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2011年1月23日 (日)

罪の管理        マタイ18:15-20

 教会は天国を目指していますが、天国ではありません。そこにいる人々は、確かにイエス様を信じて新しく生まれ変わっているかもしれません。しかし、罪の性質が残っていたり、考え方の違いがあります。私たちは霊的なところもあれば、肉的なところもあるのです。そういう人たちが集まるとどうなるでしょうか?「互いに愛し合いなさい」という大事な戒めを忘れて、互いにさばきあったり、傷つけあったりします。それがエスカレートすると、教会が分裂して、人々が散らされてしまいます。そのために、私たちはクリスチャンが犯した罪に対して、正しく管理しなければなりません。旧訳聖書、新約聖書、そして教会の歴史を見ると、いろんなトラブルがあったことがわかります。確かにそれらは躓きのもとではありますが、私たちはそれらを乗り越えて、より良い教会形成を目指していくように召されているのではないでしょうか?

1.国家と教会 

国にはさまざまな法律があります。その中の刑法に触れると重い罰則を受けることになります。一方、教会はどうなのでしょうか?教会に法律というものがあるのでしょうか?旧約時代は、イスラエルの民はモーセの律法によってさばかれました。律法の中には、いわゆる刑法も民法も、そして宗教的な法律も含まれていました。偶像礼拝は最も重い罪であり、石で打ち殺されることもありました。しかし、イスラエル中が偶像礼拝に陥ったので、重い処罰を受けないようになりました。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」ということになったのです。でも、人が罪を犯すならば、たとい人間が裁かなくても、神さまが裁くのだという思想はありました。新約時代になりますと、ローマがイスラエルを支配しました。そのため、ローマの法律の中に、イスラエルが置かれることになりました。イスラエルは宗教的な罪はさばくことはできても、刑法、特に死刑を下すことができませんでした。当時の考え方からすると、イエス様が十字架に付けられたのは、ローマに反逆した罪のためです。教会は200年間くらいものすごい迫害を受けましたが、西暦313年にローマの国教になりました。それから、国家の法律の中に、宗教に関する法律も含まれるようになったのです。中世では、宗教裁判で死刑になることも多々ありました。プロテスタント教会になっても、それは続きました。イギリス、ドイツ、スイスなどは、国が教会を運営していたので、いろんな弊害もありました。しかし、バプテスト教会が「政教分離」を訴えてから、国家と教会を分けて考えるようになりました。それが、今、現在に至っています。

では、教会においてどのような罪に対する管理があるのでしょうか?教会には、「戒規」というものがあります。戒規とは、誤った教理、罪の行ないに対して行使されるキリスト教会の教育、訓練です。教会戒規には訓戒、倍餐停止、除名と、三段階あります。サッカーでも、ファールをすると、最初はイエロー・カードですが、2回目はレッド・カードです。ある場合は、一発、退場ということもありえます。中世の教会では「破門」というのがありました。教会から破門されるとは、その人はもう救われないということです。今は、そういう考えはありません。戒規は英語で、disciplineですが、訓練する、しつけるという意味があります。つまり、罪を断罪するのではなく、罪を犯した人が悔い改め、正しい道を歩めるように訓練するということが目的です。ジョン・カルバンは、教会政治にとても長けた人でありまして、長老会でそういうことを審議するように決めました。現代の教会の半分くらいは、彼の長老制度を受け継いでいます。私たちの教会は、長老会はありませんが、牧師を含む役員会があります。宗教法人法にも、こういう組織を持つように定められています。私は当教会に赴任して、23年になりますが、倍餐停止とか除名を下したことは一度もありません。ただし、訓戒を与えたことは6回くらいあります。訓戒を与えて、半分は「牧師が何を言うか?」と反発を受けましたが、半分は「はい、分かりました」と悔い改めました。ある人は訓戒を受けたことにより、神の愛を感じて、正しい道に戻ることもできたようです。現代は、牧師が権威を用いるということはとても微妙な時代です。戦後、日本では「すべての権威は悪である!すべての権威をぶちこわせ」と言った時代があります。ですから、教会で「権威」と言うとものすごく、反発する人がいます。しかし、教会の中にも権威は存在しています。ローマ13:1「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」しかし、聖書で言う権威は、神さまから委ねられたもので、壊すためではなく、建て上げるためにあるということです。神の権威も同じですが、私たちが権威のもとで生きるとき、守りと助けが与えられるのです。「私は権威なんか否定する」と言って、権威の外に出るならば、守りと助けも得られないということです。もちろん、全ての権威が正しいとは思いませんが、教会には秩序を守る権威が神さまから与えられていることは確かです。権威に対して何だかんだ言っても、最終的には、神さまがさばくのです。私たちは神を恐れなければなりません。これが最も重要なことであります。

