« 2011年6月 | トップページ | 2011年8月 »

2011年7月31日 (日)

義人の祈り       ヤコブ5:16-20

ヤコブの手紙はきょうでおしまいです。とても辛口のメッセージでした。でも、最後に最も辛口のテーマが残っていました。なぜなら、当亀有教会に足りない3つのことが述べられているからです。いや、これは日本の教会に共通しているテーマかもしれません。最近、礼拝人数がかなり減っています。向かって右側の人たちは忠実な方々が多いように見受けられます。しかし、真中と左側の席がとても空いています。なぜでしょう?あんまり暑いので出て来られない。あるいは、いろんな葛藤があって信仰から離れている。教会が独立したばかりなので、牧師としてキツイところもあります。でも、ヤコブは3つのことを述べて、叱咤激励しています。

1.罪の告白

 ヤコブ5:16「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」この16節は前の14,15節とつながっていると思います。病気の人が長老たちを招いて祈ってもらいました。そうすると、病気から回復し、さらには罪まで赦されると書いてありました。分脈から見ると、罪が原因で病になる可能性もあるということです。英語の詳訳聖書を見ますと、癒しというのは、思いや感情の調子が良くなることと書いてあります。現代的に言うなら、メンタルな病気の癒しです。最近は、メンタル・クリニック、心療内科ということばを良く耳にします。クリニックだけではなく、いろんなカウンセリングがあります。日本も欧米並みに、そういうところへ行って、治療を受けている人が増えているようです。教会でも、心理学を基盤にした内面の癒し、カウンセリングがさかんになりました。私も数えてみると5つくらいは、そういうところに通って、スキルを学び、コーチングに活かしています。でも、初代教会の頃は、メンタル・クリニックとか、カウンセリングがあったのでしょうか?

 ヤコブは「互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい」。そうすれば、癒されると保障しています。インドネシアのエディ・レオ師がこのようにおっしゃっていました。「現代のプロテスタント教会で、聖書の教えを最も、実行していないものは何でしょう。それは互いに罪を告白することです。これが現代のプロテスタンと教会において最もなされていないことです」と言われました。そういえば、カトリック教会、特に修道僧は、互いに罪を告白することを毎日の日課にしています。どんな小さなことでも、心で思ったことでも、彼らは互いに罪を告白します。初代教会はこれがよくなされていました。だから、初代教会にはメンタル・クリニックもカウンセリングも必要なかったのです。彼らは互いに罪を告白したので、精神的な病気にならなかったのです。なんということでしょう。現代は、罪を告白することよりも、「世の中が悪いですね。あなたの生い立ちがそうさせたんですね。それは弱さですね。大変でしたねー。あなたが悪いのではありません。お気の毒ですね。処方されたお薬を飲んで、あまり深刻に考えないようにしてください」。そして、カウンセリング、カウンセリング、さらにカウンセリング。何もカウンセリングが悪いと言っているのではありません。私もそういうものを5つも学び、多額のお金をかけたくらいですから。

 でも、そういう病気の原因は罪から来ています。重要なのは罪を告白することです。この世のカウンセリングはそうでありませんが、最近のキリスト教のカウンセリングは罪の告白をはっきり言います。エリヤハウスでは、「祈りのミニストリー」と言いますが、5つのポイントがあります。第一は認識する。第二は罪を悔い改める。第三は赦し。第四は古い構造を十字架につける。第五は新しい命をいただく。親をさばいたとか、怒ったとか、誓ったとか、そういう苦い根を認めて、悔い改める必要があります。このところに「互いに罪を告白しなさい」とありますが、これは教会内の交わり、セルにおいて欠かせないテーマです。勉強会でなどでは、大体、自分の考えとか経験を分かち合います。しかし、本当に分かち合うべきことは、内側にある自分の問題、葛藤、心の傷を分かち合うべきなのです。特に男性は、頭(マインド)のことばかり話して、心(ハート)のことは言いません。メンズミニストリーやLTGでも良く言われますが、罪を互いに告白することが、癒しとなり、力の源となります。英語ではアカウンタビリティーですが、まだ日本語になっていません。無理やり「説明責任」と訳しています。本当の共同体は、この「説明責任」がなければなりません。罪があるならば、互いに告白する。そして、祈ってもらう。これは神の教会が率先して、行うべきテーマです。どうぞ、亀有教会の各セルにおいて、また夫婦において、2、3人の交わりにおいて、互いに罪を言い表しましょう。そうすれば、私たちは霊的にも内面的にも健康になります。

そして、「義人の祈りは働くと、大きな力があります。」とつながっていきます。「私たちは義人と聞くとクリスチャンはみんな義人だから祈りはきかれる」と思ってしまいます。そうではありません。互いに罪を告白し、義人となったので、その祈りがきかれるのです。何故、初代教会はそんなに力があったのでしょうか?彼らは集まるたびに、互いに罪を告白したからです。そして、その後、心を合わせて祈ったので、力あるわざが起きたのです。私たちの交わりも、うわべだけの交わりではなく、互いに罪を告白し合いましょう。そうすると、義人の祈りには大きな力があり、驚くほどの効果を生み出すのです。

2.熱心な祈り

 ヤコブ5:17「エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。」ここに、「エリヤは私たちの同じような人でしたが」とあります。これも英語の詳訳聖書を見ると興味深いことが書いてありました。エリヤは私たちが持っている性質、つまり、私たち持っているような、感情、気質、体質の弱さを持っていたということです。エリヤといえば、旧訳聖書で最も力のある預言者の一人です。エリヤは、アハブ王が悔い改めないので、「どちらが本当の神さまか試そうじゃないか」と挑戦状をたたきつけました。エリヤは、たった一人で、バアルの預言者450人、アシェラの預言者400人と戦うことになりました。バアルの祭壇と主の祭壇を二つならべ、天から火をくだした方が本当の神ということになりました。バアルの預言者たちが朝から昼間まで叫んでも、踊ってもダメです。最後に、自分の体を剣や槍で傷つけて求めました。しかし、何の応答もありませんでした。次はエリヤの番です。エリヤは自分が供えた祭壇に、水までかけました。そして、エリヤが祈ると、天から火が下り、いけにえと、たきぎと、石の祭壇、みぞの水もなめ尽くしました。その後、バアルの預言者たちを捕らえて、ひとり残らず殺しました。しかし、その後、どうなったでしょう?アハブ王の后、イゼベルが真っ赤に怒って、エリヤに「私が明日まで、お前を預言者たちと同じにしてやるから」と脅かしました。エリヤは恐ろしくなって、遠くへ逃げました。荒野で、「私のいのちを取ってください」と主に願いました。ある人たちは、エリヤがバーン・アウト、燃え尽き症候群になったのでは、と言います。もう、彼は何にもやる気がなくなったのです。このように、エリヤにも私たちと同じ、恐れや燃え尽きがあったということがわかります。

 でも、ヤコブはエリヤを何と言っているでしょうか?「エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。」そうです。主はイスラエルをさばくために、ききんを与えました。そのとき、主はエリヤの祈りで雨を止め、また3年半後、エリヤの祈りで天から雨を降らせました。エリヤはどれくらい熱心に祈ったのでしょうか?Ⅰ列王記18章を見ると、「地にひざまずいて自分の顔をひざの間にうずめた」とあります。エリヤが祈って、しもべが海から雲が上って来るか見に行きました。「見えたか?」「まだ見えません」「見えたか?」「見えません」それを何度も繰り返しました。そして、7度目に、しもべが言いました。「あれ。人の手のひらほどの小さな雲が海の上から上っています。」その後、大雨がやってきます。祈っては、見に行かせ、祈っては、見に行かせ、少なくとも、7度は繰り返したことがわかります。それだけ、熱心に祈りました。7は完全数ですから、徹底的に祈ったということです。私たちも1回で祈りをやめる場合があります。3回くらいまでは祈るかもしれません。でも、7回、徹底的に祈るということがあるでしょうか?

 私たちはエリヤの熱心さ、熱心な祈りを学ぶ必要があります。エリヤは私たちと同じ弱さを持っていました。しかし、熱心に祈ったら、すごいみわざが起こりました。「私たちが熱心に祈っているだろうか?」「私が熱心に祈っているだろうか?」ちょっとは祈っていますが、熱心に祈るというところまでは行っていません。熱心に祈るために、祈祷会を持てば良いのでしょうか?早天祈祷会、徹夜祈祷会、断食祈祷…。教会は、祈りをプログラムにしてきました。私はそれらを全部やりました。でも、セルチャーチを導入してから、全部やめて、セルで祈るように指導しました。私もディボーションで個人的には祈っています。でも、どうでしょうか?そういう祈り会をやめると、祈りも少なくなったように思います。でも、祈りはプログラムではありません。プログラムにすると、形式的になり、「祈らなければ」という律法になります。そうではなく、どんな形であろうと、一緒に集まれば祈る。そういう教会になったらと思います。この教会はセル教会?いや、セルを目指していますが、どんな集まりであろうと2つのことは絶対忘れてはならないと思います。1つは失われた魂への伝道です。もう1つは集まったら必ず祈るということです。おそらく、どんな集まりでもこれまで祈って始め、祈って終るのではないかと思います。それを今後は、もっと具体的な課題を上げ、もっと熱心に祈る必要があると思います。そのためには、まず個人の祭壇、個人の祈りを熱くすべきであります。神さまは見えるところではなく、隠れたところの祈りを聞かれると聖書に書いてあるからです。どうぞ、亀有教会を神さまが日本のために用いてくださるようにお祈りください。この10年、私がバトンタッチします。その後継者が与えられますように。しかし、それが目的ではありません。亀有教会に枝教会ができ、5人牧師、50人の信徒リーダーが与えられますようお祈りください。現在、目の前の礼拝人数が減り、予算もギリギリです。今が、新しい道に進む、転換期だと思います。今こそ、熱心さ、熱心な祈りが必要です。人にはできないが、神にはできる。イエス様は「私が私の教会を建てる」とおっしゃいました。ですから、神の教会に、衰退はなく、ただ成長しかないのです。

