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2011年6月26日 (日)

あすのことを誇らない       ヤコブ4:13-17

「あすのことを誇らない」って、変な題だと思いませんか?「取らぬ狸の皮算用」とか「大風呂敷を広げる」と言い換えても構いません。実は、信仰の世界も似ているところがあります。信仰というのは、まだ手にしてないものを、もうすでに得ているように言うからです。ある場合は、信仰どおりになりますし、ある場合は、空振りのときもあります。信仰という名で、大風呂敷を広げていると、やがて信用をなくしてしまうでしょう。でも、矛盾するかもしれませんが、信仰の世界では、夢とかビジョンというものがとても大切です。なぜなら、神さまの方法は、まずその人に、夢とかビジョンを与えます。受け取った方は、諦めないで、神さまを信じて従い続ける。そうすると、時が来たら、夢とかビジョンが実現します。

1.あすのことを誇らない

当時、あすのことを誇っている人たちがいました。どういう人たちでしょう。ヤコブ1:10,11「富んでいる人は、自分が低くされることに誇りを持ちなさい。なぜなら、富んでいる人は、草の花のように過ぎ去って行くからです。太陽が熱風を伴ってのぼって来ると、草を枯らしてしまいます。すると、その花は落ち、美しい姿は滅びます。同じように、富んでいる人も、働きの最中に消えて行くのです。」ただ今、お読みしたヤコブ4章と重なるところがあります。また、ヤコブ3章には「舌は小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです」と書いてありました。ですから、富んでいる人たちが「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をしてもうけよう」と言っても何の不思議もありません。でも、彼らはあすのことが分かりません。「しばらくの間、現れて、それから消えてしまう霧にすぎない」ということです。私たちの周りにも大きなことを言って、人々をひきつけ、お金を融資させる人がいます。先週、テレビのニュースで見ましたが、元ライブドア社長の堀江氏が収監されました。彼はお金を儲けるために違法に証券を取引きしました。そのため多くの株主が被害をこうむりました。もっと前には、「最高ですか!」と言う、教祖がいましたが、多くの人たちが資金を提供しました。「私はこうことをします。あなたもこうなりますよ」と言われるとどうでしょうか?発せられたことばには力がありますので、全部、ウソとは思えません。詐欺師だということが、本当に証明されるまでは、「いやー、20%ぐらいは本当じゃないだろうか?」と思うのではないでしょうか。私たちの周りには、山師のように、大きなことを言う人がいるものです。

私は牧師のコーチングをしていますが、いろんな牧師と出会う機会があります。ある牧師は「私は幼稚園、小学校、中学高校、大学までの一貫校を作るのが夢です」とおっしゃっていました。本人は牧師をしながら、幼稚園の資格を取るために勉強しています。その人と何度かお会いして、「ああ、この先生は、まるで、ドンキホーテみたいな人だ」と思いました。なぜなら、夢を持つことは自由ですが、まだ、ほとんど実現されていないからです。中には「見果てぬ夢、不可能な夢」もあります。でも、神さまのビジョンと自分の野望とは違います。私の知っている先生方では、「1000人教会を目指す。3000人教会、あるいは1万人教会を目指す」という人が結構おられます。私も韓国のチョーヨンギ師に倣い、大教会を作ることが夢でした。私は奉仕していた教会は大きかったので、教会が大きくなるのは当たり前だと思っていました。それで、当亀有教会に赴任したとき、「3年で100名礼拝になります。ならなければ、辞めます。」とまで豪語しました。28年たってもそれが実現していません。まだ、懲りないで、「長期の目標」として、「350名礼拝、5つの枝教会、5人の牧師、50人の信徒リーダー」と週報の裏に印刷しています。今でも、私は300人くらいの会衆が目の前にいるかのように、説教しています。「信じれば、きっとそうなる」と信じているからです。私は受けてはいませんが、牧師のために「教会成長研修所」というのがあります。「成長」ということばが疑問視され、現在は、JCGIと横文字になっています。ただ、横文字に言い換えただけです。あそこで2年間研修を受け、最後に研修論文を書かせられます。そこには3年後、10年後と長期の目標を書くのですが、大体、教会の人数が右上がりのグラフを書きます。「教会は人数じゃないのではないですか?」と反発する生徒もいるようです。しかし、指導の先生から「甘い!」とか言われて、やはり人数を書きます。その研修を終えて、3年、5年たっても、そのようにならない先生がたくさんいらっしゃいます。すごいフラストレーションがたまるでしょう。つまり、そのビジョンが神さまからのものなのか、それとも、自分の野望なのか区別できないところがあります。

なぜ、人は大きなことを言って、あすのことを誇るようなことをするのでしょうか?第一は、現在の自分に満足していないということです。ある人は「今の自分は、本当の自分ではありません。10年後の私を見てください」と言います。劣等感がバネになっています。第二は、大きいことを言って目立ちたいという人もいるでしょう。人から注目を浴びたいというパフォーマンス指向の人です。人に負けたくないという、実業家タイプの人かもしれません。第三は、大きく願わなければ信仰ではないという、私のような信仰スタイルであります。宣教師の父、ウィリアム・ケアリーは「神に大いなることを期待し、神のために大いなることを計画しなさい」と言いました。しかし、一歩間違えると、神さまに信仰という名で自分の願いを押し付けていることになります。第四は、現実から逃避し、夢の中で生きている人です。やむにやまれない、何かに強迫されているドンキホーテのような人です。夢とかビジョンはとても大切です。私もビジョンを持つことはとても良いことだと思います。箴言に「幻がない民は滅びる」とも書いてあります。でも、どかんと大きな花火を揚げても、実現しないビジョンは主の御名を辱めることにもなります。果たして、それが神からの本当のビジョンなのか、その人の動機を吟味する必要があります。熱いビジョンが与えられたら、こんどは頭を冷やして、実現する戦略、実行可能な目標を立て、具体的に行動しなければならないでしょう。私たちは、単なる大風呂敷にならないように、気をつけるべきであります。

2.主のみこころ

 ヤコブはあすのことを誇る人に対して、「このことを忘れてはいけませんよ」と教えています。ヤコブ4:15-16 むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」ところがこのとおり、あなたがたはむなしい誇りをもって高ぶっています。そのような高ぶりは、すべて悪いことです。本当に、ヤコブ書は厳しい書物です。私たちの願いやビジョンよりも偉大なものは主のみこころです。主のみこころがあってこそ、私たちの願い、私たちのビジョンが生きてくるのです。ここには、主のみこころについて覚えるべきことが2つ書いてあります。1つは、「主のみころなら、私たちは生きていて」という条件付きです。「きょう、あす、一年○○しよう」と言っても、私たちのいのちが、いつまで続くか分かりません。ヤコブ1章には、人の命は草の花のようだと書いてあります。また、ヤコブ4章には、「しばらくの間、現れてそれから消えてしまう霧にすぎない」とも言われています。人間の命もはかなくて、「働きの最中に消えて行くこともある」のです。それを考えると、いくら将来の夢やビジョンを語っても、主から「あなたの人生はこれでおしまい」と言われたら、文句を言えないということです。だから、私たちはあんまり、あすのことを誇ってはならないということです。どうしても、そこには条件があります。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことをあのことをしよう」ということです。もし、自分勝手な願いであるなら、志半ばで倒れてしまうことも有り得ます。使徒パウロという人は、神のみこころの中をせいいっぱい生きた人です。パウロは神さまから「あなたは、エルサレムで私のことを証したように、ローマでも証をしなければならない」と言われました。しかし、ローマに向かう途中、パウロたちは、ものすご嵐に巻き込まれ、信仰を失いそうになりました。でも、御使いがパウロの前に現れ「恐れてはなりません。あなたは必ずカイザルの前に立ちます」と言ってくれました。それで、パウロは主のみこころ通り、ローマに行くことができました。ある人は「使命があるうちは絶対、死なない」と言いました。パウロは長生きはできませんでしたが、主のみこころ、使命を全うした人です。

