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2011年4月24日 (日)

エマオの途上の二人     ルカ24:25-32

先週の日曜日は当教会において歴史的な日でした。日本キリスト教団との被包括関係を解いて、独立した教会として歩むということを決議したからです。総会では、現住倍餐員123名のうち、39名が参加しました。そして、38名が賛成し、前に出て署名捺印されました。みなさんが1つ心となって、「新しい教会を目指すんだ」という熱意がそこに現れていました。ある人が、「日本キリスト教団というブランドをなくしても良いのですか?」と言いました。私は「ああ、そうか教団はブランドなのか、少しおしいなー。これからは無印良品か」とちょっとだけ思いました。でも、それだけ私たちは、「聖書とかしらなるキリストとに聞き従う」という、良い緊張感が与えられたのではないでしょうか?きょうは、イースター(復活祭)です。ルカ24章から「聖書とかしらなるキリストとに聞き従う」とは、どういうことなのか共に学びたいと思います。

1.共に歩まれるイエス

イエス様は日曜日の朝、墓からよみがえりました。復活のニュースを聞いたにもかかわらず、とぼとぼと西の方角に歩いている二人の弟子がいました。一人はクレオパで、もう一人は名前がわかりません。なぜ、聖書に名前が書かれていないのでしょうか?それは、あなたの名前を入れるためであります。クレオパとあなたがエマオという村に向かって歩いているんだと想像してみましょう。エマオはエルサレムの西へ11キロくらい離れています。時は午後4時か5時頃、もうすぐ日が落ちるかもしれません。彼らは夕日が落ちる西の方角に向かって歩いています。どうでしょう?朝日に向かって歩くのと、夕日に向かって歩くのと、どう違うでしょうか?朝日に向かって歩くのは希望があります。なぜなら、これから日が昇るからです。でも、夕日に向かって歩くと、だんだん日が沈んで、暗くなります。ということは、失望とか落胆を表すのではないでしょうか?まさしく、エマオの途上の二人は、失望と落胆の心の状態でありました。イエス様がよみがえったというニュースを聞いていたにもかかわらず、失望と落胆の人生を歩んでいたのです。

この世のほとんどの人は、「イエス・キリストが死んで3日目に復活した」ということを知っています。どうでしょう?信じる、信じないは関わらず、キリストは復活したということを知的に知っているのではないでしょうか?ちなみに、機械が壊れてダメになったとき何と言うでしょうか?テレビが壊れて映らない、エンジンが壊れて動かない。そういうとき、日本では何と言うでしょうか?「おしゃかになった」と言わないでしょうか?仏教の人には大変失礼ですが、「おしゃかになった」とは、もう死んだという意味です。しかし、怪我などの故障で休んでいた野球のピッチャーがマウンドに再び立つとき何と言うでしょうか?「復活した」と言うでしょう。私は牧師として、復活よりも「キリストになった」と言うべきだと思います。そうです。お釈迦様は死にましたが、キリストは死んで三日目に復活し、今も生きておられるのです。ハレルヤ!

キリストは死んで、よみがえり、今も生きておられるというのに、この二人はどうでしょうか?ルカ2415-24「話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」イエスが、「どんな事ですか」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」

