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2010年11月28日 (日)

過去から未来へ   ローマ12:1-2

 カウンセリングは西洋では病院と同じような市民権があります。日本では免許がいらないので、オカルト系も含めていろんなものが出てきました。少し前まで、キリスト教会はカウンセリングを拒絶していました。何故なら、この世のカウンセリングは神さま抜きのものが多いからです。しかし、キリスト教会は霊的な問題はよく扱ってきましたが、感情とか思考という心の面をおろそかにしてきたところがあります。人はイエス様を信じて新しく生まれ変わります。そして、みことばと聖霊によってきよめられるでしょう。しかし、心のある部分が相変わらず手つかずという場合があります。ですから、最近はキリスト教会においてキリスト教的なカウンセリングが数多く導入されるようになりました。一方、コーチングはビジネスや様々な訓練の場でも用いられるようになりました。時間に限りはありますが、きょうは「過去から未来へ」と題して、カウンセリングとコーチングについて学びたいと思います

1.カウンセリング

 何故、カウンセリングが必要なのでしょうか?カウンセリングが一番、効果を発揮する分野があります。それは「関係の癒し」です。まず、自分自身との関係があります。自分はだれか?自分とは何なのか?ニューキングジェームスの箴言23:7にはこう書いてあります。For as he thinks in his heart.「なぜなら、彼は、心の中で考えるとおりの人間であるからだ」という意味になります。「その人の考えを全部合計したものがその人自身である」という訳もあります。つまり、「その人の考えがゆがんでいるなら、その人の人格や生活もゆがむ」ということです。多くの人は自分を低く見積もっています。セルフイメージが低いわけです。もし、そうであるなら、自分の生活もそうなるということです。なぜなら、人は自分で考えるとおりに生きているからです。第二番目の分野は家族関係です。両親、伴侶、子どもとの関係です。独身のときはそうでなくても、結婚してから問題がばっと湧き出ることがあります。それは多くの場合、自分の両親との関係が未解決なままだからです。何故、子どもの虐待があるのでしょう?多くの場合、自分も虐待されて育ったからです。第三番目の分野は社会的な関係です。学校、職場、教会、地域社会…私たちは多くの人たちと会っています。この世では合う人と合わない人がいます。そして、ある人たちは途中から学校や会社に行けなくなります。今は、うつ病、パニック障害、人格障害が多い時代です。「仕事自体はあまり苦ではないけど、人との関係が難しい。」こういう人が多いのではないでしょうか?人間は関係の生き物です。猫とか犬は食べて寝られれば幸福です。しかし、人間は人間関係が良くなければ幸せになれません。人に認められ、愛され、尊敬される。そのように人間関係がうまく行けば、幸せなのではないでしょうか?そういう訳で、関係を癒し、関係を修復するためには、カウンセリングが有効だということです。

世の中にも、キリスト教界にもいろんなカウンセリングがありますが、ざっくり全体像を見ていきたいと思います。第一に、心が癒されるために必要なのは「気付き」であります。自分の心がどういう状態なのか、自分では分からない人がほとんどではないでしょうか。しかし、カウンセラーの助けを借りると、「何故、怒るのか」「何故、落ち込むのか」、自分のパターンを知ることができます。そして、その原因を遡ると、幼少期の問題が未解決であることが多いのです。原体験というものがあり、それが何度も、何度も繰り返していることに気付きます。多くの人たちは、今の生活や感情を変えようと努力します。「怒ってはいけない優しくなろう」「落ち込まないで積極的に生きよう」と努力します。しかし、ほとんど長続きしません。また、同じことを繰り返していまいます。何故でしょう?それは、心の深いところが癒されていないからです。「気付き」で重要なのは、今起こっている問題から、その根っこを探り出すことです。怒りとか自己中心、うつ、いろんな実がなっているかもしれません。実を取るのではなく、根っこをさぐっていくことが重要です。その根っこというのが、幼少期の父や母との関係、衝撃的な出来事、トラウマ体験があることが分かります。そこが膿んでいるために、今の生活に影響を与えていると考えるべきです。

