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2011年4月24日 (日)

エマオの途上の二人     ルカ24:25-32

先週の日曜日は当教会において歴史的な日でした。日本キリスト教団との被包括関係を解いて、独立した教会として歩むということを決議したからです。総会では、現住倍餐員123名のうち、39名が参加しました。そして、38名が賛成し、前に出て署名捺印されました。みなさんが1つ心となって、「新しい教会を目指すんだ」という熱意がそこに現れていました。ある人が、「日本キリスト教団というブランドをなくしても良いのですか?」と言いました。私は「ああ、そうか教団はブランドなのか、少しおしいなー。これからは無印良品か」とちょっとだけ思いました。でも、それだけ私たちは、「聖書とかしらなるキリストとに聞き従う」という、良い緊張感が与えられたのではないでしょうか?きょうは、イースター(復活祭)です。ルカ24章から「聖書とかしらなるキリストとに聞き従う」とは、どういうことなのか共に学びたいと思います。

1.共に歩まれるイエス

イエス様は日曜日の朝、墓からよみがえりました。復活のニュースを聞いたにもかかわらず、とぼとぼと西の方角に歩いている二人の弟子がいました。一人はクレオパで、もう一人は名前がわかりません。なぜ、聖書に名前が書かれていないのでしょうか?それは、あなたの名前を入れるためであります。クレオパとあなたがエマオという村に向かって歩いているんだと想像してみましょう。エマオはエルサレムの西へ11キロくらい離れています。時は午後4時か5時頃、もうすぐ日が落ちるかもしれません。彼らは夕日が落ちる西の方角に向かって歩いています。どうでしょう?朝日に向かって歩くのと、夕日に向かって歩くのと、どう違うでしょうか?朝日に向かって歩くのは希望があります。なぜなら、これから日が昇るからです。でも、夕日に向かって歩くと、だんだん日が沈んで、暗くなります。ということは、失望とか落胆を表すのではないでしょうか?まさしく、エマオの途上の二人は、失望と落胆の心の状態でありました。イエス様がよみがえったというニュースを聞いていたにもかかわらず、失望と落胆の人生を歩んでいたのです。

この世のほとんどの人は、「イエス・キリストが死んで3日目に復活した」ということを知っています。どうでしょう?信じる、信じないは関わらず、キリストは復活したということを知的に知っているのではないでしょうか?ちなみに、機械が壊れてダメになったとき何と言うでしょうか?テレビが壊れて映らない、エンジンが壊れて動かない。そういうとき、日本では何と言うでしょうか?「おしゃかになった」と言わないでしょうか?仏教の人には大変失礼ですが、「おしゃかになった」とは、もう死んだという意味です。しかし、怪我などの故障で休んでいた野球のピッチャーがマウンドに再び立つとき何と言うでしょうか?「復活した」と言うでしょう。私は牧師として、復活よりも「キリストになった」と言うべきだと思います。そうです。お釈迦様は死にましたが、キリストは死んで三日目に復活し、今も生きておられるのです。ハレルヤ!

キリストは死んで、よみがえり、今も生きておられるというのに、この二人はどうでしょうか?ルカ2415-24「話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」イエスが、「どんな事ですか」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」

 二人は「イエス様は死んだけれど、三日目によみがえったらしい」というニュースを聞いてはいました。しかし、暗い顔をしていたのです。なぜでしょう?それを信じていなかったからです。キリストが復活したのに、自分の人生は相変わらず希望のない人生を日没目指して歩んでいる。日没とは人生の終わり、死であります。私は57歳ですが、人生の何時頃でしょう?6時が死の日没だったら、おそらく、4時半くらいでしょう。みなさんの中には、5時50分の人もいますか?時間はともかく、この世の多くの人たちは死を目指して歩んでいます。キャンディースのスーちゃんが亡くなりました。55歳でした。私とあまり変わりありません。彼女のように4時半くらいで亡くなる人もいるのです。しかし、良い知らせがあります。まだ、復活を信じないで、日没に向かって歩いている二人の真中に、イエス様が入って来られました。不思議なことに、彼らの目がさえぎられてそのお方がイエス様だと分かりませんでした。ただの通行人の一人だと思ったのです。みなさんも道を歩いていると、同じ方向に無言のまま歩いている人がいるでしょう。その人との面識はありません。ただ、同じ方向に歩いているという感じです。突然、その人が「あなたがたは、何を話しておられるのですか?」と会話に入ってきました。二人は、イエス様が十字架でつけられ死んだこと。そして、きょうの朝、墓に行ったけど死体が見つからなかったことなどを告げました。おそらく、暗くてけげんそうな顔つきで答えたのでしょう。ここでの良い知らせは何でしょう?復活のニュースは聞いていたけど、それを信じることができず、日没の人生を歩んでいる。しかし、よみがえられたイエス様が共に歩んでくださっているということです。イエス様はご自分を信じない人の近くを今も、歩んでおられるということです。これは良いニュースではないでしょうか?

2.聖書を解き明かすイエス

 二人の間に入られたお方が、何やら語り始めました。ルカ24:25-27「するとイエスは言われた。『ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。』それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた」。二人はきっと、びっくりしたことでしょう。懇切丁寧にエルサレムで起こった出来事を知らせたのに、開口一番「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち」とは。「自分を何様だと思って?」とむかついたかもしれません。でも、そのお声に、不思議な権威がありました。そして、続けざまにモーセの書から、預言書、聖書全体の中で、キリストの苦しみと復活について教えてくれました。当時はまだ旧訳聖書しかありませんでした。モーセとはモーセ五書、つまり「創、出、レビ、民、申命記」です。創世記3章の女の末がへびのかしらを打ち砕くとか、出エジプト記の一才の羊を殺して、血を塗ること、レビ記の血を流さなければ罪の赦しはありえない。あるいはアブラハムの神、ヤコブの神、イサクの神は生きておられるなどと語ったかもしれません。預言書といったら、イザヤ書が有名です。受難と復活のことが書かれています。聖書全体というと詩篇も含まれるでしょう。そこにも、受難と復活のことが預言されいます。

 たぶん、道すがら1時間か長くて2時間、聖書を解き明かしてくれたのかもしれません。なんとリッチな時間だったでしょう。イエス様がご自分の苦しみと復活の意味を聖書から語ってくれたのです。いやー、うらやましいですね。彼らはそのとき、どう思ったでしょう。ルカ24:32そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」「心はうちに燃えていた」と書いてあります。面白い表現ですね。「心が燃えていた」というのはわかりますが、「心はうちに燃えていた」とはどういう意味でしょう?英語ではon fire、burningです。人は感動したときとか、恋に陥ったとき、心が燃えるような感じがします。二人はイエス様が聖書を解き明かしているとき、そういう感じがしたのです。イギリスのスポルジョンは青年のとき、ある教会に行こうと思いました。しかし、吹雪によって阻まれ、小さな教会に飛び込みました。そこには牧師が来れなかったのでしょうか?信徒が説教していました。それは説教というものではなく、イザヤ書のある箇所を何度も連呼していただけです。しかし、スポルジョンの心がうちに燃える経験をしました。彼は子どものころから教会に行っていたので、キリストの十字架と復活の出来事は知っていました。しかし、そのとき「ああ、キリストは私の罪を負い十字架にかかり、私が生きるために復活したのだ」ということが分かったのです。これが、スポルジョンの回心であります。ジョン・ウェスレーもロンドンの町で司会者がルターのローマ書講解を読んでいるとき、心はうちに燃える経験をしました。彼はそれから救いの福音を力強く語る説教者になりました。