 もう1つの神のみこころは、「主のみこころなら…このことを、または、あのことをしよう」ということです。数年前に、韓国の先生の「クリスチャンのコーチングセミナー」に出席したことがあります。この世のコーチングは、個人の持っている潜在能力を引き出すことが最も大きな強調点です。そして、その人の希望や願いをかなえるために、コーチはお手伝いをします。しかし、クリスチャン・コーチングは違います。「神さまがあなたに期待していることは何か?神さまのみこころは何か?」ということを本人に知ってもらいます。つまり、神さまのみこころが第一であるということです。では、どのようにコーチしていくのでしょう。自分の願いを神さまのみこころの方に修正していくということです。ローマ12:2「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」とあります。私たちクリスチャンは、神さまの栄光を現わす人生を送りたいと願っています。一度きりしかない人生です。朝には咲いて、昼には枯れてしまうような草花かもしれません。それだったら、永遠の御国のために、人生を投資すべきではないでしょうか。もし、私たちが神のこころにあったビジョンを持ち、神のみこころにあった願いをするならば、神さまは責任をもってかなえてくださるでしょう。自分勝手なひとりよがりの夢とかビジョンであるなら、神さまはかなえる責任がありません。ですから、私たちは神さまが自分に対して何を願っているのか、神さまからのビジョンを受け取るべきであります。では、どうしたら、自分に対する神さまのみこころとかビジョンを知ることができるのでしょうか?もし、私が初めから分かっていたなら、10年も20年も回り道をしていなかったでしょう。今になって、2つか、3つのことは、はっきり言えます。1つはあなたのこれまでの過去の人生にヒントがあります。あなたには両親から受け継いだもの、生まれつきの才能や性格があります。さらに、いろんな勉強、いろんな技術を身につけて来られたでしょう。失敗や「あんなことがなければ良かった」という嫌なこともあったでしょう。しかし、神様の御手はあなたが生まれる以前から、ちゃんとありました。そして、神様は失敗や間違い、様々な傷をも、逆手に取って用いてくださいます。いわゆる逆転勝利の人生です。本当に神さまから用いられたいと思ったなら、エネルギーの転換が必要です。温故知新という中国のことわざがありますが、あなたのこれまでの過去の人生にヒントがあります

 第二は、神さまの語りかけがあります。ピリピ2:13「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」簡単に言うと、神さまがあなたの心に、語りかけるということです。神さまはどのように私たちに語りかけるのでしょうか?神さまはまず、神のことばである聖書を通して私たちに語りかけます。聖書をちっとも開かないで「神さま、あなたのみこころは何ですか?」と聞いてもそれは無理です。聖書には神さまのみこころ、神さまの計画、神さまご自身ことが書かれています。私たちが聖書を読むとき、神様の声に耳を傾けているということになります。しかし、聖書は一般的な神さまのみこころです。それでも、聖書を地道に読んでいくと、あなたに特別に語りかけることがあります。「ああ、これだ。このみことばこそが、私の人生の指針だ。これこそが私のなすべきことだ」と聖書のみことばが浮き上がってきます。払いのけても、払いのけても、浮かび上がってくる、そういう神のみことばがあります。第三は客観的な実、あるいは賜物です。本当にあなたに、神さまからのみこころや使命があるならば、必ず現れてきます。大小関係なく、「ああ、これだなー」というものを自分自身も他の人もきっと分かります。プロ級でなくても良いのです。神様への奉仕はプロもアマもありません。大小も関係ありません。神さまがあなたに与えたものが必ずあります。そして、人々が「あなたには、確かにこういうものがありますね」と認めてくれます。数年前、ポール・ポッツと言う人がオーディションの番組に出ました。彼は携帯電話の倉庫でアルバイトをしていました。審査員が「何を歌うの?」と聞いたら、「オペラ」と彼は答えました。3人の審査員は怪訝そうな顔をしました。とても「オペラ」という顔じゃなかったからです。でも、彼が歌い始めたらどうでしょう?審査員は「鳥肌が立った」とあとから言いました。終る頃は、観客が総立ちしていました。3つの○が付いて、彼は合格しました。審査員はあとから何と言ったでしょう。「だれにでも、ダイヤモンドの原石はあるものだ」と言いました。ダイヤモンドの原石は外から見たら、ただの石ころです。でも、ちゃんと磨いて、カットしたら、ものすごい値打ちがあります。日本という国は「出る杭は打たれる」という横並びの国なので、発掘が難しい国です。どうぞ、聖書を開いて神さまからの声を聞きましょう。神様はあなたの人生に、特別なご計画を持っていらっしゃるからです。

3.なすべきこと

 ヤコブ4:17「こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。」この17節だけを読んだら、「ならざる罪というのもあるんだ。正しいことはしなければ罪になるんだ」と理解するでしょう。でも、「こういうわけで」とありますので、文脈全体から捉える必要があります。「なすべき正しいこととは何でしょうか?」それは、神さまからあなたに与えられた計画、ビジョンであります。これまでは、自分の夢や願望で生きてきたかもしれません。ところで、AKB48がブレーク中ですが、この間、総選挙がありました。そのCDを1000枚も買って、投票する人がいました。また、AKBを応援するボランティアのダンサーもいます。みなさん、人それぞれですが、そういうことのために短い人生を費やして良いのでしょうか?この間のメッセージでも申し上げました。この世には3種類の人がいます。第一は、飲んで、食べて、生き延びるために生活をしている人です。その人は動物と同じです。第二は、自分の願いや夢を実現するために生きている知的な人です。その人はこの世に属するホモ・サピエンスです。第三は、永遠である神の国のために投資する人です。その人は歴史を変える人、ヒストリー・メイカーとして「いのちの書」に名前が記されるでしょう。イエス様を信じて救われても、第二番目の、自分の幸せだけを求めて生きている人が大勢います。神さまはあなたに、「このことを成し遂げてもらいたい」という計画、ビジョン、願いを持っていらっしゃいます。もし、私たちの願いが神さまの願いと合致するならば、実現できるように神さまが後押ししてくださるでしょう。

しかし、環境的に自分は何をしたら良いのか、何ができるのか?夢とかビジョンと言われても、さっぱり描くことができないという人はいないでしょうか?私の郷里は秋田ですが、目の前に秋田平野が広がっています。今頃は、夜になるとたんぼで、かえるの合唱が聞こえきます。布団に入っていると、夜汽車が広いたんぼの向こうを走ります。「いつもいつも通る夜汽車、静かなひびき聞けば遠い町を思い出す」ゴゴゴゴゴー、ゴゴゴゴゴーと大きくなったり、小さくなったりしながら、東京の方に行きます。私には兄が3人いました。みんな東京方面に就職に行きます。長男が東京から帰ってくると、私たち弟を田舎者だと馬鹿にしました。「あんなことあった、こんなことあった」と夜中じゅう、母と話していました。こんどは、二番目の兄が上京します。正月に帰ってくると、「○○じゃん」とか都会風を吹かせます。いろんな自慢話をしていました。三番目の兄、すぐ上の兄は仙台に行ったのですが、弟の私を田舎者だと馬鹿にしました。やはり、自慢話をしていました。田舎に残っている私は、とても淋しい思いをしました。見下されている感じもしました。子どものとき、稲刈りがありました。兄たちは両手で大きな稲の束を2つかかえて、リヤカーまで運びます。私は小さかったので1つの束をひきずりながら、やっと持って行きます。今、お家と教会のゴミ出しをしますが、2つのゴミ袋を持つ時、その時のことを思い出します。「あの稲の束はこれよりも重かったのだろうか?今、自分には兄たちのような力があるのだろうか」と考えます。私は7番目なので、両親からもあまり期待されていませんでした。田舎で育った私には、夢を描くとか、ビジョンを持つということがありませんでした。ただ、生き延びることしか考えていませんでした。働いて、お金が入ったら、それで楽しいことをする。「人生、自分がしたいと思うことを、できるだけたくさんすれば良いや」と生きてきました。

みなさんはどうでしょうか?どうしたら、神さまからビジョンが与えられ、その使命を果たすために生きることができるのでしょうか?使徒2:17,18「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」そうです。イエス様を信じて、聖霊が注がれると、どんな人でも、夢と幻(ビジョン)を見ることができるのです。自分が見るというよりも神さまが見せてくださるのです。ここに「しもべにも、はしためにも」と書いてあります。みなさんの中には奴隷はいませんでしょう。でも、子どものとき、「ガキだからひっこんでいろ」「半人前のくせに」とか言われたことはないでしょうか。そのため、「自分にはそんなことができない」と、夢や希望を持つことを諦めたかもしれません。神さまはあなたをキリストによって贖ってくださいました。あなたは罪赦され天国に行くだけの存在ではありません。神さまは訳あって、21世紀の日本に生まれさせました。大小関係なく、神さまはあなたに計画(デザイン)を持っています。「あなたに、このことを成し遂げてもらいたい」と言う、願いを持っておられます。神様は私にも、夢とビジョンを与えてくださいました。もう、貧弱で、ただ生き延びるだけの存在ではありません。天国人として、神さまの使命を果たす人になりました。人々にキリストによる救いを手渡す人になりました。みなさんの中には、すでに自分の夢や願いを持っている人もおられるかもしれません。でも、どうぞこの地上だけのことではなく、永遠にまで続く夢を持ってください。どうぞ、明日を誇らないで、明日をくださる主を誇る者となりましょう。

