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2011年5月29日 (日)

上からの知恵        ヤコブ3:13-18

ヤコブはこのところで、「知恵」ということばを何度も使っています。知恵には大きく分けて、地に属する知恵と上からの知恵があります。地に属するとは、人間的なもので、ある場合は悪霊から来るものであるということです。一方、上からの知恵とは、神さまから来るもので純真で平和です。私たちはいろいろな行ないや生き方をしています。しかし、その源は何なのでしょう?ある人は地に属する知恵を用いて行動しています。また、ある人は上からの知恵を用いて行動しています。この世では目に見える行ないや結果だけを評価します。しかし、神さまにとっては、その行ないが地に属するものから来ているのか、あるいは上から来たものなのかが評価されます。別なことばで言うなら、その動機が不純であるか、純真であるかどうかです。つまり、その人が行っているエネルギーの源を問うているのであります。

1.地に属する知恵

ヤコブ3:14-16「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。」地に属する知恵とは何でしょうか?それは「苦いねたみと敵対心である」と書いてあります。ねたみに関する最も古い記事は、カインとアベルの物語です。カインは弟のアベルのささげものが神様に受け入れられたことをねたみました。そのため、カインは怒って、アベルを殺しました。福音書を見るとどうでしょうか?パリサイ人と律法学者たちがイエス様をねたみました。本来、彼らは人々を教え、神さまに仕える者でありました。しかし、イエス様の方がすばらしい教えを説き、大きなわざを行ないました。そのため、多くの人たちがイエス様の方に行ってしまいました。彼らはイエス様を救い主として受け入れるよりも、イエス様を取り除こうとしました。なぜでしょう?このままでは、自分たちの地位や生活が脅かされるからです。つまり、彼らは表向きには神さまに仕えていました。しかし、本当は神さまを利用し、人々を食い物にしていた偽善者だったのです。まさしく、パリサイ人と律法学者たちは苦いねたみのゆえに、イエス様を十字架につけて殺したのです。そう考えますと、ねたみというのは破壊的で大きな罪であるということが分かります。

みなさんの中にねたみはないでしょうか?子どものとき、兄弟をねたんだ。あるいはお母さんやお父さんをねたんだということはないでしょうか。女の子にとっては継母、男の子にとっては、継父が問題になります。「おばさんに、お父さんが取られた」あるいは「おじさんに、お母さんが取られた」ということで、ねたみが心に生まれるのは自然ではないでしょうか?学校に行くとどうでしょう?お金持ちの子どもがいます。お家にピアノにある。何でも買ってもらえる。成績が良くて、姿形も良い、先生から特別にかわいがられている。当然、そういう人をねたむのではないでしょうか? 大人になってからもよくあります。男性ですと、乗っている車でしょうか?停止線で並んだ場合、向こうの車が排気量が多く、高級な場合は、「くそー」と思わないでしょうか?女性ですと、一流企業のご主人と結婚している人を見ると、むっとしないでしょうか?キリスト教界でもあります。片や大教会の主任牧師、礼拝が300名も集まっています。片や礼拝が20名にも満たない教会の牧師で、アルバイトして、なんとかやっている。違う教団だったら、「そういうこともあるだろうな」と思います。しかし、同じ教団だったら、「くそー」と思わないでしょうか?信仰の世界にもねたみがあります。ピリピ1章で使徒パウロがこのように言っています。ピリピ115「人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます。」わー、ねたみや争いをもって、伝道しているとはどういうことでしょうか?たぶん、俺たちの群を大きくしようと思っているのではないでしょうか?言い換えるなら、「あっちよりも、自分の教会、自分の教団を大きくしよう」ということです。カトリックよりも、プロテスタント教会の方がよくありがちです。なぜなら、プロテスタント教会には数えきれないほどの、教団・教派があって、分裂分派を繰り返しています。ねたみは、恐いです。「今に見ていろ、追い越してやるから」「今に見ていろ、ぎゃふんと言わせてやるから」。世の中ではこういう動機でやっても許されるかもしれません。しかし、神の国で、それは通用しません。

もう1つは、敵対心です。敵意と言って良いかもしれません。私は毎朝、散歩をしますが、犬を散歩に連れている人たちをよく見かけます。向こうから犬を連れて来る人がいます。こちらから犬を連れてくる人がいます。犬は「わぉーん」と威嚇して、飛びかかろうとします。中にはペロ、ペロなめ合う犬もいます。しかし、半数以上は、遠くから吼えています。なぜでしょう?彼らには敵対心が本能としてあるからでしょう。人間でもそうです。男性と男性、女性と女性、しかも、同年齢、同業種の場合がそうなりがちです。私も以前はある会社の現場監督でした。大きな現場はジョイントというか、共同体でやる場合があります。もし、隣の工区が、鹿島や大林組であるならば、初めから戦いません。でも、資本金が同じかちょっと向こうが小さい会社であるなら、「負けないぞー」みたいなものがありました。ある場合は、ママさん同士も火花を散らすときがあります。向こうから赤ちゃんを乗せた乳母車、こっちから赤ちゃんを乗せた乳母車がすれ違います。一瞬の間で、目の大きさ、可愛らしさをチェックし、「ああ、こっちが勝った」とかしないでしょうか?昔、幼稚園の運動会で父兄が出るプログラムがありました。バットを額につけながら、地面を5回ぐるぐる回って、それからゴール目指して走るというレースでした。横を見るとお父さんたちはみんな緊張しています。子どもに良いところを見せたいのでしょう。私の番が来ました。私は5回ぐるぐる回りましたが、隣の人は2回、回っただけで飛び出しました。「そんなズルをしてまでも1位になりたいのか!」とむかつきました。敵対心、これは動物であろうと、人間であろうとあります。なぜなら、それは本能だからです。でも、聖書的に、それは地に属し、肉に属し、悪霊に属するものであると言っています。

ヤコブの手紙は未信者ではなく、クリスチャンにあてられた手紙です。クリスチャンであっても、動機が苦いねたみや敵対心で動いている人がいるということです。彼らは生まれ変わっていないのでしょうか?確かにイエス様を信じて、霊的には生まれ変わっています。でも、価値観が変わっていないのです。相変わらず、昔の価値観で生きているのです。あるいは、幼い時に抱いたねたみや敵対心を温存したまま大人になったのです。つまり、ねたみや敵対心が要塞となり、何でもそのように受け取り、そのように対処してしまうのです。そして、ある場合は悪霊がその足場を用いて、その人を縛って離しません。エリヤハウスで聞いたことがありますが、子どもとき、お父さんがあることで自分を信じませんでした。彼女が大きくなり結婚しました。夫が少しでも帰りが遅いと、「ああ、他の女性と浮気しているんじゃないだろうか?」と疑いました。又、他の女性と仲良く話しいているのを見ると嫉妬心でいっぱいになりました。彼女が子どものとき、「もう、男性を信じない」と誓ったからです。牧師の子どもたちもそういう傷を持ちます。牧師は家庭をそっちのけで、信徒のために時間をささげます。子どもたちは信徒にお父さんを奪われたと思うでしょう。家が貧しくておもちゃも買ってもらったことがない。心の中は、教会に対する恨みと嫉妬心で一杯でしょう。そういう子弟が牧師や牧師夫人になったらどうなるでしょうか?教会の信徒に対して、復讐してやろうと思うでしょう。怨念晴らしのために、牧師になったらどうなるのでしょうか?