 どうでしょう?みなさんは聖書のみことばを読んだとき、あるいはだれかがみことばを語ったとき、「心はうちに燃えていた」という経験をされたことがあるでしょうか?鈴木牧師の説教を聞いているとき、「心はうちに燃えていた」。アーメン。あると思います。それも良いですが、みなさんが一人でディボーションしているとき、そういう体験をなされたらもっと良いですね。ヨハネ16:13「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」アーメン。復活のイエス様は今、真理の御霊としてみなさんのところを訪れています。まるで家庭教師のように、あなたの傍にいて、あなたに聖書のみことばを解き明かしてくださいます。ある人たちは「自分一人で聖書を読むと、誤って解釈するかもしれない。だから、教会へ行って牧師や教師のご指導のもとで読まなければならない」と思っているかもしれません。そういう人はカトリック教徒かもしれません。プロテスタント教会にもそういう人がいたら大変不幸です。聖書はとてもわかりやすい書物です。もちろん、わかりにくいところもたくさんあります。矛盾しているでしょうか?全部、理解しようとするから壁に突き当たるのです。みなさんはアジとかサンマを食べるとき、頭から丸かじりして、尾っぽまで食べる人がいるでしょうか?ししゃもくらいなら出来るかもしれませんが、普通、骨は皿の脇にどかして、柔らかい身を食べるでしょう。聖書のみことばもそれで良いのです。しかし、そのとき、真理の御霊、復活のイエス様が「このみことばはあなたにとってこういう意味ですよ」と教えてくださいます。それは単なる解釈ではありません。あなたの人生にとって、指針となる、いのちとなることばです。あるときは励まされ、あるときは慰められ、あるときは信仰のチャレンジが与えられるでしょう。これこそが心はうちに燃える経験なのです。どうぞ、聖書を開いてイエス様に聞いてください。今もイエス様は生きておられ、あなたに聖書のみことばを解き明かしてくださいます。そして、心がうちに燃える経験を何度も何度も与えてくださいます。

3.パンを渡されるイエス

 ルカ24:29-31「それで、彼らが、『いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから』と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。」もう、ご一行はエマオに着いたのでしょうか?それとも途中なのでしょうか?とにかく、日が傾いたので、歩けなくなり、宿を取ることにしました。二人は強いて、その方を宿に案内し、一緒に食事をしました。その方がパンを取って祝福し、裂いて二人に渡されました。するとどうでしょう。二人の目が開かれ、その方がイエス様だと分かりました。「えー、今頃?」と私たちはびっくりします。しかし、マルコによる福音書には「イエスは別の姿でご自分を現されていたから」と書いてあります。ルカ福音書は「ふたりの目がさえぎられていて、イエス様とわからなかった」と書いてあります。しかし、イエス様がパンを裂く仕草を見て、「ああ、イエス様だ」と分かったのかもしれません。イエス様には独特なパンの裂き方があったのでしょうか?右から左に裂くとか、左から右の方へ裂くとか、それとも前後に裂くとか。そうではないと思います。イエス様と二人が交わっているときに目が開かれたのでしょう。聖餐式はホーリー・コミュニオンと言います。communionとは、親交、霊的交わりという意味です。ちなみにcommuneとは生活共同体、親しく交わる、共有するという意味があります。つまり、イエス様との食事は、イエス様と親しく交わるということです。イエス様は聖書でよく一緒に食事をしています。弟子たちとだけではなく、取税人や罪人たちとも一緒に食事をしています。ザアカイはそのとき回心しました。ペテロはそのとき、「イエス様を愛します」と告白して癒されました。

 ある人たちは、聖書のみことばで満足しています。特に、みことばを大事にする聖め派の教会はみことば体験を非常に大切にします。もちろん、それも重要ですが、三番目の体験はイエス様と親密な関係です。ある人たちはイエス様を「イエスは」「イエスは」と呼び捨てで言います。その人は道で一緒にあるいておられるイエス様でしかありません。またある人は「聖書に感動した」「聖書でイエス様のことが分かった」というレベルかもしれません。しかし、もっと深い関係があります。それは、あなたの生活すべての場に、友なるイエス様として歓迎することです。あなたは、イエス様といると楽しいでしょうか?それとも、イエス様といると堅苦しいでしょうか?私たちの関係でも、気を使っているうちは疲れます。しかし、もう気を使う必要がないくらい親しいとどうでしょうか?時間を気にしません。ことばも、表現も、態度も気にしません。それだけ親しいからです。私はテレビをみていて、「ああ、馬鹿だなー」と言います。家内は、「あなたは今、馬鹿と言ったわよ」と言います。私は「そうなんだよ、日本人は馬鹿なんだ」と改めて言います。私も日本人なのに…。私は、他の人の前ではそんなことは言いません。でも、私と一緒にご飯を食べたら、そういうことを言うかもしれません。大体、ご飯を食べているという時は、心が開いている状態です。良いものも、悪いものも心の内側から出てきます。そのため、躓く人も出てくるかもしれません。でも、逆に言えば、それほど親しい関係だということです。イエス様はあなたとそのような関係を持ちたいのです。気を使わないで何でも、話せる関係です。そうすると、あなたのイエス様に対する見方が変わります。霊的に目が開かれるからです。

 二人はその後、どうしたのでしょうか?宿に泊まったのでしょうか?いいえ、今来た道を引き返してエルサレムに戻ったのです。信じられますか?10キロ来た道をまた引き返したのです。彼らはエマオに何をしに来たのでしょう?エルサレムを離れることは何を意味していたのでしょう?そして、今度、エルサレムに戻るとは何を意味することなのでしょう?なぜ、イエス様はエマオの途上の二人に出会って、そんな長い時間を彼らのために費やされたのでしょうか?実は、イエス様の二人に対する計画があったからです。二人はエルサレムに戻って、11使徒に復活のイエス様と出会ったことを話したでしょう。なんと、エルサレムで再びイエス様が現れてくださいました。そして、また、ご自分が受けた苦しみとその復活を聖書から教えました。その後、イエス様はどうしても伝えたいことがありました。さきほどの二人を含めて、弟子たちに伝えたいことがありました。それは何でしょう?ルカ24:48-49「あなたがたは、これらのことの証人です。『さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。』」アーメン。イエス様は二人に十字架と復活の証人になってもらいたかったのです。そして、エルサレムにとどまって聖霊を受けて、力を着せられて、力ある証人になってもらいたったのです。これが使徒1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」に続くのです。

エマオの途上に向かっていた二人の人生はどうだったでしょうか?失望と落胆の人生、夕暮れに向かう人生でした。死ぬ日を待ちながら、なんとか生き延びる人生でした。人生の目的も使命も意味もありませんでした。しかし、どうでしょう。イエス様が死んでよみがえり、今も生きておられる。それだったら、今度はその良い知らせを他の人々に知らせる必要があります。自分もその良い知らせで罪赦され、救われました。今度は、この良い知らせを他の人に知らせるという使命があります。しかし、それはたやすいことではありません。周りの人たちは無知と偏見の塊だからです。迫害を受けたり、嫌な思いをするかもしれません。だから、そのためにエルサレムにとどまり、いと高きところから力を着せられる必要があります。つまり、聖霊を受けて、聖霊に満たされる必要があるのです。ただ良い知らせを持っているぐらいだとこの世に押しつぶされてしまいます。しかし、聖霊に満たされ、聖霊の力をいただいたなら、ちょっとやそっと嫌な思いをさせられても、水をかけられても、こたえません。迫害を受ければ受けるほど、ゴム鞠がはずむように、バーンと跳ね返すのです。二人は120人の弟子の中に加えられ、2階座敷で祈りつつ、10日間待ち望みました。すると、彼らの上に、天から激しい風のように、炎のように聖霊が降ったのです。そこで、始めて二人はイエス様の十字架と復活の証人、力あるキリストの証人になることができたのです。これが、神さまの二人に対する計画であり使命だったのです。あなたは人生の夕暮れに向かって、ただ死ぬのを待ちながら生き延びる人生を過ごしたいですか?それとも、心がうちに燃える経験をし、友なるイエス様と親しい交わりを持ち、さらには聖霊をたいだいて使命をになうキリストの証人になりたいでしょうか?十字架と復活を信じ、聖霊を受けたなら、じっとしていることは不可能です。あなたもこの良い知らせを弟子たちのように、地の果にまで告げ知らせたくなるのです。

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2011年4月17日 (日)