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2011年6月19日 (日)

兄弟をさばかない      ヤコブ4:11-12 

ヤコブ書からのメッセージを順番にお伝えしています。おそらく、10年前だったら、話せなかったでしょう。いや、2年前でも無理だったかもしれません。今だからこそ、やっと話せる内容であります。一見、ヤコブ書は律法的で厳しい感じがしますが、心の深い部分が、探られます。ヘブル書にこのようなみことばがあります。ヘブル4:12「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」ヤコブ書はまさしく、心のいろいろな考えやはかりごとを判別させてくれる書物であります。

1.悪口を言わない

コブ4:11前半「兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。」ここに「兄弟たち」と書かれているので、「女性には関係ないんだなー」と油断してはいけません。主にある兄弟姉妹すべてに向けて書かれた命令です。11節には、「悪口を言う」が3回、「さばく」が4回出てきます。「悪口を言う」、あるいは「さばく」は、英語の聖書を見るといろんな表現があり助けになります。いわゆる、人の悪口を言う、中傷する、そしること。他には非難する、酷評する、あらを捜す、批判するという意味もあります。この世では、人の悪口を言ったり、批判したり、陰口を言うのは当たり前ではないでしょうか?子どものときは、よく口喧嘩をしたものです。「死ね」とか、呪いのことばも吐いたかもしれません。大人になると表立っては言わなくなりますが、陰でこそこそ悪口や批判めいたことを言うものです。国会討論会を見ますと、政治家は、相手を罵倒したり、非難するのが当たり前のようです。菅総理がどのような方か分かりませんが、「日本の総理大臣にはなりたくないなー」と思います。あっちからもこっちからも、酷評され、神経がまいってしまうでしょう。そういう非難に満ちた、世の中から救われ、教会という神の家族に入りました。最初はお互いに気を使っていますので、人の悪口など言いません。でも、親しくなると、だんだん本音を言うようになります。あるとき、教会だからと安心して心を開いていたのに、ぐさっとひどい事を言われたりします。そして、「もう教会なんか行くものか!」と躓く兄弟姉妹も起こる場合もあります。

当亀有教会は、セルチャーチを目指しています。セルとは「互いに愛し、互いに祈り、互いに励まし合うということを小グループで実行する」主旨のものです。でも、セルにおいて、どうしても克服しなければならない問題があります。先ほども申し上げましたが、最初の時はお互いに気を使っていますので、さしさわりのないことしか言いません。セルのハネムーン期です。でも、だんだん親しくなると、親切心のつもりで、「それはだめだよ」「ここをなおさなくては」と忠告します。しまいには、忠告なのか、批判なのか分からなくなります。これをセルの葛藤期と言います。結婚と同じで、お互いにぶつかり合うときが必ずやってきます。お互いの欠点や癖、性格が鼻につくようになります。最初は我慢していますが、何かの拍子にバッと出して、衝突したりするでしょう。セルも結婚も、そこで別れないで、踏みとどまる必要があります。第三の段階は、調整期です。不一致を管理するとも言います。お互いに、「ああ、こういうことを言うとこの人の地雷を踏むことになるんだなー。今度からは、こういうふうに対処すれば良いんだなー」と学習します。お互いを変えようと批判すると、よけい関係が悪くなります。そうではなく、お互いの弱点や欠点を受け入れ合うのです。すると、第四の段階、「親密さ」がやってきます。本当の親密さは、隠しあったり、遠慮しあってできるものではありません。心を開いて、幾多の衝突を乗り越えたあとに、初めてやってくるのです。結婚だけではなく、教会の中の兄弟姉妹の関係も同じです。「花も嵐も踏み越えてー」行くと、桃源郷が待っているのです。

でも、1つだけ重要なことがあります。エペソ人への手紙4章に「悪いことばをいっさい口から出してはいけません」と書いてあります。悪いことばとは何でしょう?アルゼンチンのエド・シルボソ師はこのように定義しています。「悪いことばとは、建て上げるかわりに引き降ろすことば、すなわち恵みのない真理である。誰かが批判的なことを言って、それが(完全に、あるいは部分的に)真理であるということを知るとき、私たちは怒り、眠れなくなる。真理かもしれないことを恵み抜きで言われたので、裁かれ責められているように感じてしまう。恵みのない真理は破壊的である。」エペソ4:15「愛をもって真理を語り」と書いてあります。Ⅰコリント13:3「愛がなければ、何の役にも立ちません」とあります。愛がないと、どんなに真理でも、さばきのことばになって、その人を傷つけてしまうのです。よく、私たちは「あなたのためだから、はっきり言うのよ」と言います。しかし、愛ではなくて、自分の怨念を晴らしている場合もあります。かつて、同じことを自分が言われたので、相手を換えてどうしても言いたくなるのです。ヤコブは3章において、「ことばで失敗しない人がいたら、その人は、からだ全体も立派に制御できる完全な人です」と言いました。主にあって成熟した人は、悪いことばではなく、人の徳を建てることばを語ります。そのためには、日ごろ、舌をコントロールし、主の愛と恵みで満たされる必要があります。同じ言い方でも、人の徳を建てる言い方を主にあって学びたいと思います。

2.さばかない

 ヤコブ4:11後半「自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。あなたが、もし律法をさばくなら、律法を守る者ではなくて、さばく者です。」悪口は、人をさばくことの1つのかたちです。おそらく、さばきを口に出すことが、悪口ということでしょう。第二番目のポイントは、悪口のもとになる、基準、ものの考え方について考えたいと思います。私たちは何をもって、「これは良い」とか「これは悪い」と批判するのでしょうか?それは、各々が持っている基準、尺度によってではないでしょうか?ある人の尺度は大変厳しく、ある人の尺度は非常にゆるやかであるかもしれません。ここに律法ということばが出てきます。律法とは神さまが人間に定めた、おきて、戒め、尺度であります。旧訳聖書には十戒を中心とした、律法が数多く記されています。律法の中には「人の悪口を言ってはいけません」と書いてあります。詩篇101:5「陰で自分の隣人をそしる者を、私は滅ぼします」。また、聖書全体を見ると、「人をさばくのは神さまがすべきことであって、人ではない」と書いてあります。もちろん、裁判などでは、王様や裁判官が神さまの代わりにさばきます。ここで言われているのは刑法ではなく、おもに人間関係における戒めであります。イエス様はマタイ7章で「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたのさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたの量るとおりに、あなたがたも量られるからです」といわれました。さきほども申し上げましたが、人は各々が持っている尺度で、「これは良い」とか「これは悪い」と批判するでしょう。しかし、人に当てた尺度が、こんどは自分にも当てることになります。たとえば私が子どもに「絶対、学校に遅刻をしてはいけない」ときつく叱ったとします。するとどうなるでしょう?「絶対に遅刻してはいけない」というさばきを自分にも当てて、それに縛られることになります。人に「絶対に遅刻するな」と言った手前、自分が遅刻したら、申し訳が立たなくなるでしょう。ある家族の夕食シーンです。子どもがよそ見をして、お味噌汁のお椀をひっくりかえしてしまいました。お父さんが「こら!よそ見をするからだ!」ときつく叱りました。次の日の夕食、お父さんがよそ見をして、お味噌汁のお椀をひっくりかえしてしまいました。子どもからお父さんに鋭いまなざしが向けられました。お父さんは「だれにでも失敗はある」とことばを濁しました。「さばいたら、さばかれる」。これは、自然界の法則と同じくらい、普遍的な法則であります。