 第二は「癒し」です。根っこの部分に遡るとき、幼少時代の何かエピソードがあります。父からこういう扱いを受けた。母からこう言われた。自分のきょうだいが自分にこういうことをした。ある人からこんなことをされた。多くの人たちは、そういう辛い出来事に蓋をして、まるでなかったことのように生きています。それも、自分が生き延びるための手段であり、知恵なのかもしれません。でも、現在の自分に影響を及ぼしているならば向き合う必要があります。エペソ5章には「実を結ばない暗やみのわざを、明るみに出しなさい」とあります。結構、ショックかもしれません。なぜなら、もう一度、辛い体験をしなければならないからです。でも、その痛みは手術の痛みであり、回復のためのものです。すばらしいことに、イエス様があなたの過去に遡って、子どものあなたと出会ってくださいます。一緒にお祈りしながら、「どうですか?そこにイエス様はいないでしょうか?イエス様を捜してください」と言います。すると突然「イエス様がおられました。イエス様は私にこう言われました」など、いろんなことが起こります。李光雨先生がおっしゃるには「心の叫びの完了」であります。幼いあなたは「○○してくれ!」「本当はこうなんだこうしてもらいたかったんだ!」と叫んでいるというのです。その叫びをイエス様にぶつけて、イエス様から完了してもらう。イエス様が「分かっているよ、私がそうしてあげるよ」「残念だったね、私が弁償してあげるよ」「怖かったね、私が守ってあげるよ」と現れてくださるのです。イエス様は神さまですから、過去、現在、未来もありません。過去の事実は変えられないかもしれませんが、過去の感情や考え、トラウマを変えてくださいます。イエス様に励まされて、赦すべき人を赦すのです。とりかえしのつかないような悲しい出来事を神さまにゆだねるのです。きっと、イエス様があなたに弁償してくださいます。そこから、希望がわきあがってきます。

 第三は「新しい生活」です。聖書で言う「悔い改め」とは過去を悲しむことではありません。Cheng of mind.心の方向を変えるという意味があります。私たちは生活を変えるためには、まず考えを変える必要があります。ローマ122「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」とあります。ここで言う、こころとはマインド、思いとか考えという意味です。私たちは感情を変えることはできません。感情というのは車のメーターのように中立的なものです。車にはいくつかメーターがついています。速度、エンジンの回転、ガソリンの量、水温…いろいろあります。「やけに水温が上がっているなー。じゃ、メーターを下げよう」とやっても無駄です。ラジエーターの水がないためにエンジンが焼け付きを起こしているのです。メーターのせいではありません。しかし、多くの場合、私たちは感情をどうにかしようとします。お医者さんは「あなたが鬱的なのは、脳の分泌物が足りないのでしょう。これを飲んでください」と言うかもしれません。そういう場合もないわけではありません。でも、多くの場合、感情ではなく、考えが歪んでいるのです。考え方を変えるならば、感情が変わり、生活が変わります。あるときは、考えを変え、生活を変えると、やっと感情が変わる場合もあります。あなたはもう何十年も思考のパターンができてしまっています。つぶやいたり、不平を言うのが、性格の一部分になっているのかもしれません。そういう悪いものを十字架につけて、新しい命をいだだきましょう。自分のコアの部分が癒されると積極的な考えやみことばがどんどん入ってきます。そして、新しい考えで生活をしていくと、どんどん新しい性質が身についていきます。神さまはあなたに新しいライフ・スタイルで生きることを望んでいらっしゃいます。箴言1515「悩む者には毎日が不吉の日であるが、心に楽しみのある人には毎日が宴会である。箴言17:22 「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。」