2.何を裁くのか?

 では、教会はどのような罪を裁くのでしょうか?「イエス様はさばいてはいけません。さばなれないためです」と言われました。しかし、イエス様がおっしゃるさばきは、人を罪にさだめ、赦さないということです。しかし、本日のテーマは罪があるなら罪を悔い改め、正しい道に立ち返るということです。前のポイントでも言いましたように、誤った教えを裁く必要があります。しかし、このことは「真理の管理」という題で次回にお話しします。今回は道徳的な罪、あるいは教会を汚す罪について話したいと思います。パウロは、コリント教会に対して何通か手紙を送りました。なぜなら、コリント教会おいて、様々な争いや性的な罪があったからです。コリント教会はそれらの罪を自分たちで処理しないで、いきなりこの世の機関に訴えたのであります。パウロは彼らに何と言っているでしょうか?Ⅰコリント61-6抜粋「あなたがたの中には、仲間の者と争いを起こしたとき、それを聖徒たちに訴えないで、あえて、正しくない人たちに訴え出るような人がいるのでしょうか。…この世のことで争いが起こると、教会のうちでは無視される人たちを裁判官に選ぶのですか。…いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することのできるような賢い者が、ひとりもいないのですか。それで、兄弟は兄弟を告訴し、しかもそれを不信者の前でするのですか。」使徒パウロは、教会内で起きた問題を、ただちに世の裁判に告訴するのではなく、教会内で裁きなさいと言っているのです。特に、道徳的、宗教上の問題はそうです。世の中では不品行や姦淫はほとんど咎められません。「不倫」ぐらいでおしまいです。それでも最近は「セクハラ」という罪も多くなりました。でも、世の中と教会の基準は決して、同じではありません。パウロはⅠコリント512-13で、このように結論付けてします。「外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。」つまり、教会内で、さばくべき罪があるということです。そして、すぐに世の中に訴えるのではなく、みことばのもとで判断すべきだということです。

では、教会内でさばくべき罪とは何でしょうか?それはキリストのからだ、共同体に犯す罪です。Ⅰコリント616,18「遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。『ふたりは一体となる』と言われているからです。…不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。」文脈的には、性的罪は個人のからだに対して犯す罪です。しかし、その罪は個人のからだに留まらず、夫婦関係を壊し、家庭を壊し、教会のからだにも影響を及ぼすということです。私たちは主にある、兄弟姉妹として交わっています。でも、結婚していないのに、そういう関係を持つようになればどうでしょう?同じ、からだとしてつながっている兄弟姉妹に影響を与えない訳がありません。もし、牧師がだれかと姦淫を犯しているのに、「それは個人的な罪ですから」という訳にはいきません。残念ながら、そういう風に処理している教会もあると聞いています。かなり前に、クリントン大統領がそういう罪を犯しました。そのとき、アメリカ政府は「あれはクリントン個人として罪を犯したのであり、大統領としてではない」と言いました。それ以降、アメリカの国は霊的にとてもダウンしたことは確かです。もちろん、そういう罪も神さまの前では赦されます。どんな罪であっても、イエス・キリストの十字架の血しおによって赦されるからです。あのダビデ王も、姦淫と殺人を悔い改めたら赦されました。しかし、どうでしょう?「主の敵に大いに侮りの心を起させました」。そのため、ダビデの家系には剣と性的な罪が入りました。告白したなら、罪は赦されますが、代償も大きいということです。