5月の半ば、李光雨師の学び会がありましたが、先生はこのようなことをおっしゃっていました。「『何をするのか?』ではなく、『何のためにするのか?』が大切である。神さまは私たちの心の値打ちを計られる。それは、動機が何であるかということであり、いくら賜物があっても、怨念に満ちていたら、それは凶器になる。献身する目的は何か?恨みを晴らすためではないのか?価値観の変化が必要である。エネルギーの変化が起きているかどうかである。」聖書を見ますと、パウロはどうでしょうか?彼はクリスチャンを捕らえ、牢屋にぶち込むほど熱心なユダヤ教徒でした。彼は「自分こそ、まことのユダヤ人だ」と自負し、その怨念をエネルギーにして賜物を発揮させていました。ところが、イエス様と出会って、全く変わりました。そして前とは違うエネルギーで生きるようになったのです。ピリピ3章でこのように証ししています。ピリピ37-8「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」アーメン。パウロは律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、キリストの復活の力で生きるようになったのです。最初から純粋な動機で神さまに仕える人は多くはないでしょう。どこかに、苦いねたみと敵対心があるかもしれません。しかし、パウロのように生けるキリストと出会うなら、逆転勝利し、エネルギーが変換するのです。神さまを自分のために用いるのではなく、神さまのために自分を用いていただきましょう。

2.上からの知恵

 ヤコブ317-18「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。」上からの知恵とは、何でしょう。それは神さまから与えられる知恵であり、神さまが力の源であるということです。地に属する知恵は、苦いねたみと敵対心でした。しかし、上からの知恵は、それらとは全く逆の神さまご自身が持っているものです。私たちはこういうものをすべての働きのエネルギーにすべきであります。上からの知恵の第一は純真であります。純真とは英語でpure、混じり気がないということです。動機が不純でなく、純粋だということです。しかし、みなさん最初から純粋に奉仕し、純粋に献身する人がいるでしょうか?私が「直接献身したいなー」と思ったのは、洗礼を受けて、半年後のことです。そのとき、貿易会社に入っていましたが、私を導いてくれた先輩と二人で会社をやめることになりました。外国との契約を平気でやぶる社長とは、クリスチャンとしてやっていけなかったからです。先輩は「アメリカに友人がいるので、バプテスト系の神学校に入る」と言いました。私はそういうコネが全くありません。「日本の神学校で良いや。大川牧師に頼めばなんとかなるのではないだろうか?」そんな感じだったのです。大川牧師は私を志願兵として送り出してくださいました。そのとき、開かれたみことばがヤコブ3:17の「温順」です。先生は「温順とはteachable personと言って、それは教えられやすい心という意味である。だから、一生、だれからも学ぶ心を持つように」と教えてくださいました。自慢ではありませんが、それからずっと、学ぶ心を失っていません。いろんなセミナーに出かけては学んでいます。でも、動機が純粋だったわけではありません。まるで、金が精錬されるように、火のような試練によって試され、純化されて行ったのであります。「純真」と言われても、はじめから純真な人はおそらくだれもいないでしょう。しかし、愛なる神さまはその人を受け入れ、いろんな人や環境、出来事を通して、取り扱ってくださるのです。それが教会員からであったり、夫や妻や子ども、事故や失敗、病気や別れかもしれません。そのとき、私たちは地上から天を仰ぎ、両手を広げて降参します。そのとき、上からの知恵と力が注がれるのです。

 上から知恵の2つ目は何でしょう?それは平和です。18節には二回も「平和」が出てきます。敵対心の反対は平和です。私たちは平和というと、「国と国との平和、戦争がないこと」と考えるかもしれません。それもそうですが、その前に、私たちの心が平和であることが重要です。では、平和は、どこからどうやって来るのでしょう?それは神との平和です。ローマ51「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」本来、私たちは罪を犯し、神さまと敵対して歩んでいました。ところが、イエス様がすべての罪を取り除くために、贖いの供えものとなってくださいました。私たちが「ごめんなさい」を言う前に、イエス様が私たちの罪をかぶって死なれ、和解を実現させてくださったのです。イエス様は片方の手で父なる神さまを、もう片方の手で私たちを握って、和解を成り立たせてくださいました。何と言う恵みでしょう。ある人たちは、「罪を悔い改めなければ救われない」と言います。では、どれだけの罪を悔い改めなければいけないのでしょうか?今まで自分が犯した全部の罪を覚えている人が一人でもいるでしょうか?では、私たちが救われるのはどういう悔い改めが必要なのでしょうか?それはこういうことです。「私は今まで神さまを信じないで、自分勝手な道を歩んでいました。これから私は、イエス様の贖いを信じて、神様、あなたに立ち返ります。」これが救いを得るための悔い改めです。私が犯した個々の罪ではなく、私そのものが罪であったということを認めることが大事なのです。そうすると、私たちの中に咎めがなくなり、「ああ、愛され、赦され、神の子どもになったんだ」という信仰が、平和と共にやってきます。そうです。イエス様の十字架による和解によって、私たちは平和を得たのです。アーメン。

 上からの知恵の3つ目以降は何と何でしょうか?寛容、温順、あわれみ、良い実、えこひいきがなく、見せかけのないものです。1つずつやっていると時間がありません。ですから、寛容でひとくくりにしたいと思います。温順は寛容に人の意見を聞く態度のことです。また、あわれみは、人をさばかないで寛容な心をもって同情することです。寛容というと、「いい加減」というニュアンスを与えます。皆さん、神さまほど義なるお方はおられません。シナイ山で十戒を与えられた神様は、何人(なんぴと)も近づけない俊厳なる神さまです。しかし、同時に神さまほど寛容なお方はおられません。ローマ24「その豊かな慈愛と忍耐と寛容」と書いています。ローマ922「その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださった」とあります。もし、神さまが寛容でなかったなら、私たちは数え切れないほど滅ぼされ、ここにはいませんでした。太陽の6000度の熱で、一瞬に解け去るように、消えてなくなっていたでしょう。ああ、それなのに、それなのに。私たちはそんなことをケロっと忘れ、他人をさばいてしまうのです。パウロは「すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません」と言っています。その人は、「さばくとさばかれる」という法則の中に落ちてしまいます。ですから、私たちはすべての罪を赦してもらった人として、寛容さが必要です。それは「いい加減」ということではありません。「寛容」のギリシャ語は「公平な、寛大な、柔和な、優しい」という意味のことばです。逆に言うと律法的に考えないということです。英語ではgentleと訳されています。ladies andgentlemanのgentleです。

 私たちは生まれてこのかた、「公平で、寛大で、柔和で、優しい」人と出会ったことがあるのでしょうか?逆に、えこひいきして、怒りっぽく、偏狭で、厳しい人とばっかり出会ってきたのではないでしょうか?この間、聞いたことです。ある先生の子どもが分度器か何か忘れたようです。他の二人は「忘れ物をしてごめんなさい」と謝ったけど、その子だけは謝りませんでした。それで、先生はみんなの前で「ごめんなさいも言えないのか」となじったそうです。その子はそれから学校に行けなくなりました。朝になると、おなかがいたくなり行けないのです。お医者さんのところに行くと確かに胃炎になっているというのです。学校の先生が家庭を訪問し、「はっきりと物ごとを言える」教育を目指したいと言っていたそうです。聞くところによると、前の先生はとっても優しくその子と接してくれました。しかし、4月からの先生は厳しくて、とっつきにくかったようです。その子は謝りたかったけど、緊張してことばが出なかったのでしょう。「もし、寛容な先生ならどうするでしょう?「そうか、いろんな事情があったんだよね、きっと。この次からは忘れないようにね」ぐらいで良いのではないでしょうか?緊張すると、よけい頭が働かなくなります。私たちの神さまは「ごめんなさい。確かに罪を犯しました。次からは決してしませんと」悔い改めなければ、赦してくださらないのでしょうか?義なる神さまと罪ある私たちの間には和解を成し遂げられたイエス様がおられます。神さまはイエス様を通して、私たちをご覧になるのです。だから、私たちが「ごめんなさい」の「ご」ぐらいで赦して下さるのです。もっと言うなら、私たちが悔い改める先から、赦す準備をしておられるのです。神様は寛容で、温順で、あわれみに富んだお方です。もし、私たちがこのような父なる神さまとの出会いを経験したならどうなるでしょうか?私たちの心の中に、寛容と温順とあわれみが生まれるのではないでしょうか?律法の定規を人々に当ててさばくのは簡単なことです。律法の定規にあてはまる人などどこにもいません。しかし、やがては、自分もその定規で測られることになります。私たちは検察官にではなく、弁護士になるべきです。では、「罪がいい加減になるのでは?」と心配します。そうではありません。聖霊様がその人に罪を悟らせ、本当の悔い改めに進ませてくださるのです。顔に吹き出物が出た場合どうするでしょう。すぐ、絞るとどうなるでしょう。ちょっとは出るかもしれませんが、中にひっこみ、後から怒り出すでしょう。それよりも、ちょんちょんと薬を塗って、放っておけば良いのです。時が来ると、熟して、中の悪いものが出てきます。私たちは、「それは罪だ!」とさばくので、ひっこんで、後から怒り出すのです。

