。2:1「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。」アーメン。でも、私たちは罪を犯してしまうかもしれません。そのために、神さまは私たちにすばらしい恵みを与えておられます。

1.神さまの2つの備え

もし、私たちが罪を犯すならば、神様は2つのものを私たちのために備えておられます。第一は何でしょうか?Ⅰヨハネ2:1後半「もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。」アーメン。義なるイエスさまは、私たちの弁護人でもあります。神さまがいて、罪を犯した私たちが神さまの前に立っています。だれかが私たちを訴えています。検事役はあなたの被害者、あるいは悪魔かもしれません。黙示録12章に、悪魔は「日夜、兄弟たちを神の御前で訴える」と書いてあります。よく、人々を訴える人、さばく人がいますが、悪魔に加担をしているかもしれません。私たちは罪を犯して、こちらに非がある場合、訴えられると弱いですね。100のうち、こちらに10でも、非があれば、訴えられる可能性があります。交通事故でもよっぽどのことでない限り、100-0にはなりません。自動車が動いているなら、80-20、60-40とかになります。保険屋さんから「絶対に、『こっちが一方的に悪うございました』と言ってもいけないし、一筆書いてもいけない」と注意されたことがあります。当人同士で争うよりも、保険屋さんに間に入ってもらう方が楽です。あっちは、プロですから、どうすべきか連絡したら良いですね。

それはともかく、私たちが罪を犯した場合、過失なのか、魔がさしたのかどちらか分かりません。私たちは告発され、神さまの前にうなだれて立っています。でも、どうでしょう?神さまの前で弁護してくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。ハレルヤ!弁護者は、ギリシャ語では、パラクレートスです。 これは、「援助者として呼ばれたる者、人のために語る者、調停者」という意味です。世の中の弁護人は、お金にならなかったり、不利な弁護はあまりしないでしょう。しかし、義なるイエス・キリストは「私たちをなんとか助けたい」という聖い動機をお持ちです。神さまと、私たちの間に立って、「この兄弟(姉妹)は、これこれ、しかじかで、このような罪を犯してしまいました。本当はこういう状況だったのです。兄弟も罪を告白していますので、どうかお赦しください」と謝ってくださる。すると、そばにいた私たちも、「どうもごめんなさい」と一緒に頭を下げます。イエス様が一緒に謝ってくださると、こっちも一緒に謝りやすいですね。子どものとき、悪いことをして、お母さんか、お父さんが一緒に謝りに行ってくれたという記憶はないでしょうか?隣の窓ガラスを割ったとか、友だちに石を投げて傷つけたとか?親が一緒に行ってくれるとありがたいですよね。ある場合は、弁償しなければならない時があります。子どもにはお金がないので、親が相当の金額を弁償するか、実物を弁償する場合があります。数年前、うちの子供が自転車で黒いベンツの横っ腹に当ったことがあります。「うぁー、よりにもよってベンツか?」と両手で頭をかかえました。そのときは、山澤兄弟の口ききで、安く修理してもらいましたけど、本当に弱りました。このように、口で謝っただけでは、すまない、弁償しなければならない時もあります。そういう場合はどうするでしょうか?

それが、Ⅰヨハネ2:2「この方こそ、私たちの罪のための──私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物です。」イエス様は私たちを弁護してくださるだけではなく、その罪さえも償ってくださるお方だということです。「なだめの供え物」は、ローマ3章にもありますが、イエス様が、私たちが贖いを受けるための犠牲になったということです。「なだめ」というと異教的な意味あいにどうしてもなります。元来のことばは、「ヒラスモス」であり、契約の蓋から来ています。年に一度、贖罪の日、大祭司によって、契約の箱の蓋に、贖いの血が注がれました。金のケルビムが両側から、その血潮を仰いでいる姿になります。Ⅰペテロ1:12「それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです」と書いてあります。まさしく、イエス様は十字架で血を流し、私たちの罪のためのいけにえとなってくださいました。その血によって、罪に対する神さまの怒りがなだめられたのです。神さまは「キリストの血のゆえにもうさばかない」とおっしゃるのです。なんとすばらしいことでしょう。弁護してくださるお方が、同時に、私たちの罪の代価を支払ってくださるとは!

しかし、私たちクリスチャンのためだけではありません。ここには「私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物です。」とあります。ジョン・カルバンは「イエス様の贖いは、救われる人だけのものである」と限定しました。しかし、聖書を良く見ると、イエス様は信じない人のためにも、血を流し、なだめの供え物となったということです。ある神学者たちは、「だから、イエス様を信じなくても、すべての人が救われるんだ」とまで言います。そこまで行くと行き過ぎです。ギリシャ語で贖いということばが2つあります。1つはアゴラゾーで、「贖われた」という意味です。これは「奴隷市場の中で、奴隷の代価を払うという」ニュアンスがあります。もう1つはエクサゴラゾーということばがあります、贖うというアゴラゾーに、エクス(~の外へ)という接頭語がついたものです。ただ単に代価を払うというのではなく、「奴隷市場から外へ連れ出す」という意味があります。つまり、こういうことです。2000年前、イエス・キリストが全人類の罪の代価を支払われました。しかし、それだけで、すべての人が救われるわけではありません。キリストを救い主と信じ受け入れて、初めて人は救われるのです。信じない人は、代価が支払われたにも関わらず、まだサタンの奴隷市場の中につながれたままなのです。ですから、宣教、伝道とは、「あなたの罪はイエス・キリストによって既に支払われていますよ。イエス様を信じて、そこから出てきなさい」ということなのです。人類にとって、これほど良い知らせはありません。ハレルヤ!私たちクリスチャンにとっても良い知らせは、信じた後からも、贖いの代価は有効であるということです。イエス様が、私たちが犯すであろう一生分の罪まで、前もって贖ってくださったことを感謝します。

2.神さまのテスト

Ⅰヨハネ2:3-6「もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」この世の中には、「私は神様を信じています」あるいは「私はキリストを信じています」という人がいます。私たちは「うぁー、それはすばらしいことですね!」と喜ぶでしょう。おそらく、その次の質問は「どこの教会に行っていますか?」でしょう。すると、「いゃー、私は教会には行っていません。でも、私はクリスチャンです」と答えるかもしれません。教会に行っている、行っていないで、本当のクリスチャンなのかどうか分かりません。面白いことに、ヨハネはここで「信じる」と言うことばを使っていません。その代わり、「神を知っている」という表現をしています。ここでいう「知る」は、頭の知識ではなく、夫と妻の親密な関係を表す「知る」であります。旧訳聖書には「アダムが妻エバを知った」と書いてあります。つまり、神さまと親しい関係にあるということです。もちろん、それは信じると言い換えても結構です。でも、ここで、「本当に神さまを知っているの?本当に神さまを信じているの?テストしたい」と言っています。実際、英国の聖書には3節と6節に「ここに、こういうテストがあります」と2回記されています。テストというよりも試金石かもしれません。では、どういう人が、本当に神さまを知っている、あるいは信じているのでしょうか?