 きょうは「父の日」です。「母の日」と比べて、あまり重んじられません。なぜでしょう?子どもにとって、お父さんは、お母さんと比べ感謝すべき存在でないからでしょうか。しかし、お父さんを尊敬し、お父さんに感謝するということは、とても大事なことです。多くの場合、私たちが子どものときに、お父さんを口で、あるいは心の中でさばいたのではないでしょうか?「お父さんは独断的で、子どもの気持ちをちっとも分かってくれない」「お父さんは本当にだらしない。私はお父さんのような人とは結婚しない」「お父さんは不公平だ。他の兄弟を可愛がって私をないがしろにした。私はお父さんが大嫌いだ!」…もし、子どものときにこのようにさばいたならば、必ず刈り取りをすることになります。ガラテヤ書6章に「人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります」とはっきり書いてあります。ご存知と思いますが、種はすぐ育って実は結びません。根が生え、芽を出し、枝を伸ばし、葉っぱを張ります。やがて、花が咲き、実が稔って刈り取る時がきます。独身のときは分かりません。でも、結婚して、子どもを設けたときに刈り取りをするかもしれません。「お父さんのようになるまい」と思っていたのに、同じことを子どもにしていた。あるいは、「お父さんのような人と結婚しない」と誓ったのに、同じような人と結婚してしまった。伴侶に対して、お父さんから得られなかったものを要求するかもしれません。これは、「さばくとさばかれる」「種を蒔くと刈り取りもする」という2つの法則が合わさったものです。なぜ、お父さんは大切な存在なのでしょうか?聖書的に、お父さんは神さまの代理であり、権威の象徴です。しかし、多くの場合、この世のお父さんは理想的ではありません。そのため、子どもがさばくのも当然でしょう。でも、父親をさばいたために、神さまに対して歪んだ見方を持つことになります。なぜなら、神さまは父なる神様だからです。また、父親を敬わなかったために、先生や権威ある人たちを敬うことが難しくなります。結局はその人が損をすることになります。

 神の律法は何と言っているでしょうか?「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。」ここには、条件が書いてありません。あなたの父と母という存在だけで、「敬え」と言うのです。もし、私たちが「神さまが与えた父と母に感謝します。敬います」と心から祈ったらどうなるでしょうか?さばきによる呪いが取り除かれ、祝福が及ぶでしょう。私は牧師でありますが、人格的にも能力的にも不十分です。でも、ある人たちは私が牧師だということだけで、敬う人がいます。私も人間ですから、そういう人に対してはできるだけ良くしてあげたいと思います。しかし、ある人は、色々と批判します。そういう人には、「ああ、そうですか。どうぞご勝手に」と、面倒を見ないところがありました。昔は、その理由が良くわかりませんでした。「お互いに波長が合わないのかな」と思いました。でも、ある時、それはその人が「自分の父を敬っていないからだなー」と言うことがわかりました。ある人は、自分がお父さんから受けられなかったものを牧師に求めようとします。その構造を知らないときは、その人の言うことを聞いて、貢いだこともありました。しかし、今は、批判を受けても、過剰に反応しないようになりました。どうぞ、父の日に際してお勧めいたします。父と母を敬わなかった、さばいていた。そのために、刈り取りをしてはいないでしょうか?子どものとき、さばいたことを悔い改め、父と母を赦しましょう。そして、主の命令として、父と母を敬いましょう。そうするなら、呪いが解かれ、豊かな祝福が訪れるでしょう。

3.神さまの福音

 ヤコブ4:12「律法を定め、さばきを行う方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともできます。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。」神さまが律法を定めたのであり、神さまがさばきを行うただ一人のお方であるということです。そして、その神さまは救うことも滅ぼすこともできるのです。神さまの代わりに、「隣人をさばくあなたは、いったい何者でしょう」。しかし、いつから、人は神さまの代わりに隣人をさばくようになったのでしょうか?それは、創世記3章で、「善悪を知る知識の木」から、実を取って食べた時からであります。人は「いのちの木」からではなく、「善悪を知る木」の実の方を選んだのです。それでどうなったのでしょうか?文字通り、人は「これは良いこと、これは悪いこと」「これは善であり、これは悪である」と善悪を判断することができるようになりました。しかし、本来、善悪の判断はだれがすべきことなのでしょうか?それは人間ではなく、神さまがすべきことなのです。本来、私たちは神さまと交わり、神さまから善悪を教えていただくべきなのです。ところが、神さまを差し置いて、私たちが神の座にすわって、善悪を知る者となりました。確かに、人は善悪を知ることができます。「あれは良いことだ、あれは悪いことだ」と判断できます。しかし、それを守り行う力がないのです。「悪いと分かっているけれど、やめられない」。しかも、他の人をさばきながら、自ら同じことをしています。これは「いのちの木」から食べていないためです。善悪を知っても、それを守り行う力がないのです。ローマ2:1「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。」

 もし、私たちが神さまを差し置いてさばくなら、それは神さまへのクーデターです。「神さま!あんたがさばかないんでしたら、私が代わりにさばきます。そこをどいてください。私がそこに座りますから。」わあー、何と私たちは恐ろしいことを今までしてきたのでしょう。しかも、人をさばいておいて、自分も同じ罪を犯していたなら、もう、言い逃れはできません。しかし、ここに福音があります。聖日礼拝は律法で終ってはいけません。必ず、福音を語り、福音で終ることになっていますので、ご安心ください。せっかく教会にいらしたのに、重荷を背負って、帰らせたら申し訳ありません。中には、そういう教会もあるようです。ある教会の牧師は、「信徒が涙を流して悔い改める。それが良い説教だ」おっしゃいました。すると、だんだん礼拝に来る人が減ったそうです。すると、その牧師は「真の教会ほど、人数が少ないのだ。イエス様もいのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれですと言われた。数が多いのは福音を水増ししているからだ。信徒をみことばで打ち叩かなければならないんだ」と言ったそうです。私はそうは思いません。私たちには律法ではなく、福音が必要です。このヤコブ書にも福音があります。ヤコブ書は、「あなたが隣人をさばかないで、神さまにゆだねなさい」と命じています。「それでは、この地に、悪がはびこり、善は踏みにじられるでしょう」とあなたは反論するでしょうか?ヤコブが言っているのは、この世のことを言っているのではありません。この世のことは、この世の人がさばくでしょう。ヤコブは神の家族、教会のことを言っているのです。主にある、兄弟たち、姉妹たちのことを言っているのです。私たちがさばいてはいけないのは、第一に、主の贖いを受けている隣人であります。その後に、信仰に応じて、家族や友人と、周りの人へと広げて行けば良いのです。しかし、基本は神の家族であります。神の家族がすべてのスタートであります。

 私たちは主にあってどういう存在なのでしょうか?ローマ8章を読むならば、そのことが良くわかります。私の偏見でしたら申し訳ありません。しかし、あえて申します。旧訳聖書よりも新約聖書が啓示や恵みにおいてすばらしいです。新約聖書でローマ書は最もすばらしい書物だと思います。ローマ書の8章はローマ書で一番すばらしい箇所です。ということは、聖書のエベレスト山、聖書の最高峰は、ローマ書8章ということになります。ローマ8:1「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」アーメン。そして、ローマ8:33以降「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。…どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」アーメン。ここで言われている中心的なことは何でしょうか?私たちはキリストにあって、もう罪に定められることはないということです。表現を変えるならば、もうだれからもさばかれないということです。どうしてでしょう?イエス・キリストが私たちの罪のために死んで、私たちが義とされるためによみがえられたからです。もし、私たちをある人が「罪あり」とさばくならば、それは神を敵に回していることになるのです。たとえ、「罪あり」とさばかれることがあっても、イエス・キリストが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださいます。ハレルヤ!

「私は主にあって、さばかれることはない。赦され、受け入れられている。アーメン」と魂の奥底から、信じるならどうなるでしょうか?魂の奥底に深い平安がやってきます。浅い平安と深い平安があるかどうかわかりませんが、とにかく、深い平安です。そうするとどうなるでしょう?たとえ、人から悪口を言われたり、中傷されたり、そしられたり、非難され、批判されても動じないということです。正直、少しはぐっと来るかもしれません。震度1か2、強くても3くらいでしょう。でも、家が倒れる震度6とかには決してなりません。だいたい、震度1か2くらいで、しのぐことができます。そうしたらどうなるのでしょう?悪口に悪口を、中傷に中傷を、そしりにそしりを、非難に非難を、批判に批判を返さなくても良くなります。昔は、「やられたらやり返す。倍にして返すぞ!」。これが普通だったかもしれません。しかし、心の深いところに、「自分はさばかれていない。神さまが味方なんだ。キリストの愛から引き離すものは何もない。アーメン」という平安があります。そうすると、過剰反応しないで、乗り越えられるのです。もっと成長するならば、悪に対して、善をもって勝利できるようになります。ここまで行ったら、本物の聖徒、セイントです。人から何と言われようと、神さまは私をさばいてはおられない。イエス・キリストによってすべての罪が赦されている。ここに、信仰の錨を降ろしましょう。そうすれば、どんな人生の嵐をも乗り越えることができます。

