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2010年12月26日 (日)

五職の意義    エペソ4:11-15、Ⅰコリント14:23-31

 聖書には「キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになった」と書いてあります。この5つの聖霊の賜物を「五職」とか「職務の賜物」と呼んでいます。五職は教会を整えるために神さまが特別にお与えになったものです。しかし、現代の教会において、真っ向から対立する考えがあります。ある人たちは、「聖書が完成したときから、使徒や預言者はもういない」と言います。しかし、ある人たちは、「終わりの時こそ、これらの五職を回復しなければならない。使徒や預言者は存在している」と主張します。ある人たちは、「私は使徒○○である」とか「私は預言者の○○である」と自分に称号を付けて呼んでいます。ちょっと行き過ぎている感じがします。しかし、教会に牧師と教師しか存在していないと主張するならば、バランスを欠いてしまうでしょう。

1.五職の意義

 では、五職あるいは、職務の賜物が教会に与えられた目的は何なのでしょうか?エペソ4:12、13「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、

ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」教会に五職が与えられた目的が2つあります。第一は、「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるため」だということです。奉仕の働きをするのはだれなのでしょうか?聖徒たちです。聖徒というのは、教会のクリスチャンです。クリスチャンが、第一線で奉仕の働きをするのです。しかし、奉仕の働きができるためには、整えられる必要があります。「整える」は、英語でequipping と言います。これは装備させるとか、能力を養うという意味があります。第二の目的は、「完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです」。これは、信仰、知識、人格的な面が強調されると思います。技術もさることながら、精神面の強さや協調性も必要です。教会は「キリストのからだ」と呼ばれています。キリストのからだとはどういう意味でしょうか?私たち一人ひとりが器官だということです。心臓や手足がからだから独立して存在できないように、私たち一人ひとりはからだにつながらなければ、まともな働きができません。

 五職の人たちは、いわば教会の指導者です。聖徒たちがキリストのからだをちゃんと建て上げることができるように指導するように、キリスト様が立てたのです。しかしながら、現代、使徒とか預言者、あるいは伝道者と呼ばれる人たちは、キリストのからだなる教会を無視して、自分のミニストリーをしています。「私は使徒○○です」「私は預言者の○○です」「私は伝道者○○です」。そういう人たちは、どこかでセミナーを開いたり、大会を開いて人々を集めます。彼らはだれを指導するのでしょうか?牧師を指導すれば良いのですが、教会の枠を超えて、一般信徒にミニストリーをします。一般信徒たちは、あっちのセミナー、こっちの大会に行って、新しいことを学びます。霊的賜物もいただくかもしれません。そういう人たちが教会に帰って来ると、「うちの牧師は遅れている。霊的賜物について無知で力がない」と裁きます。そうすると、牧師はむかっと来て、その信徒を追い出すか、あるいは使徒、預言者、伝道者のミニストリーを批判します。そういう問題がかなり前から起きています。五職の人たちが教会に仕えるのではなく、教会を越えて自分のミニストリーをすると変になるのです。エリヤハウスもある意味では、預言者的な働きです。でも、ちゃんと教会の牧師の理解を得ながら、ミニストリーをしています。それが大事です。

 また、もう1つは新約聖書で言われている教会のサイズです。初代教会のサイズはどれくらいだったのでしょうか?さきほどⅠコリント14章をお読みしました。彼らはそこで、預言を話したり、異言を話したり、あるいは、賛美したり、教えたりしています。100人くらいでしょうか?私はもっと小さな集会ではないかと思います。みなが学んだり、みなが預言したり、その預言を吟味するくらいの大きさです。初代教会はたくさんの家の教会がありました。私たちのような教会堂というのはおそらくなかったでしょう。ですから、Ⅰコリント14章の集会は20人、多くて50人くらいではないかと思います。このところで言われているのは、コリントの町全体のクリスチャンの集まりではないと思います。五職の人たちは、町にある教会を行き巡って奉仕をしていたのではないかと思います。何のためでしょうか?聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。そして、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。五職の人たちが各々教会に関わるときに、キリストのからだとして、バランスの取れた働きとバランスの取れた成長ができるのです。

2.五職の働き

 後半は、それぞれの五職の賜物がキリストのからだなる教会でどのような働きをするのかをお話しいと思います。順番は、預言者、伝道者、牧師、教師、使徒にさせていただきます。第一番目は預言者です。旧訳聖書にはたくさんの預言者が登場します。新約聖書にはアガボという預言者がいました。預言者はどのような働きをするのでしょう?教会に神の御心や将来の方向を示してくれます。ある時は、厳しく罪を糾弾するかもしれません。預言を受けた人は、「パァー」と信仰と希望が出てきます。また、預言者は人々に霊的な賜物を注ぐ器としても用いられます。彼が按手すると、御霊に満たされたり、御霊の賜物を直接授けることができます。リバイバルになるとこういう器が用いられます。でも、欠点もあります。罪を示したり、悪霊を追い出したりしますので、信徒がびくびくして近寄ることができません。では、預言者はキリストのからだなる教会に何をさせるのでしょう?それは、互いに預言することを勧めます。使徒パウロは、Ⅰコリント14章でみなが預言することを強調しています。しかし、ここで言われている預言と預言者の預言とは違います。Ⅰコリント14:3「ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。」一般にだれでもが話せる預言は3つの働きがあります。第一は徳を高める。人々の人格や信仰を建て上げるということです。第二は勧めです。これは励ましとも言えますが、人々がさらに神さまに近づくことができます。第三は慰めです。神さまは預言を通して、私たちの心を癒してくださいます。この預言は未来を予知したりするものではありません。励まし程度の預言ですから、安心してください。そして、神さまは3つの方法で語ってくださいます。Ⅰコリント2:9「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」第一は耳ではなく、霊の耳に語ってくださいます。耳で聞こえる肉声ではありません。霊に1つか2つのことばが与えられます。完全な文章ではありません。1つか2つの単語です。浮かんだことばを口に出すと、次のことばが出てきます。預言のギリシャ語は「湧き上がる」と意味があります。勇気を出して、そのことばを口に出すと、次のことばが出てきます。さらにことばが出てくると、物語になります。第二は目ですが、肉眼ではなく霊的な目です。霊に絵やビジョンがはっと見えます。第三は心です。これは印象、あるいは直感です。私たちは「ああ、これは自分の感情だ」と思って退けるかもしれません。しかし、聖霊が与える印象があります。預言者は何をするのでしょうか?キリストのからだの中で、互いに預言をして、徳を高めるように指導するのです。

第二は、伝道者です。この人はどんなところへ行っても福音を語ることができます。「滅び行く魂の救い」こそが、彼のキーワードです。大勢の前でも、また個人でも、いつどんな時でも、福音を語って人々を救いに導こうとします。彼のメッセージはとても単純です。でも、彼が語ると人々が霊的に感動し、「信じます」と、前に出てきます。多くのリバイバリストは、伝道者です。DL.ムーディ、チャールズ・フィニー、ビリー・グラハムがそうです。天に召されましたが本田弘慈先生がそうです。伝道者が教会に来ると、「あなたは伝道していますか?あなたも伝道しなさい」とチャレンジします。教会が内向きになっているとき、伝道者を呼ぶと失われた魂に関心を持つようになります。伝道者の人が牧師になるとどうでしょうか?外にばかり出て行って、牧会が留守になります。いつもメッセージが単純なので教会員が養われません。栄養失調がちになります。でも、教会が外向きになって魂を捕らえることのため、とても重要な賜物です。これまで、私たちは伝道というと、伝道者を呼んで特別集会を開いたり、大きなクルセードに人々を誘いました。昔はともかく、現代ではそういう方式はあまり効果的ではありません。多額の予算をかけても、人々が来ません。では、「四つの法則」使って誰か人を捕まえて、個人伝道できるかというとこれも無理です。どうすれば良いのでしょう?今は人間関係を通して、福音を伝えることが効果的だと分かってきました。教会はキリストのからだです。一人ではなく、からだを通して伝道すれば良いのです。からだの中にはいろんな器官(賜物)があります。福音を語れなくても、もてなしたり、仕えたりして関係を持つことができます。他に、口の達者な人が語れば良いのです。でも、その前に人間関係が築かれている必要があります。一人ではなく、からだの伝道、関係中心の伝道が今、注目されています。伝道者の賜物人は、教会の人たちを失われた魂に関心を持たせます。私たちは、いろんな賜物を提供して、失われた人に福音を伝えるべきです。

