« 2010年12月 | トップページ | 2011年2月 »

2011年1月30日 (日)

真理(教え)の管理       Ⅰコリント13:9-13

 私たちは一般的に、真理の反対は偽りであると言います。あるいは善の反対は悪であると言うでしょう。真理と偽り、善と悪がまるで両極にあるように考えます。しかし、そうではありません。真理とか善は真中にあるのです。そして、それらの両端に偽りとか悪があるのです。たとえば、悪霊について考えてみましょう。ある人は「悪霊などいない」と言います。また、ある人は「何でも悪霊のせいにします」。「車をぶつけたのは悪霊のせいだ」とか「風邪をひいたのも悪霊のせいだ」と言います。もちろん、そういう時もあるでしょう。でも、本人の不注意だったかもしれません。聖書は悪霊の存在をちゃんと明記しています。真理というものは、ちょうど真中くらいにあるのです。キリスト教会においても、神さまの真理に対して極端があります。自転車で狭い道を走るときのことを想像しましょう。みなさんは、農道を走ったことがあるでしょうか?左の溝にもはまってはいけません。また、右の溝にもはまっていけません。道の真中を走るべきです。真理や善というものは、真中にあるのです。クリスチャンの生活とはバランスをとりながらやっていく、スリルある過程であるということができます。

1.哲学と神秘主義 

初代教会の頃の極端は哲学でした。コロサイ28「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。それは人の言い伝えによるもの、この世の幼稚な教えによるものであって、キリストによるものではありません。」当時の哲学といえば、ストア学派の禁欲主義でした。パウロはコロサイ2章の後半で言っています。「すがるな。味わうな。さわるなというさだめに縛られているのですか?肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです」と言っています。また、それとは反対のエピクロスの影響を受けた快楽主義がありました。彼らは「肉体はどうせ悪なのだから、悪をしても魂には何の影響もない」と考えました。ギリシャ哲学は終ったように思えましたが、中世のトマス・アクイナスは、アリストテレスの形而上学で神学を構築しました。また、17世紀、啓蒙主義においてもう一度、復活し、キリスト教神学を土台から揺るがすほどの脅威になりました。神の啓示よりも、人間の理性が万物の尺度になったのです。キリスト教会の多くが、批評学を取り入れて、みことばの権威を失わせました。もちろん、哲学的に物ごとを考えたり、論理的に証明するという作業は大事です。しかし、神さまの啓示を否定する神学は「砂の上に建てられた家」であります。人間は被造物であり、無限であられる神さまご自身と神さまのみわざを推し量ることなど不可能です。詩篇の記者は、このように言っています。詩篇84,5「人間とは何ものでしょう?…あなたは人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶせられました」。人間は確かに尊い存在です。なぜなら、神さまがご自身のかたちに似せて造られたからです。でも、所詮、人間ですから、「しばらくの間、現れて、それから消えてしまう霧にすぎません」(ヤコブ414)。

哲学と両極をなすものが神秘主義です。初代教会の頃はグノーシスが強敵でした。グノーシスとは「隠れた知恵」という意味です。彼はいろんな儀式を通して神秘的な体験を求めました。肉体を取られたキリストを否定したために、救いの概念まで異なりました。彼らにとっては、霊的な存在と合一することが救いなのです。近代においては、宗教的な体験を強調したシュライエル・マッハーがその部類に入るかもしれません。現代においては、一部のペンテコステ教会、神の幕屋、イエスの御霊、小羊の群れ、韓国のベレヤが問題視されています。彼らを異端であると言う人もいますが、私は神秘主義という極端の溝にはまっていると思います。奇跡とか聖霊体験を否定はしません。聖書にもそういうものがたくさん記されています。しかし、イエス様のところに「しるしを見せてください。そうしたら信じます」と言う人たちがたくさん来ました。イエス様は「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません」(マタイ12:39)と答えられました。神のみことばを信じることが何よりも第一です。そのときは、何の体験もないかもしれません。それでも良いのです。しかし、神さまは、神のみことばに対してしるしを伴わせてくださいます。奇跡とか聖霊体験は伴うものですから、二番目だということです。いわばグリコのおまけです。昔はおまけがほしくてキャラメルを買いました。どうぞ、神のみことばよりも、奇跡とか聖霊体験を第一に求めないでください。極端の溝には悪魔、悪霊が待ち構えているからです。バランスが必要です。これまでのキリスト教は知的一辺倒でした。知性にだけ訴えてきました。みことばは適用して、身につきます。また信仰は体験してみて、より成長していきます。聖霊や霊的賜物は体験してみなければ分かりません。だから、知識と体験のバランスが必要なのです。

2.物質とアニミズム 

 物質は自然とも言い換えることができます。ヨーロッパは合理主義の影響を受けました。目で見えるもの、計ることのできるものがリアル(現実)だと考えました。産業革命以来、ものすごく自然科学が発達しました。その反動として、「聖書の奇跡や霊的な存在は迷信である」と排除しました。なんと、キリスト教会までも霊的な世界を排除してしまいました。「悪魔とは悪を具現化した神話であって、実際は存在しないんだ。天使もかつてはいたけど今はいないんだ」と言います。彼らは三位一体は唱えますが、聖霊を人格的なお方として認めていません。だから、聖霊のことはほとんど口に出しません。もちろん、聖霊の賜物や、癒しや奇跡も信じません。そういう教会もあるのです。聖書を誤りなきことばであると信じている福音派の教会にもあります。なぜでしょう?それは西欧の衣を着た、キリスト教だからです。西欧の教会は、合理主義を取り入れて、聖書から霊的なものをすべて排除しました。そういう神学教育を受けた宣教師たちがやって来て、日本の各地に伝道して教会を建てました。日本人ほど、真面目で、忠義な人たちはいません。100年間も、同じ教義、同じ考えを踏襲しているのです。日本には数百のミッション・スクールがあります。しかし、そのほとんどがキリスト教という宗教教育になっています。そのためキリストと出会うこともなく、新生することもありません。宗教と実際の生活とは別なのです。ある学校の先生がクリスチャンになりました。教会では創造主なる神を信じています。しかし、彼は学校では進化論を教えています。教会では「神さまが人間を造った」と言い、学校では「人間は猿から進化した」と言います。「どうしていい加減なことを言うのですか?」と聞くと、「いやー、食べるためには仕方がない」と答えます。聖書が書かれたのはヨーロッパではなく、アジアです。だから、悪魔、悪霊、天使、聖霊の働き、癒し、奇跡、預言、夢、まぼろしが当然あるのです。

 物質(自然)と対極をなすのがアニミズムです。精霊崇拝とも言いますが、霊の世界と物質の世界の境目がありません。山や海、動物、大木、死んだ人間も神さまになります。彼らにとって、霊的なものがリアルであり、物質は影なのです。東洋のシャーマニズム、仏教、ヒンズー教がそのような考えです。物質を否定するので、科学や産業は発展しません。世界でどのような国が富んでいるでしょうか?物質の存在をちゃんと認めるキリスト教の世界が富んでいます。なぜでしょう?科学的に物質をとらえ、加工して、生産しているからです。日本人はどうでしょう?頭は西洋の教育を受けています。ところが心はシャーマニズムです。頭では「神なんかいない、迷信だ」と言います。しかし、大学に入るために天満宮に行ったりお守りを持っています。さっきまで生きていた人間が死んだら礼拝の対象になります。西洋の人たちは、全く考えられないそうです。アニミズムの影響を受けたキリスト教はどうなるでしょうか?そういう人たちは、何でも悪霊のせいにします。昔、キリスト教聖霊刷新に属していた頃があります。神奈川県のある兄弟から時々電話がかかってきました。「私は悪霊からこんな妨げを受けました。娘もこういう攻撃を受けました。先生も気をつけてください。」彼のことばの中には、イエス様がほとんどありません。いつでも、「悪霊がどこにいるか、悪霊が何をしているか」に関心があります。もちろん、悪霊はいます。しかし、私たちは悪霊よりも強いイエス・キリストに焦点を合わせるべきです。

 バランスが大切です。悪魔や悪霊もいます。そして、神さまも聖霊もおられます。私たちは霊的存在ですから、両者の影響を受けます。知らないで悪魔によって欺かれている時もあります。だから、私たちは聖書のみことばを読み、神さまと交わる必要があります。そして、祈って聖霊に満たされるならば、悪魔の策略を見破り、勝利できるのです。聖霊の賜物の中に、霊を見分ける力というのがあります。これは精神的、肉体的な病なのか、それとも悪霊から来たものなのか見分ける必要があります。ある人たちはすべての病気が悪霊によるものだと言います。しかし、そうではありません。新約聖書でははっきりと分けています。寒いところにいれば風邪になります。暴飲暴食をすれば腹痛を起すでしょう。不注意で車をぶつけるときもあります。すべてを悪霊のせいにしないでください。それは、私たちの責任です。神さまはそのために、知恵と導きを与えてくださいます。だから物質と霊的なもののバランスが必要なのです。

3.神学と心理学

 イエス様の時代の神学者というのは、律法学者やパリサイ人でした。彼らは律法を厳格に守り、「律法を守れない人は罪人である」とさばきました。ケンブリッジやオクスフォード大学の創設の頃、神学は哲学と並んで、とても重要な科目でした。現代においても、神学は教義を学ぶためにとても重要視されています。神学はどちらかと言うと、神さまとの関係、霊的な面を取り扱います。教会は神学の助けを借りてきました。しかし、心の問題というものが、おろそかになっていたように思います。人間には感情がありますし、人間関係も忘れてはいけません。これまでの神学ではあまり触れられてきませんでした。

神学と対極にあるのが心理学です。心理学は人間の心を取り扱う学問です。フロイトは心理学の基礎を築いた人です。彼は「理性の下には無意識の世界がある。意思よりも無意識にある本能的な欲求が人を動かしている」と言いました。ユングは内向と外向、思考と感情ということを研究しました。アドラーは人間を取り巻く環境が人間を作ると言いました。そこには、コンプレックスの問題があります。これまでは悪霊のせいにしてきましたが、精神的な障害や病気があるということも分かってきました。近年は、良い人間関係を成立するために、カウンセリングの助けが有効であると分かってきました。しかし、キリスト教会は心理学を否定しました。なぜなら、心理学者のほとんどが無神論者だからです。彼らは神さまの存在はもちろん、人間が霊的な存在であることも認めません。彼らは人間をヒトと言って、生物学的に見ています。最も、聖書と違うのは、罪の問題です。その人が悪いことをしたのは、環境や社会のせいだとします。罪を犯したという罪責感が人を病気にしているのであり、「そういうものはないほうが良いんだ」とまで言います。ですから、彼らは患者が教会に行くことを好みません。なぜなら、もっと罪責感がひどくなるからです。そして、恐れや不安の原因を取り除くために、いろんな薬を投与します。

ある姉妹が不慮の事故で子どもを死なせてしまいました。それから、謎の病気になりました。お父さんは彼女をいろんな病院、心療内科のところへ送りましたが全く癒されませんでした。カウンセラーのところへも送りました。カウンセラーは「あなたは悪くないよ。気にしないで、早く忘れなさい」と言いました。しかし、一人の牧師のところへ行ったらたった30分で癒されました。牧師はこのように言いました。「あなたは不注意でした。だからあなたにも罪があります。しかし、イエス・キリストはあなたの罪のために十字架におかかりになりました。イエス様があなたの罪を負ってくださったので、あなたは赦されたのです。」今まで、だれも「あなたのせいではない、あなたの罪ではない」と言いました。しかし、彼女の中には深い罪責感があったのです。それが、彼女を病気にさせたのです。でも、罪を悔い改めて赦され、病も癒されたのです。現代、キリスト教カウンセリングが徐々にではありますが、市民権を持つようになりました。教会は「ああ、カウンセリングなんて!無神論者がやることだ」と目を細めてきました。人は罪を悔い改めることにより新生します。救われたので、確かに霊的には新しくなりますが、心の問題が解決されていない場合があります。その人の深いところにある考えがゆがんでいる。そのために、怒りや恐れ、不安などの悪い感情が出てくるのです。ローマ122「心の一新によって自分を変えなさい」の「こころ」は、思いのことであります。霊は新しく生まれても、思いや考えが古いままのことがあるのです。霊だけではなく、思いや考えも福音化される必要があります。そのために、キリスト教カウンセリングやインナーヒーリング、さまざまな解放のミニストリーが必要なのです。つまり、神学と心理学とのバランスが必要なのです。