主イエスの御顔         ルカ9:51-62

今週は受難週で、イエス様が十字架におかかりになった日が金曜日です。そして、来週はイースター(復活祭)です。ルカによる福音書の構造を考えますと、ルカ9章がまさしく、受難週のメッセージにふさわしいのではないかと思います。ルカ9章の中ほどに変貌山の物語があります。イエス様の御顔が変わり、父なる神さまの御声がありました。イエス様はそのまま天にお帰りになることもできましたが、そうはしませんでした。なぜなら、モーセとエリヤと、「エルサレムで遂げようとしておられるご最期について一緒に話しておられたからです。「ご最期」とはギリシャ語でエキサダス、出エジプトという意味です。旧訳聖書で最も偉大な出来事はモーセによってイスラエルの民が奴隷の地であるエジプトから解放されたことです。そして、新約聖書で最も偉大な出来事はイエス・キリストの十字架の贖いによって、全人類が罪とサタンの世から解放されたことであります。ルカ福音書は、イエス様がこの後、山を降りてまっすぐエルサレムに向かうという構造になっています。

1.主イエスの御顔

ルカ951「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ、ご自分の前に使いを出された。」51節と53節に、「御顔」ということばが二回出てきます。その御顔はエルサレムに真っ直ぐに向けられています。イエス様の御顔はどのような表情だったでしょう?私は普段とは違って、緊張した面持ちではなかったかと思います。「きいっ」と、遠くを見つめる鋭い眼光、しまった口元、握り締めたこぶしだったでしょう。イエス様は、ご自分のことを、このように予告しておられます。ルカ922「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」イエス様はエルサレムに行ったら、苦しみを受け、殺されることが分かっていました。しかし、人類の贖いのために、それは避けては通れない道でした。だから、決死の覚悟と言いましょうか、不退転の覚悟でエルサレムに向かったのであります。

ところでイエス様がこの地上に来られたのは何のためでしょう?イエス様は神の国の福音を宣べ伝えました。病人を癒し、死人をよみがえらせ、神の国がどのようなものかお示しになられました。また、神の国の律法に従う生き方とはどのようなものなのか教えました。そして、地上を去る前に後継者、弟子たちを育てました。でも、最大の使命は何でしょうか?それはエルサレムで死ぬことであります。ちょうどその日は、過ぎ越しの祭りの日であり、小羊がほふられる日であります。イエス様はご自分こそ、神の小羊として十字架にかかり、血を流して、贖いのわざを成し遂げるんだということを知っていたのです。つまり、イエス様はこの地上に、人類の罪の身代わりのために死ぬために来られたのです。十字架の贖いこそが、イエス様が地上に来られた最大の使命なのです。十字架の贖いがなければ、人々が神の国に入ることができないからです。だれ一人、良い行いによって神の国に入ることはできません。すべての人が罪の中にあり、神さまの前に立てる人はいません。しかし、イエス・キリストを救い主として信じる者は罪赦され、神の御前で義とみなされます。イエス・キリストを信じる信仰によって、神の国に入ることができるのです。イエス様がいくら良い教えを宣べ伝えても、いくら病を癒し死人をよみがえらせても、十字架の贖いがなければ一時的なものです。永続的な救い、永続する救いは、イエス様の十字架の贖いによってもたらされたのです。

東日本大震災から1ヶ月たちますが、ようやく「復興」ということばが聞かれるようになりました。もちろん、瓦礫の山で、まだどこから手をつけて良いか分からないところがいっぱいあるでしょう。私も五月の連休で南三陸の方へボランティアに出かけたいと思います。家内の実家から車で真横に1時間少し走ると南三陸らしいのです。何もできなくても、現場を見るだけでも、大分違うと思います。香港のセルチャーチからも行ったようですが、南三陸には教会がないそうです。ですから、「神様が現地に拠点となる場所を与えてくださり、私たちが長期的に仕えることができるように」祈ってくださいというリクエストがありました。復興ということももちろん大事ですが、復興以上のものがあると思います。それは、御国に本当の住まいをもうけるということです。ある人たちは家屋、財産、すべてのものを失って命しか持っていない状況かもしれません。でも、永遠の命を得ることができたら、元を取れるのではいかと信じます。みなさん、日本は地震大国であって、安全な場所などありません。オーストラリアのある預言者が北海道、関東、関西にも来ると言っています。「勝手なことを言うな」と言いたいところですが、まず御国に入っておくことが最優先ではないでしょうか。私たちは隣人を助けながら、同時に、イエス・キリストの贖いによってもたらされた、無償の救いを分かち与える使命があります。私は毎朝、散歩していますが、そのとき、フツフツと沸いてくるものがあります。25歳のとき、イエス様を信じて本当に良かったなーと思います。「私に福音を伝えてくれた、増田さんありがとう」と天国に向かって告白します。私たちがこうやって毎週、礼拝堂に集まっている究極的な目的は何でしょうか?それはイエス様が十字架で成し遂げられた救いを感謝するためです。そして、この礼拝堂を出るとき、イエス様の救いをこの世に宣べ伝えるために出ていくのです。

2.エルサレムへの妨げ

 ルカ9: 53-55「しかし、イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリヤ人はイエスを受け入れなかった。弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。『主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。』しかし、イエスは振り向いて、彼らを戒められた。」イエス様は、北のおそらくヘルモン山からエルサレムへ南下している途中だったでしょう。その途中に、サマリヤの町があります。その当時、ユダヤ人とサマリヤ人は仲が悪かったようです。ユダヤ人が「お前たちは混血だ、混合宗教だ」と見下げていたので、サマリヤ人は敵対意識を持っていたのでしょう。ヤコブとヨハネは「雷の子」とあだなされている通り、かっと来るタイプです。それにしても、乱暴なことを言うものです。「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」彼らはイスラムのジハードのような存在です。あの愛の使徒、ヨハネが「天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言って良いのでしょうか?みなさん、ヨハネの性格をご存知でしょうか?ヨハネはイエス様を心から愛していました。そして、弟子たちの中で最も忠義に篤い人でした。忠義に篤い人というのは、反面、逆らう者に対しては、極端な態度を取るものです。それだけ、イエス様を思う想いが篤いからです。それに対して、イエス様はどうされたでしょうか?イエス様は彼らを戒めて、他の道を選びました。おそらく、迂回して行ったものと思われます。

 私たちも「これが神のみこころだ」と信じて立ち上っても、「そうじゃない」と妨害する人が起こるものです。どこでも反対者はいるものです。ユダヤでは満場一致のときは、「だれか後ろで手を回しているんじゃないか」と逆に疑うそうです。彼らは付和雷同というのを非常に嫌います。日本人の場合は保守的で、変化をとても嫌います。しかも、寄らば大樹の陰、みたいなところがあります。実はきょう教会総会があります。イエス様にとって変貌山がターニングポイント(分岐点)だったように、本日の総会も当教会にとってターニングポイントになるでしょう。なぜなら、日本基督教団を出て、独立した教会となろうとしているからです。難しいことばで言うなら、「被包括団体を解く」協議を総会でいたします。しかし、この話題が最初に登ったのは5年前の役員会です。その翌年、4回の懇談会を持ちました。ある人から「教会がちょっとばかり大きくなったからと言って、そんなことを」とたしなめられました。「まさか、この人がそんなことを言うとは?」と驚きました。2年前の総会では「もっと教団から学んだらどうですか?」と言われてそうしました。昨年の総会では「もっと理解してもらう必要があるでしょう」とのことで、各会を説明して回りました。そのとき、「このためにどのくらい祈ってきたのですか!」と言われ、やる役員さんはかなりへこんだようです。また、「独立よりもこの教会はどういうものを目指したいのですか?理念や組織形態はどうなんでしょうか?」とも言われました。