3.救出作戦

 ヤコブ5:19-20「私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。」ここは、信仰を離れた兄弟に対して、どうすべきなのか教えている箇所です。「真理から迷い出た者」とあり、その後には「迷いの道」と書いてあります。その人は、一度はイエス様を信じました。しかし、罪や過ちを犯し、曲がった道を歩んでいます。それで、自分では、もう戻れない状態になって魂の救いすらも失っているという状況です。キリスト教会においては、「一度、救われた者は滅びることがない」という、カルバンの予定説が主流であります。もし、それが正しければ、洗礼を受けて救われたのだから、放っておいても大丈夫ということになります。私もかつて、その立場にありましたが、聖書を読むと必ずしもそうではありません。ヘブル人への手紙を見ると、あちこちそういうみことばが見つかります。また、Ⅰヨハネには、このようなみことばがあります。Ⅰヨハネ5:16,17「だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。不正はみな罪ですが、死に至らない罪があります。」クリスチャンには、2種類の罪があって、死に至る罪と死に至らない罪があるということです。死に至らない罪を犯している人をみたら、神さまに求める必要があります。

おそらくヤコブが言っているのは、死に至らない罪のことであり、神さまに求めたら、再びいのちが回復するものです。ヤコブは「戻りたくても、戻れない兄弟がいたなら彼を連れ戻しなさい」と命じているのです。「連れ戻す」という、ギリシャ語は、「転向させる、立ち直らせる、引き戻す」という意味のことばです。おそらく、おかしくなった信仰を再び与える、回心させるということでしょう。先月の役員会で「最近、教会に来なくなった兄姉を洗い出してみよう」ということが話し合われました。一人ひとりを見ると、それなりの理由があると思いますが、中には「どうして来ないのだろう?」と理由が分からない人もいます。長期欠席になり、やがては名簿から消されるということになります。申し訳ありませんが、正直、私は淡白なところがあります。「来なさい」「来なさい」としつこく言わないタイプです。言わないというよりも、言えないという方が正しいかもしれません。何故かと言うと、来ない理由を聞いて、批判され傷つく可能性があるからです。その人は、一度は得ていた魂の命を、今、失っている状態です。マタイ18章にそのような記事があります。マタイ18:12-14「あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。」イエス様は「九十九匹を山に残してでも、迷った一匹を捜しに出かけるのが本当だ。なぜなら、この小さい者の一人が滅びることは、天の父のみこころではない」と教えています。ですから、何としてでも、教会の群から離れた兄姉を連れ戻す必要があります。

では、どういう理由から、礼拝を休み、教会から離れてしまったのでしょうか?そして、どういう対処が必要なのでしょうか?Ⅰヨハネ2章によると、子ども、若者、父と3種類の人が教会にいることがわかります。それぞれ必要があり、その必要が満たされないと教会を去っていきます。霊的な子どもが信仰から離れるのは、罪が永遠に赦されていることを知らないからです。「洗礼を受けたけれど、また再び罪を犯してしまった。もう神さまは赦して下さらないのではないだろうか?」そうやって罪責感にとらわれて、教会からも神さまからも離れるのです。そういう人たちのためには、「救いの確信」を与える必要があります。罪を犯して失うのは、神様との交わりであって、神さまの子どもである身分は失わないということです。また、霊的な子どもは温かい交わりと養いが必要です。教会の人たちが率先して自分のセルに招き入れ、できるだけ孤立しないように助ける必要があります。落ちないように支えるという意味のフォーローアップが大事です。また、霊的な若者はどうでしょうか?悪い者に打ち勝つ必要があるのに、悪習慣や古い罪に捕らわれている人です。一度は清い生活をしていたのですが、この世の友だちが誘ってくるし、自分の中にも未解決の問題があります。こういう人こそ、兄弟姉妹が行って、連れ戻さなければならない人たちです。ランボーという映画がありましたが、敵地にひとりで乗り込んで行く。たった一人で捕虜を奪還するという乱暴な映画でした。私たちは一人ではなく、チームでそれをやるべきです。最後は父たちとあります。この父たちは信仰歴が10年、20年も経っているのですが、父になりきっていない。若者と父の間に留まっている人です。こういう人は羊というよりも、角が生えたヤギです。牧師や教会にいろんな不満を持っています。気にいらないことが起こると教会を去ってしまいます。信仰はあるかもしれませんが、教会には行かないというタイプです。イエス様ではなく、教会に躓いているのです。いろんな行き違いや誤解が重なって、そうなってしまいました。もし、父まで成長していれば、牧師や教会の足りないところをカバーするのですが、そこまで達していません。そういう場合、両者を取り持つ仲介的な人が必要です。一度へその曲がった人を連れ戻すにはものすごいエネルギーと時間がかかります。

このように、「ああだ、こうだ」と理論的に分析することは可能です。でも、一番必要なのは愛があるかどうかです。愛は理屈ではありません。愛はイエス様から押し出されて出てくる行動です。パウロは、口語訳ですが、Ⅱコリント5:14「キリストの愛が私たちに強く迫っているからである」と言いました。自分が何とかやらなければ、というよりも「キリストの愛が強く迫っているから、そうせずにはおれない」ということです。私が教会に通い始めた頃、あることで躓いて、教会に行かなかった頃があります。すると職場の先輩は、「昨日の説教はこうだったよ」とお話ししてくれます。また、礼拝のテープや榎本保郎先生のテープを貸してくれました。ある日曜日、車で、教会の前まで行くのですが、通り過ぎてしまいました。1ヶ月後、先輩に誘われて、また教会に通い、洗礼を受けることができました。礼拝後、「昼食をしていきませんか?」と誘われましたが、二階に上ると、女性ばかりでした。恥ずかしくて帰りました。何ヶ月後、神学生が強く勧めてくれたので何とか昼食を食べました。「早天祈祷会がありますよ」「英語礼拝がありますよ」「修養会がありますよ」、どんどん誘われ、最後には教会に入り浸りになりました。長老さんから「うちのアパート安いよ」と言われ、そこに住みました。人々から「三畑マンション」と呼ばれていましたが、床が傾いていたせいもあってか、月1万円でした。長老さんは「ここに入った人はみんな献身するんだよ。この建物は東京聖書学院の方に傾いているんだ」と言いました。そのことばのごとく、半年後に神学校に入りました。良く考えると、いろんな人たちの交わりによって支えられ、成長してきたんだなーと思います。この礼拝だけでは、人は教会につながりません。なんとか、キリストの愛によって押し出され、愛の交わりを熱く、そして密にしていきたいと思います。

|

2011年7月24日 (日)

信仰による祈り     ヤコブ5:12-15

 ヤコブは竹を割ったような性格があり、それが手紙にも出ています。12節から15節まで、4つの命令が記されています。12節は「何よりもまず、誓わないようにしなさい」とあります。13節では「苦しんでいる人は祈りなさい」、そして「喜んでいる人は賛美しなさい」。14節は「病気の人は祈ってもらいなさい」と書いてあります。一読して、「当たり前のことだよなー。ここからどうメッセージしたら良いんだ!」と文句を言いたくなります。しかし、いろんな訳の聖書を平たい気持ちで、何べんも読むと、神さまがメッセージをくださいます。これは説教者が体験できる奇跡でもあります。神さまからメッセージが与えられたら、もう、しめたものです。エレミヤのように語らずにはおれなくなります。

1.簡素な生活

 12節をお読みいたします。私の兄弟たちよ。何よりもまず、誓わないようにしなさい。天をさしても地をさしても、そのほかの何をさしてもです。ただ、「はい」を「はい」、「いいえ」を「いいえ」としなさい。それは、あなたがたが、さばきに会わないためです。このことは、マタイ5章で、イエス様が教えられた内容と同じです。私はメッセージのために、いろんな聖書を読みますが、今回はニュー・イングリッシュ・バイブルが良くはまりました。その聖書には、「あなたが『はい』か『いいえ』と言うとき、『はい』か『いいえ』と簡素にしなさい」と書いてあります。「簡素な」は、英語ではplainであります。プレーン・ヨーグルトとか、プレーン・ケーキなどと言ったりします。「あっさりした、味のついていない」という意味です。でも、plainには、「明白な、簡単な、装飾のない、簡素な、率直な、気取らない」という意味があります。私はそれらの中から、「簡素な」を選びました。でも、「はい」か「いいえ」と簡単に言わないで、あれこれ誓ったならどうなるでしょうか?日本では「誓います」とは、あまり言わないかもしれません。その代わり、「きっと、必ず、絶対に、この次は」という言い方をよくすると思います。これも「誓い」の中に入ると思います。

