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2011年2月13日 (日)

福音の管理      マタイ16:16-19、Ⅱテモテ4:1,2

これまで信仰の12のDNAについてお話してきましたが、きょうが最後です。教会がこの世において教会として存在している理由は何でしょう?私たち教会は、結局、何を管理しなければならないのでしょうか?それは、福音の管理であります。福音を宣べ伝えることによって、魂が救われる。このことは、神さまが最も教会に願っていることです。弟子訓練とか、セルチャーチとか言っても、魂が救われないと何も始まりません。伝道して、新しい魂が救われて、はじめて養育とか弟子訓練があるのです。教会は、いろんなことをすべきですし、いろんな活動をしても構いません。しかし、忘れてはならないのは、伝道、魂の救いつながっているかどうかです。教会がこのことを忘れてしまうと、老化して、やがては死に絶えてしまいます。日本の教会は伝道を忘れ、社会活動や神学ばかりやってきました。今、その付けがまわっていると言っても過言ではありません。

1.最大の使命

福音を宣べ伝えることは教会の最大の使命です。なぜでしょう?それは、イエス様が天にお帰りになるときに残した命令だからです。遺言と言っても良いかもしれません。マルコ1615,16それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」これはどういう意味でしょうか?福音を信じる者は救われ、信じない者は裁かれて永遠の滅びに行くということです。私たちは福音を提示されたとき、信じるか、信じないか、2つに1つしか選択肢がありません。確かに、「考えておきます」とか「もう、少し待ってください」という返事もないわけではありません。しかし、問題は、今後の残りの生涯において、福音を提示される機会があるかどうかです。一生において1回しか福音を聞いたことのない人もいれば、100回くらい聞いた人がいるかもしれません。どっちが神さまの前のさばきが重いでしょうか?100回聞いても信じない人の方が重いのです。ある人たちは、死ぬ直前に信じれば良いと思っているかもしれません。しかし、信じるというのは自分の意志だけではありません。聖霊様の助けがあるとき、人は初めて信じることができるのです。多くの場合、死が直前に迫っている場合、死の方が恐くて、信じるなどという余裕はないそうです。だから、イエス様は「光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい」(ヨハネ1236と言われたのです。

教会の歴史を見ますと、リバイバルという大勢、救われるすばらしい時がありました。18世紀にはイギリスのリバイバル、19-20世紀には南北アメリカ大陸にリバイバルがありました。そして、20-21世紀は中国、韓国、インドネシア、アフリカにリバイバルが起こっています。現在、リバイバルまでとはいきませんが、タイ、インド、モンゴル、ネパールもクリスチャン人口が増えています。日本はどうでしょうか?でも、日本にだけ、どうしてリバイバルが起こらないのでしょうか?今、日本の多くの教会は失望落胆の中にいます。リバイバルではなくて、サバイバル、生き残りをかけています。日本の教会は高齢化がとても進んでいます。日本基督教団は洗礼を受ける人よりも、召天する人の方がはるかに多いのです。福音派の人たちの口癖は「リバイバルが来なければどうしようもない」でした。私もその一人でした。昨年、エディレオ師と奥様が私にこのような預言をくださいました。「あなたは何度も、『神さま、どこにリバイバルがあるのですか?』と聞いています。『なぜ、そんなに時間がかかるのですか?主よ、きょうも祈ります。私に理解を与えてください』。しかし、今、主はこのように言われます。私は、私のしもべであるあなたの心を知っています。私はあなたの祈りを知っています。私はあなたの日本に対する心を知っています。あなたの祈りは私が答えます。でも、1つ知ってもらいたい。私には私の時があることを。主は、あなた自身を備えよとおっしゃっています。あなたが自分自身を備えたなら、私のリバイバルをあなたの人生の中で見るだろう。私はあなたをひとりぼっちにはしない。あなたをミニストリーに召したのは私だから。あなたは何回もミニストリーのために祈った。『神さま、どうしてたくさんの実を見ることができないのですか?』しかし、私のしもべよ、あなたの心が分かる。あなたが私に頼るなら。あなたの人生にこのことを成就する。」アーメン。