 二人は「イエス様は死んだけれど、三日目によみがえったらしい」というニュースを聞いてはいました。しかし、暗い顔をしていたのです。なぜでしょう?それを信じていなかったからです。キリストが復活したのに、自分の人生は相変わらず希望のない人生を日没目指して歩んでいる。日没とは人生の終わり、死であります。私は57歳ですが、人生の何時頃でしょう?6時が死の日没だったら、おそらく、4時半くらいでしょう。みなさんの中には、5時50分の人もいますか?時間はともかく、この世の多くの人たちは死を目指して歩んでいます。キャンディースのスーちゃんが亡くなりました。55歳でした。私とあまり変わりありません。彼女のように4時半くらいで亡くなる人もいるのです。しかし、良い知らせがあります。まだ、復活を信じないで、日没に向かって歩いている二人の真中に、イエス様が入って来られました。不思議なことに、彼らの目がさえぎられてそのお方がイエス様だと分かりませんでした。ただの通行人の一人だと思ったのです。みなさんも道を歩いていると、同じ方向に無言のまま歩いている人がいるでしょう。その人との面識はありません。ただ、同じ方向に歩いているという感じです。突然、その人が「あなたがたは、何を話しておられるのですか?」と会話に入ってきました。二人は、イエス様が十字架でつけられ死んだこと。そして、きょうの朝、墓に行ったけど死体が見つからなかったことなどを告げました。おそらく、暗くてけげんそうな顔つきで答えたのでしょう。ここでの良い知らせは何でしょう?復活のニュースは聞いていたけど、それを信じることができず、日没の人生を歩んでいる。しかし、よみがえられたイエス様が共に歩んでくださっているということです。イエス様はご自分を信じない人の近くを今も、歩んでおられるということです。これは良いニュースではないでしょうか?

2.聖書を解き明かすイエス

 二人の間に入られたお方が、何やら語り始めました。ルカ24:25-27「するとイエスは言われた。『ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。』それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた」。二人はきっと、びっくりしたことでしょう。懇切丁寧にエルサレムで起こった出来事を知らせたのに、開口一番「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち」とは。「自分を何様だと思って?」とむかついたかもしれません。でも、そのお声に、不思議な権威がありました。そして、続けざまにモーセの書から、預言書、聖書全体の中で、キリストの苦しみと復活について教えてくれました。当時はまだ旧訳聖書しかありませんでした。モーセとはモーセ五書、つまり「創、出、レビ、民、申命記」です。創世記3章の女の末がへびのかしらを打ち砕くとか、出エジプト記の一才の羊を殺して、血を塗ること、レビ記の血を流さなければ罪の赦しはありえない。あるいはアブラハムの神、ヤコブの神、イサクの神は生きておられるなどと語ったかもしれません。預言書といったら、イザヤ書が有名です。受難と復活のことが書かれています。聖書全体というと詩篇も含まれるでしょう。そこにも、受難と復活のことが預言されいます。

 たぶん、道すがら1時間か長くて2時間、聖書を解き明かしてくれたのかもしれません。なんとリッチな時間だったでしょう。イエス様がご自分の苦しみと復活の意味を聖書から語ってくれたのです。いやー、うらやましいですね。彼らはそのとき、どう思ったでしょう。ルカ24:32そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」「心はうちに燃えていた」と書いてあります。面白い表現ですね。「心が燃えていた」というのはわかりますが、「心はうちに燃えていた」とはどういう意味でしょう?英語ではon fire、burningです。人は感動したときとか、恋に陥ったとき、心が燃えるような感じがします。二人はイエス様が聖書を解き明かしているとき、そういう感じがしたのです。イギリスのスポルジョンは青年のとき、ある教会に行こうと思いました。しかし、吹雪によって阻まれ、小さな教会に飛び込みました。そこには牧師が来れなかったのでしょうか?信徒が説教していました。それは説教というものではなく、イザヤ書のある箇所を何度も連呼していただけです。しかし、スポルジョンの心がうちに燃える経験をしました。彼は子どものころから教会に行っていたので、キリストの十字架と復活の出来事は知っていました。しかし、そのとき「ああ、キリストは私の罪を負い十字架にかかり、私が生きるために復活したのだ」ということが分かったのです。これが、スポルジョンの回心であります。ジョン・ウェスレーもロンドンの町で司会者がルターのローマ書講解を読んでいるとき、心はうちに燃える経験をしました。彼はそれから救いの福音を力強く語る説教者になりました。