第三は牧師です。牧師は人々の霊的な状態に気を配ります。そして、みことばを与え、彼らを養います。ちょうど、羊飼いのようです。牧師は同じ場所で、同じ会衆でも、ずっとやっていくことができます。人々を養い、養い、さらに養います。欠点は何でしょうか?信徒が栄養過多、太りすぎて活動が鈍くなるということです。だから、使徒や伝道者が来て、お尻をひっぱたくことが必要です。以前は、人々のお世話をすることが牧師だと思われてきました。神学校でも、みことばによって、人々を慰め、人々に仕えることが牧会だと教えています。しかし、最近は、「真の牧師とは、人々を整え、彼らが奉仕できるようにすることなんだ」と弟子訓練を強調するようになりました。つまり、お世話型の牧師から、訓練型の牧師になるということです。もし、牧師が問題の火を消す消防士だったらどうでしょうか?四六時中、電話から離れられず、しょっちゅう出かけて、火を消すというのはどうでしょうか。もちろん、ある時は、そういうことも必要でしょう。でも、教会員が訓練され成長し、自分たちで問題を処理できたら何と幸いでしょうか?ですから、問題が起こる前に、教えと訓練を与えておく必要があります。

牧師一人では限界があります。神さまは、キリストのからだなる教会において、互いにケアーをするように願っておられます。聖書には「互いに励まし、互いに勧め、互いに慰め合い、互いに助け合い、互いに愛し合い、互いに祈り合い、互いに赦し合いなさい」とたくさんの「互い」が記されています。昔の教会は、牧師にみんながぶらさがっている。まるで、長良川の鵜飼いのようです。一人、いったいどれくらいの鵜を操作できるのでしょうか?ある人は「牧師が50人、牧師夫人が50人と100名まで行ける」と言いました。そして、自分に教会員を依存させることによって、満足する。牧師はお世話することに喜びを感じ、教会員はお世話されることに喜びを感じる。これは、キリストのからだなる教会ではありません。からだの中で、互いにケアーする。互いに重荷を負い合う。エディ・レオ先生は、「ボディ・ライフ(からだの生活)」であると言いました。初代教会は毎日、だれかと合って、毎日、祈り合っていました。教会の兄弟姉妹が、肉親以上に親しかったのです。ボディ・ライフ(からだの生活)これが、理想的な教会です。

第四は、教師です。教師は聖書を学問的に良く学び、それを体系的教えることができます。教師は書斎にこもって本を読むのが大好きです。ギリシャ語やヘブル語、いろんな人の学説、いろんな資料から、みことばを解き明かします。「そんな問題は、重箱の隅をつっつくようなものでしょう」と言われても、全く意に介せず、とことん研究します。こういう人は、神学校の教授に向いています。欠点は何でしょうか?それは、教え過ぎるということです。そのかわり実践や適用がほとんどありません。そのため、その教会の信徒は頭でっかちになります。教師の賜物の先生は、元雪ノ下教会の加藤常昭先生、ホーリネスの小林和夫先生、教団教派の中にたくさんいらっしゃいます。教師の賜物は、勧めの賜物とか牧師や伝道者と連携するならば、豊かに用いられます。一人だけだと、象牙の塔にこもって、ひたすら研究に没頭することになります。教師の賜物は、自分が発見した真理を実践し、適用するように教会に働きかけていけば良いのです。

それでは、キリストのからだなる教会において、教師はどのようなことをさせる必要があるのでしょうか?教師の賜物は、自分も確かに教えるでしょう。しかし、それだけだと教会員は真理を自分のものにすることができません。ある人は、「口で教えられたことを聞くだけだと3%しか残らない」と言いました。しかし、自分で教えるならばどうでしょう?50~100%残るのではないでしょうか?コロサイ3:16「知恵を尽して、互いに教え合いなさい」と書かれています。では、どのように教え合うのでしょうか?セルチャーチで最も多いのが、講師が語った後、小グループで分かち合う時を持ちます。そこで、最も教えられたこと、あるいは理解できなかったところなどを分かち合うのです。そうすると、教えが頭から心の中に入ってきます。また、小グループでテキストを用いて、これはどういう意味なのか、どう適用したら良いのか、互いに教え合うのです。そういう場合、一人の人が一方的に教えるというよりも、みんなの意見や考えを引き出すようにしなければなりません。教える賜物のある人は、自分一人で語る傾向があるので要注意です。私は聖契神学校に入ったとき、ピーターソン校長先生というすばらしい教師に出会いました。これまでの先生は自分が得た知識を学生たちに提供するというものでした。しかし、ピーターソン先生は逆に質問して考えさせます。また、自分で調べて来るように課題を出します。そのとき、「イエス様の教え方は、むしろ、こうだったんじゃないか?」と思いました。西洋の教え方は頭脳だけに偏っています。しかし、東洋の教え方、イエス様もそうですが、考えさせて体験的に教える。自分で考えて、答えを出していくようにする。「私などはまだ、まだだなー」と本当に思います。とにかく、教師の賜物の人は、キリストのからだなる教会で互いに教え合うように勧めます。

最後は使徒です。本来、イエス様のもとにいた12弟子が使徒です。でも、バルナバとか直接イエス様と会っていない人たちも、聖書では使徒と呼ばれています。使徒の賜物は何でしょうか?使徒はまだ伝道されていない新しい地に出かけ、福音を宣べ伝え、教会を設立します。そして、キリスト教の教理を分かり易く教え、教会の基礎を作ります。使徒は、5本の指の親指のような存在です。親指は人指し指、中指、薬指、小指、どれにも接することができます。他の指でそれをするなら、できても2つか3つくらいです。うまく動きませんし、顔までゆがみます。でも、親指は自在です。これはどういう意味かと言うと、使徒は預言者、伝道者、牧師、教師、何でもできるということです。使徒パウロがそうでした。パウロは牧師であり教師であり、伝道者でした。でも、使徒には1つだけ欠点があります。同じところにずっと留まっていることができません。教会ができたら、新しいところに出かけて、また新しい教会を設立したくなります。使徒的な人は、1つの教会だけではなく、日本の教会、世界の教会を視野に入れています。「すべての国民を弟子とする」。これが彼のキーワードです。

 では、キリストのからだなる教会において、使徒の賜物はどういう働きをするのでしょうか?そうです。使徒的な人が来ると、人々の視野が広くなります。私たちはいつも、自分の教会、自分の群のことしか考えません。使徒的な人は、「今、日本の教会はどうなのか?世界の教会はどうなのか?」ということを教えてくれます。そして、教会が持つべきビジョンとか、いろんな戦略を与えてくれます。教会はどうしても、保守的になり、停滞してしまいます。しかし、使徒的な人が教会に来ると、カンフル剤が打たれたように、「おおー!」と奮い立ちます。日本では奥山実先生、草加の天野先生、それから天に召されましたけど石原先生がそうではないかと思います。使徒的な牧師は、牧師を指導する牧師でもあります。だから、そういう人は、教会を行きめぐり、教会を活性化する使命があります。

 このように神様は教会に五職の賜物を与えられました。それは教会を健全に建て上げるためです。牧師は教会の指導的な立場におりますが、牧師の中にも5種類の人がいます。使徒的な牧師、預言者的な牧師、伝道者的な牧師、いわゆる牧師、教師的な牧師です。さきほど申しましたが、自分の賜物だけを強調したならば、かならず偏りが出てしまいます。もし、自分と違った賜物の先生と会いますと、刺激を受け、視野が広くなります。当教会にも様々な立場の先生をお呼びしますが、そういうチャレンジを受けるためであります。ですから、神様はキリストのからだなる教会が、バランスを取りながら成長できるように、5つの職務の賜物を与えておられるということです。最後に、五職の賜物を矢印で説明するならばどうなるでしょう。ここに1つの教会があるとします。預言者は人々を神さまに向けさせようとします。「神さまに祈り、神さまから知恵と賜物を得なさい」と言うでしょう。ですから、預言者はからだを上に向かわせる人です。伝道者はどうでしょうか?伝道者はキリストを知らないこの世の人たちのところへ、からだを向けさせます。ですから、外向きであります。牧師は教会員を育てつつ、互いにケアーし合うようにさせます。ですから、それは内向きであります。教師は人々を教えて、成長させるように仕向けます。ですから、からだを前向きにさせます。では、使徒はどうでしょうか?使徒的がいないと、大きな絵、ビジョンが見えません。神さまの目的も分かりません。でも、使徒は建築科のように全体を見せてくれます。英語ではwholeです。ケーキを丸ごと、ホール・ケーキと言います。五職の賜物は、私たちを上向き、外向き、内向き、前向き、そして、全体に目を向けるように導いてくれます。このように、五職の賜物がキリストのからだなる教会に関わるとき、バランスよく成長できるのです。

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2010年12月19日 (日)

わがたましいは    ルカ1:46-55

クリスマスおめでとうございます。暦の上では、25日がクリスマスなのですが、教会は日曜ごとに礼拝がありますので、少し前ですが「クリスマス礼拝」をしてしまおうということです。ところで、何故、教会には女性が多いのでしょうか?日本の教会の平均は、6割から7割が女性だといわれています。どうして、教会には女性が多いのでしょうか?いろんな答えがあると思います。イエス様が男性だから。男性よりも女性の方が内面をよく見るから。男性は「俺、俺で生きて」プライドを捨てることができないから。いろいろあると思いますが、マリヤの賛美から2つのことをお伝えしたいと思います。第一は、なぜマリヤなのか?第二は、どこへ救いが行くのか?

