« 2011年2月 | トップページ | 2011年4月 »

2011年3月27日 (日)

えこひいきしない    ヤコブ2:1-7

ヤコブ書の特徴の1つは金持ちに対して厳しく、貧しい人に対して優しいということです。会衆を見回しても大金持ちは見当たりそうもないので、みなさんに届くメッセージではないかと思います。エルサレムに誕生した初代教会には貧しい人が一人もいませんでした。富んでいる人が、貧しい人たちに分け与えていたからです。使徒4:34-35「彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。」アーメン。その後、宣教が進み、いろんなところに教会ができました。このヤコブ書は「国外に散っている12の部族」にあてた手紙なので、幾分、時代と状況が違っていると思います。彼らは救われてはいましたが、相変わらず昔の価値観を持ったまま生きていたのです。

1.えこひいきの罪

 たとえば、礼拝堂が混んでいて、席があまりなかったとします。そこに二人の新来者が入って来ました。アッシャー(案内をする人)が二人を見ました。片方は金の指輪をはめ、りっぱな身なりをしています。もう片方はみすぼらしい服装をしています。アッシャーは貧しそうな人には目もくれないで、お金持ちに「さあ、こちらの良い席にお座りください」と案内しました。入り口に戻ってくると、貧しい身なりの人が、ぼーっと立っていました。アッシャーは「まだ、そこにいたのですか?席はもうないですよ。じゃ、こちらに立っているか、私の足もとにでも座っていてください」と言いました。英語の聖書で「足もと」は、footstoolイスに座ったときの足台ということばが使われています。簡単に言うと背もたれのないイスです。ちゃんとした席がないので、「補助イスにでも座って」ということです。アッシャーの心、価値観はどのようなものでしょうか?「金持ちは価値があるので、こういう人が教会に来るといろんな面で助かる」ということでしょう。「貧しい人は、献金もしないばかりか、逆に世話をしなければならない。こういう人はあんまり来ちゃ困る」。そのような考えが心の中にあったのではないでしょうか?初代教会は愛にあふれていましたが、教会はだんだんと、この世の価値観によって影響されるようになりました。金持ちの人や権力のある人たちを優遇し、貧しい人を締め出すようになっていたのです。

中世の教会は、きらびやかな衣をまとった聖職者と王様、貴族たちのものでした。一般庶民は教会の外に締め出され、霊的にも物質的にも貧しい状態でした。中世の絵を見ますと分かりますが、建物は豪華で聖職者たちも金ぴかでした。数年前、江戸東京博物館で「ロシア正教会展」がありました。そこに大司祭が着るガウンが展示されていました。あるものは全部、真珠でできていました。また、あるものは金のモールで美しい刺繍が施されていました。聖礼典の調度品はすべて金でした。かぶる帽子、杓、香炉、全部、金でした。ローマ・カトリックも同じ路線を走っていたと思われます。貧しい人たちに仕えていたフランチェスコが、裸足でローマ教皇インノケンティウス三世に謁見しました。これは映画の話で実際はどうかわかりませんが、教皇はフランチェスコにこう言いました。「聖職についた頃、私もそなたと同じ気持ちだった。だが、時とともに熱意も薄れ、教会政治の業務に忙殺される身となった。私たちは富や権力の厚い殻を被っている。そなたたちの貧しさの前に私は恥じる。フランチェスコ、キリストの御名において皆に真理を説きなさい。」そして教皇はボロをまとい裸足のフランチェスコの足元に跪き、足にキスをしました。フランチェスコ会、ドミニコ会、様々な修道会が中世の教会を改革していったのです。やがて、マルチン・ルターによって宗教改革が起きました。聖書が印刷され一般民衆にまで、福音が届きました。そして18世紀、ジョンウェスレーによってリバイバルがもたらされました。ジョンウェスレーは教会に来ることができない労働者のため、農場や工場へ出かけて行って説教しました。その後、メソジスト教会が設立されました。ところが、だんだん教会が腐敗して、金持ちたちが教会の座席を買うようになりました。「そこは私の専用の席だから、他の人は座らないように」ということです。貧しい人たちは、座る場所が制限されました。金持ちたちが教会を休んでいて、実際に席が空いているのに、そこに座れないのです。それで、フリー・メソジストが興りました。「フリー」つまり、座席を買うことを禁じ、だれでも好きな場所に座れるようにしたのです。ちょっと馬鹿馬鹿しい感じがしますが、本当にあったのです。

 現代の教会はどうでしょうか?座席はどこにも座れます。フリーです。しかし、別な面でのえこひいきがなされています。どうしても、教会は金持ちを優遇したくなります。教会の会計さんは、毎月、頭を痛めています。「今月は赤字にならないだろうか?大丈夫だろうか?」「三月は年度末だけど、赤字にならないだろうか?大丈夫だろうか?」きょうはたまたま、今年度、最後の礼拝です。会計の役員さんの顔を、どうぞ見てください。少し、うなだれてはいないでしょうか?ある人は会計の奉仕をやって鬱病になったそうです。それほど、会計は大変なのです。ですから、献金をいっぱいしてくれる人が一人でも増えたら、大助かりではないでしょうか。さらに、牧師や役員に対する誘惑があります。もし、教会に身分の高い人、教育のある人、影響力のある人が来たら嬉しいですよね。議員さん、会社の社長、お医者さん、弁護士、大学教授、芸能人。その人が来ることによって、地域の人たちもつられて来そうな感じがします。そして、教会はそういう人たちに投票して「役員」になってもらいます。結果的にどうなるでしょう?教会はこの世と全く変わらなくなります。お金や地位、知識を持っている人が高められることになります。何も持っていない人は、冷遇されるようになります。こういうことは現代の教会にもありがちなことです。ある教会に、現役を引退した牧師が礼拝に来られていたそうです。ある人たちが「○○先生、○○先生」と呼んだそうです。するとある年輩の婦人がみんなをたしなめてこういったそうです。「うちの教会の先生は○○先生、一人だけです。○○先生だけしか、先生と呼んではいけません」。すごいですね。議員の方は世の中では「先生」と呼ばれています。弁護士も「先生」、大学教授も「先生」と呼ばれています。しかし、教会に来たら、彼らはみな兄弟です。本当は牧師も兄弟なのですが、伝統的に「先生」と呼ばれています。

 ヤコブは何と言っているでしょうか?ヤコブ21「私の兄弟たち。あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません。」ヤコブは「栄光の主イエス・キリストを信じているなら、人をえこひいきはしてはいけない」と言っています。つまり、心が「栄光の主イエス」によって照らされるなら、そんな価値観は持たなくなると言うことです。私たちはクリスチャンになっても、この世の価値観を持っています。ある部分は新しくなったけど、ある部分は相変わらずこの世の価値観のままです。ユダヤ人には金持ちは神さまに祝福されている、だから金持ちになったんだという考えがありました。「金持ち、イコール良い」と考えがありました。しかし、もう1つの付随した考えもありました。「何故、神さまがこの世に金持ちを作ったか、それは貧しい人たちに施すためである。人々に与えるために金持ちが存在している」ということです。箴言222「富む者と貧しい者とは互いに出会う。これらすべてを造られたのは主である。」だから、私たちは神さまを恐れ、人をえこひいきはしてはいけないということです。

2.貧しい人たちへの神の恵み

ヤコブ25「よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。」ここにはすばらしいメッセージが含まれています。まず、「この世の貧しい人たち」という訳に異論があります。有効な写本は「の」ではなく「に対して」になっています。するとどうなるのでしょうか?英国の聖書はこう訳しています。「世の目から見た貧しい人たち」あるいは「世の見方で貧しい人たち」となります。つまり、この世の見方で「この人は富んでいる」「この人は貧しい」と判断しているということです。たとえば、私が銀行へ融資を受けに行くとします。もし、ジャンバーとサンダル履きで「お金貸してください」と言ったらどうなるでしょうか?たぶん、「申し訳ありません、お役に立ちません」と丁寧に断られるでしょう。しかし、頭をバシッとセットして、最高のスーツを着て、ピカピカの靴を履いて、胸を張って行ったらどうでしょう。そして、こう言います。「おたくの銀行が私に融資してくれましたら、とても益になりますよ」。頼んでいるというよりも、ビジネスを取り交わすという感じです。おそらく、この世の人は私たちのうわべを見て判断するのではないでしょうか?Ⅰサムエル16:7しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」。これは、サムエルがエッサイの家に来て、「次の王様はだれか」神さまに聞いたときに受けたことばです。私たちは人を見る、価値観を変えなければなりません。お金を持っている、持っていないではなく、容姿が良いか悪いかではなく、内面の方がより大切なのです。