2.コーチング

皆さんは、コーチということばをよく聞いたことがあると思います。バレーボールとか、野球、すべてのスポーツにはコーチがいます。しかし、コーチということばがどこから来たのかご存知でしょうか?元来、コーチとは馬車という意味です。馬車は、人を目的地まで運びます。それが、転じて、人を目標達成まで導く人をコーチというようになりました。馬車に比べて列車はどうでしょう?列車は大勢の人を駅から駅まで運ぶことができます。しかし、乗客は自分で駅まで行き列車に乗ります。そして、駅を降りたら自分の足で目的地に行くしかありません。一方、馬車(コーチ)はその人の家から、最終の目的地まで運んでくれます。つまり、コーチとは個人に集中し、その個人が発展していくことを目標にしています。では、カウンセリングとコーチングの違いとは何でしょう?一般的にカウンセリングは個人の問題を取り扱います。問題がなければ人はカウンセラーのもとに行きません。そして、カウンセリングは過去から現在までを取り扱います。どちらかと言うと過去の問題を探ることが多いかもしれません。一方、コーチングはどうでしょう?コーチングは過去のことも扱わないわけではありません。でも、どちらかと言うと現在から未来にかけての事柄を取り扱います。つまり、こういうことです。「あなたはどこへ行きたいのですか?ああ、そうですか。私がそこまで連れて行ってあげましょう」ということなのです。それがコーチ、コーチングです。でも、その人の目的地が間違っていたらどうでしょう?自分勝手で神さまのみこころとずれていたらどうしたら良いのでしょう?それでも、その人の言いなりになるのでしょうか?この世のコーチは営業のために、そうするかもしれません。でも、クリスチャンのコーチはそうではありません。ローマ12:2「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」そうです。何が神のみこころなのか?何が良いことで神さまに受け入れられるのか?それを一緒に見出すのです。ある場合は、目的地を修正しなければならないときもあるでしょう。神さまがその人に計画している、目的地にお連れする、これがクリスチャンのコーチです。この世のコーチングは、その人自身の中に答えがあると思っています。しかし、私たちの場合は神さまが答えを持っていると信じます。また、この世のコーチングは、その人自身に無限の可能性があると思っています。しかし、私たちは神さまがその力を与えると信じています。

 前半ではカウンセリングについての概要を学びました。カウンセリングの場合は心の傷を癒し、考え方を修正するということに集中しました。簡単に言うとマイナスからプラスマイナスゼロ地点までです。私たちは、ゼロ地点で満足するわけにはいきません。もっと上のプラスの時点まで行くべきです。カウンセリングとか癒しをばかりやっていますと、後ろ向きになり、行くべき方向がわからなくなります。その点、コーチングは将来のこと、未来のことに焦点を合わせます。でも、みなさん、私たちの人生というのは過去、現在、未来と連続した時間の流れの中に生きていることを忘れてはいけません。ある人たちは過去の忌まわしい出来事を全部忘れて、未来にだけ生きようとしています。ときどき、ある人たちは「何もかもリセットして、新しくやり直す」と言います。お気持ちは分かりますが、私たちは機械ではありません。過去のことを全部忘れて、新しく生きることなど不可能です。神さまは私たちの過去の失敗、過去の傷を益に変えてくださるお方です。あなたの不幸な歴史は無駄ではなかったのです。神さまはそれらを逆手にとって、今後、神さまのご栄光のために用いてくださるのです。ローマ8:28「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」あなたの失敗や傷は無駄ではないのです。なぜなら、神さまはすべてのことを働かせて益としてくださるからです。神さまはあなたがイエス様を信じていないとき、あの親から生まれ、あのような環境の中で育ったあなたの人生を益に変えてくださるのです。ということは、あなたの資源は、親から受け継いだ生来のもの、あなたが努力して得たもの、そして神さまが新たに与える賜物と3つの分野から得ることができるのです。

 では、将来に向かって最も大切なテーマとは何でしょうか?李光雨先生はこのように言われます。新しいライフ・ステージに入っていくために、新しいエネルギーが必要です。これまでは恨みとか、怒りとか、悲しみとかがエネルギーになってきました。ライフ・スタイル・チェンジを通して、ライフ・スタイルに変えていく、その新しいエネルギーは、賜物と召命に気付くことです。神から与えられた賜物、新しいエネルギーである賜物に気づくことです。それがどうしても次のライフ・ステージに上っていくために必要です。そして、最終的には「これが自分のミッションなんだ」ということを再確認することです。ちょっと横文字が多くて、途中から理解できなかったかもしれません。簡単に言うと、自分は何をするように召されているのか賜物と召命に気付くことです。そして、それが神さまから与えられた使命になっていくということです。私は小学校のとき切手を集めていました。小学校5年生の頃、オリンピックの記念切手が発売されました。遅刻覚悟で郵便局に並びました。記念シートの枚数が少なかったため、じゃんけんとなり、私が勝って、それを手にすることができました。あるとき、兄がそのオリンピックの記念シートを「俺によこせ」と言いました。私は「これは大事なものだからだめだ」と言いました。取り合いになって、兄がそのシートを手でぐちゃぐちゃにしました。私は「何をするんだ!」と大声で泣きました。実は、私たち兄弟がやりあっているところに、父が黙って座っていました。私たちが大声で喧嘩をしているのを見て、父はその切手を私たちから取り上げ、「こんなものがあるからだ」とか言って、蒔きストーブの中にくべてしまったのです。私はその時から、ぴったり記念切手を集めることをやめました。全部、どこかにやってしまいました。それが、私の大きな傷でした。家庭を治めるべき父がちゃんと治めない。また、兄が私のものを取ったので、私は不当な扱いを受けました。「治めるべき人が治めない」そして「不当な扱い」が私の傷でした。

