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2011年2月27日 (日)

試練を喜びと思え     ヤコブ1:1-4、12-16

ヤコブはイエス様の兄弟ヤコブです。イエス様は聖霊によって奇跡的に生まれましたが、ヨセフとマリヤには自然の関係で生まれた子どもたちがいました。兄弟たちはイエス様を信じませんでしたが、あとで信じたようです。だから、ここで「神とイエス・キリストのしもべヤコブ」と自分のことを紹介しています。弟子のヤコブはヘロデに切り殺されましたが、このヤコブは初代教会のリーダーになりました。ヤコブの手紙を読むと、「信仰だけではなく、行ないも必要である」と書いてあります。「信じるだけで救われる」という、信仰義認と真っ向から戦っている感じがします。そのため、宗教改革者マルチン・ルターは「ヤコブ書は藁の書簡である」とヤコブ書をこき下ろしました。なぜなら、ルターはそのとき、信仰義認を強調したかったからです。教会は長い歴史の中で、「人はイエス様を信じるだけで救われるけれど、信じた後は行ないが重要だ」ということを、分かってきました。ヤコブの手紙はとても辛口ですが、信仰の成長のためには大切な書物です。きょうから、しばらく韓国の辛口の料理を食べるように、この書物から学んでいきたいと思います。

1.試練を喜びと思え

 ヤコブ12「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」この1節を読んだだけで、私たちは度肝を抜かされます。「えー?、そんなのできないよ!」と叫びたくなります。「さまざまな試練」と書いてありますので、試練は1つではありません。人から非難されること、失敗や喪失、病気や怪我、立ちはだかる障害が「さまざまな試練」です。人生はまるで障害物競走です。みなさんは、障害物競走を走ったことがあるでしょうか?網があります。竹の棒で両端から挟まれたりします。跳び箱、平均台、ハードル、布袋があります。オリンピックでは水溜りもあります。ほんとうに無茶苦茶にされます。人生はまさしく、障害物競走です。でも、ヤコブはなぜ、さまざまな試練に会うときに喜べと言っているのでしょうか?まず、ヤコブ1:3にありますが「信仰が試されると忍耐が生じ」ます。ローマ人53にも「患難が忍耐を生み出す」と書いてあります。それでどうなるんですか?4節「その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」忍耐を働かせたら、成長を遂げた、完全な者となります。簡単に言うと、忍耐に欠けた人は、十分成長していない人ということになります。

 子どものことを考えるとどうでしょうか?子どもは忍耐深いでしょうか?「欲しい」と思ったら、今、手に入れなければ満足しません。親が「明日まで待って」と言っても、言うことを聞きません。子どもには「明日」とか、「一週間後」などという考えがありません。大人でも「今欲しい、今でなければダメ」という人もいるかもしれません。サービスエリアに来ますと、最近はコーヒー豆を轢いてから、ちゃんとしたコーヒーを出す自動販売機があります。でも、1分くらい待たなければなりません。イライラしてきます。でも、機械にはモニターが付いていて、今、どの行程にあるか見せてくれます。それで何とか待つことができます。しかし、本当の試練はいつになったら、この試練を抜けられるのか、先が見えません。人生は、ゴールが見えない障害物競走です。ヨブの人生がそうでした。今、私たちは聖書日課でヨブ記を読んでいます。ヨブは一瞬に財産や子どもたちを失い、健康までも失いました。妻からは「神を呪って死になさい」と言われるし、友達からは「お前は何か悪いことをしたからだろう」と責められます。ヨブ記はなんと、42章まであります。ヨブ記2章から41章までが、長い試練のトンネルのようです。私たちはすぐ、42章に行きたいと思いますが、そうは行きません。「ああ、なんでこんなことが起こるのか?もう耐えられない、もう嫌だ、もう死にたい」となります。ヨブはそういう長いトンネルを越えて、42章の二倍の祝福にたどり着いたのです。そういう意味で、ヨブ記は試練に耐えるとどのような結末が待っているか、教えてくれるすばらしい書物です。

 健康で物ごとがうまく言っているときは、「ああ、試練を乗り越えたら、完全な者になるんだなー」と分かります。でも、試練の中にいるときは、そういう考えが全部、吹っ飛びます。パウロが地中海で嵐に遭っているとき、どうだったでしょうか?使徒2720「太陽も星も見えない日が幾日も続き、激しい暴風が吹きまくるので、私たちが助かる最後の望みも今や絶たれようとしていた。」せめて、星くらい見えて欲しいのに、それも見えない。今、自分がどこにいて、これからどこに流されるのか分からない。自分が乗っている船がいつ難破するか、どこで座礁するのか分かりません。これが本当の試練です。でも、神さまは私たちを子どもとして扱ってくださるので、忍耐を学び、完全に成長した者となるように、あえて試練を通らされるのです。『恵みの歩み』の著者、スティーブ・マクベイ師にこのようなことがあったそうです。子どもが3歳のとき、夜中に、ものすごく苦しみながら泣いていました。他の子どもたちを妻に任せ、先生はその子どもを救急病院に急いで連れて行きました。検査をして分かりました。腸が圧迫されていて、何時間も排尿や排便ができていない状態で、そのために苦しんでいるのです。お医者さんは、「このまま放っておくと危険な状態になります。これからカテーティルを膀胱と肛門から入れなければなりません」と言いました。お医者さんは、子どもを診察台に置き、裸にして、カテーティルを息子に入れようとしました。息子は叫び出し、逃げようとしました。お医者さんが先生を見て、「しっかし、押えなければいけません」と言いました。先生は、自分の体重をかけて、台に息子を押えるしかありませんでした。息子が「お父さん、やめさせて!」と泣き出しました。「もう、やめさせてよ、お父さん。やめさせて!お父さん、お願いだよ。お願いだからやめさせて!」先生も泣きました。そして、体重をかけて押えました。そして、先生の頬を息子の頬につけました。息子の涙と先生の涙が一緒になりました。息子は「なんで、やめさせてくれないの!」と言いました。先生は、答える言葉がありませんでした。息子は3歳、どのようにして納得させることができるでしょう。先生は、抱きしめながら、息子を押えました。先生は、泣きながら息子に言いました。「お父さんを信頼して、お父さんを信頼して、これはしなければならないことだから」。

私たちにも同じことが起こります。父なる神さまは、私たちが私生児ではなく、ご自分の子であるからこそ、あえて試練を通されるのです。それは、私たちが完全に成長した者となるためです。御子イエス様ですら、試練を通され従順を学んだのですから、私たちはどうでしょうか?しかし、現実の私たちは、試練や苦しみを迂回して、楽な道を行こうとします。障害物競走で、網の脇を通ったり、跳び箱を飛ばないで横を走ったなら失格です。何故、私たちは子どものままで成長しないのでしょうか?それは、乗り越えるべき試練を乗り越えないで、迂回したからではないでしょうか?親が子どもを甘やかせたり、守り過ぎたりすることも1つの原因です。動物の世界の方がまだ、良いかもしれません。ヒョウはあるときになると、若者のヒョウを離します。若者のヒョウは自分で狩りをして獲物を捕らえなければなりません。若者のヒョウは1ヶ月も獲物が取れなくて餓死寸前まで追い込まれます。それでも親は助けません。死んだらそれが宿命くらいに思っているのかもしれません。それから、はじめて、若者のヒョウは自分で狩りができるようになるのです。人間には、それができません。親離れ、子離れができないでいます。でも、父なる神さまは違います。ご自分の子どもとして受け入れたからには、ちゃんと取り扱ってくださいます。イスラエルの民はあえて荒野を通らされました。それは、彼らを訓練するためでした。しかし、ほとんどの民は試練を乗り越えられず、荒野で屍をさらして死にました。私たちはそうであってはなりません。「試練によって忍耐を学び、その後は成長を遂げた、完全な者となるんだ!」と考えなければなりません。『荒野で勝利する』という本があります。人は緑の牧場で成長するのではなく、霊的に乾いた時期に成長して強くなるんだということです。私たちの過去を振り返って見てどうでしょうか?「一番、自分が神さまの取り扱いを受けて、成長させられたなー」という時はいつでしょうか?楽しかった時よりも、辛かった時ではないでしょうか?辛いことがあったゆえに、信仰が本物になり、1ランク上に登ることができたのではないでしょうか?ハレルヤ!だから試練は良いものです。試練がやってきたら喜びましょう。なぜなら、忍耐力が生まれ、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となるからです。ヘブル1211「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」