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2011年6月12日 (日)

キリスト者の原動力      ヤコブ4:6-10 

きょうはペンテコステ礼拝です。イエス様は召天する前に、「いと高きところから、力を着せられるまでは、都に留まっていなさい」と弟子たちに命じました。120人の弟子たちは、二階座敷に集まり、心を1つにして祈っていました。イエス様が召天してから10日後、天から風のように、火のように聖霊が下り、弟子たちは聖霊に満たされました。それからと言うもの、臆病だった弟子たちが別人のようになり、命がけで福音を全世界に伝えに行ったのです。彼らの力の源、原動力は何だったのでしょう?それは聖霊です。きょうはヤコブ書4章からのメッセージですが、そのことと関係付けてなんとか、お話したいと思います。少し、無理な感じがしますが、お許しください。

1.へりくだりなさい

 先ほど、お読みしたところには、少なくとも3つの命令があります。第一は「へりくだりなさい」です。ヤコブ4:6「しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。『神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。』」そして、ヤコブ4:10「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。」「高ぶる」とはどういう意味でしょうか?「こう言われている」というので、旧訳聖書から引用されたものであることが分かります。箴言3:34「あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける」と書いてあります。「高ぶる」とは「神なんかいない、神になんか頼らない。自分の力でやる」と神さまをあざけることです。この世においては、自分の力を頼るのは、悪いことではありません。日本は創造主なる神さまを信じない代わりに、「頑張れ、頑張れ」とやっています。父なる神さまは、天地を造り、万物を保持し、すべてのものを養っておられます。しかし、「私は神さまには頼りません。自分の力でやります」。これが高慢であり、高ぶりです。不幸にして、自分のお父さんが家庭を顧みなかった。家族を捨てたような場合、子どもたちはどうなるでしょう。どうしても、だれにも頼らないで、たくましく生きようとします。独立心、悪いことではありません。でも、反面、自分を養ってくださる父なる神を受け入れることができません。

 みなさん、水と神さまの恵みは高いところから低い所へと流れます。私たちが人生において、へりくださせられる時があります。それは自分の力だけではうまく行かないときです。私は川崎の日本鋼管扇島の工事に携わったことがあります。埋立地なので、50メートルくらいの鋼管を支持層まで打ち込みます。私の測量ミスで、向かい側が1メートルほどずれてしました。本来、四角いはずの基礎が、台形になってしまったのです。「うぁー、どうしよう」と頭を抱えて、砂地をころげまわりました。もう、自分では何ともできません。それで、上司のところへ相談、上司は日本鋼管の方に相談に行きました。ま、鉄筋を多くすることによって事なきを得ました。私の失敗をかぶって、何とか処理をしてくれた上司のおかげです。女性は神さまに向かって祈るときが、少なくとも3回はあるそうです。第一は結婚するとき、第二はお産のとき、第三は死ぬ前だそうです。男性はどうなんでしょうか?「うぁー、どうしよう」という事がないのでしょうか?私のような失敗や、事故、病気、会社の倒産、離婚、天災…「うぁー、どうしよう」となるのではないでしょうか?実は、そのときがへりくだらせられる時なのです。ヤコブ4:9「あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。」そして、10節「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。」と続くのです。人生において、頑張りがきかなくなる時があります。そういう時こそ、神さまが一番、近いのです。

 イザヤ57:15「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。『わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。』」。イザヤ書を見ると、へりくだった心とは、砕かれた心だということが分ります。人生において、砕かれる時があるのは、実は良いことなのです。この間、南三陸町の奉仕の証しを聞きました。わかめの養殖をしている人たちが、普段は、「あっちが多いとか、こっちが少ない」と争っていました。ところが、津波が来て、養殖棚が全部、流されてしまいました。漁村の人が、「私たちには以前、確執がありました。主はどう思っておられるのでしょうか」と質問したそうです。質問された奉仕者は、びっくりして、それでも何とか答えたのでしょうか?「主」とは、この世の神さまではなく、特定された神さまのことです。ライフラインが全部復旧すると、生活用水を配る奉仕も不要になります。でも、人生の根本的な問題、神さまとのライフラインを回復することが残っています。神さまから離れていると、恵みも永遠の救いも流れてきません。砕かれた心とは、新約聖書的には、どういう意味になるでしょうか?「イエス様、あなたなしには生きていくことができません。あなたを人生の主として生きて行きます」と告白することです。すると、どうなるでしょうか?イエスの御霊なる、聖霊が、あなたの心に臨みます。ペンテコステ以来、だれでもイエス様を受け入れるなら、聖霊が心に臨みます。神さまは天にもいらっしゃいますが、あなたの心にも聖霊によっていらっしゃることになります。神様の本籍は天国ですが、現住所は、あなた自身なのです。ハレルヤ!聖霊は助け主、慰め主、救い主、きよめ主、王の王です。どうぞ、へりくだって、主なるイエス様を、聖霊様を心の王座にお迎えいたしましょう。

2.神に従いなさい

 ヤコブ4:7「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」悪魔に打ち勝つ方法があるのでしょうか?たった1つだけあります。それは、神さまに従うことです。神さまに従うことと、悪魔に立ち向かう力は正比例の関係にあります。つまり、神さまに従えば従うほど、悪魔に打ち勝つ力と権威をいただくことになるのです。使徒の働き19章に面白い記事があります。パウロがコリントで伝道していたときです。ユダヤ人の魔よけ祈祷師の中のある者たちも、ためしに、悪霊につかれている者に向かって主イエスの御名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる」と言ってみました。そういうことをしたのは、ユダヤの祭司長スケワの7人の息子たちでした。すると悪霊が答えて、「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ」と言いました。そして悪霊につかれている人は、彼らに飛びかかり、ふたりの者を押さえつけて、みなを打ち負かしたので、彼らは裸にされ、傷を負ってその家を逃げ出した、とあります。彼らはイエス様をちっとも信じないで、ただ、イエスの御名を用いて、悪霊を追い出そうとしました。だから、悪霊によって逆にやられたのです。「イエスの御名」自体には権威があります。でも、それを用いる人に権威と力がないのです。実はギリシャ語では権威と力は違います。権威はエクスーシアと言って、権利、資格、権能、支配権という意味があります。婦人の警察官が、交通整理をしているときがあります。彼女が、ピーピーと笛を吹けば、ダンプカーも止まります。ダンプカーは彼女をひき殺す力があります。しかし、彼女の背後には国家権力、エクスーシアがあります。だから、ピーピーと笛を吹かれれば、止まるしかありません。もう1つの力はギリシャ語でドュナミスと言います。これは、能力、奇跡的力、資源となる力という意味があります。お巡りさんは、権威だけではなく、力も必要です。だから、彼らは柔道や剣道で日夜からだを鍛えているのです。強盗に一人で立ち向かうとき、権威が通用しないときがあるからです。そういう場合は、力でねじ伏せるしかありません。

 2000年前のイエス様の弟子たちには、権威も力もありませんでした。イエス様が十字架につけられたとき、ヨハネ以外はみんな逃げ去りました。一番弟子のペテロはイエス様を三度も知らないと言いました。なんと、イエス様が復活された後も、彼らは部屋に隠れていたのです。では、どうして、彼らが迫害も恐れないで、全世界に出て行く人たちに変えられたのでしょうか?使徒1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」ここで、言われている「力」は、権威ではなく、ドュナミスという力です。なぜ、権威じゃないのでしょうか?私はこう考えます。権威とはイエス様を信じると与えられるものだと思います。イエス様を信じる者はもれなく、イエスの御名を用いることができるのです。だから、マルコ16章で「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」と書いてあるのです。しかし、何度も言いますが、クリスチャンは権威だけではなく、ドュナミスという力も必要です。2000年前、ペンテコステの日、弟子たちはドュナミスという力を上からいただきました。あの日、弟子たちは何をいただいたのでしょう?聖霊の能力をいただいたのです。聖霊の奇跡的力、資源と言っても良いです。