4.貧しさと功利主義

 イエス様の時代、エッセネ派という人たちがいました。彼らは荒野や洞窟で生活していました。中世においては、汚れた世を離れ隠遁生活をした人たちがいました。修道士フランチェスコは清貧ということを強調しました。プロテスタント教会ではピューリタンがその影響を受けています。現代ではホーリネスとかきよめ派の教会がそういう傾向があります。聖書には「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです」(Ⅰテモテ610であると書かれています。確かに、お金は偶像になります。でも、貧しいことが清いということにはなりません。「お金がない。お金がほしい。お金をください」と言っている人も、結局、お金が偶像になっています。なぜなら、その人の関心がいつもお金だからです。教会は聖徒たちがささげる献金によってなりたっています。その中から牧師給、伝道費、設備費がまかなわれます。お金がなければ宣教師も送ることができません。なのに、教会が「貧しいことは良いことです」と言うなら、あきらかに矛盾しています。

 貧しさと対極にあるものが功利主義です。アメリカ教会において、功利主義が説かれました。確かに、聖書を読むとアブラハムなどの族長はみな裕福でした。ダビデもソロモンも富んでいました。パウロも「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」(ピリピ419と言っています。私たちはこの地上においても、天国の豊かさを味わうことができます。しかし、功利主義は明らかに行き過ぎています。富が全てであり、成功をお金の大きさではかります。教会も大きい教会が良い教会で、小さい教会は良くない教会です。功利主義がもたらす弊害は何でしょう?祝福が目的になります。「神さまを信じたら豊かになりますよ。神さまを信じたら病気が治りますよ」と言います。しかし、主のために貧しくなる場合もあります。あるときは、病気になってしまうときもあるでしょう。そういう人たちは神さまから呪われているのでしょうか?韓国の教会も以前は貧しかったのですが、70代にリバイバルが起き、国も豊かになりました。韓国のGNPが11位ですが、どうでしょう?豊かになりましたが、離婚率、堕胎率はアメリカに継いでいます。富も必要ですが、富は人を狂わせてしまうことも事実です。箴言308,9貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。ですから、貧しさと富とのバランスが必要なのです。

5.まとめ

 これまで、哲学と神秘主義、物質とアニミズム、神学と心理学、貧しさと功利主義と4つの分野をみてみました。他にも両極端があると思います。真理というのは真中にあると言えます。しかも、真理にはある程度の幅があり、右へ行っても左へ行っても極端という溝にはまります。上へ行っても下に行っても極端になります。極端にはまりこみますと、それは間違った教え、異端のということになります。現代も様々なキリスト教の異端があります。私たちは彼らの教えを受けてはいけません。あの愛の使徒であるヨハネがとても厳しいことを言っています。Ⅱヨハネ1:10「あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになります。」私たちは真理という枠の中に、とどまる必要があります。あるときは、左に寄ったり、あるときは右に寄ったりします。また、あるときは上の方に、あるときは下の方に寄ったりするかもしれません。行き過ぎていた場合は修正する必要があります。そういう意味で、クリスチャン生活は、両極端の中から自分のバランスを保ち続けるスリルある過程であると言うことができます。

もうひとつは、独善的にならないということです。自分のところの教義を強調するあまり、「私の教団は正しくて、他は間違っている」という場合があります。そして、お互いがキリストのからだなる教会に属していることを忘れてしまっています。分裂と分派こそが現代のキリスト教会に存在している大きな問題です。Ⅰコリント13:9「というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。」人は、所詮、盲人が象を手さぐりするように、「神さまがどんなお方か?」と言っているようなものです。ある教団は「神さまの選び」を強調し、ある教団は「人間の自由意志」を強調します。ある教団は「聖霊による聖さ」を強調し、ある教団は「聖霊の力」を強調するでしょう。また、ある教団は「霊的階層」を強調し、ある教団は「民主主義」を強調するかもしれません。しかし、両方、当たっているのです。教団が、片方だけを強調するなら、信仰が偏ってしまいます。私たちは、賜物は違いますが、キリストにあって1つなのです。いろんな器官があって良いのです。でも、おなじキリストにつながり、おなじ御霊をいただいています。私たちの知るところは一部なので、他者からも謙遜に学ぶ必要があるのです。お互いに補い合うことによって、より完全な奉仕、より完全な信仰生活になるのです。

|

2011年1月23日 (日)

罪の管理        マタイ18:15-20

 教会は天国を目指していますが、天国ではありません。そこにいる人々は、確かにイエス様を信じて新しく生まれ変わっているかもしれません。しかし、罪の性質が残っていたり、考え方の違いがあります。私たちは霊的なところもあれば、肉的なところもあるのです。そういう人たちが集まるとどうなるでしょうか?「互いに愛し合いなさい」という大事な戒めを忘れて、互いにさばきあったり、傷つけあったりします。それがエスカレートすると、教会が分裂して、人々が散らされてしまいます。そのために、私たちはクリスチャンが犯した罪に対して、正しく管理しなければなりません。旧訳聖書、新約聖書、そして教会の歴史を見ると、いろんなトラブルがあったことがわかります。確かにそれらは躓きのもとではありますが、私たちはそれらを乗り越えて、より良い教会形成を目指していくように召されているのではないでしょうか?

1.国家と教会 

国にはさまざまな法律があります。その中の刑法に触れると重い罰則を受けることになります。一方、教会はどうなのでしょうか?教会に法律というものがあるのでしょうか?旧約時代は、イスラエルの民はモーセの律法によってさばかれました。律法の中には、いわゆる刑法も民法も、そして宗教的な法律も含まれていました。偶像礼拝は最も重い罪であり、石で打ち殺されることもありました。しかし、イスラエル中が偶像礼拝に陥ったので、重い処罰を受けないようになりました。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」ということになったのです。でも、人が罪を犯すならば、たとい人間が裁かなくても、神さまが裁くのだという思想はありました。新約時代になりますと、ローマがイスラエルを支配しました。そのため、ローマの法律の中に、イスラエルが置かれることになりました。イスラエルは宗教的な罪はさばくことはできても、刑法、特に死刑を下すことができませんでした。当時の考え方からすると、イエス様が十字架に付けられたのは、ローマに反逆した罪のためです。教会は200年間くらいものすごい迫害を受けましたが、西暦313年にローマの国教になりました。それから、国家の法律の中に、宗教に関する法律も含まれるようになったのです。中世では、宗教裁判で死刑になることも多々ありました。プロテスタント教会になっても、それは続きました。イギリス、ドイツ、スイスなどは、国が教会を運営していたので、いろんな弊害もありました。しかし、バプテスト教会が「政教分離」を訴えてから、国家と教会を分けて考えるようになりました。それが、今、現在に至っています。

では、教会においてどのような罪に対する管理があるのでしょうか?教会には、「戒規」というものがあります。戒規とは、誤った教理、罪の行ないに対して行使されるキリスト教会の教育、訓練です。教会戒規には訓戒、倍餐停止、除名と、三段階あります。サッカーでも、ファールをすると、最初はイエロー・カードですが、2回目はレッド・カードです。ある場合は、一発、退場ということもありえます。中世の教会では「破門」というのがありました。教会から破門されるとは、その人はもう救われないということです。今は、そういう考えはありません。戒規は英語で、disciplineですが、訓練する、しつけるという意味があります。つまり、罪を断罪するのではなく、罪を犯した人が悔い改め、正しい道を歩めるように訓練するということが目的です。ジョン・カルバンは、教会政治にとても長けた人でありまして、長老会でそういうことを審議するように決めました。現代の教会の半分くらいは、彼の長老制度を受け継いでいます。私たちの教会は、長老会はありませんが、牧師を含む役員会があります。宗教法人法にも、こういう組織を持つように定められています。私は当教会に赴任して、23年になりますが、倍餐停止とか除名を下したことは一度もありません。ただし、訓戒を与えたことは6回くらいあります。訓戒を与えて、半分は「牧師が何を言うか?」と反発を受けましたが、半分は「はい、分かりました」と悔い改めました。ある人は訓戒を受けたことにより、神の愛を感じて、正しい道に戻ることもできたようです。現代は、牧師が権威を用いるということはとても微妙な時代です。戦後、日本では「すべての権威は悪である!すべての権威をぶちこわせ」と言った時代があります。ですから、教会で「権威」と言うとものすごく、反発する人がいます。しかし、教会の中にも権威は存在しています。ローマ13:1「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」しかし、聖書で言う権威は、神さまから委ねられたもので、壊すためではなく、建て上げるためにあるということです。神の権威も同じですが、私たちが権威のもとで生きるとき、守りと助けが与えられるのです。「私は権威なんか否定する」と言って、権威の外に出るならば、守りと助けも得られないということです。もちろん、全ての権威が正しいとは思いませんが、教会には秩序を守る権威が神さまから与えられていることは確かです。権威に対して何だかんだ言っても、最終的には、神さまがさばくのです。私たちは神を恐れなければなりません。これが最も重要なことであります。

2.何を裁くのか?

 では、教会はどのような罪を裁くのでしょうか?「イエス様はさばいてはいけません。さばなれないためです」と言われました。しかし、イエス様がおっしゃるさばきは、人を罪にさだめ、赦さないということです。しかし、本日のテーマは罪があるなら罪を悔い改め、正しい道に立ち返るということです。前のポイントでも言いましたように、誤った教えを裁く必要があります。しかし、このことは「真理の管理」という題で次回にお話しします。今回は道徳的な罪、あるいは教会を汚す罪について話したいと思います。パウロは、コリント教会に対して何通か手紙を送りました。なぜなら、コリント教会おいて、様々な争いや性的な罪があったからです。コリント教会はそれらの罪を自分たちで処理しないで、いきなりこの世の機関に訴えたのであります。パウロは彼らに何と言っているでしょうか?Ⅰコリント61-6抜粋「あなたがたの中には、仲間の者と争いを起こしたとき、それを聖徒たちに訴えないで、あえて、正しくない人たちに訴え出るような人がいるのでしょうか。…この世のことで争いが起こると、教会のうちでは無視される人たちを裁判官に選ぶのですか。…いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することのできるような賢い者が、ひとりもいないのですか。それで、兄弟は兄弟を告訴し、しかもそれを不信者の前でするのですか。」使徒パウロは、教会内で起きた問題を、ただちに世の裁判に告訴するのではなく、教会内で裁きなさいと言っているのです。特に、道徳的、宗教上の問題はそうです。世の中では不品行や姦淫はほとんど咎められません。「不倫」ぐらいでおしまいです。それでも最近は「セクハラ」という罪も多くなりました。でも、世の中と教会の基準は決して、同じではありません。パウロはⅠコリント512-13で、このように結論付けてします。「外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。」つまり、教会内で、さばくべき罪があるということです。そして、すぐに世の中に訴えるのではなく、みことばのもとで判断すべきだということです。

では、教会内でさばくべき罪とは何でしょうか?それはキリストのからだ、共同体に犯す罪です。Ⅰコリント616,18「遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。『ふたりは一体となる』と言われているからです。…不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。」文脈的には、性的罪は個人のからだに対して犯す罪です。しかし、その罪は個人のからだに留まらず、夫婦関係を壊し、家庭を壊し、教会のからだにも影響を及ぼすということです。私たちは主にある、兄弟姉妹として交わっています。でも、結婚していないのに、そういう関係を持つようになればどうでしょう?同じ、からだとしてつながっている兄弟姉妹に影響を与えない訳がありません。もし、牧師がだれかと姦淫を犯しているのに、「それは個人的な罪ですから」という訳にはいきません。残念ながら、そういう風に処理している教会もあると聞いています。かなり前に、クリントン大統領がそういう罪を犯しました。そのとき、アメリカ政府は「あれはクリントン個人として罪を犯したのであり、大統領としてではない」と言いました。それ以降、アメリカの国は霊的にとてもダウンしたことは確かです。もちろん、そういう罪も神さまの前では赦されます。どんな罪であっても、イエス・キリストの十字架の血しおによって赦されるからです。あのダビデ王も、姦淫と殺人を悔い改めたら赦されました。しかし、どうでしょう?「主の敵に大いに侮りの心を起させました」。そのため、ダビデの家系には剣と性的な罪が入りました。告白したなら、罪は赦されますが、代償も大きいということです。

エペソ4章には、共同体を壊す、その他の罪が記されています。悪意、中傷、そしり、憤り、怒り、苦しみ、悪いことばがあります。エド・シルボソ著『神はひとりも滅びることを望まず』でこう教えています。クリスチャンの間に、多くの怒りが引き起こされる原因は何でしょうか。それは多くの場合、語られた言葉です。エペソ4:26に記されている怒りを誘う引き金は、29節に記されている「悪い言葉」なのです。この「悪い言葉」という引き金は、非常に巧妙な変装をする高度な策略です。しばしば私たちは、言葉の影響力を過小評価します。「おしゃべりは軽いものだ」と私たちは言いますが、人間関係の悲劇は大部分この「悪い言葉」によって引き起こされているのです。これらの言葉は、海の底で発見されずに残っている津波のように、やがて私たちのサタンに対する対抗する力を破壊することになります。「悪い言葉」をエペソ4:29から定義すると、建て上げるかわりに引き降ろす言葉―すなわち恵みのない真理です。人の徳を養うのに役立たない真理を語ることです。真理は偽り以上に人を傷つけることがあります。誰かが私たちについて偽りを言うと、私たちは傷つきますが、心の底ではその言葉に内容がないことを知っているので、平安に眠ることができます。けれども、誰かが批判的なことを言って、それが(完全に、あるいは部分的に)真理であるということを知るとき、私たちは怒り、眠れなくなるのです。真理かもしれないことを恵み抜きで言われたので、裁かれ、責められているように感じます。それは私たちが変わる必要のある弱点であり、自分で直すことができずに絶えず抑圧してきた面に関することかもしれません。しかし、恵みのない真理をあからさまに語ることは、裁きを下すのに相当することです。…「悪いことば」は共同体を壊します。夫婦関係も壊します。どうか私たちは愛をもって真理を語る、人の徳を養うのに役立つことばを語りたいと思います。

3.どのように裁くのか?