2.試練の中で誘惑されるな

 ヤコブ1:12-14「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。」ヤコブ書の特徴の1つでもありますが、試練と誘惑の関係であります。日本語ではわかりませんが、ヤコブ書では試練と誘惑が同じギリシャ語、ペイラスモスです。ペイラスモスは、試練とも訳されますが、誘惑とも訳されるということです。英語では試練をtrialと言います。trialは車の耐久レースの時も使います。この車が、本当に耐久性があるのか?過酷な環境のもとで、長時間走らされたりします。ある場合はエンジンが焼け付きを起したり、ミッションや足回りが壊れたりします。そのとき、「ああー、この箇所を改良しなければならないなー」と分かります。私たちも平穏無事なときは、「ああー、その人は健全で明るい人だなー」と思います。ところがどうでしょう?ひとたび、その人が不当な扱いを受けたり、思わぬ出来事に遭遇したらどうでしょうか?これまで、表面に出ていなかった、怒りや憎しみ、欠点が顔を出すかもしれません。コップに泥水を入れておいたとします。しばらくすると、泥が沈殿し、上は透明できれいな水になります。でも、そのコップの水を棒で攪拌したらどうでしょう?「ばぁー」と泥が上がってくるでしょう。救われた私たちも全く同じです。平穏なときは、「信仰、希望、愛!」と言っているかもしれません。でも、試練がやってきたら、それらのものがどこかへ吹っ飛んでいきます。そのように、試練によって、本当に信仰があるのか試されるのです。

 では、なぜ、ヤコブの手紙は試練とも誘惑とも取れるような単語を使ったのでしょうか?その人に試練がやってきたらどう思うでしょうか?たとえば、思わぬ事故とか、損失をこうむるようなことが起きたらどうなるでしょう?「ああ、これは試練だ。喜ぼう」とは、すぐなりません。「なんで、こんなことが起きたんだろう?」と思います。もっとひどくなると「神さま、どうしてこんなことが私に起こることを許されたのですか?あなたが本当に愛なるお方でしたら、こんな目に私を会わせないでしょう?神さま、ひどいじゃないですか!」となるかもしれません。ある牧師が神さまに長い間、忠実に仕えていました。ところが、長男が事故か何かで突然、亡くなりました。その時、牧師は「神さま、こんなにあなたに仕えてきたのにひどいじゃないですか。神さまのばかやろう!」と天に唾を吐いたそうです。どうでしょう?結婚している人は、夫か妻が突然亡くなったら、「神さま、ひどいじゃないですか!」と恨みごとを言うのではないでしょうか?つまり、試練は神さまに対して不信仰を持つ誘惑になってしまうことがあるということです。だから、試練とも誘惑とも取れるような単語になっているのです。では、神さまは私たちに好んで、誘惑をしかけるお方なのでしょうか?「神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。」そうです。神さまが誘惑に会わせるのではなく、私たちの欲、あるいは罪がそうさせるのです。私たちは満たされている時は、「全く問題はありません」と言います。でも、この世においては、そういう時ばかりではありません。反対に、「思うように、うまくいかないなー」「困ったことが起きたぞ」「ああー、やりたくないなー」そういうことの方が多いのです。そこに、神さまの方法でないもの、良くないものがやってきます。最初は、「ああ、こういうのはみこころじゃない」と退けるでしょう。しかし、何度も何度も、やって来ると「やっぱり、それにしようかな?」と良くないものを選びます。これが罪です。結果的に、それが盗み、偽り、ごまかしになります。窃盗、殺人、姦淫は、悪いことだと知っていますが、最初は美しい姿でやってきます。まるで、窮地から自分を救ってくれる女神にように見えるのです。それが誘惑です。

 主の祈りの中で「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」と祈ります。この世では、誘惑があるのです。だから、イエス様は「誘惑に会わせないように祈れ!」とおっしゃったのです。誘惑の背後には明らかに悪魔がいます。悪魔は私たちを神さまから離して、信仰をなくすように仕向けます。悪魔は私たちから救いを奪うことはできませんが、喜び、勝利、祝福を奪うことができます。私はもの心ついたときから、ずっと鬱的でした。いつも鬱なので、それが鬱だとは分かりませんでした。クリスチャンになったのに、「なぜ喜びがないんだろう?」としばしば、思いました。道を歩いていると、向こうから幸せそうなカップルを見ます。楽しそうに笑っています。「未信者なのに、どうして、あんなに楽しそうだんだろう」と不思議に思うときがあります。ついこの間、ようやく分かりました。ヨハネ10:10「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」アーメン。盗人とは悪魔のことです。悪魔は「盗み、殺し、滅ぼす」ために私たちのところにやってきます。私は気付きました。「なぜ、喜びがなくて鬱的なんだろう?そうだ。悪魔から喜びが奪われているんだ!」と気付きました。それからは、「悪魔よ、私から喜びを奪うな、退け!」と命じるように決めました。するとどうでしょう?不思議に喜びが湧いてきます。イエス様は私たちがいのちを得、またそれを豊かに持つために来られました。イエス様がくださるのは、鬱ではなく、喜びです。アーメン。確かに私が鬱になりやすいのは、生まれ育った環境から来ています。でも、今は救われ、心が変えられ、新しい道を歩んでいます。なのに、どうしてまた鬱になる必要があるのでしょう?それは、悪魔から喜びを盗まれているからです。

 みなさん、私たちの主イエス・キリストは悪魔の試みに会われました。洗礼を受けた後、天から御霊が降りて来て、イエス様は御霊に満たされました。それからどうしたでしょう?マルコ1:12 「そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。」うぁー、イエス様は御霊に満たされた後、すぐ公生涯に入ったのではありません。その前に、40日間、荒野で悪魔の誘惑を受けられました。しかし、ここでの「誘惑」も、「試練」と訳せる同じことばです。イエス様は神さまのお許しのもとで、試練に会い、悪魔の誘惑を受けられたのです。イエス様に罪があったのでしょうか?イエス様には罪がありませんでした。だから、「自分の欲に引かれ、おびきよせられ、誘惑される」ということはなかったでしょう。しかし、イエス様は私たちと同じ肉体を持っておられました。40日、食べないとやはり空腹になります。悪魔が「石をパンに変えよ」言ったらどうでしょう?イエス様は神さまなのでやろうと思えばできたのです。しかし、しませんでした。「高いところから飛び降りよ」と言われても、それができたのです。しかし、しませんでした。何故でしょう?それは、私たちの救い主になるためです。ゲツセマネの園では、「その杯を飲みたくない」と言いました。悪魔は「やめろ、やめろ!できっこない」と迫ったでしょう。でも、イエス様は誘惑に勝って、十字架の道を選ばれました。なぜでしょう?私たちに誘惑に勝利できる力を与えたかったからです。

みなさんは、血清はどのように作るかご存知でしょうか?動物をわざと病気にかからせ、その血清を私たちに入れます。血清には病に打ち勝つ抗体ができているのです。それを私たちに入れると、同じ病に打ち勝つのです。韓国のクリスチャンがよく賛美する賛美があります。「勝利は我がもの、勝利は我がもの、主イエスの血しおで勝利は我がもの。我がもの勝利こそ、主イエスの血しおでいつも勝利!」「罪、重荷を除くは、血の力、主の血は、悪魔のわざをこぼつ、奇しき力なり。力ある主イエスの血受けよー、受けよー。力ある主イエスの血受けよー、今受けよ」。なぜ、イエス様の血で悪魔に打ち勝つことができるのでしょうか?それは、イエス様の十字架の血は、悪魔に打ち勝った血だからです。私たちがその血を受けるときに、私たちは悪魔の誘惑に勝利することができるのです。私は、それが今、はじめて分かりました。皆さん、イエス様の血しおは贖いの血、救われるための血です。しかし、それだけではありません。私たちがクリスチャンとして悪魔の誘惑に打ち勝つために、流された血でもあります。悪魔に打ち勝たれたイエス様の血を信仰によって受けましょう。世の中の人は「え?血?なんて野蛮なんだ。キリスト教はもっと清潔なものだろう」と揶揄するかもしれません。そうではありません。キリストの血は救いの源であり、勝利の力です。どうぞ、誘惑に打ち勝つイエス様の血を受けましょう。そうするとどうなるのでしょうか?私たちにやって来るものは、誘惑ではなく、乗り越えるべき試練として見えてきます。最後にこのみことばを引用して終えたいと思います。Ⅱコリント10:13「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」神さまは真実な方です。私たちを耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。イエス様が共にいて、試練を乗り越えさせてくださるのです。そして、試練を乗り越えるたびごとに、私たちは成長し、完全な者へと変えられるのです。アーメン。