もちろん、私たちはリバイバルを求めるべきであります。しかし、パウロはテモテになんと言ったでしょうか?Ⅱテモテ41,2「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、私はおごそかに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」「時が良くても悪くても」というのは、ある英語の訳では、「シーズン、オア、アンシーズン」となっています。私たちは季節であろうと、季節でなかろうと、こつこつと福音を宣べ伝えるべきなのです。使徒パウロはローマ1章で「返さなければならない負債を負っている」と言いました。私たちはだれかから借金したら、返さなければなりません。パウロは福音を宣べ伝えることは、借金を返すことと同じであると言いたいのです。福音は宣べ伝えても、宣べ伝えなくても良いものではありません。クリスチャンであったなら、だれもが返さなければならない負債、借金だからです。自分の救いのことを考えるならどうでしょう?あの人が福音を伝えてくれたから、私は救われたのです。もし、私たちが救われていなかったならどんな生活をしていたでしょう?本当に、空恐ろしくなります。私のために福音を伝えてくださり、私のために祈ってくださった人がいたのです。だから、私たちは救われたのです。私たちも今度は、だれか別の人に福音を宣べ伝えなければなりません。そうです。借金を返すつもりで、宣べ伝えなければならないのです。

2.正しい福音

教会は正しい福音を管理していなければなりません。教会の歴史を振り返りますと、10~16世紀までは、中世の暗黒時代でした。国家と教会がくっつき過ぎて、堕落してしまったのです。神の国の拡大よりも、自分たちの国と権勢が目的でした。1517年に宗教改革が起こりました。「信じるだけで救われる」という福音の真髄が再確認されました。閉ざされていた福音が聖書と共に、復興したのです。でも、17世紀から啓蒙主義が起こり、福音が聖書と共に次第に捻じ曲げられるようになりました。本来、福音と聖書とは分離することは不可能なのです。なぜなら、正しい福音は聖書の中にあるからです。でも、啓蒙主義の影響を受けたキリスト教会は、「聖書にも誤りがある」ということを言い始めました。それを唱えるのが、リベラルという人たちです。しかし、うまく妥協した人たちがいました。「たとえ、聖書には誤りがあっても、キリストと出会ったならば、人は救われるんだ」と言いました。悪く言うと、ウソも方便です。私たちは聖書が真実でなければ、キリストも福音も真実でないと答えるしかありません。終わりの時代、福音に対する混ぜ物が横行しています。ひどいものになると、「他の宗教にも神さまが啓示されているのだから、キリスト以外にも救いがある」と言います。使徒パウロは何と言ったでしょうか?ガラテヤ18「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。」「私たち」とはだれでしょう?私たちとは、パウロをはじめ使徒たちが宣べ伝えた福音です。使徒ペテロは何と言ったでしょう?使徒412「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」「この方」とは、イエス・キリストです。使徒ヨハネは何と言ったでしょう?ヨハネ316「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」そして、ヨハネ3:18 「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」アーメン。

つまり、教会というのは使徒の教えに立っていなければなりません。これを使徒的教会と言います。使徒が言ったことに反することを教えているならば、それは本当の教会ではありません。偽物です。エペソ220「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」時代が進み、人々の科学や学問が発達しようとも、私たちは使徒たちの教えをどかすことはできません。どうぞ、ドイツやアメリカのどんな神学者が新説を唱えても信じないでください。使徒たちの教えに留まってこそ、本当の救いが保たれるからです。イエス様はペテロに「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます」と言われました。天の御国のかぎとは何でしょう?いろんな解釈があります。でも、私は福音ではないかと思います。なぜなら、人は福音を信じて、天の御国に入ることができるからです。福音を信じないなら、決して天の御国に入ることはできません。つまり、教会は福音という鍵をイエス様から預かっているのです。この福音という鍵を神さまは政府に預けたのではありません。大学の研究機関に預けたのでもありません。財界でも、マスコミでもありません。そうです。イエス様は教会に預けたのです。○○教団の創立100年の歴史ある教会にも預けました。しかし、看板も出していないような家の教会にも福音の鍵を預けておられるのです。使徒の働き11章には、名もない人たちが、アンテオケで福音を宣べ伝えました。福音の鍵を用いたのです。すると、アンテオケに群ができ、やがて異邦人教会のセンターになりました。みなさん、鍵というのはそんなに力がなくてもドアを開けることができます。鍵なしで力づくでやろうとすると大変です。鍵を回すのには、そんなに勉強する必要はありません。ある人が福音を熱心に宣べ伝えたので、1年で10人も20人も導かれました。その人が、神学校で3年間勉強しました。いろんな勉強を積んだんだから、もっとすばらしく伝道できるかと思いました。しかし、全く逆です。知識が増した分、恐れが増し、熱心さもなく、全く伝道ができなくなったのです。神学校を出たために、そういう人が結構いるようです。勉強も大事ですが、福音宣教は魂への愛と祈りと確信です。「今、福音を宣べ伝えなければ、この人は滅びてしまう。」だから、宣べ伝えるのです。一番の愛は何でしょうか?いろんな助けや親切も愛です。でも、そのままでは、死んで滅びてしまいます。イエス様の福音を伝えて、その人が救われたらどうでしょう。それが一番の愛ではないでしょうか?どうぞ、聖書の中に書かれている、正しい福音を単純に宣べ伝えてください。聖霊様が、あなたのことばを用いて、その人に回心を与えてくださいます。