 なぜ、人々は、誓ったり、「きっと、必ず、絶対に、この次は」と言うのでしょうか?それは、信用されていないからです。もし、その人が普段から、言ったことを実行する人、約束を守る人だったらどうでしょうか?別に誓ったり、強調したりする必要はないでしょう。おそらく、過去において、そうしなかった、約束を果たさなかった。だから、言い訳がましく、「今度こそは」「絶対に」とか、言うのではないでしょうか?それが、2回目、3回目になると渾身の力をこめて「今度こそは!」「絶対に!」と言います。私の子どもたちは、「絶対、○○しない」「絶対、○○する」とよく使ったものです。おそらく、友だちもみんなそういう言い方をするのを真似ているのでしょう。そういう時、私は「『絶対に』ということを使ってはいけないよ。人間は絶対にということはありえないから」と注意したものです。「絶対に」ということを使うと、そうできなかった場合、もう言い逃れができなくなります。ヤコブは「さばきに会わないためです」と教えています。私たちは年を取ればとるほど、知識が増せばますほど、信仰が深くなればなるほど複雑になりがちです。国会中継を見ていても、「はい」なのか「いいえ」なのか「はっきりしろ!」と言いたくなります。最初は「はい」と言ったのに、後から「いいえ」と言ってみたり、最初は「いいえ」なのに、最後は「はい」になったりします。なんだか、教会の総会を思い出してしまいます。私はplain、簡素な生き方が好きです。plainの中には、「気取らない、ごまかしのない、腹蔵のない」という意味もあります。クリスチャンが気取ったり、クリスチャンがごまかしたり、クリスチャンが腹蔵のあるというのは似合いません。なぜでしょう?それは神さまを恐れているからです。神さまは私たちの心の内をよくご存知です。神さまにとって、私たちの本音も、動機も、かけひきをしているかどうかも明白です。だから、私たちは裏表のない、真実で簡素な生活を主にあって送るべきです。

 13節前半「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。」これも、「当たり前すぎて、メッセージにならない」と思います。でも、さきほどのplain簡素な生活そのものであります。苦しんでいる人は、どんなことで苦しんでいるのでしょうか?仕事がうまくいかない。人から誤解されて悪く言われている。体のあちこちが痛い。解決策が見つからないで苦しんでいる。この地上にいるといろんな苦しみがあります。でも、多くの場合、人が苦しみに会うとどうするでしょうか?人に相談します。今は携帯やメール、チャット、「つぶやき」があります。ある人はお酒を飲んだり、カラオケに行ってうさを晴らす。ゲームやビデオ、他の楽しいことで気分を紛らわせる。でも、ヤコブは「祈りなさい」と命じています。これって、すごいんじゃないでしょうか。私たちは苦しみにあったとき、その苦しみと格闘します。そして、その苦しみや悩みを人のところに持っていきます。あるいは、苦しみをしばし避けるためにお酒や楽しみに走るかもしれません。多くの場合、それらは中毒性があります。「クリスチャンはお酒を飲んではいけない」という教会もあります。私は、この教会で強くは言いません。でも、その理由は分かります。苦しみにあったとき、お酒に逃げてはいけないということです。どうするのですか?神さまのところへ行って、祈るのです。

 これもニュー・イングリッシュ・バイブルに書いてありました。Is anyone among you in trouble? He should turn to prayer.と書いています。turnとは、「向きを変える」という意味です。直訳すると、「祈りの方を向かなければならない」となります。私たちは苦しみに遭遇すると、それに巻き込まれるか、逃げるか、どちらかをしがちです。でも、「祈りに向かう」これが一番の解決策です。大川牧師が礼拝メッセージでよくおっしゃっています。「祈りに導かれることは、すべて良し」。人生において、様々な苦しみや問題に出くわします。「ああ、なんでこんなことが起きたんだろう」「ああ、いやになっちゃうなー」。でも、そうじゃない。「祈りに導かれることは、すべて良し」と、向きを変えて、神さまに祈る。これこそが、すばらしい簡素な生き方であります。

 13節後半「喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。」これも、「当たり前すぎる」と思います。しかし、そうではありません。ある人が喜んでいる。人は、どんなことで喜ぶのでしょうか?やっていたことがうまくいった。欲しかったものが与えられた。夢がかなった。苦しみから脱することができた。「やったー!」「うまくいった!」そういうときがあります。先週は「なでしこジャパン」がアメリカに勝って、世界一になりました。「あのゴールどうやって蹴ったんだろう?PK戦もすごかったなー。とにかくすごいよなー」と思いました。一番喜んでいたのは戦った選手たちでしょう。そればかりではなく、日本中が喜びにわきました。ドイツや韓国、中国も喜んでくれていました。世界一、金メダル、これはスポーツにとっては、最大の喜びだと思います。でも、選手たちが「神さまを賛美しただろうか?」ということです。日本はクリスチャン人口が少ないので、おそらくはしなかっただろうと思います。「やったー!」「うまくいった!」ということを賛美しないで、喜んでいただけだとどうなるでしょうか?彼らは今度、オリンピックで金を狙うようです。そして、次からは追われる立場になりました。今回は、「失うものは何もない」とリラックスした気持ちでプレーができたと思います。アメリカはガチガチでした。なぜなら、「絶対、勝たなければならない」と思ったからです。

 なぜ、喜んでいる人が、神さまを賛美すべきなのでしょうか?私たちは「うまくいった」「願いがかなった」と喜びます。でも、それはだれのおかげでしょうか?「おかげ」は仏教的な表現かもしれませんが、お許しください。神さまのおかげですよね。神さまがそれを与え、神さまがかなえてくださったのです。もし、喜びを喜びとしていたなら、傲慢になり、誇りになります。「私がやった、俺がやった」となります。あの選手たちは、金メダルとトロフィーをもらいました。それはすばらしいことです。でも、それを自分たちの誇りにしているならば、次からは、プレッシャーになるということです。私たちは栄光を神さまにお返しすべきです。「主よ、あなたのゆえです。あなたを賛美します。ハレルヤ!」。そうすると、不要な誇りとかプレッシャーが肩から落ちて、新しい気持ちで、またチャレンジできます。私たちは、簡素な生活がとても重要です。「喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい」であります。私たちは苦しみも喜びも、主に捧げつつ、簡素で身軽な歩みをしたいと思います。

2.信仰による祈り

 14-15節をお読みいたします。あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。こんどは、病気の人に対する勧めです。病気の人は、何をすべきなのでしょうか?普通でしたら、病気の人は教会の長老たちのところに出向いて、「どうかお祈りください」と願うべきでしょう。しかし、ヤコブは彼らに「来て下さい」と招けと命じています。なぜでしょう?1つは病気が重くて、自分からは行くことができないというケースです。もう1つは、「遠慮しないで、招いて祈ってもらって良いよ」ということです。これは当教会のことではありません。ある先生から聞いたことです。ある教会の信徒が、病院に入院しました。しかし、牧師先生はそのことを知らずに、ずっと後で、兄弟姉妹から間接的に聞きました。「どうして?」と聞くと、「先生には言わないで」と口止めをされていたそうです。考えてみると、うちの教会でも、そういうことがあったかもしれません。「心配かけなくないので」「大げさにしたくないので」という理由だったかもしれません。でも、ほとんどの場合は、連絡してくださいますので、入院された直後に、病院に行って祈ったという記憶が多いです。どうでしょう?「入院したので、祈ってください」と言いづらいのでしょうか?

 ヤコブ書は何と言っているでしょうか?「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は堂々と、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。」「堂々と」は、私が加えたものですが、そういうニュアンスはあります。なぜ、会の長老たちを招いて、祈ってもらえ」ということなのでしょうか?それは、肉体の病気になると、祈る気力すらなくなるからです。私たちは肉体が弱ると、信仰も弱る傾向があります。そうすると、ますます、体も悪くなります。だから、病気の人は、教会の長老たちに出向いてもらって、祈ってもらったら良いのです。今だったら、電話して「どうか来て、祈ってください」と願えば良いのです。教会の長老たちというのは、今で言うと牧師や役員、霊的指導者という意味です。オリーブ油は、マルコ福音書6章でも、弟子たちがそれを用いて病を癒したとあります。オリーブ油、そのものに癒す力があるというよりも、それが癒しの管になるのではないかと思います。「油を塗る」というのは、聖霊の助けを求める行為であります。「長老たち」とありますので、複数です。マタイ18章に「もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」とあります。イエス様がそこに臨在して、その祈りを聞いてくださるということです。だから、「主はその人を立たせてくださいます」と書いてあるのです。ニュー・イングリッシュ・バイブルは、「ベッドから、彼を立たせてくださると」訳しています。マルコ2章で、イエス様は中風の人に、「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで家に帰りなさい」と言われました。「すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、出て行った」とあります。ヤコブ書5章からも、完全に癒されて、立ち上がるその様を思い浮かべることができます。

3.罪の赦し

 ここには、病の癒しだけではなく、罪の赦しのことも書いてあります。15節後半「もしその人が罪を犯していたなら、その罪は癒されます」とあります。14節から15節をそのまま読むと、木に竹を接いだような感じになります。でも、これは、その人の病が罪から来る場合のことを言っているのです。ですから、リビング・バイブルや現代訳聖書はこのように訳しています。「もし病気の原因が罪によるものなら、主はその罪をも赦してくださいます」。これを見て、驚く人がいるのではないでしょうか?「え?罪が原因で病気になるの?」と疑いの目で見るかもしれません。すべての病気は罪から来たものです。でも、それはアダムの罪、最初の人間が犯した罪から来たものです。そのため、私たちに病気や死が訪れるようになったのです。でも、神さまの一般恩寵(恵み)で、人間は健康で寿命を全うできるようになっています。最後は体のどこかが壊れて、お医者さんは何らかの病名をつけるかもしれません。でも、クリスチャンの場合は、「この地上の使命が終ったので、神さまが天に召してくださった」と考えるべきです。しかし、どのくらいの割合か分かりませんが、アダムではなく、その人自身が犯した罪が原因で病気になるケースがあります。全部ではありません。だから、病気の人をつかまえて、「何か未解決の罪があるのではないでしょうか。罪を悔い改めるべきですよ」と言ってはいけません。そうすると、その人は肉体と心と二重の苦しみを負うことになるでしょう。だから、そう簡単には言ってはいけません。ただ、その可能性があるということです。