第一のテストは3節「神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります」とあります。4節「神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者です」とあります。神の命令とは何でしょう?命令は「戒め」「律法」とも訳せることばです。出エジプト記には有名な十戒が記されています。昔、座間キリスト教会で、礼拝のテープを全国に発送する奉仕をしていました。その中に、埼玉県浦和市の三崎さんというパン工場の社長さんがテープを注文しておられました。一度、お会いしたことがありますが、とても上品なご婦人でした。テープの奉仕をしている私たちに、お菓子など、よく差し入れを送っていただいたことがあります。三崎さんは、パン工場を経営しながら、里親になられています。確かあの頃は、8人目だったように記憶しています。お会いしたとき、私は「その子どもたちに何を教えられるのですか?」と質問しました。すると、三崎さんは「はい、最初に十戒を教えます」とお答えになりました。私は恵みで救われ、恵みの一本漬けだったので、「随分、厳しいお人だなー」と思いました。また、その当時、一緒に奉仕していた、関根音楽主事に聞きました。「子どもたちに一番、大切なこととして教えていることは何ですか?」と。すると、「はい『父母を敬え』です」と答えてくれました。このときも、びっくりしました。また、その当時、滝元明先生が全国を回り、火を吐くようなメッセージをしておられました。滝元先生は日本人が犯している偶像礼拝と姦淫の罪をものすごく強調しておられました。「うぁー、なんと怖い人なんだろう」と思いました。その後、私は亀有教会の牧師になりましたが、恐ろしくてしばらく先生を招待できませんでした。その当時、日本基督教団の教会は、仏壇をお家にもっている人が結構いたからです。亀有にも仏壇を引き継ぐことになって、教会から離れた方が何人かおられました。「十戒?」なんときびしい戒めでしょう。でも、神さまを知っている、信じている人は、神さまの戒めを守る人であります。これが本当に信じているか、信じていないかのテスト、試金石であります。

第二のテストは、みことばを守っている人です。5節に「みことばを守っている者なら、神のうちにいることが分かる」と書いてあります。十戒とみことば、どこが違うのでしょうか?イエス様はヨハネ14:23「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。」と言われました。イエス様に言わせますと、イエス様とことばは同じであります。イエス様に従うということは、イエス様のことばに従うということです。イエス様のことばと十戒、どっちが守るのが大変でしょうか?どっちが守るのが楽でしょうか?多くの人たちは、「イエス様のことばが楽でしょう」と答えるかもしれません。しかし、山上の説教を見ますと、十戒よりも厳しいです。「ばか者」と言っただけで地獄行きです。私などは何百回言ったか分かりません。憎んだだけで、殺人と等しいなら、何十人殺して来たでしょうか?情欲をもって異性を見るだけで姦淫であるなら、何百回、姦淫を犯したでしょうか?うぁー、イエス様のことばの方が厳しいです。でも、どうでしょう、イエス様を信じ、イエス様を愛していると、だんだん、守ることができるようになります。気付かないで罪を犯しているときもありますが、聖霊様が優しいお声をかけて、守ってくださいます。あるご婦人が牧師先生のところへ泣いてきました。「先生、私は何度も何度も、罪を犯してしまいます。もうしませんと誓っても、また誘惑に負けて、罪を犯します。もう、イエス様は私のことをあきれ果てて、赦してくれないのでしょう。こんなに罪を犯すなんて、先生、私は本当に生まれ変わっているのでしょうか?先生、私は、本当は救われていないのではないでしょうか?」そのとき、牧師はどう答えたら良いか迷いました。しばらくしてから、姉妹に質問しました。「あなたはそれでもイエス様がいりますか?それともイエス様はいりませんか?」。姉妹は泣きながら答えました。「先生、もちろんイエス様が必要です。イエス様がいなくては生きてゆけません」。牧師先生は、「それだったら、あなたは救われていますよ。イエス様にすがっていけば、やがて、罪から解放されますよ」と言いました。

第三のテストは、6節「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」これは最も、難しいですね。ある人たちは、「キリストのようになるんだ」と一生懸命がんばっています。『キリストのように』とか『キリストに倣いて』という有名な本があります。本の内容は忘れましたが、キリストの品性を真似ることはとても大変です。イエス様は「7度の70倍を赦せよ」とおっしゃったのですから、私たちもどこまでも寛容に人の罪を赦さなければなりません。「あなたはイエス様のようになりたいのですね?」「はい、イエス様のようになりたいです」「では、私がお手伝いしてあげましょう」と言って、「ぴしゃ」とほっぺたを叩きました。「何をするんだ!」と怒ろうとしますが、「イエス様だったら、もう片方も差し出すんじゃないですか?」「ああ、そうだな」すると、その人がまた「ぴしゃ」とほっぺたを叩きました。「わざとだろう!」「いやー、ごめんなさい。手がすべりました。でも、イエス様だったら赦すんじゃないでしょうか?」「ああ、そうだな」。今度、その人はげんこつで頭を叩きました。「こら、本当に怒るぞ!」「いやー、ごめんなさい。悔い改めます。イエス様だったら無限に赦すんでしょう」。はぁー、3回くらいで、限界ですね。人格的にイエス様の真似をしようとしたら、とても無理です。できません。