マタイ18章は「二人でも三人でも、私の名において集まるところに、私もその中にいる」という教会の最小単位を教えている有名な箇所です。しかし、マタイ18章は「もし、兄弟が罪を犯したならどうするか」ということが重要なテーマになっています。そこには罪を裁くための3つのステップが記されています。この順番が大切なのです。日本人は多くの場合、1と2を飛ばして、3に行ってしまいます。そうすると人間関係にものすごい大きなダメージを与えます。最初に申し上げたジョン・カルバンが考え出した長老主義は組織的に申し分ありません。でも、何でも会議で決めると、人間関係を無視することになり、大きな傷を残すことになります。日本基督教団な大阪万博がきっかけで、紛争がおこりました。その当時、安保反対とか学生運動も重なり、教会と言う教会が荒れていた時でもありました。暴力沙汰になったため、教会に警察が入りました。それがこじれて、東京教区は19年間、総会を開くことができませんでした。感情的なもつれが、なかなか消えませんでした。会議には限界があります。人間関係を修復するための、ステップがなければなりません。いや、人間関係を基盤とした罪に対するさばきが必要なのです。私たちはそれがめんどうなので、会議で、議論して決めるところがあります。教会は、この世と同じようなシステムをとってはいけません。この世は、訴訟に満ちて、互いに訴え合っています。私たちは人間関係を基盤とした、罪に対する解決が重要なのです。

では、どのようなステップが必要なのでしょうか?マタイ1815「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。」第一のステップは、二人です。つまり、罪を犯した人と、それを正す人です。もしかしたらなら、被害を受けた人かもしれません。被害者と加害者というのは、微妙な関係なので、第二のステップですべきかもしれません。でも、とにかく当事者のところへ行って、二人きりで話すべきです。私が20歳のときでしたが、現場監督をしている時、自動車学校に通いました。確かに仕事中でしたが、上司に断り、現場の段取りをして行っていました。あるとき、現場の会議があり3つの現場が集まり、そこに20人くらいいました。所長が何を言うかと思ったら、「鈴木君は現場を放棄している」と、みんなの前で言いました。事務の人が助け舟を出してくれましたが、大勢の前で恥をかかせられました。親が子どもを叱るときもそうですが、他の人がいる前で叱ると、ものすごく傷つきます。みんなの前では、弁明もできません。良い悪いではなく「恥をかかせられた」という怒りだけが残ります。勇気も必要ですが、二人で、話してみるということです。二人で話す機会が何度もあったのに、いきなり会議にかけるのは良くないということです。第二のステップは何でしょう?マタイ1816「もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。」その人に話したけど、聞き入れてくれませんでした。認めもせず、悔い改めもしなかったのでしょう。そこで、他にひとりか二人を一緒に連れて行くということです。聖書には「ふたりもしくは三人は証人である」と書かれています。ふたり三人は小グループ、セルです。小グループであるなら、まだ、まだ安全です。「実はこうだったんだ」と構えないで告白できるかもしれません。中学校のときは、学校へ行きたくなくなるときがあります。ちょっとしたことで、3日も4日も休むときがあります。すると級長が「どうしたの?」と訪ねて来てくれる。その後、2,3人の友だちが「みんな待ってるよ」と訪ねて来てくれる。そうすると、家にいても退屈なので、学校に行きます。友達って本当にありがたいものです。聖書は「ふたり三人の中にイエス様が共におられる」と書いてあります。

 第三のステップは何でしょうか?マタイ1817「それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」ここでやっと教会ということばが出てきました。当時の教会はそんなに大きくありません。おそらく、十数名から百人未満だったでしょう。300名の教会総会ではありません。ここで言う、教会とは長老と牧師で組織されている団体です。権威をもって、はっきりと「戒規」をくだすところです。第一、第二のステップを踏まえたのち、教会に訴えたのです。ある教会の信徒は教会も飛ばして、教団に訴えるところもあるそうです。中には、全国の教会に手紙を送りつける人もいます。そうなったら、収拾がつかなくなるばかりか、キリストの名前に傷がつきます。教会にはイエス様の権威が与えられています。マタイ1818「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」アーメン。共同体を壊す罪をそのままにしておきますと、悲惨なことになります。教会が中傷と争い、分裂に陥るなら、サタンの思う壷です。やがて、世の人たちも「あれでもクリスチャンか」と言うようになります。私たちは多少の考えの違いがあるかもしれません。感情のもつれがあったかもしれません。しかし、イエス様の十字架のもとで和解しなければなりません。もし、それでも罪を悔い改めず、罪の中に留まるならどうなるでしょう?神さまご自身がさばきます。「では、その人は地獄へ行くのか?」というとそうではありません。イエス様を信じていたなら、確実に天国に行くことはできます。信仰義認だからです。でも、その人が生前犯した罪を悔い改めないならば、神さまが肉体の命を取ります。そして、そのことによって罪が帳消しになり、霊においては天国に行くことができるのです。聖書には、信仰があるのに、罪を犯したために、死んだ人が何人も書かれています。でも、その人たちがキリストを信じているなら、ちゃんと天国に入ることができるのです。

 教会の旗印は神の愛ですが、「神さまが愛ならば何でも赦されるか」というとそうでもありません。神さまは愛ですが、同時に義なるお方です。義なるお方だからこそ、私たちの罪を赦すために御子を十字架につけたのです。神さまの愛は無条件です。しかし、神さまの祝福は条件付きです。神さまはさまざまな法則を設けられました。宇宙万物に法則があります。科学や物理の法則もあります。しかし、道徳的な法則も神さまは作られました。聖書で、それは律法と呼んでいます。十字架で律法の呪いは確かに砕かれました。では信じた後、律法は不要なのでしょうか?そうではありません。神さまは恵みによって律法の内を歩むように願っています。なぜなら、律法を犯したり、律法の外に出るならば、私たちの生活、命、人間関係が壊されるからです。私たちはキリストによって救われましたが、天国に行くまでは不完全です。ですから罪を犯したならば素直に悔い改めましょう。そして、互いに赦し、互いに愛し、互いに建て上げあう教会を作りたいと思います。この世と教会の違いは何でしょうか?この世は互いに裁き合い、互いに訴えあっています。しかし、教会は互いに赦し、互いに愛し合うようにします。そして、もし、そこに罪があるならば勇気をもって対処し、和解をもたらしていくのです。教会が神の愛と神の義がバランスよく支配されるところとなりますように求めていきたいと思います。

|

2011年1月16日 (日)

執事と長老      使徒6:1-6

 初代教会には執事と長老がいました。現代においても同じ名称で、組織している教会もあれば、そうでない教会もあります。長老派の教会はわりとがっちりしていますが、バプテスト教会などは民主主義的です。カリスマ的な教会は、牧師のリーダーシップが強くて、ワンマンになる傾向があります。これは教団の歴史がありますので、一概に、これが良いとは言えません。当教会はこれからどうするのでしょうか?10年くらい前に、『健康な教会へのかぎ』という本がベストセラーになりました。その本の英語の題名は、The purpose driven church.です。教会を何が動かすのかということです。伝統が動かす教会、役員が動かす教会、牧師が動かす教会、プログラムや行事が動かす教会があります。しかし、この本は「教会の目的こそが教会を動かすべきである」という主題で書いています。ある教会は、組織が手かせ足かせになっている場合があります。それで教会の存在目的を果たすことができないのです。

1.最初の執事

 まず、使徒の働き6章から最初の執事について学びたいと思います。執事がどうして任命されたのでしょうか?それは、やもめたちの毎日の配給で問題が生じたからです。あるグループはいっぱいもらって、あるグループはなおざりにされていたようです。不平等が生じたので、7人の執事が任命されました。その条件が、「御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たちでした。」おそらく、彼らが教会の実務的なことをしたのだと思います。ここで、ペテロの発言に注目したいと思います。使徒62,4そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。…そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」この箇所から、教会ではこのようなことがよく言われます。「牧師はみことばと祈りに専念できるように、信徒は雑用に徹するべきである。」お聞きになられたことはないでしょうか?つまり、牧師がいつも霊的なことができるように、信徒が雑用を一手に引き受けるべきであり、「牧師に掃除させたり、送り迎えをさせるなんてとんでもない」ということです。私は掃除もしますし、送り迎えもしますけど、牧師としての権威がないのでしょうか?牧師はみことばと祈りに専念できるように、信徒は雑用に徹するべきなのでしょうか?そのとき、7人の執事が選ばれました。彼らはおそらく、毎日の配給が平等になるように奉仕したと思います。でも、そういう雑用だけではありません。使徒7章を見てみると、執事の一人ステパノは議会で、使徒顔負けの大説教をしています。イスラエルの歴史をパノラマ的に語った後、ユダヤ人の罪を糾弾しました。そのため、ステパノは教会の、最初の殉教者になりました。もう一人の執事ピリポはどうでしょうか?使徒の働き8章を見てみると、彼はサマリヤに出かけ福音を宣べ伝えました。病を癒し、悪霊を追い出しました。「それでその町に大きな喜びが起こった」(使徒88と書いてあります。使徒たちがエルサレムに留まっている間、サマリヤの町に下って行って、リバイバルをもたらしました。

 ということは、「ペテロが行ったことは本当に神のことばなのか、つまり霊感された神のことばなのか」ということが問題になります。もし、ペテロが言ったことばが神からのことばなのであれば、ステパノもピリポも余計なことをしたことになります。何と言いましょうか?まことに僭越なこと、身分を越えた振る舞いということになるでしょう。しかし、そうではありません。使徒の働き9章を見ますと後のパウロであるサウロが救われます。そして、名もない信徒たちによって、アンテオケ教会ができます。アンテオケ教会から世界宣教がなされていくのです。イエス様の12使徒はほとんど記されていません。ペテロは「私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします」と言いました。悪いことではありません。使徒だから、そうするべきです。しかし、「信徒や執事が祈りやみことばの奉仕に携わるべきではない」ということではありません。ステパノやピリポは大胆にしていました。つまり、今日的に言いますと、祈りやみことばは牧師の占有物ではないということです。そして、祈りやみことばのレベルが上で、毎日の配給は雑用ということではありません。大体、雑用という表現自体が間違っています。主の働きに雑用というものはありません。また、ある牧師たちは「牧師はプロ意識を持たなければならない」と言います。では、牧師はプロであり、信徒はアマなのでしょうか?「信徒の奉仕はアマなんだから仕方がない」みたいになります。私は主の奉仕をするのに、プロもアマもないと思います。みんながキリストのからだに属して、それぞれの働きをしているのです。それを玄人とか素人というのは失礼です。

 執事を英語でディーコンといいますが、ギリシャ語のデァコネオゥ、「奉仕する」から来ています。ですから、奉仕は身分ではなく、賜物と関係しています。キリストのからだなる教会においては、教える賜物もありますが、管理する賜物も備えられています。身分の違いではなく、それは機能の違いです。ローマ12章には奉仕の賜物や指導の賜物が記されています。また、Ⅰコリント12章には助ける賜物、治める賜物が記されています。Ⅰペテロ310「それぞれが賜物を受けているのですから、神さまのさまざまな恵みの管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい」とあります。ですから、そういう賜物を持った人に、執事とか長老の役職が与えられるのであります。人間のからだを見ると、脳以外にからだを管理している器官がいくつかあります。たとえば、肝臓は3つの働きをしています。食べた物をエネルギーに変える働き、体に取り入れた物の解毒作用、いらないものを排泄する胆汁の生成。肝臓は体内の化学工場と呼ばれるそうです。脊椎はどうでしょうか?脊椎も3つの働きをしています。脊髄などの大切な神経を保護する、上半身を支え下半身を動かす、肋骨との組み合わせで内臓を保護する。脊椎がないとナマコみたいになります。私たちは頭脳とか心臓だけを注目しますが、肝臓や脊椎もものすごく大事です。使徒の働きにおける、ステパノやピリポは12弟子を越えていたところがあります。ステパノやピリポこそが、本当の執事ではないでしょうか?日常的なこともしましたが、霊的な働きもしたということです。