 チョー・ヨンギ先生の本に書いてありました。あるとき、学校の校長をしているご婦人が面会を求めて来られました。このご婦人は関節炎を患っており、どの病院に行っても治らなかったそうです。チョー先生は、彼女の上に手を置いて、祈り、命じ、叫びました。教会には癒された人が大勢いると言うのに、彼女だけは癒しの恵みに預かることができませんでした。あるとき、聖霊様が「私は彼女に力を現すことができない。彼女が前の夫を憎んでいるからだ」と教えてくださいました。そこで、先生は彼女に「姉妹よ、ご主人と別れなさい」と言いました。彼女はびっくりしながら、「それはどういう意味でしょうか?私は主人と10年前に離婚しています」と答えました。先生が答えました。「確かに、法律的には離婚されました。でも、精神的にはどうでしょうか?あなたは来る日も来る日も、夫を呪い、夫を憎んできました。あなたは今でもご主人と暮らしています。ご主人に対する炎のような憎しみがあなたの体を蝕み、あなたの骨を干上がらせているのです。この憎しみがじゃまをして、関節炎を治らせないようにしているのです。」彼女が反発しました。「そうです。でもあの人は、本当にひどい仕打ちをしたのです。結婚したのは良いけれど、仕事は何一つしようとしない怠け者。私がせっかく得たお金を湯水のように使い、最後はあっさり私を捨てて、別の女と駆け落ちしたのです。そんな人間をどうして赦せるでしょう」と言いました。チョー先生は「それだったら、あなたの関節炎は治りません。でも、神さまはあなたの心の中から流れ出て、あなたを癒そうとしておられるのです。だから、夫を愛して、夫を祝福しなさい」と答えました。彼女はその場で、しばらく悶え苦しみました。何度か先生とやり取りした後、「私は夫を赦します。夫を愛します。夫を祝福します」と告白して祈りました。それから、先生は彼女に手を置いてお祈りしました。すると、おおよそ3ヶ月後、彼女の関節炎は完全に癒されたということです。ですから、罪が病の原因になったり、罪が病の癒しを妨げている場合があるということです。チョー先生は『第四次元』の中で、憎しみ、復讐心、恐れ、劣等感、そういったものが病の原因になったり、あるいは病の癒しを妨げていると教えていました。

 きょうのメッセージの主題はplain、簡素な生活ということです。現代社会はあまりにも複雑で、情報が飛び交っています。今は携帯だけではなく、フェイスブックをやっている人もいます。「そんな情報どうするんだ?処理しきれないだろう」と思います。また、いろんな恐れや心配で、夜も眠れないという人が大勢います。そして、多くの人が精神的な病と戦っています。日本人は、人の目や世間体に敏感なところがあります。でも、人の口には戸を立てることはできません。また、どう思われても、「神さまがあなたをどう思っているか」であります。私たちは神さまの御目のもとで、正直で、潔白に生きれば良いのです。plainには、「明白な、簡単な、装飾のない、簡素な、率直な、気取らない」という意味があります。中世に描いた聖画は非常にゴテゴテしています。弟子たちの服装も華美で、イエス様のお顔もどちらかと言うと無表情です。今のキリスト教のカレンダーを見るとどうでしょう?装飾のない、簡素なお姿のイエス様が多いように思います。また、数年前から「マンガ聖書」できて、イエス様もマンガになりました。マンガほど、簡素なものはありません。これが世界中に広がっています。新生宣教団のホームページを引用致します。「マンガを通して、読者はイエス・キリストのストーリーに引きつけられ、神がひとり子を送ってくださったという犠牲の愛に心の目が開かれます。イエス・キリストの死と復活が現実となって迫り、多くの人に信仰を与えているのです。識字率の低い地域のこどもにはテキストとして用いられ、 文字とそれを表現する絵の描写を通して学んでいます。特に、経済的困難に直面している国や、様々の迫害下にある子供たちへのマンガ製作は、皆様からのご献金によって進められています。マンガ聖書は英語のほか日本語、ポルトガル語、フランス語など、21ヶ国語に翻訳されており、その数は増え続けています。」この間、新生宣教団で奉仕している尾山謙仁先生から東北の被災地に行った証しを聞きました。なんと、「マンガ聖書」が大変良く読まれているそうです。ある子どもは、擦り切れるほど読み、ストーリーを全部覚えているそうです。きょうは、plain簡素に生きることをお勧めしました。「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」としなさい。苦しんでいる人は祈りなさい。喜んでいる人は賛美しなさい。病気の人は長老たちを招いて祈ってもらいなさい。イエス様が共におられるなら、「簡素で、率直で、気取らない」信仰生活が可能です。派手さはないかもしれませんが、一番、安定性があり、長持ちするのではないかと思います。

|

2011年7月17日 (日)

耐え忍びなさい     ヤコブ5:7-11

ヤコブは「耐え忍びなさい」と当時の人たちに命じています。分脈から見ると、賃金を払ってもらえない労働者かもしれません。また、金持ちや権力者たちによって、虐げられている人たちかもしれません。日本だったらそういう場合、「がんばりなさい」と言うでしょう。他には「我慢しなさい」とか「辛抱しなさい」と言うのでしょうか?ヤコブが言う「耐え忍びなさい」と「がんばりなさい」とでは、どこが違うのでしょうか?ヤコブはいくつかの例をあげて、耐え忍ぶことの大切さを教えています。

1.耐え忍ぶ農夫

 ヤコブ5:7,8「こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。」世の中に色んな職業がありますが、農夫ほど忍耐を要するものはありません。私は秋田の出身ですから、よく見て知っています。雪が解けたら、田んぼを耕運機で掘り起こします。そのあと、春の雨が降るので、田んぼをかきまぜることが容易になります。昔は、学校を休んで、みんなで田植えをしました。その後、除草機をかけて草取りをします。真夏はイモチ病にならないように、薬をかけます。数年前、家内の実家、岩手に行きましたが、リモコンのヘリコプターで薬を撒いていました。秋は収穫です。昔は杭を打って、刈り取った稲を干したものです。今はコンバインで刈り取り、すぐ袋詰めするようです。でも、台風が来る前に収穫しないといけません。稲だけではなく、他の農作物もそうですが、農家の方は本当に大変です。大地の貴重な実りを得るために、耐え忍んで待っています。私たちは忍耐を農夫から学ぶ必要があります。

 でも、現代人は「耐え忍んで待つ」ということがとても苦手ではないでしょうか?自動販売機で缶コーヒーを買うとき、10秒たっても出ない場合は、機械を蹴るんじゃないでしょうか?エレベーターに乗っていても、ボタンを押して、閉めるかもしれません。私はレジで並んでいて、前の人が、お金を出すのが遅いとき、「ちゃんと用意しておけよ!」と思います。パソコンは年数がたつとだんだん遅くなります。「ああ、早く開けよ!」とイライラします。私たちはどんなとき、忍耐を学ぶのでしょうか?なんでも、インスタントリーで、すぐ結果がでなければ、諦めてしまう。昔は「石の上にも3年」と言ったものですが、就職しても、どのくらい忍耐することができるでしょうか?何でも、インスタントリーで、スピード化の時代ですが、時間をかけなければ良くないものもあります。たとえば、熱いところで育った木は、成長が早いけど、柔らかくて柱には向きません。一方、寒いところで育つ木は成長が遅く、冬に年輪が刻まれ、硬い木材になるのです。さまざまな試練の中に、遅延という項目があることを忘れてはいけません。私たちの人生において「予定通りに事が進まない」ということがよくあります。そういう時に、その人の人格が整えられるのです。ヨセフは夢がかなうために13年かかりました。ヤコブはラバンの家で20年間仕えていました。モーセはミデヤンの荒野で40年間待ちました。イエス様ですら、公の生涯を始められたのは30歳になってからでした。神さまは、私たちを整えるために、「耐え忍んで待つ」レッスンを与えるお方です。個人の霊的な成長においても、教会の成長においても、避けられないレッスンであります。

ところで、ここに、「主が来られる」と二回書いてあります。その中に、サンドイッチのように農夫のことが書かれています。つまり、主が来られるまで待つことと、農夫が収穫を待つということとが、関係があるということです。「秋の雨」と書いてありますが、原文は「前の雨」です。パレスチナで10月に始まる雨であって、土が軟らかくなってから人々は種を蒔きます。そして、「後の雨」というのが、収穫前の3月4月に降って、その後で穀物を収穫します。収穫を祝うペンテコステが、5月のはじめくらいになっているのはそのためです。かなり前に奥山実先生が、「雨は二度降る」と題して、このことを詳しく話されたことがあります。キリスト教会では「雨」というのは、霊的復興(リバイバル)のことをさします。最初の雨はいつ降ったのでしょうか?それは2000前のペンテコステの時です。ペテロの説教で一日に3000人が救われ、教会が誕生しました。そして、あっと言う間に福音がローマにまで達しました。これが「前の雨」であります。そして、終わりの日、イエス様が再び来られるときにもう一度、雨が降ります。これが「後の雨」です。では、「前の雨」と「後の雨」の間に、雨がまったく降らないかというとそうではありません。パラパラとだけ降ります。教会の歴史を見ますと、16世紀の宗教改革、18世紀のジョンウェスレーのリバイバル、そして、20世紀は福音派、ペンテコステ派のリバイバルが起きました。でも、世の終わり、イエス様が来られる前に「後の雨」が降ります。つまり、世の終わり、大収穫が来ると聖書は約束しています。