 私たちは地上の知恵ではなく、上からの知恵を求めるべきです。地上の知恵である苦いねたみと敵対心を捨てましょう。その代わり、神さまがくださる純真、平和、寛容、温順、あわれみを求めましょう。そうするなら、良い実が満ち、義の実が結ばれていくのです。

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2011年5月22日 (日)

特別礼拝

本日は、山陽福音キリスト教会から、中嶋長弘牧師を招いての特別礼拝になりましたので、原稿が用意できませんでした。

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2011年5月15日 (日)

賛美の泉         ヤコブ3:9-12

舌と口は、器官、つまりからだの一部です。悪いことを話す、舌と口自体が悪いのでしょうか?もし、そうだったら「盗みをする手が悪い」「変な所へ行く足が悪い」と言うのと同じです。そうではありません。舌と口を司るところがあります。それはやはり、心とか思いであります。心とか思いが悪いから、悪いことばが出るのです。舌と口はことばを発する器官であります。ですから、舌と口を直す前に、心とか思いを直す必要があるのです。ヤコブは自然界に存在するものを、いくつかあげて、そのことを教えています。私はこの箇所を瞑想しながら、舌と口を直すための、すばらしい知恵が隠されていることを発見しました。舌と口を良くするためにはどうしたら良いのか?3つのポイントでお話ししたいと思います。

1.肉ではなく霊によって

ヤコブ39「私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。」ここから、私たちは第一の解決策を見ることができます。ヤコブは人を呪うことは、それは神さまを呪うことだと同じだと教えています。なぜでしょう?聖書は「人を造られたのは、創造主なる神さまである」と教えています。一方、この世ではどう教えるでしょうか?「アメーバーがだんだん進化し、やがてサルになり、サルから人間になったんだ」と教えます。進化論を通した人間の価値は、できるかできないかということにあります。そうすると、「能力のない人間は人から見下げられても当たり前である」という理論がなりたちます。しかし、ヤコブの手紙はクリスチャンにあてられた手紙ですので、創造主なる神さまも、贖い主なるイエス様も信じているということです。もし、そうであれば、神にかたどって造られた人間を呪うことはないと言うのです。確かに、人を呪うということは、その人を造られた神様を呪うことになると言われても道理的になりたちます。聖書からすると、「人間の価値は能力のあるないではなく、存在そのものである、存在そのものに価値がある」ということです。しかし、クリスチャンは、そういうことは分かっているはずです。でも、「主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろう」とはどういうことでしょうか?そうです。思いがちゃんとしていないということです。では、どうしたら思いと口が一緒になるのでしょうか?

Ⅱコリント516,17「ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」ここにすばらしいヒントが隠されています。日本語では、人間的な標準と書いてありますが、原文は「肉」であります。肉によって人を知るとはどういう意味でしょう。それは、外見や能力で人の価値をはかるということです。まさしく、人間的な標準です。外見や能力で人の価値をはかると、どうしても「変だなー」とか「愚かだなー」と思ってしまいます。もう、私たちは生まれてこの方、そういう価値観の中で生きてきて、そして人からも言われてきたのです。ですから、外見や能力で人の価値をはかるめがねができてしまっているのです。それが、あるとき急に、「いや人間は神さまによって造られたんだ。存在そのものに価値があるんだ」と教えられます。でも、私たちの中にそういう価値観、めがねがあるので、急にはなおせないのです。「変なものは変」「愚かなものは愚かじゃないか」と言いたくなるのです。

でも、パウロは一歩進んで、もう1つの見方をしなさいと教えています。それはキリストを通して見るということです。「だれでも、キリストにあるなら、その人は新しく造られたものです」と教えています。イエス・キリストはその人にどういうことをなさられたのでしょうか?その人のために血を流し、罪の中から贖い取ってくださいました。クリスチャンであるないは関係ありません。すべての人のために、イエス様は死なれ、代価を払ってくださったのです。だから、すべての人にはイエス様が贖っただけの価値があるのです。そのことは私にもそうですし、その人だって同じことなのです。「だれでも、キリストにあるなら、その人は新しく造られたものです」。ですから、新約の私たちは2つのめがねレンズで人を見ることが必要です。片方は創造主なる神さまというレンズで、もう1つは贖い主なるイエス様のレンズで見るということです。どうぞ、今後は、肉によってではなく、霊によって隣人を見ることにしましょう。

2.泉の癒し

ヤコブ310-11「賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか。」泉が同じ穴から、甘い水を出したり、苦い水を湧きあがらせるようなことはありません。同じように、賛美とのろいが同じ口から出て来るようなことがあってはなりません。ヤコブはこのようなことを教えていますが、実際の私たちはどうでしょうか?今、礼拝のときは、神さまを賛美しています。おそらく、この場所でいるときくらいは人をのろったりはしないでしょう。でも、家に帰ってからはどうでしょうか?学校や職場にいるときはどうでしょうか?私たちの周りにはいろんな人がおります。そして、いろんなことに私たちは遭遇します。そのとき、ポロっと私たちの口から悪いことばが出てくるのではないでしょうか?私が一番、問題なときは、車を運転しているときです。「あ、危ない。ひどいーなー」「馬鹿じゃないか」みたいなことばを連発します。昨年、船堀のコンサートの帰り、そういうことがありました。私は右折しようとしていますが、向こうから横断歩道をゆっくり歩いている男性がいます。よく見たら、携帯をいじりながらとぼとぼと歩いています。私は思わず、「何やってんだよー、早く渡れよ!」と言いました。助手席に座っていた毛利おとうさんが、「先生、車乗ると人が変わりますね。どっちが本当の先生なのですか?」と言いました。私は「こっちが本当です」と答えました。

なぜ、1つの泉である、心から時には甘い水、また時には苦い水が出てくるのでしょうか?それは泉である、心に問題があるからです。旧訳聖書に苦い泉が甘くなったという物語がいくつかあります。1つはイスラエルの民が葦の海を渡り終えて、荒野に来たときです。出エジプト1523-25「彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、そこはマラと呼ばれた。民はモーセにつぶやいて、『私たちは何を飲んだらよいのですか』と言った。モーセは主に叫んだ。すると、主は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。」注解書によると、この泉は水質が悪く、塩分と硫黄を含んでいて苦い、嘔吐をもよおさせると書いてありました。ひどい水です。しかし、モーセは主に助けを求めました。すると、主は一本の木を示され、モーセがその木を水に投げ入れました。するとどうでしょう。その水が甘くなりました。中世の注解者たちは、ここには十字架の1つの型を見出しました。十字架はいのちの苦しみ、苦味を甘く楽しいものに変えてくれるからだということです。アーメン。だいたい、悪いことばをよく発する人は、そういう生い立ちの中で育ったからです。悪いことばをバンバン浴びせられ、こちらも悪いことばで対抗したことがあるからです。ですから、心の中に塩分と硫黄のようなものが沈殿しているのです。ふだんはそうでなくても、何か不当な扱いを受けると、悪いものがばーっと湧き上がってくるのです。しかし、イエス様の十字架を入れるならば、癒しと慰めを受け、甘くなるのです。フロリダやペルーに常緑樹で水を甘くする大きな木が実際にあるそうです。その木には水を良くする効力があると言われています。十字架も同じです。でも、木から染み出て中和するまでに少し時間がかかるでしょう。心に十字架を入れても、瞬時に変わるわけではありません。少しずつ、徐々に変わって甘くなるのです。アーメン。

もう一箇所はⅡ列王記にあります。Ⅱ列王記2:19この(エリコ)町の人々がエリシャに言った。「あなたさまもご覧のとおり、この町は住むのには良いのですが、水が悪く、この土地は流産が多いのです」。すると、エリシャは言った。「新しい皿に塩を盛って、私のところに持って来なさい。」人々は彼のところにそれを持って来た。エリシャは水の源のところに行って、塩をそこに投げ込んで言った。「主はこう仰せられる。『わたしはこの水をいやした。ここからは、もう、死も流産も起こらない。』」これは1つの奇跡ですが、新約聖書的で塩とは何でしょう?パウロはコロサイ46で「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。」塩は当時も今も、料理に欠かせないものです。塩を適量、加えることによって、料理の味が良くなるからです。コロサイ書とエペソ書は兄弟みたいな書物で、ほとんど同じことを書いています。2つの書は互いに補いあっています。エペソ429「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」つまり、塩味のきいたことばとは、人の徳を養うのに役立つことばであるということです。同じ言い方でも、人の徳にならないものもあれば、人の徳を養うのに役立つ言い方もあるのです。「この部分がダメだな。これじゃ台無しだ」という言い方もあります。しかし、「この部分を改善すれば、全体がもっと良くなりますよ」と言えば、どうでしょう。多くの場合、1つで全部を否定するような言い方をします。そうではなく、「他のところは良いのですが、ここを変えると、もっと良くなります」ではどうでしょうか?日本人はそれでなくても、セルフイメージが低いので、1つ否定されたら人格まで否定されたような気になります。ですから、よっぽど注意しないと、塩味がきき過ぎて、その人を壊す場合があります。ですから、「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたもの」「必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話す」ということです。