1.なぜマリヤなのか?

ローマ・カトリックでは、マリヤは神格化されています。メシヤを生んだ母、聖母マリヤ。罪がなくて、永遠の処女であるということです。イエス様と同じように、昇天したとも言われています。それだけではなく、聖母マリヤに祈るならば、マリヤが神さまに執り成してくださるということです。中世の絵を見ると、赤ん坊のイエス様を抱いたマリヤが目立ちます。ある人たちは、今でも、イエス様よりも、マリヤを慕っているのであります。私たちプロテスタントはマリヤも一人の女性であり、立派なクリスチャンであるとは思っています。しかし、どうしてそれほどメシヤを生んだ母として神格化されてしまったのでしょうか?いろんな説がありますが、キリスト教がローマの国教になってしばらく後、数え切れないほどのゲルマン民族が南下してきました。ローマの町中がゲルマンにあふれてしまいました。そのとき、ローマ帝国は武力で追い出すのではなく、彼らをキリスト教化したのです。ゲルマンの人たちは、難しい教理を教えられても分かりません。それで、信仰を目に見えるような形にしました。十字架のロザリオを与え、それに向かって祈るようにさせました。また、ゲルマンの人たちは、男性のメシヤよりも、母性、母マリヤを求める傾向があったようです。優しい母マリヤを通して、神さまに近づく。こういう信仰が、彼らには合っていたようです。そういうこともあってか、ゲルマン民族のほとんどがキリスト教化されました。中世になると、聖母マリヤとして1つの教理として建てられていくのであります。日本の場合も、聖母マリヤに心を開いて、多くの人たちがキリシタンになったのではないかと思います。

しかし、きょう私は、聖母マリヤの話をするのではなく、「なぜ、女性なのか?」ということを一緒に考えてみたいと思います。先週も話しましたが、最も古い、救い主に関する預言は創世記3章にまで遡ります。一番、最初に罪を犯したのは、女性であるエバの方です。エバが木の実をまず食べ、それをアダムに与えたのです。アダムが「そんなにおいしいのか。では、私も一口」とやったのです。木の実に毒があったという訳ではありません。食べてはならない木から取って食べるとは、神の主権を侵す、つまり、自分が神になるということでした。そして、人類全体に罪とのろいが下ってしまいました。しかし、神さまは救いの約束も与えられました。それが、創世記3:15「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」おまえとは、サタンであり、女の子孫とは、イエス・キリストであります。なぜ、ここで男の子孫と言わなかったのでしょう?キリストはアブラハムの子孫、ダビデの子孫と言われます。でも、ここでは「女の子孫」であります。なぜでしょう?「女性であるエバが最初に罪を犯したので、女性の子孫がその汚名を返上しなければならない、罪を贖わなければならない。」そのように考えることはできないでしょうか?だから、イザヤ書7:14 「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」と書かれています。ユダヤ人は否定しますが、マタイによる福音書1章には、このみことばがイエス・キリストにあって成就すると書いてあります。やはり、ご自分の民を罪から救うためには、女のすえでなければならなかったのです。マリヤは処女でありましたが、それで罪がないということではありません。もし、男性との自然な関係で救い主が生まれたならば、アダムの罪が転嫁されるからです。神さまはそれを避けるために、聖霊によって超自然的に、メシヤが生まれるようにされたのです。でも、肉体をもってメシヤが生まれるためには、一人の女性が必要だったのです。

女性には子どもを生むという能力があります。神さまは人を男と女に創造してから、このようにお命じになりました。創世記1:28 「神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』」神さまは、人間が、特に神のこどもが増えることを願っておられます。この世の人たちは産児制限をしても良いですが、クリスチャンは子どもをできるだけ増やさなければなりません。「生めよ。ふえよ。地を満たせ」。これは、神さまの命令だからです。でも、生むためには女性の助けがなければなりません。女性は神のこどもを増殖する能力があります。サタンがこのことがとってもイヤなのです。神のこどもが増えては困るのです。それでどうしたでしょうか?サタンは2つのことをしました。1つは女性蔑視です。女性は男性よりも劣るという考えを吹き込みました。女性蔑視はローマ時代にもありました。ローマの兵士が、国にいる妻に送っている手紙があります。「もし、男の子が生まれたなら生かしておけ、女の子だったら殺せ」と言うのです。なぜなら、男性は戦力になるからです。聖書にも、「20歳以上の男性を数えよ」というのが、出エジプト記にもあります。新約聖書でもパンが増えたとき、「男性だけでも、5000人いた」と書かれています。昔は、戦争に出て戦える男性の数を数えたようであります。だからと言って、女性蔑視ということではありません。それは、やはり罪から来ているものです。違うのは、能力ではなく、機能であります。男性と女性は神さまから与えられた機能が違うんです。このところを理解すると、男女が争うことはなくなります。もう1つサタンがしかけた罠は性の問題です。女性が子どもを生めるので、そこをなんとかしなければなりません。それで、サタンは性を汚れたものであると思わせました。男性には不品行、汚れ、姦淫への罪の傾向があります。サタンは男性を誘惑し、女性の性を不当に求めるようにさせるのです。世の中には、痴漢、セクハラ、強姦、売春、ポルノ等がありますが、性がゆがめられているところから来ています。明らかに、サタンが女性の性を攻撃し、「生めよ。ふえよ。地を満たせ」という命令を果たせなくしているのです。

救い主の誕生の際、マリヤがこのように歌っています。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。」アーメン。讃美歌98「あめにはさかえ」という賛美があります。2節目は「いやしき賎(しず)の処女にやどり」となっています。賎(しず)というのは、賎民と同じ文字です。賎しいという古い表現です。讃美歌21では差別用語ということで、変えています。私は「卑しいはしため」というのは、神さまと比べて、よりへりくだった表現だと思います。でも、明らかにマリヤは女性を救った人ではないかと思います。メシヤを生むことによって、女性としての大切な使命を果たしたということです。しかし、そのためにマリヤはいくつか失ったものがありました。それはヨセフとの婚約が破談になるかもしれないということです。また、結婚前に子どもを宿したということは、姦淫であり、石打ちの刑です。また、生まれた子どもも、私生児と呼ばれるかもしれません。今の時代も「処女から子どもが生まれるだろうか?」とクリスチャンでも疑う人がいます。それは、2000年前とて、同じことです。マリヤはベツレヘムへ行って、なぜ馬小屋で生まなければならなかったのでしょうか?当時は親戚同士が宿を分け合って、泊まるそうです。マリヤは私生児を宿したと噂され、親戚からも排斥されていたのではないかという考えもあります。実際、福音書では「マリヤの子」と呼ばれています。マリヤはそういう誤解や嘲笑を覚悟して、信仰によって「ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう」と告白したのです。そして、そのようになりました。

ハレルヤ!そういう訳で、クリスマスは女性の回復のためにもあるということです。マリヤが救い主を生むために、ご自分をささげられた。これは、すばらしい信仰と献身の証しです。ここにも、大勢の女性がおられますが、クリスマスおめでとうございます。女性の方々、ありがとうございます。どうか、これで牧師や夫をあまり攻撃しないようにお願い申し上げます。

2.どこへ救いが行くのか?