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2011年2月20日 (日)

健康な教会の8つの要素    マルコ4:26-32

前回まで信仰のDNAシリーズを49回で終えることができました。きょうは、そのおまけ50回目です。50というのは、ヨベルの年と関係があり、まことにめでたい数字です。来週からはヤコブの手紙からメッセージしたいと思いますので、どうぞご期待ください。クリスチャン・シュワルツという人が、世界32カ国の教会に関わり、420万もの回答を分析処理しました。いかにもドイツ人らしいですね。そして、「文化や神学的教理に左右されない正しい教会成長の原則とは何か」という答えを出しました。その鍵になったみことばが、マルコ4章の「人手によらず」あるいは「おのずと」であります。つまり、教会の成長は作物の成長に共通しているということです。人の手によるものが人為的方策であるならば、「おのずと」は、神様が与えた生物的可能性です。彼は「成長している教会には、成長していない教会にはない独特な資質特徴がある」と主張し、以下の8つの項目をあげています。

1.能力付与的なリーダーシップ

 能力付与は英語ではempoweringですが、「人に権限を与える、権威を委譲する」というふうに訳されます。簡単に言うと、牧師一人がスパー・スターになるのではなく、他の人を育てて、任せていくということです。長年、牧師をやっていますと「自分ほど聖書的知識のある人はいない」「自分ほど経験を積んだ人はいない」と思うようになります。そして、若い人が未熟に見えてきて、任せることができなくなります。能力付与的なリーダーシップとは、一般の聖徒たちを建て上げて、奉仕を任せていくというものです。つまり、自分の権威や能力を独り占めするのではなく、聖徒たちに分散させ、委任させていくということです。そういうリーダーは上から命じるのではなく、下から支えるサーバント・リーダーです。各自が、かしらなっるキリストに聞いて従うことを求めます。かといって、丸投げ式ではありません。私はこれまで、丸投げ式であったことを深く反省しています。やはり、学びや訓練、見習い期間を経て、序々に任せていく必要があります。そのためには、弟子訓練とかコーチングがとても有効です。今、韓国の『二つの翼』を学んでいますが、働き人を再生産するプログラムが必要であると気付かされました。これから、養育プログラムのシステムを立ち上げる必要があると思います。私はこれまで何でもやってきました。しかし、今は、全く音楽関係はタッチしていません。お掃除や会計も任せています。これからは、説教や伝道牧会も任せていけたら良いと思います。「失敗を恐れずに、いろんなセルを作り、自主的にやってください」と、言うつもりです。そうなったら、もう、私のすることがなくなります。教会は牧師のものではありません。教会はみなさん、聖徒たちのものです。牧師はいつか教会から去りますが、みなさんはずっと教会に残ります。牧師が主役ではありません。みなさんが主役なのです。もし、牧師がどうしてもしなければならないものを上げるとしたら、ビジョンと方向性を示すということです。そして、「かしらなるイエス様は何とおっしゃっているでしょう。みなさん、イエス様に聞き従いましょう」と言うことです。

2.賜物に基いたミニストリー

 従来の奉仕は、使命でやっていました。自分にそういう賜物がなくても、やる人が他にいないのでやってきました。もし、使命感だけでやっていると、疲れて、いつかは燃え尽きます。しかし、神様が与えてくださった賜物で奉仕するなら疲れないし、幸福感もあって楽しいのではないでしょうか?動物たちが、未来に良い指導者を輩出するために学校を作り、かけっこ、木登り、飛び、水泳を学ばせました。入学した全ての動物たちは、例外なくこの4つの科目を受講し、全科目に合格しなければなりませんでした。アヒルは水泳では水泳の先生よりも上手でした。しかし、かけっこと木登りは全然だめでした。かけっこで成績が悪かったため、放課後もかけっこの練習をしました。時には水泳の授業をサボって、かけっこの練習をしたりもしました。かけっこを続け、木登りをしたため、彼の水かきはすり減って切れ、水泳ができなくなりました。結局、得意だった水泳のテストもDという成績しかとれませんでした。この物語はさらに続きますが、不得意な科目を上達させようとしたために、優秀な賜物がダメになったという内容です。創造主なる神さまはみなさん一人ひとりを独特に創造されました。それぞれ、何に関心を持っているのか、どんな賜物があるのか、そして性格も違います。関心、賜物、性格、これら3つを合わせると、あなたがどんな奉仕に向いているか分かります。ですから、それぞれの賜物を発見するテストを受けて、主の与えてくださった賜物にあった奉仕をすれば良いと思います。そうすると、疲れないし、楽しいし、燃え尽きることもありません。教会はキリストのからだであり、みなさん一人ひとりはからだの各器官です。手の人もおれば、足の人、耳の人、口の人、ハートの人、頭脳の人、いろいろいて良いのです。上から命令されてやるのではなく、神さまから与えられた賜物によって奉仕をする。これが一番、長続きする方法です。どうぞ、それを発見して、神さまに用いてもらいましょう。

3.霊的な熱心さ

この意味は、カリスマ的かカリスマ的でないかではなく、「この教会のクリスチャンは燃えているか」です。アントニオ猪木が「元気ですかー、元気があれば何でもできる」と言っているようなことです。律法主義・形式主義的な教会は、たいていの場合、霊的な熱心さは平均以下です。成長する教会の人たちは、イエス様と教会を愛しています。教会の歴史を見ますと、何かムーブメントが起きたときは非常に熱心です。でも、ある人たちが「極端になるのは良くない」と神学的にまとめたり、組織を作るとどういうわけか火も消えてしまいます。いわゆる、死せる正統主義になります。海の水をバケツにくんできて、「これが海の水です」とは言えません。ジャンプするかえるを解剖して、「これがかえるです」とも言えません。霊的な熱心さとは、言い換えれば「いのち」です。いのちというものは、ことばで定義することができません。子どもに「生きていますか?」と聞くと「もちろん、生きているよ」と答えるでしょう。また、熱心さと関係があるのが祈りです。祈りというと、「教会で祈祷会を持っているか」という所にすぐ行ってしまいます。調査によると、ひとりのクリスチャンが祈りに費やす時間の量とは関係ありません。それよりも、祈りが生き生きとした経験となっているどうかです。私がインドネシアのアバラブ教会に行ってわかったのは、彼らはイエス様との交わりを喜んでいることです。さらに彼らは共に祈り合うことを喜んでいます。これまでは、祈りと言うと祈祷山にこもって、何日間も断食するような悲壮感がありました。でも、24時間、共におられるイエス様と交わることによって、聖霊が自然に情熱を与えてくれます。その上に、兄弟姉妹が共に祈るとき、「薪は1本よりも、数本集まった方が良く燃える」という相乗効果が起こります。これから当教会で祈祷会を持つことは反対しません。ぜひ、持ったら良いと思います。でも、大事なのは、義務感で祈るのではなく、イエス様との交わりを喜んでいるかどうかです。日々、イエス様と交わる。問題があっても、なくても、共に祈る。これが大事なんです。