でも、この箇所を見ると、神さまは貧しい人を愛してくださるということは確かです。神さまは貧しい人たちに2つのことをなさってくださいます。第一は「この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とする」と書いてあります。ある人は「信仰じゃ飯は食えないよ。金銭的に富む者としてくれ!」と言うかもしれません。でも、神さまの方法は違います。お金よりも、まず信仰が先であります。神さまに対する信仰が富むならば、結果的に、金銭的にも富むということです。信仰の父、アブラハムはどうだったでしょうか?最初、神さまからどう言われたでしょうか?創世記121-2主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」主は「私に従えば、あなたを祝福する」と言われました。従うということは、信じるということです。その結果、祝福がやってくるのです。私たちも、まず、信仰が先です。信仰は小切手のようなものです。イギリスのスポルジョンが、肺炎のためまもなく死のうとしている貧しいメイドさんの家を訪問しました。部屋に入ると隙間風をふさぐためにいろんな紙が窓や壁にべたべた貼ってありました。良く見るとその中に一枚の小切手も貼ってありました。今の価値で何十億円の額が書いてありました。彼女は長い間、大金持ちの家でメイドとして忠実に働きました。そのご主人が亡くなるとき、彼女に一枚の小切手を上げたのです。しかし、メイドさんは字が読めないばかりか、小切手の意味すら分かりませんでした。もし、彼女がもう少し前に、お金に替えていたなら、豊かな生活を送ることができていたでしょう。神様も同じで、私たちに信仰を用いて、豊かな生活が得られることを約束しています。

第二番目は貧しい人に対して、御国を相続する者としてくださるということです。ルカ620-21「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。」ルカはマタイと違って、心ではなく、実際的に貧しい人は幸いだと書いています。何と、その人に神の国、御国が与えられるからです。皆さん、ここにすばらしいメッセージがこめられています。貧しい人がイエス様を信じて、生まれ変わります。そして、自分を愛してくださる神様を愛するようになります。地上で生きていますが、もう御国に属する神の子です。たとえ貧しくても、身分はどうでしょうか?神さまが王様であるなら、その子どもたちは王子であり、王女です。貧しい人は、これまで生き延びるために生きてきました。それは乞食であり、奴隷の姿です。神さまはキリストの血で贖った人たちを、乞食とか奴隷のままにしておきません。王子であり、王女にしたいのです。残念ながら、クリスチャンになって救われたにも関わらず、相変わらず奴隷をやっている人がいます。私の人生がそうでした。私の家はとても貧しく、私は8人兄弟の7番目で生まれました。父の働きはあまりなく、家にはお金がいつもありませんでした。その代わり長女や長男が家にお金を入れました。母はわずかな田畑を耕し、食べるだけのお米や野菜はありました。しかし、現金がないのです。勉強机や学校の用具も買えません。村に水道が入りました。でも、自分の家に引き込むためには20数万円のお金が必要でした。そのお金がなかったのです。夏になると井戸が濁って、隣り近所に水をもらいに行きました。春になれば竹の子を取りに、冬には縄を綯いました。小さい私は水を汲んだり、薪を割ったり、藁を打ったりして手伝いました。私の中にどんな思いがあったでしょう?父や母は当てにならない。兄や姉の世話になるのは嫌だ。自分の力でなんとか生きてやるという意地がありました。今考えると、それは生き延びる奴隷でありました。奴隷は人よりも良いものを得るため競ったりします。また、奴隷は今、食べていても、いつか空腹になることを恐れています。いくら手元に持っていても、いつかなくなることを恐れています。これが奴隷の生き方です。生き延びるために生きているからです。失礼ですが、みなさんはそういうことはないでしょうか?「自分は小さく貧しい者である。こんな取るにたりない者を用いてくださって感謝します。こんな貧しい、汚れたものを愛してくださってありがとうございます。」そのように言ったことはないでしょうか?それは王子や王女ではなく、奴隷です。「いや、私たちは神さまの奴隷、しもべではないでしょうか?」と言う人がいます。ヨハネ1515「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」これこそが、私たちの標準な姿です。

最近、『王家の者として生きる』と言う本を読みました。少し引用します。夜、私は夢の中で聖書のみことばを繰り返す声が聞こえました。「この地は三つのことによって震える。いや、四つのことで耐えられない。奴隷が王となる」(箴言30章)。午前3時でしたが、胸苦しさに目を覚まし、深い悲しみが私を襲いました。すると、主が「どうしてこの地が、王になった奴隷の下で耐えることが出来ないのか知りたいか」と尋ねました。「嫌です。でも、あなたはご存知です」と私は答えました。主が続けて言われました。「奴隷は、生まれた時から取るに足りない者として扱われてきた。彼は成長しても自分には大した価値がないこと、また自分の意見は尊重されないことを成長する過程で学ぶのだ。それ故、彼が王になり、周りの者にとって偉大な者となったとしても、彼自身の内にある王国においては、彼は自分の価値を認めることができないのだ。そういう訳で、彼は自分の発言にも注意を払わない。彼が導くはずのその人たちを、やがては自分の手で破滅させてしまうのだ。私の息子よ。お前こそがその王となった奴隷なのだ」。その朝の数時間で主が私の王子としてのアイディンテティについて教えてくださいました。いくつかの聖書の箇所を導き、神にあるリーダーたちが、王の息子、娘であるがゆえに、自分が王子、王女であるという自覚を持つことがどれほど重要かを見せてくださいました。初めに主が見せてくださったのはモーセの例でした。主が尋ねられました。「なぜモーセがパロの宮殿で育てられなければならなかったのか分かるか?」「いいえ」と私は答えました。「モーセはイスラエルの民を奴隷制度から解放するために生まれてきたのだ。モーセはパロの宮殿で育てられることによって、奴隷の考え方ではなく、王子としての生き方を学ぶ必要があったのだ。自分が奴隷の考え方であるリーダーに、実際に奴隷制度に捕らわれている民を解放する力はないのだ。モーセの人生の初めの四十年間は、後の荒野で過ごす四十年間と同様に重要な年月だったのだ」。

この先はご自分で買い求めてお読みください。かいつまんで内容を説明するとこうです。よく、クリスチャンは「自分は小さくつまらない者ですが、私と共にいる主が偉大なのです」と謙遜に言います。たとえば、教会ですばらしい賛美の演奏を聞いた後、「いやー、とても素晴らしかったですよ」と言ったとします。すると彼らはたいていこう言うでしょう。「私ではありません。イエス様がされたのです。」しかし、これは真理ではありません。イエス様は私たちを彼と働く同労者として召してくださったのです。神と一緒に治める王子・王女として、です。私たちは一人ひとり神の作品です。たとえば、ここにゴッホが描いた『ひまわり』があったとします。もし、私が「なんと下手な絵なんだ」と言ったとします。すると私は2つ過ちを犯したことになります。まず、その絵を描いたゴッホを見下していることになります。もう1つは、私に見る目がないということを暴露していることになります。同じように、「私なんかダメだ」というと造り主の神さまを卑下していることになるのです。確かに私たちは罪の中に生まれ、汚れと恥の中で失われていた存在でした。でも、イエス様は私たちを尊い血しおで買い取ってくだいました。私たちが洗礼を受けたとき、十字架につけられて奴隷の古い人は死んだのです。そして、キリストと共によみがえらされました。もはや、私たちは罪赦された奴隷ではなく、神の子、王子であり王女なのです。今、東北では地震と大津波のため大変な状況です。家も持ち物、家族さえも失いました。あまりにもひどくて、復興まで何年かかるか分からない状況です。でも、聖書は「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。」と言っています。極論ではありますが、その人たちが救い主キリストと出会ったなら、永遠の命と御国に住まいを持つことができます。そうするなら、失ったもの以上のものが与えられるでしょう。私たちは関東にいながら、何とか生き延びようとしています。ガソリンやトイレットペーパー、パンや水を買うため必死になったかもしれません。私たちは気付くべきです。「もしかしたら、私は奴隷のように生き延びるために生きてはこなかっただろうか?」と。もし、私が王子、王女なら、「王なる神さまが必ず必要を満たしてくださる。ハレルヤ、アーメン」と胸をはって生きられるでしょう。キリストにあって、もう私たちは奴隷ではありません。貧乏人でもありません。豊かな御国の世継ぎ、王子であり、王女なのです。

|

2011年3月20日 (日)