 ルカ1:50-53「そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。」この箇所を見ると、神さまがお嫌いな者と神さまが好まれる者と2種類に分けることができます。神さまがお嫌いな者とはどういう人でしょうか?第一に「心の高ぶっている者を追い散らす」と書いてあります。神さまは高ぶり、高慢がお嫌いです。今、聖書日課ではⅡ歴代誌を読んでいます。歴代誌には、歴代のユダの王様が記されています。アサ王、ヨシャパテ、ヨアシュ、ウジヤ王、最初はみな良い王様でした。ところが、富と誉れが豊かに与えられるとどうでしょう?神さまよりも軍隊を、神さまよりも他の国と同盟を結びました。そうすると預言者が出てきて「やめなさい。主に信頼しなさい」と告げます。しかし、王様は「やかましい、ひっこんでろ」と退けます。そうすると、敵国が侵入し、王宮から宝物が奪われます。ある場合は病気になってしまいます。高慢が、滅びに先立つことが教訓としてよくよく述べられています。神さまは「心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます」。第二は富む者です。聖書は富自体が悪いとは言っていません。アブラハムやソロモンは富んでいました。悪いのは、神さまよりも富を信頼するということです。新約聖書にありますが、ある金持ちの畑が豊作でした。彼は心の中で、「もっと大きな倉を建てて穀物や財産はみなそこにしまっておこう。魂よ。これから何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」と言いました。神さまは「愚か者、お前の魂は、今夜、お前から取り去られる。お前が用意したものは、いったいだれのものになるのか」と言われました。金持ちの青年役員も悲しい顔をしてイエス様のもとを去りました。ヤコブ書では「金持ちたちの上に、悲惨なことが迫る」と警告しています。富やお金は中立ですが、それが増してくると、偶像になるということです。お金はあればあるほど、もっと欲しくなるそうです。私は、ないよりはあった方が良いと思いますが、誘惑の度合いが増すことも確かです。

では、神さまが好まれる人とはどういう人でしょうか?第一は低い者です。低い者とは、直訳すると身分の低い者です。イエス様がこの地上に来られたとき、どのような人たちと交わったでしょうか?政治家や高級官僚、あるいはライオンズクラブに集うような名士たちでしょうか?そうではありません。イエス様は「食いしん坊の大酒け飲み、取税人や罪人の仲間」(ルカ734と言われました。当時の宗教家はそういう人たちと一緒に食事をしませんでした。しかし、イエス様は取税人のマタイやザアカイと一緒に食事をしました。また、イエス様の弟子のほとんどが、ガリラヤ湖の漁師でした。イエス様のところには、病人や問題を持っている人たちがよく集まりました。しかし、今日の教会はどうでしょうか?「イエス様は罪人を招かれましたが、刑を犯すような本当の罪人は困ります。イエス様はあらゆる病人を癒されましたが、精神的に病んでいる人は困ります。できれば、社会的に影響のある人、お金持ち、能力のある人が良いです。」口には言いませんが、どこかで思っているのではないでしょうか?教会はだれでも来ても良いところです。しかし、気をつけなければならないこともあります。神さまの愛は無条件で絶対的です。これは確かです。しかし、私たち教会には絶対的な愛はありません。もちろん、できる限りのことはします。私たちは最低限度のルールを設けながら、どんな人でも歓迎するのです。それをしないと、弱い人が王様のようになって、奉仕者が燃え尽きたり、教会が荒らされてしまいます。ここで言われていることは、へりくだるということです。イエス様は神さまであったのに、しもべの姿になるまで、へりくだられました。ヤコブ46「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる」とかかれています。神さまの恵みと水は高い所から低い所へ流れます。逆流はしないのです。へりくだり、謙遜こそが、神さまの恵みを受ける性質なのであります。

もう1つ神さまが好まれる人は「飢えた者」です。ルカ621「いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから」と書いてあります。私は自慢ではありませんが、結構、貧しい家に育ちました。ですから、粗食と言いましょうか、ある程度のもので満足できます。しかし、外食するときは、腹いっぱい食べないと満足しません。家でいたらそんなことはないのですが、セミナーとか会議では別です。ある教会でセミナーをするときは、いつも弁当です。サンドイッチのときもありました。女性でしたら、それで良いかもしれませんが、「これだけ?」という感じがします。それで、この間は、「弁当ではなく、外食しましょう」と提案しました。その時は、ラーメンの大盛を食べました。私の心の奥深くに、満足しきれていないところがあるのかもしれません。韓国では、今はどうか分かりませんが、「ご飯食べましたか?」とあいさつするそうです。そして、おもてなしをするときは、テーブルの足が折れるくらいのご馳走でもてなすそうです。たくさん残るくらいが良いそうです。でも、それは貧しかった時の傷から来ているかもしれません。とにかく、そういうひもじさ、貧しさの傷はいやされる必要があります。福音書を見ますと、イエス様は常に食べています。イエス様は取税人や罪人とよく食事をされました。ザアカイには、呼ばれていないのに、「こちらから行くから」と言いました。十字架につけられる、最後の夜も弟子たちと一緒に食事をされました。復活してからは、ガリラヤ湖で魚を一緒に食べました。黙示録を見ると、世の終わり、「わたしの声を聞いて戸を開けるなら」何とおっしゃっているでしょうか?「私は彼のところに入って、彼と共に食事をし、彼も私と共に食事をする」と言われます。どうぞ、貧乏の霊、ひもじさの霊から解放されましょう。神の国は盛大な晩餐会にたとえられています、主は豊かに与える方です。私の杯はあふれるのです。

でも、これは、実際に飢えているという意味もありますが、神さまに対する飢え渇きです。私たちの信仰生活において、霊的な飢え渇きということがとても重要です。私たちはこの地上で住んでいますと、満ち足りた喜びというものが永続しません。「いや、これは最高だ!」と大喜びしても、明日になると冷めてしまいます。「ここまでやったなー」と思っても、「もうちょっと」と願うところがあります。これは私たちの罪の性質です。この世ではどんなものでも、飽きたり、慣れっこなるということがあります。霊的な世界でも同じで、私たちは常に信仰の高嶺へと登るように召されているのです。天国へ行ったらそういうことはありません。信仰は生き物です。そして、教会も生き物です。「昔は霊的に満たされていた、盛んだった」という教会が今ではどうでしょうか?50年たつと全く、様変わりします。教会だけではなく、この世のビジネスでも同じです。私たちは時代を見極める目を持ちながら、同時に、神さまに貪欲に求める必要があります。きのうの恵みときょうの恵みは違うといっても過言ではありません。もちろん、過去の恵みを覚えて、それを数えることも重要です。でも、後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進むように召されているのです。ですから、私たちはたえずチャレンジ精神が重要です。「前例がない」とか伝統や歴史に縛られているなら、どんどん減っていきます。教会はたえず祈り、信仰を高くあげて、チャレンジすることがとても重要です。20年くらい前、教会で結婚式をあげることがものすごく流行しました。しかし、多くの教会は「未信者の挙式はしない」とはねつけました。それでホテルがチャペルをたくさん作って、チャペル結婚式をしました。その後、ブラックゴスペルが流行りました。しかし、かなりの教会は「未信者を講壇にあげるのは良くない」と会堂も貸しませんでした。幸い亀有教会は、牧師に理解があるので、牧師も一緒に加わって賛美しています。私のことですが…。現代は心の病んでいる人が大勢いますので、カウンセリングとかコーチングが求められています。福音の内容は変えられませんが、伝え方は時代によって変えていかなければなりません。

最後には、私たち自身の霊性です。神さまに対する飢え渇き、霊的な飢え渇きということがとても重要です。どこかの聖会やセミナーに行くと、聖霊に満たされて帰ってきます。でも、次の週になるとぱーっと引いていきます。ですから、私たちは毎日、こつこつと聖書を読み、イエス様と親しく交わる必要があります。「どこかで落ちたかなー」と思ったら、そこまで引き返し、悔い改める必要があります。そして、さらにさらに、神さまに求めるのです。これまでいろんな癒しや奇跡を体験しました。「もっと、与えてください。もっと、体験させてください」と祈り求めるのです。マタイ7:7「求めなさい。そうすれば与えられます」は有名です。しかし、原文は、「求め続けなさい」という継続形になっています。満足することはとても重要です。でも、さらなる飢え渇きをもって、神さまに期待する。私たちと神さまとの関係は生きた関係です。私たちの霊性は上がったり下がったりします。体調や気分も上がったり下がったりします。そこで、大切なことはどういうことでしょう?霊性が高いとき、体調や気分が上がっているとき、イエス様が会ってくれるのでしょうか?もちろん、会ってくださると思います。でも、イエス様は天の御座から低き所に下って、なんと陰府にまで下られたお方です。私たちがどん底に落ちたとしても、陰府には永遠の腕(申命記33:27)があります。クリスマスというのは、イエス様が地上に降りて生まれて下さったことを覚える日です。だから、私たちはそこでイエス様と出会い、イエス様が私たちを引き上げて下さるのです。主はどんなお方でしょうか?「低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせて」くださるお方です。