イエス様が再び来られることを「再臨」と言います。初臨とは、イエス様が救い主として、この地上に来られたクリスマスであります。多くの人たちは、世の終わりに、もう一度、来られるということを信じていません。新約聖書には「世の終わり」あるいは「再臨」について、10分の1くらい書かれています。世界で最も福音宣教が難しい国は、イスラム圏と日本であります。タイやインドの方が日本よりもクリスチャンの%が高いでしょう。ネパールやモンゴルは20-30年前、ほとんどクリスチャンがいなかったようですが、今はどんどん救われています。日本だけが難しい。日本は宣教師の墓場みたいに言わるほどです。キリシタンから始まり、多くの福音の種が蒔かれてきました。でも、クリスチャン人口は1%にも満ちません。プロテスタント教会で毎週礼拝を守っている人は25万人くらいしかいないそうです。当亀有教会も毎週平均、60名台に落ちました。頭、痛いです。でも、今、東北の方から良い知らせが届いています。特に三陸海岸は教会もなく、伝道が難しい地方でした。しかし、東京や仙台の教会が継続的に支援活動をしています。先日、練馬の横田先生からこのようなことを聞きました。練馬教会の姉妹の実家が、陸前高田にあります。そこを拠点として、支援と伝道活動を始めました。4月から毎月、出かけましたが、まず、姪御さんが救われました。陸前高田の避難所に、いろんな教会が助け合って物資を送りました。不思議なことに、地元で有力な昭和建設の社長が姉妹と同級生でした。あるとき、避難所のスタッフのために、昭和建設の社長と焼肉パーティをしました。横田先生も加わり、良い関係が生まれました。次の日は、以前からつながりのある、南三陸町の避難所に出かけました。そのとき、1組の夫婦がイエス様を受け入れたそうです。そのご夫妻は、3月頃、宣教師が初めて声をかけました。それから、色んな人が助け、最後に横田先生が刈り取ったのです。尾山謙仁先生は新生宣教団で奉仕していますが、何百万も作った小冊子やちらしが全部なくなったそうです。以前は、見向きもしなかったのに、今回、大震災にあってから、だれもがみんな受け取るようになったそうです。

確かに大震災や津波、原発事故はない方が良いです。でも、人々の心に飢え渇きが与えられていることも確かです。もう、日本にはリバイバルが来ないのではないかと思われていました。しかし、終わりの時代、大震災という大きなマイナスの出来事が、霊的復興を与えているのかもしれません。江戸時代から、たくさんの種が蒔かれてきました。そして、世の終わり、不思議なかたちで刈り取りがなされようとしています。自分の教会が蒔いていないのに、それを刈り取ることができる。また、自分の教会が蒔いたけど、他の人が刈り取っても構わない。神の国が広げられていけばそれで良いのです。イエス様はヨハネ4章でこのようなことをおっしゃいました。「ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです」。終わりの時代、私たちは「自分の教会さえ良ければ良い」という教会エゴから脱するべきです。当教会は7月13日をもって、単立になりましたが、日本全体を視野に入れた、伝道牧会を進めてまいりたいと思います。世の終わり、イエス様が再び来られます。黙示録にあるような大きな患難もやってきますが、同時に大きな収穫もやってくるからです。農夫のように、耐え忍んで、大きな収穫をものにしたいと思います。

2.耐え忍んだヨブ

 ヤコブ5:11「見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。」忍耐といえばヨブ、ヨブといえば忍耐です。ヨブという人物は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていました。しかし、一瞬にして、10人の子どもが亡くなり、すべての財産が奪われました。さらには悪性の腫物で全身が覆われ、土器のかけらで掻かなければなりませんでした。その時、妻は「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい」と言いました。それでも、ヨブはひとことも、罪を犯すようなことを口にしませんでした。ところが、3人の友人が来てから、ヨブに平安がなくなりました。友人たちは、「ヨブよ、お前が罪を犯したからそうなったんだ。罪を悔い改めよ」とヨブを責めました。ヨブは「そのような罪は犯していない。ああ、私は生まれてこなければよかった」と自分が生まれた日をのろいました。傷口に塩を塗るようなことが延々と続きます。最後に、年若いエリフという人が来て、ヨブは神さまを見上げるようになりました。なんと、最後の章、ヨブ記42章で「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました」と告白しました。「長い40章は、なんだったんだ」と思います。ヨブ記2章読んで、そのあと、飛ばして42章を読みたくなります。確かに、ヨブは潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていました。でも、神さまはヨブに耐え忍ぶことを学ばせたかったのです。「ああ、いやです。神さま」と私も言いたいです。1987年から24年たっても100名礼拝なりません。8月、小学生キャンプで子どもたちを大和カルバリーまで送っていきます。そのとき大川牧師と必ず会います。毎年、会うんですね。そのとき、毎回「100名礼拝なったか?どうして100名礼拝ならないの?」と聞かれます。私の皮膚病(乾癬)も1999年発病して、12年たっても治っていません。まるでヨブです。癒しを心から信じ、癒しを行っている者として、「なぜですか、神さま?」と文句を言いたくなります。

 でも、ヤコブは何と言っているでしょうか?11後半「また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。」ヨブの結末とは何でしょう?ヨブ42:12-17 主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された。それで彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。また、息子七人、娘三人を持った。彼はその第一の娘をエミマ、第二の娘をケツィア、第三の娘をケレン・ハプクと名づけた。ヨブの娘たちほど美しい女はこの国のどこにもいなかった。彼らの父は、彼女たちにも、その兄弟たちの間に相続地を与えた。この後ヨブは百四十年生き、自分の子と、その子の子たちを四代目まで見た。こうしてヨブは老年を迎え、長寿を全うして死んだ。」羊、らくだ、牛、雌ろばなどの財産はすべて前よりも倍の数になりました。息子娘は同じ数の10人です。それからヨブの寿命ですが、おそらく200歳くらいまで生きたかもしれません。ヨブの人生はまさしく逆転勝利の人生です。しかし、多くの人たちは、ヨブの逆転勝利、倍の祝福のところまで行きません。なぜでしょう?途中で「もう、やーめた!」と諦めてしまうからです。私がよく利用する、富士箱根ランドというホテルがあります。10数年くらい前に、温泉を掘りました。1000メートル掘るのに1億円かかったそうです。しかし、温泉が出ませんでした。「うぁーどうしよう。やめようか」。でも、やめたら1億円が「ぱぁ」になります。それで、あと10メートル掘りました。そうしたら、やっと出たそうです。全部で1億1千万円かかりました。源泉は湯河原につながっており、無色透明な良質の温泉です。アメリカでは油田の話がいっぱいあります。どこの話か忘れましたが、ある人が「ここに、大きな油田がある」と試掘しました。何年間も、堀り続けましたが、見つかりませんでした。その人は「もう、やーめた」と諦めました。次に来た人が、同じ場所を掘ってみました。すると、ちょっと掘っただけで、大油田にぶち当たったということです。彼はほとんど労することなく、大金持ちになりました。前の人は、なんぼ悔しかったでしょうか?もちろん、そういう油田や鉱脈に当らないで、一文無しになる人もいるでしょう。

 でも、聖書は何と言っているでしょうか?ヤコブ5:10「苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。」また、11節では「主がヨブになさったことの結末を見なさい」と教えています。結末、これはなかなか見ることができません。私もときどき、映画を見に行きますが、結末ってとっても大事です。映画ではそこに、たくさんのお金と爆弾をかけるのではないでしょうか?ハリーポッターも10年かけて、やっと終わりのようですが、結末はどうなるのでしょうか?私が見る多くの映画は、正義が勝つ、すべてが報いられるというものです。そういう映画以外のものは見ません。昔、プラトーンというベトナム戦争の映画があったようですが、報いのない映画は見ません。どうでしょう?私たちの信仰生活には結末、報いある結末というものがないのでしょうか?ヤコブは「預言者たちを模範にしなさい」とか「ヨブの結末を見よ」と勧めているのですから、期待して良いということです。ところで、アメリカでは牧師がどんどん辞めているそうです。フラー神学校の調査によりますと、2008年には、毎月1700人以上の牧師が牧会を辞めたそうです。1年では20,400人です。さらに、こういうデーターがあります。「牧師の70%がうつに陥らないように絶えず戦っている。牧師夫人(配偶者)の80%が、教会のメンバーたちから疎外され、充分に感謝されていないと感じている。牧師の50%が、あまりにも落胆しているので、できることなら牧師を辞めたいと思っているが、他に生計を立てることができないのでとどまっている。」最近、日本の若い牧師たちも、うつになり、辞めている人が多く出ています。なぜでしょう?牧師になっても報われないと思うからです。私もコーチングの働きに携わっていますが、10人中、3-4人はギリギリ牧師をやっているか、あるいは「無理なんじゃないか」という人たちです。牧師の仕事量は確かにサラリーマンよりは少ないのでずっと楽かもしれません。しかし、人から批判されると打たれ弱いということは確かです。「教会が伸びない、人が来なくなる、予算がない」みんな牧師のせいみたいなところがあります。だんだん、うつ的になり、信仰や霊力が弱くなります。

 世の終わりのクリスチャン、そして世の終わりの牧師たちにやっぱりヤコブ書は必読書です。神さまはどういうお方でしょう?「あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。」神さまは「慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方」です。しかし、なぜ、ここに神さまと書かないで「主は」となっているのでしょう?多くの場合、「主」は、契約の神さまをさし、主人とか王様という意味になります。そうすると、クリスチャンや牧師はどういう立場になるでしょうか?しもべ、あるいは召使いということになります。主人であり、王であるお方が「慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方」であるなら、その下で仕えている人たちはどうなるのでしょうか?「結末がどうなるか分からない。きっと報いられないんじゃないだろうか。だから、もうやめてしまおうか?」と言えるでしょうか?最後の「結末」、とか「報い」とかは、しもべが考えることなのでしょうか?もっと言うと、だれの責任なのでしょうか?主人の責任でしょうか?それとも、しもべの責任でしょうか?ローマ14:4「あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。」ここには、「しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第である」と書かれています。もし、しもべが「結末があてにならないので、私はやめます」と言ったらどうなるでしょう?それは、主なる神様に対する最大の侮辱であり、不信仰になります。最終的に面倒を見るのは主人である神様だからです。