2.最初の長老

 新約聖書に「教会における長老」というのはどういう存在なのか、そんなに詳しくは書いていません。ほとんどの場合、使徒たちの代わりに、預言や伝道、牧会や教えをしていたものと思われます。使徒パウロが教会ごとに長老たちを選んで、主の働きをゆだねています。今でいう、牧師の役割をしていた長老もいました。いわゆる教会の指導者であります。宗教改革者ジョン・カルバンは、教会を組織した優れた神学者です。彼の考えをもとに長老主義、長老派というものが生まれました。今で言うなら、代議員制であります。現代では小会、中会、大会と区分されています。大会は全国レベルの会議であります。いわゆる、教団総会みたいなものです。残念ながら、長老教会の特徴は何でも会議で決めるところがあります。ある場合は、牧師対長老という不毛の戦いが繰り広げられるときもあります。ですから、毎月一度、開かれる役員会、あるいは年に一度開かれる教会総会が牧師にとっては頭痛の種です。あるときは牧師が槍玉にあげられるときがあります。私も個人的ではありますが、長老制度が果たして聖書的だろうかと疑問に思っています。イエス様を十字架につけたのは、律法学者や長老たちでした。それはともかく、初代教会のころは、組織的にかなりゆるやかではなかったかと思います。彼らは祈りつつ、聖霊の導きを絶えず仰いだからです。いざ、会議モードに入りますと、左脳ばかり使う議論になってしまいます。政治とか会社は、それで良いかもしれませんが、キリストのからだなる教会ではそうであってはなりません。大体、役員に選ばれる人というのは、信仰よりも、この世で地位のある人たちです。彼らは会社を経営するように、教会を運営したくなります。「教会は組織的になっておらん!」と言う訳です。

 当教会は役員とか責任役員というふうに呼んでいます。宗教法人法には何名か責任役員がいなければなりません。私は責任役員がいることは悪いことだと思っていません。代表役員である牧師の責任を一緒に担うという役目があるからです。牧師が逸脱した行為をしたり、牧師が何らかの理由で職務を果たせない場合は、責任役員が必要でしょう。しかし、多くの場合は、役員会というのはボード、評議会のようなものです。牧師とビジョンを共有し、伝道牧会におこる問題を一緒に協議する必要もあります。私は当教会に赴任して、23年になります。私を座間キリスト教会から招聘してくれた人たちが当時の役員会です。山崎長老さんと、戸叶長老さんもその中におられました。長老制度の長老ではなく、当初の頃から教会を支えてこられたので「長老さん」と愛称で呼んでいました。その頃、教団に無認所の牧師が6人いました。なのに、「他の血を入れたいので、大川牧師の弟子を」ということで単立の教会からスカウトしたのです。すばらしい信仰ではないでしょうか?赴任して5年目くらいでしょうか?役員さんの世代交代がありました。そのとき役員会で、いろんな提案やアイディアを出す人がいました。「教会はこういうことをしたら良い。ああいうことをしたら良い」と言うのです。最初の頃は、「そうですね」とできるだけ答えてがんばりました。しかし、教会が小さいこともあって、多くのことはできないということが分かりました。あるセミナーで「差別化」ということを教えられました。つまり、デパートのような総花式ではなく、「これだけを売る」という専門店を目指しました。私は「福音を分かり易く語る」ということをモットーにしました。それでも、あれやこれやと言われました。そのとき、牧師として役員さん方に提示したことがあります。「役員会で、提案やアイディアを出すだけというのはお断わりします。アイディアを出した人が率先してやるならばいくら出しても結構です」と。それ以来、理想論は減って、実行可能なことが話し合われるようになりました。

 教団教派によってはいろんな組織があります。日本基督教団のように、長老会で教会を運営している教会もあります。牧師も長老の一人です。また、聖公会やメソジスト系は監督制で、教団や牧師に力があります。バプテスト教会や組合教会は、民主主義的で牧師も信徒の一人です。単立の教会は、牧師がカリスマ的でリーダーシップが強いかもしれません。このように、牧師の権限が大中小と分かれており、そこには長所も短所もあります。しかし、私は教会運営においても、セルチャーチの概念を取り入れています。セルチャーチとは何かと言うと、牧師も役員も信徒もみんなかしらなるキリストにつながっているということです。牧師だけではなく、それぞれがキリストに聞くことができるということです。その次に問われるのは霊的な賜物です。指導の賜物や管理の賜物、あるいは使徒的な賜物があります。牧師でリーダーシップの強い人もいれば、強くない人だっています。牧師が教師的なタイプである場合は、牧会や教会運営は他の人がやっても良いのです。ですから、賜物に応じて、生きた組織を作っていけば良いのです。教会はこの世の組織とは違います。この世の組織はトップダウン的です。何かを決める偉い人と実際に行う下の人たちがいます。教会はキリストのからだです。生物的、有機的な存在です。働きも賜物も違う者どうしが、かしらなるキリストにつながっています。みんなが、かしらなるキリストに聞いて、それを行う。そういうからだをイメージした教会を目指したいと思います。

3.牧師と役員会

 最後にまとめをしたいと思います。こういうことを礼拝説教で語っても果たして恵まれるだろうかという疑問があります。いわば教会の裏話みたいなものです。信仰のDNAシリーズの最後の段階ですのでお聞きください。牧師と役員とはどのような関係であるべきなのでしょうか?ある教会では、役員会を労働組合のように思っています。経営者側と労働者側と分けるように、教会側と信徒側みたいに考えます。「役員会というのは信徒の意見を吸い上げて、それを牧師にぶつけるんだ」と考えています。でも、役員会は団体交渉のためにあるのではありません。役員会は牧師のビジョンをになうリーダー的な人たちで構成されています。聖書全体を見てわかりますが、神さまは特定の人にビジョンを与えます。牧師にビジョンがない場合は、他のリーダーに与えます。ブラックゴスペルは11年前に、3人の兄姉が言い出しました。「私は日本人には無理なんじゃないかな?でも、セルによってみなさんが自主的にやるんだったら良いよ」と言いました。私にはブラックゴスペルのビジョンが来ませんでした。でも、牧師も役員会もそのビジョンが実現するように助けるようにしました。しかし、教会によっては牧師や役員会が信徒のビジョンを受け入れないばかりか、潰すところもあります。エリヤハウスという内面の癒しをするグループがあります。やっぱり、牧師の承認にかかっています。牧師がノーと言えば、教会にエリヤハウスを導入できません。でも、牧師だけが「セルチャーチを目指す。二つの翼をやる」と言ってもなかなか実現しません。では、教会をだれが動かすのでしょうか?牧師でしょうか?役員でしょうか?伝統でしょうか?それともプログラムでしょうか?私は神さまから与えたビジョンが教会を動かすと信じます。かしらなるキリストから与えられたビジョンによってみんなが動く、これが大事だと思います。箴言に幻(ビジョン)のない民は滅びると書いてあります。神からのビジョンがあるのか、ないのか、これが生命線だと思います。それを牧師と役員とみなさんが一緒に担う有機的な組織が教会です。

 多くの場合、牧師が「こうしよう、ああしよう」と言います。会堂建築、教会の開拓、あるいはこういう伝道プログラムをしようと言います。牧師はあっちのセミナー、こっちのセミナーにでかけ、「ああ、これだ!これしかない!」と言います。しかし、役員や信徒は「ああ、また先生はじまった。何回失敗すれば良いんだ。前も、これしかないとか言って、ダメだったじゃないか」と結構、冷めています。牧師だって馬鹿じゃありません。心の奥底に「前も失敗したので、今度はどうかな?」という迷いがあります。それを押し切って、「ああ、これだ!これしかない!」と言うのです。では、役員の人たちはどうすれば良いのでしょうか?みなさん、車にはブレーキがあります。スピードの出る車には、ちゃんとしたブレーキがなければ危ないです。スピードが出たけど、ブレーキがきかない。危なくて仕方がありません。ある意味では、役員の人たちは車のブレーキです。牧師は「ビジョンだ、信仰だ!お金は神さまが与える」と言います。しかし、役員は常識で物ごとを考えます。「とは言うけど、予算がない。どこからそのお金が出てくるのだろうか?」。牧師は「祈れば、神さまが与えてくださる!」と言うでしょう。両方正しいのです。牧師は役員の反対があれば、もっと神さまの導きを求めるので、より実行可能なビジョンになるのです。牧師がカリスマ的で超ワンマンな教会もあります。カルトとは言いませんが、役員さんはみなイエスマンです。牧師に反対できません。牧師がわき道にそれたり、罪を犯すときもあります。それを抑制できない、止めることもできない。問題が大きくなって、教会が分裂したり、信徒が散らされる場合もあります。一度、壊れた教会を修復するのは大変です。誰が、その後を継ぐのでしょうか?牧師のビジョンと役員の常識、牧師のリーダーシップと役員の抑制力、そういうバランスが必要だということです。でも、どうか役員がビジョンの火ばかり消すことにエネルギーを使わないようにしてください。一緒に、神さまのビジョンを担う者となりましょう。

 また、教会によっては牧師を雇い人のように考えている教会もあります。どこの教会とは言いませんが、幼稚園のお庭に教会の建物があります。幼稚園はとても立派で、園長さんはみんなから慕われています。でも、幼稚園のお庭に教会が間借りしている状態です。子どもたちが、教会の牧師を「おじさん」と呼んでいるそうです。それは良くないですね。幼稚園の経営も大切ですが、霊的な指導者として牧師を立てるべきであります。それは極端ですが、教会が牧師を招いた場合、牧師はサラリーをいただく立場になります。つまり、教会はその牧師をいくら、いくらで雇っているかたちになります。そうすると、役員会は牧師にいろんな要求をするし、牧師は言うことを聞かなければならないと思うでしょう。「俺たちが給料を払っているんだから、新しい人よりも、今いる人たちを世話しなさい」と言います。しかし、これは間違いです。牧師は確かにその教会から招聘されました。でも、神さまがその教会にその牧師を送ったのです。ですから、牧師のボスは役員会ではなく、イエス・キリストです。イエス様が大牧者で、その牧師は中牧者です。イエス様が、その牧師を教会の霊的指導者として派遣したのです。そういう信仰を教会の役員さんや信徒が持たなければなりません。ある教会の牧師から「雇われ牧師からオーナー牧師になれ」と教えられたことあります。オーナー牧師とは、牧師が教会を仕切るというニュアンスがあります。確かに、長い間、忠実に勤めることにより、教会員からの信頼を勝ち得る必要はあると思います。しかし、自分の思うとおりに教会を動かすというのは、行きすぎです。韓国の教会は牧師の地位がものすごく高いです。しかし、日本の教会はものすごく低いです。牧師給も低いので成り手がいません。一人の魂を救いに導いたら、いくら位の値打ちがあるのでしょうか?永遠の滅びから、永遠の御国ですよ?1億円でも足りないのではないでしょうか?Ⅰテモテ517,18「よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。…「働き手が報酬を受けることは当然である」と言われているからです。今のは、フルタイムで仕えている牧師へのことばです。では、執事や長老、役員さんはどうなんでしょうか?好きでもないのに、役員に選ばれて、責任ばかり押し付けられるのでしょうか?いわゆる、貧乏くじをひかされるようなものなのでしょうか?そうではありません。Ⅰテモテ313「というのは、執事の務めをりっぱに果たした人は、良い地歩を占め、また、キリスト・イエスを信じる信仰について強い確信を持つことができるからです。」「良い地歩」とは、財産,権利などを取得する、手に入れるという意味です。ハレルヤ、神さまの報いが、この地上でも豊かにあるということです。韓国は現在とても豊かな国になりました。どうしてでしょうか?最初に教会が祝福されたからです。教会の長老さんや執事が行なっているビジネスが祝福されたからです。日本の教会も、教会が豊かに祝され、リーダーや役員さんが祝されますようにお祈りしましょう。

|

2011年1月 9日 (日)

「心を満たせ」      ヨハネ7:37-39

イエス様は「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れる」と約束されました。そして、その約束はペンテコステの日に成就されました。ペンテコステの日に御霊が注がれ、120人の人たちが聖霊に満たされました。それ以来、イエス様を信じるものはだれでも、聖霊を受けることができます。イエス様を信じたら、同時に聖霊を受けるのです。しかし、聖霊に満たされるとは違います。聖霊に満たされるためには、神さまに求めなければなりません。神さまは私たちが望む以上に、私たちを聖霊で満たしたいのです。なぜなら、私たちが聖霊に満たされることによって、神さまに従い、勝利ある信仰生活を送ることができるからです。でも、ある人たちは、聖霊に満たされるという特別な体験だけを追い求めます。異言の伴う聖霊のバプテスマ、聖霊による油注ぎを求めます。すばらしい神秘的な体験を持つことも良いです。でも、これは信仰の世界なので、体験があってもなくても、神さまに「私を聖霊で満たしてください」と祈れば、もう満たされたのです。体験はあとからついてきます。

1.御霊に満たされるとは?