では、みことばは何と言っているのでしょうか?「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」「歩まれたように歩む?」歩むとは、生活の仕方、ライフ・スタイルです。そうです。私たちはイエス様の人格をすぐに真似ることはできません。しかし、イエス様がどのように生活されたか、そのライフ・スタイルは真似ることができます。新約聖書を読むと、イエス様がどのように歩まれたか、書いてあります。私たちがイエス様の生き方を真似ていけば、結果的に、人格がイエスさまに似たものとなるのです。ところで、みなさんはこの夏休みをどのように過ごされたでしょうか?私はクリスチャンの青写真、「伝道・養育・弟子・リーダー」と4段階になるテキスト、計128ページを作りました。これは、今まで学んできたことの集大成です。ある人から、「先生、60歳になったら、気力がなくなりますよ」とおどされました「そうか、気力が落ちるのか」と思い、一心発起しました。4つできたのであります。私も嬉しいですから、30名くらいの先生にファイルをお送りしました。「ありがとうございました!」と2,3名しか返事が来ない。「何だかナー、自己満足かなー」とガッカリしました。あとから、さらに返事は着ましたが、みんな夏休みだったんですねー。小笠原先生は「がんばっているねー」と励ましのお電話をくださいました。尾山先生からは「こんなに暑いのに、そんなにがんばってどうする?」とメールが来ました。もちろん、これは自分とこれからの教会のためにやったことであり、先生方のためにやったことではありません。聖書に「受けることは、与えることよりも幸いなり」と書いてあります。いいんですこれで…。

人間と言うか、私たちは報われないとがっかりします。考えてみれば、イエス様ほど、報われないけれど、人のために仕えたという方はおられないのではないでしょうか?イエス様のライフ・スタイル、生き方は何でしょう。パウロは使徒の働き20:35でこのように言っています。「また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」「受けるよりも与えるほうが幸いである」ということばは福音書に見ることができません。でも、パウロは誰かから、イエス様のことばを聞いて、自分もそのように働いてきたと言っています。パウロはイエス様の生き方を真似ました。私たちも「これじゃぜんぜん、報いられないじゃないか」と嘆くときがあるかもしれません。でも、「受けるよりも与えるほうが幸いなのです」。ペテロはどうでしょうか?ペテロはⅠペテロ2章で「キリストは不当な苦しみを受けても、このような模範を示された」と教えています。Ⅰペテロ2:22-23「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」ある人たちは、不当な扱い、不当な苦しみを受けると、過剰に反応します。私たちは日常の生活において、怨念晴らしをしたり、怨念晴らしを受けたりします。怨念晴らしを受けたとき、「なにくそー」と仕返しをしたくなります。私は牧師ですが、そういう時があります。みなさんはどうでしょうか?自分の持っている権威や立場を用いて、「なんとか仕返しをしないと気持ちが納まらない」とかないですか?しかし、イエス様はどうでしょうか?イエス様は「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことを」しませんでした。ペテロ自身も、そして当時の教会も、迫害、不当な苦しみを受けていたでしょう。でも、彼らはイエス様を模範とし、イエス様の生き方を真似しました。「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」アーメン。「受けるよりも与えるほうが幸いである」「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」この2つだけでも、イエス様から学び、イエス様が歩まれたように歩むならば、多くの悩みが解決するのではないでしょうか?

たとい、罪を犯すことがあっても、私たちには「なだめの供え物」をもって弁護してくださるイエス様がおられます。また、私たちの中には「神の戒め、イエス様のことばを守りたい」「イエス様の生き方に倣いたい」という願いがあります。愛なる神さまは私たちのことを強い御手をもって、守り、導き、報いてくださることを信じます。

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2011年8月14日 (日)

神は光である     Ⅰヨハネ1:5-10 

「神は光である」とはどういう意味でしょうか?それは、神さまには全く罪がなく、公明正大であるという意味です。光と反対のものは、「やみ」です。やみは、隠れて罪を犯している姿をあらわしています。私たちクリスチャンは、やみの世界から救われて、光であられる神さまのもとに移されました。そして、光であられる神さまとの交わりの中を歩む存在となりました。しかし、私たちはこの世の中で生きています。聖書で「この世」とは、神さまに反逆し、罪を犯している人たちのことを言います。私たちは光であられる神さまと交わりながら、同時に、やみが支配しているこの世において生活しています。するとどんなことが起こるでしょうか?やみの影響を受け、罪を犯すこともありえるということです。ヨハネの手紙は、「それに対して、どうすべきなのか?」ということを教えています。きょうは、Ⅰヨハネ1:9を中心的に取り上げながら、全体を学びたいと思います。

1.罪の悔い改めは救いの条件か?

Ⅰヨハネ1:9「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」保守的な教会では、Ⅰヨハネ1:9を救いのみことばにしている場合があります。先週、CSのキャンプがありました。若い頃、私はキャンプのカウンセラーや講師として、よく奉仕をしたものです。今はあまり呼ばれません。年齢のギャップがありすぎるからかもしれません。「8人兄弟の7番目」と言っても、そんなに兄弟の多い家庭はないでしょう。キャンプでは、カウンセラーというのがとても大変です。あてがわれた5-6人の子どもたちを面倒見なければなりません。メッセージが終ったあと、講師が「今晩、イエス様を信じる人は手を上げてください」と招きをします。すると、子どもたちは「はい」とか言って、手をあげます。そのあと、カウンセラーは手をあげた人のため、救いの確信を与えなければなりません。そのとき、子どもの話を聞きながら、「君の救いのみことばはこれですよ」と聖書から、ふさわしいみことばを与えます。そのときに話された聖書のことばもあれば、「この子どもはこれかな?」と神さまから示されたことばであったりします。おそらく、一番、そのとき、用いられるのがⅠヨハネ1:9ではないかと思います。信じた子どもに、「何か神さまの前でおわびしたい罪はある?」と聞きます。すると「消しゴムを盗んだ」とか「お母さんの財布からお金をちょろまかした」「友だちと喧嘩した」とか告白します。そして、カウンセラーは子どもに対して、罪の告白とイエス様を信じる告白の両方を導きます。