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2010年12月12日 (日)

久しく待ちにし     イザヤ25:7-9 

「久しく待ちにし」という讃美歌がありますが、救い主の到来はどれほど、待たれたのでしょうか?前半は、旧訳聖書から、救い主の到来について、預言されている箇所を上げたいと思います。イエス・キリストに関する預言は、あまりにも多いので、代表的なところだけを取り上げたいと思います。後半は、何のためにキリストが来られたのか、その目的について学びたいと思います。イエス・キリストは何を成し遂げるために、この世に生まれたかであります。クリスマスといえば、冬の寒い日、馬小屋に生まれたイエス様というロマンチックなイメージがあります。決して、間違いではありませんが、聖書はもっと、遠大な計画について語っています。もし、遠大な計画が私の救いのためだったということを知るならば、信仰は簡単にぐらつかなくなるでしょう。救いは主観的なものでありますが、同時に、全時代の全世界の人々に対する招きでもあるということを忘れてはなりません。

1.預言されて来られた方

救い主の誕生が最も早く叫ばれたのは、いつ頃でしょうか?創世記3章、人間が堕落した直後です。ですから、いつ頃なのか、はっきりとした年代は分かりません。「人類の最初の時」と言っても良いかもしれません。創世記3章に救い主を預言するみことばがあります。創世記3:15「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」ここで言われている「女の子孫」とは、イエス・キリストであります。「おまえ」であるサタンは、イエス・キリストのかかとにかみつきます。が、女の子孫であるイエス様は、サタンの頭を踏み砕くのです。これは最も古い、イエス様に関する預言です。この預言は、十字架の上で成就されました。かなり前に、「パッション」という映画がありました。サタンはユダを用いて、イエス様を十字架につけることに成功しました。ところが、逆に、十字架はサタンの頭を砕き、致命傷を負わせる結果となったのです。なぜなら、十字架の贖いによって、サタンは人類の罪を告白する権利がなくなったからです。サタンの武器は、人間の罪を告発することです。もう、それができなくなっているということです。

さらには、アブラハムも関係します。アブラハムはイスラエル民族の先祖であり、信仰の父とも呼ばれています。創世記17章で、神さまはアブラハムに「あなたの子孫によって、地の諸民族はみな祝福を受ける」と言われました。実際はアブラハムの子孫であるイスラエルによって、地の諸民族はみな祝福を受けなかったのです。彼らは罪を犯したために、祭司としての役目が果たせませんでした。では、本当のアブラハムの子孫とはだれなのでしょう?イエス・キリストであります。マタイ11「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」と書いてあるのはそのためです。ガラテヤ書3章にあるように、イエス・キリストによって、アブラハムへの祝福が、異邦人に及ぶようになったのです。さらに、救い主はユダの部族から出ると預言されています。創世記4910「王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。

さらに時代が進んで、モーセも救い主について預言しています。モーセは紀元前1400年くらいの人です。申命記1815「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。」この聖句は、ペテロがペンテコステの日に引用しました。イエス様はモーセのような預言者として、来られました。モーセはイスラエルの民をエジプトの奴隷から救い出しました。パロ王がイスラエルの民を離しませんでした。しかし、過ぎ越しの羊の出来事により、イスラエルを手放しました。イエス様は神の小羊です。人類をエジプトならぬ、罪の奴隷から救い出してくださったのです。私たちは救われる前は、罪とサタンの奴隷でした。不思議なことに、イエス様を信じて救われてから、「ああ、私は奴隷だった!」ということが分かります。私たちは奴隷の中に生まれ育ったので、麻痺していたのです。あなたは罪とサタンの奴隷から解放されているでしょうか?

こんどはダビデに与えられた預言からです。イエス様はダビデの子と呼ばれました。なぜでしょう?Ⅱサムエル712-13「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」そうです。救い主はダビデの子孫から出て、とこしえの王国を建てるのです。同じような預言が、母マリヤにも与えられました。ルカ132-33「その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」アーメン。ダビデはイスラエルの王様でした。そして、イエス・キリストは御国の王様なのです。ハレルヤ!みなさんは、イエス・キリストの王国の民なのです。父なる神さまは御子イエスのために、永遠の御国をご用意されました。私たちは御国が完成した暁には、そこに迎えられるのです。まだ、御国の席は開いています。だから、世の終わりが来ていないのです。でも、締め切りが迫っています。どうされますか?

預言書にはイエス様の生涯にわたる預言が記されています。どこで生まれて、何をして、どのように死ぬかまで預言されています。ミカ52「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」これは、博士たちがエルサレムを訪れたとき、律法学者たちが彼らに示した聖書箇所です。ヨセフとマリヤはナザレに住んでいました。ところが、ローマ皇帝によって「人口調査をするので、生まれた町に帰って登録せよ」という勅令が出ました。身重のマリヤは遥々ベツレヘムに来て、馬小屋でお産することになります。マリヤはローマ皇帝によって動かされたような感じがしますが、神さまがローマ皇帝を動かしたのです。救い主をベツレヘムで誕生させるためです。

イザヤ書は最も、イエス・キリストについて預言している書物です。ですから、学者たちは第五福音書と呼んでいます。イザヤ7章、9章、11章に誕生の預言が記されています。「処女が身ごもっている」「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる」「エッサイの根株から新芽が生え」と書いてあります。そして、最も有名なのはイザヤ53章です。このところには、救い主は全類の罪のために身代わりとなって死ぬとはっきり書かれています。イザヤ5345「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」アーメン。私が救われた頃、イザヤ書53章を読んだとき、あまりぴんときませんでした。「なんと暗い箇所だろうな?」と思いました。でも、その一字一句が、十字架による罪の赦しと私たちの心の癒しについて語っていることに驚きました。イエス様は自分の罪のために死なれたのではなく、私たちの罪、私たちの咎のために死なれたのです。イエス様はまさしく、死ぬためにこの世に来られたのです。

ダニエル書には、いつメシヤがいつ殺されるか預言されています。ある計算によると、AD32年4月6日となります。ゼカリヤ書にはメシヤがろばの子に乗るとか、からだを突き刺されるという預言があります。マラキ書にはメシヤが来る前にエリヤが道を備えるためにやってくると預言されています。旧約聖書、最後のマラキの預言から、新約聖書の間は400年間あります。400年間預言が途絶えていたということになります。イスラエルのほとんどが、メシヤが来るという預言を忘れていました。ですから、「久しく待ちにし、主よとく来たりて」は短くて400年、長くて人類が堕落した時に遡ります。イエス・キリストは突然来られたのではなく、生まれる何千年も前から聖書の中で詳しく預言されていました。歴史上、世界的な「聖人」と言われる人は何人かいます。しかし、生まれる前からその生涯が預言されていた人はキリスト以外しかしません。この数限りない預言を満たすお方は歴史上、たった一人しかしません。仮に、「私がキリストです」と名乗る人がいたとしても、聖書の預言をいくつ満たすことができるのでしょう?ですから、私たちは安心して、イエスこそ、メシヤ、キリストなんだと信じて良いのです。イザヤ25:9その日、人は言う。「見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう。」アーメン。