3.接木のすすめ

 ヤコブ3:12「私の兄弟たち。いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりするようなことは、できることでしょうか。塩水が甘い水を出すこともできないことです。」本当です。いちじくは、いちじくであり、オリーブの実をならせることはできない。ぶどうの木はぶどうの木であり、いちじくの実をならせることはできないということです。もし、私がいちじくで生まれたなら、もうオリーブの実をならせることできないのでしょうか?できません。もし、私がぶどうの木で生まれたなら、いちじくの実をならせることはできないのでしょうか?できません。しかし、ここは生物学的なことを教えているのではなりません。なぜなら、このたとえは「塩水が甘い水を出すこともできない」というところに帰結しているからです。塩水と甘い水はまったく別ものであり、塩水は塩水を出し、甘い水は甘い水を出すんだということです。では、どうすれば良いのでしょうか?このところは何を教えているのでしょうか?聖書にはいくつか接木のたとえを用いて、教えています。たとえば、渋柿の木があるとします。私が渋柿だとします。どうしたら私は甘い柿をならすことができるでしょうか?甘柿の枝を移植すれば、接木すれば良いですね。りんごの木の品種改良も、接木でやるようです。聖書の接木のたとえはローマ11章にあります。栽培種がユダヤ人で、野生種が異邦人です。栽培種であるユダヤ人が切られてしまいました。その代わり、異邦人である野生種のオリーブの木から切り取られ、栽培されたオリーブの木に接がれるというたとえです。

 さきほど引用した、Ⅱコリント517「だれでも、キリストにあるなら、その人は新しく造られたものです」はとても有名なことばです。そして、「キリストにあるなら」は、「キリストに接木されるなら」とも訳せることばです。Amplified Bible、詳訳聖書はそのようにも訳しています。実際、「キリストにある」という、ギリシャ語の「エン」はキリストと一体化するという意味があります。そうです。私たちは何らかの野生の木でありました。私は鈴木でしたが、佐々木もいるかもしれません。そうではなく、野生の木で、あまりぱっとした実は結ばなかったのです。しかし、キリストに接木されることにより、古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなったのです。キリストを信じても私たちの人格とか性格が別の人になるわけではありません。私という固有のものを残したまま、そこにキリストの品性が現われたらどうでしょうか?愛、喜び、平安とか親切、善意、柔和です。おそらく、発することばにも愛、親切、善意、柔和が現われてくるでしょう。それは元来の私たちのものではなく、救い主イエス様からくるものなのです。イエス様とつながっていることにより生み出される実なのであります。苦い実ではなく、甘い実です。もちろん、全部が全部、甘い実になったわけではありません。まだ、苦い実もいくつかあります。でも、天国に行くまで、苦い実が少なくなり、甘い実の方が多くなるのです。私はことばも同じであると信じます。なぜなら、ことばというのは、心の中からプロデュース、生み出されるものだからです。道徳や倫理では、ことば使いを良くするように指導します。しかし、それは外からくっつけるもので、生み出されるものではありません。私たちの場合は、内側から自然に流れ出てくるものです。

私は以前、感謝のカの字もありませんでした。不平不満、呪い、怒りのことばがあふれでていました。生まれが生まれ、育ちが育ち、それに現場監督でした。そういう人が、救われて、みなさんの前で「神さまは愛です。互いに愛し合いましょう」と言えるでしょうか?無理ですよね。無理なんです。そういう訳で神さまは私を山の手ではなく、こういう葛飾区亀有という町に置いてくださいました。最初ここに来たとき、タクシーの運転手に「ここは下町ですか」と尋ねました。運転手さんは「ここはそうじゃない。本当の下町は浅草とか神田のことを言うんだ」と教えてくれました。下町じゃなければ何なんでしょうか?とにかく、こういうところに派遣されて、緩和期間があったんだなーと思います。徐々にならされるという感じです。どうでしょう、少しずつ上品になったでしょうか?もう、しょうがない?とにかく、イエス様につながっているなら、希望があります。普通、乱暴な口調の人と話すと恐れをなすでしょう。しかし、私の場合は、かえって懐かしいというか、親しみを感じます。そのような人たちを導くために、良かったのではないかと思います。しかし、牧師が一番粗野で下品という教会もあまりないと思います。本当に、私は恵まれた教会で牧会しています。

ことばと人格、ことばと心とは別物ではないということです。ことばはその人の考えや思い、感情を表現する道具です。その人が発することばから、その人の人格や世界が現れてくると言っても過言ではありません。私はその人と30分も話していると、「ああ、この人はこういう世界観を持っているんだ」ということが分かります。心の叫びが聞こえてきます。私たちはキリストによって贖われた存在です。そういう人たちをさばくのではなく、「ああ、そのように生きてきたからこそ、そういう心の叫びが生まれるんだなー」とむしろ理解しなければなりません。悪いとか良いとさばくのではありません。その人の人格であり人生なんです。そのとき、つられて、自分の怒りをぶつけるのではなく、キリストのめがねが必要です。1つは創造主なる神さま、もう1つは贖い主なるイエス様のめがねレンズです。すると、「ああ、そうか、そうだったんだ」と一人の人格として見ることが可能になります。私たちはいつでもカウンセラーになることはありません。一人の兄弟姉妹として、友人として会話を交換するときもあります。カウンセラー的なものの聞き方や話し方はちょっと変です。そうではなく、キリストにある兄弟姉妹として接します。もし、そのとき聖霊様が示してくださるなら、塩で味付けられたことばを加えると良いでしょう。それはたんなるダベリングではなく、建て上げ合うときとなるからです。ちなみに、ダベルはヘブル語のダーバル「語る」から来ていることをご存知でしょうか?交わりにおいて、互いに話し合うということは重要な要素です。これがないと意思疎通がなかなかできません。でも、多くの場合、ことばによって傷ついてきたし、ことばによって傷をつけてきました。だから、どうしても消極的になるかもしれません。だけど、教会は「愛し合う訓練の場」であります。みんな工事中で、完全な人はいません。当然、コミュニケーションにおいてぶつかったり、うまく通じないことがありえます。大体多くの人は、先入観を持っていますので、「この人はこうだろうなー」で交わっています。だから、初めから誤解が含まれている場合があります。ですから、教会では本当に贖い主イエス様を間において、交わる必要があります。そうすると、「ああ、本当はそうだんだ。この人は良い人だったんだ」ということが分かります。

 先週は新大久保の教会で「二つの翼」を学びました。講師は釜山のキム・ソンゴン牧師です。セルチャーチと弟子訓練をマッチしたすばらしい教えです。教えは本当にすばらしく、先生の教会のシステムも完璧だと思います。ただ、日本人にとって、受け入れがたいところがチラホラあるということです。私が言うのもなんですが、人格的に粗野なところがあるし、つまらない冗談をよく飛ばします。先生はユーモアと言いますが、私たちは「もう、いいから、本題に入ってくれよ」と思っています。また、文化の違いもあるかもしれませんが、「このとおりにやりなさい。変えてはいけません」と言うのです。何か強制されている感じがします。キム先生はこのようによく、おっしゃっていました。「人格を変えるよりも価値観を変えなさい。弟子訓練において、人格を聖くすることをゴールにするなら天国を待つしかない。そうではなく、価値観を変えなさい。そうすれば、人格もいずれ変わってくる」と。アーメンですね。キム先生はそれを他の人に実行し、自らもそうなんだなーと思いました。「二つの翼」は、既に4回学び、あと1回で終わりです。先週、ようやく分かりました。キム先生はサラン教会の玉先生より、人格的に劣るかもしれません。しかし、先生は純粋な動機を持っておられるということがようやく分かりました。私たちは第一印象とか、その人の口調で「ああ、この人はこういう人だ」と、決め付け、ある場合は敬遠したりします。しかし、長く接しているとその人の中にある良いものと出会うことができるかもしれません。みなさんの中にも泉があります。聖霊様に与えられた泉が賛美と、塩味のきいたことばを湧き上がらせてくださるのです。