私は特別な理由もなく、そういうことをしていました。あるとき、『信じるだけで救われるか』という本を読んだとき、「ああ、福音とはそうなのか」と全く目が開かれた経験をしました。つまり、救いの条件はイエス様を信じることだけであって、自分が犯した個々の罪の悔い改めは必要ないということが分かったからです。保守的な教会、私の信仰も保守的ですが、悪気があってやってきたのではありません。なんとなく、「罪の悔い改めと信じるという告白」が合体してしまったのでしょう。実はヨハネ第一の手紙は、未信者に宛てられた手紙ではありません。第一ヨハネ1:6「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら」とあるので、すでに信仰を持っている人です。また、ヨハネはたびたび「私のこどもたち」と書いていますが、これはイエス様を信じて神のこともとされた人たちです。つまり、ヨハネは、イエス様を信じて、新生した人に手紙を書いたのです。と、いうことは、Ⅰヨハネ1:9は、イエス様を信じてはいるけれど、やみの中を歩んでいる、つまり罪を犯している人たちが対象なのです。もし、イエス様を信じるために、それまで犯した罪を告白しなければならないとしたら、忘れてしまった罪はどうなるでしょう?また、信じる前というのは、霊的に麻痺しているので、何が罪なのか分かりません。親切な気持ちはわかりますが、個々の罪の告白を救いの条件に加えるのは間違っています。では、悔い改めとはどういう意味なのでしょうか?救いのための悔い改めとは、「自分は神さまを神さまと認めず、背いていました。今からは方向転換して、神さまを信じます」と言うことです。つまり、自分が犯した個々の罪ではなく、自分が罪人であることを認め、神さまへと方向転換することです。これが救われるための悔い改めです。こういう悔い改めは、一生に一回すれば良いのです。でも、クリスチャンになってから犯した罪は、一生涯、告白しなければなりません。

黙示録3:19「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」この箇所は、なまぬるいラオデキア教会のために書かれた箇所です。彼らは「自分は富んでいる。豊かになった。乏しいものは何もない」と誇っていました。しかし、神さまから見たら、「実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者」でした。先週は、ガジマ聖会に行ってきました。先生はアフリカのタンザニアから1年ぶりにこられました。前は3万人の教会でしたが、今は7万人になっています。前は160人の死人がよみがえりましたが、今回聞いた話では、合計400人がよみがえったそうです。アンナという女性は、死んで4日目によみがえりました。彼女は霊安室の冷蔵庫に入れられていました。もう一体亡くなった人が運ばれてきました。そのとき、ドンドンという音が聞こえます。なんと死んだはずのアンナが袋を蹴破り、起き上がっていました。彼女の死亡診断書を書いた医者は気絶して倒れました。アンナは「お腹が減っているので何か食べ物をください」と隣りのICUに行きました。ベッドで寝ていた2人の人が、アンナを見てびっくりしました。チューブとか器械を取り外し、2人とも元気になりました。アンナはイエス様から、「このメッセージを携えて、ガジマに伝えなさい」と言われました。「死人が神の子の声を聞くときが来ます。今がその時です。さあ、もどりなさい。」それで、生き返ったわけです。ガジマ先生は使徒16章から、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美したら、突然大地震が起きたという箇所から話されました。そして、「イエスの御名によって、日本の土台を揺り動かさなければならない」とチャレンジされました。そのとき、私は「ああ、不信仰になっていたなー」と気付かされました。「礼拝人数が少ない。お金がない。あの人が来ないのはこの理由だ…」わー、やみの力でやられていました。そして、声を出して悔い改めました。私たちはこの世にいると、不信仰になりがちです。気がついたら、すぐ告白しましょう。熱心に悔い改めましょう。そうすれば、私たちは信仰に満たされ、この世に対して勝利できるのです。目に見えるものに支配されてはいけません。なぜなら、目に見えないものが、目に見えるものを支配するからです。

2.罪の告白は公にすべきなのか?

新共同訳を見ますとこのように訳されています。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」その聖書では、「公に言い表すなら」と訳されています。公とはどういう意味でしょうか?一般的には、みんなの前でということでしょう。これと似たみことばに、ローマ10:10があります。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」この場合も、みんなの前で信仰を告白しなければ救われないと主張する人がいます。ですから、洗礼を受けたい場合、その人は長老たちの前で、自分がどうやって信じたのかを表明します。その後、いくつかの質問を受け、長老たちが納得すれば洗礼を許可されます。「これもどうかな?」と思います。なぜなら、みんなの前で信仰を告白しないと救われないと誤解を受けるからです。もし、公に信仰を告白しなければ救われないとしたら、独房にいる人、あるいは無人島に流された人は、救われないことになります。信仰の告白もそうですが、罪の告白も、私たちは神さまの前に告白する必要があります。神さまの前で告白した後、必要がある場合は、公に告白をするのです。罪の告白もいくつかの段階があります。一人で神さまの前に告白する場合もありますし、互いに罪を告白するとき、あるいは公に罪を告白しなければならないときもあります。

では、どういう場合、罪を他の人の前で告白しなければならないのでしょう?それは、習慣的に犯す罪です。中毒性の罪で、自分で祈ってもなかなか解放されない場合です。たとえば、怒りが習慣的になっている。盗みが習慣的になっている。性的な罪が習慣的になっている。これは悪魔がその人の一部をつかまえている状態です。自分ではやめたいと思っていますが、要塞になっています。たとえば、私が後ろ手にロープでつながれているとします。ロープを解きたくても、自分では不可能です。そういう場合、他の兄弟姉妹から祈ってもらって、習慣的な罪を断ち切ってもらいます。そうすると、罪から解放されます。ヤコブ5:16「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。」と書いてあります。ですから、自分の罪を告白し、他の人から祈ってもらうことは、解放される力になります。でも、告白するとは「もうしませんから、赦して下さい」という意味ではありません。私たちは、子どものときから、そういう風に言うことを強制されてきたので、罪を告白するときに抵抗を感じるかもしれません。しかし、「告白する」のギリシャ語は「ホモ・ロゲオー」、「同じことを言う」という意味であります。つまり、「私はこれこれしかじかのことをしました」と、ありのままを述べることなのです。ダビデもナタンの前で「私は主に対して罪を犯しました」と告白しました。すると、ナタンは直ちに「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった」と言いました。ですから、私たちは言い訳をせず、自分が犯した罪を神さまの前に、ありのままに言い表せば良いのです。そうすれば、神さまは私たちの罪を赦してくださいます。