2.来られた目的

イエス・キリストが人間としてこの地上に来られた目的とは何でしょうか?何のために来られたのでしょうか?イザヤ257,8「この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ。」この箇所から、3つ取り上げることができると思います。第一は顔おおい、つまり罪を取り除くためです。おおいというのは、顔にかけるおおいのことです。顔おおいのかけられた人は、裁きのもとにおかれているということです。これからさばきをうける人間を象徴しています。エステル記にありますが、ハマンはユダヤ人を撲滅しようと考えていました。しかし、謀反のかどで王様からさばかれました。そのとき、ハマンの顔はおおわれました。その後、彼は木にかけられて殺されました。一方、顔おおいを取り除かれた人とはどういう意味でしょうか?それは、単に「取り除く」というよりも「引き裂く」という意味があります。イエス様が十字架で叫ばれた直後、神殿の幕が上から下まで裂けました。神さまとの隔ての壁がなくなったということです。罪が赦され、もう裁かれないということです。また、おおいとは心のおおいをも意味しています。罪人は心におおいかがかけられ、神さまのことが分かりません。しかし、聖霊によって、「顔のおおいをとりのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行くのです(Ⅱコリント3:18)。テレビで死刑を待つ人のドラマがありました。死刑が確定した人というのは、何をやっても良いそうです。訓練も作業もありません。部屋の中で好きなことをして過ごしています。中には、3年間、執行されない人もいます。最も恐いのは、朝、突然、執行が知らされることです。ですから、彼らは朝が最も恐いのです。ヘブル9:27「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように」とあります。私たちは死んだらおしまいではなく、神さまの前に立ってさばかれる運命にありました。ところがどうでしょう?しかし、この27節の前後にすばらしい福音があります。ヘブル926「キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです」28節、「キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」そうです。イエス様はご自分をいけにえとしてささげ、罪を取り除くために来られたのです。多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられたのです。イエス様を信じている人は、神さまのさばきを恐れることはありません。いつ死んでも大丈夫です。なぜなら、イエス様が代わりにさばかれたからです。

キリストが来られた第二の目的は永遠に死を滅ぼすためです。ヘブル214,15「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」アーメン。イエス様が何故、肉体を取ってこの世に来られたのでしょう?それはご自分が人間と同じように一度、死んで、その死を滅ぼすためです。この死に対してはだれも勝利することはできません。だれしもが死ぬ運命にあります。ある村で、一人の子どもが死にました。そのお母さんは、死んだ子どもを抱いて、お釈迦様のところを訪れました。「何とか死んだこどもを生かしてください」とお願いしました。お釈迦様が言いました。「分かりました。では、この村の、先祖代々続いている家々に行きなさい。そして、死者を出したことがない家があったならば、その家のかまどの灰を持ってきなさい。その灰をかけたら子どもは生き返ります」と。彼女は一軒、一軒「これまで死者を出したことはありませんか」と、尋ねて歩きました。しかし、すべての家には死んだ者がいました。お母さんは帰ってきて「どの家にも死んだ者がいました。死者を出したことのない家など一軒もありませんでした」と悲しげに報告しました。お釈迦様は「人というものはそういうものです」と言われたそうです。しかし、イエス・キリストは死を受け入れず、人類の敵とみなしました。イエス・キリストは死によって死を滅ぼしたのです。十字架について死の原因である罪を贖い、3日目に墓からよみがえりました。そして、二度と死なない栄光のからだを与えると私たちに約束されたのです。黙示録21章には永遠の御国のことが記されています。そこにないものが幾つか記されています。それらは、涙、死、悲しみ、叫び、苦しみです。永遠の御国には、死はないのです。ハレルヤ!私たちのこの肉体は滅びますが、やがて復活し、栄光のからだに変えられます。この福音を信じている人は、死の恐れから解放されます。パウロのように、早く、主のもとへ行きたいと思うようになるのです。

第三は「涙とそしりが取り除かれる」ということです。そしりとは何でしょう?人から悪く言われること、非難されたり、けなされることです。日本人はそしりよりも、恥の方が多いかもしれません。ですから「涙とそしりと恥が取り除かれる」と言っても良いでしょう。イエス様はナインのやもめに、「泣かなくても良い」と言われました。ナインのやもめは一人息子を失ったばかりで、その棺が町から出されるところでした。イエス様は棺に手をかけ「青年よ。あなたに言う、起きなさい」と言われました。死んだ息子を生き返らせて、母親に返されました。私たちの多くの涙は喪失の悲しみから来たものです。大事なものを奪われた、かけがえのないものをなくしてしまった。父や母、子ども、あるいは自分自身、大切な持ち物、地位や名誉かもしれません。「弁償してくれ、取り返してくれ」と泣いたかもしれません。この世では、取り返し不可能です。でも、イエス様はそれを弁償し、それを回復してくださるお方です。イエス様にあって、手遅れとか、取り返し不可能はありません。私は天国に行ったら必ず償われる、報いられると信じています。同じものかもしれないし、それ以上のものかもしれません。それが、あまりにもすばらしいので、失った過去の悲しみを忘れるのです。もちろん、そしりも恥も取り除かれます。なぜなら、直接、イエス様が慰め、イエス様が癒してくださるからです。

私たちはもう「久しく待ちにし」を歌う必要はありません。なぜなら、救い主が既に来られたからです。私たちは救いを受けるのに、天国まで待つ必要はありません。私たちは「御国が来ますように」と祈ります。御国と天国は違います。天国は死んだのち行く場所です。しかし、御国は神の支配です。御国が来ますようにとは、「神のご支配が来ますように」という意味です。神の支配が来たなら、この地上でも天国のような喜び、天国のような豊かさを味わえるということです。あるクリスチャンは、救いとは天国へ行くことだと思っています。私たちがこの世の人に、「イエス様を信じたら天国へ行けますよ!」と伝道します。しかし、今はそれが通じなくなりました。テレビでは有名人が死ぬと、「天国へ行った」と平気で言います。ですから、多くの人は死んだらみんな天国に行くのだと勘違いしています。天国の大安売りで、天国のありがたみがなくなりました。ですから、「イエス様を信じたら天国へ行けますよ!」と伝道すると、「俺を殺す気か!俺はまだ死にたくない」と言われるかもしれません。私たちも気をつけなければなりません。イエス様を信じて天国に行くことだけが救いであるなら、洗礼を受けたあとは、自由気ままに暮らすでしょう。イエス様を信じたら確かに死後、天国へ行けます。でも、天国に行くことだけが救いではありません。私たちはこの地上で、救いを味わい、喜びながら生きることができるのです。では、どうすれば良いのでしょう?天国ではなく、御国、あるいは神の国と言うべきなのです。つまり、イエス様を信じた瞬間、その人は神の国に入るということです。私たちはこの地上で暮らしながら、神の国の住民なのです。私たちは神の国、神のご支配が生活のすべての分野に臨むように祈るべきです。もう1つは、信じたら、神の命、復活の命が与えられるということです。私たちは肉体的に生まれたら、生物学的な命はだれしもがもっています。肉の命はギリシャ語でビオスと言います。バイオロジー(生物学の語源です)。肉の命は猫も犬も、植物も持っています。しかし、クリスチャンは、神の命、復活の命を持っています。この命はギリシャ語でゾエーと言います。神さまの命ですから、永遠で豊かな命です。神の命、永遠の命は天国に行ってからいただくのではありません。イエス様を信じているならば、今、持っているのです。私たちは神の命、ゾエーに頼るべきです。この神の命を用いるときに、快活で聖い生活ができるのです。

今、ハイブリッド・カーが流行しています。ハイブリッド・カーはガソリンと電気で走ります。走りながら、充電します。そして、自動的にガソリンから電気で走ります。電気のときは、とても静かです。私たちも肉の命と神の命の両方を持っています。生物学的な肉の命も必要です。でも、神さまのみこころを行なおうとしたり、神さまの奉仕をするときは、肉の命では限界があります。ぶつぶつ、不平不満が出ます。疲れてやる気がなくなります。でも、神の命、ゾエーを用いるとどうでしょう。神の命、ゾエーが私たちを動かしてくれます。私も奉仕で疲れるときがあります。そのときは祈ります。神さまの命、神さまの力で満たしてくださるように祈ります。すると、急にやる気が出てきます。キリストの救いは天国に行くためだけのものではありません。救いは、この地上でも効き目があるのです。「効き目がある、具合良くいく」ことを英語でwork wellと言います。救いはwork well、効き目があります。そのためにはこのことを理解しなければなりません。クリスチャンは、この世に生きてはいますが、神の国に属し、神の命を持っているんだということを。神のご支配がどの分野にも来るように、神の命がどの分野にも発揮されるように祈りましょう。

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2010年12月 5日 (日)