エペソ4章には、共同体を壊す、その他の罪が記されています。悪意、中傷、そしり、憤り、怒り、苦しみ、悪いことばがあります。エド・シルボソ著『神はひとりも滅びることを望まず』でこう教えています。クリスチャンの間に、多くの怒りが引き起こされる原因は何でしょうか。それは多くの場合、語られた言葉です。エペソ4:26に記されている怒りを誘う引き金は、29節に記されている「悪い言葉」なのです。この「悪い言葉」という引き金は、非常に巧妙な変装をする高度な策略です。しばしば私たちは、言葉の影響力を過小評価します。「おしゃべりは軽いものだ」と私たちは言いますが、人間関係の悲劇は大部分この「悪い言葉」によって引き起こされているのです。これらの言葉は、海の底で発見されずに残っている津波のように、やがて私たちのサタンに対する対抗する力を破壊することになります。「悪い言葉」をエペソ4:29から定義すると、建て上げるかわりに引き降ろす言葉―すなわち恵みのない真理です。人の徳を養うのに役立たない真理を語ることです。真理は偽り以上に人を傷つけることがあります。誰かが私たちについて偽りを言うと、私たちは傷つきますが、心の底ではその言葉に内容がないことを知っているので、平安に眠ることができます。けれども、誰かが批判的なことを言って、それが(完全に、あるいは部分的に)真理であるということを知るとき、私たちは怒り、眠れなくなるのです。真理かもしれないことを恵み抜きで言われたので、裁かれ、責められているように感じます。それは私たちが変わる必要のある弱点であり、自分で直すことができずに絶えず抑圧してきた面に関することかもしれません。しかし、恵みのない真理をあからさまに語ることは、裁きを下すのに相当することです。…「悪いことば」は共同体を壊します。夫婦関係も壊します。どうか私たちは愛をもって真理を語る、人の徳を養うのに役立つことばを語りたいと思います。

3.どのように裁くのか?

マタイ18章は「二人でも三人でも、私の名において集まるところに、私もその中にいる」という教会の最小単位を教えている有名な箇所です。しかし、マタイ18章は「もし、兄弟が罪を犯したならどうするか」ということが重要なテーマになっています。そこには罪を裁くための3つのステップが記されています。この順番が大切なのです。日本人は多くの場合、1と2を飛ばして、3に行ってしまいます。そうすると人間関係にものすごい大きなダメージを与えます。最初に申し上げたジョン・カルバンが考え出した長老主義は組織的に申し分ありません。でも、何でも会議で決めると、人間関係を無視することになり、大きな傷を残すことになります。日本基督教団な大阪万博がきっかけで、紛争がおこりました。その当時、安保反対とか学生運動も重なり、教会と言う教会が荒れていた時でもありました。暴力沙汰になったため、教会に警察が入りました。それがこじれて、東京教区は19年間、総会を開くことができませんでした。感情的なもつれが、なかなか消えませんでした。会議には限界があります。人間関係を修復するための、ステップがなければなりません。いや、人間関係を基盤とした罪に対するさばきが必要なのです。私たちはそれがめんどうなので、会議で、議論して決めるところがあります。教会は、この世と同じようなシステムをとってはいけません。この世は、訴訟に満ちて、互いに訴え合っています。私たちは人間関係を基盤とした、罪に対する解決が重要なのです。