多くの罪は神さまの前で告白すれば十分なのです。本当は神さまの前で告白するだけで十分なのに、他の人に告げたために、ややこしくなる場合があります。1つは心で勝手に思った罪です。たとえば、「私は鈴木先生が隠れてこういうことをしているのではないか、と疑っていました。でも、誤解でした。どうもすみませんでした。」そういう告白はしなくて結構です。ゴミ収集の日でないのに、ゴミを出すようなものです。告白された方だって「え?私のことをそんな風に思っていたの?」と傷つきます。あとは、すでに解決されている過去の罪です。たとえば、「私はあなたと結婚する前に、たくさんの女性と付き合っていました」と言ったとします。すると、聞かされた方は「だれと、だれなの?名前、教えて?どんな事までしたの?」と詮索されます。その後、大変なことになってしまいます。ですから、すでに解決されている過去の罪は告白する必要はありません。昔、「あなたの過去などー知りたくないのー」という歌がありました。それで良いのです。でも、告白しなければならない罪とは、暗やみで犯している罪です。すでに神さまと光の中に歩んでいるにも関わらず、やみの中を歩んでいるという場合です。もう一度、言います、告白には3段階あります。第一は神さまとの間で犯した罪は、神さまの前で告白すれば十分です。第二は相手がいる場合です。明らかに相手を傷つけた場合は、神さまに告白すると共に、その人の前に行って「ごめんなさい」を言いながら告白する必要があります。また、先ほども申し上げましたが、自分では解決できない、要塞のような罪です。悪魔に一部を握られていて、自分ではどうしようもない習慣的な罪です。これは、信頼のおける人の前で、告白して祈ってもらう必要があります。第三は牧師や役員、指導的な立場にある人が罪を犯した場合です。教会というからだ全体に対して罪を犯した場合は、公にする必要があります。それはできるだけ誤解やスキャンダルを少なくして、教会が新しい歩みをするためです。でも、最も基本になることは、神さまの前で正しくあるかどうかです。私たちは、神さまを恐れ、光であられる神さまと親しい交わりを保つ必要があります。この交わりは、継続的なものです。

3.クリスチャンの罪の告白

ヨハネが1:5-10で、一番、言いたいことは何なのでしょう?それは交わりの回復であります。神さまは光です。神さまは完全に正しくて公明正大なお方です。私たちはイエス様を信じたことにより、神さまの光の中に入れられました。そして、神さまと親しい交わりを持つ者とされました。ハレルヤ!私たちは神さまの子どもとして、父である神さまと親しい関係になったのです。でも、さきほど、申し上げましたように、私たちはこの世に住んでいます。この世は神さまを信じないばかりか、神さまに敵対して歩んでいます。私たちはこの世に生きている限り、罪の誘惑を受け、実際に罪を犯してしまうことがあるのです。こっちは悪いことをしていないつもりでも、向こうから言いがかりをつけられたり、イヤなことをされる場合もあります。すると、私たちの生身の人間ですから、「何クソ!」と怒ったり、反発したりするでしょう。車を運転してよくあることですが、割り込みされたり、ある場合は信号を無視して突っ込んでくる場合もあります。こちらに気持ちの余裕があれば良いのですが、余裕がないときには、腹を立てることもあるでしょう。このように人々の中で、いろんな出来事の中で罪を犯すことがあるのです。そういうとき、私たちは光の中ではなく、やみの中を歩んでいる状態なのです。それでも、「いや、私には罪はありません」と言うなら、自分を欺き、神さまをも偽り者としてしまいます。ですから、私たちはそういう場合、ただちに罪を神さまの前で言い表す必要があります。

このことは、とても大事なことです。私たちが罪を犯すと無くすものは何でしょう?私たちが罪を犯して無くすのは、神さまとの親しい交わりです。私たちが罪を犯しても、救い、つまり神の子としての身分はなくさないということです。たとえば、親子の関係でも、子どもが罪を犯した場合、「もう、親でも子でもない、勘当だ」と言う親がいるでしょうか?私たちもイエス様を信じたとき、神様は私たちのすべての罪を赦してくださり、神の子という身分をくださいました。神さまは私たちが光の中を歩めるように、聖霊の助けと導きをくださいます。でも、私たちには肉という罪を犯す傾向が残っていますので、さきほどのような環境や条件がそろいますと、やっぱり罪を犯してしまうのです。それでも、「私には罪がない」と言い張るなら、だんだん私たちは罪の中に捉えられ、悪魔によって縛られてしまいます。その前に、私たちは神さまの前に犯した罪をそのまま告白すべきなのです。私たちが神さまの前に罪を正直に告白すると、イエスさまの血潮によって、その罪が赦されます。そして、神さまとの関係がただちに回復します。そのとき、私たちは暗やみではなく、すでに光の中に移されているのです。でも、ここにとても興味深いことが書いてあります。Ⅰヨハネ1:9後半「神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」「神は真実で」とは、どういう意味でしょう?「真実」は英語でfaithfulであり、これは忠実という意味でもあります。神さまは私たちのように、ある時は赦すけど、ある時は赦さないというお方ではありません。私たちは気分によって、赦すときと赦さないときがあるでしょう。しかし、神さまは私たちと違って、常に真実であり、常に私たちを赦してくださるのです。それは、神さまのご人格のゆえででもありますが、キリスト様の血潮が永遠のあがないになっているからです。神さまは御子イエスの血潮を見ると、赦さないではおれないのです。

