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2011年7月 3日 (日)

キリストにはかえられません    ピリピ3:4-9 

ただ今、ビョン・ホギル氏が「キリストにはかえられません」を賛美してくださいました。「キリストにはかえられません、世の宝もまた富も。キリストにはかえられません、有名な人になることも。キリストにはかえられません、いかに美しいものも。世の楽しみよ去れ、世の誉れよ行け、キリストにはかえられません。世の何ものも」。「うぁー。ちょっと過激じゃないでしょうか?」クリスチャンであっても、「いやー、そこまでは?」と思っている人が、70%くらいはいるのではないでしょうか?その証拠にお金が欲しいし、映画にも行く、綺麗な格好をしたい。できたら、ブレークして有名になりたい。なんだか自分にもあてはまりますが、いかがでしょうか?きょうは、ピリピ3章の使徒パウロのことばから、メッセージを取り次ぎたいと思います。

1.パウロの誇り

 ピリピの教会には、人間的なものによって誇っている人たちがいました。「だったら、私はそれ以上だよ」とパウロは誇って見せました。人間的なものを誇るとはどういう意味でしょう?もし、あなたが新たに仕事を見つけるため、会社を訪問したとします。会社は少しでも、能力があって立派な人を雇いたいと思うでしょう。そのとき、あなたは履歴書にどういうことを書き、どのようなことをアピールするでしょう?学歴や職歴を書き、特技や資格をできるだけたくさん並べるでしょう。トーフル何点だとか、そろばん何級だとか、漢検何級だとか、ありったけのものを書くでしょう。ま、そういうことは悪いことではないと思います。でも、自分の人生を考えるとき、そういう人間的なものが自分を支えているとしたら、空しいことであります。なぜなら、自分よりも優れている人が周りには必ずいるものです。優越感と劣等感の狭間で生きることになるでしょう。

 使徒パウロには人間的に誇るものがたくさんありました。代表的なものを3つだけ取り上げると第一は、きっすいのヘブル人。血統書付きということです。サラブレッドも犬も、血統書付きが良いでしょう。生まれや育ちというのは大事です。今はあまりいわれませんが、一昔前は、士族、皇室、貴族とかありました。カースト制までいかなくても、血筋というのがあります。使徒パウロは、きっすいのヘブル人であり、ローマ市民権まで持っていました。第二は、律法による義がありました。パウロは、律法を厳格に守るパリサイ人で、ガマリエルの門下生でした。律法による義についてならば非難されるところのない者でした。別な言い方をすると、品行方正で、頭が良く、全く非の打ち所がない人物でした。第三は、教会を迫害するほど熱心でした。すごい熱心で、パワーがありました。神さまのために命をかけていました。日本的でいうと、頑張り屋さんです。

 みなさんはパウロほどではないかもしれませんが、誇り、プライドというものがあるのではないでしょうか?特に男性はプライドだけで生きていると言っても過言ではありません。聖書にナーマンというアラムの将軍がいました。彼は勇士でありましたが、らい病に冒されていました。あるとき、イスラエルに預言者がいるという噂を聞いてでかけました。預言者エリシャは会いもせず、「ヨルダン川で7度身を浸せ」と言うだけでした。ナーマン大将は怒って返ろうとしましたが、奴隷に説得され、ヨルダン川に下って行きました。彼は馬から降り、身を守っていたすべての武具をはずして、裸になりました。7度身を浸すと、彼の肌は幼子のからだのように元通りになりました。ナアマン大将のように、神さまの前にプライドを捨てるとき、救いを得ることができるのです。 

2.パウロの回心

 パウロは教会を迫害するために、エルサレムにとどまらず、ダマスコまで手を伸ばそうとしました。その途中、天からまばゆい光が差し、パウロは地に打ち倒されました。復活の主が、パウロに現れ「私は、あなたが迫害しているイエスである」と言われました。パウロは教会を迫害しているつもりが、実は主イエス様を迫害していることに気付いたのです。パウロはそれから3日間、目が見えず、人から手を引いてもらって生活しなければなりませんでした。そして、アナニヤから祈ってもらうと「目からうろこ」のようなものが落ち、再び見えるようになりました。「目からうろこ」というのは、聖書から来たことばだったんです。このたとえは、何かがきっかけとなり、急に視野が開けて、物ごとの実体が理解できるようになるという意味です。

 しかし、これは、パウロの回心と言うことができます。回心とは英語で、conversionと言います。converseというのは、「逆の、あべこべの、反対の」という意味です。動詞になると、転換する、転向する、ひっくり返るという意味になります。パウロは復活のイエス様と出会って、まさしく、天と地がひっくり返る、あるいは右と左がひっくり返るという経験をしました。車を運転すると分かりますが、行く時と帰りでは、両側の景色が違います。右に見えていたものが左に見え、左に見えていたものが右に見えます。回心conversionが人生において起こるとどうなるでしょうか?今まで大事だと思っていたことがどうでも良いものになり、今までどうでも良いと思っていたことが大事なものになるということです。パウロ自身、どう言っているでしょう?「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」すごいですね。損得がひっくり返っています。