 しかし、私が癒されて、解放されてからどうなったのでしょうか?私の趣味であった切手収集はどうなったのでしょうか?私は、コレクションらしいコレクションはしていませんでした。しかし、インドネシアのエディ・レオ師に出会ってから、先生のメッセージを一字一句書いて、パソコンに蓄えるようになったのです。丸屋先生、ベン・ウォン師、さまざまなセミナー、そして自分の説教、すばらしいコレクションになりました。私は「テープお越しなんて、時間の無駄だ。やめよう」と何度も思いました。でも、パソコンの前でパチパチやってしまいます。10年以上なるので、今ではものすごい量になりました。李光雨先生は私にこういうのです。「先生は、資料を集めて、必要な先生方にそれを提供するセンターのような賜物と召命がある」と言われました。そういえば、私の趣味はテキスト作りであす。そして、できたものを無料で先生方に差し上げることだったのです。中には、差し上げても「いらないよ」という先生もいます。それはそれで良いのです。求める人は与えられるけれど、求めない人は与えられないからです。10年前に「すずめの学校」というものをやりました。亀有付属神学校です。でも、名前が可愛すぎたと反省しています。これからはコーチングに力を入れて、後継者やリーダーたちを育てていきたいと思います。

 では、コーチングの概念で最も重要なこととは何でしょう?それは終わりから始めるということです。普通、私たちが将来のことを考える場合、今の時点からスタートします。そして、「いつか、こうなったら良いなー」と思ってがんばります。悪いことではありません。でも、本当は完成図である青写真を最初に描き、そこから逆算していくべきであります。つまり、終わりから始めるということです。この近くで修徳高校が新校舎を建築中です。白い防護壁の脇からチラッと見ることができます。「あ、今、杭打ちをしているなー」とわかります。その次に、生コン車とポンプ車が来ます。「あ、今、基礎のコンクリートかなー」と分かります。そのうち、1階、2階、3階と建物が高くなっていくでしょう。私たちは彼らが「この先はどうしようか」と考えながら少しずつ工事をしていると思います。しかし、そうではありません。彼らのもとには既に完成図があるのです。配管や配線図ばかりか、机やイス、黒板の位置まで決まっているのです。そのつど、そのつど考えているのではありません。青写真(完成図)があって、そこから逆算しているのです。つまり、終わりから始めているのです。ですから、今から10年後、あるいは20年後の青写真を描きましょう。青写真とはあなたが主にあって成し遂げたいミッション(使命)です。10年後、私の生活はこうなっていることを望む。10年後、教会はこうなっていることを望む。そういう青写真ができたなら、では、5年後はどこまで進んでいるべきだろうかが分かります。3年後はこのくらい、1年後はこのくらいだろう。すると、「1ヶ月ではこのくらい進んでいなければならない」と言うことが分かります。ある人たちはビジョンや夢を描きます。しかし、それでおしまいになっている人もいます。その次が問題です。はっきりとした青写真を描き、終わりから始めるのです。マルコ11:24「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」

 そのとき、コーチはコーチを受ける人に質問します。「この1ヶ月間、あなたの目標はどうでしたか?」「目標の助け(順風)になるものは何ですか?」「目標の妨げ(逆風)になっているものは何ですか?」「妨げを乗り越えるための資源(リーソース)はありますか?」「この先、1ヶ月間、何を達成したいですか?」時々、コーチはアドバイスや資源を与えることはできます。しかし、当人自身が「ああ、こうすれば良い」と気付かされることが多いのです。聖書にバルナバという人物がいました。彼は初代教会において「慰めの子」と呼ばれるほど、人をよく励ました人です。やがてバルナバは、サウロ、のちのパウロをコーチしました。パウロは最も用いられた使徒の一人です。でも、パウロの背後にはバルナバがいたのです。音楽においても、スポーツにおいても我流でやっていると必ず行き詰ります。信仰生活においても自分をカウンセリングしてくれる人、あるいは自分をコーチしてくれる人が必要なのではないでしょうか?