 ヨハネ4章でイエス様は「私が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ414と言われました。これはイエス様を信じるときに、永遠のいのちが与えられる新生の体験です。そのときの聖霊の働きはたとえて言うなら、泉であります。でも、ヨハネ7章の場合は、ちょっと違います。「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れる」とおっしゃいました。川は泉よりも、水の量がもっと豊かです。ちなみに、この川は原文では複数形riversとなっています。ですから、原文に忠実に訳すなら「その人の心の奥底から、生ける水が川々となって流れる」となります。かなり、前にチョーヨンギ先生が日本に来られたとき、「川はすごい」というお話をされたことがあります。世界の4代文明は川の流域から始まりました。チグリス・ユーフラテス川、ナイル川、黄河、インダス川の流域です。つまり、川の流れるところに、町ができ、文化ができるということです。でも、聖書ではもう1つの川があることを教えています。エゼキエル書47章に、神の川について記されています。エゼキエル478,9「この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海に入る。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる。」アーメン。神の川が流れるところには、町ができ、新しい文化、新しい文明ができます。それが神の国です。この亀有教会も神の川の支流の1つです。今まで、生まれも育ちも違った人たちが、神さまのもとに集まり、1つのコミュニティができました。わざわざ、千葉県、埼玉県、足立区から来られる兄姉もおられます。教会を中心とした生活になっています。そして、日本の文化を越えた、神の国の文化を作っています。

では、聖霊に満たされるとはどういう意味でしょうか?それは心が聖霊によって支配されるということです。イエス様を信じて新生した頃は、泉なので、自我とイエス様が王座を競っている状態です。でも、聖霊に満たされると、心の奥底から、生ける水の川が流れ出てくるので全然違います。生ける水の川が「ばぁーっ」と流れると、どうなるでしょう?上にたまっていたゴミが流されます。赦せない心、反抗心、プライド、トラウマ、悲しみのゴミが「ばぁーっ」と流されます。その代わり、聖霊の実が現れます。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」(ガラテヤ522,23)。聖霊によって満たされた状態とはどういう状態でしょうか?心が聖霊によって導かれる。心が聖霊によってコントロールされている状態のことです。みなさん、心とは何でしょうか?英語では心を機能的に3つに分けることができます。1つはintellect、知性、知識です。mind(思い、頭脳)と言って良いかもしれません。2つはheart、感情、情緒的な面です。3つ目はintention、意思です。「こうしよう、ああしよう」と決断するところです。みなさん、神さまから離れた私たちの心は不安定で、正しく機能していません。知性は肥大化し、感情は不安定、意思は独りよがりです。それぞれの心の機能に、聖霊様のコントロール、ご支配が必要です。聖霊に満たされるとは、この3つの分野をご支配していただくということです。そうすると、神さまの力と能力が、そしてキリストの品性が心の底から流れ出てくるのです。ハレルヤ!どうでしょうか?泉の人生で我慢していて良いでしょうか?「森と泉に囲まれて…」ロマンがあるかもしれませんが、自分一人しか影響を与えることができません。どうでしょう、川、川々の人生が良いのではないでしょうか?この川の流れ行くところものみな生きる人生です。

2.キリストにあって生きる

 聖霊に満たされた生き方とは、表現を換えるならば、キリストにあって生きるということです。多くの牧師たちは、聖霊に満たされることを教えても、何か漠然としていたのではないでしょうか?私の場合は、インドネシアのエディ・レオ師からすばらしい教えをいただいていますので、こういうところがよく分かります。あるクリスチャンたちは、神のいのち、聖霊様が与えられているにも関わらず、まるでいないかのように生きています。たとえば、「私は神さまのために、イエス様のために生きます!」と言います。多くのクリスチャンは「神さまは天におられ、クリスチャンは地上にいる」と信じています。クリスチャンは上を見上げて、「神さま、あなたのために生きたいです」と言います。「神さま、あなたを愛します。神さま、隣人を愛します。神さま、あなたのみことばに従います」と言います。これは動機について言っているのではありません。もちろん、私たちはキリストのために生きたいという動機を持っています。しかし、「キリストのために生きる」とは動機について語っているのではありません。「どのように生きるのか」ということを語っているのです。私が「おお、神さま、あなたのために生きたいです」と願ったとします。動機はすばらしいですが、単独で、神さまのために生きようとしています。単独で「神さまを愛します」「隣人を愛します」「みことばに従います」と願っています。でも、それは不可能です。何故、不可能なのでしょうか?私たちにはそのような強い意志がないからです。代わりに、肉の思いが邪魔して、やろうとすればするほど、変な方向に行ってしまいます。パウロがそのことをローマ7章で表現しています。ローマ7:18,19「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。」これこそが、私たちの意志の限界です。聖書ではこれを肉、うまれつきの力と言います。多くのクリスチャンは救われているのに、旧訳の時代に住んでいます。「神さまを愛する」「隣人を愛する」「みことばに従う」。これは、律法です。旧約の時代の人は、これを自分の力で守り行おうとして失敗しました。私たちは新約のクリスチャンなのに、旧約の時代の人の生き方をしています。せっかくイエス様を信じて救われたのに、世の中よりも、もっと細かい律法に縛られます。世の中では悪いことを思っても実行しなければ罪ではありません。でも、クリスチャンの場合は、思っただけでも罪になります。人を憎しむことは殺人に等しく、情欲で女性を見ることは姦淫です。「わぁー」、なまじっかクリスチャンになったばっかりに、苦しむことになります。「ああ、してはいけない。こうしなければならない」と言っている人は、律法主義的なクリスチャンです。自分の力や意志でやろうとしているからです。

 パウロはその代わり何と言っているでしょうか?ガラテヤ2:20「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」パウロは、「私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」と言われました。どうでしょう?クリスチャンの方々にお聞きします。クリスチャンは、自分がいないのでしょうか?自分の意思や考え、感情を捨てるべきなのでしょうか?これはそういう意味ではありません。自分の意思や考え、感情を、自分のうちにおられるキリスト様に従わせるということです。表現を換えますと、自分の肉の力ではなく、イエス様の力、聖霊によって生きるということです。パウロがこのことを表現するために、最も表現したことばは、エン・クリストウです。新約聖書では「キリストにあって」「キリストの内に」「キリストの中に」「キリストによって」と訳されています。エンは英語のinとも訳せますが、もっと生命的な意味があります。エンは「霊的、神秘的交わり、結合」「人物の中に内在し、活動すること」「霊の働きの支配下にある」という意味があります。私たちはまさしく、イエス様と霊的に結合し、イエス様が私たちの中に内在し、活動しています。そして、私たちはイエス様の働きの支配下にあります。つまり、本当のクリスチャンは、自分の力ではなく、イエスさまを私たちの原動力として生きるということです。このように言うと、「ああ、それじゃ自分の力はいらないのか?」と考える人もいます。そういうことではありません。私たちは決断したり、考えたり、手足を動かす責任があります。でも、そのすべての源がキリストにあるべきです。前回、W.W.J.D「イエス様だったらどうする?」という生き方は、律法的で疲れ易いと申し上げました。なぜなら、「イエス様だったらどうする?」と言う度に、イエス様と自分を切り離して考えるからです。プロミスキーパーズという世界的な団体があります。彼らは婚前交渉、妊娠中絶、同性愛、ポルノを禁じます。とっても良いことだと思います。あるとき、プロミスキーパーズがワシントンDCに集まり、大きな大会を開いたそうです。おそらく、さきほどのことを絶対にしないぞ、と宣言したに違いありません。しかし、その夜、ポルノのウェブサイトのアクセス数が何倍にも膨れ上がったそうです。その原因は何でしょうか?大会に集まった人たちが、夜、ホテルに帰ってからこっそり見ているからです。これが、人間の肉の限界です。悪いと分かっていても、それを止める力がないのです。

 では、どうすれば良いのでしょうか?前の人は、単独で神さまのために生きようとしていました。だから、うまくいかないのです。クリスチャンの中には、すでにイエス様が住んでおられるのです。私たちが神様のために生きるとしたら、だれが生きるでしょうか?自分が生きていることになります。もし、自分が生きているのであれば、どっちの命の力が発動するでしょう?肉の命、肉の力です。肉の命は、ビオスとかサルクスと呼ばれています。私たちにはもう1つの命の力があります。それはゾエーの命であり、聖霊の力です。多くのクリスチャンがノンクリスチャンとほとんど変わらない生き方をしているのはなぜでしょうか?それは、自分の力、肉の力で生きているからです。もし、あなたが生きていれば、肉の力が働きます。神さまのために生きようという意志はあると思いますが、自分の力で独立して生きています。うまくいく時もあるでしょうが、失敗する時のことが多いでしょう。うまくいったとしても、非常に疲れます。私たちクリスチャンは、「キリストにあって、キリストの内に、キリストの中に、キリストによって」生きなければなりません。キリストにあって生きるなら、私たちがなすべきことができて、私たちがやってはいけないことをしなくなるのです。私たちがすべきことは、たえず、「イエス様、一緒に行きましょう」「イエス様、このことを一緒にやりましょう」「イエス様、これをしたいのですが、力を与えてください」とイエス様により頼みながら、生活すれば良いのです。

3.キリストを現す生き方

クリスチャンの理想的な生き方は、私たちを通してキリストが現れてくださることです。私たちを通してキリスト様の愛が現れる。私たちを通してキリストの力が現れる。ということは、キリスト様は器である私たちを必要としています。私たちはキリストのからだです。キリスト様は私たちのからだを通して、ご自身を現したいのです。ハレルヤ!でも、その前に1つだけ知るべきことがあります。イエス様がこの地上でどのようにして生きておられたかを知るべきです。なぜなら、イエス様が御父に対して生きた生き方と、私たちがイエス様に対して生きる生き方が共通しているからです。多くのクリスチャンはキリストのために生きようとしています。イエス様は御父のために決して生きませんでした。イエス様はどのように生きたのでしょう?ヨハネ6:57「生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。」イエス様は「私は父によって生きている」と言われました。これは、イエス様は御父の中に生きたということです。また、御父がイエス様の中に生きていたということです。他のところでは「私が御父の中にとどまり、また、御父が私の中にとどまり」と書いてあります。

では、イエス様はどのように生きたのでしょうか?ちょっと想像してみたいと思います。ある朝、イエス様が目覚めました。「ああ、なんとすばらしい一日でしょう。父よ、きょう、私はあなたのために生きます。あなたのために、もっとすばらしい生活をします。父よ、昨日よりも、もっとあなたに仕えます。だから、あなたのためにもっとすぐれた生活を計画します。きょうはペテロの家で聖書研究をします。今までよりも、もっとすぐれたものにしたいです。ペテロの家のまわりには病気の人がたくさんいます。一人ひとりをあなたのために癒して来ます。それだけではありません。あなたのために、悪霊を追い出します。それだけではなく、私のミニストリーの頂点となるものがあります。きょうの夜はどこかのお葬式に出かけ、死人をよみがえらせます。父よ、すべてあなたのためにいたします。きょうの一日、全部、計画しました。あなたのための計画です。ここにサインしてください。」イエス様はこのように生きたでしょうか?そのようなわけがありません。では、イエス様はどのように生きたのでしょうか?イエス様は「自分からは何事も行なうことができません」(ヨハネ5:19)と言われました。イエス様は神さまでありながら、ご自分の力を制限されました。「私がするすべての働きは、私から出るものではなく、私の中で生きている御父がすべてを行っているのです」と言われました。だから、イエス様は御父の中に生きました。あるいは、御父がイエス様の中に生きたと言っても構いません。イエス様が父の中にいただけではなく、御父もイエス様の中にいたことが、イエス様のすべてでした。イエス様こそが、永遠の命の模範です。イエス様は「わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです」(ヨハネ6:57)と言われました。つまり、イエス様が御父によって生かされていたように、私たちもイエス様を信じることによって、イエス様によって生かされることが必要です。だから、イエス様にあなたの命になっていだだくようにしなければなりません。イエス様があなたのすべてになった時に、永遠の命というものを見ることができるのです。そして、あなたの人生が変わったことを知ることができるでしょう。