みことばを実行せよ     ヤコブ1:22-27

みことばを実行すること、これこそがヤコブ書のテーマです。本当に耳が痛いです。私も、神さまから、「これだぞ!」と言われているものがあります。それはマタイ28:19「行って弟子を作りなさい」です。これは牧師にとって、イエス様からの最大の使命だと思います。しかし、「いやー」と言いながら、スルーしている自分がいます。ちなみに、スルーというのは、聞き流すということです。少し前にお笑いの人が、「右から来たものを左に受け流す」という歌がありました。これが「スルー」をするということです。どうぞ、きょう私がお話する聖書からのメッセージをスルーしないで、心に受け止め、しっかり実行する者となりたいと思います。

1.みことばを実行する人になる

ヤコブ122-24「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。」日本語では良くわかりませんが、英語やギリシャ語の聖書は、おどろくような表現がなされています。「みことばを実行する人」は、doers「行う人々」となっています。一方、「ただ聞くだけの者」は、hearers「聞く人々」となっています。23、24、25節を読んでいくと、やはり、doer「行う人」とhearer「聞く人」が交互に出てきます。当時、どのように言われていたかわかりませんが、教会で「行う人」と「聞く人」と二種類に分けていた可能性があります。ヤコブは教会の人々を見回して、「あなたは行なう人ですね」「あなたは聞く人ですね」と言っていたかもしれません。「うぁー」、とても厳しい感じがします。今の時間は、私が「話す人」で、みなさん全員が「聞く人」になっています。しかし、礼拝が終ると、ある人たちは「行う人々」になり、またある人は「聞く人々」になります。「聞く人々」の中に牧師が入っている可能性もあります。牧師は人に語って、「ああしろ」「こうしろ」と指差します。しかし、三本の指は「あなたは行っていますか?」と自分に向かってきます。ヤコブ書は牧師自身にとっても、厳しい書物です。できれば、スルーしたい書物です。私はこの教会で、満23年間、語っていますが、ヤコブ書全部からこのように語るのは始めてです。

ところで、ヤコブはイエス様の肉の兄弟ですが、イエス様の教えをやっぱり聞いたことがあると思います。だから、どことなく、イエス様のメッセージに似ています。私はこの箇所を読んでいて、マタイ7章の最後の部分を思い浮かべました。マタイ5章から7章までは、イエス様の教えをまとめた、山上の説教になっています。イエス様はその説教を終えるときに語ったたとえ話があります。マタイ724-27「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」イエス様のところに、数えきれない人たちが集まりました。みんな「なんと権威ある教えだろうか!いままで聞いたこともない!すっげー」と感嘆しました。彼らはイエス様の教えを聞くには聞いたのです。でも、イエス様はご存知でした。この聴衆の中には、聞いて行う人「doer」と聞くだけの人「hearer」がいることを。このたとえ話はしばしば誤解されてきました。イエス様を信じる人は岩の上の人生で、イエス様を信じない人は砂の上の人生であるみたいに思われてきました。でも、よく見るとそうではありません。イエス様のことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人なのです。一方、イエス様のことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人なのです。両者ともイエス様のことばを聞いています。決定的な違いは、イエス様のことばを行う者になっているか、あるいは聞いても行わない者になっているか、どちらかです。ここでも、二種類の人たちがいます。行う者と行わない者です。驚くべきことは、イエス様がヤコブのように、会衆をたった2つに分けていることです。「そんなに人を単純に分けて良いのでしょうか!」と言いたくなります。中には半分実行している人だっているでしょう。7割くらい実行している人はどうなるのでしょうか?

私はここではっきり申し上げたいことがあります。それは、私にも実際、起こったことです。私は24歳の時、はじめて教会に来ました。そして、大川牧師のメッセージを聞きました。とても感動しました。人生どのように生きるべきか、たくさんの指針をいただきました。大川牧師のメッセージテープが全国から注文が来ていました。当時ですが1週間、100本はダビングしていたと思います。いつか、私は大川牧師のメッセージをテープから書き起こす人になり、大きなバインダー2つできました。その頃から、私はテープお越しをして、人の教えを貯める人になっていたんですね。今も全く、同じようなことをしています。みなさんの中にも、あるいは、「鈴木牧師のメッセージはためになるからなー、賛美には遅れても、メッセージだけは聞きたい」という人がいらっしゃるかもしれません。ありがとうございます。でも、「ためになる話」はどこに行っても聞くことができます。世の中の講演会に行けば、お金はかかりますが、すばらしい講師のお話を聞くことができます。でも、講演会と礼拝の説教の違いは何でしょうか?私はずっと、大川牧師のメッセージを聞いて、それを自分の中に取り入れていきました。でも、あるとき、私の中に逆転が起こりました。「もし、聖書のみことばが、神のことばであって、真実であるなら、すべて聞き従うべきではないだろうか?この部分は信じられるけど、この部分は信じられない。この部分は従うことができるけれど、この部分は従うことができない。それは、矛盾したことではないだろうか?」と思いました。「ためになる話を聞く」、あるいはためになる教えを聖書からいただく」というのは、自分が主体で、神さまの真理は奴隷状態です。自分の主観で、どんどん切られていくからです。榎本保郎先生がおっしゃっていました。「私たちが一旦、聖書を神のことばとして認めたら、主従が逆転し、私たちが神のことばに従うしかない。私たちがみことばを切り刻むのではなく、私たちがみことばによって切り刻まれるべきなのだ」と。

そうです。ヤコブがdoer「行う人」とhearer「聞くだけの人」に分けました。イエス様も「行う者」と「行わない者」とに分けました。もし、みなさんが「ためになる話を聞く」程度であれば、「聞くだけの人」であり「行わない者」になるのです。日本人の中にも、聖書を読んでいる人がたくさんいるでしょう。でも、自分のために神の真理や導きを求めて読むとしたら、やはり、「聞くだけの人」であり「行わない者」になるのです。決定的な違いは何でしょう?それは自分が主人になっていて、「これは従えるけど、これは従えない」と振り分けているからです。では、「みことばを行う人」「みことばを行う者」とはどういう人なのでしょうか?それは、「あなたのみことばは真実であることを心から認めます。だから、私はあなたのみことば実行できる、できないに関わらず従います」と決断した人なのです。その人は王座を降りて、真理のみことばを王様にし、「私はあなたに従います」としもべになった人です。どうでしょう?あなたはテレビのようなコメンティターでいたいでしょうか?「それは違う、こうでしょう。そうじゃない」。そのように神さまのみことばを切る人です。そういう人は、ずっとこれから先も、「聞くだけの人」であり「行わない者」です。そうではなく、「みことばを行う人」になりましょう。どうすれば良いのでしょう。心の王座を真理のみことばに明け渡し、このように告白します。「聖書の創世記から黙示録まで、神さまのことばであることを認めます。実行不可能なこと、信じられないような奇跡も、矛盾と思われるような箇所も信じます。真理である神さまのことばに従います。アーメン。」そうれば、あなたは「聞くだけの人」ではなく、「行なう人」の仲間入りをすることになります。イエス様は「みことばを実行する人」を大歓迎しておられます。