 具体的にみてみますと、第一は、きっすいのヘブル人、生まれや育ちはどうなったのでしょうか?キリストを得、また、キリストの中にある者と認められることでした。どういう意味でしょう?イスラエルとかヘブル人ではなく、キリストによる生まれ変わりです。私たちクリスチャンはイエス様を信じると、神の子どもとされる特権にあずかります。どんな人であろうと、身分的には神の子となります。これってすごいことじゃないでしょうか?自然界にはこれと似た変化があります。葉っぱを食べている青虫が蝶になること、泥の中のヤゴがトンボになることです。全然、格が違うということです。第二は律法による義から、キリストを信じる信仰による義です。つまり、自分の行ないによって義とされるのではなく、キリストを信じることによって神さまから義が与えられることです。パウロはローマ7章で、自分の行ないの限界を告白しています。良いと思うことが出来ない。むしろ悪いと分かっていながら、それを行ってしまう。律法はこれで良いというところがありません。むしろ、「あなたはここが足りない、ここに罪がある」と指摘します。しかし、キリストを信じることによってプレゼントされる義は、行ないには関係ありません。行ないがなくても、大丈夫です。なんという平安でしょう。第三は自分の熱心さパワーが自慢でした。パウロの力の源は自分の力、自分の知恵、自分の頑張りでした。しかし、キリストと出会ってから、そんなものはいらない。キリストの力、キリストの知恵、キリストのエネルギーに気付きました。みなさんはエネルギーをどこに置いていますか?「ちくしょう、いつか見返してやるぞ!」でしょうか?ある程度までは行きますが、一番良いところで、破滅が訪れるでしょう。この世でも、エネルギー問題が騒がれていますが、自分自身のものではなく、キリストがくださるエネルギー、神のエネルギーはクリーンです。クリーンで永続するエネルギーがあります。

3.パウロのゴール

 パウロは回心したとき、「異邦人のところに遣わすので」と命じられ、たくさんの教会を設立しました。そして、神様から、その使命を果たすことができるように、様々な賜物が与えられました。教え、宣教、癒し、勧め、預言、異言…ありとあらゆる聖霊の賜物が与えられました。また、パウロは旧訳聖書に精通していましたので、イエスがキリストであることを13の手紙にして書きました。使徒パウロがいなければ、今日の教会はないと言っても過言ではありません。しかし、パウロがもっとも変えられたのは、そのエネルギーです。パウロは肉の力、つまり自分の学識、知恵、様々な才能に頼りませんでした。自分のパリサイ的な真面目さにも頼りませんでした。むしろ、神さまの前に弱さを誇り、すべてをキリストにあって行いました。パウロのエネルギー源は、キリストにあって生きることでした。ガラテヤ2:19-20「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」このことを分かり易く言うとこうなります。自分が大きくなればなるほど、キリストが小さくなります。反対に、自分が小さくなればなるほど、キリストが大きくなります。自分も大きくなりたいし、キリストにも大きくなってもらいたいという訳には行きません。自我をキリスト様に明け渡し、キリストにあって生きるとき、ものすごい力が出てきます。ですから、この世のやり方と、聖書が勧めるキリストにある生き方とは、全く違います。 

 私たちは賜物や使命が一人ひとり違います。しかし、パウロであろうとだれであろうと、共通したゴールがあります。それはキリストの似姿に変えられるということです。人格的に成熟すると言い換えても良いかもしれません。だれでも、クリスチャンになった頃は、みな荒削りです。神さまの栄光を現す良い働きもしますが、同時に神さまの御名を汚すようなことも行います。せっかく良いものを建てたのに、自らの罪や弱さで壊すことさえあります。でも、神さまはそういうこともご存知であり、忍耐深く、私たちと共に歩んでくださいます。だから、パウロのように私たちは栄冠を得るために、ゴールを目指す必要があります。ピリピ3:13-14「すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」。うしろのものを忘れるとはどういう意味でしょうか?自分の過去の失敗、いやなことです。それだけではありません。自分の成功、うまくいったこともです。過去の栄光にすがって生きるのは、クリスチャンらしくありません。私たちは変化することを恐れず、何でもチャレンジしていくことが大切です。確かに主にあって満足することも大切ですが、さらに神さまに期待していくことがもっと大切です。

当亀有教会も創立62周年です。年を取るとどうしても保守的になり、変化を嫌います。信仰は命です。たえず、古い皮袋を捨てて、新しい皮袋に入れる必要があります。去る6月30日、都庁に行ってきました。日本基督教団との被包括団体関係を廃止して、独立した教会になる申請書を提出しました。これから当亀有教会は聖書を土台にした信仰を持ち、かしらなるキリストに導かれて、たくさんの教会を生み出していく教会になることを希望いたします。うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っていきましょう。

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