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2011年5月 8日 (日)

舌を制御する      ヤコブ3:1-8

きょうの箇所は私自身、非常に話し辛い箇所です。なぜなら、舌つまりことばに関することだからです。私はことば使いが非常に雑であり、多くの人を傷つけてきました。同時に私は説教者ですから、ことばを用いて奉仕をしています。外科手術でメスはとても重要な器具です。ブラックジャックのような熟練したお医者さんに握られるとすばらしい働きをします。しかし、いい加減なお医者さんに握られるとどこを切られるか危なくて仕方がありません。ことばも、鋭いメスのような存在です。人を活かすこともできるし、人を殺す道具にもなります。ヤコブ3:1「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」なぜ、教師が格別きびしいさばきを受けるのでしょう?それは、彼らの仕事がことばを用いているからです。教師が悪いことばや偽りを語るなら、多くの人たちを汚し、惑わすでしょう。そういう意味で、きょうの箇所は、私にとっても厳しい箇所です。

1.舌の持つ力

ヤコブはいくつかのたとえを用いながら、舌のもつ力、その破壊力を教えています。3節には馬とくつわの関係で示しています。馬は大きくてものすごい力があります。人が馬を御するときは、どうするでしょうか?くつわを口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。私は実際、馬に乗ったことはありませんが、右の方に引っ張ると馬は右に行くでしょう。左の方に引っ張ると左の方に行くでしょう。両方引っ張ると止まるかもしれません。2番目の例は、船とかじの関係です。ここにあげられているのは、風で動く大きな帆船です。風がびゅっと吹いてきたら、風になびいて帆船は進むでしょう。しかし、船には舵があります。船全体とくらべたら、とても小さいです。船が風になびいても、小さな舵を回したら、別の方向に進ませることができます。3番目の例は大きな森と小さな火です。小さなマッチやタバコの火で、森全体を燃やすことができます。もし、森が私たちの人生であるなら、火は私たちの舌です。体の中で、とても小さい器官ですが、この舌によってからだ全体を汚し、地獄に突き落とすような破壊力があります。日本では、大臣が1つの失言によって、辞任に追い込まれることがよくあります。夫婦でも絶対言ってはいけないことを言ったため、離婚に発展することもあるでしょう。私のように聖書を語る人は、生と死の鍵を握っています。十戒を示して人を断罪することもできますし、福音を語って人を活かすこともできます。

みなさんなぜ、舌、つまりことばをあなどることができないのでしょう。ある人たちは、「ことばは単なる音の流れ、音波だ」と言うかもしれません。日本語では言の葉と書きます。言の葉っぱですから、ぱらぱらと散るイメージがあります。葉っぱは幹と違って、たいしたことがない感じがします。しかし、ことばとは「言魂(ことだま)」と言って、ことばには魂が宿っているのだという説もあるようです。では、聖書的にことばはどうなんでしょうか?創世記を見ますと、神様はことばによって世界を造られました。「光よ、あれ」と言ったら光があったのです。また、預言者が呪いを発するとそのようになります。逆に祭司が祝福を祈るとそのようになります。ユダヤ人はことばは単なる音波ではなく、そこには実体があると考えたようです。だから、彼らが「シャローム」と挨拶するなら、「平安がその人にくるんだ」と理解していました。私たちが契約するときも、たとえ書面に書かなくても、口で約束した場合は履行しなければなりません。たとえば、ここにレモンがあるとします。今、ナイフでレモンを半分に切りました。どうぞ、口を開けてください。私がその半分をあなたの口にギュッと絞ります。そうすると、皆さんの口の中にすっぱい感じがするのではないでしょうか?良くないたとえ話ですが、たとえば、だれかから「お前を今晩12時に殺してやる」と言われたとします。言われた本人は、怖くて眠れないのではないでしょうか?それは恐喝という立派な罪になります。本当にことばで人を殺したり、病気にすることもできるのです。権威あるお医者さんから、「あなたの命はあと半年ですよ」と言われたら、ガーンと奈落の底に落とされた気になるでしょう。だから、ことばは正しく用いないと、自分や人々の人生を破壊してしまうということです。

2.舌が癒される

ヤコブは「舌は少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちている」と言っています。福島の原子炉が今、大変なことになっています。制御することが難しく、今も放射能を撒き散らしています。私はクリスチャンになってから、本当に悩みました。なぜ、私のことばは粗野で、人を傷つけるようなことばを発するのだろうと思いました。箴言を読むと、ことばの弊害についてたくさん書かれています。箴言10章「無駄口をたたく愚かな者は踏みつけられる。そしりを口に出す者は愚かな者である。」箴言133「自分の口を見張る者は自分のいのちを守り、くちびるを大きく開く者には滅びが来る」と書いてあります。私が26歳のとき、神学校で伝道実習のときがありました。何人かのグループで、川越に行き、商店街で高校生たちにちらしを配布します。その後、喫茶店の二階で集会を開くのです。ある時、私が証しをすることになっていました。証しの前に、先輩の渡辺姉妹が祈ってくれました。「神さま、どうぞ鈴木兄弟の唇を清めてください。どうか、鈴木兄弟の口をどうか、どうか清めてください」と祈りました。私は心の中で「やかましい。これから証しをするのに、へこむだろう」と思いました。私はそれほど唇の汚れた者だったらしいのです。

どうでしょう?みなさんの中に、口が勝っ手に悪いことを言う。ことばで失敗したり、人を傷つけるタイプであるという人はおられるでしょうか?私は本当にそうです。家内が良く知っています。え?家内だけではない?よく、日本人は「口は悪いけど、腹の中は良い」と言います。しかし、それは聖書的ではありません。イエス様は福音書で口について何度か教えておられます。マタイ1234,35「心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです」。マタイ15:18「口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです」と教えられました。つまり、「口と心は連結しており、口は心で思っていることを語っているんだ」ということです。ですから、私たちは口やことばを直す前に、心が癒され、良いもので満たされる必要があるということです。どうでしょう?人はイエス様を信じると霊的に新しく生まれ変わります。心に神さまの愛が満たされ、だんだん良いことばを話すようになるのではないでしょうか?それは道徳とか倫理の世界ではありません。神さまの愛が、聖霊様が私たちを変えてくださるからです。クリスチャンの心は以前は悪い倉でしたが、今では主にあって良い倉に変えられたのです。あなたはすでに良い倉を持っているのです。

しかし、申し訳ありませんが、悪いニュースが1つあります。それは私たちの悪い習慣が体の中に残っているということです。樹木にたとえるとこうです。根っこが悪いことばのもとであり、実が「悪いことば」だとします。根っこが癒されても、幹、つまり、習慣とか性格が癒されなければなりません。幹とは私たちの思い、マインドであります。私たちは子どものとき、否定的なことば、悪いことばをいっぱい浴びせられてきました。特に、怒って言われたことばは、マインドコントロールになって私たちの中に留まります。「お前は何をやってもダメだ」とか「お前はうちの子じゃない、出て行け」とか「くさい、気持ち悪い、死ね」とか、悪いことばによって私たちは汚されてきました。私たちは条件反射的にそういうことばを言われると、「お前こそ死ね」と言い返してしまうのです。私は上の兄には腕力で全くかないませんでした。その代わり、口で相手を攻撃しました。『王家の者として生きる』という本の中で作者はこう証ししています。幼い時に見捨てられ虐待されて来た子どもの多くは、自分は恥ずべき者だ、誰にも必要とされていない、取るに足りない者だという自己像を抱いてしまうのです。このような嘘の結果、私たちは敵地である世の中から自分を守るために出来上がった行動パターンを身につけてしまいます。最も基本となるアイディンテティを攻撃されて育った私たちは、とにかく何をおいても痛みをひた隠し、生き残るためだけに存在するようになってしまうのです。私の身につけた生き残り作戦の1つは、辛口のユーモアでした。私のジョークは人々を陥れ、彼らを馬鹿にする内容でした。もちろん彼らが気を悪くしているというのに気付いていませんでしたが、無意識のうちに他人の自尊心を傷つけることで、自分の気を休めていたのです。他人の失敗談をジョークで笑い飛ばしながら、ただ人を笑わせているつもりの私は、その笑いで人々の心を傷つけていたのです。