能力付与     マルコ3:13-15、Ⅱテモテ2:2

能力付与ということばはあまり耳にしたことがないと思います。英語ではempowering、「人に権限を与える、権威を委譲する」というふうに訳されます。権威の委譲ではちょっと堅苦しいと思います。私はセルチャーチネットワークに属していますが、この「能力付与、エンパワリング」は教会にとって重要な原則の1つになっています。まず、聖書において典型的な例をあげるならば、能力付与がどういうものか分かるのではないかと思います。まず、モーセがヨシュアに能力付与しました。モーセは40年間、イスラエルの民を導きました。しかし、約束の地であるカナンを指導するのは、モーセではなくヨシュアでした。ヨシュアはいきなり新しいリーダーになったのではなく、長い間、モーセの従者として仕えていました。新約聖書ではパウロがテモテを見出し、能力付与しました。さらに、パウロは他の人に能力付与するようにテモテに命じています。Ⅱテモテ2:2「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」もし、このように能力付与を継続していくならば、再生産されて、教会が進んでいくのではないでしょうか?しかし、能力を付与するためには、3つの段階が必要です。第一は行くべきゴール(目標地点)です。第二は今どこにいるのか(現在地)を知らなければなりません。そして、第三はどうやってそこまで行くのかという方法であります。

1.行くべきゴール

 私たちは何をするにしても、まず、ゴールを決めなければなりません。ゴールというのは、目標地点、あるいは青写真です。まず、初めに最終的にどうなるのかという青写真が必要です。たとえば、何か建物を建てるとします。「ここいらに柱を立てて、梁を組んで、屋根をかけよう」という人はいません。まず、設計図を書いて、それにしたがって順番に建てていくのです。犬小屋くらいなら、行き当たりばったりで建てられるかもしれません。今、スカイツリーが建てられています。現在は、500メートル越えています。ゴールは、ムサシ、634メートルのようです。音楽では楽譜、料理ではレシピ、機械では設計図、呼び方は違います。でも、物ごとを始める前に、最終的な完成図を見る必要があります。結婚や子育て、老後の生活にも青写真が必要です。どうでしょうか?行き当たりばったりで、毎日、過ごしておられるでしょうか?では、聖書が望むクリスチャンの完成図、青写真というのはどういうものなのでしょうか?案外、教会では、イエス様を信じて洗礼を受けることがゴールになっています。「ああ、救われた。良かったねー。おめでとう」。「後は何をするんですか?」「日曜日に礼拝を守り、献金して、聖書を読んで、お祈りして、何か奉仕すれば良いです。そのうちお迎えが来ます」。クリスチャンの完成図、最終地点とは天国に行くことでしょうか?そうではありません。天国に行くことが救いの目的ではありません。救われたからには、この地上でなすべきこと、あるいはクリスチャンとしての成長のゴールがあるはずです。クリスチャンとしての完成図、青写真、これが必要です。これがないと、天国を待ちながら生きる退屈な信仰生活を送ってしまいます。

 では、その完成図、青写真とは何なのでしょうか?実は私は10年後に引退することになっています。この教会の主任牧師を辞めて、他のだれかに任せる。そして、私は他の枝教会を牧会しながら、たまには顔を出す。私は今、コーチングをしていますが、将来はもっと多くの先生方をコーチングしたいと思います。どこか亀有の枝教会を牧会しながら、いろんなところに出向いて行く。日本には孤独な牧師がたくさんいらっしゃいます。コントロールするのではなく、友だちになってお助けする。大津の浜崎先生、練馬の小笠原先生がそのような働きをしておられます。とりあえずこの教会の牧師をだれかにバトンタッチするという大切な事業があります。多くの教会はバトンタッチに失敗しています。私たちは聖務表の日課で、旧訳聖書の列王記というのを学びした。残念ですが、ほとんどの王様が失敗しています。ヒゼキヤは比較的、良い王様でした。しかし、その息子のマナセは最も悪い王様でした。主は、マナセが犯した罪のゆえにユダ王国を赦そうとはしませんでした。後継者はとっても重要です。でも、みなさん、きょうは能力付与というテーマで学んでいます。能力付与というのは、リーダー一人だけを育てるのではありません。すべての聖徒たちを弟子として育て、そこからリーダーが生まれ、牧師が生まれて来るのです。つまり、教会員を育てて、底上げてしていかなければなりません。そうしないと、キリストのからだなる教会として、成長することができません。全体が成長していく。そこから、牧師が生まれて来る。これが聖書的なゴールです。

 それでは「クリスチャンとしての、全体的な完成図、ゴールとは何なのか?」と質問が出てくるでしょう。実は、昨年からずっとやって来た「信仰の12のDNA」こそが、そうなのであります。これは、救いから順番にはじまり、最後に管理者、指導者になるように組み立てられています。ちょっとおさらいしてみましょう。第一のDNAは、「救い」でした。福音を信じて救いの確信を持つということです。第二のDNAは、「聖書信仰」でした。誤りなき神のみことば聖書に信仰生活を築き上げるということです。第三のDNAは、「癒しと解放」でした。神の子としてのアイディンテティをしっかり持つということです。第四のDNAは、「キリストの弟子」です。整えられて神さまから与えられた使命を果たすということです。第五のDNAは、「聖化」です。罪から解放されて御霊の実を結ぶということです。第六のDNAは、「共同体」です。一人ではなく共同体として成長するということです。第七のDNAは、「信仰」です。神から与えられた信仰を用いてダイナミックに生きるということです。第八のDNAは、「家庭」です。第九のDNAは、「賛美と感謝と告白の生活」です。第十のDNAは、「教会」正しい教会観です。第十一のDNAは「指導者の育成」です。第十二のDNAは「管理」です。教会のマネージメントです。ちなみに、きょうお話している内容は、第十一の「指導者の育成」に関係する内容です。12では多すぎるかもしれません。昨年から、「二つの翼」というのを学んでいますが、そこは6段階になっています。とにかく、12のDNAこそが、クリスチャンのゴールです。

2.現時点

 ゴール、目標地点が分かってから次にすべきことは何でしょうか?そうです。「現在、自分はどこにいるのか?」ということが分からなければなりません。たまに、「亀有教会に行きたいのですけど?」という電話があります。私は「どちらから来られますか?」と聞きます。たいていは、電車で来ますので、「南口からこのように来れば良いですよ」と教えます。しかし、困るのは、途中で、迷って自分が今どこにいるか分からない人です。「環七まで来てしまいました」と言われると、「そこに何が見えますか?」と聞かなければなりません。とにかく、自分が今、どこにいるのかを知る。それは、クリスチャンの信仰過程にも言えることです。「クリスチャン成長の勘所」というのがあれば良いと思います。洗礼を受けてから、どういう問題にぶち当たるのか?何をクリアーしたら成長するのか?何があるとうまく成長できないのか?信仰の成長というのは、なだらかなスロープを登るというよりは、何かの壁に当たり、そこを乗り越え、ぐっと成長する。ガク、ガク、ガクと段階を経て成長するのではないかと思います。逆に言うと、その壁を乗り越えないうちは、壁の手前で成長がストップするということです。何らかの壁を乗り越えられないために、成長がストップする、あるいは教会に全く来なくなる。そういうケースがあるのではないでしょうか?ですから、問題が起こってからではなく、健康な時に、予防注射をしておく必要があります。「これから先、こういう問題が起こる可能性がありますよ、心してください」とかです。

 しかし、自分がどこにいるのか?これから先、どんな問題があるのか?分かりそうで分からないですね。そのためには診断が必要です。健康診断に行きますと、まず、身長とか体重を測ります。その後、視力、聴力、レントゲン。さらには尿とか血液、血圧、いろんな検査をします。最後に問診というのがあります。お体の具合どうですか?睡眠時間は、ストレスはどうですか?信仰生活の面でもそういう診断するものがあれば良いですね。実は、昨年の関東コーチングで渡辺牧師が「弟子のプロフィール」なるものをあげました。10個の項目があり、左側にボックスがり、チェックするようになっています。各教会によって、あるいは牧師によって表現の仕方が微妙に違いますので、そのまま持ってくるわけにはいきません。でも、先ほどの信仰の12のDNAと照らし合わせながら、クリスチャンの成熟度を測るチェックリストがあっても良いと思いました。これから、いくつかあげてみたいと思いますので、ご自分でチェックしてみてください。第一は「救いの確信はあるだろうか」。自分は救われているので、天国にいつでも行けるということです。イエス様は心の中にいらっしゃるということです。これはクリスチャンとして、最低限、必要です。第二は「聖書を神のことばと信じて、いつも聖書を読んでいるか」ということです。日々、ディボーションをしているかと言っても良いでしょう。第三「心の傷が癒されているか?」ということです。キリストの十字架の血しおを仰いで、悪霊から解放されているかということです。第四は「キリストの弟子として歩んでいるか」ということです。イエス様は救い主だけではなく、私たちが従うべき主であり、王様だということです。第五は「古い自分に死んで、御霊によって歩んでいるか」ということです。「聖霊に満たされているか」と言っても良いでしょう。第六は「兄弟姉妹との関係です」互いに愛し、互いに励まし、互いに建て上げ合う関係が大事です。第七は「信仰を用いて生きているか。祈って勝利しているか」ということです。第八は「家族との関係を大事にしているか」ということです。