では、どのようなステップが必要なのでしょうか?マタイ1815「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。」第一のステップは、二人です。つまり、罪を犯した人と、それを正す人です。もしかしたらなら、被害を受けた人かもしれません。被害者と加害者というのは、微妙な関係なので、第二のステップですべきかもしれません。でも、とにかく当事者のところへ行って、二人きりで話すべきです。私が20歳のときでしたが、現場監督をしている時、自動車学校に通いました。確かに仕事中でしたが、上司に断り、現場の段取りをして行っていました。あるとき、現場の会議があり3つの現場が集まり、そこに20人くらいいました。所長が何を言うかと思ったら、「鈴木君は現場を放棄している」と、みんなの前で言いました。事務の人が助け舟を出してくれましたが、大勢の前で恥をかかせられました。親が子どもを叱るときもそうですが、他の人がいる前で叱ると、ものすごく傷つきます。みんなの前では、弁明もできません。良い悪いではなく「恥をかかせられた」という怒りだけが残ります。勇気も必要ですが、二人で、話してみるということです。二人で話す機会が何度もあったのに、いきなり会議にかけるのは良くないということです。第二のステップは何でしょう?マタイ1816「もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。」その人に話したけど、聞き入れてくれませんでした。認めもせず、悔い改めもしなかったのでしょう。そこで、他にひとりか二人を一緒に連れて行くということです。聖書には「ふたりもしくは三人は証人である」と書かれています。ふたり三人は小グループ、セルです。小グループであるなら、まだ、まだ安全です。「実はこうだったんだ」と構えないで告白できるかもしれません。中学校のときは、学校へ行きたくなくなるときがあります。ちょっとしたことで、3日も4日も休むときがあります。すると級長が「どうしたの?」と訪ねて来てくれる。その後、2,3人の友だちが「みんな待ってるよ」と訪ねて来てくれる。そうすると、家にいても退屈なので、学校に行きます。友達って本当にありがたいものです。聖書は「ふたり三人の中にイエス様が共におられる」と書いてあります。

 第三のステップは何でしょうか?マタイ1817「それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」ここでやっと教会ということばが出てきました。当時の教会はそんなに大きくありません。おそらく、十数名から百人未満だったでしょう。300名の教会総会ではありません。ここで言う、教会とは長老と牧師で組織されている団体です。権威をもって、はっきりと「戒規」をくだすところです。第一、第二のステップを踏まえたのち、教会に訴えたのです。ある教会の信徒は教会も飛ばして、教団に訴えるところもあるそうです。中には、全国の教会に手紙を送りつける人もいます。そうなったら、収拾がつかなくなるばかりか、キリストの名前に傷がつきます。教会にはイエス様の権威が与えられています。マタイ1818「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」アーメン。共同体を壊す罪をそのままにしておきますと、悲惨なことになります。教会が中傷と争い、分裂に陥るなら、サタンの思う壷です。やがて、世の人たちも「あれでもクリスチャンか」と言うようになります。私たちは多少の考えの違いがあるかもしれません。感情のもつれがあったかもしれません。しかし、イエス様の十字架のもとで和解しなければなりません。もし、それでも罪を悔い改めず、罪の中に留まるならどうなるでしょう?神さまご自身がさばきます。「では、その人は地獄へ行くのか?」というとそうではありません。イエス様を信じていたなら、確実に天国に行くことはできます。信仰義認だからです。でも、その人が生前犯した罪を悔い改めないならば、神さまが肉体の命を取ります。そして、そのことによって罪が帳消しになり、霊においては天国に行くことができるのです。聖書には、信仰があるのに、罪を犯したために、死んだ人が何人も書かれています。でも、その人たちがキリストを信じているなら、ちゃんと天国に入ることができるのです。

 教会の旗印は神の愛ですが、「神さまが愛ならば何でも赦されるか」というとそうでもありません。神さまは愛ですが、同時に義なるお方です。義なるお方だからこそ、私たちの罪を赦すために御子を十字架につけたのです。神さまの愛は無条件です。しかし、神さまの祝福は条件付きです。神さまはさまざまな法則を設けられました。宇宙万物に法則があります。科学や物理の法則もあります。しかし、道徳的な法則も神さまは作られました。聖書で、それは律法と呼んでいます。十字架で律法の呪いは確かに砕かれました。では信じた後、律法は不要なのでしょうか?そうではありません。神さまは恵みによって律法の内を歩むように願っています。なぜなら、律法を犯したり、律法の外に出るならば、私たちの生活、命、人間関係が壊されるからです。私たちはキリストによって救われましたが、天国に行くまでは不完全です。ですから罪を犯したならば素直に悔い改めましょう。そして、互いに赦し、互いに愛し、互いに建て上げあう教会を作りたいと思います。この世と教会の違いは何でしょうか?この世は互いに裁き合い、互いに訴えあっています。しかし、教会は互いに赦し、互いに愛し合うようにします。そして、もし、そこに罪があるならば勇気をもって対処し、和解をもたらしていくのです。教会が神の愛と神の義がバランスよく支配されるところとなりますように求めていきたいと思います。

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