4.機能的な組織

 人為方策的な教会は、「役員会」や「委員会」を設けて、「ああではない、こうではない」と議論します。議決機関はあっても、実行する人たちがいないのです。「役員会で決めましたので誰か、奉仕をお願いします」と言うのはあまり効果がありません。世の中の構造は、お金とか権力ゆえに、上部が決めたことに、いやでも従うしかありません。でも、教会はボランティアですから、「役員が決めたからやる」いうのは、情熱がわかないでしょう。決めた人たちがやるというのが一番です。そして、役員会はそれに予算を出したり、励ましたりして後押しするという組織構造です。でも、多くの場合、役員会は「そんなのはやったことがない」と水を差します。「前例がないから」とは、どこかで聞いたことのあるようなセリフです。クリスチャン・スワルツは「伝統主義は機能的組織と正反対なものである」と言っています。韓国では一番保守的な機関が3つあるそうです。軍隊、公務員、教会です。日本では相撲協会かもしれません。デジタルの時代なのに、今だに変わらない。数十年も前から、同じ組織を立てています。いつも会議、ミーティングをしています。機能的な組織とは何でしょう?それは、それぞれの部門の働きをそれぞれの部門が決めてやれば良いということです。もちろん、それぞれの部門にはリーダーが必要です。しかし、部門ごとにやれば、無駄な会議を少なくすることができます。最も大事なのは、組織よりも本質です。本質にあっていない組織は、思い切って捨てるべきです。特に男性は、会議になると会議モードになってしまいます。会社でやっていることを教会にも求めたりします。会社と教会は違います。私たちは左脳ではなく、右脳を働かせて、神様に聞く必要があります。私は「組織はできるだけシンプルにして機能的にする」これが一番であると思います。イエス様は福音書で「新しいぶどう酒はあたらしい皮袋に入れなければならない」と言われました。皮袋とは組織とか伝統です。私たちはそういうものを、神さまに聞いていつも柔軟なものにしなければならないということです。

5.霊的感動あふれる礼拝

 礼拝が、典礼的か、自由な形式かとも関係がないというデーターが出ています。私は自由な形式を好みますが、ある方々は典礼的な方が恵まれるようです。でも、重要なことは、礼拝が参加者にとって「霊的に鼓舞し、活気を与える経験であるかどうか」です。真に生き生きとした礼拝に出席している人は、口をそろえて「教会に行くことが楽しい」と言います。私たちは訓練されたアッシャーや有能な司会者、あるいは音楽のテクニックと考えます。それも大切ですが、もっと大切なのは、私たちが聖霊様を認め、聖霊様を歓迎し、聖霊様に対して従順であることです。セルチャーチは小グループの集まりと、大勢で集まる祭典的な礼拝を持っています。小グループの集まりは家族のような親しい交わりです。互いに愛し、互いに祈り、互いに励まし合うグループです。もちろん、そういう親しい交わりも大切です。でも、大勢の人が集まり、たくさんの楽器のもとで、大きな声で賛美して、神さまをお祝いする。そういう祭典的な礼拝も必要です。大勢で賛美したら、「うぁー、天国みたいだなー」と思うでしょう。最後の主の祈りのときは、みなさんが大きな声で賛美しているので、「天国みたいだなー」と思います。聖日礼拝は、神さまを体験することができるすばらしい機会です。どうぞ、みなさんもそのために祈って、期待してお越しください。30年くらい前、チョー先生のヨイド純福音教会の礼拝に出たことがあります。ロープが張ってあって、みんな1時間待ちです。私たちは日本人だったので、脇からはいることができましたが、2万人くらいの人たちがひしめきあっていました。礼拝は1時間で終りますが、出る人と入る人が、ごったがえしして、迷子になるのではないかと思いました。必ずしも人数ではありませんが、主の復活をお祝いするにふさわしい祭典的な礼拝が良いと思います。

6.全人的な小グループ

 全人的とは、英語でホーリスティックと言います。ホールとは全部、全体という意味です。ケーキ丸ごとを、ホール・ケーキと言います。イエス様が病人に対して「癒されるように」と命じるとき、英語の聖書ではbe wholeと書いてあります。「完全になるように」という意味になります。つまり、ホーリスティックは、霊、心、体、物質、社会性を包括した、「全人的な」という意味です。では、全人的な小グループが教会にあるとどうでしょうか?そこでは、聖書のみことばを分かち合うだけではなく、身近な事柄や疑問を分かち合います。頭の考えだけではなく、感情や心の傷さえも分かち合うのです。伝統的な教会が、家庭集会を開いても、それは礼拝を小さくしたものです。先生が語ったあと、お茶を飲んで、少し交わって帰ります。交わりがおまけになっています。私たちはセル(細胞)と呼んでいますが、この小グループは集会だけではなく、生活を分かち合っているのです。自然に成長している教会では「私たちの教会には、個人的に自分の問題を話し合えるグループがある」「私たちの教会は小グループの増殖を意識的に進めている」というアンケート結果が出ています。そして、小グループの交わりは集会のときだけではなく、日々、日常的に助け合い、励まし合う親しい関係になるべきです。私たちの周りはほとんど未信者です。信仰的な問題を打ち明けても、的外れな意見しか返ってきません。私たちは滅びから救われ、永遠の御国まで続く、いわば運命共同体です。ですから、何でも腹を割って、打ち明け、共に祈る仲間が必要です。生身の人間と生身の人間ならぶつかり、傷つけ合うでしょう、しかし、贖い主なるイエス様を間に置くならば、兄弟姉妹の交わりが可能になります。多くの場合、私たちは人間関係で傷ついてきました。人間関係の傷を治すのは、やっぱり主にある人間関係しかありません。

7.ニーズ志向的伝道

ニーズ志向とは人々の必要を尊重するということです。教会はこれまで、「神・罪・救い」を伝道という名で押し付けてきました。相手の必要よりも、「あなたは、まず、救われなければならない」と、こちら側の主張を押し付けてきました。人が亡くなるという緊急の場合は、それも必要でしょう。でも、いつでもそれが良いとは限りません。聖書を見ると、イエス様のところに霊的な必要を求めてきたのは、ニコデモくらいです。多くの人は、病を癒してほしいとか、目を開けてくれとか、お腹がすいたという理由で近づいてきました。彼らは具体的な必要を満たされた後、自らの霊的な必要に気づいたのであります。ですから、隣人が何を必要としているかということに気づき、愛して仕えていくということが重要です。その人がイエス様を信じようとしなくても、教会に来なくても、福音の愛で愛するのです。そうすると、聖霊様が臨んで、その人たちに飢え渇きを与えてくださいます。だから、それまで、多くの投資をする必要があります。伝道の書111に「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう」と書いてあります。私たちは伝道というと、全く知らない人たちを教会に連れてくることだと思うかもしれません。「私は未信者の人たちとほとんど接触がない」と嘆いているかもしれません。しかし、そうではありません。今、すでに持っている人間関係から始めることが重要です。あなたの家庭や親族、会社、地域社会の人たちを数えたら10人くらいはいるでしょう。その人たちが何を求めているのか?あなたがそこを満たすように仕えていくとき、その人はあなたが持っている福音をも求めるようになるのです。

8.互いに愛する関係

 自然に成長する教会のアンケートに「愛の測定値」というものがあり、そこには12の質問があります。例えば、「教会員が教会の行事以外で、どれくらいお互いに時間を過ごしているか」。「どれくらいお互いに食事やお茶に接待し合っているか」。「教会がどれほど心を開いて祝福の挨拶をしているか」。「牧師は教会員の個人的な問題を知っているか」。その中の、「教会に笑い声があふれているかどうか」という質問は、その教会の質と成長に深くかかわっているということです。当教会のように、笑い声がある教会は、良い教会なのです。教会に怖い人がいたり、プレッシャーを与える人がいると笑い声は途絶えてしまいます。ある教会では、子どもが説教中に騒ぎ出すと講壇から「子どもを連れ出すように」と、叫ぶ牧師がいるようです。箴言144「牛がいなければかいば桶はきれいだ。しかし、牛の力によって収穫は多くなる」とあります。教会に子どもたちがいなくて静かであるなら、教会の将来がありません。子どもたちの声であふれている、それは将来性のある教会です。また、教会がミニストリー、奉仕中心になると、愛がなおざりにされます。何をするかも大切ですが、円滑な人間関係を築くことはもっと大切です。「無駄なー」と思う時間が、かえって良い場合があるのです。人間には仕事重視の人と関係重視の人が2種類いるそうです。仕事重視の人は仕事をバリバリやりますが、人間関係はなおざりにしがちです。関係重視の人はおしゃべりばかりして、仕事がはかどらない傾向があります。教会は利益をあげる会社ではありません。ですから、どちらかと言うなら奉仕よりも関係を大事にすべきです。イエス様は弟子たちとよく食事をしていました。取税人や罪人たちとも食事をしました。ザアカイに、今から家に食べに行くからと言いました。死ぬ前も食事をしました。復活の朝もテベリヤ湖で食事をしました。世の終わりも、「私の声を聞いて戸を開けるなら、私は入って、共に食事をする」と約束しています。イエス様は、イーティング、ミーティング、イーティング、ミーティング。食べながら、教え、教えながら食べていました。おそらく、イエス様のまわりには笑い声がいつもあふれていたと思います。