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2010年11月21日 (日)

牧会の働き       Ⅰペテロ5:1-4

 信仰のDNAシリーズ、11回目は、指導者(リーダー)の役割について4回に渡って学びたいと思います。本来、こういうテーマは皆さんには関係ないと思われるかもしれません。しかし、牧師だけが指導者ではありません。みなさんが、大中小の違いはあれども、何らかのリーダーです。教会において牧師だけがリーダーで他の人は何も考えないで従っていくならばカルトになります。もし、教会において責任が分担され、そして任せられていくなら、力といのちにあふれた教会が形成されるのではないでしょうか?きょうは、牧会についてお話しいたします。牧師は英語でパスターと言いますが、「羊飼い」から来ています。ローマ・カトリックは神父と言います、神父は神さまとの間に立って、執り成すようなイメージがあります。一方、プロテスタント教会は「牧師」と言います。牧師は羊を養い、正しい道へと導くというイメージがあります。

1.牧会の働き

牧会にはどんな働きがあるのでしょう?詩篇231-3「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」羊飼いは、羊に良い草や水を与えます。では、牧会において草と水にあたるものは何でしょう?それは、みことばの食物と聖霊の水と考えることができます。牧会者は聖書のみことばを解き明かし、霊的な食物としてみなさんに与えます。水とは、聖霊がくださる新鮮な命、喜び、希望です。それらをいただくことによって、たましいが生き返ることができるのです。牧師がメッセージを語る、これは大きなウェートを占めていると思います。だから、牧師はみことばを研究し、祈りながら、調理をしなければなりません。毎回、同じメニューだと人々は飽きてしまいます。ですから、ここを変え、あそこをちょっと変えて話すのです。でも、話しているテーマ、言いたいことはほとんど同じです。まず、自分自身が、聖霊様によって生きたみことばをいただき、そのエキスをみなさんに分かち合う必要があります。でも、一週間、一回の食事で間に合うはずがありません。それで、みなさんが聖書を読んで自分自身を養うように指導することも必要です。ディボーションとも呼ばれていますが、日々、みことばに親しむ。そして、聖霊様と共に歩む。どちらかと言うと、人々を牧師に結びつけるのではなく、みことばと聖霊に結びつける、これが重要です。パウロは使徒2032「私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです」と言いました。

でも、羊を養うだけが牧会ではありません。ビジョンを示し、神さまが示す場所へと導く必要があります。詩篇234「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」どうしても通過しなければならない死の陰の谷があります。パレスチナというところは、ヨーロッパやオーストラリアとは違って広大な牧草地がありません。荒地の中に、こちらに少し、あちらに少ししかないのです。だから牧者は羊がその草を食べ切る前に、次の牧草地を探さなくてはなりません。でも羊は近視眼的で保守的です。「ずっとここにいたい」と願います。しかし、まもなく、その場所は草がなくなります。新しいところへ行かなければなりません。でも、その途中に、死の陰の谷があります。そこを通過しなければ、新しい牧草にありつくことができません。「羊はイヤだ。ここが良い」と動こうとしません。そこで、牧者はむちと杖で、「向こうへ行こう!」と追い立てるのです。教会ほど保守的なところはありません。福音の本質は変わりません。何十年も、何百年も同じことをしています。しかし、音楽、用語、組織、礼拝形式は時代によってどんどん変えていくべきです。そうでないと、今、生きている人たちに福音を伝えることができないからです。また、教会はビジョンが必要です。今の世代だけではなく、子供の世代、孫の世代の教会はどうなのか?私がこの教会に残したいことは、聖書に土台する教会です。この世のものはすべて相対的になっています。ある教会はその影響を受けて、聖書のみことばを疑い、「キリスト以外にも救いがある」と言います。しかし、世の中や他の教会がどうであれ、私たちは絶対的なみことばの上に土台する教会を後代に残す必要があります。