 どうでしょう?みなさんは聖書のみことばを読んだとき、あるいはだれかがみことばを語ったとき、「心はうちに燃えていた」という経験をされたことがあるでしょうか?鈴木牧師の説教を聞いているとき、「心はうちに燃えていた」。アーメン。あると思います。それも良いですが、みなさんが一人でディボーションしているとき、そういう体験をなされたらもっと良いですね。ヨハネ16:13「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」アーメン。復活のイエス様は今、真理の御霊としてみなさんのところを訪れています。まるで家庭教師のように、あなたの傍にいて、あなたに聖書のみことばを解き明かしてくださいます。ある人たちは「自分一人で聖書を読むと、誤って解釈するかもしれない。だから、教会へ行って牧師や教師のご指導のもとで読まなければならない」と思っているかもしれません。そういう人はカトリック教徒かもしれません。プロテスタント教会にもそういう人がいたら大変不幸です。聖書はとてもわかりやすい書物です。もちろん、わかりにくいところもたくさんあります。矛盾しているでしょうか?全部、理解しようとするから壁に突き当たるのです。みなさんはアジとかサンマを食べるとき、頭から丸かじりして、尾っぽまで食べる人がいるでしょうか?ししゃもくらいなら出来るかもしれませんが、普通、骨は皿の脇にどかして、柔らかい身を食べるでしょう。聖書のみことばもそれで良いのです。しかし、そのとき、真理の御霊、復活のイエス様が「このみことばはあなたにとってこういう意味ですよ」と教えてくださいます。それは単なる解釈ではありません。あなたの人生にとって、指針となる、いのちとなることばです。あるときは励まされ、あるときは慰められ、あるときは信仰のチャレンジが与えられるでしょう。これこそが心はうちに燃える経験なのです。どうぞ、聖書を開いてイエス様に聞いてください。今もイエス様は生きておられ、あなたに聖書のみことばを解き明かしてくださいます。そして、心がうちに燃える経験を何度も何度も与えてくださいます。

3.パンを渡されるイエス

 ルカ24:29-31「それで、彼らが、『いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから』と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。」もう、ご一行はエマオに着いたのでしょうか?それとも途中なのでしょうか?とにかく、日が傾いたので、歩けなくなり、宿を取ることにしました。二人は強いて、その方を宿に案内し、一緒に食事をしました。その方がパンを取って祝福し、裂いて二人に渡されました。するとどうでしょう。二人の目が開かれ、その方がイエス様だと分かりました。「えー、今頃?」と私たちはびっくりします。しかし、マルコによる福音書には「イエスは別の姿でご自分を現されていたから」と書いてあります。ルカ福音書は「ふたりの目がさえぎられていて、イエス様とわからなかった」と書いてあります。しかし、イエス様がパンを裂く仕草を見て、「ああ、イエス様だ」と分かったのかもしれません。イエス様には独特なパンの裂き方があったのでしょうか?右から左に裂くとか、左から右の方へ裂くとか、それとも前後に裂くとか。そうではないと思います。イエス様と二人が交わっているときに目が開かれたのでしょう。聖餐式はホーリー・コミュニオンと言います。communionとは、親交、霊的交わりという意味です。ちなみにcommuneとは生活共同体、親しく交わる、共有するという意味があります。つまり、イエス様との食事は、イエス様と親しく交わるということです。イエス様は聖書でよく一緒に食事をしています。弟子たちとだけではなく、取税人や罪人たちとも一緒に食事をしています。ザアカイはそのとき回心しました。ペテロはそのとき、「イエス様を愛します」と告白して癒されました。

 ある人たちは、聖書のみことばで満足しています。特に、みことばを大事にする聖め派の教会はみことば体験を非常に大切にします。もちろん、それも重要ですが、三番目の体験はイエス様と親密な関係です。ある人たちはイエス様を「イエスは」「イエスは」と呼び捨てで言います。その人は道で一緒にあるいておられるイエス様でしかありません。またある人は「聖書に感動した」「聖書でイエス様のことが分かった」というレベルかもしれません。しかし、もっと深い関係があります。それは、あなたの生活すべての場に、友なるイエス様として歓迎することです。あなたは、イエス様といると楽しいでしょうか?それとも、イエス様といると堅苦しいでしょうか?私たちの関係でも、気を使っているうちは疲れます。しかし、もう気を使う必要がないくらい親しいとどうでしょうか?時間を気にしません。ことばも、表現も、態度も気にしません。それだけ親しいからです。私はテレビをみていて、「ああ、馬鹿だなー」と言います。家内は、「あなたは今、馬鹿と言ったわよ」と言います。私は「そうなんだよ、日本人は馬鹿なんだ」と改めて言います。私も日本人なのに…。私は、他の人の前ではそんなことは言いません。でも、私と一緒にご飯を食べたら、そういうことを言うかもしれません。大体、ご飯を食べているという時は、心が開いている状態です。良いものも、悪いものも心の内側から出てきます。そのため、躓く人も出てくるかもしれません。でも、逆に言えば、それほど親しい関係だということです。イエス様はあなたとそのような関係を持ちたいのです。気を使わないで何でも、話せる関係です。そうすると、あなたのイエス様に対する見方が変わります。霊的に目が開かれるからです。