 大切なのは、これらの8つが、バランスがとれていることです。8つの資質は桶の8枚の板みたいなものです。水は一番低い板のところまでしか、満たされないからです。ですから、8つの中で、どれが不足しているかをチェックして、そこに力を注ぐことが大切です。教会が健康になると、自然に成長するのです。ある人たちは「教会の成長と私の生活と何の関係があるんだ」と思うかもしれません。教会の本当の意味は、「神さまによって召しだされた人々」という意味です。つまり、クリスチャン一人ひとりが教会なのです。教会とは建物や組織ではなく、クリスチャン一人ひとりです。教会と自分たちとが別ものではなく、全く同じなのです。イエス様がご自身の血をもって買い取られたのが教会です。イエス様は教会を愛しておられます。そして、イエス様を愛している人は、教会をも愛すべきです。

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2011年2月13日 (日)

福音の管理      マタイ16:16-19、Ⅱテモテ4:1,2

これまで信仰の12のDNAについてお話してきましたが、きょうが最後です。教会がこの世において教会として存在している理由は何でしょう?私たち教会は、結局、何を管理しなければならないのでしょうか?それは、福音の管理であります。福音を宣べ伝えることによって、魂が救われる。このことは、神さまが最も教会に願っていることです。弟子訓練とか、セルチャーチとか言っても、魂が救われないと何も始まりません。伝道して、新しい魂が救われて、はじめて養育とか弟子訓練があるのです。教会は、いろんなことをすべきですし、いろんな活動をしても構いません。しかし、忘れてはならないのは、伝道、魂の救いつながっているかどうかです。教会がこのことを忘れてしまうと、老化して、やがては死に絶えてしまいます。日本の教会は伝道を忘れ、社会活動や神学ばかりやってきました。今、その付けがまわっていると言っても過言ではありません。

1.最大の使命

福音を宣べ伝えることは教会の最大の使命です。なぜでしょう?それは、イエス様が天にお帰りになるときに残した命令だからです。遺言と言っても良いかもしれません。マルコ1615,16それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」これはどういう意味でしょうか?福音を信じる者は救われ、信じない者は裁かれて永遠の滅びに行くということです。私たちは福音を提示されたとき、信じるか、信じないか、2つに1つしか選択肢がありません。確かに、「考えておきます」とか「もう、少し待ってください」という返事もないわけではありません。しかし、問題は、今後の残りの生涯において、福音を提示される機会があるかどうかです。一生において1回しか福音を聞いたことのない人もいれば、100回くらい聞いた人がいるかもしれません。どっちが神さまの前のさばきが重いでしょうか?100回聞いても信じない人の方が重いのです。ある人たちは、死ぬ直前に信じれば良いと思っているかもしれません。しかし、信じるというのは自分の意志だけではありません。聖霊様の助けがあるとき、人は初めて信じることができるのです。多くの場合、死が直前に迫っている場合、死の方が恐くて、信じるなどという余裕はないそうです。だから、イエス様は「光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい」(ヨハネ1236と言われたのです。

教会の歴史を見ますと、リバイバルという大勢、救われるすばらしい時がありました。18世紀にはイギリスのリバイバル、19-20世紀には南北アメリカ大陸にリバイバルがありました。そして、20-21世紀は中国、韓国、インドネシア、アフリカにリバイバルが起こっています。現在、リバイバルまでとはいきませんが、タイ、インド、モンゴル、ネパールもクリスチャン人口が増えています。日本はどうでしょうか?でも、日本にだけ、どうしてリバイバルが起こらないのでしょうか?今、日本の多くの教会は失望落胆の中にいます。リバイバルではなくて、サバイバル、生き残りをかけています。日本の教会は高齢化がとても進んでいます。日本基督教団は洗礼を受ける人よりも、召天する人の方がはるかに多いのです。福音派の人たちの口癖は「リバイバルが来なければどうしようもない」でした。私もその一人でした。昨年、エディレオ師と奥様が私にこのような預言をくださいました。「あなたは何度も、『神さま、どこにリバイバルがあるのですか?』と聞いています。『なぜ、そんなに時間がかかるのですか?主よ、きょうも祈ります。私に理解を与えてください』。しかし、今、主はこのように言われます。私は、私のしもべであるあなたの心を知っています。私はあなたの祈りを知っています。私はあなたの日本に対する心を知っています。あなたの祈りは私が答えます。でも、1つ知ってもらいたい。私には私の時があることを。主は、あなた自身を備えよとおっしゃっています。あなたが自分自身を備えたなら、私のリバイバルをあなたの人生の中で見るだろう。私はあなたをひとりぼっちにはしない。あなたをミニストリーに召したのは私だから。あなたは何回もミニストリーのために祈った。『神さま、どうしてたくさんの実を見ることができないのですか?』しかし、私のしもべよ、あなたの心が分かる。あなたが私に頼るなら。あなたの人生にこのことを成就する。」アーメン。

もちろん、私たちはリバイバルを求めるべきであります。しかし、パウロはテモテになんと言ったでしょうか?Ⅱテモテ41,2「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、私はおごそかに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」「時が良くても悪くても」というのは、ある英語の訳では、「シーズン、オア、アンシーズン」となっています。私たちは季節であろうと、季節でなかろうと、こつこつと福音を宣べ伝えるべきなのです。使徒パウロはローマ1章で「返さなければならない負債を負っている」と言いました。私たちはだれかから借金したら、返さなければなりません。パウロは福音を宣べ伝えることは、借金を返すことと同じであると言いたいのです。福音は宣べ伝えても、宣べ伝えなくても良いものではありません。クリスチャンであったなら、だれもが返さなければならない負債、借金だからです。自分の救いのことを考えるならどうでしょう?あの人が福音を伝えてくれたから、私は救われたのです。もし、私たちが救われていなかったならどんな生活をしていたでしょう?本当に、空恐ろしくなります。私のために福音を伝えてくださり、私のために祈ってくださった人がいたのです。だから、私たちは救われたのです。私たちも今度は、だれか別の人に福音を宣べ伝えなければなりません。そうです。借金を返すつもりで、宣べ伝えなければならないのです。

2.正しい福音

教会は正しい福音を管理していなければなりません。教会の歴史を振り返りますと、10~16世紀までは、中世の暗黒時代でした。国家と教会がくっつき過ぎて、堕落してしまったのです。神の国の拡大よりも、自分たちの国と権勢が目的でした。1517年に宗教改革が起こりました。「信じるだけで救われる」という福音の真髄が再確認されました。閉ざされていた福音が聖書と共に、復興したのです。でも、17世紀から啓蒙主義が起こり、福音が聖書と共に次第に捻じ曲げられるようになりました。本来、福音と聖書とは分離することは不可能なのです。なぜなら、正しい福音は聖書の中にあるからです。でも、啓蒙主義の影響を受けたキリスト教会は、「聖書にも誤りがある」ということを言い始めました。それを唱えるのが、リベラルという人たちです。しかし、うまく妥協した人たちがいました。「たとえ、聖書には誤りがあっても、キリストと出会ったならば、人は救われるんだ」と言いました。悪く言うと、ウソも方便です。私たちは聖書が真実でなければ、キリストも福音も真実でないと答えるしかありません。終わりの時代、福音に対する混ぜ物が横行しています。ひどいものになると、「他の宗教にも神さまが啓示されているのだから、キリスト以外にも救いがある」と言います。使徒パウロは何と言ったでしょうか?ガラテヤ18「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。」「私たち」とはだれでしょう?私たちとは、パウロをはじめ使徒たちが宣べ伝えた福音です。使徒ペテロは何と言ったでしょう?使徒412「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」「この方」とは、イエス・キリストです。使徒ヨハネは何と言ったでしょう?ヨハネ316「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」そして、ヨハネ3:18 「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」アーメン。