ここには「その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださる」と書いてあります。神さまは、罪を赦してくださるだけではありません。罪を犯して受けた悪を取り除いてくださるという意味です。「赦して、きよめる」「赦して、きよめる」「赦して、きよめる」ということが繰り返されます。たとえば、ホワイトボードにペンで何かを書いたとします。何を書いたとしてても、黒板消しでパーと消えます。また、書いても消えます。また、書いても消えます。これは神さまの赦しの力です。しかし、だれかが油性のマジックで書いたとします。これはダメージを受ける罪です。普通の黒板消しでは消えません。どうするか?揮発性のもの、ベンジンやアルコールだと消えます。昔、聖書の時代は染料を用いて、染物をしていました。紫糸の場合は、紫貝から取った染料を用いたようです。その中に、一度染めるとなかなか消えないものもありました。それは緋糸だそうです。赤い糸です。アメリカ文学に『緋文字』という作品があります。当時、姦淫の罪を犯した女性がいたら、その額にアダルトリーのAの刺青をされます。赤い刺青で、一生消えません。その文学の内容はキリスト教会的には良くないと思います。でも、聖書はそうは言っていません。イザヤ書1:18「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」アーメン。最も消えにくい緋のような赤い罪も、主は赦してきよめてくださる。罪が緋のように赤くても雪のように白くなり、紅のように赤くても、羊の毛のようになるのです。エレミヤ書31:3「主は遠くから、私に現れた。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。』」とあります。ここに、「誠実を尽くし続けた」とあります。さきほどのⅠヨハネ1:9「神は真実」と同じ意味です。では、神さまの愛は永遠であるとはどういう意味でしょう?それはキリストの血潮のゆえに、私たちの罪を永遠に赦し続けてくださるという意味です。ある神学校の先生は、神さまの愛はエンドレス・ラブ、「これっきりの愛じゃない」とメッセージされ、記憶に残っています。当時、「これっきり、これっきり、もう、これっきりーですかー?」という歌が流行っていました。人間の愛は、「これっきりの愛です。いい加減にしろ、もう赦せない」です。でも、神さまの愛は「これっきりの愛ではありません」。神さまの愛は、永遠であり、どこまでも限りなく赦してくださいます。ペテロがイエス様に「兄弟が悔い改めた場合、何度まで赦すべきでしょうか?7度まででしょうか」と聞きました。そのとき、イエス様は「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います」と答えました。それは、無限にという意味です。このことばの背後には、神さまの永遠の愛、永遠の赦しがこめられています。私たちは赦しの中にあるからこそ、罪を喜んで悔い改め、光であられる神さまと交わることができるのです。

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2011年8月 7日 (日)

いのちのことば     Ⅰヨハネ1:1-4 

きょうからしばらく、「ヨハネ第一の手紙」から共に学びたいと思います。私にとって、第一ヨハネから、話すのは初めてになります。なぜなら、少し苦手なところがあったからです。それは「愛」という用語があまりにも多いからです。キリスト教会において、「愛」がもっとも大切なのに、そんなに強調されていない傾向があります。私もそうですが、「愛」を語ると、「あなたに愛があるのですか?」とダメ出しされる恐れがあるからです。でも、成長したせいか、あるいは顔の面が厚くなってせいか、「よし、語らせていただこう」ということになりました。ヤコブ書もそうですが、ヨハネ第一の手紙も、堅い食物の1つです。するめのように、少しずつかみながら、共に学びたいと思います。

1.いのちのことば

 1節から3節まで、「いのち」ということばが、4回も出てきます。この箇所の「いのち」はギリシャ語では「ゾーエー」であり、神のいのち、永遠のいのちという意味のことばです。ところで、いのちは、目に見えるでしょうか?いのちは、生命の活動ですから見えません。では、心は見えるでしょうか?心はその人の考え、感情、意思を生み出しますが、心自体は見えません。最後に、霊は見えるでしょうか?霊と言うと日本では、幽霊、おばけを想像するかもしれません。神さまは霊です。イエス様も霊です。私たちの中にも霊があります。でも、霊も残念ながら見えません。神さまは霊ですから見えないのです。しかし、目に見えないものを他の人に証明することはとても困難です。自然科学は目に見えて、計器で計れるものが対象です。しかし、いのち、心、霊は見えないし、計器で計ることもできません。では、どうしたら目に見えない、神さまの存在を証明することができるのでしょうか?

 ヨハネは何と言っているでしょうか?Ⅰヨハネ1:1-2「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、

──このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。」これは、イエス様のことをおっしゃっている内容です。「初めからあったもの」とは、ヨハネ福音書1章のように、ことばとして初めからおられたイエス・キリストのことであります。この方は、初めから神とともにおられ、すべてのものを創造したお方です。でも、2000年前、クリスマスの日、肉体をとってこの世に来られました。30歳まではナザレで大工として生活し、その後、3年半、公に活動をされました。そのとき、ペテロとかヨハネ、アンデレなどの弟子を召しました。この手紙は弟子の一人ヨハネが書いたものです。彼は肉体を持った「いのちのことば」についてどう語っているでしょうか?「私たちが聞いた」、つまりそのお声をじかに聞いたということです。「目でみたもの」、これは「自分たちの目で確かに見た」というニュアンスがあります。「手でさわったもの」とありますが、これも「自分たちの手で確かに触った」というニュアンスがあります。当時の弟子たち、特にヨハネは、イエス様の一番近くにいて、イエス様の教えを聞き、イエス様を見て、イエス様に触ることもできました。まことにうらやましい限りです。歌手やタレントの「握手会」があるようですが、ある人はしばらくその手を洗わないそうです。

 でも、なぜ、ヨハネは実際に「聞いて、この目で見て、この手で触った」と強調しているのでしょうか?それは、当時、グノーシスという神秘的な智恵と体験を求める、異端がはびこりはじめていたからです。ギリシャ世界では、物質や肉体は悪であり、霊は善であるという、二元論が主流でした。ある人たちは救い主イエス様を信じていました。しかし、「神さまが肉体をとって、この世に来られた?そんなのはありえない。実際は肉体ではなく、肉体を持っているように見えたんだ」と言っていました。苦肉の策と言いましょうか?肉体を持たない、幽霊のようなキリストを信じていたわけです。肉体が悪であるという考えは、おそらくヒンズー教にも、仏教の中にもあるでしょう。何故、彼らが難業苦行をするのでしょうか?それは、肉体をできるだけ弱くして、その代わり魂を強くするためでしょう。イエス・キリストが肉体をとって、この世に来られたことは、ある人たちにとっては、躓きになっているのです。