 17年飼っていた黒猫の「クル」が先月、亡くなりました。ミーヤから生まれたので、家の中で子どもたちと一緒に育ちました。クルも「自分は人間の一人だ」と思っていたのかもしれません。それだけ、素直な猫でした。しかし、おしっこをいろんなところにします。昔、教会の中で、おしっこをして迷惑をかけました。気はやさしいのですが、おしっこをする。これが一番の難点でした。ミーヤのときもそうですが、クルのためにいろんな猫缶を与えました。アジの塩焼きも与えました。また、ドアの開け閉めを朝に夕に行いました。最後にからだが弱り、階段も上がれなくなりました。家内が2晩くらい、添い寝して、夜中の3時頃、吐いてから息を引き取りました。猫は何にも役にたちません。仕事もしないし、食べては寝て、寝ては食べます。こっちは餌や水、トイレ、ドアの開け閉め、病気になれば病院といろいろ考えます。でも、猫から学んだすばらしいことが1つあります。それは何も心配しないで、寝ている姿です。猫は明日のことを思い煩ったりはしません。主人のもとにいれば、ごはんも食えるし、すべてが守られます。おそらく、そんなことも考えていないでしょう。ドアも自動、ご飯も自動だと思っているのでしょう。でも、猫はその日、その日を満喫して生きています。明日は死ぬかもしれない。もう命がないというのに、死ぬまで生きていました。ペットと人間は違うと文句を言うかもしれません。でも、私は猫から信頼することの大切さを教えられました。私たちには、慈愛に富み、あわれみに満ちておられる主なる神さまがおられます。何をしなくても、何ができなくても、神さまは私たちを愛して、面倒見て、責任を取って、そして報いてくださいます。だから、結末がどうなるかなどと、心配しなくても良いのです。主が再び来られる日まで、農夫のように収穫を期待して、耐え忍びましょう。つぶやかないで、主の豊かな慈愛とあわれみの中で、憩いつつ、与えられた一日一日を生きることにしましょう。主が生かしてくださる限り、主に仕えていきましょう。

|

2011年7月10日 (日)

泣き叫びなさい     ヤコブ5:1-6

本日のテーマは、みなさん全員にあてはまらない可能性がありますので、少しだけ、先週開かれた「JCMN関東コーチングセミナー」の証しをさせていただきます。浅草の東京ホープチャペルで「ネットワーク」という主題で学びました。JCMNというのは、ジャパン・セルチャーチ・ミッション・ネットワークの略ですから、それ自体がネットワークになっています。ネットワークと言うとどのようなことをイメージするでしょうか?まず、テレビ局が全国、ネットワークでつながっています。それから、私たちがよく使うパソコンのインターネットもネットワークです。今はフェイスブックというのがあり、瞬時に映像も送れたりして、若者たちの間ではやっています。ネットワークは21世紀の新しい組織です。では、キリスト教会はどうでしょうか?伝統的な教会は、自分の教団内だけで、関係を持っています。しかし、多くの場合、ピラミッド型です。何か要請された場合、こちらから報告をするみたいになっています。しかも、形式的で表面的です。当亀有教会は、教団から独立する手続きをしていましたが、13日の水曜日に都庁から申請が降りることになりました。私自身は、前からいくつかネットワークに属して、いろんな情報を得てきました。しかし、教団の中に属している先生方は、どうしても情報が偏るので、「自分のところが最高だ」みたいに思っています。今や、教団教派を超えた、ネットワークの時代が教会にもやってきました。

ネットワークの特徴は、ボスがいないということです。みんな網の目のようにつながり、1つ1つが中心です。そして、自分もその中にいなければ、ちゃんと情報が流れて行きません。また、ネットワークは従来の組織よりも、早くて、変幻自在です。教会においても、東日本大地震のとき、ネットワークが注目をあびました。一番、早く現地に行ったのが宣教師の団体です。ワールド・ビジョンやクラッシュジャパンに私たちも献金しました。その後、教団や教会が被災地に乗り込みました。自分の教会につながらなくても、物心共にささげました。必要なものが刻々変わるので、ネットワークがとても役立ちます。現地に行くと、何教会も何教団もなく、ただ、愛と福音の種を蒔きます。その中から、イエス様を信じる人が起こされているそうです。聖書に「蒔く者と刈る者は違っても、共に喜ぶ」という箇所があります。当教会でも南三陸町の歌津というところに行かれた兄姉がおられました。なんとか、魂の救いに繋がるように祈り求めていきたいと思います。今、本当に霊的に飢え渇きがあるようです。

では、「ネットワークというのが聖書にあるのか」と言うと、あります。Ⅰコリント12章に教会はキリストのからだであると書いてあります。からだの構造はまさしくネットワークです。消化器系統、呼吸器系統、骨格、神経、血管、リンパ腺、みなつながりあって、それぞれの働きをしています。教会で言うならば、かしらがキリストで、私たち聖徒がからだの器官です。器官を英語でメンバーと言います。私は「信徒」「信徒さん」ということばが好きでありません。教会員、あるいはチャーチ・メンバーです。Ⅰコリント12章には「目が手に向かって、あなたを必要としないと言うことができない」と書いてあります。また、「1つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しむ」と書いてあります。なぜなら、一人ひとりがからだの器官として、つながっているからです。当亀有教会も、聖書が言うキリストのからだなる教会を目指していきたいと思います。ネットワークは網目と似ていますが、大事なのは結び目と結び目どうしをつなぐ線です。結び目とは個人でありセルということができます。そのため個人個人が成熟する必要があります。また、結び目どうしをつなぐ線はコミュニケーションとか協力関係です。そして、ネットワークを妨げるものは、「自分だけが正しい。自分だけが優れている。だから、他の人に頼る必要がない」と言う考えです。孤立とか高慢、分裂分派は、からだなる教会にはふさわしくありません。たとえば、「私は心臓だから一番偉い。私はからだの外で、自分ひとりで頑張る」と言ったらどうなるでしょう?心臓がからだの外で動いていたら、空気しか送れません。やはり心臓はからだの中にあるとき、血液を送るポンプとして使命を果たすことができるのです。とにかく、当亀有教会は、みながかしらなるキリスト様に聞き従う、共同体でありたいと願います。

さて、ここからヤコブ書5章のメッセージに入りたいと思います。きょうの箇所を読んで、「ああ、私には関係ない。なぜなら、私は金持ちじゃないから」と思われたのではないでしょうか?でも、ほとんどの人は、「ああ、もっとお金があったらなー。できれば、お金持ちになりたい」と思っておられるのではないでしょうか?だれにでも、金銭欲や物質欲があります。「それにつけても、金の欲しさよ」というのは、必ず下の句としてくっつくようです。「古池やかわず飛び込む、水の音。それにつけても、金の欲しさよ」。「いや、私はそういうものはありません」という方がおられましたら、どうぞ教会におささげください。喜んでお受けいたします。

1.金持ちの限界

 金持ちに対する警告は、ヤコブ書の1つのテーマであります。この箇所でヤコブは金持ちに対して、富や財産には限界があること教えています。2節、「富は腐っており」と書いてあります。昔の富とは、麦、牛、羊、肉桂、香料、オリーブ油でした。その中には10年もたないものもあります。3節、「着物は虫に食われており」とあります。これはなんとなく分かります。昔は亜麻布、紫布、絹、緋糸とかいろいろありました。化繊だったらそういうことはありませんが、高級品ほど保存に弱いかもしれません。それから「金銀にさびが来て、そのさびがあなたがたを責める証言となる」とあります。金銀はさびることがないと思います。でも、その中に不純物があるとやはりさびます。聖書には「金すらも朽ちる」と書いてあります。その意味は、永遠ではないということです。ヤコブ書は終わりの日について言及しています。だから、3節に「あなたがたは、終わりの日に財宝をたくわえました」と書いてあります。

 終わりの日とは、世の終わりの審判であります。ノアの時代の審判は大水でありました。でも、世の終わりの審判は、天から火が降ってきます。そうなると、富や着物が燃え、金銀ですらも熔けてなくなるでしょう。このたびの、東日本大地震で、多くの金庫が流されたそうです。テレビで、それが回収され、アイロンでお札をのばしているシーンを見ました。幸いなことに、いろんな証券が一緒に入っていたので、持ち主が分かったようです。でも、気仙沼のように流出した石油に火ついて大火災になりました。そうなると、鉄骨も飴のようになります。被災した人たちには大変気の毒ですが、ヨハネの黙示録をみますと、それが世界的規模になることが預言されています。黙示録8:7「雹と火が現れ、地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼けた」と書いてあります。また、福島の原発もなかなか納まりません。黙示録8:11「その星の名は苦よもぎと呼ばれ、川の水の三分の一が苦よもぎのようになった。水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ」と書いてあります。苦よもぎとは、チェルノブイリを示唆するものとして有名です。規模の差はあれ、世の終わり、そのようなことが現実に起こるのです。私たちは被災地が復興することを祈りながら、同時に、世の終わりに備える必要があります。