また、ヨハネ10章にも羊飼いと羊のたとえが記されています。ヨハネ10:11-13「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。」ここには、2種類の牧者がいます。第一は良い牧者です。良い牧者は羊のために命を捨てます。命がけで羊を守るということです。第二は雇い人です。雇われ牧者は狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。雇い人とは、自分の生活のために、牧会をしているサラリーマン牧師かもしれません。1997年に香港が中国に返還されました。その前に、多くの牧師たちがカナダやアメリカ、オーストラリアに移民したそうです。それも大教会の有名な牧師たちだったそうです。残された教会員は果たして、どうなるのでしょうか?ベン・ウォン師は先輩達の姿を見て、とてもがっかりしたそうです。「神さまはアフガニスタンやカンボジアではなく、どうしてカナダやアメリカへ行けと言うのだろうか?」と不思議に思ったそうです。キリスト教国では、「他に何もできないので、牧師にでもなるか」という人がいるようです。生活のために牧師になるのです。とんでもありません。逆にクリスチャンの少ない日本ではどうでしょうか?「牧師になっても食べていけないので、牧師になんかならない」という人もいます。どちらも似ているような気がします。経済的な問題を信仰によってクリアーできるか、それが日本では試金石になっています。本当に神さまが召してくださるならば、フルタイムの牧師になることができるでしょう。しかし、みんながみんなフルタイムの牧師になる必要はありません。何か仕事を持ちながら、あるいは家庭の主婦をしながらも、魂を牧会することは可能だからです。問題は、牧会者の心があるかないかです。

私は牧師のコーチングをして不思議に思うことがあります。教会員がいないのに「私は牧師です」という人がいます。あるいは家族だけなのに教会の看板あげている先生もおられます。悪いとは申しません。でも、本当に牧師として召されたのであれば、信徒が集まるはずです。もし、集まっていないならば、どこかの教会に属して、信徒リーダーとして奉仕した方がよっぽど用いられるのではないかと思います。私がインドネシアに行ったとき、とっても驚きました。あるビジネスマンのセル集会に招かれました。その兄弟は60のセルグループを持っていると言っていました。1つのセルには10人以上が集っていますので、少なくとも600人以上のメンバーを牧会していることになります。日本だったら大教会になります。その人はフルタイムではなく、ビジネスマンとして働いておられるのです。もちろん、神さまの召命が第一ですが、賜物と実績が伴う必要があると思います。本当に神さまから召されたのであれば、実が現れるはずだからです。1つの教会に忠実に留まっていて、実が現れてから、「私はフルタイムの牧師になります」と言っても良いと思います。いや、その方が間違いないと思います。私は26歳のとき、牧師になりたいと志願しました。洗礼を受けて、まだ1年たっていませんでした。大川牧師は「志願兵」として私を受け入れてくれました。先生はまず「基礎科で学んで、その後、教会で奉仕をしなさい」と言われました。4、5年、教会で奉仕をした後、改めて神学校へ行きました。神学校へ行きながら、教会で奉仕をしていました。33歳で神学校を卒業し、この亀有教会に牧師として招かれました。計8年間は信徒として教会に仕えていたことになります。座間キリスト教会は日本でも最も大きな教会の1つでした。私は大きい教会を見て育ったので、「教会は成長して大きくなるのは当たり前だ」という信仰がありました。そういう意味では母教会にとても感謝しております。また、神学校卒業したばかりの、若造を招いてくれたこの亀有教会にも感謝しております。ですから、神さまの召命も大切ですが、インターン、見習いの期間を経てから、そういう道を歩むべきだと思います。

2.牧会の心構え

 Ⅰペテロ5:2-4「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。」ペテロは長老たちに「神の羊の群れを牧しなさい」と命じています。イエス様は大牧者です。そして、長老の中で牧師をしている人たちがいます。さらには、牧師の働きに召されている信徒リーダーもいるということです。私は「10年間に、50名の信徒リーダーが与えられるように」と祈っています。牧師一人だけが牧会するのではありません。神さまはチームで牧会するように願っておられると信じます。それでは、牧会する者としての資質とは、どのようなものでしょうか?ここには3つの大切な資質が記されています。