神さまは私たちに永遠の命を生きることを願っておられます。永遠の命はライフ・スタイルです。それはイエス様の内に生きるということです。イエス様は私たちの中に生きておられます。イエス様は私たちの命、永遠の命になってくださいました。イエス様が私たちの内に生きておられるとは何と力強いことでしょう。もし、あなたが永遠の命を生きることを学ぶなら、あなたは多くの実を結ぶことができます。イエス様があなたの中に生きておられることを想像してみましょう。イエス様が私たちの内に生きておられるなら、何が起こるでしょうか?たとえば、サッカーはとても愛されています。本田選手は日本のベスト・プレイヤーです。たとえば、本田選手があなたの中に生きていたらどうなるでしょう?想像してみましょう。本田選手が私たちの中に生きていたら、私たちはサッカーの専門化になれます。私たちは、そこでサッカーを1から覚えなければならないでしょうか?本田選手が私たちの中に生きているので、サッカーを覚える必要がありません。なぜなら、その道の専門家が私たちの中に生きているからです。それでも、私たちは3つのことを学ばなければなりません。第一は私たちの中に生きている本田選手を知ることです。第二はどのように本田選手の中に留まるのかを学ばなければなりません。第三はサッカーをするとき、どのように本田選手を現すかです。それはイエス・キリストにおいても全く同じことです。イエス様が私たちの中に住んでいれば、どうなるでしょう?それはイエス様が専門としたものに、あなたも専門家になるということです。あなたも、サタンを倒すのに専門家になれます。あなたも聖い生活をする専門家になれます。あなたもみことばに従う専門家になれます。あなたもミニストリーの専門家になれます。あなたはそれらを1から覚えなくても良いのです。なぜなら、その道の専門家があなたの中に住んでおられるからです。では、何を学ばなければならないのでしょう?3つのことです。第一はイエス様を知ること。第二はイエス様の中に留まること。第三はイエス様を外に現すかです。みなさん、それが永遠の命を生きるということです。

キリスト教は、自分の力で、キリストを真似ることではありません。「イエス・キリストが愛しておられるので、私も愛さなければならない」。真似をするけど、自分の力でそれをする。しかし、キリスト教とはそのような方法ではありません。では、どういうものがキリスト教なのでしょう?自分自身の力では愛することはできないことを理解することから始まります。なぜなら、私たちの愛には限界があります。私たちの愛は人間的な愛です。ビオス(肉の命)の愛です。神の愛、アガペーの愛ではありません。しかし、イエス様はアガペーの愛を持っておられます。あるクリスチャンが「クリスチャンは大変です。本当に難しいです」と言いました。私は「難しいのではなく、不可能です」と答えるでしょう。自分の力では、それは不可能です。唯一、愛する方法は、自分の愛と神様の愛を交換しなければなりません。イエス・キリストの愛によって愛する。そのために、私たちはイエス・キリストをよく知らなければなりません。第一はイエス様を知ること。第二はイエス様に留まること。第三はイエス様を現すことです。そうすれば可能になります。私たちも、御霊に満たされる、つまり、イエス様の命に満たれて歩みたいと思います。

|

2011年1月 2日 (日)

「心を守れ」  箴言4:23-27

昨日の元旦礼拝では、「心を新たに」というテーマでお話しました。怒りや恐れに縛られていたら、私たちの考えや思いを変えるべきです。そのためには、一番、中心のコア世界観をAからBに変えるということをお話ししました。お聞きになられなかった方は、入り口にプリントがありますので後でお読みください。きょうは、その続きであります。私たちの考えの中心部分、コア世界観を変えなければ、すべての努力が元の木阿弥になります。多くの場合、私たちはコア世界観を変えるのではなく、周辺的なことを変えようとします。たとえば、前向き、肯定的に考えよう。積極的な考えを持とう。イヤなことは忘れて、良い面を見よう。聖書を読んで、みことばに従おう。どれも悪いことではありません。でも、効き目がないのです。なぜなら、本来、手術しなければならない病気を、塗り薬で済ましているからです。きょうのお話は、コア世界観Bに取り替えた人にはものすごく訳に立ちます。古い世界観の人は、それなりに役に立つでしょう。私たちは心を守るために、どのようなことをすべきなのでしょうか?

1.良いものを入れる

 私たちの中心部が癒されると、良いものをどんどん吸収することができます。良いものとは、自分の魂のためになることです。正しい考え、価値のあるもの、神さまによろこばれるもの、生産的なものです。パウロはこのように命じています。ピリピ48「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。」「心を留めなさい」とは、深く考える、熟考するという意味です。真実、誉れ、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、評判の良いこと…。ところが、この世が提供してくるものは、全く逆のものが多いのです。昨年、一人の歌舞伎俳優が傷害を受けました。そのことで、マスコミがいろんなことを取り上げました。私たちも「何が原因なんだろう?本当のことはどうなんだ、」とか考え、一緒に腹を立てたりします。お相撲さんのこと、中国漁船のこと、内閣の支持率低下、いろいろありました。そういうニュースのほとんどはスキャンダル的な要素が含まれています。この世の中の人たちはそういうニュースが好きなのです。でも、私たちは心を守るために、悪いものを排除し、良いものだけを入れなければなりません。

 昨年もコンピューターの話をしましたが、もう1つお話しします。コンピューターはデーターが入っていなければただの箱です。コンピューターは「ゴミを入れるとゴミが出る」ということです。私たちの頭や心もコンピューターそっくりです。男性がポルノに関した、DVDやインターネットのサイトを継続して見るとします。「おー、あー」。ポルノの画像が、どんどん心の中に入ってきます。すると情欲がどんどん養われていき、実際そういうことがしたくなります。電車の中で手を出したり、盗撮する人はそういう人です。たとえば女性がサスペンスや推理小説をいつも、いつも読んでいるとします。そうすると心の中に非現実的なことがたくさん入ってきます。「人々が信じられない、何が悪いことが起こるのではないだろうか」。そういう妄想につきまとわれるかもしれません。一番、恐ろしいのは子どもたちや若者のゲームです。バーチャル、仮想現実の中でいろんなことが起こります。人が撃たれたり、切られて、また復活し、また死にます。憎んでいる人をゲームの中で殺すかもしれません。そして、現実よりも、3Dで作ったアニメの世界で生きるようになるかもしれません。結局、現実に置かれている自分の生活や命を粗末に扱うようになるでしょう。私たちは、何でも無防備に心の中に入れてはいけません。私たちの意識(理性)は心のドアの門番です。意識は良いものは入れて、悪いものは締め出すように作られています。しかし、意識が最も弱まるときがあります。それはいつでしょう?寝る前のぼーっとしている時間です。この時が一番無防備です。みなさんは、寝る前のぼーっとしている時間、何をしているでしょうか?多くの場合、寝そべってテレビを見ているんじゃないでしょうか?寝る前に、多くの人はテレビをつけています。すると、テレビの内容が、そのまんま、あなたの潜在意識に入り、それが蓄積されていきます。私は亀有に来て23年になりますが、私が赴任する前からダイヤル一日一生をやっていました。23年間、毎日、私はずっと聖書からショートメッセージをしています。「だれがこんなことを始めたんだ」とムカついたこともありました。でも、寝る前に録音するので、どうしても聖書を読まなければなりません。今、思えば「強いられた恵みだったんだなー」と感謝しています。

 どうぞ、みなさん良いものを心の中に入れてください。そのために第一にすべきことは聖書を黙想することです。詩篇112「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」「口ずさむ」とは、黙想する、思い巡らすという意味です。みことば黙想すると、聖書の価値観、約束、希望があなたの心の中に蓄積されていきます。そうすると霊が強められ、信仰、希望、愛が出てきます。それから、信仰書を読むということも重要です。現代は活字離れが多いそうですが、1ヶ月数冊は本を読みましょう。昨年は、アメリカの牧師・ジョエル・オースチンの本を読んで、大変、力づけられました。今、ポール・J・マイヤーの『成功への25の鍵』という本を読んでいます。コーチングしていたある先生から、「ぜひ、読んでください」とプレゼントされました。本を読んで、積極的な考え、肯定的な考え、信仰的な考えを心に満たしたら良いです。私は良いセミナーがあったら、できるだけ出かけることにしています。そして、録音したものを文章化してファイルにしています。聞くだけだとほとんど残りませんが、それを文章化し、さらに人々に分かち合うと50%ぐらい残ります。そして、だれでもできることは、たえず、神様と交わることです。祈り、賛美、礼拝、告白、感謝をすると、私たちの心が満たされてきます。コロサイ312「もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」アーメン。

2.悪いものを吐き出す

私たちは毎日、生活していますといろんなことが起こります。自分はコア世界観Bコースに切り替えたつもりでも、「えーなんで?」みたいなことに遭遇します。もし、怒り、恨み、憎しみ、さばく思いが心の中に放置されたらどうなるでしょうか?心の中に、苦い根が張ってしまいます。ヘブル1215「そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように」とあります。苦い根が生えてきて、自分だけではなく、多くの人を汚してしまいます。恨みごとを言っている人のそばに座ったことがあるでしょうか?何やら不満や批判、怒りを口に出しています。実は、その人は、周りの人を汚しているのです。その人に「そんな否定的なことを言うなよ」と言っても効き目がありません。すでに、心の中に苦い根が生えているので、口が苦々しいことを語るのです。その人がいくら恨み言を吐いたとしても、解決されません。苦い根の根っこを抜かなければなりません。また、ルカ176「この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになるのです」というみことばがあります。桑の木の根っことは何でしょう?このみことばの前後には、「人の罪を何度まで赦したら良いでしょうか?」「七度まででしょうか?」と問われています。イエス様がそれに対して、桑の木のたとえについて話しています。桑の木の根っこは地面に張っていて、簡単には抜けないそうです。つまり、人を赦さないでいると、桑の木の根っこのように心の中に深く根を降ろします。「もう、赦さないぞ!」と、一旦、根を張ってしまうと、そう簡単には赦せなくなるのです。また、エペソ426,27「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい」とあります。これも同じで、怒りを放置しておいたら、悪魔が働く足場を与えることになるという意味です。

苦い根、桑の木の根、悪魔に機会を与える。これらに対して、どのように対処したら良いのでしょうか?解決策は、1つしかありません。すぐに神さまに告白して、悔い改めるということです。次の日まで持ち越さないということです。1週間くらい放置したなら、悪い思いが居座ってしまうというでしょう。憎しみ、怒り、赦さない心、これは実際に血液を汚すそうです。人間は本来、人々を赦し、平和に暮らすように神様から造られています。しかし、それに反したことを思うと、血液が汚れ、病になります。すべての病気がそうだと申しませんが、どこかに不具合を生じることは確かです。私たちは癌になったら、「これはエライことだ!」とすぐ病院に行って、取り除いてもらうでしょう。でも、憎しみ、怒り、赦さない心はそのままにして、何度も思い起こして、その菌を培養してしまいます。憎しみ、怒り、赦さない心は心の癌細胞です。私たちは断固として、イエス様に告白して、捨て去るべきであります。

みなさんは、「境界線、バウンダリー」ということばを聞かれたことがあると思います。簡単に言いますと、他の人の問題と私の問題、あるいは他の人の責任と私の責任を分けるということです。日本人は共依存的なので、他の人の問題と自分の問題がごっちゃになってしまいます。その結果、いらいらして腹を立てたり、心配したり、がっかりします。本来、それは自分のものではないのですが、他の人の問題を自分の問題として引き受けた場合です。もちろん、聖書では互いに重荷を負い合いなさいというみことばがあります。また、同時に、「人にはおのおの、負うべき重荷があるのです」(ガラテヤ6:5)とも書いてあります。では、境界線があいまいになりやすい、他の人とはだれのことでしょうか?子どものこと、夫あるいは妻のこと、あるいは親しい関係にある人です。その人が不当な扱いを受けていると、自分がかつて経験した不当な扱いがリンクします。すると、「そんなの許せない」と怒りが湧いてくるのです。本来、自分の感情ではなかったのに、その人の問題によって触発されて、自分の傷がうずくのです。一番多いケースは、母と子どもです。「母子一体」「親子パック」などと呼びますが、二人がくっつき過ぎています。子どもが学校にいじめにあっている。もう、母親は心配でうつ的になります。自分の子どもが手術を受けるときなどは、自分が切られたような感じをするでしょう。それだけ絆が深いということです。私も常磐セルで月一回、牧師たちの証を分かち合います。中には教団の先生や役員からひどい扱いを受けたという証があります。すると、自分の中に「なんてひどいやつだ!」と、怒りがこみあげてきます。本来、それは、その先生の問題なのに、自分の経験とリンクしてしまうのです。自分の未解決な問題が、そこで顔を出すのです。もし、私たちが心を守ることを心がけるならば、「切り離し」が必要です。「この問題は、私の問題ではありません。これは、その人が背負う問題です。主よ、あなたは私だけではなく、その人にも一緒におられます。主よ、あなたがその人を助けてください」と委ねるのです。あるいは「主よ、この感情は私のものではありません。あの人の問題から来たものです。この悪い感情を切り離して、捨てます。どうか、私をあなたの平安で満たしてください」と祈れば良いのです。心の平和を保つためには、「境界線、バウンダリー」を生活の中に適用することがとても重要です。