2.みことばを実行する人の祝福

23節以降に、みことばを実行する人と実行しない人の違いがはっきりと記されています。みことばを聞いても行わないなら、生まれつきの顔のままだということです。聖書で「生まれつき」というのはどういう人を言っているでしょうか?Ⅰコリント2章に「生まれながらの人間」と記されています。Ⅰコリント214「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」生まれながらの人とは、イエス様を信じていない人、新生していない人です。人は、イエス様を信じると霊的に生まれ変わります。それから、みことばの乳を飲んで、霊的に成長していきます。やがて堅い食物である義の教えもいただけるようになります。しかし、生まれながらの人は、神さまの教えが愚かなことに思えます。だから、その教えを実行しません。そうすると、やはり、生まれつきの顔のままでいることになります。私たちは「生まれつきの顔」と言われても、「顔は1つだろう?他の顔があるのだろうか?」と思います。確かに、鏡を見ると見慣れた自分の顔しか写っていません。このごろは、「ああ、大分、年を取っちゃったなー」と嫌になります。しかし、言い訳するわけではありませんが、自分自身の内面の顔、内面の姿というのがあります。これは本当に若くて、38歳です。クリスチャンなら、実年齢から20歳は引けるんじゃないかと思います。それでは、そんな根拠は聖書のどこにあるのでしょうか?Ⅱコリント317-18「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」Ⅱコリント416「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」アーメン。神さまのもとには私たちの内なる人を映す鏡があります。おそらく、私たちは麗しい姿に変えられていると信じます。そして、肉体を捨てて、イエス様のところに行ったとき、「ああ、やっぱり本当だった」と自分の姿を見て驚くでしょう。外なる人は滅びても、内なる人は日々新たにされているのです、アーメン。

でも、私たちはだまっていて、内なる人が成長するわけではありません。神さまと交わり、みことばを実行する人になってこそであります。ヤコブ1:25「ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。」ヤコブは「完全な律法」あるいは「自由の律法」を一心に見つめて離れないように勧めています。そうすれば、みことばを行ない、成長することができます。私たちが、みことばを行うときに、何が障害になるのでしょうか?それは律法主義です。「私はみことばに従わなければならない」「私はみことばを実行しなければならない」と考えたならどうなるでしょう。たとえば、「あなたの隣人を愛しなさい」という戒めを受けたとします。そして、その人が「ああ、私は隣人を愛さなければならない」と実行しようとします。しかし、すぐ困難を覚えます。聖書には戒めや命令がいっぱいあります。頭ではそれらは正しいと分かります。しかし、実行しようとすると、妨げが入ります。だれが妨げるのでしょうか?自分自身が妨げるのです。それを肉の働きと言います。そのことはローマ7章でパウロが説明しています。ローマ7:7:19 私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。ロ-マ7:18-20「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです」。みことば、つまり律法に対して、阻むのは自分の中にある肉です。「しなさい」と言われると「したくないし」、「してはいけません」と言われると「したくなります」。律法主義とは自分の行ないによって神の義を得ようとすることです。とても立派なように見えますが、大変な生き方です。せっかく恵みによってクリスチャンになったのに、多くの人たちは、肉によって仕上げようとしています。

なぜ、ヤコブが「完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、事を実行する人になります」と言ったのでしょうか?完全な律法と不完全な律法があるのでしょうか?あるいは不自由な律法と自由な律法とあるのでしょうか?律法は1つです。問題は、どのように私たちが読むかです。Ⅱコリント3章に「文字は人を殺し、御霊は生かすからである」と書いてあります。当時、古い契約は石の板に書かれました。古い契約が朗読されると、人の心におおいがかけられます。おそらく、それを聞いた人々は「守りたくない、嫌だ」と思うのでしょう。そうではなく、人が主の御霊に向くならばどうでしょうか?同じ律法ではありますが、心のおおいが取り除かれます。新しい契約に仕える私たちが旧約の人たちと違います。第一にイエス・キリストが律法を全うしてくれたので、私たちは律法の呪いから解放されているということです。もう、律法の処罰は受けなくて良いのです。律法を守って神さまから受け入れられる必要もありません。なぜなら、御子イエス様によって神さまは満足されたからです。もうひとつは、イエス様を信じることによって私たちの霊が生まれ変わり、石ではなく御霊が私たちに教えてくださるのです。そして、私たちは御霊により頼むなら、御霊がみことばを行える力をくださるのです。もはや、律法は守らなければ「恐いぞ、罰せられるぞ」というものではありません。むしろ、自由の律法なのです。律法を守っても、守らなくても神さまは私たちを愛して、受け入れていてくださるのです。私たちの肉で神さまを喜せることはできないし、全く不要なのです。そうすると、私たちは安心して、喜んで律法を守りたくなります。私たちが神さまを愛しているからです。

この世の中の多くのものは律法主義に成り立っています。学校ではどうでしょうか?廊下を走ってはいけません。遅刻してはいけません。私語を謹んで先生の教えを聞きなさい。60点以上取らなければ不合格です。「あれだめ、これだめ」「これしなさい、あれしなさい」。社会に出ても同じです。そうすると私たちの肉が反応します。ある人は反抗します。しかし、ある人は自分の力でがんばって、その標準に達しようとします。前者は律法に反発し、後者は律法主義で生きる人です。この両者がクリスチャンになるとどうなるでしょうか?「ああ、神さまを信じるともっと守るべきことが多くなるのか、まっぴらごめんだ」と思うでしょう。しかし、ある人は「よおし、私の真面目さと努力によって、神さまからの好意と栄誉を得よう」と頑張るでしょう。そして、ある人は直接献身し、牧師になるかもしれません。しかし、最近、牧師の中でも鬱や燃え尽きが多いのはなぜでしょう?律法主義で生きているからです。恵みによってクリスチャンになったけれど、信仰生活は戒めを守り、真面目に努力するしかない。しかし、それは肉でやっているのです。肉とは生まれつきの力や努力です。ある場合は、とっても美しく見えるかもしれません。でも、肉でやっている人はできない人をさばきます。そして、できる自分を誇るのです。クリスチャン生活は、この世の人たちの生き方とは全く違います。真面目さとか、努力がいらないと言うのではありません。解決は御霊によって歩むということです。私たちの内におられるキリスト、聖霊がみことばを実行させてくださるのです。私たちは「イエス様、一緒にみことばを行ないましょう」とお願いすれば良いのです。イエス・キリストは仲介者として、新しい契約を結んでくださいました。それだけではありません。私たちがみことばを読み、アーメン、そうですと同意します。イエス様を愛する人は、このみことばに留まります。そして、イエス様と一緒にみことばを行なうのです。これが本当の信仰生活です。

『恵みによる歩み』という本があります。今から、5,6年前に出会うことができました。それはでは律法主義ではありませんでしたが、律法で歩んだり、恵みで歩んだり、チグハグな信仰生活でした。なぜなら、律法がなければ人はなまけてしまうと思ったからです。「聖日礼拝厳守」「什一献金をする」「伝道をする」「不品行をしない」「悪いことばを発しない」「人を赦す」「よく祈る」「毎日、聖書を読む」「罪を犯したらすぐ悔い改める」・・・私たちの周りにはたくさんの戒めがあります。みんな正しいものです。教会では洗礼を受ける前、1つ1つを学んで、最後に「これらを守ります」と誓約書にサインをさせられるそうです。人は信じるだけで救われるはずなのに、救われた後は大変だなーと思います。もちろん、それら1つ1つはすばらしいものであり、実行すべき内容です。でも、もっと大切なことは、神さまは私たちが何もしなくても愛しておられます。「聖日礼拝を守らなくても、献金をしていなくても、伝道していなくても、不品行をしても、悪いことばを発しても、人を赦すことができなくても、祈らなくても、聖書を読まなくても」神さまは私たちを愛しています。そして、イエス・キリストにあって神さまを喜ばせる必要はありません。そして、最も大切なことは神さまの愛をいただいたからには、こんどは神さまを愛する者となるということです。逆に、そうしなくても良いと言われると、そうしたくなるのです。でも、自分の肉、つまり自分の力や行ないではありません。神の霊、聖霊によってそうさせていただくということです。私は神様の器です。実際にやらせてくださるのは、イエス様であり、聖霊なんです。もし、良いことすばらしいことができたとしたら、その栄光は神さまのものです。ハレルヤ!キリストにあって、律法は変化しました。ヤコブ125「ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。

|

2011年3月13日 (日)

怒るに遅くせよ     ヤコブ1:19-21

怒りの感情がすべて悪いわけではありません。福音書で、イエス様も御怒りになられたことが何度かありました。世の中の不義や不正を正すためには怒りが必要なときがあります。しかし、かっとなる怒り、コントロール不能の怒りというものもあります。現代の若者はよくキレルと言われていますが、怒りは人生を破壊するマイナスの力もあります。怒ると血圧が上がり心臓や脳に良くありません。親しい人間関係を壊すでしょう。また、怒りにまかせて物を壊すかもしれません。また、人生の判断を誤る可能性もあります。ヤコブの手紙には「怒るに遅いようにせよ」と書いてありますが、旧訳聖書の箴言には、同じようなことばが4箇所もありました。箴言16:32「怒りを遅くする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる」と書いてあります。もし、私たちが怒りによって振り回されることがないなら何と幸いでしょう。