 本当に、サマリヤ人から妨げにあったような気持ちでした。もし、ヤコブやヨハネがいたなら、「天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言っていたかもしれません。しかし、私はそういう反対や疑問の声があったからこそ、考え、また、祈らされました。このまま、ずっと教団の中にいたら、「教会の理念や組織をどうしようか?」と悩むことはなかったでしょう。このまま私が停年退職になり、教団から新しい牧師が推薦されてくる。でも、それでは私が24年築き上げてきたものが水の泡になり、全く別の流れになってしまうでしょう。多くの人たちは亀有教会しか知りません。日本基督教団に属しながら、日本基督教団を知らないかもしれません。実は私が大事にしてきたものがあり、それを失わないで、次の世代に継承させていきたいのです。時間がないので2つだけ申し上げます。その第一が聖書信仰です。日本基督教団の信仰告白はすばらしいものです。「旧新約聖書は神の霊感によって成り、唯一の聖典なり、誤りなき規範」となっています。しかし、中味はどうかというと、神の霊感を信じていません。自然発生的に聖書の物語が生まれ、それが進化したと考えています。ですから、どこからどこまでが神のことばなのかわかりません。そして、「聖書は人間の所産であるけれど、聖霊によって神のことばになるのだ」とまで言います。そうなるとだんだん相対的になり、仏教や他の宗教にも神が啓示されており、キリスト以外にも救いがあると主張するようになります。違います。聖書は預言者や使徒たちが語ったとき、すでに権威ある神のことばだったのです。教会や神学者が決めたのではありません。教会はどこに土台を置くべきなのでしょうか?エペソ220「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」アーメン。第二は皮袋の問題です。教団の組織や制度が古くなっているということです。今でもジョン・カルバンが考えた長老制度を用いています。17-19世紀の曲を歌っています。会議や委員会を度々開いては「こうしよう、ああしよう」と決めています。しかし、実際に決める人とそれを行う人が違うのです。そこにかけるお金と時間があったら、もっと伝道や牧会に向けたら良いと思います。教会はキリストのからだです。いわば生き物です。からだである教会が、かしらであるイエス様に聞きながら、絶えず進むべきであります。教会は一体、だれが建てるのでしょうか?マタイ1618「私が私の教会を建てる」と書いてあります。当亀有教会は聖書を土台として、かしらなるキリストに導かれる教会を目指していきたいと思います。

3.弟子たるもの

 ルカ957-62「さて、彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」イエス様は今、エルサレムにまっすぐ向かっています。もう、無駄な時間はありません。そのとき、「あなたに従って行きたいです」という人がいました。また、イエス様の方から「わたしについて来なさい」と招かれたときもあります。これはイエス様の弟子とはどういうものなのかを教えている箇所です。イエス様はこれからどこへ行って、何をなさろうとしているのでしょうか?そうです。エルサレムに行って十字架で死ぬつもりなのです。すぐ死ぬわけではありません。不当な裁判を受け、鞭打たれ、辱めを受け、神からも人からも捨てられて殺されるのです。そのイエス様に従う弟子とはどのような資格がいるのでしょうか?

 少し前の箇所でイエス様はこのように言われました。ルカ9:23、24「イエスは、みなの者に言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。』」そうです。自分もイエス様と同じ、十字架を負う必要があるということです。この世の人たちも「十字架を負う」と言いますが、ちょっとニュアンスが違います。家族や親しい人の負い目や障害を背負うという意味に使われています。しかし、聖書の意味はそうではありません。十字架とは自分がかかる十字架です。イエス様に従って行ったら、イエス様と同じ辱めを受けたり、迫害を受けるでしょう。イエス様は自分を捨て自分を否定しました。つまり、私たちが負うべき十字架は迫害とか自己否定を意味する十字架です。ですから、イエス様の弟子になって着いて行くというのは、「イエス様を信じます」という決断だけでは足りません。「イエス様と一緒に死にます」ぐらいでないとダメです。ここに3人の言い訳、エクスキューズする人が出ています。一人目は、弟子になっても生活の支えがあるだろうかということです。福利厚生面はどうだろうか?家や車や給料は保証されているだろうか、ということです。二人目は肉親への情が第一になっています。イエス様は「死人は死人に葬らせ、あなたは出て行って福音を言い広めなさい」と言いました。三人目は後ろを振り返る人です。「あなたに着いて行きますが、ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください」と言うのです。おそらく彼は家に行ったら戻って来ないでしょう。なぜなら、家の者たちから「やめなさい」と、説得されるからです。

 きょうの午後、教会総会があります。「どうしても、そこに持ってくるのはいかがなものでしょう?」と反論が出そうです。きょうは大事なことを決断しなければなりません。そのとき、あなたは神さまに聞いて、決断しなければなりません。この三人の人たちのようであるならば、イエス様の弟子にはふさわしくありません。この教会で自分の生活、老後の問題は大丈夫だろうか?この教会で肉親はどう思うだろう。「カルトぽいからやめろ!」と言われるかもしれません。また、「従来の教会の方が良いのでは」と、後ろを振り返る人もあるいはいるかもしれません。イエス様は何とおっしゃったでしょう。ルカ9:62「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」これはどういう意味でしょう。昔は桑や鋤をもって畑を耕しました。しかし、多くの場合は、牛に鋤を引かせました。耕す人は前を向いていないとダメです。後ろを向いたらどうでしょう?腕も曲がってしまいます。すると、牛も曲がってしまって、畑の畝も曲がってしまいます。イエス様は「一旦はじめたら、うしろを振り返ってはいけない」とおっしゃったのです。すべてに時があります。1949(昭和24)年に初代の牧師、山下米吉先生がここで教会をはじめました。1987年に二代目の神川牧師が10年牧会された後、退職されました。そして、私が座間キリスト教会からこの教会に招聘されました。今から24年前のことです。その間に新しい会堂も建てられました。もう古くなりましたけど。すべてに時があります。

 ある先生が「リバイバルとは何ですか?」という質問に対してこう答えられました。それは聖霊の波に乗ることです。サーファーは手でパドリングしながら良い波を待っています。手で漕いでいる状態はリバイバルではありません。待っていると、良い波が来ます。「ああ、これだ」と思ったら、立ち上がり、その波に乗るのです。すると、波がものすごい勢いで自分を運んでくれます。これがリバイバルです。2000年には、日本に大きなリバイバルが来ると多くの預言者たちが言いました。しかし、リバイバルは来ませんでした。今、日本の教会はリバイバルではなく、サバイバル、生き残りをかけています。でも、亀有教会を振り返ると、小さな波がありました。それはブラックゴスペルの波に乗ったということです。2000年にKGC、ゴスペル・クワイヤーを立ち上げて40人以上の人たちが救われました。今、そういう人たちが教会の中軸を担っています。やっぱり、当教会に小さなリバイバルがあったのではないかと思います。でも、神さまは今後も、リバイバルの波を送ってくださると信じます。

 でも、リバイバルは受身的な面だけではありません。私たち個人個人の姿勢が大事です。もっと言うならリバイバルは個人から起こると信じます。ヨハネ7:38 「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」とあります。私は長い間、恨みとか怒りをエネルギーとして生きてきました。それが、1年半前、がらっと変えられました。過去から現在まで、すべての人を心から赦し、訴える証書を神さまの前に置きました。今は、神さまがくださる御国のエネルギーで生きています。もう、リバイバルは私の中から始まっています。私たちは毎週、「御国が来ますように」と賛美し祈っています。御国とは「神のご支配」という意味です。御国が一番最初に来るべきところはどこでしょうか?それは自分自身であります。まず、自分の中に神のご支配が来ることが最初であるべきです。それから、聖霊さまが私たちを用いて、私たちが行くところ、私たちが出会う人々に、御国をもたらしてくださるのです。ですから、私たちの祈りは、また教会の願いは、「御国をもたらすことができるように、私たちを用いてください」ということです。御国はまだ目に見えるかたちでは来ていません。でも、イエス様が来られてから、御国は私たちのただ中に来て、見えないところで拡大しているのです。御国は将来だけのものではありません。今、御国の喜びを味わい、御国の豊かさに預かることができるのです。「亀有教会は、これからどうなるのだろう?」と心配しておられる兄姉もおられるかもしれません。もう一度申し上げます。教会のかしらはイエス・キリストです。私たち一人ひとりが、キリストのからだです。どうぞ、神のことば聖書とかしらなる

キリストに導かれて、御国をもたらす教会として進んでまいりたいと思います。

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2011年4月10日 (日)

行いのない信仰      ヤコブ2:14-20

ヤコブの手紙は「行いのない信仰が、果たしてあるのか?」ということを問うている書物です。私たちはイエス・キリストを救い主として信じると救われます。これは最も基本的な信仰であり、これがないと天国にも行けません。マルチン・ルターは「信仰義認」、人は信じるだけで救われると言いました。私たちは救いを得るために、行いは必要ありません。これが、救いを得るための信仰です。でも、信仰はそれだけではありません。日々の生活の中で、「信仰によって生きる、信仰を用いて生きる」という面も忘れてはいけません。きょうは、「命のない死んだ信仰はどういうものなのか?」同時に、「命のある生きた信仰はどういうものなのか?」ということを共に学んでいきたいと思います。