私はこの本を読んで、ああ、これは自分のことだと思いました。しかし、イエス様は私を、私たちを癒してくださいます。どうすれば癒されるのでしょうか?これはエリヤハウスの方法です。第一は、「ああ、私はそういう者だ」と認めることです。第二は告白です。「そうか、そういう訳で私は悪いことばを使うようになったのだ。これは自分を防御するための武器だったんだ。しかし、これから私は自分をこのように防御する必要はない。なぜなら、私は神の子であり、王子なんだ。私に対する悪い評価は私にはあてはまらない。たとえ、非難されたり、馬鹿にされることがあっても、私の世界は壊れないんだ。アーメン」。第三は「主よ、今まで、この口で人々を傷つけ、この舌で人々を呪ってきました。どうか赦してください」と祈ります。第四は「悪いことばの構造、性格を十字架につけます。十字架につけて死なせます。アーメン。」第五は「主よ、私に新しい命をください。今度は私に良いことば、人を活かすことばを与えてください」と祈ります。

3.舌を制御する

私たちは舌を制御する必要があります。前の段階は癒しでした。私たちの心が生まれ変わり、思いが変えられる。そして、 悪いことばを語る性質を十字架に付け、新しい命をいただく祈りをしました。これで終わりかというとそうではありません。最後はライフ・スタイルチェンジが必要です。どういう意味かというと、新しい性質を身につけていくということです。どうでしょう?自転車でも水泳でもそうですが、教室だけでは学ぶことができません。実践が必要です。何度も何度も、やって体に身につける必要があります。自転車でも水泳でも一旦、からだが覚えたら、意識しなくてもできます。でも、それまでになるためには繰り返し、繰り返し実践すること必要です。それはことばの世界も同じなのです。そのためには、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らないようにしなければなりません。つまり、私たちは、今後、この舌に悪いことばを語らせないように注意する必要があります。ヤコブは何と言ったでしょうか?ヤコブ32「もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」「完全な人」とは、ギリシャ語でテレイオーですが、「大人」とか、「成熟した人」という意味です。つまり、クリスチャンとして成熟した人は、ことばをしっかり、制御できる人なんだということです。

Ⅰペテロ310,11「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行い、平和を求めてこれを追い求めよ。」使徒ペテロもヤコブと同じようなことを教えています。もし、人がいのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思うなら、どうすれば良いのでしょうか?「舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らないように」すれば良いのです。私たち日ごろ、たくさんの誘惑にさらされています。悪いことをされたり、さばかれたり、自尊心を傷つけられたりします。そのとき、私たちは条件反射的に、悪いことばや攻撃することばを言いたくなります。これまでそうしてきました。「目には目を、歯には歯を、口には口を」であります。そのときに、聖霊の助けによって、舌を押さえて悪を言わないようにするのです。みなさんは私と違って育ちが良いと思います。そんな乱暴なことは言わないと思います。たとえば夫婦喧嘩をしたとします。どっちが、ことばがたくさん出るでしょうか?妻の方であります。妻はマシンガンのようにババババババと撃ちまくります。夫はどうするでしょうか?アアアアアアと撃たれながら、(手榴弾の)ピンを抜くのです。そして、どかんとなります。つまり、口でかなわないので、手が出るのです。夫は母親からことばの被害にあってきたので、過剰に反応するところがあります。どうぞ、気をつけてください。何度か失敗するかもしれませんが、習慣化するためには、訓練が必要です。

ケネス・ヘーゲンという人は、『愛、勝利に至る道』でこう述べています。生活をエンジョイして、幸いな日々を送り、長生きする秘訣は「自分の舌に悪をやめさせること」です。愛は、悪を言うことをいつも慎みます。愛は人々に対して欺瞞や悪を語りません。また、神のご性質の愛は、すべての人との平和を求めます。あるとき、一人の牧師が問題を起し、彼はその教会を去らねばならなくなりました。私はだれかに、「あの人は何をしたんですか?」と尋ねると、その人はその奉仕者が行ったことを私に話してくれました。ところで、私は考えることをせずにこう言いました。「良識のある人なら、そんなことはしないでしょうね」。ふだんならすぐ眠れますが、その夜は眠れませんでした。二日目、三日目の晩も眠れませんでした。ついに私は主に言いました。「主よ、私の何がいけないのでしょうか?私の信仰があなたとつながっていないのですか?」主が私に語りかけました。「あなたは○○兄弟について○○と言いませんでしたか?」とその牧師の名前を言われました。「はい、私はただ、『良識のある人なら、そんなことはしないでしょうね』と言っただけです。」主は私に1つの質問をされました。「彼がどんなプレッシャーを受けていたか、あなたは知っているのですか?」「いいえ」と私は言いました。主は私に言われました。「もし、あなたがそれと同じ立場にいたなら、あなたは彼ほど立派にはできなかったかもしれません」。私は涙を流しながら言いました。「ああ、神さま、私をお赦しください。私は悔い改めます」。私は悔い改めるやいなや、瞬間的に癒されたのです。私はベッドに入って、ぐっすり眠りました。幾日かぶりでした。私が主のしもべたちを批判しないように自分の口を閉ざしておくことを教えてくれたのは、このような数々の状況でした。他の人を批判するのは、いとも簡単です。しかし、同じ環境のもとで、私たちはその人ほど立派には行うことができなかったのかもしれません。「裁くのをやめなさい。あなたがたも裁かれないためです」。

4.舌を活用する

ヤコブは舌の破壊力を語っていますが、同時に、舌が持つ力についても教えています。くつわを口にかけることにより馬全体を引き回すことができます。船の舵を取ることによって、船全体を思い通りの所へ持っていくことができます。もし、舌を正しく制御するなら、人生をも変えることができるのではないでしょうか?私たちはことばが持つ力についてあまり意識していません。ある人たちは何か起こると、「ああ、最悪だ」と言います。本当に最悪なのでしょうか?また、ある人たちは「病気がなかなか治らない。このままだと死んでしまう」。また、ある人たちは「何をやってもうまくいかないんだ。俺の人生はどうせこんなもんだ」と言います。もし、私たちがこのような否定的で破壊的なことばを発したならどうでしょう?最悪が起こり、体がますます悪くなり、失敗を重ねる人生になるのです。なぜなら、発したことばに力があるからです。失敗している人のことばをよく聞いてみると、否定的で破壊的なことばを常に発しています。私たちは逆に、肯定的で生産的なことばを発して、人生を良い方向に導いていく必要があります。マルコ11:23 「まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」イエス様は、「○○と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになる」と言われました。だから、私たちは問題や出来事に向かって、「動いて、海に入れ」とか「山よ、平地になれ」とか言わなければなりません。言えば、そのとおりになるのです。

ある女性が牧師先生にこう言いました。「私は長年、このぜんそくを患っていますが、私はそれからいやされません。お祈りしてもらったことは何度もあります。しかし、他の人たちと違って、私はいやされません。幾晩も、私はこのぜんそくで息苦しくなって、あと一息も呼吸できなかったことがあります。このような発作があった次の日は、私はベッドから出ることさえできません。また、あるときは、その日の初めは良くても、昼ごろまでにはぜんそくが始まって、何もできなくなります。私はなぜいやしを受けられないのでしょうか?」先生は彼女に言いました。「あなたが重いぜんそくをわずらっているのは確かですが、私がお話ししたいのは、そのぜんそく以上ではないかもしれませんが、それと同じくらい深刻なことです。あなたの否定的な態度です。あなたは私が今まで見たことがないくらい、『私はできない』という悪い症状をお持ちです。あなたの生活の中で何らかの改善や、何らかの癒しを期待する前に、その『私はできません』を『私はできますに』換えなければなりません。あなたがそうしないうちは、神は願っておられるやり方ではあなたを助けるためには働くことができないのです」。彼女は先生の言うことを受け入れ、涙を流しながら尋ねました。「ですが、私はどうすれば良いのですか?」先生は聖書のピリピ4:13を開いて、彼女に読んでもらいました。そして、こういい始めるように指導しました。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。私はいやしを受け取ることができます。私はキリストを通して完全に健康になれます。キリストは私の力であり、私のいやし主です。キリストの打ち傷によって、私は癒されています」。それは瞬間的な回復ではありませんでした。彼女は長い間「私はできません」を言い続けてきたので、神のことばを言わせるのには、訓練期間が必要でした。けれども、何ヶ月後、彼女は、恐ろしいぜんそくから完全にいやされたという証しを熱心に話してくれました。私たちは自分の口で言うとおりになるのです。どうぞ、神さまと一致すること、神さまがみことばの中で言われることと同じことを言いましょう。