3.商売せよ

福音を管理するとは、どういう意味でしょう。ただ、正しい福音を守るというだけではありません。福音をさらに拡大していくということです。ルカ19章にはミナのたとえが書かれています。ミナのたとえは、タラントのたとえと似てはいますが、違うところがあります。タラントのたとえは、それぞれ人によって神さまからゆだねられた量がそれぞれ違います。しかし、ミナのたとえは、みんな1ミナです。みんな1ミナ。ミナとは何でしょう?私は福音ではないかと思います。どんな人でも、平等に1個の福音を神さまからゆだねられています。たとえ話を見ますと、ある人は1ミナで10ミナもうけました。また、ある人は1ミナで5ミナもうけました。ところが、もう一人の人は、風呂敷に包んでしまっておきました。彼は、そのままご主人に渡しました。彼は「悪いしもべだ」と叱られ、持っていた1ミナまでも取り上げられてしまいました。このたとえの中心テーマは何でしょう?主人が帰るまで、商売するということです。商売とは、それを元手にして増やすということです。あずかった1ミナを、そのままご主人に返すのは怠惰なしもべであり、悪いしもです。もし、ミナが福音であるならば、商売するとはどういう意味でしょう?神さまからゆだねられた福音を一人でも多くの人に宣べ伝えて、救われる人を増やすということではないでしょうか?しかし、商売というのは厳しいもので、決して楽なことではありません。セールスで人に売ろうとすると、大体の人が「いらないよ」「間に合っています」「結構です」と断ります。しかし、本当にセールスに長けた人は、「断られてから本当の商売が始まる」と理解しているようです。それに比べ私たちクリスチャンはどうでしょうか?非常に打たれ弱い。10人に宣べ伝え、10人から断られると「日本は難しい!」と言います。日本のクリスチャン人口は1%ですから、50人に宣べ伝えて1人信じたら、大成功になります。だけど、49人も断られたら、本当にめげてしまいます。何か、もっと、確立の上がる伝道の秘訣でもあるのでしょうか?

これまでの教会の伝道方法は大衆伝道と個人伝道が主流でした。大衆伝道というのは、クルセード方式とも言って、広い会場に人々を集めます。すばらしい音楽を聞かせ、有名な伝道者からお話してもらいます。最後に「みなさん、目をつぶってください。きょうイエス様を信じる人は手をあげてください」と招きます。ある人たちが決心します。しかし、教会につがなる人は1%いないそうです。個人伝道も結構、勇気が必要です。また、ある程度の技術も必要です。私は、今か申し上げるこの2つこそが古くて新しい伝道スタイルではないかと確信しています。第一はあかし伝道です。マタイ24:14「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」これは大変有名なみことばです。御国の福音は全世界に宣べ伝えられることが第一です。しかし、それだけではありません。「すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます」とあります。福音宣教とあかしとは少し違います。あかしとは、その人の体験談を通して、神様のことを伝えることです。あかしは、インフォーマルで主観的です。「自分にこんなことがあったよ」と分かち合えば良いのです。相手がそれを受け入れるかどうかは別です。相手がそういうあかしを何度も聞くと、「イエス様、信じてみようかな?」と思うくらいまでは行きます。最後の刈り取りを自分でできなければ、教会の誰かにお願いしても構いません。でも、あなたが仲介者としてそこにいれば、とても簡単です。イエス様は種まきのたとえを話されました。硬い心であれば、愛の行ないによって耕す必要があります。石の心であれば、色んな話をして、偏見を取り除く必要があります。いばらが生えた心であれば、クリスチャン生活がどんなにすばらしいか体験させる必要があるでしょう。とにかく、畑を耕して、福音の種を蒔く必要があります。1回でうまく行くようなケースはまずありません。何度も蒔いていくうちに、芽が出て、成長し、実をならせるのです。どうぞ、可能性のある人を10人くらい選んで、祈りながら、あかし伝道をしましょう。