 二人はその後、どうしたのでしょうか?宿に泊まったのでしょうか?いいえ、今来た道を引き返してエルサレムに戻ったのです。信じられますか?10キロ来た道をまた引き返したのです。彼らはエマオに何をしに来たのでしょう?エルサレムを離れることは何を意味していたのでしょう?そして、今度、エルサレムに戻るとは何を意味することなのでしょう?なぜ、イエス様はエマオの途上の二人に出会って、そんな長い時間を彼らのために費やされたのでしょうか?実は、イエス様の二人に対する計画があったからです。二人はエルサレムに戻って、11使徒に復活のイエス様と出会ったことを話したでしょう。なんと、エルサレムで再びイエス様が現れてくださいました。そして、また、ご自分が受けた苦しみとその復活を聖書から教えました。その後、イエス様はどうしても伝えたいことがありました。さきほどの二人を含めて、弟子たちに伝えたいことがありました。それは何でしょう?ルカ24:48-49「あなたがたは、これらのことの証人です。『さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。』」アーメン。イエス様は二人に十字架と復活の証人になってもらいたかったのです。そして、エルサレムにとどまって聖霊を受けて、力を着せられて、力ある証人になってもらいたったのです。これが使徒1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」に続くのです。

エマオの途上に向かっていた二人の人生はどうだったでしょうか?失望と落胆の人生、夕暮れに向かう人生でした。死ぬ日を待ちながら、なんとか生き延びる人生でした。人生の目的も使命も意味もありませんでした。しかし、どうでしょう。イエス様が死んでよみがえり、今も生きておられる。それだったら、今度はその良い知らせを他の人々に知らせる必要があります。自分もその良い知らせで罪赦され、救われました。今度は、この良い知らせを他の人に知らせるという使命があります。しかし、それはたやすいことではありません。周りの人たちは無知と偏見の塊だからです。迫害を受けたり、嫌な思いをするかもしれません。だから、そのためにエルサレムにとどまり、いと高きところから力を着せられる必要があります。つまり、聖霊を受けて、聖霊に満たされる必要があるのです。ただ良い知らせを持っているぐらいだとこの世に押しつぶされてしまいます。しかし、聖霊に満たされ、聖霊の力をいただいたなら、ちょっとやそっと嫌な思いをさせられても、水をかけられても、こたえません。迫害を受ければ受けるほど、ゴム鞠がはずむように、バーンと跳ね返すのです。二人は120人の弟子の中に加えられ、2階座敷で祈りつつ、10日間待ち望みました。すると、彼らの上に、天から激しい風のように、炎のように聖霊が降ったのです。そこで、始めて二人はイエス様の十字架と復活の証人、力あるキリストの証人になることができたのです。これが、神さまの二人に対する計画であり使命だったのです。あなたは人生の夕暮れに向かって、ただ死ぬのを待ちながら生き延びる人生を過ごしたいですか?それとも、心がうちに燃える経験をし、友なるイエス様と親しい交わりを持ち、さらには聖霊をたいだいて使命をになうキリストの証人になりたいでしょうか?十字架と復活を信じ、聖霊を受けたなら、じっとしていることは不可能です。あなたもこの良い知らせを弟子たちのように、地の果にまで告げ知らせたくなるのです。

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