つまり、教会というのは使徒の教えに立っていなければなりません。これを使徒的教会と言います。使徒が言ったことに反することを教えているならば、それは本当の教会ではありません。偽物です。エペソ220「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」時代が進み、人々の科学や学問が発達しようとも、私たちは使徒たちの教えをどかすことはできません。どうぞ、ドイツやアメリカのどんな神学者が新説を唱えても信じないでください。使徒たちの教えに留まってこそ、本当の救いが保たれるからです。イエス様はペテロに「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます」と言われました。天の御国のかぎとは何でしょう?いろんな解釈があります。でも、私は福音ではないかと思います。なぜなら、人は福音を信じて、天の御国に入ることができるからです。福音を信じないなら、決して天の御国に入ることはできません。つまり、教会は福音という鍵をイエス様から預かっているのです。この福音という鍵を神さまは政府に預けたのではありません。大学の研究機関に預けたのでもありません。財界でも、マスコミでもありません。そうです。イエス様は教会に預けたのです。○○教団の創立100年の歴史ある教会にも預けました。しかし、看板も出していないような家の教会にも福音の鍵を預けておられるのです。使徒の働き11章には、名もない人たちが、アンテオケで福音を宣べ伝えました。福音の鍵を用いたのです。すると、アンテオケに群ができ、やがて異邦人教会のセンターになりました。みなさん、鍵というのはそんなに力がなくてもドアを開けることができます。鍵なしで力づくでやろうとすると大変です。鍵を回すのには、そんなに勉強する必要はありません。ある人が福音を熱心に宣べ伝えたので、1年で10人も20人も導かれました。その人が、神学校で3年間勉強しました。いろんな勉強を積んだんだから、もっとすばらしく伝道できるかと思いました。しかし、全く逆です。知識が増した分、恐れが増し、熱心さもなく、全く伝道ができなくなったのです。神学校を出たために、そういう人が結構いるようです。勉強も大事ですが、福音宣教は魂への愛と祈りと確信です。「今、福音を宣べ伝えなければ、この人は滅びてしまう。」だから、宣べ伝えるのです。一番の愛は何でしょうか?いろんな助けや親切も愛です。でも、そのままでは、死んで滅びてしまいます。イエス様の福音を伝えて、その人が救われたらどうでしょう。それが一番の愛ではないでしょうか?どうぞ、聖書の中に書かれている、正しい福音を単純に宣べ伝えてください。聖霊様が、あなたのことばを用いて、その人に回心を与えてくださいます。

3.商売せよ

福音を管理するとは、どういう意味でしょう。ただ、正しい福音を守るというだけではありません。福音をさらに拡大していくということです。ルカ19章にはミナのたとえが書かれています。ミナのたとえは、タラントのたとえと似てはいますが、違うところがあります。タラントのたとえは、それぞれ人によって神さまからゆだねられた量がそれぞれ違います。しかし、ミナのたとえは、みんな1ミナです。みんな1ミナ。ミナとは何でしょう?私は福音ではないかと思います。どんな人でも、平等に1個の福音を神さまからゆだねられています。たとえ話を見ますと、ある人は1ミナで10ミナもうけました。また、ある人は1ミナで5ミナもうけました。ところが、もう一人の人は、風呂敷に包んでしまっておきました。彼は、そのままご主人に渡しました。彼は「悪いしもべだ」と叱られ、持っていた1ミナまでも取り上げられてしまいました。このたとえの中心テーマは何でしょう?主人が帰るまで、商売するということです。商売とは、それを元手にして増やすということです。あずかった1ミナを、そのままご主人に返すのは怠惰なしもべであり、悪いしもです。もし、ミナが福音であるならば、商売するとはどういう意味でしょう?神さまからゆだねられた福音を一人でも多くの人に宣べ伝えて、救われる人を増やすということではないでしょうか?しかし、商売というのは厳しいもので、決して楽なことではありません。セールスで人に売ろうとすると、大体の人が「いらないよ」「間に合っています」「結構です」と断ります。しかし、本当にセールスに長けた人は、「断られてから本当の商売が始まる」と理解しているようです。それに比べ私たちクリスチャンはどうでしょうか?非常に打たれ弱い。10人に宣べ伝え、10人から断られると「日本は難しい!」と言います。日本のクリスチャン人口は1%ですから、50人に宣べ伝えて1人信じたら、大成功になります。だけど、49人も断られたら、本当にめげてしまいます。何か、もっと、確立の上がる伝道の秘訣でもあるのでしょうか?

これまでの教会の伝道方法は大衆伝道と個人伝道が主流でした。大衆伝道というのは、クルセード方式とも言って、広い会場に人々を集めます。すばらしい音楽を聞かせ、有名な伝道者からお話してもらいます。最後に「みなさん、目をつぶってください。きょうイエス様を信じる人は手をあげてください」と招きます。ある人たちが決心します。しかし、教会につがなる人は1%いないそうです。個人伝道も結構、勇気が必要です。また、ある程度の技術も必要です。私は、今か申し上げるこの2つこそが古くて新しい伝道スタイルではないかと確信しています。第一はあかし伝道です。マタイ24:14「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」これは大変有名なみことばです。御国の福音は全世界に宣べ伝えられることが第一です。しかし、それだけではありません。「すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます」とあります。福音宣教とあかしとは少し違います。あかしとは、その人の体験談を通して、神様のことを伝えることです。あかしは、インフォーマルで主観的です。「自分にこんなことがあったよ」と分かち合えば良いのです。相手がそれを受け入れるかどうかは別です。相手がそういうあかしを何度も聞くと、「イエス様、信じてみようかな?」と思うくらいまでは行きます。最後の刈り取りを自分でできなければ、教会の誰かにお願いしても構いません。でも、あなたが仲介者としてそこにいれば、とても簡単です。イエス様は種まきのたとえを話されました。硬い心であれば、愛の行ないによって耕す必要があります。石の心であれば、色んな話をして、偏見を取り除く必要があります。いばらが生えた心であれば、クリスチャン生活がどんなにすばらしいか体験させる必要があるでしょう。とにかく、畑を耕して、福音の種を蒔く必要があります。1回でうまく行くようなケースはまずありません。何度も蒔いていくうちに、芽が出て、成長し、実をならせるのです。どうぞ、可能性のある人を10人くらい選んで、祈りながら、あかし伝道をしましょう。

もう1つは、個人ではなくチームで行うということです。教会はキリストのからだです。からだの中にはいろんな器官があります。口の人もいれば、手の人もいます。足の人もいれば、耳の人もいます。耳、つまり人の話を聞くということは意外に重要です。人は自分の話しを聞いてくれたら、こんどは聞いてみようかなと思うからです。祈っている人が入院していたとします。一人よりもだれか友人と一緒に行きます。その友人が何か賜物やアイディアを持っているかもしれません。マッサージが得意とか、薬に対して知識があるとか、具体的な助けができるかもしれません。これをボディライフと言います。ボディライフとはからだの生活という意味です。一緒に生活を共にしながら、自然に福音を伝えていく方法です。ある人はもてなすことが得意です。また、ある人は語ることが得意です。また、ある人は手足を使って奉仕ができます。また、ある人は一生懸命とりなしの祈りをします。魚を捕まえるのにいろんな方法があります。個人伝道は一本釣りです。これは技術が必要です。熟達するのに、10年、20年かかるかもしれません。でも、網はどうでしょうか?地引網、はえ縄、底引き、投網…いろいろあります。網の方が、一本釣りよりも多くの魚が捕れます。みんなでやるので、個人の技量もそんなに高くなくても良いかもしれません。それでいて、多くの魚が取れるんだったら申し分ないと思います。ただし、「ぶらさがっていてば、なんとかなるかなー」という他人任せでは困ります。良いたとえかどうかわかりませんが、おみこしを担ぐ場合、どうでしょう?一生懸命担ぐ人もいれば、時にはかけ声ばかりで、担いでいない人も出てきます。一番、大切なのは、「自分は一体、どのからだの器官として働いているのかな?」という意識です。その次に大切なのは、それらを組み合わせるということです。たとえば、ゴスペルではいろんな人が奉仕しています。音楽を指導する人、伴奏する人がいます。後ろから歌ってあげる人もいます。会計さんとか新来者を歓迎する人、「上手!」と励ます人もいます。近所だったら友人になることも可能です。何かのため、祈ってあげることもできます。そうやって、チームで伝道することをボディライフ、あるいは網による魚捕りです。

網、ネットはいろんな意味があります。もし、網の目が大きすぎるならば、大きな魚しか捕れません。網の目がもっと細かいならば、小さい魚も捕れます。でも、問題なのは、網が破れている場合です。せっかく網に入ったけれど、途中から出て行ってしまう。網の破れとは何でしょう?それは、網自体に問題があるということです。内部で争っていたり、愛が欠乏している場合です。何かの罪が放置され、躓きを与えているかもしれません。牧師やリーダーは特に責任があります。Ⅰコリント13章には「愛とはどんなものか」について記されています。どんな賜物や能力があっても、愛がなければ無に等しいとまで書いています。この世は賜物や能力が最も重要視されます。仕事ができるかできないか、知識があるかないか、技術があるかないかです。しかし、キリスト教会、からだの教会は、愛の方がもっと重要になります。Ⅰコリント135-7「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」私たちは「ああー、自分にはないなー」と愕然としてしまいます。でも、「愛」をイエス様に置き換えたらどうでしょう?「イエス様は寛容であり、イエス様は親切です。」アーメン。イエス様を知り、イエス様にとどまり、イエス様に現れていただくときに、愛が出てくるのです。イエス様の愛とイエス様の福音がマッチするとき、人々が救われていくのではないでしょうか?