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2011年5月 1日 (日)

行いによって    ヤコブ2:21-26

きょうの箇所はヤコブ書の1つの山場であり、最も物議をかもすところでもあります。宗教改革者マルチン・ルターはローマ書やガラテヤ書を取り上げ「信仰義認」を強調しました。しかし、きょうの箇所は「信仰だけによるのではない」とか「行いによって義と認められる」と書いてあります。「信仰義認」と真っ向から戦っている感じがします。聖書は互いに矛盾しているような箇所があります。でも、本当に矛盾しているのでしょうか?私はそうではないと思います。強調しているポイントが違うのだと思います。ローマ書やガラテヤ書は人が救いを得るために必要な信仰です。一方、ヤコブ書は救われた人が信仰をどう用いるかについて書かれているからです。

1.アブラハムの信仰

アブラハムは信仰の父と呼ばれています。新約聖書では、アブラハムの生涯から「信仰とはこういうものですよ」といくつか紹介しています。きょうの箇所はアブラハムがモリヤの山でイサクを祭壇にささげたときのことであります。アブラハムが99歳のとき奇跡的にイサクが生まれました。目の中に入れても痛くないほどイサクを可愛がって育てたでしょう。ところがある日、神さまはアブラハムに、ひとり子のイサクを全焼のいけにえとして捧げよというのです。「え?動物だったらともかく、人間を、ですか?」と文句を言えたでしょうが、アブラハムはだまって従いました。モリヤの山に登り、祭壇を築き、下にたきぎを並べました。そして、自分の子イサクを縛って、祭壇のたきぎの上に置きました。アブラハムが刀を取って自分の子をほふろうとした、その時、「あなたの手を、その子に下してはならない」と主の御使いが止めました。神さまはアブラハムを試みたのです。アブラハムが神を恐れ、自分のひとり子さえも惜しまないで捧げたということが証明されました。ヘブル人への手紙11章には「信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。」と書いてあります。アブラハムはたとえ、ここでイサクが死んだとしても、神さまがよみがえらせて戻してくださると信じていたのです。ものすごい信仰です。しかし、ヤコブの手紙が強調したいのは、「その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたのではありませんか」と言っているところです。私は間違っていないと思います。もし、アブラハムが刀を手にしながら、「神さま、本当に殺しても良いのですか。殺しますよ。さあ、殺しますよ。本当に良いんですか?」と時間かせぎをしていたなら別です。そうではなく、アブラハムは実際にイサクを殺そうとしたのです。その一歩手前で、神さまは「わかった、もう良い」とおっしゃったのです。

ヤコブの22節以降、このように教えています。ヤコブ2:22-24「あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ、そして、『アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた』という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。」問題は、「人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではない」とヤコブが言っていることです。ここだけ見ると、人が義と認められる、つまり、「救われるためには、信仰だけではなく、行いも必要だよ」と言わんばかりです。実際にローマ・カトリックでは人が救われるためには信仰だけではなく、善行も必要であると言っています。もし、人が善行によって救われるなら、どれだけ良いことをしなければ救われないのでしょうか?その基準が分からなくなります。ヤコブが本当に言わんとしていることは何なのでしょうか?「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」というのは、アブラハムが召された初期の頃です。創世記15章で主は「あなたの子孫は天の星のように多くなる」言いました。そのとき、アブラハムが主を信じたので、義と認められました。アブラハムは、一回、信じたきりで、あとは信じなかったのでしょうか?そうではありません。ヤコブは「あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ…『アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた』という聖書のことばが実現した」と言っています。そうです。アブラハムの信仰は生きていて、行いとともに働き続けたのです。アブラハムの生涯を見るとわかりますが、なかなか子どもが生まれませんでした。待ちきれなくて、イシュマエルをもうけたこともありました。最後には自分もサラも年老いて、死んだような体になりました。それでもアブラハムの信仰はなくならず、行いとともに働いたのです。つまり、アブラハムの信仰と行いは分離していなかった。ずっと信仰が生きていて、その信仰が全うされたということです。

プロテスタント教会で弱いのが信仰義認に頼りすぎることです。一度でも、「イエス様を救い主として信じます」と告白したら「もう大丈夫だ、天国に行ける」と言います。しかし、信仰というのは点だけではありません。「信じ続ける」という線でもあります。もちろん、どこかで「信じます」という、決断における点がなくてはなりません。でも、それだけで、教会にもつながらない、肉の欲しいままに生きる。何か生命保険のように考えている人もいないわけではありません。実際に洗礼を受けても、教会に残る人は50%以下であるという統計が出ています。そういう人は救われていないのでしょうか?私はこのように考えます。人々の中には口先だけで「イエス様を信じます」と洗礼を受ける人がいるかもしれません。特に、日本は義理と人情の世界ですから、「牧師先生に世話になったから」という理由で洗礼を受ける人もいないわけでもありません。私は教団の連合祈祷会に出たことがあります。その教会の姉妹が代表で証しをしました。そのとき、「先生に大変良くしてもらった、大変世話になった」と何度もおっしゃっていました。ところが、その証しの中に一度も、「イエス様が自分にどうした」ということがありませんでした。牧師はどうでも良いとは言いませんが、イエス様につながらなければなりません。そして、本当にその人に信仰が与えられたなら、アブラハムのように信仰が行いと共に働くのです。つまり、行いは信仰の実であり、結果なのです。もし、その人に行いがちっとも伴わないとしたら、本当に信仰があるかどうか疑わしいということになります。

黙示録2:10「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、私はいのちの冠を与えよう」とあります。私の家内は洗礼を受けたとき、記念として牧師から本をいただいたそうです。その本の裏表紙に「死に至るまで忠実であれ」と書いてあったそうです。家内は、そのとき、そのことばどおりに生きようと思ったそうです。私は人にプレッシャーをかけたくないので、そういうみことばを書いたことがありません。私は信仰義認を信じています。人はイエス様を一度でも信じたら、天国に生けると確信しています。しかし、私たちの信仰は天国に行くだけのものではありません。神さまは、「この世で天国のような生活ができるように、信仰を用いなさい」と命じておられます。そうです。信仰は救われるためだけのものではありません。この地上で、信仰を用いなければならないのです。その信仰を豊かに用いた人が、いのちの冠が与えられるのです。いのちの冠はただ信じただけの人には与えられません。行いとともに、信仰を用いた忠実な人にだけ与えられるのです。どうせなら、みなさんいのちの冠をいただきましょう。アーメン。

2.ラハブの信仰

二人目の例はラハブです。ヤコブ2:25「同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行いによって義と認められたではありませんか。」ラハブと言う人はヨシュア記の最初に出てきます。ヨシュアたちがエリコに攻め上ろうとしました、しかし、エリコは高い城壁で囲まれた難攻不落の町です。そこで、ヨシュアは二人の使者、いわゆる斥候を遣わしました。二人がラハブの家にいることがばれて、エリコの王さまは兵士を送りました。ところがラハブは二人をかくまって、「暗くなって、門が閉じられるころ出て行きましたよ。急いで行けば追いつけるでしょう」と言いました。そして、二人を逃がすのですが、その前に約束をさせました。彼女は「葦の海を枯らしたのは主である。あなたがたの神、主こそまことの神であると信じています。だから、この町を攻撃しに来たとき、私の父、母、兄弟、姉妹、また彼らに属する者を救い出してください」とお願いしました。二人は「分かった。私たちがこの地に入って来たなら、窓から赤いひもを結び付けておきなさい」と約束しました。その後、城壁が奇跡的に崩れ、ヨシュアの兵士たちが、町を攻め上ってきました。その時、町に住むすべての人々、家畜まで剣の刃で聖絶されました。ただし、ラハブとその親族だけが町の外に連れ出され、生かされました。ヘブル人への手紙は「信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました」と言っています。