 私たちは富や財産、金銭を天国に持っていくことはできません。1坪の土地も、1円すらも天国に持ってゆけないのです。イエス様は福音書で、何とおっしゃっているでしょうか?マタイ6:19-20「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」アーメン。ある人たちは、子どもに財産を残すかもしれません。しかし、「児孫のために美田を買わず」とあるように、子どもに財産を残したために、かえってダメになる場合もあります。私が筑波学園都市で働いていた頃、40年近くなる昔話です。あの当時、筑波とか、鹿島などで土地を売った人がいっぱいいました。いわゆる成金というのでしょうが、子どもたちが外車を乗りまわし、仕事もしない。もう、すさんだ生活をした人がたくさんいたようです。そのようなお金は、ギャンブルとか遊びに使ってぱっとなくなってしまいます。そればかりか、1億円以上の財産を子どもたちが相続する場合、90%くらいは争議になるそうです。「こっちが少ない、そっちが多い」と争い、儲かるのは弁護士だけです。そういうことになる前にどうぞ、教会にささげてください。イエス様は「自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです」とおっしゃいました。お金を縁の下に隠していると、いつも地面を見るでしょう。下手にあると、心配で夜も眠れません。でも、天国にささげていたら、「ああ、いつか私のものになるんだ」と天に目を注ぐでしょう。天に宝を積む生涯こそが、お金と財産に支配されない、幸いな生き方です。

2.金持ちの罪

 金持ちたちは、自然に金持ちになったのではなく、あくどいこともしているようです。4節には「労働者への未払いの賃金」とあります。労働者の叫び声が、万軍の主の耳に届いているということです。5節は「地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけっている」とあります。6節には「正しい人を罪に定めて、殺した」とあります。その当時は、大地主がいたと思われます。代官たちとつるんで、小作人たちを苦しめていたのでしょうか?そういうことは、東洋も西洋も同じように思います。でも、一番、問題になるのはキリスト教会、つまりクリスチャンがそういうことに関わったかどうかであります。17世紀から20世紀まで、キリスト教国と言われる国が、未開発の国を植民地化した歴史があります。カトリックのスペインはどうだったでしょう?マヤ文明、アステカ文明、インカ文明といったアメリカの文明を破壊して金や銀を奪い、莫大な富をスペインにもたらしました。ポルトガルの場合は、南アメリカもそうですが、アフリカにも植民地を築きました。フランスはアフリカとカナダ、アジアの一部を植民地化しました。プロテスタントではイギリスがインド、アフリカ、オーストラリア、カナダ、そして中国にも進出しました。まさしく、大英帝国であります。オランダは西インド諸島を植民地化しました。最後に日本が彼らの真似をしたのです。

問題なのは、一応、キリスト教国と名乗る国が、海外に渡り、その国を支配したということです。その土地とその土地の産物を奪い、その国民を小作人もしくは奴隷のように使ったということです。もし、ヤコブ書5章がその当時、読まれていたならそんなことはしなかったはずです。私たちがおいしいとたべているチョコレートの原産はアフリカです。ココナッツを現地の人々が取って、それをヨーロッパが加工して高く売っています。私たちが食べているエビだって、どこか遠くの海のものです。フィリッピンのバナナは、大地主がすべての土地を所有しています。本来は国民の土地なのに、国民の土地じゃないのです。不条理、不合理を強いられています。支配した国がキリスト教国ですが、イコール、クリスチャンということかは分かりません。でも、聖書の教えや価値観が、政治まで及んでいなかったということは確かです。「聖書は聖書、生活は生活」、そういう考えが、搾取、侵略や戦争まで合法化していったのかもしれません。

ある教会はこういう不平等や差別をなくするために、社会運動をしています。当教会は福音的な立場なので、直接的な運動はしません。その代わり、聖書的な教えを人々に浸透させようとしています。聖書に「神さまご自身が不正をしている金持ちたちをさばく」と書いてあります。賃金をもらえない人たちが叫んでいます。その叫び声が万軍の耳に届いています。万軍の主という表現が旧訳聖書によく出てきますが、それは「敵を滅ぼす、戦いの神さま」です。だから、5節に「殺される日にあたって、自分の心を太らせました」と書いてあります。これは、肥え太った豚が堵殺場で殺されるという意味です。金持ちが、贅沢に暮らし、快楽にふけっているのは、太った豚になるのと同じだということです。このようにヤコブ書には金持ちに対して辛らつなことばが多数あります。よっぽど恨みがあったのか、神さまがそういう人たちが嫌いなのか、どちらかです。みなさんの中にそういう人がいるかどうか分かりませんが、人は金持ちになると傲慢になります。お金でなんでも叶えられると本気で思うようです。逆らう人には「だったら良いよ、他の人にやらせるから」みたいな首切りも平気にするでしょう。お金は大きな誘惑です。お金は人を狂わせます。ないときは、わかりませんが、一旦、持つと本性が現れます。私たちは富に対する罪を避けたいと思います。

3.お金にまどわされないために

 最後にお金に支配されないために、どうしたら良いでしょうか?何度か引用したことがありますが、こういうイギリスの古い格言があります。「お金は悪い主人ではあるが、良いしもべである。」もし、あなたがお金をよく管理できればお金は、あなたに仕える小さなしもべとなります。ところが、あなたがお金に支配されるなら、お金はあなたを奴隷にするひどい主人となるでしょう。私たちはお金を正しく管理することが必要です。そのためには、優先順位ということを学ぶ必要があります。私は貧しい家に育ったので、あればあるだけ使い、貯金ができないタイプです。だからお金の管理は苦手です。でも、クリスチャンになってこれだけは、守っています。それは、収入の10分の1を神さまにささげるということです。ささげるというよりも、神さまに、お返しすると言った方が良いかもしれません。私は洗礼を受けたその日に躓きました。それは、献金袋です。洗礼のお祝いでいただいた袋の中に、本と献金袋が2つも入っていました。会堂献金と月定献金でした。私はそのとき「ああ、教会もこの世の中と同じなんだ!」とがっかりしました。でも、私を導いてくれた職場の先輩が、ちゃんと献金の意味を教えてくれました。「近くに、そういう人がいてくれて感謝だなー」と思いました。給与をいただいたら、使う前に10分の1を分けておくと良いです。また、週の始まりである日曜日を神さまに捧げます。一日の始まりである朝を神さまにささげます。そのように、優先順位を神さまにもっていくと、他のことが多少いい加減でも、なんとかなります。

 ロックフェラーといえばアメリカの大富豪です。彼はビル・ゲイツよりも上回る大富豪だそうです。ロックフェラーの自叙伝の中に、「母親との3つの約束」という項目がありました。彼は自分が成功した秘訣として、幼い頃に母と交わした3つの約束を生涯守り通したことを挙げました。その3つの約束とは…、

1.十分の一献金をささげること。

2.教会に行ったら、一番前の席に座って礼拝をささげること。

3.教会に素直に従い、牧師を悲しませないこと。

 彼の自叙伝を読んだ新聞記者が、「世界大富豪になれた秘訣は何ですか?」とロックフェラーに聞きました。彼は「それは子どもの頃、母が与えてくれた3つの信仰の遺産です。これこそが私が大富豪になった秘訣だと思います」と答えました。すると記者は、「3つの信仰の遺産とは、具体的に何のことでしょうか?」と質問しました。ロックフェラーが答えました。「第一の信仰の遺産は、十分の一を必ず捧げることです。それは子どものときから守らされました。私がお小遣い20セントをもらうと、そのつど、母から十分の一献金をささげなければならないと教えられました。もし、私がそのとき、母からそのような教育を受けていなかったら、後で百万ドルを稼いだときに10万ドルもの十分の一献金をささげることができなかったでしょう」。記者は「第二の遺産は何ですか?」聞きました。彼が答えました。「大富豪として成功することが出来た第二の信仰の遺産は、教会に行くと一番前の席に座って礼拝をささげることです。母は幼い私を連れて、40分ほど早く教会に着きました。そして一番前の席に座って礼拝をささげました。母はそうすることによって牧師のメッセージに集中できるし、より多くの恵みを受けることができると言いました」。記者は「第三の遺産は何ですか?」聞きました。彼が答えました。「大富豪として成功することのできた第三の信仰の遺産は、教会に素直に従い、牧師の心を悲しませることをしてはならないということでした。ですから、私は、少し気に入らないことがあっても、いつも牧師のことばに従いました。」すごいですね、特に第三番目が良いと思います。

 母親の遺言は実は10個あって、今、紹介した3つのほかに7つあります。その他の7つを項目だけ紹介させていただきます。

4.実の親以上に、神さまに仕えなさい。

5.誰であっても敵は作らない。

6.朝はいつも、その日の目標を立て、神様の御前で祈りをささげなさい。

7.寝る前には、必ず一日を悔い改める祈りをささげなさい。

8.他人を助ける力があるときには、精一杯助けなさい。

9.日曜日の礼拝は必ず、所属している教会でささげなさい。

10.朝、目覚めた時に、まず神さまのみことばを読みなさい。

 ロックフェラーのとおりにやれば大富豪になれるとは約束できません。でも、はっきりいえることは、彼のとおりにやれば大富豪になっても富に支配されることはないということです。神さまと教会を第一にしている。これは地味ですが、時代を超えて、大切なことであろうと思います。ある人は「神さまを愛しているし、神様に従います。でも、教会は愛していないし、教会には従いません」と言うかもしれません。でも、教会はキリストのからだであり、キリストご自身が住まわれるところです。神さまを愛するなら、キリストがご自身の尊い血しおで買い取った教会をも愛すべきです。神様を愛し、教会という神の共同体に属するときに、健康な信仰が保たれるからです。これはお金にまどわされないための秘訣でもあります。

|

2011年7月 3日 (日)