3.良い習慣をつける

 人は意識で行動している部分は5-10%だそうです。あとの90-95%は無意識でやっていることが多いのです。私たちはコア世界観を変え、良いことばや行ないをしようと努力します。でも、知らず知らずのうちに、古いライフ・スタイルに戻ってしまいます。なぜでしょう?90-95%の無意識の世界に古いものがたくさん残っているからです。ですから、私たちは無意識の世界に、どんどん良いものを蓄積し、良い習慣を身につけていく必要があります。古いことわざがあります。「考えの種を蒔けば、行動を刈り取り、行動の種を蒔けば、習慣を刈り取り、習慣の種を蒔けば、品性を刈り取り、品性の種を蒔けば、運命を刈り取る」。簡単に言いますと、考え、行動、習慣、品性、運命です。考え、行動して、それが習慣化する必要があります。習慣というのは、無意識でなされる行為です。最初は強い意志と努力が必要ですが、慣れてくるとそれが自由になります。私はゴルフをしたことがありません。ある人が我流でクラブを振っていたとします。コーチから、「そうじゃないよ」と肩と腰の加減を修正されたとします。コーチは「そうじゃないよ」と肩と腰をクラブの柄の方で叩きます。「いたいなー」と思いながら、修正したスウィングをします。自分でも、素振りをします。「あ、ちがった。こうだ」とか言って、意識して練習します。1ヶ月くらいたつとどうでしょう?コーチから修正されたスウィングの方が自然になります。もう、意識しなくても、自然に体がそのように動くのです。つまり、意識から無意識の領域に入ったということです。私はいつも時間ギリギリの人でした。どこかに出発するとき、だれかと会うとき、時間ちょうどか、1分遅刻というのがザラでした。あるときから、やっている仕事をやめて、出発30分前、面会30分前に準備すると決めました。顔を洗って着替えて、もし、時間があったら仕事をすれば良いのです。30分前の準備を実行していますが、かなり、無意識の領域に入って来ています。

 どうでしょう?みなさん、「私はこういう良い習慣を身につけたい」というものがあるでしょうか?どうぞ、考えてみてください。最初は不自由で、ぎこちないかもしれません。意識しないと、また元に戻るかもしれません。でも、また意識して、行動し、習慣化させるのです。そうすると、良い品性と良い運命を刈り取ることができます。さきほど、紹介したポール・J・マイヤーの『成功への25の鍵』という本の中から、少し紹介させていただきます。ポール・J・マイヤーは、「あなたの考え(思考)を変えるためには、ことばを変えなさい」と述べています。たとえば、「私にはできない」「心配だ」「あまりにも危険すぎる」などと自分が考えているとします。そのときは、「もう一度見るんだ。この機会をチャンスとして与えるぞ。私にはどれができる」と自分に語りかけるのです。なすべき重要なことは、自動的に出てくる否定的な思考パターンをことばによって打ち破ることです。私たちが自然に発していることばや考え、なんと否定的なものが多いでしょう。「めんどうくさい。やりたくない。赦せない。お金がない。人がいない。不景気だから。伝道が難しい…」。そうなるとうつ的になり、情熱も低下します。では、反対に「やればできる。必要は与えられる!」自分に言い聞かせれば良いのでしょうか?これは、正直、長続きしません。なぜなら、律法的だからです。W.W.J.D「イエス様だったらどうする?」というブレスレットをしている人がいます。もし、効き目があれば大いにやって結構だと思います。「イエス様だったらどうする?」と言う度に、自分を切り離して見つめる必要があります。これも、結構、律法的ですので、疲れるでしょう。「めんどうくさい。やりたくない。赦せない」。これに対して、「イエス様一緒にやりましょう。イエス様、一緒に赦させてください。イエス様、一緒に愛させてください」。イエス様は私たちと一体になっています。わざわざイエス様を私たち自身から切り離さないで、イエス様と一緒に生きるのです。そうすればイエス様が現れてくださいます。このことは、来週、9日のメッセージで詳しくお話ししたいと思います。

 どんな時でもイエス様と一緒に生活する。これこそ、最も良い習慣であります。一年の計は元旦にありと、多くの人たちは「こうしよう。ああしよう」と計画を立てます。でも、多くの場合、3日坊主です。私たちは律法を自分に課して生きると窒息死してしまいます。私たちは、律法は正しいことを知っていますが、律法を守り行う力がないのです。人が正しいと思っていることをできたならば、警察はいりません。正しいこと思っていることができない。これは未信者もクリスチャンも同じです。では、何が違うのでしょうか?イエス様が共にいるか、イエス様が共にいないかの違いです。私たちはイエス様を離れて、独立して生きようとするなら、必ず失敗します。最初は良いかもしれませんが、完了することは並大抵ではありません。そうではなく、私たちは初めから、イエス様と共に行なうのです。「イエス様、どうしましょうか?イエス様、こうしましょう。イエス様、一緒に行きましょう」。そうすると、義務感やプレッシャーがぱーっと消えて、自然な力でやっている自分に気付くでしょう。「自分を鞭打って従わせる」という方法もあるかもしれません。私はそれよりも、イエス様を仰いで、イエス様と一緒に生活する方を選びます。もちろん、「イエス様」を聖霊様あるいは、父なる神様と置き換えても、全く、構いません。「聖霊様、一緒に行きましょう!」でも、良いです。

 私は夢がだんだん肯定的になりました。かつての夢は、バスに乗り遅れたり、ロッカーに体育用具がない、道に迷っている夢がほとんどでした。そして、寝言をしょっちゅう言って、よく叫んでいました。私は牧師たちと4人部屋で一緒に寝るのが恐いのです。夜中に叫ぶからです。でも、最近は、家内に聞くと、笑っているらしいんです。今、よく見る夢は、昔の夢ではなく、最近の夢を見ます。大川先生、家内、長男かだれか分かりませんが子どもが出てきます。嫌な夢よりも、楽しい夢が多くなったような気がします。みなさんはどうでしょうか?フロイトという人は、夢と深層心理は深い関係があると言いました。信仰が深層心理まで入ったら、すばらしいですよね。夢の中でも、「イエス様、イエス様」と言っていたら良いですよね。昔の話ですが、申賢均牧師が断食祈祷院でみんなと一緒に過ごしました。断食して祈ると、エネルギーがないので、あとは寝るしかありません。朝は5時から早天ですが、申賢均牧師はその前にちょっと眠りました。朝になって信徒の方が「先生、夜、寝言を言っていましたよ」と言いました。申先生は「あ、もしかしたら女性の名前でも呼んだかな?」と一瞬心配しました。「どんな寝言だったの?」と恐る恐る聞きました。先生はね、「おお、主よー。おお、主よー」と言っていました。申先生は「うん、それだったらまことに結構」と答えたそうです。私たちの無意識の世界まで、信仰に満たされる。そして、思考、ことば、行動が変えられていくことを願います。アーメン。

|

2011年1月 1日 (土)

2011元旦礼拝 「心を新たに」 ローマ12:1,2

クリスチャンとは霊的に新しく生まれた人です。つまり、神さまとの関係が回復し、罪から離れ、新しい道を歩む存在です。しかし、パウロはクリスチャンに対して、「心を新たにせよ」と命じています。ギリシャ語では、心はヌースになっています。直訳するなら、「考え、思い、マインド」です。イエス様を信じて救われたはずなのに、考え方が昔のまんまだたりします。私たちは日常生活においていろんな出来事に遭遇します。自分の思うとおりに進むこともありますが、あるときには、思いがけないことが起こったり、不当な扱いを受けたりします。そのとき、通常よりも激しい感情が噴出してきます。怒り、憎しみ、悲しみ、恐れ、無力感に支配され、しばらくは、自分の意思ではどうすることもできません。これを過剰反応と言います。心の中に、地雷みたいなものが埋まっており、だれかが、そこを踏むとドカンと爆発します。そのため、周囲の人たちも少なからず被害を受けます。みなさんが、こういうので縛られてはいませんでしょうか?これを束縛されたライフ・スタイルと言います。せっかく、新年を迎えたのですから、新しい年、解放された道を歩みたいですよね。

1.コア世界観を特定する

 理不尽な出来事が起こったとします。それを私たちは自分の「考え」で捉えます。その後、感情が起こるのです。さらに、身体反応、行動が続きます。多くの人は、出来事が起こったら、感情が直ちに起こると考えています。そして、その感情をなんとかしようとします。「怒ってはいけない、嘆いてはいけない、恐れてはいけない、落ち込んじゃいけない。」しかし、それは無理です。感情というのは中立的な存在で、車のメーターみたいなものです。車には速度計、回転計、温度計などいろんな計器がついています。温度計が高いのを見て、針を手で下げても無駄なことです。たぶんラジエターに水がないので、エンジンが熱くなっているのでしょう。同じように、「怒ってはいけない」「恐れてはいけない」と自分の意思でメーターの針を下げようとしても無理なのです。そういう感情が生まれるのは、ある考えや思いがあるからです。もし、その考えや思いを変えるならば、感情も変わるはずです。ある出来事に対して、一瞬何かを考え、その後、感情が起こるのです。症状が重くなると、身体が震えたり、夜眠れなくなります。しまいには、外に出られなくなったりします。そうなったら、○○症候群とか、何らかの病名がつけられるでしょう。現代人の多くの人が、様々な心身症に悩んでいます。お薬で症状を緩和することも可能ですが、根本的な解決策は、考えを変えることです。考えを変えたら、感情が変わり、身体反応や行動も変わってくるのです。これを世の中では認知行動療法と呼んでいます。

 そこで、もう1つ新しいことばを用いなければなりません。それは世界観ということばです。その人のものの見方、考え方を世界観と呼びます。世界観とはめがねレンズのようなものです。出来事をゆがめたり、色をつけたり、フィルターをかけてしまいます。同じ出来事でも、人によって捉え方が全く異なってしまうのはそのためです。つまり、世界観がものすごくゆがんでいるため、束縛されたライフ・スタイルを強いられてしまっているのです。多くの場合、まわりの人々や状況をコントロールしようと躍起になります。挙句の果、うつになるか、燃え尽きます。そうではなく、あなた自身の、ものの考え方、世界観を変えるべきなのです。これが、パウロのいう「心を一新せよ」ということなのです。でも、ものには順番があります。私たちのものの考え方、世界観はそう単純ではありません。いくつかの要素が組み合わされています。カウンセラーはその人の話を聞きながら、どれが一番、支配的なものかさぐっていきます。つまり、世界観の核(コア)になっているものは何かを探すということを優先します。では、そのコア世界観はどのようにして知ることができるのでしょうか?「その人が何に困っているのか?」30分くらい耳を傾けていますと、あるきまったフレーズが出てきます。本人は気付いていないかもしれませんが、一定のことばが連発して出てきます。たとえば、「妹がこう言って馬鹿にした」「教会のみんながこう言って馬鹿にした」「牧師も私にこうしなさいと一方的に言った」。私たちはその人の心の叫びを聞くことができます。その人の心の叫びは「私を馬鹿にするな。自分を認めてくれ!」ということです。この人は人々から馬鹿にされ、認められていないので、怒りと復讐心に満ちています。もし、この人に何か欠点を指摘したなら、「どっかん!」と反発を食らうでしょう。では、この人のコア世界観は何でしょうか?この人はセルフイメージの問題を抱えています。この人のコア世界観をひとことで言うなら「私のセルフイメージは深く傷ついている」ということです。

 心の叫びとコア世界観は密接につながっています。あなたは自分の世界が壊れそうな出来事に遭遇するときがあるでしょう。「自分の世界が壊れる」あるいは「自分の魂が壊れる」でも、良いかもしれません。数ヶ月間、振り返って、自分の世界が壊れかかった時はないでしょうか?ある人があなたにこう言った。ある人があなたにあることをした。ある人があなたになすべき責任を果たさなかった。ある人があなたの権利を奪った。ある人があなたの大事なものを奪った。そのとき、あなたの心の中から「ばぁー」と心の叫びと共に、ある考えが湧きあがって来ます。私たちは無意識で、そうやって生きて来たのです。もう、何十年も繰り返してきたので、1つのパターンになっています。だから、私もあなたも、自動的に反応するのです。分からない人は、1週間の心のダイヤリーを付けたら良いでしょう。特定の出来事、浮かび上がった考え、何らかの感情、身体反応…。1ヶ月くらいやると、自分でも分かってきます。私たちは無意識で何かを口ずさみ、無意識で何かを叫んでいます。それをつかまえて、自分のコア世界観が何かを特定します。コア世界観は大体ワンフレーズ、ひとつの短い文章でまとめることができます。たとえば、「果たすべき人が責任を果たさないと私は壊れる。」「拒絶されると私は壊れる」「不当な扱いを受けると私は壊れる」「思い通りに事が進まないと私は壊れる」「低く見られると私は壊れる」。すると、「ああー、自分が抱えているテーマはこれなんだなー」と特定することがとても重要です。