すごいですね。ラハブは遊女ですから、聖書的にもかなり問題があるでしょう。罪があるのではないでしょうか?本当に行いによって、救いが与えられるのでしょうか?  しかし、重要なのは彼女がどういう生活をしていたかではありません。彼女がヨシュアの部下二人をかくまったという事実です。二人の偵察隊を助けたという行いがあったからです。それでは信仰はなかったのでしょうか?信仰がなければ、二人を助けるようなことはしないでしょう。災いを避けるために、さっさとエリコの王様に二人を差し出していたでしょう。ラハブには信仰がありました。ヨシュアの神がまことの神さまであり、エリコがまもなく滅ぼされることを信じていました。そして、この二人を助けて、契約を交わすならば、一家は滅ぼされることはないと信じていたのです。ハレルヤ!ルカ16章に面白いたとえ話があります。あるところに、主人の財産を乱費している管理人がいました。今で言うなら、ギャンブルか投資でしょう。そのことが主人にばれて、会計報告を出せと言われました。彼はまもなくクビになることが分かっていました。「土を掘るには力がないし、物乞いをするのは恥ずかしい。じゃあ、こうしよう」と考え、実行しました。彼は主人の債務者を一人ひとり呼んで、油100バテを「50」と証文を書き換えました。また、小麦100コルを「80」と書き換えました。そして、彼らに「私が仕事をやめさせられたときは、どうか私を迎えてください」と恩を売ったのです。主人はそのことを知って、叱るどころか「なんと抜け目のない管理人だ」とほめました。イエス様はそのたとえ話してから、こう教えられました。「不正の富で、自分のために友を作りなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです」(ルカ16:9)と。ラハブは信仰によって、二人の使者をかくまうことによって、ヨシュアとコネクションをつけたのです。私たちが永遠の住まいに迎えられるためにはどうしたら良いでしょうか?そうです。生きている間に、イエス様の贖いを信じて、コネクションをつけておけば良いのです。アーメン。

3.たましいと肉体

ヤコブ2:26「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。」本来、この26節は前の節からの文脈で語られています。アブラハムやラハブの信仰が行いと一緒だった、くっついていたということです。もし、行いと信仰が離れているならば、その信仰には命がない、死んでいるということです。つまり、本当に信仰があるならば、行いが必ず伴うということを教えています。しかし、この26節の比喩だけを取り上げても、すばらしい教えがここにあります。ヤコブは人間の死とはどういうものであるか、私たちに教えています。医学的に死というのは呼吸や心臓が停止することです。最近は移植のため、心臓が動いていても、脳が死んでいれば、死と同じだとみなしています。一般的に死というのは、肉体の細胞が死んで、亡くなることであります。しかし、ヤコブ書だけではなく、聖書は死とは、たましいと肉体が分離することだと定義しています。たましいとは、霊魂、私たちが「私たちである」と意識している心であります。たとえば、「あなたはどこにいますか?」と聞くと、「私はここにいますよ」と胸をたたきます。しかし、それは胸であります。胸のところにあなたがいるのでしょうか?肉眼では見えなくても、私たちはいるのです。たましいこそが、私たち自身なのです。しかし、レントゲンにとっても、私たちのたましいは写りません。重さも量ることができません。だから、唯物論者は、人は死ねば、無になるんだと言います。医学的にも人が死んだら、脳も死ぬので、思考する場所もなくなるので、無になるんだと考えるでしょう。しかし、日本人はなんとなく、たましいはどこかに行くんだという考えがあります。聖書的にではなく、シャーマニズム的にそう思うのです。また、仏教は輪廻、生まれ変わりを説きます。死んだら無になって、別の何かに生まれ変わるんだと信じています。しかし、聖書に土台した西欧の人たちは、そうは考えません。「たましいは永遠に行き続けるのであり、たましいこそが私たち自身である。肉体はたましいの入れ物であり、土に帰る存在である」と。だから、彼らは死んだ肉体にあまり未練はありません。そのため、臓器移植も進んでいます。その人が行方不明になったとしても、日本人のようにはこだわりません。なぜなら、たましいが神さまのもとに帰ったという信仰があるからです。さらに、はっきりしたキリスト教信仰があるなら、たましいはパラダイスにおり、眠った肉体は終わりの日に復活すると信じています。みなさん、私たちのたましいは死んでもちゃんと意識があります。眠るのは肉体であり、たましいが眠るのではありません。その証拠にルカ16章の貧乏人ラザロと金持ちは死んでから、ちゃんと記憶や意識があります。熱いとか渇いたという感覚さえあります。ですから、死は無になるということでは決してありません。

もし、聖書に土台した死生観、来世観を持つならどうでしょうか?イエス・キリストを信じている人、クリスチャンは、あるときから永遠の世界を生きているということです。私たちがしてきたこと、すること、考えることが、ずっとずっと継続されていくということです。ある人は、自分の過去をリセットするとか言いますが、それは聖書的ではありません。たとえ、死んでもリセットすることはできません。黙示録22:12「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る」と書いてあります。何故、私たちは行いを無視できないのでしょうか?それは私たちがどのように生きてきたかが、神さまの前で問われ、またそれに応じて報いが与えられるからです。イエス様は、世の終わり、この地に戻ってこられます。「わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る」とおっしゃっています。報いというのは2種類あります。1つは罪に対するさばきという報いです。もう1つは良い行いに対する報いです。「報い」というと私たちは何となくいやらしいと思わないでしょうか?報いを受けるためにやるなんて、安っぽいと思うでしょうか?確かに人から報いを受けるためにやるのは、偽善的かもしれません。でも、聖書は神さまの報いは受けて良い、むしろ求めなさいと言っています。マタイ6:1「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません」マタイ6:3,4「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」他に祈りや断食のことが書かれています。イエス様は、はっきりと父なる神さまが報いてくださると言われました。

きょうのテーマは行いの伴った信仰であります。行いの伴う信仰が与えられるためには、結局、どうしたら良いのでしょうか?それは神さまの報いを信じて行うということではないでしょうか?私たちはこれまでの人生で、「どうせ、これだけやっても、だれも認めてくれないんだ」と思ったことはないでしょうか?報われない人生を過ごしてきたのではないでしょうか?逆に、ある人はなんとか人から報われようと努力している人もいます。しかし、それも空しい感じがします。人の目、人の評価というものはいい加減だからです。では、人の評判とか人からの信用はどうでも良いのでしょうか?そうでもないと思います。でも、人の評判とか人からの信用というものは結果であり、実だと思います。それよりも私たちがもっと意識すべきことは、神さまの御眼のもとで生きることです。特に神さまは隠れたところで見ておられるお方です。「私はこれだけ良いことをしました」と誇ると神さまの報いがなくなります。なぜなら、既に人から報われてしまったからです。だから、隠れたところで良い行いをすることは、信仰がなければなりません。逆に隠れたところで悪いことをするのは、信仰がないからです。信仰があれば、人が見ていようと、人が見ていまいと一貫した生き方ができるはずです。ハレルヤ!だれが認めてくれなくても、父なる神さまが認めていてくださる。だれが報いてくれなくても、イエス様が報いてくださる。なんという慰め、なんという励ましでしょうか。そういうふうに誠実に生きているなら、結果的に、人が認め、評価してくれるかもしれません。しかし、必ずしもそうなるとは限りません。一生誤解され、悪評を受け、死んだ100年後に「あの人はすばらしかった」という人が歴史的にたくさんいます。考えてみれば、イエス・キリストも当時の人たちから、さんざん馬鹿にされ、捨てられ、十字架につけられました。イエス様は人々の病を癒し、弱い人々を助け、良いことばかりをしました。良いことだけをしたのに、殺されたのです。地上の生涯において、イエス様はほとんど報いられませんでした。弟子たちもみんな逃げていきました。しかし、この歴史上において、イエス様ほどあがめられ、イエス様ほど高められた人もいません。イエス様のために死ぬ人すらいます。私たちはイエス様と同じではありませんが、生き方の原理は学ぶことができます。これだけははっきりと言うことができます。御子イエス様は、御父のもとで正しく忠実に生きたお方です。だから、御父によって報いられたのです。私たちもイエス様のように、御父のもとで正しく忠実に生きる信仰をいただくことは可能だと思います。イエス様は模範だけではありません。イエス様は聖霊によって私たちの内に住んでおられ、行いの伴った信仰を与えてくださいます。私たちに必要なのは、みことばとイエス様に聞きながら、日々、歩むということです。そうするなら、後から良い行いが実として現れてくると信じます。

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