キリストにはかえられません    ピリピ3:4-9 

ただ今、ビョン・ホギル氏が「キリストにはかえられません」を賛美してくださいました。「キリストにはかえられません、世の宝もまた富も。キリストにはかえられません、有名な人になることも。キリストにはかえられません、いかに美しいものも。世の楽しみよ去れ、世の誉れよ行け、キリストにはかえられません。世の何ものも」。「うぁー。ちょっと過激じゃないでしょうか?」クリスチャンであっても、「いやー、そこまでは?」と思っている人が、70%くらいはいるのではないでしょうか?その証拠にお金が欲しいし、映画にも行く、綺麗な格好をしたい。できたら、ブレークして有名になりたい。なんだか自分にもあてはまりますが、いかがでしょうか?きょうは、ピリピ3章の使徒パウロのことばから、メッセージを取り次ぎたいと思います。

1.パウロの誇り

 ピリピの教会には、人間的なものによって誇っている人たちがいました。「だったら、私はそれ以上だよ」とパウロは誇って見せました。人間的なものを誇るとはどういう意味でしょう?もし、あなたが新たに仕事を見つけるため、会社を訪問したとします。会社は少しでも、能力があって立派な人を雇いたいと思うでしょう。そのとき、あなたは履歴書にどういうことを書き、どのようなことをアピールするでしょう?学歴や職歴を書き、特技や資格をできるだけたくさん並べるでしょう。トーフル何点だとか、そろばん何級だとか、漢検何級だとか、ありったけのものを書くでしょう。ま、そういうことは悪いことではないと思います。でも、自分の人生を考えるとき、そういう人間的なものが自分を支えているとしたら、空しいことであります。なぜなら、自分よりも優れている人が周りには必ずいるものです。優越感と劣等感の狭間で生きることになるでしょう。

 使徒パウロには人間的に誇るものがたくさんありました。代表的なものを3つだけ取り上げると第一は、きっすいのヘブル人。血統書付きということです。サラブレッドも犬も、血統書付きが良いでしょう。生まれや育ちというのは大事です。今はあまりいわれませんが、一昔前は、士族、皇室、貴族とかありました。カースト制までいかなくても、血筋というのがあります。使徒パウロは、きっすいのヘブル人であり、ローマ市民権まで持っていました。第二は、律法による義がありました。パウロは、律法を厳格に守るパリサイ人で、ガマリエルの門下生でした。律法による義についてならば非難されるところのない者でした。別な言い方をすると、品行方正で、頭が良く、全く非の打ち所がない人物でした。第三は、教会を迫害するほど熱心でした。すごい熱心で、パワーがありました。神さまのために命をかけていました。日本的でいうと、頑張り屋さんです。

 みなさんはパウロほどではないかもしれませんが、誇り、プライドというものがあるのではないでしょうか?特に男性はプライドだけで生きていると言っても過言ではありません。聖書にナーマンというアラムの将軍がいました。彼は勇士でありましたが、らい病に冒されていました。あるとき、イスラエルに預言者がいるという噂を聞いてでかけました。預言者エリシャは会いもせず、「ヨルダン川で7度身を浸せ」と言うだけでした。ナーマン大将は怒って返ろうとしましたが、奴隷に説得され、ヨルダン川に下って行きました。彼は馬から降り、身を守っていたすべての武具をはずして、裸になりました。7度身を浸すと、彼の肌は幼子のからだのように元通りになりました。ナアマン大将のように、神さまの前にプライドを捨てるとき、救いを得ることができるのです。 

2.パウロの回心

 パウロは教会を迫害するために、エルサレムにとどまらず、ダマスコまで手を伸ばそうとしました。その途中、天からまばゆい光が差し、パウロは地に打ち倒されました。復活の主が、パウロに現れ「私は、あなたが迫害しているイエスである」と言われました。パウロは教会を迫害しているつもりが、実は主イエス様を迫害していることに気付いたのです。パウロはそれから3日間、目が見えず、人から手を引いてもらって生活しなければなりませんでした。そして、アナニヤから祈ってもらうと「目からうろこ」のようなものが落ち、再び見えるようになりました。「目からうろこ」というのは、聖書から来たことばだったんです。このたとえは、何かがきっかけとなり、急に視野が開けて、物ごとの実体が理解できるようになるという意味です。

 しかし、これは、パウロの回心と言うことができます。回心とは英語で、conversionと言います。converseというのは、「逆の、あべこべの、反対の」という意味です。動詞になると、転換する、転向する、ひっくり返るという意味になります。パウロは復活のイエス様と出会って、まさしく、天と地がひっくり返る、あるいは右と左がひっくり返るという経験をしました。車を運転すると分かりますが、行く時と帰りでは、両側の景色が違います。右に見えていたものが左に見え、左に見えていたものが右に見えます。回心conversionが人生において起こるとどうなるでしょうか?今まで大事だと思っていたことがどうでも良いものになり、今までどうでも良いと思っていたことが大事なものになるということです。パウロ自身、どう言っているでしょう?「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」すごいですね。損得がひっくり返っています。

 具体的にみてみますと、第一は、きっすいのヘブル人、生まれや育ちはどうなったのでしょうか?キリストを得、また、キリストの中にある者と認められることでした。どういう意味でしょう?イスラエルとかヘブル人ではなく、キリストによる生まれ変わりです。私たちクリスチャンはイエス様を信じると、神の子どもとされる特権にあずかります。どんな人であろうと、身分的には神の子となります。これってすごいことじゃないでしょうか?自然界にはこれと似た変化があります。葉っぱを食べている青虫が蝶になること、泥の中のヤゴがトンボになることです。全然、格が違うということです。第二は律法による義から、キリストを信じる信仰による義です。つまり、自分の行ないによって義とされるのではなく、キリストを信じることによって神さまから義が与えられることです。パウロはローマ7章で、自分の行ないの限界を告白しています。良いと思うことが出来ない。むしろ悪いと分かっていながら、それを行ってしまう。律法はこれで良いというところがありません。むしろ、「あなたはここが足りない、ここに罪がある」と指摘します。しかし、キリストを信じることによってプレゼントされる義は、行ないには関係ありません。行ないがなくても、大丈夫です。なんという平安でしょう。第三は自分の熱心さパワーが自慢でした。パウロの力の源は自分の力、自分の知恵、自分の頑張りでした。しかし、キリストと出会ってから、そんなものはいらない。キリストの力、キリストの知恵、キリストのエネルギーに気付きました。みなさんはエネルギーをどこに置いていますか?「ちくしょう、いつか見返してやるぞ!」でしょうか?ある程度までは行きますが、一番良いところで、破滅が訪れるでしょう。この世でも、エネルギー問題が騒がれていますが、自分自身のものではなく、キリストがくださるエネルギー、神のエネルギーはクリーンです。クリーンで永続するエネルギーがあります。

3.パウロのゴール

 パウロは回心したとき、「異邦人のところに遣わすので」と命じられ、たくさんの教会を設立しました。そして、神様から、その使命を果たすことができるように、様々な賜物が与えられました。教え、宣教、癒し、勧め、預言、異言…ありとあらゆる聖霊の賜物が与えられました。また、パウロは旧訳聖書に精通していましたので、イエスがキリストであることを13の手紙にして書きました。使徒パウロがいなければ、今日の教会はないと言っても過言ではありません。しかし、パウロがもっとも変えられたのは、そのエネルギーです。パウロは肉の力、つまり自分の学識、知恵、様々な才能に頼りませんでした。自分のパリサイ的な真面目さにも頼りませんでした。むしろ、神さまの前に弱さを誇り、すべてをキリストにあって行いました。パウロのエネルギー源は、キリストにあって生きることでした。ガラテヤ2:19-20「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」このことを分かり易く言うとこうなります。自分が大きくなればなるほど、キリストが小さくなります。反対に、自分が小さくなればなるほど、キリストが大きくなります。自分も大きくなりたいし、キリストにも大きくなってもらいたいという訳には行きません。自我をキリスト様に明け渡し、キリストにあって生きるとき、ものすごい力が出てきます。ですから、この世のやり方と、聖書が勧めるキリストにある生き方とは、全く違います。 

 私たちは賜物や使命が一人ひとり違います。しかし、パウロであろうとだれであろうと、共通したゴールがあります。それはキリストの似姿に変えられるということです。人格的に成熟すると言い換えても良いかもしれません。だれでも、クリスチャンになった頃は、みな荒削りです。神さまの栄光を現す良い働きもしますが、同時に神さまの御名を汚すようなことも行います。せっかく良いものを建てたのに、自らの罪や弱さで壊すことさえあります。でも、神さまはそういうこともご存知であり、忍耐深く、私たちと共に歩んでくださいます。だから、パウロのように私たちは栄冠を得るために、ゴールを目指す必要があります。ピリピ3:13-14「すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」。うしろのものを忘れるとはどういう意味でしょうか?自分の過去の失敗、いやなことです。それだけではありません。自分の成功、うまくいったこともです。過去の栄光にすがって生きるのは、クリスチャンらしくありません。私たちは変化することを恐れず、何でもチャレンジしていくことが大切です。確かに主にあって満足することも大切ですが、さらに神さまに期待していくことがもっと大切です。

当亀有教会も創立62周年です。年を取るとどうしても保守的になり、変化を嫌います。信仰は命です。たえず、古い皮袋を捨てて、新しい皮袋に入れる必要があります。去る6月30日、都庁に行ってきました。日本基督教団との被包括団体関係を廃止して、独立した教会になる申請書を提出しました。これから当亀有教会は聖書を土台にした信仰を持ち、かしらなるキリストに導かれて、たくさんの教会を生み出していく教会になることを希望いたします。うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っていきましょう。

|

« 2011年6月 | トップページ | 2011年8月 »