 8つも言うと、頭がいっぱいになりますね。でも、ここにはリーダーとか指導者のチェックというものがありませんでした。私たちはリーダーとか指導者というと、この世の価値観で判断してしまいます。この世では、能力があって人々を指導できる人がそうなのかもしれません。でも、神の国においては、目に見えない部分が、まず重要です。また、自分がみことばを読み、自分がキリストに従っているかどうかが重要であります。人を指導するとか、人を動かすというのは二の次、三の次であります。一番重要なのは、神さまとの関係、人との関係、そして心の中にある価値観とか態度であります。人を指導するとか、人を動かすというのは、神さまがくださる賜物であります。神さまの賜物ですから、持っている人もいれば、持っていない人もいます。ですから、みんながリーダー、みんなが指導者にならなくても良いのです。逆に言うと、リーダーや指導者になることがゴールではありません。新興宗教やその他の団体では、幹部になるのがゴールかもしれません。多くの人を導いて、たくさんのものを売り上げて、資格を取って、幹部になっていくのでしょう。しかし、イエス様はそうはおっしゃっていません。イエス様は人々に仕える人がリーダーであり、指導者であるとおっしゃいました。イエス様が教えられたリーダーシップは人を支配するのではなく、人に仕えることから与えられるものです。人々に仕えたら、「ああ、あなたがリーダーになってください」と人々が推薦するのです。この世では、はじめに立場や身分が来ます。「私は偉い立場についているのだから、あなたがたは従え」であります。私たち教会はそうではなく、全く逆です。「ちゃんと自分がイエス様の弟子として生きているか。」「神さまと人々との関係はどうか。」「自分に与えられた使命を全うしているか。」これが重要なポイントです。神さまはこれだと思う人に、リーダーや指導者の賜物を与えられます。なぜなら、イエス様がこの教会のかしらだからです。もし、リーダーや指導者の賜物を与えられていると自他共に認めるならば、それこそへりくだって、その使命を果たすべきであります。しかし、基本は「ちゃんと自分がイエス様の弟子として生きているか。」「神さまと人々との関係はどうか。」「自分に与えられた使命を全うしているか。」であります。

3.どのように

 ゴール、目標地点が定まったならば、そこまでどのように行くかです。たとえば私が、大阪まで行くとします。東京から大阪まで、いろんな方法があります。新幹線で行くか、あるいは飛行機もあります。高速バスもあります。4人くらいですと車が安価です。他に、バイク、自転車、フェリーもないわけではありません。クリスチャンとしてこのようになりたい。こうなるべきだという青写真が描かれたとします。そこまで行くためにはどうしたら良いでしょうか?エペソ人への手紙4章には、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師がいます。もちろん、そういう人たちは大切です。問題は、その教え方であります。キリスト教会の場合、メッセージとかセミナーで、口頭で教えることがメインになっています。神学校へ行っても、教室で一定のカリキュラムをこなすというのが一般的です。でも、お医者さんになるとしたらどうでしょうか?教室で一定のカリキュラムをこなすだけで良いでしょうか?やっぱり、臨床というか実践が必要です。先生のもとについて何年間かインターンをして、それから一人前になります。一人前になるまで、一人か二人殺すかもしれません。分かりません。では、クリスチャンは、どうしたら、キリストの弟子となってそれぞれ与えられた使命を果たすことができるのでしょうか?ただ、一方的に教えを聞くだけでは不十分です。しかし、教会は2000年も教えを中心にして人を育てています。私もその一人かもしれません。では、イエス様はどうなされたのでしょうか?イエス様が12弟子を育てた方法が最も、すばらしいのではないかと思います。イエス様はご自分が天にお帰りになるまで、弟子たちに能力付与をちゃんとなされました。マルコ3:13-15「さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」ここに素晴らしい、イエス様の能力付与の模範があります。イエス様は弟子たちを身近に置きました。そして、福音の宣べ伝え方、悪霊の追い出し方を実際に指導したでしょう。そのとき、技術や知識だけではなく、霊的な権威も与えられました。イエス様は3年半、弟子たちを訓練しました。

 イエス様の教え方は神学校とは全く違います。神学校の場合は3年か4年、知識を詰め込むだけ詰め込み、卒業したらポーンと現場に出されます。伝道師になり、数年後は牧師になるでしょう。その牧師は教会の人たちをどのように教え、どのように訓練するでしょうか?そうです。自分が神学校で教えられたものを小出しにするのです。神学校のテキストの焼き直しです。もちろん、良いものもあるでしょう。しかし、自分が現場で学んでいないので、教室スタイルのものしか提供できません。もし、自分がイエス様の弟子のように、現場で学んでいたら、その教え方も違うでしょう。スポーツはどのように学ぶでしょうか?サッカー、バスケットボール、野球、水泳、何でも良いです。教室で理論もある程度学ぶでしょう。でも、実際はグラウンドや体育館で体を動かしながら学ぶでしょう。料理やお花、陶芸、ピアノ、書道、なんでも良いですが、実技が絶対必要です。そのときに、教えてくれる先生、あるいはコーチが必要です。先生、あるいはコーチはお手本を示しながら、「こうしなさい、ああしなさい」と易しいものから、難しいものへと伝授していくのではないでしょうか?しかし、キリスト教会は西洋的な教室スタイルがメインです。その背後には、「人は教えたら変わる」という知性偏重があるからです。残念ですが、知的な勉強だけでは人は変わりません。また、成長もしません。私はこのことを牧師になって、23年たって、やっと分かりはじめたところです。もう、ダメなんです。私の勉強の仕方は、メッセージとセミナーと本です。大変申し訳ありませんが、私のセルリーダーの任命の仕方は丸投げ方式でした。「リーダーもみなさんが推薦して選んでください。」「セル集会は、何をやっても結構です。」そうやって、特別にリーダー養成をするわけでもなく、また、個別にフォローアップするわけでもありません。本当に丸投げ方式でした。申しあげますが、私が一番不足していたことは、この能力付与でした。人々を養育し、力を与え、やがて自立して、与えられた使命を果たすことができる。このことをほとんどやっていませんでした。

 数年前からやっと、コーチングというものを学びました。メッセージや教えも、もちろん大切です。でも、能力付与をするためには絶対、コーチングが必要です。コーチングをすると、その人が今どの地点にいるか分かります。癒されていない部分もあります。でも、癒しがゴールではありません。健康になってから、神さまが与えてくださったゴールに到達することです。まず、信仰のDNAにあるように、クリスチャンとして霊的に成長すべきでしょう。言い換えると、子どもから若者、そして父に成長していくということです。しかし、神さまがその人に与えられた賜物と使命というものはそれぞれ違います。コーチングはその人と一緒に、神さまがその人に与えた賜物と使命を確認する必要があります。ある人たちは、「はっきり私の賜物と使命はこれです」と分かっています。しかし、ある人たちは「何ですかね?」と漠然としています。神さまに聞けば、必ず、答えてくれます。そのゴールを発見したら、こんどは、その人がゴールにたどりつけるように、コーチすれば良いのです。主役はその人自身であり、コーチはあくまでも脇役です。その人がイエス様と一緒に歩んでいけば良いのです。使徒パウロはテモテの霊的な父であり、またコーチでした。パウロは私に倣いなさいと何度も言いました。ある人は「私の教えることは学んでも良いが、行ないは学ばないように」と言います。しかし、それは間違った教師であり、間違ったコーチです。パウロはテモテを見出し、テモテを訓練し、テモテに能力を付与しました。それだけではありません。パウロはテモテに他の人を訓練し、他の人に能力を付与するように命じています。Ⅱテモテ2:2「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」もし、このように能力付与を継続していくならば、再生産されて、教会が進んでいくのではないでしょうか?自分がイエス様の弟子になる。これもすばらしいゴールです。でも、それだけで終ってはいけません。自分が新しいイエス様の弟子を作り、その弟子が次の弟子を作る。そのような弟子の再生産がなされるべきです。私たちは死ぬまで、天国に行くまでやるべきことがあります。それは弟子の再生産です。

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