1.役に立たない信仰

 ヤコブ2:14-17は、兄弟または姉妹のだれかが、着るものや日々の食べ物にこと欠いている状態にあります。その人に対してどうしたのでしょうか?リビングバイブルは16節をこう訳しています。「『それはお困りですね。でも神さまが、祝福してくださいますよ。暖まって、お腹いっぱい食べてください。では、さようなら』と言うだけで、実際に何もしないなら、そんな信仰が何の役に立つでしょう。」日本のことわざに、「絵に描いたもち」というのがありますが、「口先だけの信仰」と言って良いかもしれません。Ⅰヨハネ3:18「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか」と書かれています。使徒パウロも多くの手紙で、前半では教理的なことを教えていますが、後半はキリストの愛をもって生きるように勧めています。私たちの体を考えてみますと、頭があり、心があり、手足があります。頭では「ああ、こういうことで困っているんだなー」と状況がわかります。そして、心では困っている人の痛みを感じます。そして、最後は手足を用いて助けるわけです。でも、ある場合は、頭だけでストップしている場合、「可愛そうだなー」と心でストップしている場合があります。長年クリスチャンをやっていますと分かりますが、手足の行動まで行かないということがよくあります。私もその一人ですが、なぜでしょう?「それは、神さまがやってくれるだろう。神さまとその人の問題だ」みたいに考えてしまいます。まさしく、ヤコブ2:16の人物もそういう信仰者かもしれません。

 この度、「東日本大震災の被災者たちにどのような助けができるのか?」いろいろ考えさせられます。私は大きく分けて、3種類の人たちがいるのではないかと思います。第一は、「被災者たちが私の隣人である」と考えている人たちです。隣人というよりも、家族、親族、友人と言う方が良いかもしれません。特に岩手や宮城県の出身の方は、津波で失われた町や人々のことが自分の痛みや苦しみになっています。家族や親しい人が亡くなった場合は特にそうです。「関東の方で普通に暮らして良いのか、こっちの生活を捨てて助けに行くべきではないか?」という罪責感のような深いものがあるかもしれません。これは被災者たちと一体化している人です。第二は、「被災者たちは遠くの隣人である」と考える人たちです。自分の家はこっちにあるので、ほとんど被害にあっていない。テレビで被災者たちが大変だということを見たり、聞いたりしています。そのために、祈ったり、捧げたり、実際にボランティア活動に出かける人もいます。しかし、それぞれ、自分の信仰、自分のできる範囲で行っています。第三は、「被災者は日本人である」と考えている人たちです。日本に住んでいるある外国人は、一日も早く、母国に帰りたいと願っています。本当は帰りたいけどお金がないという人もいるかもしれません。クリスチャンでも「あの地震は世の終わりに起こる地震であり、人類へのさばきなんだ。日本人も早く悔い改めて神さまに立ち返るべきだ」と言う人がいます。確かに、聖書でそう言っているところもあります。でも、自分が被災したり、自分の家族や友人が被災したら、そうは言っていられないでしょう。こういうところでも、私たちの信仰のスタンスというか、行いが伴っている信仰なのか問われます。

 では、行いの伴う信仰、具体的な愛の行動が伴う信仰とはどういうものなのでしょうか?私たちは人を助ける場合、自分ができる範囲、自分が困らない程度で行います。募金にしても、ボランティア活動にしても、「まず、自分の生活があり、余裕があればそうしましょう」ということです。しかし、聖書で愛ということを言う場合、イエス・キリストが私たちのために十字架で死んだということです。父なる神さまは独り子を十字架で死ぬためにお渡しになりました。そして、御子イエスは自分の神としての立場、自分の義、自分の命を捨てました。すると、「愛というのは犠牲であり、痛みを伴うものなんだ」ということが分かります。私は境界線(バウンダリー)を持つということはとても大切だと思います。「人の問題と自分の問題、人の責任と自分の責任を分ける、線引きする」これはとても大切です。日本人はこの境界線があいまいで、他の人の重荷あるいは、神さまの重荷まで背負うときがあります。でも、この愛の行動ということを考えるとき、境界線だけでは説明できないと思います。自分の子どものことを考えると、ついつい、境界線を越えてしまいます。今回、ご自分の親族や友人が被災されている場合も同じことでしょう。そこで、私たちはどのくらい捧げたり、どのくらいボランティア活動等で援助すべきなのでしょうか?私はある程度、犠牲の伴う、痛みの伴うものが、本当の愛のわざではないかと思います。こずかい程度とか、時間があったらではなく、「ちょっと痛いなー」「この時間をなんとか工面しよう」というレベル。つまり、境界線を少し越えるくらいが妥当なのではないかと思います。私の場合だと、2枚あるコートを1枚差し上げる。2万円もらったけど、1万円を義援金にあてる。痛い!」どうぞ、少し痛みの伴う、具体的な行いによって隣人を愛したいと思います。こういう信仰が役に立つ信仰ではないかと思います。

2.二元論的な信仰

 ヤコブ2:18 さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行いを持っています。行いのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行いによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」ここは、異論があって、よくわからない箇所です。新共同訳聖書はこのように訳しています。18節、しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。つまり、どこからどこまでが筆者で、どこからとこまでが人の意見なのか明確でないということです。新改訳聖書は18節全部、人の意見になっているし、新共同訳聖書は「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」だけが、人の意見です。英語の聖書にも2つの立場があります。ギリシャ語の聖書は、句読点も鍵各個もありませんので、致し方ないと思います。私は文脈上、多少違いがありますが、「信仰か、行いか」ということを語っているのではないかと思います。つまり、ある人の意見は「信仰がある人と行いのある人の二種類が存在する」ということです。そうするとどうなるでしょうか?信仰があっても全く行いのない人がいる、あるいは信仰がなくても行いのある人がいるということになります。だから、ここで「行いのない信仰があるのだろうか」もし、あるんだったら、「行いによって信仰を見せられるのに」ということです。語っている私も、頭がおかしくなりそうですが、この人は信仰と行いを別物に考えているということです。信仰は信仰、行いは行いという二元論です。

 こういう考えはクリスチャンでも、ノンクリスチャンでもあると思います。つまり、信仰とは信じる心です。信仰は日本語で「信じて仰ぐ」と書きます。すばらしい漢字の構造だと思います。ある人は仏陀を信じて仰ぎ、またある人はご先祖様を信じて仰ぎ、またある人は刺抜き地蔵を信じて仰いでいます。これはいわば信心であり、宗教心です。そして、生活は自分が信じて仰ぐ神様が、きっと自分の生活を守り支えてくださるということでしょう。ある場所へ行って、「パン、パン」と手を合わせ祈ります。でも、目を開けて実際に生活するときは、ほとんど考えていません。自分の考えや経験で生きています。つまり、信仰と生活、信仰と行いが分離している状態です。困ったときだけ、お願する。しかし、うまく行っているときは、関心がありません。それがもっと極端になったものが、行いで生きている人です。神さまはいるにはいるけど、はるか遠くに存在しています。自分の生活を切り盛りするのは、自分であります。こういう人は、世の中の不正、不平等に対しても、なんとか取り組もうとしています。キリスト教会でも、「社会派」というのがあり、靖国神社問題、性差別問題、部落差別問題等に取り組んでいる教会があります。彼らは「一般の教会がなまぬるい、口先だけの偽善者だと言うかもしれません。信仰はあるかもしれせんが、あまり機能していません。いや、信仰は役に立たないと思っているのかもしれません。