1.怒りの原因

 「怒るな!」と言われても、怒る原因がそこに存在するかぎり無理なような気がします。しかし、よく考えると、ある人は同じことをされても怒らないし、ある人は同じことをされて激怒します。つまり、人によって怒る対象というか、怒る条件が異なるのではないでしょうか?たとえば、ある人がある出来事で怒ったとします。どういう状況で自分は怒ったのか?また、その時、自分の心で何を考えたのかチェックしたら良いでしょう。再び、他の出来事で怒ったとします。相手は違うかもしれません。しかし、どういう状況で自分が怒ったのでしょう?そのとき、自分は何を内側で考えたのでしょうか?そういうのを1ヶ月くらい調べていくと、自分はどんな特定の状況に置かれたときに、激怒しやすいのかということが分かります。今、宮崎県の新燃岳が噴火しています。噴火はどんなところから起こるでしょうか?地質の弱いところからドーンと噴火します。たとえば、あなたは家庭で伴侶とのやりとりで噴火したとします。それをAとします。次は職場で会社のだれかとのやりとりで噴火したとします。それをBとしましょう。さらに、教会で、だれかとのやりとりでドカンと噴火しました。それをCとしましょう。ABC何の脈絡もなさそうです。でも、その根元をたどっていくとどこに達するでしょう?噴火の根元はどこでしょうか?そうです。マグマです。怒りのマグマがあって、普段はそれがいろんな抑圧がかかって、抑えられています。でも、何かの出来事で抑圧がなくなった。「ここで、だったら、怒れる!」ドッカンとやってしまうのです。

 多くの人たちは「怒らないように」と、自分を自制しようとします。そのため、一生懸命、お祈りするかもしれません。心理学の本を読んで、自分の性格を変えようとするかもしれません。でも、ある状況下に置かれると、ドッカンと爆発します。だれかが、あなたの地雷を踏んだのです。あるいは、スイッチを押したのです。すると、あなたは自動的に反応するしかありません。後から、惨めな気持ちで、爆発の処理をします。ケーキやプレゼントを買わなければなりません。自制や抑圧することには限界があります。では、どうすれば良いのでしょう?さきほど、調べたデーターから傾向と対策を練ると良いのです。自分はどういう状況の中で爆発しやすいのか?そのとき、自分の内側で何を考えているのか?これがとっても重要です。怒りは感情ですが、その前に、私たちは深いところで何かを考えているんです。この考えが歪んでいると、歪んだ感情が出てくるのです。つまり、怒りという感情を変える前に、考えを変えることが重要なのです。ABCの出来事で、おそらく、共通した状況や考えがあるはずです。たとえば、自己中心的で身勝手な振る舞いによって、自分の世界が壊れると思ったのかもしれません。せっかく自分が準備したことを台無しにされた。私が積み上げてきたキャリアを馬鹿にされた。「勝手に、壊すな!」と怒ったのかもしれません。あるいは、責任を果たすべき人がその責任を果たさなかった。そのために、自分の世界が壊れると思ったのかもしれません。相手が会社の上司、夫、牧師だったりします。「あんたがいい加減なので、私が不当な扱いを受けている。ちゃんとやれ!」と言うことです。今の二つが結構、多いようです。なぜなら、私がカウンセリングを学んでいる李光雨師が良くあげるテーマだからです。

 しかし、多くの人は「あいつが悪い」「あいつのせいだ」「あいつがあんなことをしなければ良いのに」と怒る対象のせいにしています。確かに、あなたを怒らせた人にも罪があります。身勝手さとか、無責任、不当な扱い・・・いろいろ原因はあるでしょう。でも、あなたがこの世に生きている限り、そういう人たちをあなたの前から全部払拭することができるでしょうか?これから、先ずっと、マシンガンと手榴弾をもって、そいつらをやっつけていくのでしょうか?それは不可能です。この世に生きている限りは、どこでもそういう人たちがおり、あなたもそういう状況に何度も遭遇するのです。では、どこを変えると良いのでしょうか?人や状況を変えるのではなく、あなた自身の考え方を変えると良いのです。つまり、自分はどういうことについて怒りやすいのか?自分の中にある未解決な怒りの問題とは何か?自分は一体、何に怒っているのか?マグマの正体を知るということです。

2.怒りのエネルギー(怨念晴らし)

実は怒りは、何かを成し遂げるためのエネルギーになります。朝日新聞で「日本人が好きな1000年間の歴史上のリーダー」はだれかを調べました。織田信長とか、徳川家康、坂本竜馬とかと、ならんで田中角栄が第四位だったそうです。「怨念晴らし」の第一人者、李光雨師がおっしゃったことを引用します。田中角栄は、庶民の宰相とかいろいろ言われたが、彼の人生を自伝で読むと、怨念晴らしの典型的なパターンである。まず最初に、被害者としての被害感情、抑圧された1つの世界を持っていた。彼の場合には新潟の雪深いところで、本当に貧しい家に生まれた。そして、貧しい子ども時代を過ごした。優秀だった、でも、新潟の雪深い地方の中では、自分の才能を発揮することが出来ない。だから、小学校卒業してすぐに、東京に出て、丁稚奉公しながら、結局は土建屋さんで財を成した。戦後、すぐに国会議員の選挙に打って出て、初めは落選した。そして、国会議員になりたかったのはどうしてか。「先生と呼ばれたかったから」とインタビューに答えている。彼に長年仕えた早坂茂三という秘書が、『怨念の系譜』という本を書いた。河井継之助、山本五十六、そして田中角栄。この3人は同じ長岡を中心としたところの出身。彼らは雪深い越後の県民性を背負っている。それは、雪の中で本当に苦労して、何もできない日の中で、自分の中にある才能をどこで爆発させようか。その1点を見つけたときに、その才能が開花していく。長年、彼に仕えた秘書がそう言っている。これを私たちは「成功物語」として見れば、これは良い話である。しかし、エネルギーの源がどこにあるかと考えるなら、それは怨念の世界である。田中角栄が日本列島改造論を書いたのは何故か。関越があり、そこへ行くと谷川岳を通る。あそこがあるから、新潟は雪が深い。あそこ全部崩しちゃおうかと思った。そうしたら雲が関東に抜けて、雪が降らないで済む。本当に考えたそうである。それほどのイメージ、力、目標を生み出す元になっているものは何か。それは怒りである。それはもちろん、個人的な怒りということも含めて、その土地の人たちが持っている束縛された、抑圧されたその世界。その抑圧に対する、自分の中から生まれてくる反発、反抗心。これを私たちは怨念の世界と呼ぶ。そして彼のように才能があって、時代の要請のある人は大きな業績を残す。しかし、果たしてそれが本当に良いものを生み出すのだろうか。聖書の原則はこのところが明確である。「人の怒りは神の義を実現することができない」。人が怒りをエネルギーに何か良いと思うことを、やったとしても、結果としてそれは最終的には良いものを生み出さない。

ヤコブ120「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」なんと、驚くべきみことばでしょうか。外側から見たら、その人のやっていることはすばらしことかもしれません。でも、神さまは、その動機、エネルギーを問われます。さきほどの政治家だけではなく、伝道者や牧師ですらも怨念晴らしでやっているかもしれません。世の中じゃだめだったけど、この世界で成功して見返してやる。また、信徒に復讐するために牧師になる人がいるそうです。そういう人たちは良いところまで行きます。しかし、サタンは一番、良い所で足元をすくって、台無しにするそうです。牧師や伝道者が良いところまで登り詰めて、最後に教会を分裂させたり、キリストの御名を辱めることがあります。最近の日本のキリスト教界にそういう人がとても多いのに気付きます。牧師だけではなく、リーダーになる人も何が自分を動かしているのか、エネルギーの源をチェックする必要があります。怒りや憎しみがエネルギーになってはいないでしょうか?私も人のことを言っておられません。私は24年前にこの教会に赴任しました。第一回目の礼拝で何と言ったでしょうか?「3年に100名ならなければ教会をやめる」と言ったのです。恥ずかしながら、24年たっても、100名礼拝が実現していません。本来ならとっくの昔にやめていなければなりません。なのに、どの面下げてと申しましょうか?この面下げてここにいます。私はここで奉仕していて、本当に砕かれました。インドネシアのエディレオ師に出会い、父の心をいただきました。また、エリヤハウスでも癒されました。最終的には、李光雨師のカウンセリングを受けて怨念から解放されました。1年半前のことです。56歳でした。イエス様を信じて霊的に生まれ変わったのが25歳です。そして、心というか思いが新しくなったのが56歳です。うぁー、人生の後半です。周りの人たちを見て「ああ、この人も怨念で動いているなー」って分かります。でも、裁くことはできません。なぜなら、私が解放されたのが56歳だからです。神さまは、きっとこれから私を通して、すばらしいことをなさると本当に期待しています。 