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2011年2月 6日 (日)

金銭の管理    ルカ16:10-13、Ⅱコリント9:6-8

信仰のDNAシリーズの最後の部分では、様々な管理について学んでいます。管理の中でも金銭は最も重要なテーマの1つです。教会がお金のことについて話すのは、意地汚いみたいに思われるかもしれません。一般的に宗教と言えばお金が付き物ですが、教会もそうなのでしょうか?お断わりしますが、キリスト教会は信者さんからお金を巻き上げるための宗教団体ではありません。でも、お金は非常にデリケートなものであることは確かです。なぜなら、お金のことで躓いて、教会に来なくなる人もいるからです。恐らくそこには、いろんな誤解があるのではないでしょうか?きょうは「金銭の管理」と題して、献金のことについて聖書から学びたいと思います。

1.献金の意味

 聖書で最も古いのは、創世記4章のカインとアベルが神さまに捧げものをしている記事です。カインはいくつかあるものの中から神様に捧げました。しかし、アベルは羊の群れから最上のものを捧げました。神様はアベルの捧げものに目を留められました。ヘブル11章では「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげた」と書いてあります。つまり、信仰がなければ、神さまには捧げられないということです。創世記15章にはアブラハムが十分の一を祭司であるメルキゼデクに捧げた記事があります。民数記18章にはイスラエルの民が十分の一を奉納物として主にささげることが命じられています。その十分の一は神さまに仕えるレビ人のものとなりました。旧約聖書には、農業あるいは牧畜で得たものの十分の一は神さまにお返しすべきであると記されています。そして、十分の一については、マラキ3章が最も有名です。マラキ3:8-10「人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってであるあなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。──万軍の主は仰せられる──わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」

 このように十分の一は神の律法として、旧約聖書に記されています。では、新約聖書の私たちはこの律法を守らなくてはいけないのでしょうか?マタイ23章でイエス様がこのように言われました。マタイ2323「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。」イエス様は律法学者やパリサイ人らに「十分の一よりも、正義とあわれみと誠実が大切である」と教えました。しかし、最後に「ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません」とおっしゃっています。つまり、イエス様は十分の一献金を認めておられるということです。しかし、旧約と新約で聖書全体が教えているメッセージがあります。それは何でしょう?すべては創造主なる神さまのものであるということです。詩篇241「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。」ハガイ28「銀はわたしのもの。金もわたしのもの。万軍の主の御告げ。」とあります。つまり、神さまが所有者で、私たち人間は管理者だということです。その証拠に、金銭や土地は死んだら手離さなければなりません。1坪の土地すらも、天国に持っていくことはできません。金銭や土地だけではありません。私たちの命、賜物、時間、家族、家、すべての持ち物は、神さまから預かっているのです。ですから、私たちはこれを正しく管理する必要があります。ルカ福音書1612-13「あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」とあります。他人のものに忠実であるとは、神さまのものに忠実であるということです。もし、神さまのものに忠実であるなら、天国で私たち自身に豊かなものが与えられるということです。

では、「神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」とは、どういう意味でしょうか?富は中立的な存在です。しかし、私たちは神さまよりも、富に仕えることもあるということです。イギリスの古い格言に「お金は悪い主人ではあるが、良いしもべである」というのがあります。もし、あなたがお金に支配されるなら、お金があなたを奴隷にするでしょう。主人であるお金にビシバシ打ち叩かれます。しかし、あなたがお金を良く管理すれば、お金はあなたに仕えるしもべになってくれます。あなたはお金の主人になりたいですか?それともお金のしもべになって打ち叩かれたいでしょうか?この世の中では、お金の奴隷になっている人がたくさんいます。では、どうしたらお金の主人になって、お金を正しく管理できるのでしょうか?それは、神さまを主人にするならば、お金の奴隷になることはないということです。では、具体的にどうすれば良いのでしょうか?聖書に、十分の一献金が数多く記されているのはそのためです。あなたが十分の一を捧げるとき、このようなことを神さまに告白していることになります。「神さま。この地上のすべての資源はあなたのものです。私の労働力もその賃金もあなたのものです。私は金銭を神さまとしません。あなたが私の主人です。その証拠に、十分の一をあなたに捧げます。これからも豊かにお支えください。アーメン」。十分の一を神さまにささげるということは、自分のすべての価値の源を神さまに置いているということです。マラキ書は「わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ」と述べています。聖書で唯一「神さまを試せ」と言われている箇所です。どうぞ、本当に神さまが生きておられるのか、あなたご自身が試してください。

2.献金の仕方(心構え)

 献金を捧げるためにはいくつかの順番があります。一番、最初に来るものは何でしょうか?そうです。私たちは受けなければ与えることはできません。ジョン・ウェスレーはAll you can get,

all you can save, and all you can give.「できるだけ多く得なさい。できるだけ多く蓄えなさい。そして、できるだけ多く与えなさい」と言いました。捧げるためにはまず、受けなければなりません。そのために、私たちは神さまから知恵、労働力、導き、資源を得るべきです。残念ながら、私たちはお金や物質という目に見えるものを第一に求めがちです。しかし、神さまが私たちに一番与えてくださるのは、知恵とかアイディアなど目に見えないものです。今は天に召されましたが、当教会に山崎長老さんがいました。山崎さんは戦後、北朝鮮から引き上げてこられ、ゼロから会社を興されました。肺結核を患ったため体力的には限界がありました。しかし、山崎さんには知恵がありました。朝、静まっていると「こうしなさい」と神さまから知恵がやってくるとよく言っていました。もう一人、教会には、戸叶長老さんもおられました。戸叶長老は真面目な方で、奥様は知恵者でした。ご両人とも若い頃、肺結核を患ったので体力がありませんでした。しかし、奥様には知恵がありました。商売の知恵です。だから、戸叶さんもゼロから会社を興すことができました。山崎さんも戸叶さんもよく捧げてくださいました。よく捧げるので、神様はさらにお二人の事業を祝してくださいました。ハレルヤ!ある人は「お金をもうけることは悪いことだ」と言います。しかし、聖書には「神から与えられたもので、商売をしなさい」というたとえ話がいくつもあります。どうぞ、「自分は貧しいから何もできない」と自己憐憫に陥らないでください。神さまに創造力と知恵とアイディアを求めてください。神様は創造者ですから、私たちにクリエィティブなアイディアを与えてくださいます。

 ケンタッキー・フライドチキンといえばカーネル・サンダースです。彼はクリスチャンとして、もてなしの精神でいろんなお仕事をしました。ハイウェーの建設で、町で営業していたカフェがつぶれました。彼はそのとき65歳でしたが、ふっとアイディアが与えられました。それは、町の繁華街ではなく、郊外のフリーウェイの入口にお店を設けるということでした。彼が持っていた唯一の財産は、お母さん直伝のフライドチキンの特別な製法でした。その製法で売れたら、1羽につき5セントで売るという、フランチャイズにしました。そういう考えは、当時は全くありませんでした。カーネルおじさんが、神さまから知恵をいただいたとしか考えられません。もう1つ、ドミノピザというのがあります。これはトーマス・モナハンという黒人の孤児が始めたものです。彼も人に仕えようとしたクリスチャンです。当時、ピザの宅配というものがありませんでした。「手作りならではの味を食卓へ届ける」、「30分を超えた場合は50セント引き」というシステムが、アメリカでたくさんの支持を集めました。今や世界中で親しまれ、現在55ヶ国に8,500店以上に拡大しています。これも、すばらしいアイディアではないでしょうか?また、山崎パンのことも語らなければなりません。今、「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメントを読んだら』」という本がブレークしています。山崎パンの創立者はアメリカに渡り、ピーター・ドラッカー博士から経営理論を学びました。しかし、社長と弟と息子の意見の相違が対立し、深刻化していきました。そのとき、3人で教会へ通い、洗礼を受けました。神さまの力で3人が心を一致させることができました。ところが、受洗して11日後、主力工場の武蔵野工場が全焼。その時、彼らは「火災は、あまりにも事業本位で仕事を進めてきたことに対する神の戒めである。これからは神の御心にかなう会社に生まれ変わります」と祈りを捧げました。今は息子さんが会社を継いでいますが、毎日、3つのことを問うそうです。ドラッカーの経営理論の中からですが、第一は私のミッションは何か、第二は私の顧客は誰か、第三は私の顧客にとっての価値は何か、という3つです。デフレや消費不況とよく言われます。その中にあって山崎製パンの業績が伸びているのは、その証のように思います。