2.埋め合わせ対処行動

 本来なら、自分の世界を知り、心の叫びを完了させるべきです。そうすれば癒されることができるのですが、そうしないで、その代わり何をするのでしょうか?埋め合わせ対処行動を取ります。「失敗したので、次はもっと頑張ろう」「怒ってしまったので、その変わり優しくしよう」「もう、あの人には近づかないようにしよう」「これからは、人に頼らないで自分でやろう」。そういう風に、決断したり行動したりします。また、私たちは時々、「貢ぎ」と呼ばれる行為をします。このことばは李光雨師がつけた言い方ですが。他の用語も、ほとんど李光雨師のものを拝借していますが。貢ぎというのは、「私の世界をこれ以上、壊さないでね」と自分自身あるいは物などと、ささげる行為です。たとえば、自分のことをいつも悪く言う上司がいるとします。上司に、「私のことを悪く言うな!正しく評価しろ!」とは言えません。その代わり何をするでしょうか?礼儀作法を正しくしたり、上司から頼まれたことは一生懸命やろうと努力します。とにかく、上司から気にいられるように頑張る。これを貢ぎと呼びます。自分よりも立場の弱い人には、そうではありません。でも、自分の世界を脅かすような人物には近づかないか、あるいは貢いで「私の世界をこれ以上、壊さないでね」と自分を差し出す。これはどちらも、埋め合わせ対処行動です。これは、あくまでも埋め合わせなので、本当の解決にはなりません。

また、私たちは自分を支えてくれる資源を求めます。現実があまりにも辛いので、そこを乗り越えさせてくれるサポート資源です。ノンクリスチャンであるなら、カラオケに行ったり、ぱーと飲んだり、しばらく楽しいことに没頭する。もし、クリスチャンであるならどうするでしょうか?牧師先生に相談する。そして、祈ってもらったり、励ましてもらう。教会によっては、牧師や牧師夫人がサポート資源として消費されている場合があります。あるいは、クリスチャンだったら神さまや聖書に求めるでしょう。「主よ、私の心の傷を癒してください」「主よ、どのような試練に会っても乗り越せさせてください」「主よ、人ではなくあなたに信頼しますので助けてください」「私は赦しますが、神様、どうかあの人を裁いてください」「今後はみことばに従いますので、私を支えてください」。そうすると、どかんと爆発していた感情がおさまります。やっていることはとても正しく見えます。でも、悪循環パターンは解決していません。火山は一度、噴火すると、しばらくはおさまります。でも、どうでしょう?地下でマグマがだんだん溜まってきます。いままではこらえてきたかもしれません。でも、ある日、突然、どっかーんと爆発してしまいます。何が原因なのでしょう?元になる考えや世界観を変えていないからです。嫌いな人から逃げたり、貢物を納めていても、いつしか限界がやってきます。なぜなら、世の中は自分が望むように回ってくれないからです。いつしか「なんで私が責められるの」「どうして私がこんな目に?」「俺のせいじゃないよ」…必ず、その日がやってきます。それを繰り返しながら、天国に行く方法もありますが、それを解決して残りの人生を気持ちよく生きる方法もあります。

3.心の叫びの完了

 この次は癒しの段階です。どうすれば、あなたのコア世界観が癒されるのでしょうか?それはあなたの心の叫びを完了させることです。しかし、多くの人はそれをしないで、埋め合わせ対処行動をして、しばらくはおさまり、また、しばらくすると爆発するかひどい落ち込みを経験します。牧師や神さまを消耗品に利用しないで、あなたのコア世界観を癒さなければなりません。第二のポイントで心の叫びがあるということを申し上げました。その心の叫びを一番、最初に叫んだのはいつのときでしょうか?あるいは、あなたが一番、最初に自分の世界が壊れそうになった時はいつごろでしょうか?そのときのエピソードを思い浮かべましょう。多くの場合、それが起きたエピソードは、あなたが幼い時に遡ります。なぜ、あなたはそんなに怒っているのでしょう?なぜ、あなたはそんなに深く傷ついたのでしょうか?たとえば、お父さんとあなたの関係です。お父さんは家庭を正しく治める責任があります。しかし、そのお父さんが家庭や自分を顧みなかったので、自分はひどい目にあった。そういう人は「いい加減にしないで、ちゃんと責任を取ってくれよ!」という心の叫びがあります。また、あなたのお母さんは「良い子じゃなければ、うちの子じゃない。勉強ができなきゃ、うちの子じゃない」とあなたを拒絶したかもしれません。そういう人は「私をありのままで受け入れてほしい」という心の叫びがあります。また、だれかがあなたの大事なものをあなたから奪い取ったとします。そういう人は「元通りに弁償してくれ。ちゃんと謝ってよ」という心の叫びがあります。あなたはこれまで、当人もしくは、第三者に同じようなことを求めてきました。立場の似ている人、あるいは伴侶、あるいは親しい人に。しかし、それは不可能です。あなたの心の叫びを完了してくれる方は、主イエス・キリストしかいません。イエス・キリストはきのうも、きょうもとこしえに変わらないお方です。イエス様はあなたの過去のいまわしい出来事に訪れてくださり、心の叫びを受け止めてくれるお方です。

 では、聖霊様の助けを借りて、あなたの世界が壊れた状況を思い起こしましょう。できたら、目を閉じて、何があったのかそのエピソードを思い出してみましょう。では、お祈りの中で、イエス様をその場面にお招きしましょう。ずっと、今の年齢から遡ってみましょう。あなたが小学校の頃はどうでしたでしょう?どんなことがあったでしょう?もう少し遡って、小学校に入る前後はどうだったでしょう?記憶がほとんどない、2,3歳の場合もあるかもしれません。あなたの世界を壊すような出来事はなかったでしょうか?お父さんはあなたに何をしたのでしょう?何かあなたに強い口調で言ったでしょうか?あるいは、お父さんはすべきことをしなかったのでしょうか?お母さんはあなたに何をしたのでしょうか?何かあなたにうるさく言ったのでしょうか?あるいは、お母さんはあなたが求めることをしてくれなかったのでしょうか?あなたの兄弟はどうでしょうか?お兄さん、お姉さん、弟、妹はどうだったでしょうか?あなたの人権を攻撃したでしょうか?学校の先生はどうでしょう?自分が悪いことをしていないのに、罰せられたかもしれません。何かひどいことを言われて、自尊心を傷つけられたでしょうか?友だちはどうでしょうか?自分をいじめた憎たらしい人はいないでしょうか?自分を馬鹿にした人もいたかもしれません。あなたはどんな表情をしているでしょうか?泣いていますか?握りこぶしを握って怒っているでしょうか?恐くて隠れているでしょうか?もう、心を閉ざして、だれも信じないと誓ったかもしれません。もう、生きる希望を捨てて、あきらめたかもしれません。そのところに、イエス様をお招きしましょう。イエス様にとって、過去も現在もありません。あなたのところに行って、あなたと出会ってくださいます。どうそ、「イエス様、あなたはどこにいらっしゃるのですか?」呼んでください。かならず、どこかにいらっしゃいます。イエス様は「私も気の毒に思うよ。私も残念に思うよ」と言ってくださるでしょう。あるいはイエス様は「私が弁償してあげるから、大丈夫」と言われるかもしれません。どうぞ、イエス様のお声を聞きましょう。イエス様はあなたの心の空洞を埋めてくださいます。あなたの心の叫びを完了してくださいます。アーメン。こういうのを自分の部屋でもやっても結構です。また、信頼のおける人から祈ってもらっても良いでしょう。

4.Bコースで生きる。

Bコースで生きるとは、新しい世界観で生きるということです。心の叫びが満たされたら、こんどは、新しい世界観を持たなければ、逆戻りしてしまいます。あなたのこれまでのコア世界観をAとします。「自分は○○をされると壊れる」という世界観です。こういう思いが深いところにあると、似たような状況が起きた時、自動的に反応してしまいます。そうではなく、コア世界観を別のものにしましょう。新しい世界観、Bに取り替えるのです。これをBコースとします。あなたはこれからAコースでなく、Bコースを生きるのです。血液型ではありません。これまでの古いコア世界観Aから、新しいコア世界観B、Bコースを生きるのです。Bコースって何でしょう。Aの反対です。あなたは以前、「果たすべき人が責任を果たさないと私は壊れる」という世界観を持っていたとします。Bコースは「果たすべき人が責任を果たさなくても私は壊れない。なぜなら、神さまが責任を取ってくれるから」。「拒絶されると私は壊れる」という世界観を持っていた人はどうでしょう?「私は拒絶されても壊れない。なぜなら、神さまが私を完全に受け入れていてくださるから」です。「不当な扱いを受けると私は壊れる」という世界観を持っていた人はどうでしょう?「私はたとい不当な扱いを受けても壊れない。なぜなら、神さまが正しく扱ってくださる、報いてくださるから」です。「思い通りに事が進まないと私は壊れる」という世界観を持っている人はどうでしょう?「思い通りに事が運ばなくても私は壊れない。なぜなら、神さまが真の支配者で、もっと良い方向へ導いてくださる」からです。「低く見られると私は壊れる」の人はどうでしょう。「私は低く見られても壊れない。なぜなら、私は主にあって高価で尊い存在だから。人から評価されなくても、神さまが私を正しく評価してくださる」アーメン。

これは世の心理学者やカウンセラーにはできないことです。なぜなら、彼らは神さまを信じていないからです。私たちの場合は、主にあって、新しい世界観を持てる根拠があります。ある人は、被害者意識、自己憐憫で支配されていたかもしれません。傷が膿んでいて、ちょっとでも触っただけで跳ね上がるような痛みを感じていたかもしれません。でも、主にあってあなたはもう壊れないのです。被害者意識と自己憐憫というAコースを捨てて、Bコースを選択するのです。どんなコースでしょうか?人生は障害物競走である。私はしなやかに障害物を乗り越えることができる。英語ではovercomeです。私はかしこく障害物を通り抜けることができる。昨年のゴスペルコンサートで、スペシャルギフトを賛美しました。その中に、He was brought me through、「主は私を通り抜けさせてくださった」とありました。みなさん、障害物競走で走ったことがありますか?網もありますよ。平均台もあるし、跳び箱もあります。オリンピックでは水たまりもあります。かつてのAコースだと、「どうしてこんなことが私だけに起こるの?」と嘆いていたかもしれません。新しいBコースだと、「障害が起こっても私は壊れない。障害があるから人生は楽しい。主が乗り越えさせてくださるから」となります。実際、何もないよりも、傷害を克服して成功した方が何倍も楽しいでしょう。それだけではありません。障害を乗り越えたことによって、私たちの技術が向上します。そして、私たちの品性も向上します。「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出す」(ローマ5:4)とあります。みなさん、私たちがBコースを歩んだとしても、これまでの状況や環境は変わりません。同じように不当な扱い、厳しい批判、とんでもないことに巻き込まれるかもしれません。私たちは環境は人々を変えることができるでしょうか?これは変えられません。変えられるのは私たちの世界観、心構えです。

コア世界観のAコースとBコースがあります。これは途中から変えることはできません。出来事が進んだら、もう進路を変更できません。なぜなら、これはコンピューターのOSみたいなものだからです。OSとは、すべてのソフトを動かす基本的なソフトです。たとえば、私はWindows XPで立ち上げたら、XPで行くしかありません。でも、Windows7で立ち上げたら、Windows7で他のソフトもみんな動きます。同じパソコンなのに、全く別ものになるのです。一度立ち上げたら、途中から切り替え不可能です。どうでしょう?従来のAコースで行きますか?そのOSはとても脆弱で、バグがあり、時々、フリーズ(止まってしまいます)。本当に欠陥品です。どうぞ、新しいBコースと取り替えましょう。これはより高度で、いろんな作業もできます。もし、あなたが新しいコア世界観を持つなら、今度は、より積極的な思考や能力をそこに加えていくことができます。多くの人は外側ばかり変えようと失敗して、もとの木阿弥になりました。もっても3日です。でも、新しいコア世界観を持てば、いろんなものを吸収して成長していくことができます。主の恵みによって心を一新させていだだきましょう。そして、新しい年もイエス様と共に恵みの中を歩みましょう。

|

« 2010年12月 | トップページ | 2011年2月 »