エペソ人426,27「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」サタンはその怨念の世界に必ず手を伸ばして来ます。人との関係を破壊するために、教会を破壊するためにです。怨念と怨念がぶつかることを修羅場と言うそうです。教会が怨念晴らしの修羅場と化し、サタンの草刈場になってしまいます。最終的には牧師が辞めるか、教会が分裂したりします。教会は無条件の愛を説いていますので、怨念を出す場としては最高のステージになります。自分がかつて満たすことのできなかった、怨念を教会で晴らすことができます。役員会や総会もそういう場所になります。こんど4月17日教会総会があります。教会の独立について話される予定です。そのとき、物申す人が出てくるでしょう。気をつけてください。その人が正しいことを言っているかどうかではなく、その人のエネルギーが何かを知るべきです。どうぞ、怨念と怨念がぶつかる修羅場だけは避けましょう。サタンが喜ぶだけです。私たちも自分自身のことを、気をつけましょう。怒りで物ごとをやってはいないかどうかです。ヤコブ120「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」

3.怒りの解決

 キリスト教会はこれまで加害者の部分だけを扱ってきました。つまり、「あなたが犯した罪のためにイエス様は十字架にかかったのですよ。罪を告白したなら、あなたは赦されます。」と言います。実際、そのように罪赦され、罪責感からも解放されます。しかし、加害者ではなく、被害者的な部分もあります。つまり、だれかによって傷つけられて被害を被ったということです。多くの場合、1万タラントの負債を赦してもらったたとえ話を用います。そして、「あなたはとうてい返すことのできない罪を赦してもらったんだから、今度はあなたに対して罪を犯した人を赦すべきですよ」と言います。これは恵みによる赦しと言えますが、これができる人はどのくらいいるのでしょうか?李光雨先生は、「それができるのは3割くらいではないか」と言っていました。神さまから多大な罪を赦してもらった。だから、あの人の罪も赦すべきである」と分かります。でも、心の深いところでは赦すことができないのです。なぜ、怒りが爆発するのでしょうか?それは、その人の被害者的な部分が十分に解決されていないからです。たとえば、自分の存在を正しく、敬意をもって、存在を価値あるものとして取り扱われないことがあります。もし、不当に取り扱われるならば、怒りの根っこになります。そして、私たちを動かすエネルギーの根っことして私たちの中にとどまります。「どこかで必ず見返してやる。復讐してやる。この怒りを晴らしてやる」。最終的に、被害者が加害者になっていく、これが怨念晴らしです。

怒り、つまり怨念晴らしから解放されるため、李光雨先生はもう1つの十字架を提示しました。「もう1つ」と言っても異端的なものではありません。「二本の十字架」と言うと、「ゴルコタの丘には三本立っていたでしょう」と言うかもしれません。でも、聖書を見ると私たちの加害者的な罪を贖う十字架の他にもう1つの十字架が提示されています。Ⅱコリント5:19-6:1「 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。」ここで言われているテーマは、神様と人間との和解です。和解するために、神さまの方から私たちに懇願してくださっています。多くのクリスチャンは、神様は和解を強制していると思っています。「和解しないとひどいことが起こる」と脅迫している。そうではありません。懇願というのは、神さまの方から「和解してはくれまいか」と乞い願うことです。つまり、「罪を知らない方を私たちの代わりに罪とされました」。「これを対価にもう和解しては、くれはしまいか」という神様の懇願です。

そして、この和解を神の方から懇願してくださるというこの原則は、神と人との和解を土台として、人と人との和解にも適用される教えになっていきます。それがエペソ人への手紙です。エペソ214-16「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました」。このところは文脈から見ると、ユダヤ人と異邦人が十字架によって和解すべきことを語っています。「神さまがキリストを十字架にかけたので、この命によって、もう怒りの矛を納めてくれはしまいか」という和解を勧めています。私たちも「あいつ」を赦すためには代価が必要です。ただで赦すことはできません。実は、キリストの十字架は赦せない「あいつ」のためにもあるのです。あいつとは、幼い時の父や母、兄弟かもしれません。学校の友人でしょうか先生でしょうか?あいつのため、もう1本の十字架が立っています。そして、イエス様はあなたにもこう語っておられます。「私の十字架に免じて、あいつを赦すことはできないだろうか?この命に代えて、この命でもう償うので、赦してあげては、くれはしまいか」と、イス様はあなたに懇願をして下さっています。私は李先生の奥様、エリカ先生のこの祈りを聞いたとき、「ああ、もったいないです。赦しますよ」と心の中で告白しました。でも、みなさん、赦すということは、どういう意味でしょう。赦すということは、復讐の権利を放棄するということです。神の義を要求する権利を放棄するということです。ある人たちは、最後の部分を握って離しません。この権利を放棄したら生きてゆけないと思います。しかし、そのため多くの人が精神や肉体を壊しています。そればかりでなく被害者から、加害者になっています。聖書で「愛する人たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。復讐は私のすることである。私が報いをする」と主は言われます。どうぞ、主が分かってくださり、謝ってくださるのですから、復讐の権利を神さまにお渡ししましょう。

みなさん赦すということは忘れることではありません。赦すということは感情ではなく、意思であり選択です。訴える権利を十字架の対価によって、放棄することです。「主よ、この復讐の権利を私は永遠に放棄いたします」と十字架の足もとに置いた時に、赦すことを始めることができるのです。赦しても当人と仲直りして、関係を取り戻すことがすぐできないかもしれません。でも、怒りを手放したのですから、少しずつ成長に伴って回復できます。そして、最後にエネルギーを変えることです。現代は「環境に優しいクリーンなエネルギーを」と叫ばれています。これまでは「どこかで必ず見返してやる。復讐してやる。この怒りを晴らしてやる」という負のエネルギーでした。こんどは神さまが逆転勝利を与えてくださいます。あなたが苦しんできたことが今度は益になるのです。ローマ828「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」アーメン。あなたは自己中心的な振る舞いのゆえに、あるいは責任を果たせない人のもとで、世界が壊れる経験をしたかもしれません。でも、それは神さまが長い間、あなたを仕込んでおいてくださったのです。あなたが癒され、解放されたならば、今までのマイナスがプラスに転換されます。あなたには、ある世界に関しては専門的な知識があります。同じような境遇の人を理解し、また解決のステップへと助けるコーチになることが可能です。神さまはあなたを今度は、そのように用いたいのです。それが逆転勝利です。ブレーク・スルーと言っても良いでしょう。ブレーク・スルーとは、今までぶつかっていた壁が壊されて、そこから突き抜けるということです。私はリバイバルはまず、個人から起こると信じています。あなたがブレーク・スルーすることによって、泉から川になって流れていくのです。

|

2011年3月 6日 (日)

神に願え     ヤコブ1:5-11、16-18

ヤコブ書は旧訳聖書の箴言に良く似ています。どういうところが似ているのでしょうか?教えが格言のように短いということです。そして、このことあのことと、話題が飛ぶので、全体的に捉えるのが難しいということです。ですから、このように説教するときは、ある箇所を飛ばして、他の箇所とくっつける必要があるのです。そうすると1つのテーマに従って学ぶことができます。かなり、虫食い的になることを許していただきたいと思います。でも、頭には残ると思います。きょうのテーマは「神に願え」ということですが、私たちは何をどのように願ったら良いのでしょうか?どうして願っても与えられないのでしょうか?きょうは、そういうところに理解が与えられたら良いと思います。

1.神はどんなお方か?