 私は「信仰か行いか」ということを分けること自体が問題だと思います。私は本当の信仰というのは、その人の深い価値観、行動の規範ではないかと思います。つまり、人は心から信じていることに一致した行いをするのです。もし、行いがいい加減であるとすれば、本当に信仰があるか疑わしいことになります。つまり、行いは信仰の実であり、結果なのです。日本の学校教育とか親の躾は、表に出てくる行動や礼儀作法を重要視します。しかし、それは表面上のことなのです。もっと大切なのは、目に見えない価値観や動機であります。正しい行いをしても、動機が汚れている場合があります。ですから、私たちが信仰と言うとき、どういう神さまを礼拝しているのかということと関係があります。もし、私たちが信じている神様が、愛であり、真実であり、正義であるならば、自然にそういう生き方を目指すでしょう。イスラム教は左手にコーラン、右手に剣です。ですから、どうしても聖なる戦い(ジハード)が存在します。いや、私は「無宗教です。神を信じません」という人がいますが、そういう人は自分自身を神としています。インドネシアなどに行って、日本人が「私は無宗教です」と言ったとします。そうすると、現地の人は「この人は何をするか分からない危険な人物だ」と判断するそうです。なぜなら、神を恐れていないからです。つまり、その人が信じているものが、その人の生活や行いに現れてくるのです。だから、信仰と行いを分けること自体が不可能なのです。そして、信仰の実こそが、行いなのです。良い信仰であれば、良い行いが出てきます。イエス様はヨハネ15章でこのように言われました。ヨハネ15:5 「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」良いぶどうの木であるイエス様につながっていれば、豊かな実、行いの実を結ぶことができるのです。

3.観念的な信仰

 ヤコブ2:19「あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。ああ愚かな人よ。あなたは行いのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。」神さまを信じている人はいっぱいいます。いや、ほとんどの人が何らかの神さまを信じているのではないでしょうか?その証拠に、人が本当に困ったら「祈っています」「祈ってください」と言います。どの神さまなのか、だれの御名なのかは分かりません。とにかく、世界中の人は何らかの宗教を持って、それぞれの神さまを拝んでいます。ヤコブ2:19の人は、神さまが唯一であると信じています。この人は多神教ではありません。世界において、唯一神教は、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教です。ヤコブへの手紙はクリスチャンにあてた手紙なので、この人は唯一の神さまを信じているのではないかと思います。ヤコブは、「それは立派なことです。ですが、悪魔でさえもそう信じて、身震いしています」と皮肉たっぷりに言っています。これはどういう意味でしょう?ミッション・スクールを出た人は、こういう信仰を持っています。彼らのカリキュラムの中にはキリスト教教育があります。そこでは聖書も勉強するし、礼拝の時もあるでしょう。でも、何が足りないのでしょうか?学校では神さまの存在は教えるかもしれません。しかし、その神さまに帰依して、従うことは選択の自由なのです。つまり、キリスト教は1つの学問であり、人間がより良い生活をするための道具なのです。道具などと言うと怒られるかもしれません。道具ではなく、ソフト・ウェアーの方が現代的で良いでしょうか?聖書の神さまを学校で勉強することは悪くはありません。有神論的な価値観を持つことは良いことです。でも、それは観念的な信仰であり、実際の生活とはかけ離れたものです。私も神学校に行って、「神様は無限で遍在、全知全能、聖なるお方である」と習いました。ここで1時間くらい組織神学を語ることもできます。しかし、生活費が足りないということと神が全知全能であることはほとんど関係がありません。これが観念的な信仰です。ミッション・スクールで聖書を勉強することは悪くはありません。良いことです。でも、その信仰は頭だけであり、生き方にまでなっていないということです。

 悪魔でさえも、神はおひとりだと信じています。しかも、そう信じて身震いしています。では、悪魔は神さまの存在は信じてはいるけど、何をしないのでしょうか?そうです。その神さまに従っていません。悪魔は、むしろ、逆らっています。ここで1つ質問があります。「私は神様を信じています。でも、力がありません。すぐ、誘惑に負けて罪を犯してしまいます。」そういう人は何が足りないのでしょうか?そうです。本当の信仰とは、神さまの存在だけをただ信じるのではありません。本当の信仰は神さまに従うという要素がどうしても必要なのです。私は神様を信じるけど、神様には従いませんというのはありえないのです。では、どうしたら悪魔や誘惑に打ち勝つ信仰を持つことができるのでしょうか?ヤコブ4:7,8「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」これはどういう意味でしょう?私たちが神さまに従えば従うほど、悪魔に立ち向かう力が増すということです。つまり、神さまにちっとも従わないならば、悪魔や誘惑には、立ち向かえないということです。ある人たちは、「私は信仰が弱いのです。信仰を増して下さい」と言います。気持ちは分かりますが、その前になすべきことがあります。私たちは神さまに従うことを第一に求めるべきです。そうすると、何があっても大丈夫だ、という信仰が増してくるのです。神さまにちっとも従わないで、信仰を増してくださいというのは不可能です。

これは1つのたとえ話です。ある人が二階建ての大きな家を建てました。その家には1階に部屋が5つ、2階に5つありました。彼はイエス様をそのお家にお招きしました。彼はイエス様に「1階のどの部屋にも入っても構いませんが、2階には上がらないでください」と言いました。あるとき、悪魔がやってきました。彼が1階にいたので、イエス様が悪魔を追っ払ってくれました。しかし、あるとき、悪魔は2階にやってきて、2階に住んでいたその人を攻撃しました。彼は「イエス様助けてください!」と叫びました。しかし、イエス様は「私は2階には上れません」と言いました。そのため、その人は悪魔にけちょん、けちょんにやられてしまいました。そこで、彼はイエス様に「2階の4部屋まではどこにも入っても結構です。でも、端っこの1部屋だけは私の秘密の部屋なので、そこにはお入れできません」と言いました。あるとき、悪魔は2階の秘密の部屋に入ってきました。彼は「イエス様、助けてください!」と叫びました。しかし、イエス様は「他の部屋はともかく、その部屋だけは入ることができません」と言いました。そのため、その人は悪魔に前よりもひどく打ち叩かれてしまいました。彼は最後にどうしたでしょう?1階のすべての部屋も、そして、2階のすべての部屋にも入ることを許可したのです。そして、イエス様が単なる客人ではなく、すべてを治める主人になってもらいました。その後、度々、悪魔がやってきましたが、その都度、主人であるイエス様が悪魔を追っ払ってくださいました。これはどういう意味でしょう?家とはあなたの心です。あなたの心にはきっといろんな部屋があると思います。仕事の部屋、趣味の部屋、夫婦生活の部屋、教会生活の部屋、娯楽の部屋、インターネットの部屋、ショッピングの部屋、祈りの部屋、夢の部屋などがあります。もしかしたら、あなたはこの部屋は入っても良いけど、この部屋だけは絶対だめですとイエス様におっしゃってはいないでしょうか?そこだけは覗かれては困るのです。そこだけは触れられては困るのです。でも、どうして力がないのでしょうか?どうして誘惑に負けてしまうのでしょうか?その部屋を悪魔が支配しているからです。あなたは自分が支配しているつもりでも、実は悪魔の支配下にあるのです。悪いとは思っても直せない、変えたいと思っても変えられないのです。本当の信仰とは何でしょう?すべての心の部屋をイエス様に明け渡すことです。イエス・キリストはあなたの主人であり、王様です。イエス・キリストは、あなたの価値観の中心であり、人生そのものなのです。どうぞ、心のすべての部屋をイエス様におゆだねしましょう。

 ある人はプライドを捨てることができません。またある人はお金を捨てることができません。またある人はスティタス、自分の身分を捨てることができません。またある人は自分の好みや趣味を捨てることができません。またある人は秘密の喜びを捨てることができません。しかし、それらのものは神さまよりも大事な偶像です。偶像礼拝は大きな罪です。どうぞ、偶像を壊して、神さまを第一にしましょう。そうすれば、健康な信仰、力ある信仰、きよい信仰が生まれてきます。イエス・キリストを心の王座にお迎えいたしましょう。「では、一体何を楽しみに生きていくのか?」と文句を言う人がいるかもしれません。最後に詩篇のみことばをお読みいたします。詩篇37:4-6「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。」

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2011年4月 3日 (日)