もう1つは、個人ではなくチームで行うということです。教会はキリストのからだです。からだの中にはいろんな器官があります。口の人もいれば、手の人もいます。足の人もいれば、耳の人もいます。耳、つまり人の話を聞くということは意外に重要です。人は自分の話しを聞いてくれたら、こんどは聞いてみようかなと思うからです。祈っている人が入院していたとします。一人よりもだれか友人と一緒に行きます。その友人が何か賜物やアイディアを持っているかもしれません。マッサージが得意とか、薬に対して知識があるとか、具体的な助けができるかもしれません。これをボディライフと言います。ボディライフとはからだの生活という意味です。一緒に生活を共にしながら、自然に福音を伝えていく方法です。ある人はもてなすことが得意です。また、ある人は語ることが得意です。また、ある人は手足を使って奉仕ができます。また、ある人は一生懸命とりなしの祈りをします。魚を捕まえるのにいろんな方法があります。個人伝道は一本釣りです。これは技術が必要です。熟達するのに、10年、20年かかるかもしれません。でも、網はどうでしょうか?地引網、はえ縄、底引き、投網…いろいろあります。網の方が、一本釣りよりも多くの魚が捕れます。みんなでやるので、個人の技量もそんなに高くなくても良いかもしれません。それでいて、多くの魚が取れるんだったら申し分ないと思います。ただし、「ぶらさがっていてば、なんとかなるかなー」という他人任せでは困ります。良いたとえかどうかわかりませんが、おみこしを担ぐ場合、どうでしょう?一生懸命担ぐ人もいれば、時にはかけ声ばかりで、担いでいない人も出てきます。一番、大切なのは、「自分は一体、どのからだの器官として働いているのかな?」という意識です。その次に大切なのは、それらを組み合わせるということです。たとえば、ゴスペルではいろんな人が奉仕しています。音楽を指導する人、伴奏する人がいます。後ろから歌ってあげる人もいます。会計さんとか新来者を歓迎する人、「上手!」と励ます人もいます。近所だったら友人になることも可能です。何かのため、祈ってあげることもできます。そうやって、チームで伝道することをボディライフ、あるいは網による魚捕りです。

網、ネットはいろんな意味があります。もし、網の目が大きすぎるならば、大きな魚しか捕れません。網の目がもっと細かいならば、小さい魚も捕れます。でも、問題なのは、網が破れている場合です。せっかく網に入ったけれど、途中から出て行ってしまう。網の破れとは何でしょう?それは、網自体に問題があるということです。内部で争っていたり、愛が欠乏している場合です。何かの罪が放置され、躓きを与えているかもしれません。牧師やリーダーは特に責任があります。Ⅰコリント13章には「愛とはどんなものか」について記されています。どんな賜物や能力があっても、愛がなければ無に等しいとまで書いています。この世は賜物や能力が最も重要視されます。仕事ができるかできないか、知識があるかないか、技術があるかないかです。しかし、キリスト教会、からだの教会は、愛の方がもっと重要になります。Ⅰコリント135-7「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」私たちは「ああー、自分にはないなー」と愕然としてしまいます。でも、「愛」をイエス様に置き換えたらどうでしょう?「イエス様は寛容であり、イエス様は親切です。」アーメン。イエス様を知り、イエス様にとどまり、イエス様に現れていただくときに、愛が出てくるのです。イエス様の愛とイエス様の福音がマッチするとき、人々が救われていくのではないでしょうか?

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