 ヨハネ第一の手紙の主張は肉体を持っておられたイエス・キリストです。イエス様は肉体をもって愛を示し、肉体をもって贖いを成し遂げました。だから、ヨハネは精神的な救い、観念論的な救いを否定します。そのことを示す教えがいくつかあります。Ⅰヨハネ3:18「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」Ⅰヨハネ4:20「目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」私たちはときどき、「そういう気持ちはあるのですが…」と言い訳します。「礼拝に行きたい気持ちはあるのですが」「協力したい気持ちはあるのですが」「ささげたい気持ちはあるのですが」。心はあるのですが、体が伴わないわけです。ある人たちは、キリスト教は精神的なものだと思っています。そのために、子どもをミッションスクールに入れたがります。「天国があったら良いよねー」「神さまがいたら報いられるかもね」。でも、本当は信じていません。牧師も「メッセージを語れば終わり」、みたいなところがあります。メッセージももちろん重要ですが、そのとおり生きているかどうか問われます。キリスト教は精神的なもの、観念的なものではありません。なぜなら、神さまが肉体をとって、この世に来られたからです。

 私たちはことばによって福音を伝えます。神さまが愛であること、イエス様が救い主であることをことばによって伝えます。でも、その人が自分と一緒にいて、「ああー、神さまは愛なんだ。この世に真実とか救いはあるんだ。」と知らしめることができたら何と幸いでしょうか?10年くらい前ですが、インドネシアから、エディ・レオ先生が日本に来られました。あるとき、奥様とスタッフが秋葉原に買い物をしに行きたいと言われ、みなさんを案内しました。その時は、外付けのハードディスクを買いに行きました。奥様と女性のスタッフは、「あれはどう、これはどうだ」とか店員に聞いています。「決まったかなー」と思ったら、タックスの問題でまた時間がかかりました。ハードディスクを買うのに、40分はかかったと思います。その間、エディ・レオ先生はニコニコしながら、奥様と一緒に回っていました。スタッフの人が「エディはいつもこんなんですよ。教会にいてもお家にいても変わらないの」と言っていました。また、岩清水というところで、セルのセミナーが開かれたときがあります。昼食のとき、みんなが並びます。確か、あのときはハッシュド・ビーフでした。最後の列に並んでいた、講師のエディ先生のところへ来たら、なんと汁だけでした。ご飯のわきに、茶色いスープをもって「わぉー」と言っていました。あの頃は、「父の愛」というのがテーマで語られていました。幼い頃、お父さんを亡くした牧師もいました。主任牧師に裏切られた牧師もいました。私のように酒乱で家庭を治めない父もいました。エディ先生が私たちをぎゅっとハグしてくれました。なんだか、父の愛が流れてくるようでした。いや、実際に父の愛を体験することができました。

キリスト教はことばの宗教です。でも、ことばだけで終ってはいけません。ヨハネは何と言っているでしょうか?「私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことば」と言っています。さらに「御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのち」とも言っています。見えないはずのことば、見えないはずのいのち、見えないはずの神さまが見えるということです。当時、イエス様がそうであったように、現在は、私たちを通して、私たちの体をとおしてイエス様が現れてくださるということです。エディ先生は「マニフェスト・ジーザス」とおっしゃっていました。イエス様を現すということです。私たちはいのちのことばであられるイエス様を現していきたいと思います。

2.私たちの交わり

 Ⅰヨハネ1:3-4「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。」「交わり」ということばは、キリスト教会でよく使われます。ギリシャ語のもとの意味には「共有する」「分かち合う」「関わる」という動詞から来ています。ですから、クリスチャンが交わるのは、「神さまから得た恵みを分かち合う」「神さまからいただいた励ましを与える」ということが目的です。私たち自身の中にはあまり良いものはありません。しかし、神さまは私たちに良いものをたくさんくださっています。私たちはそれを分かち合うことができます。福音書に5000人の給食という奇跡が書いてあります。イエスさまは最初、弟子たちに、「あなたがたで何か食べ物を与えなさい」と言われました。これは弟子たちを試すためでした。ある弟子は「いやー、この人たちに200デナリのパンを買って与えても足りないですよ」と言いました。するとある弟子は「5つのパンと2匹の魚だったらあります」とイエス様のところに持ってきました。イエス様は、5つのパンと2匹の魚を手に取り祝福し、パンをさいて弟子たちに与えられました。弟子たちはそれを配りました。どこで増えたのかはかわかりません。でも、分かることは、弟子たちはイエス様からいただいて、それを群衆に分け与えたということです。弟子たちが神さまの恵みを運ぶ、管(チャンネル)になったということです。私たちも神さまからいただいて、それを隣人に分かち与えることは可能です。

 しかし、ここで重要なことは、「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」とあることです。この交わりは、フェローシップとか親しい関係の方が良いかもしれません。クリスチャンも兄弟姉妹としての交わりがあります。しかし、もともとのかたちはどこから来るのでしょうか?私たちが交わりを持つために、私たちが交わりを持つ前にあるものは何でしょう?それは、「私たちと御父および御子イエス・キリストとの交わりです」。まず、私たちは父なる神、そしてイエス様と親しく交わる必要があります。ヨハネは神さまとの交わりが基本であり、神さまとの交わりが源だということを教えているのです。キリスト教はヒューマニズム(人本主義)ではありません。神さまあっての、私たちであります。レビ記7章には、「和解のいけにえ」という記述があります。パンあるいは動物をささげますが、唯一、他のいけにえと違うところは、残ったものを祭司が食べるということです。まず、火で焼いて神さまにささげます。その後、残ったものはみんなで食べて良いのです。しかし、優先順位があります。最初は神さまにささげ、そのあとで自分たちがいただきます。何か日本の神道や仏教にもそのなごりがあるのかもしれません。何かいただいたら、まず神棚か仏壇にささげます。そのあと、自分たちがいただく。ご先祖様はいただいていないでしょう?でも、そのおさがりを、自分たちがいただく。ご先祖と現世の人の交わりなのでしょうか?それが聖書的かどうかともかく、神さまを第一にした交わりが、私たちの交わりです。