あわれみは裁きに勝つ   ヤコブ2:8-13

先週、私たちは奴隷ではなく、私たちは王子あるいは王女であることを学びました。奴隷というのは生き延びるために生きています。絶えず人と競走して、損した、得したという世界です。しかし、奴隷の私たちは十字架と共に死んだのです。その後に、キリストとよみがえり、私たちは王子あるいは王女になったのです。私たちは自分が誰か、自分のアイディンテティを知る必要があります。なぜなら、私たちは自分のアイディンテティのように生きるからです。この世は「何ができるか、何を持っているか」で人の価値をはかります。それは、いわば奴隷に対する評価です。それよりも大事なのは、自分はだれかという身分です。王子や王女の身分があれば、「何ができるか、何を持っているか」は二の次です。なぜなら、そういうものは他から与えられるからです。きょうは、王子もしくは王女として生きるために大切なことを学びたいと思います。

1.王の律法を守る

 ヤコブ2:8 「もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いはりっぱです。」ここに、「最高の律法」と書いてありますが、原文は「王の律法」です。欽定訳聖書は、Royal(高貴な)となっています。つまり、神さまが王様ですから、その律法は「王の律法」ということになります。しかし、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」が、なぜ、最高の律法、王の律法なのでしょうか?最も、大切な律法は、神さまを愛することではないでしょうか?イエス様は福音書で「第一の戒めは心を尽して主なる神を愛すること、第二の戒めは自分のように隣人を愛することである」と教えてくださいました。イエス様は数ある律法をたった2つにまとめたのですから、すごい知恵です。ところが、パウロの書簡を見ると、ヤコブ書のように「隣人を愛せよ」という1つの戒めになっています。ローマ13:9「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということばの中に要約されているからです。ガラテヤ514「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語をもって全うされるのです」と書いています。これはどういう意味でしょうか?本当に隣人を愛するならば、罪を犯さなくなるということです。愛は律法を全うするのです。日本の検察庁や警察に声を大にして、言いたいです。いくら罰則を厳しくしても犯罪はなくなりません。人が隣人を愛するようになれば良いのです。学校でも家庭でも、会社でもどこでも、隣人を愛することを教えれば良いのです。でも、それはイエス・キリストを信じて新しく生まれなければ与えられない性質です。

 では、どうして、主なる神を愛することが省略されて、隣人を愛することが第一になったのでしょうか?その答えがⅠヨハネ1-5章に書いてあります。簡単に言うと「神から生まれた者は、兄弟を愛する。神の愛を受けた者は、兄弟を愛するのが当然だ」ということです。では、どのようにして、その人が神さまを愛していることがわかるのでしょう?それは、あなたの隣人をあなた自身のように愛しているかどうかで分かるということです。ザアカイという取税人の頭がいました。彼はとても利己的な人で、人々からお金を巻き上げていました。しかし、イエス様をお迎えして食事をしたのち何と言ったでしょう?ルカ19:8「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」別にイエス様がザアカイに命じたわけではありません。ザアカイ自身の中に、貧しい人たちに対する愛と正義の心が芽生えたのです。それで、イエス様は彼に「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから」と言われました。つまり、ザアカイが変えられて愛の人になったのは、救われた結果であり、実なのです。つまりこういうことです。あなたが「もし本当にイエス様を信じているなら、神さまを愛しているその証拠を見せてください」と問われたとします。それは、あなたの隣人を愛しているかどうかで分かります。私たちは教会に来て、「主よ、あなたを愛します」と礼拝を捧げるかもしれません。しかし、お家に帰ってから、妻や夫と争い、兄弟喧嘩をするなら、神への愛は本物かどうか疑わしいと言わざるをえません。ローマ人への手紙もガラテヤ人への手紙も、そしてこのヤコブの手紙もみんな、救われた人たちに対するものです。今さら、神さまを第一に愛しなさいとは命じてないということです。

最初に、これは「王の律法」であると申し上げました。すると、その対象は王子であり、王女です。王様が王子や王女に、「この私を心を尽し、思いを尽くし、力を尽くして愛しなさい」と命じるでしょうか?そうではなく、私を本当に愛しているなら、「あなたの隣人を自身のように愛しなさい」と言われるでしょう。救われる前は、私たちは奴隷のような生活をしていました。「え、私は奴隷じゃありませんよ」と反発するかもしれません。先週紹介した『王家の者として生きる』の本の巻末に「王子・奴隷テスト」があります。では、奴隷が持っている性格、生き方とはどういうものでしょうか?とりあえず10ケあげてみます。○皮肉的な冗談を言って、人々を傷つけることがある。○セールや安売りで物を買うのが好きだ。○自分は不十分、力不足だという思いに葛藤することがある。○知らず知らずに周りの人と競っている。○鏡で自分自身をよく見る。○他人と自分を比べる。○金持ちや成功している人々と一緒にいるのが苦手である。成功したり自分の上に権力を持っている人に対して反抗する傾向がある。○一生懸命頑張っても功績が上がらないと落ち込む。○人に物をあげるのは好きだが、人からされるのは恥ずかしい。○一緒にいて居心地の良い友だちは、傷ついている人たちだ。全部で40項目ありますが、クリスチャンになる前の自分はまさしくそうでした。でも、まだ半分くらいは解放されていませんでした。では、王子が持っている性格、生き方とはどういうものでしょうか?とりあえず10ケあげてみます。○他人に投資し、彼らが自分を越えて成長して行くのが喜びだ。○会話の中で相手に花を持たせる。○自由な発想を持った人、創造的な人といるのが好きだ。○自分が大好きだし、神が私を喜んでおられるのが分かる。○誰といても、心地よい。○高級レストランや上流な所に行っても、また高級品を身に着けていても後ろめたい思いはない。○人を力で押し付けるのではなく、彼らを力付けるのが喜びである。○人間関係におけるそれぞれの違い、ユニークさが大好きである。○自分とは違う見解や意見をもっている人をあえて自分のチームに選ぶ。○他人の勝利を共に喜ぶことができる。

「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」。これが最高の律法であり、また王の律法でした。あなたの隣人を愛する前に、どういう人でなければならないのでしょうか?そうです。自分を正しく評価し、正しく愛している人です。もし、自分が奴隷であるならば、絶えず人と競いあって、ある場合は蹴落とすかもしれません。人の不幸は自分の喜びです。そのような奴隷は、隣人を傷つけることはあっても、愛することは不可能です。しかし、キリストによって贖われ、自分が王なる神の息子、娘になったらどうでしょうか?つまり、自分が王子、王女であることをしっかり認め、そのように生きている人です。そのような人は隣人を大切にして、争ったりはしません。隣人が益になるために喜んで助けると思います。つまり、自分が王子、王女でなければ、王の律法を守ることは不可能なのです。人というのは、自分が自分をどう思っているか、それに従って行動するものです。自分を卑しくて貧しいと思っていたら、隣人を愛する余裕なんかありません。他の人はどうでも良いのです。一人でもいない方が、自分の食いぶちが守られるからです。でも、王子・王女であるなら、どうでしょう?彼らは御国が無限に豊かであり、王なる神さまがいつも供給してくれることを確信しています。「一人でも多くの人が、御国の豊かさに預かってほしい」これが彼らの願いです。御国にこれ以上、人が入ったら困るのでしょうか?そうではありません、御国の豊かさは無限です。私たちは御国の王子であり、王女なのです。自分を正しく評価しましょう。正しい評価とは、自分が王子である王女だということです。そのように自分を扱い、そのように生きるならば、この戒めを全うすることが可能になります。