まず、私たちの神さまはどんなお方なのでしょうか?このことを知ることがとても重要です。なぜなら、神さまがどんなお方か知るならば、私たちは大胆に求めることができるからです。5節から、神さまがどんなお方か分かるでしょう?「だれにでも惜しげもなく、とがめることなくお与えになる神」と書いてあります。神さまは、少なくとも3つの性質を持っておられます。第一に「だれにでも」ですから、神さまは分け隔てなさらない、公平なお方だということです。「あの人にはあげるけれど、あなたにはあげない」ということではありません。マタイ5章には「天の父は悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」と書いてあります。第二に神さまは「惜しげもなく」与えてくださるお方です。他のことばで言うなら、神さまは気前が良くて、豊かに与えてくださる方です。第三は「とがめることなくお与えになる」神さまです。「とがめることなく」とはどういう意味でしょう?「この間、お前にあれだけやっただろう。もう使ってしまったのか。チッ、しょうがないなー。こんどは、これだけやるから、無駄に使うんじゃないぞ。」「ポイ」と、投げるように与えられたら、ありがたいでしょうか?神さまは何度でも、何度でも気前よく与えてくださるお方です。

さらに飛んで、17節以降にも神さまがどんなお方か記されています。1:17「すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は上から来る」と書いてあります。上から来るとは、神さまから来るということです。神さまはどんなお方でしょう?すべての良い贈り物とすべての完全な賜物は神さまが所有しておられ、それを私たちに与えたいと願っておられるということです。すごいですね。18節から神さまは光を造られたお方だということが分かります。そして、父なる神には移り変わりや、移り行く影がないということです。これは、どういう意味でしょう?神さまは、月、星、太陽を造られました。天を見上げると分かりますが、月、星、太陽の光はすべて変化します。星は自転したり、あるいは公転したり、しています。当然、光も強くなったり弱くなったり、あるところに影ができたりします。私たちの地球にも季節があって、太陽の陽の強さが違います。月も満ちたり、欠けたりします。私たちの体調や気分も月ごとに、いや毎日変わります。では、神さまはどうなのでしょうか?神さまは「きょうは気分が良いから何でもやるぞ!」、あるいは「きょうは力あるわざは、あまりできないので控えめにしよう」、あるいは「きょうは蓄えがないので、この程度だ」とかおっしゃるでしょうか?聖書には「父なる神には移り変わりや、移り行く影がない」と書いてあります。つまり、神さまこそが本当の光であって、移り変わりや、移り行く影はありません。そして、いつでも、すべての良い贈り物、すべての完全な賜物を与えたいと願っておられるのです。

聖書に神さまがこれだけすばらしいお方なのに、私たちは、かなり差し引いて見てしまうのはどうしてでしょう?ヤコブの手紙は神さまを「父」と紹介しています。父です。私が父と言うと、「ああ、もう一人いたなー」と地上の父を思い浮かべるでしょう。あなたのお父さんは公平な人だったでしょうか?自分の子どもたちを公平に扱ってくれたでしょうか?あなたのお父さんは「惜しげもなく」与えてくれたでしょうか?ケチで子どものことよりも、自分のことが第一だったのではないでしょうか?あなたのお父さんは「とがめることなく」与えてくれたでしょうか?苦言やお説教をしてから、投げるようにくれたのではないでしょうか?あなたのお父さんはすべての良い贈り物、またすべての完全な賜物を所有していたでしょうか?そして、あなたに良い贈り物、完全な賜物を与えたでしょうか?あなたのお父さんは気持ちがいつも安定していたでしょうか?気難しくて、頑固で何を考えているのか分からないお父さんだったのではないでしょうか?もし、今、あげたことが全部とまでいかなくても、2つ3つ当っていたならどうなるでしょう?おそらく、天の父も歪んで見えてくることでしょう。もし、地上の父に頼ったことのない人であったら、よっぽどでない限りは神さまにお願なんかしないのではないでしょうか?「自分でやる。自分でかせぐ。ケチで弱い神さまになんか頼らないぞ」。そういうクリスチャンも中にはいるかもしれません。

私たちはもう一度、生まれ変わる必要があります。ヤコブ118「父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。」真理のことばとは、イエス・キリストでもあります。私たちは聖書のみことばに記されているイエス様を信じることによって再び生まれます。そのことによって、神さまが本当の意味で「お父さん」になります。救われる前も、神さまはお父さんだったかもしれません。でも、あまりにも罪に汚れ、あまりにも反抗的で無知だったために、できませんでした。しかし、イエス様を信じて、霊的に生まれ変わると、私たちは被造物の初穂になります。それは神の子どもであり、被造物の冠ということでしょう。そうすると、たとえ生まれや育ち、地上の父がどんなであろうと関係ないということです。確かに肉体的に生まれるために、地上の父と母が必要でした。そのことは深く感謝したいと思います。もし、天の父を知らないで生きていたら、生まれや育ちに支配され、多くの人たちは呪いの中にいたでしょう。トンボの幼虫ヤゴは、泥の中で生活します。しかし、成虫になると空を飛び回ります。蝶の幼虫は青虫ですが、植物を這い回り、葉っぱを食べて生活します。しかし、成虫になると空を飛び回ります。餌も違います。私たちも生まれや育ちは関係ありません。もちろん、生まれや育ちが良かった人は感謝すべきでしょう。でも、父なる神さまとは比べものにもなりません。私たちは天の父に対するイメージを変えなければなりません。

ある人は、ノート一冊買えないほど、貧しい家に育ちました。お父さんからびっくりするようなプレゼントを一度ももらったことがありません。その人がクリスチャンになりました。しかし、いつも中古の車に乗り、中古の住まいに住んでいました。そして、神さまに大きなプレゼントを願うことができませんでした。あるとき、ふっと気付いたそうです。「私の神様は地上の父とは違う。もっと偉大なるお方で、息子の私には最高のものをプレゼントしてくださるお方だ」と信じることができました。それからどういう訳か、マンションを購入し、会社から新車を与えられたそうです。私の家はブリキ屋で煙突とかストーブを売っていました。まっすぐな煙突、曲りの煙突、Tの字方の煙突、細いのと太いのと、いろいろありました。売れたお金は缶に入れていました。缶の中からお金を取って、お酒とか豆腐とか買いに行きました。バラ銭ばかりで、大金というのをほとんど見たことがありませんでした。母は何か必要な場合は、長男や長女からもらったり、あるいは隣り近所から借りていました。私が19歳の頃、関東で仕事しているとき、母から手紙が来ました。「やし、お金、めぐんでくれ」と書いてありました。「家にはお金がないんだなー」という考えが、ずっと残っていました。聖書の神さまがこれだけ豊かな方なのに、そのまま信じられないとしたら、貧乏の霊がまだあるのかもしれません。みなさんは、親替えをしているでしょうか?あなたの霊の父は、天地を造られた父なる神様です。そして、あなたは天の父のかけがえのない息子、娘になったのです。無駄使いはよくありませんが、父なる神さまは「だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになるお方です。それも、余ったものとか、売れ残りではありません。「良い贈り物、完全な賜物」をあなたにあげたいと願っています。

葛飾テクノプラザで、たまに倒産品を売っている時があります。アシックスのシューズが1000円とかチラシには書いてあります。しかし、実際に行くとないのです。名前も知らないような1000円のシューズがいっぱい並んでいます。1、2足はあったのかもしれません。でも、それはごまかしです。私だけではなく、そうやっていそいそと、期待して来た人がいっぱいいます。でも、最後は仕方なく、1000円のシューズを買って帰ってきます。「葛飾区にも貧乏の霊でやられている人たちがいっぱいいるんだなー」と思いました。どうぞ、私たちは霊的に生まれ変わって、天地万物を造られた、豊かなる神さまをお父さんと呼びましょう。そして、王様の息子、娘として豊かな生活を送るその権利を回復しましょう。