 私はキリスト教会における兄弟姉妹の交わりは、この世にはない特殊な交わりだと思います。教会においては、男も女もありません。兄弟姉妹です。教会においては社長も従業員もありません。昔だったら、殿様も家来もありません。「兄弟」と呼んで良いのです。おそらく、教会の中でも、「苦手なタイプだなー」とか「考え方が違うからなー」という人が一人や二人はいるかもしれません。礼拝中はそういうことはほとんどわかりません。しかし、小グループで交わったり、一緒に奉仕するとわかってきます。ことばや、内側からにじみ出てくるものがあります。夫婦の関係も交わりの1つですが、1つ屋根の下で暮らすと「やねー」ということが、いくつもあります。「えー、こんなクセあったの?」「えー、こんなだらしないところがあったの」と一つや二つは見えてきます。教会の中の交わりも同じです。セルチャーチをやって一番困るのが、このことであります。小グループで交わると、最初は良いのですが、数ヶ月たつと、どのセルにも衝突が現れてきます。ある場合は、「もう、あそこのセルには出たくない。」「あの人はあんなことを言った。ひどい!」。そういう問題が噴出します。なぜでしょう?それは、本音が出てきたからです。セルチャーチは、内面の癒しのためエリヤハウスを導入しました。セルとエリヤハウスを組み合わせれば、衝突を乗り越えて、親密な関係を持つことができるということが分かりました。

 エリヤハウスをやる、やらないはともかく、「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」。私たちと神さまの交わりが成り立つためには、イエス様の十字架の贖いがありました。イエス様の血潮によって私たちの罪が贖われたので、神さまと交わることができたのです。あるホームページに、「日本にキリスト教が合わないのは、血なまぐさいいけにえとか、十字架があるからだ」と書いてありました。キリスト教が日本に合わないのではなく、罪の中にある日本があわないのです。神さまと私たちの間の罪を取り除くには、キリストの十字架の血潮しかありません。そのことが、第一ヨハネ1章、2章、3章に詳しく記されています。それでは、私たち一人ひとりの交わりはどうなるのでしょう?これもやはり、キリストの十字架の血潮がなくてはなりません。エペソ2:13-15「しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」私たち一人ひとりの交わりも、キリストの血によって、近いものとされたのです。私たちは十字架によって神さまと和解し、十字架によってお互いの敵意が葬り去られました。ですから、私たちの交わりでいつも忘れてはならないことは、イエス様の十字架の血潮です。これがないならば、私たちはこの世の人たちと同じように、好き嫌いの関係、利害関係、上下関係で交わるしかないのです。

 教会という建物に来ると、必ず十字架があります。屋根の上にあるか、壁にかけられています。首に十字架をぶらさげている人もいます。十字架の縦の棒は、神さまとの関係だと言われます。神様は義なるお方ですから、一片の罪も赦すことができません。だから、イエス様が十字架で私たちの罪を贖い、神さまの義を満足させたのです。また、十字架の横の棒は、水平、私たち一人ひとりの関係を象徴していると言われます。これはキリストによって贖われた者どうしの交わりです。伝統的なキリスト教会は、神さまとの交わりをいつも第一にしてきました。これは決して、間違いではありません。聖書を読むこと、お祈りすること、神さまに礼拝をささげること、すべて良いことです。しかし、兄弟姉妹との交わりはあまり強調してきませんでした。インマヌエルとかきよめ派の教会は、男性の席と女性の席を右と左に分けていました。今でも神学校ではまったく、別の宿舎で、食事の席も別です。それはともかく、教会は礼拝が終ったら、さっさと帰るように勧めていました。家庭集会もあるのですが、先生がメッセージした後、お茶を飲み、そのあと帰ります。私たちの会話を、おしゃべり、雑談、ダベリングと言いました。そして、「教会はサロンじゃない」と言われました。ある先生は「セルチャーチなんてとんでもない。信徒同士が交わると牧師の批判をしたり、噂話をするので良くない」と言いました。昔、赤羽教会が古い会堂の頃、台風で屋根の十字架が吹き飛ばされたそうです。牧師先生がある機関紙に「十字架の横棒は吹き飛ばされたけど、縦棒だけでも残って良かった」と書いてありました。そのことばの背後には、「横の交わりよりも、神さまとの縦の交わりが大切だよ」という考えがあります。

 「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。」リビングバイブルは、4節をこう訳しています。「この手紙の忠告どおりに実行すれば、あなたがたは喜びに満たされ、私たちも共に喜ぶことになるのです。」教会が喜びに満たされていないのは、交わりが不完全だからではないでしょうか?キリストの十字架の血潮による神さまとの縦の交わりだけではなく、キリストの十字架の血潮による横との交わりが必要です。もし、縦の交わりが大事で、横との交わりはどうでも良いとしたなら、喜びに満たされることは少ないでしょう。私たちは神さまとの交わりを基本にして、兄弟姉妹との交わりを持つ必要があります。第一礼拝後も第二礼拝後も「神さまに感謝をささげましょう」と言います。みんなで賛美をささげ、メッセージを聞いて、神様さまに感謝をささげまる。そこに神さまの臨在があるので、間違いないと思います。私も自分がメッセージをして恵まれます。でも、もっと恵まれ、喜びに満たされるのは、神様の恵みを分かち合った後だと思います。先週は第五週目でしたので、メッセージの分かち合いの時を持ちました。でも、他の週はありません。セルチャーチでは、平日に、日曜日のメッセージの分かち合いをして共に祈る教会が多いと聞きます。もし、それが無理であれば、礼拝後、席を立つ前に、「きょうのメッセージここが恵まれました。ここが示されました」と分かち合う。そして、お互いにひとことずつ祈り合う。こういうことが日常茶飯事に行われたら、喜びにあふれた教会になると思います。これは強制ではありませんが、ライフ・スタイルになれたら良いと思います。

 去る7月24日、礼拝後、清瀬に行きました。グレースネット合同礼拝のため、5つくらいの教会が集まっていました。そこには小笠原先生とか若木先生もおられました。最後に手をつないで賛美しました。さらに、司会者が「同性どうして2,3人で共に祈りましょう」ということになりました。握っていた手は暑さのためにびちょびちょです。昔、クリスチャンになった頃は「一緒に祈るなんてイヤだなー」と思いました。知らない者どうしだと、少し緊張します。でも、お互いに祈ったあと、喜びがわいてきます。やはり、主の恵みを共に分かち合う、主の喜びを共に分かち合うことが必要です。今は、いのちのことばであられるイエス様は見えません。しかし、私たちの交わりとおして、イエス様が現われてくださいます。「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」アーメン。

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