 神さまからいただいたものを、私たちはどうしたら良いのでしょうか?その一部を蒔く種として捧げるのです。Ⅱコリント9:6,7「私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」大きく分けて献金には2種類あります。1つは十分の一献金です。これは神さまから預かった一部をお返しするという意味があります。そうすると、マラキ3:11「私はあなたがたのために、いなごを叱って、作物を滅ぼさないようにする」と書いてあります。神さまは私たちの土地の周りに柵をもうけてくださり、泥棒や事故、災いから守ってくださいます。それだけではありません。私たちがその土地に種を蒔くことができます。それは神の国のために投資する献金です。集会献金、会堂献金、宣教献金、感謝献金なのです。1粒の種から1粒の実が得られるとはだれも思いません。多くて100倍、60倍、少なくても30倍の実を期待して良いのです。しかし、献金の原則、正しい心構えがあります。それは「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい」ということです。だれかから強制されて、いやいやする場合もあるでしょう。「しょうがないから、仕方がないので…」と捧げてはいけません。「心で決めたとおり」、つまり信仰をもって積極的にささげるということです。そういう人を神さまは祝福して豊かな報いを与えてくださるのです。多いか少ないかではありません、イエス様はささげる人の心を見てくださるのです。イエス様はレプタ2つをささげたやもめが、だれよりも多くささげたとおっしゃいました。どうぞ、神さまから多くいただき、その次は、信仰と感謝をもって種を蒔きましょう。

3.献金の用い方

 最後に兄弟姉妹から集められた献金を教会がどのように使うかという、金銭の管理についてお話したいと思います。献金は会費とかお布施ではありません。すべてを与えてくださった神さまに、感謝して捧げたものです。神さまは私たちのささげる心を見てくださいます。そして、神さまはその献金によって教会の働きをするように私たちに託してくださいます。注意すべことは、私たちの献金が直接、教会の働きのために用いられるのではありません。もし、そうだとしたら、それは会費になります。この世の中ではそういうサークルやカルチャースクールがいっぱい存在しています。そうではなく、献金はまず、神さまに私たちがささげます。その後、神さまが「教会の働きのために」と私たちに託してくださるのです。もし、会費であれば、「私たちに還元されていないじゃないか、儲けているんじゃないか」みたいな文句が出ます。実際、新興宗教はそういうところがあるかもしれません。しかし、キリスト教会は人件費、伝道費、集会費、建物の維持、保険等にあてられます。神さまに献金をしたのですから、紐つきはダメです。「神さまの御用のためにお使いください」と委ねる気持ちが大切です。だからと言って、牧師や役員が献金で投資をしたり、土地をころがしたりしてはいけません。しかし、教会によっては実際、そういうことをしたために、元金を失って、躓きを与えているところもあるようです。「新しい会堂建築のために」とみなさんにお願いしながら、全く別の用途に回したりする教会もないわけではありません。他の宗教団体ならともかく、教会では金銭のトラブルは大きなダメージを与えてしまいます。ですから、牧師と役員は金銭に対して、潔白でなければなりません。それでないと信用を失ってしまいます。

 牧師は「信仰があれば、神さまが与えてくださる。ビジョンが大切だ」と大きな予算をたてがちです。でも、役員や教会員は「でも、現実はこれしか予算がないのですよ」と言います。こういう戦いが、教会に必ずあるものです。信仰があるかないかではなく、両方とも正しいのです。大切なことは、信仰が一致するまで神さまに求めることです。セルチャーチで親しくしている、本郷台キリスト教会は、2年前8000坪のサッカー場を買うために9億円の借金をしました。今は7億円くらいのようです。彼らは20年くらい前、「神さま。ビジョンを達成したいので、1万坪の土地を与えてください」と祈りました。その後、ダイヤモンドチャペルの2000坪が与えられました。そうしたら、2年前、8000坪のサッカー場が売りに出されました。合わせて、1万坪になります。その当時、サッカー・スクールの生徒が300人くらいいたそうです。もし、持ち主の会社が外部に売却したらもうサッカーはできません。サッカー・スクールの親御さんたちから「私たちも献金しますから、なんとか教会さんであの土地を買ってもらえませんか?」とお願いされたそうです。それで、教会が立ち上がってその土地を購入しました。昨年、「サッカー場を境内地にできないでしょうか?」と県庁にお願いしに行ったそうです。もし、あの広大な土地に固定資産税がかかったら大変な額になります。本郷台キリスト教会はサッカー・スクールの他に、身障者のための働き、ご老人たちへの弁当作り、託児所、チャーチスクールいろいろやっています。宗教課の職員が何と言ったでしょう。「一般に教会さんは自分のことしか考えないけど、おたくさんは社会のためにいろんなことをしていますね。よろしいでしょう」とサッカー場を境内地に認めてくれたそうです。皆さん、借金も信仰とビジョンがあればしても良いと思います。でも、信仰とビジョンだけが先走り、教会員がついていかない場合はダメです。会堂建築もそうですが、金銭問題は分裂の原因によくなります。ですから、できるだけ信仰の一致を求める必要があります。

 私たちはこれから単立、独立になる予定です。今までは、教団と教区に年間、100万円以上の献金をささげてきました。「これからその浮いたお金をどうするか?」であります。ここ何年間か、人件費、伝道費、集会費を削ってきました。少し補充したい気持ちもあります。しかし、私は教会のビジョンのために用いていけたらと思います。私が願っている10年のビジョンは、「350名礼拝、50人の信徒リーダー、5人の牧師、5つの枝教会」です。人材というか、後継者を育てることも必要です。また、枝教会ができるように建物を借りるかもしれません。つまり、教会の成長と宣教のために用いるということです。どうぞ、神様の導きが与えられますようにお祈りください。教会によっては献金のアピールばかりするところがあります。「十分の一を」「会堂献金を」とか言います。私は極力、献金の話はしません。その箇所が来たら話します。もし、献金が足りないならば、教会はそれなりの予算でやるしかありません。では、どうしたら献金が増えるのでしょうか?それは、恵まれて人々が増えれば良いのです。人々が神さまによって祝福を得たならば、喜んで捧げます。献金は恵みの結果なのです。恵まれれば人は捧げます。捧げるとまた恵まれます。恵まれるとまた捧げます。捧げるとまた恵まれます。ハレルヤ!教会はおめでたくなくてはいけません。なぜでしょう?神さまは王様、キングです。私たち教会はキング・ビジネスをしているのです。神さまはすべてを所有しておられます。私たちの神さまは決して貧しくはありません。もし、教会が神さまに忠実に、伝道牧会をしていたならどうでしょう?必ず必要は与えられます。だから、心配することはありません。それは私たちの生活でも同じことです。

マタイ633「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」ハレルヤ!私たちが神さまのことを第一にしていけば、必要は与えられます。献金は神さまを第一にしていることの証です。もう1つの法則があります。それは与えたら、与えられるという「山びこ」の法則です。ルカ6:38「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」何故、貧しいのでしょう?それは与えないからです。独り占めしているからです。もし、私たちが信仰に立って与えるならどうでしょう?与えたら、与えられます。同じ量ではありません。「人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。」アーメン。イエス様は十字架で、私たちのために、尊い命を与えてくれました。罪の代価を払ってくださったのです。私たちはその感謝を具体的に表していくべきです。

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