 みなさん、イエス様を信じている人は、イエスの御名を持っています。つまり、天国からの神の権威を持っているということです。でも、それを使う能力がないとしたらどうでしょうか?もし、私が名刀村正を持っているとします。しかし、名刀を振り回す能力がないとしたらどうでしょう?自分の手や足を切ったりするかもしれません。また、敵とも戦うことができないでしょう。どうぞ、クリスチャンであるなら、聖霊の力もいただくべきです。多くの人たち、クリスチャンでも、「そういうものは不要であり、過去のものだ」と言います。では、なぜ、クリスチャンが悪魔にやられるのでしょうか?現代は、せっかく牧師になったのに、鬱病や燃え尽きで倒れる牧師が多いと聞きます。彼らは聖書のことばと福音は信じています。しかし、多くの場合、聖霊の力を信じていません。自分の真面目さや頑張りでやるので、倒れてしまうのです。悪魔はいろんな方法でクリスチャンを誘惑します。人の厳しいことば、教団の圧力、精神的な病をもった人たち、性的誘惑、多忙…いつの間にか力を失います。士師記16章にありますが、サムソンがデリラに騙されて、髪の毛をそり落とされました。そのとき、力はサムソンを去っていました。デリラが「ペリシテが襲って来たよ」と言いました。サムソンは、「今度も前のように出て行って、からだをひとゆすりしてやろう」と思いました。しかし、彼は主が自分から去られたことを知りませんでした。私たちクリスチャンも、力が去っているのに分からないときがあります。

 では、どうしたら上からの力をいただき、それを保持することができるのでしょうか?第一は、ペンテコステの弟子たちのように、「上から力を着せてください」と願うことです。クリスチャンであるなら、すでに内側に聖霊様を持っています。これは間違いありません。上から、英語ではuponです。教団によって聖霊のバプテスマとか満たし、いろんな表現があります。でも、イメージ的には、上から聖霊が注がれ、満たされた状態です。たとえば、コップにジュースを入れているとき、よそ見をして、ジュースがあふれるときがあるでしょう。「あーっ、こぼれちゃった」。一回、こういう経験をすると、次から、どう満たされるか分ります。一瞬、「主よー」と願っただけで、満たされます。これは、「神さまは私をいつでも、聖霊で満たしてくださるんだ」という信仰の世界であります。自分が無限なる神さまの湖につながっています。時として、その水路がふさがれる時があります。丸太やゴミでふさがれてチョロチョロしか流れてこない場合もあるでしょう。何が原因でしょう?第二の必要は告白と悔い改めです。だれかを恨んでいる、憎んでいることがあります。その時は「赦します」と祈ります。また、ある場合は思い煩いや心配があるかもしれません。その時は「全能の御手にゆだねます」と祈ります。そうすると、ふさがれていた丸太やゴミがどかされて、勢い良く、神さまの力と恵みが流れてきます。私たちは日々、神さまとの関係がどうなのかチェックしなければなりません。水道工事のように、維持管理、メンテナンスが重要です。この世においてはいろんな戦いがあります。でも、ヤコブは勝利の秘訣を教えています。「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」

3.神に近づきなさい

 ヤコブ4:8「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。」これは、どういう意味でしょう。これは、私たちの神さまに対する信仰の姿勢です。多くの場合、信仰というと受身的です。神さまのお導き、神さまのご計画、神さまのご摂理、などと言います。特に、カルバンの改革派の信仰を持っている人たちは、自分で何かをするというよりも、「神さまがおっしゃったら、そうする」という姿勢が強いと思います。私は悪くはなく、むしろ正しいと思います。でも、聖書の神さまは「求めなさい。そうすれば与える」神さまです。神さまは、私たちの意思、私たちの願いを尊重されます。ナビゲーターという宣教団体があります。学生たちの弟子訓練で有名です。そこに、人生において車のハンドルをだれが握るかというたとえがあります。ナビゲーターの本では、「人生のハンドルをイエス様にゆだねなさい。そうすれば安心です」と教えているようです。私はこれには反対です。人生のハンドルを握るのは私たちで、「こっちだ、あっちだ」と教えてくれる方がイエス様だと思います。大体、ナビゲーターという意味は、道などの案内をしてくれる人や物を指す言葉です。私はやったことがありませんが、自動車のラリーというのがあります。ドライバーが運転し、助手席には地図と計算機をもった人がいます。彼はドライバーに、こんどはこっちだ、あっちだと走行経路を教えます。その人が、ナビゲーダーです。おそらく、ナビゲーターのテキストは、新しいクリスチャンを導き育てる人物を言うのでしょう。でも、イエス様に人生のハンドルを委ねるというのは、間違っていると思います。もちろん、自分が運転できなくて、運転を交代するときもあるかもしれません。しかし、多くの場合は、選択し、実行するのは自分自身であります。だから、私たちはその結果に対して、責任を持つ必要があります。イエス様は、「あなたは本当はどうしたいんだ」と聞いておられるのではないかと思います。

 福音書に盲人のバルテマイの記事があります。彼は盲人でしたので、物乞いをして生きて行くしかありませんでした。ある日、イエス様がエリコの町を通られました。バルテマイは渾身の力をこめて「ダビデの子のイエス様。私をあわれんでください」と叫びました。周りの人たちは「うるさい、だまれ!」と彼をたしなめました。すると、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てました。すると、イエス様は立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われました。すると、彼は上着を投げ捨てて、立ち上がり、イエス様のところに来ました。イエス様は彼に「私に何をして欲しいのか」と聞かれました。「何をして欲しいのか?」って、わかるでしょう。「これですよ、これ」とは言いませんでした。バルテマイは、はっきりと「先生。目が見えるようになることです」と答えました。イエス様は彼に「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われ、彼は目が見えるようになりました。イエス様は神さまですから、バルテマイがどういう状態で、何を望んでいるのか分っていました。でも、あえて、「何をして欲しいのか?」と聞かれたのです。それで、彼は「目が見えるようになることです」と願いました。これって、すごいことではないでしょうか?クリスチャンはあまりにも受身です。牧師もあまりにも受身的な人がいます。

 聖霊に満たされると、聖霊と同じ思いになります。満たされるとは、支配されるという意味です。その人は、神さまの御手の中にありますので、手当たり次第、何をしてもOKです。士師記のサムソンの記事を見ますと、「まことにそのとおりだなー」と思います。当時、ペリシテ人がイスラエルを支配していました。サムソンは色んななんくせを付けて、ペリシテ人を困らせます。しかし、「主はペリシテ人と事を起こす機会を求めておられた」(士師14:4)と書いてあります。サムソンはペリシテ人と結婚したり、遊女のところへ入って、いろんな問題を起します。その戦い方も、非常に幼稚です。あるときは、ジャッカル同士のしっぽをつないで、そこにたいまつを付けて、畑に放しました。また、あるときはロバのあごの骨で1000人を打ち殺しました。最後は、目をくりぬかれましたが、神殿を崩して、3000人以上のペリシテ人を倒しました。サムソンが神の霊で満たされると、ものすごい怪力を発揮しました。そして、神さまは幼稚な方法であっても用いたのです。同じ士師記のギデオンの戦い方も、「そんなんで勝てるのかなー」という方法でも勝利しました。使徒の働きには、聖霊に満たされた弟子たちの記事があります。ピリポも、ペテロも、パウロも聖霊に満たされ、町々をひっくり返しました。手当たり次第、癒しや解放をし、手あたり次第、みことばを宣べ伝えたのではないかと思います。詩篇1:3「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」「何をしても栄える」とあります。

私は年ととったせいか、失敗を恐れ、慎重になりすぎるときがあります。聖霊に満たされた1つの特徴は何でしょうか?それは大胆さです。使徒の働きの、聖徒たちには大胆さがありました。それは向こう見ずな人間の大胆さではなく、聖霊による大胆さでした。私たちは今、終わりの時代に生かされています。神様は、一人でも多くの人が救われるように願っておられるでしょう。教会はどうしても、方法論にこだわります。石橋を叩いて、叩きすぎて割ってしまうところがあります。そうではありません。聖霊に満たされ、聖霊が原動力となるならば、神さまはどんな方法でも用いてくださいます。ヤコブ4:8「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」私たちはイエス・キリストによって神の子どもとされました。それだけではなく、一人ひとりが神の聖徒、神の兵士でもあります。「どうぞ、神の国がこの日本でも広がるように、自分たちを用いてください」と神さまに近づこうではありませんか。私たちが一歩近づいたならば、神さまは私たちのところに、二歩も三歩も近づいてくださるお方です。

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2011年6月 5日 (日)