2.あわれみは裁きに勝つ

ヤコブ2:13「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです」。直前のヤコブ2:9-11には、「律法は1つでも違反したら、全部の律法を犯したことと同じである」と教えています。その中に人をえこひいきする罪も含まれています。えひきいきは、小さな律法のように思えます。それよりも、姦淫や殺人罪がはるかに重いように感じます。小さな律法を破っても、やはり律法の違反者になるということです。大体、この世で問われるのは刑法にあたる罪です。強盗、殺人、誘拐、詐欺、放火などは重いでしょう。でも、キリスト教会ではえこひいき、不品行、悪いことば、人を赦さないことも罪になります。おそらく、この世においては軽い罪であり、あるものは罪にもならないかもしれません。でも、大切なのは神さまの前では、大きい罪も小さい罪もないということです。私たちはクリスチャンになる前、たくさんの罪を犯しました。また、現在も何か犯しているかもしれません。また、天国に召されるまで罪を犯す存在です。身分的には聖徒であり、王子であり王女です。でも、大なり小なり、罪は犯すのです。わざとではなくても、過失で犯す罪もあります。私のような話し家は、ものごとをオーバーに話す傾向があります。どうしてもみなさんを感動させ、動機付を与えるために、米粒ほどのことをリンゴ大にして話すかもしれません。しかし、それはウソ、虚偽の罪です。商売人は商品の欠点を隠して、良い点だけを並べるかもしれません。女性は体重や年齢を少なく言うかもしれません。では、これからも罪を犯す可能性がある私たちには何が必要なのでしょうか?そうです。主のあわれみが必要なのです。律法に照らし合わされたら、誰ひとり罪のない人はいません。感謝なことに、救われた私たちが持っているのは、主のあわれみです。イエス様が十字架で私たちの罪の身代わりに死なれたので、私たちはもうさばかれないということです。これから先、どんな罪を犯してもさばかれないのです。イエス様は私たちの一生分の罪の贖いの代価を前もって払ってくださったからです。

 でも、1つだけ例外があります。ヤコブ2:13「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです」。私たちが神さまからあわれみを受けているのに、隣人に対して、そのあわれみを与えない場合です。つまり、神さまの代わりに律法を手に取って隣人をさばくという行為です。私たちが避けるべきことは、他の人の罪を赦さないという罪です。もし、あわれみをかけないならば、どうなるでしょうか?マタイ18章の後半に、1万タラントをいう巨額の借金を王様から赦されたしもべが、100デナリの友人の借金を赦さなかったという物語があります。彼は、王様から呼び出され、こういわれました。マタイ18:33-35 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」獄吏とは、サタンの使いであり、その人の肉体、精神、霊を拘束することができます。神さまが直接、手を下すというよりも、さばきを受け持つ専門家に引き渡すということです。私は、時代劇を時々見ます。この前、テレビで大岡越前を見ました。最後に「しらす」という場面があります。だいたい下手人は白を切ります。すると、証拠が上げられたり、どこからか証人が連れてこられます。さばきが下されると、棒を持った下役たちが下手人を連れていきます。磔獄門になる場合もあるし、牢屋に入れられる場合もあります。牢屋に入ると牢名主がいて、さんざんいじめられます。大岡越前は直接、犯罪人を罰しているのではなく、下役、つまり獄吏がそれをするのです。しかし、それでドラマは終りません。下手人の隣には、濡れ衣を着せられた人が座っています。大体そういう人たちは善良な人たちで、だれかをかばったり、罠にかけられた人たちです。すると大岡越前はその名のとおり「大岡さばき」をします。軽いおとがめを与えるくらいで、無罪放免にします。つまり、大岡越前の場合はあわれみの心があるのです。白を切る犯罪人に対して容赦はしませんが、犯罪に巻き込まれた人にはあわれみの心があります。私は時々、テレビの前で、うかつにも涙を流したりします。「悪い人をちゃんとさばいて欲しい」という欲求が満たされます。

 それでは「あわれみはさばきに勝つ」とはどういう意味でしょうか?これは本当に解釈の難しい箇所です。「勝つ」という元々の意味は、「誇る」「自慢する」という意味です。それが強調されて、「勝ち誇る」と言う風になっています。何故、あわれみは、さばきに対して勝ち誇るのでしょうか?文脈から言うとおそらくこういう風になるのではないでしょうか?やがて私たちは神さまの前に立ちます。そのとき、神様のさばきがあります。でも、新約聖書を見ると分かりますが、クリスチャンは神さまの怒りを受けるのではなく、キリストのさばきの座の前に立ちます。そのさばきは地獄とか天国を決めるさばきではなく、いかに忠実であったかを審査するさばきです。その中で「あなたはあわれみをかけて、人の罪を赦してやりましたか?」と問われるでしょう?もし、あわれみをかけ、人の罪を赦していたらどうなるでしょう?そういう人にイエス様は「すごい、よくやったね」とハイタッチしながら誉めるでしょう。この時こそ、あわれみがさばきに勝ち誇る瞬間です。でも、中には救われていても、あわれみかけず、人の罪を赦さないまま、主の前に立つ人もいるかもしれません。そういう人は、さばきのほうがあわれみに勝ってしまうのです。その人は「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか」と言われます。そして、どうなるでしょう。御国には入れるかもしれませんが、報いは少ないでしょう。大邸宅ではなく、バラック(兵舎)かもしれません。その人は御国で1000年間、恵まれない生活をし、その後、新天新地に入るのではないかと思います。

 でも、人の罪を赦さない、つまりあわれみをかけない心は、地上の生活でも大きな影響を与えます。マタイ525,26「あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。」1コドラントとはローマの貨幣の最小単位で、ユダヤのレプタ2枚分にあたります。罪に対する裁きは、最後の1コドラントまで支払わなければなりません。もし、私たちが他者の罪を赦さない、あわれみを示さないなら、どのようなことが起こるかご存知でしょうか?先ほど、私たちも天国に行くまで罪を犯す存在であると申し上げました。もし、人の罪を赦さない人が、罪を犯したらどうするでしょう?その人は、「どうか私の罪をお赦しください」と神さまに出づらくなります。主の祈りは「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」となっています。つまり、人の負い目、罪を赦しているからこそ、自分が犯した罪を赦してくださいと祈れるのです。ケネス・ヘーゲンの本『愛に至る道』にこのようなことが書いてありました。「みなさんはお気づきかどうか知りませんが、あわれみのないことと人を赦そうとしないこととは、私たちが神から受け取ることを妨げ、また私たちが霊的に成長することも妨げるのです。赦さない思いは、私たちが神の望んでおられる仕事に就くのを妨げ、私たちが神の望んでおられる性格の者となるのも妨げるのです。」私たちは表面的には赦しているつもりでも、心に恨みを抱いている場合があります。聖書は「あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません」と言っています。私はパソコンの中に、「1クリック最適化」というソフトを入れています。パソコンを使っていると、ファイルやプログラムの残りがだんだん溜まっていきます。インターネット開いただけで、何かが残るのです。しかし、「1クリック最適化」を押すと、システムが掃除されて、早く動きます。あなたはだれかに対して恨みを持ってはいないでしょうか?あなたは小さな恨みや小さな赦さない思いはたいしたことがないと思っているかもしれません。でも、それがクリスチャンとしての歩みをダメにしているのです。私たちの信仰を破壊しているのは大きな罪ではありません。処理していない多くの小さな罪なのです。それがあなたの信仰を働かなくさせ、あなたの祈りを聞かれなくさせているのです。どうぞ、小さな恨み、小さな赦さない罪を神さまの前に差し出し、キリストの血によって掃除してもらいましょう。

 みなさん、神さまの性質は何でしょうか?神さまの性質はあわれみの心です。あわれみ深い神さまだからこそ、「仲間をあわれんでやるべきではないか」とおっしゃっておられるのです。あわれみとは何でしょう?赦しとは何でしょう?向こうが謝ったら赦すというのではありません。向こうが全く謝る気がない、あるいはちっとも悪いと思っていない。そういう罪に対して、赦してやることがあわれむということです。イエス様は十字架で自分を殺そうとした人たちに何と祈られたでしょうか?「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」この祈りは、イエス様だからできたのでしょうか?執事の一人ステパノも同じように祈りました。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」私たちは神さまの息子、娘であります。何度も言いますが、神様は王様ですから、私たちは王子であり、王女です。ですから、王なる神さまと同じ心、同じ性質を持っているはずです。この性質は生まれつきの性質ではありません。生まれつきの性質は、やったらやり返すという奴隷の性質です。しかし、私たちが御霊によって生まれ、神の子となり、新しい性質が与えられました。神を愛する人は兄弟をも、姉妹をも愛するのです。なぜなら、神の種が宿っているからです。どうぞ、隣人の罪を赦し、明るい、すがすがしい信仰を持とうではありませんか。そうするなら、あなたの祈りはいと高い所に届くのです。私たちは既に、王子であり、王女なのです。王様と同じ、愛と赦しとあわれみの心を持っているのです。あわれみの心を日々の生活の中で表していきましょう。

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