2.疑うな

 ヤコブ1:6-8節には、願いが叶えられる条件が記されています。「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」では、どういう心の持ち主が、願っても叶えられないのでしょうか?それは疑う心です。神さまに疑って求める人には与えられません。でも、疑って求めるとはどういう意味なんでしょうか?ヤコブ書には「疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです」とあります。海の波は風に吹かれると揺れ動きます。心の中が疑いに満ちている人は、海の大波のようだということです。福音書に書いてありますが、ペテロがイエス様から「来い」とおことばをいただいて、湖の上を歩いたことがあります。なんと、ペテロは船から降りて、水の上を歩いたのですよ。おそらく人類初ではないかと思います。確かに2,3歩、あいは4,5歩は歩いたかもしれません。でも、風が吹いて来て、波しぶきがばあっと顔にかかりました。そのとき、ペテロはイエス様から目をそらせました。そして、風を見て、こわくなり、沈みかけました。おそらく、ペテロは信仰よりも自分の五感を頼ったのだと思います。水が冷たい。現実的に人間が水の上を歩くのはおかしい。そして、「ずぶずぶ」と沈みました。風に吹かれる人の心とはどういう心でしょうか?目で見て、耳で聞いて、手で触って、自分の理性で納得できることしか信じない人です。しかし、信仰は目で見て、耳で聞きて、手で触って得るものではありません。しかも、自分の理性を超えるものです。「聖書はそう言うかもしれないけど、現実はこうだ!」という人が、不安定な人の特徴です。

 ヤコブはそういう人を何と呼んでいるでしょうか?「そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」この人は、不思議な人で、「右に行く」と言いながら、左にも行ける人です。「上に行く」と言いながら、下にも行ける人です。「そんな馬鹿な」と思うかもしれませんが、二心のある人は、それが可能なのです。あるときは、Aと言い、あるときはBと言うことができるのでしょうか?できます。英語で二心はdouble mindと言います。心が二つに分かれている人です。ファミリーレストランに行くと、2品、あるいは3品、注文できます。ドリンクバーではいろいろ飲むことも可能です。しかし、残念ですが、私たちは道が2つあるとしたら、1つしか選ぶことができません。同時に2つ選ぶことは不可能なのです。結婚できる人も一人だけです。私たちが信じることのできる神様はおひと方だけです。私が若い頃、はじめて首都高を運転したことがあります。首都高はいろいろ道が分かれています。銀座の下を走っていると、突然、真中に柱が出てきて、「え?」と驚きました。夜はすいていますので、後ろからどんどん追いかけられます。あるとき、どっちの道か分からないため、真中の安全地帯に車を乗り上げた時があります。絶対、やっちゃいけないことなのです。それ以降は、たとえ間違っても、どちらか1つを選ぶことにしています。とんでもないところで降りて、自分がどこにいるのかも分からない時がありました。「呉服橋ってどこ?そんな橋あったかなー」と思ったこともあります。今は、ナビゲーターが付いていますので、どこで降りても平気です。

 とにかく、ヤコブは吹き荒れた海のように、安定の欠いた二心で求めてはいけないと言っています。ですから、私たちは疑いを心から捨てて、信じる方を選択しなければならないのです。しかし、みなさん信じても沈没するときがあります。信じて求めたのに、答えられないときがあります。でも、みなさんペテロが沈んだ直後、どうなったでしょうか?イエス様が即座に手を伸ばし、引き上げてくださいます。旧訳聖書のヨナはどうだったでしょうか?神様からニネベに行けと言われたのに、タルシシュに逃れました。途中どうなったでしょう?ヨナが乗っていた船が嵐に遭い沈没しかかりました。ヨナは「私を海に投げ込めば嵐は静まる」と船長に言いました。ヨナはどうなったでしょう?ヨナ1:17「主は大きな魚を備えて、ヨナを飲み込ませた」と書いてあります。ヨナは魚の中から、主に祈りました。彼はよみの底から悔い改めたのです。するとどうなったでしょう?ヨナ2:10「主は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた」とあります。そうです。私たちが失敗するときがあっても、神さまが救い出してくださるのです。主にあって、落ちたら落ちっぱなしということはないのです。ですから、疑いを捨てて、信じる方を選び取りましょう。うまく行かないときがあったとしても、主が導いてくださいます。

3.知恵を求めよ

 ヤコブ1:5 「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」ヤコブがここで求めなさいと私たちに言っていることは、「神様に知恵を求めよ」ということです。どうして、知識ではなく知恵なのでしょう?どうしてお金ではなく知恵なのでしょう?どうして力ではなく知恵なのでしょう?日本の学校教育は知識を詰め込むことが教育だと考えているかもしれません。歴史も苦労しましたが、クイズ番組には少しは役立ちます。高校の英単語はどうでしょう?もし、中学校程度の英単語をマスターしていれば、日常会話には事欠かないそうです。数学の微分・積分には躓きました。今は計算機やパソコンがやってくれます。アメリカのフォードという人は小学校しか出ていなかったそうです。ある人から「あなたは世界の国々がどこにあるか分からないのに、よく社長やっていますね」と批判されました。彼はこう答えたそうです。「確かに私は世界の国々がどこにあるか、その国名も分かりません。でも、私にはたくさんの秘書がいますので、知識に困ったときは、すぐ調べてくれます。しかし、私にはだれもが持っていない知恵があります。」そのように答えたそうです。ソロモン王は神さまから「あなたに何を与えようか。願え」と言われました。ソロモンは「長生き、お金、敵のいのち」と答えないで、国民をさばく知恵を願い求めました。すると願わなかった、長寿、富、誉れも与えられました。ユダヤ人が頭が良いのは、創造主なる神を恐れ、知恵を神さまからいただいているからです。

 私たちはどうでしょうか?私も学歴から言ったら、かなり劣る方だと思います。特に日本の牧師は高学歴で外国の神学校を出ている先生もおられます。「自然に成長する教会」NCDが世界32カ国の成長している教会を徹底的に調査しました。牧師の学歴と教会成長、この2つが関係があるだろうか調査しました。なんと、ちゃんとした神学校を出た牧師の教会よりも、どこか分からない神学校あるいは出ていない牧師の教会の方がよりよく成長しているというデーターがでました。なぜ、そうなのでしょう?ちゃんとした神学校を出た牧師は、他から学ぼうとしないということです。しかし、ろくに神学校を出ていない牧師は、いろんなセミナーに出かけ、いろんな先生から学びます。知識がある先生に限って、方策とか戦略を軽く扱います。神学は実践神学も必要であることを忘れてはいけません。その点、私は「後者の方で良かったなー」と思います。自慢ではありませんが、神さまは私に「知恵」を下さいます。ちょっと自慢していますが。救われる前の知恵は生き延びるために、人の上前をはねるようなセコイ知恵でした。しかし、クリスチャンになって聖霊様に満たされた後は、神からの知恵が与えられます。こういう説教において、牧会において知恵が与えられます。しかし、私に欠けているものは遠くを見る目、ビジョンとそれを実行に移す戦略が欠けています。目先の知恵はききますが、遠くを見通す知恵がありません。やはり、一人の人間に与えられる賜物には限界があるということでしょう。指導とか管理、預言は別の賜物だと思います。

 でも、みなさん私たちは信仰生活において、神からの知恵をいただく必要があります。ある人たちは信仰と生活を分けて考えています。信仰は信仰、生活は生活、これでは力がありません。あなたの生活1つ1つに、神さまは関心を持っておられます。どうぞ、ビジネスに知恵を求めてください。子育てや買い物にも知恵が必要です。創作的な仕事をなさっておられる方は特にそうです。神さまはすばらしいデザイナーです。デザインとは計画とか設計という意味があります。中世の芸術家がなぜ優れていたのでしょう?無心になって、神さまの栄光を現そうとしたからです。お金も必要ですが、お金を第一にすると、デザインが去っていくように思います。「人々の生活が向上するために、人々のニーズにどうこたえたら良いか?」そこから、しばらしいアイディアが生まれます。イエスさまはものすごく知恵がありました。当時の宗教家たちが難問をふっかけても即座に答えることができました。なぜなら、それは神が共におられたからです。そして、イエス様はみことばをよく読んでおられたからです。みことばこそが知恵の宝庫です。これは賜物とは関係なく、クリスチャンであるならだれにも与えられます。詩篇119:130「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」アーメン。私たちがみことばに親しむとき、聖霊様が今、ぶつかっている問題に対して、解決する知恵を与えてくださいます。いつも、みことばと神さまと親しく交わり、必要な知恵をいただきましょう。

|

« 2011年2月 | トップページ | 2011年4月 »