どういう動機か      ヤコブ4:1-5 

ヤコブ書からのメッセージは体操競技で言うなら、Cを越えて、DかF難度かもしれません。それほど語りづらい内容だからです。何か挑戦的で、粗探し的な要素に満ちています。でも、ヤコブ書が長い教会の歴史の中で、ちゃんと読まれて実行されていたなら、教会は堕落しなかったかもしれません。教会は教理的な教えで、人は変わると信じてやってきました。しかし、心の動機とか欲望が手付かずのままでやってきたところがあります。人間は知性で動いているようですが、知性では動いていません。多くの場合、自分の潜在的な欲望を満たせるかどうかで動いています。きょうも、ヤコブ書から内面をえぐられるような辛口のメッセージをお届けしたいと思います。どうぞ、シートベルトを締めて、お備えください。

1.欲望が原因

 「欲望」は、英語の聖書で2種類のことばが用いられています。1節の「欲望」は、lustsです。lustsと複数形になっていますが、色情、肉欲をさします。男性はこれが非常に強いのではないでしょうか?2節と3節の「願う」はdesireです。強く望む、欲しいと願う、要望するということです。旅行がしたい、バックを買いたい、○○してもらいたい。こちらは女性の方が強いのではないかと思います。人々はこういう欲望や欲求を内側に抱えながら、社会生活をしています。政治家や企業マンはクール・ビズ(スーパ・クール・ビズ)の下に、欲望を隠し持っています。医者や看護師は白衣の下に、警察や公務員は制服の下に欲望を隠し持っています。だから、この世において、戦いや争いが絶えないのです。彼らは自分の理性や道徳性でなんとかしようとしますが、ある機会がやってくると「ばぁー」っと噴出してしまいます。現在の永田町はまさしく、そうではないかと思います。テレビや新聞広告は、人間が持っている欲望を刺激しています。「安くておいしいですよ」「美しくなれます」「快適な生活を送れます」「贅沢な気分を味わえます」みたいに、消費者を誘惑してきます。まさしく、この世は大消費社会です。消費する喜びに訴えます。1つ買っても、また次のものが欲しくなる。青い靴を買っても、今度は赤い靴が欲しくなる。昔、井上陽水が「限りない物、それが欲望」と歌っていました。

 では、「教会にそういうものがないのか?」というとあります。もっと、綺麗な包装紙でラッピングされたものです。欲望には低級なものから高級なものまであります。高級は欲望とは、支配欲、名誉欲、自己目的を達成したいというものです。イエス様の弟子たちは最後まで「この中でだれが一番、偉いだろうか?」と争っていました。教会というところは、ある意味で、この世で達成できなかったものを、肩代わりしてくれるところがあります。宣教、牧会、奉仕など、とても良いことです。神さまと人々に仕えるのですから、悪いものでは決してありません。でも、心の中の動機が汚れている場合があります。怨念、自分が得られなかったものを教会で得ようとする。だから教会がカルト化したり、分裂や分派を繰り返してしまうのです。教会の長い歴史を見ますと、そういうことがたくさんありました。プロテスタント教会は堕落したローマ・カトリックから脱却しようと改革を起こしました。ジョン・カルバンはジュネーブに代議員制の理想的な教会を作ろうと努力しました。また、バプテスト派は新生をしたものが、教会を作るべきだと国教会を否定しました。だから、バプテストは幼児洗礼を認めず、ちゃんと洗礼を受けて生まれ変わった人を教会員としました。そして、全員が参加する会衆制の教会を作りました。メソジストは「監督を立て、教会員は自我に死んで、監督の意向に従う」ということを強調しました。教会はいろんな政治形態を導入して、運営してきました。しかし、人間が内側に持っている欲望に、いつでも勝利したわけではありません。牧師と役員、役員同士の争いや戦いで教会がしぼんだことは多々あります。10年くらい前に、台湾で最も歴史のある長老教会を訪れたことがあります。ちょうど教会総会がありましたが、1日で終らず、2日目も議論していました。その教会はお金に絡む色んな活動をしていました。そこを担当している長老さんたちが、利権をめぐって争っていたのです。私もいくつかのコーチングをさせていただいていますが、「教会が壊れている」ところがあります。建物ではなくて、牧師と教会員の信頼関係が壊れているのです。

 ヤコブ書の記事は遠い昔のどこかの教会ではなく、どこにでもありうる普遍的な問題だということです。教団や教会がリバイバルされ良いところまで上り詰めます。しかし、その先、どかんと崩れ去ります。確かに悪魔が働いていると言えるかもしれませんが、信仰者の中にあった欲望が解決されていなかったのです。私たちはイエス様を信じると霊的に生まれ変わります。心の内側に神さまの命、神さまの愛が入ってきます。ハレルヤ!アーメンです。ある場合は、聖霊に満たされ、賜物を受け、神さまに大きく用いられるかもしれません。でも、クリスチャンになる前から持っていた、考え方、欲望、傷というものが手付かずの状態があるということです。たとえば、団塊の世代の親から育てられた子どもはどうでしょうか?親は「やっぱり教育だ。良い学校に入って、良い会社に入るんですよ」と子どもを教えます。その子どもが大きくなってクリスチャンになりました。でも、心のどこかには「やっぱり学歴だよ。やっぱり一流企業でなければ」という考えがあります。そういう人が会社で躓いたならば、信仰は役に立ちません。「もう、自分は失敗者だ」と考えるでしょう。クリスチャンは、神の国の価値観で、満たされるべきなのですが、あるところだけがこの世の価値観のままなのです。エリヤ・ハウスでは「要塞」ということばを用いています。今のような個人的な要塞もあれば、その国で生まれた独特の要塞もあります。要塞とは、「これが真実だと思い込んでいる聖書的でない考え方」です。アフリカではクリスチャンになっても、部族同士の争いがあります。アメリカではクリスチャンになっても、功利主義から脱却できません。韓国ではクリスチャンなっても儒教の価値観を色濃く持っています。日本ではクリスチャンなっても、女性蔑視や業績志向が残っています。こういう聖書的でない考えや欲望をつき合わせたら、どうなるでしょう。教会もこの世と全く変わらないところとなるでしょう。

2.どういう動機か

 ヤコブ43「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」3節の「願う」は、lustsとかdesireなどの欲望ではなく、askです。askは願うとか求めるという一般的なものです。「求めなさい。そうすれば、与えられます」の、「求め」であります。私たちは神さまに求めて良いのです。信仰によって神様に求めたら、必ず与えられます。でも、ヤコブは求めても与えられない場合があると教えています。それは、「自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです」とあります。神さまは、私たちの動機をご覧になっています。求めているものが良くても、やっていることは正しくても、動機が汚れている場合があります。この世では「動機」ということは、ほとんど問題になりません。ちょっとぐらい動機が不純でも、結果さえ良ければどうにでもなります。「勝てば官軍、負ければ賊軍」とよく言われます。しかし、神の国では、それは通用しません。先週もお話ししましたが、「何をするか」ではなく、「何のためにそれをするか」であります。教会で言うならば、奉仕をしているエネルギーであります。この世でもエネルギー問題が騒がれています。原子力は確かに強力なエネルギーを持っています。しかし、一歩、間違えるならば手がつけられないほどの破壊力があります。では、私たちの奉仕の間違ったエネルギーとなるものは何なのでしょうか?

 傷からやっている場合があります。自分も同じ傷を持っているので、なんとかその人を助けてあげたいと思うのです。子どものとき拒絶を経験した人は、拒絶されている人に同情心も持ちます。その人から受け入れられている時は良いですが、ある場合は、拒絶されるかもしれません。すると「これだけやってあげたのに!もうやってあげない」と憎しみでいっぱいになるでしょう。ご老人の世話をしている看護師が、ご老人を虐待したり死に至らせたりするというニュースを聞きます。看護師が一生懸命やっているのに「ありがとう」も言ってくれなかったという原因であったりします。ある人は、復讐心や怒りでやる場合があります。自分が子どものとき支配されたので、大人になったら支配したい。エリヤ・ハウスでは「愛の反対は憎しみではない。愛の反対はコントロールである」と教えていました。自分の子どもをコントロールする親がいます。また、教会においても牧師やリーダーが、自分の思いどおりに教会員を動かしたいという誘惑もあります。特に、ペンテコステ・カリスマの牧師は、「牧師に従わないことは、神さまに従わないことである」と言います。指導者は、ある部分は神さまからゆだねられていることは確かです。しかし、それを乱用すると、非常に人間的になります。自分の言うことを聞いてくれる人だけを回りに集めようとします。また、ある人は、自己目的達成のためにやっている場合があります。自己目的達成というのは、この世では悪くないかもしれません。スポーツや芸術、ビジネス、みんな自己の目的を達成するために頑張っています。では、なぜ、教会において自己目的達成が良くないのでしょうか?それは栄光が神さまではなく、自分のものになるからです。神さまを利用して、実は自分があがめられたいのです。

 私たちはこの世において達成できなかった、途中で挫折してしまったものがたくさんあります。しかし、「こんどは教会で、なんとかそれを達成したい」。もちろん、神さまは私たちの生来の賜物や努力して得た賜物を用いてくださいます。でも、自分が得られなかったものを、神さまの名前で得ようするならば、それは聖められる必要があります。どういうふうに聖められる必要があるのでしょうか?たとえば、私がピアニストだとします。ピアニストを志したけど、プロにはなれなかった。そこまでの才能がなかった。しかし、クリスチャンになって「この賛美だったら、できる。奉仕しよう」と思います。それは悪くはありません。神様に用いられることは、良いことです。何が悪いのでしょうか?1つはエネルギーの問題です。クリスチャンになる前は自分の技量や努力でやっていたでしょう。それを肉と言います。まず、一度、賜物も技量も努力も、神さまにおささげします。その後、「神様、十字架を通して、必要なものだけを私にお返しください。今度からは、聖霊様あなたを力の源とします。私を通して、あなたが働いてください。アーメン。」このように祈る必要があります。2つ目はこれまでの「埋め合わせ」ではなく、「逆転勝利」です。神さまへの奉仕は、この世でできなかったものを埋め合わせる行為ではありません。もし、そうだとしたら、偽善的であるばかりか、非常に悲しいものとなるでしょう。そうではありません。神さはあなたのこれまでの失敗、マイナス、傷、悲しみ、痛みを全部ひっくり返して、万事を益としてくださいます。そして、それらを神さまのご栄光のために、再創造して用いてくださるのです。ハレルヤ!だから、あなたがうまくいっても、うまくいかないことがあっても、神さま次第だということです。別な表現をするなら、うまくいっても誇らないし、うまくいかなくても落ち込まないということです。なぜなら、自分は神さまの道具だからです。道具は文句を言いません。使うお方に責任があるからです。

 私は高校1年生でボクシングを辞めました。最初の試合でTKOで破れて挫折し、暗い高校生時代を過ごしました。しかし、神さまは私を召して、ボクシングではなく、牧師にしてくれました。また、私はトランペットを我流ですが、28歳まで吹いていました。結婚指輪の質にしたので、もうどこへ行ったか分かりません。でも、良いのです。神さまは私を召して、福音を告げ知らせる、ヨベルの角笛として用いてくださいました。ヨベルの角笛は、ある訳は、トランペットと訳しています。福音を告げるトランペット吹きです。もう1は、私はセルフイメージが低いために、人から認められるために一生懸命努力してきました。エリヤ・ハウスで言うと、私はパフォーマンス指向の典型的な人物でした。でも、神さまは私を癒してくださいました。神さまは私がメッセージでパフォーマンスすることを喜んでいらっしゃいます。聖められたパフォーマンスというのがあるのです。また、小学生のとき、あることで切手収集を諦めました。しかし、私はいろんなセミナーの教えをパソコンで打って集めています。それをファイルにして必要な先生方に分かち合っています。神さまはこのように、一度捨てたもの、ダメになったものを修復して、ご自身のために用いてくださるのです。なんと、その活動エネルギーさえも神さまが与えてくださるのです。

3.世ではなく神を愛する

 ヤコブ44-5「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。それとも、『神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる』という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。」人はなぜ、欲望に負けてしまうのでしょう。それは世を愛しているからです。このところでは、世と神さまが対極的なものであることがわかります。私たちが世を愛するならば、神様を敵としてしまうということです。なぜなら、世は神さまを信じていないばかりか、神さまに逆らって歩んでいるからです。ヨハネ第一の手紙にも同じようなことが記されています。Ⅰヨハネ215-17「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。」この箇所でも、もし、世を愛しているなら、その人には、「父なる神を愛する愛はない」と言っています。世を愛するとはどういうことなのでしょうか?それは、「世にある、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」を愛することです。これらはヤコブ書で言う、lustsという欲望、desireという願い、あるいは快楽であります。なぜ、クリスチャンは、これらのものを愛してはいけないのでしょうか?

 世というのは神さまを信じないで、神さまに逆らう人たちのことです。しかし、その背後には悪魔がおり、神さまを信じない人たちを所有しているのです。悪魔はこの世の人たちを、神さまを求める代わりに、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などで生きるように仕向けます。そして、悪魔はこの世がまるで永遠に続くかのように、騙しています。この世は永遠に続くのでしょうか?ヨハネは「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。」と言っています。悪魔は目に見える現実の世界がいつまでも続くかのように騙しています。私たちも学校で、目に見えるものがリアルだと教えられ、歴史でもアメーバーから今の人類に到達したことを教えられました。しかし、聖書はこの世は過ぎ去る、永遠のものは神のことばと神の国であると教えています。神の国は目には見えません。しかし、神の国はイエス様と一緒にこの世にやって来たのです。本当は神の国のほうがリアルであり、この世の見えるものが一時的なものなのです。かなり前に、マトリックスというキアヌ・リーブス主演の映画がありました。映画ではコンピューターが作り出した仮想世界をマトリックスと呼んでいます。彼らは現実の世界と仮想の世界を行ったり、来たりしています。なんと、現実の世界は変わらなくて、仮想の世界が変わって行きます。やがて、仮想の世界が現実を飲み込んでいきます。悪魔、サタンはこの世界が現実であり、いつまでも続くものであるかのように思わせています。サタンは「天国と地獄は仮想の世界なんだ。この世がすべてだ」と、肉の欲、目の欲、持ち物の欲に訴えます。

 どうでしょう?私たちクリスチャンも以前は、サタンに教育されて育ちました。「目に見える五感が現実で、天国は仮想である。天国というのは、人間が『あったら良いなー』と望んだ世界なんだ。本当は神も人間が『いたら良いなー』と望んだものなんだ。宗教というのはそうやってできたんだ。弱い人には宗教は必要かもしれないけど、強い人には宗教は必要ないんだ」。そのように考えて生きて来たのではないでしょうか?それが急に、30歳になって神さまを信じた。きょうは、洗礼式がありますが、50か60歳になって神さまを信じた人もいるかもしれません。そのため、この世の見方やこの世の価値観が随分と入っていることになります。そういう場合は、聖書のある部分は信じるけど、ある部分は信じられないということが起こります。もし、どこかに目に見える、この世がすべてであるとしたなら、どのような信仰生活になるでしょう。日曜日、教会に行っていたとしても、やっぱり、この世のものを慕い求めて生きるのではないでしょうか?神様はそういう人をどう思っているのでしょう?「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる」とあります。クリスチャンであるなら、もれなく、神の御霊が宿っています。父なる神さまはご自分の御霊をクリスチャンに与えました。そのクリスチャンが父なる神さまではなく、世のものを慕い求めて生きるならどうなるでしょう?神さまが悲しむだけではなく、神さまの妬みをかうことになります。もし、神さまの妬みをかったら、人はどうなるでしょう?子どものころ、遊び過ぎて、日が落ちても、家に帰らない場合があります。ある場合は、父や母が近所だけではなく、山や川を探すこともあるでしょう。もし、父や母が子どもを見つけたらどうするでしょう。「この!」と一発、殴ってから、手を引っ張って家に連れて帰るでしょう。もし、クリスチャンがこの世にどっぷり浸かって、神さまを忘れたらどうするでしょう。神さまは妬むほど私たちを愛していますので、肉体の命を取ってでも、御国に連れ戻すのではないでしょうか?すべての早死にがそうだとは言いません。でも、ある時は、そういうこともありえます。

 私たちクリスチャンは価値観を変えなければなりません。まず、この世と神の国、どっちが永遠に続くかを知らなければなりません。もし、この世が永遠に続くのだったら、肉の欲、目の欲、持ち物の欲で生きてもかまいません。しかし、聖書が言うように、世と世の欲が滅び去り、私たちの魂と御国が永遠であると悟るならどうでしょう?やっぱり、私たちが持っている能力や持ち物を永遠の御国のために投資すべきではないでしょうか?世の中には3種類の人がいます。第一は、飲んで、食べて、生き延びるために生活をしている人です。その人は動物と同じです。第二は、自分の願いや夢を実現するために生きている知的な人です。その人はこの世に属するホモ・サピエンスです。第三は、永遠である神の国のために投資する人です。その人は歴史を変える人、ヒストリー・メイカーとして「いのちの書」に名前が記されるでしょう。

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