第一は「強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなす」ということです。日本では「お前は牧師になれ」とか「あなたはリーダーになりなさい」と強制されることがあるでしょうか?あまりないように思います。しかし、教団の権威で動いている教会は、任命制を取っています。自分にその気がなくても、「お前やれ!」と言われて、その教会の牧師になる場合もあるでしょう。その人は、仕方なくやっているわけです。仕方なく牧師をやっている人を見たことがあるでしょうか?あるいは、上からの命令で「伝道をしなさい。人々の世話をしなさい」と言われたことがあるでしょうか?その時は仕方なくやるかもしれませんが、おそらく長続きしないでしょう。それは雇い人の羊飼いです。カルト宗教は、上からの命令なので、仕方なくやっています。大切なのは「それは私の仕事です。私が進んでやりましょう」ということです。心の内側から、そういう情熱が湧いてくることが重要です。イエス様が群衆を見たときにどのように思われたでしょうか?マタイ9:36「群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた」とあります。「かわいそうに思う」とは原文では、「内臓」という意味であり、深いあわれみの心です。神さまからそういう思いが与えられなければ、他の人をお世話するなんて不可能なことです。魂を愛する愛は、神さまからくるものです。それがあると、「自分から進んでそれをなす」ことができるのです。私はかつて、そういう心が全くありませんでした。ルカの15章に、ありますが100匹のうち、1匹が迷っていなくなりました。その羊飼いは99匹を野原に残して、いなくなった羊を見つけるまで捜しに行きました。かつての私だったらどうでしょう?最初はちょっと捜します。しかし、見つかりません。心の中でどう思うでしょうか?「あいつは弱いくせに、わがままなんだよなー、勝手に離れて行ったんだからしょうがないか」でした。私は放任主義の家庭で育ったので、愛というものが全くありませんでした。しかし、自らが失われた羊であることに気付きました。その後、父の心が与えられました。それから徐々にですが、神さまの愛に促されて、「自分から進んでそれをなす」ようになったのです。

第二は「卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい」です。これは「純粋な動機をもってしなさい」ということです。使徒の働き8章に、金で神の賜物を手に入れようとしたシモンのことが記されています。彼は魔術師でしたが、さらに奇跡を行って、「自分は偉大な者だ」と思わせたかったのです。名誉とかお金のために伝道者や牧師になる人がいるのでしょうか? 20年くらい前、アメリカのテレビ伝道者が相次いでスキャンダルで倒れた時がありました。今でも、癒しを受けるために数万人も集まる集会があります。「タッチ」などとやると、多くの人が倒れます。確かにものすごい癒しが起こります。そして、献金もささげられます。残念ながら、集まったお金の使い道が正しくないことがあるようです。有名になると、様々な誘惑が起こってきます。そのため、最後まで走り通す、finish wellの伝道者が少ないのです。だれにでも、「いつまでも鳴かず飛ばずではなく、どこかでブレィクしたい」という気持ちがあるのではないでしょうか?正直、私もそういう気持ちがあります。イエス様の時代、律法学者やパリサイ人たちは、人々から一目置かれることを求めていました。人々から「先生」と呼ばれ、上座に着くことを求めていました。イエス様は「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人」と言いました。イエス様は、人々を食い物にしている宗教家を本当に嫌われました。願わくば、私もそういう偽善者にならないで、常に純粋な気持ちで主に仕えたいと思います。一番の報いは、人々からではなく、天において、いただく神さまからの栄誉です。もし、地上で十分に報われたなら、天における報いはないでしょう。私たちは天におけるイエス様からの報いを得るために働きたいと思います。

第三は「その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい」と命じられています。どんな指導者にも言えることですが、人を支配できるということは大きな魅力です。ある人は、「そんな、大それたことを…」と言うかもしれません。しかし、お母さんが子どもを支配している場合があります。夫が妻を、妻が夫を支配している場合があります。エリヤハウスで教えられました。愛の反対は憎しみと答えるかもしれません。しかし、「愛の反対は支配、コントロールである」と言うことです。牧師も支配的な人がいます。「あなたは、ここが変わらなければならない」といつも人々に要求します。もし、その人が変わらなければ、御霊に剣によって切りつけることになります。そのためたくさんの人が傷つけられます。ピラミッド型の支配構造は、この世の支配構造です。イエス様は何とおっしゃったでしょうか?マタイ20:25,26「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。」イエス様は、この世のリーダーシップではなく、神の国のリーダーシップについて教えてくださいました。それは仕えるリーダーシップです。弟子のペテロは「他のだれよりも偉くなりたい」と思っていました。彼にはリーダーの賜物があったのかもしれません。しかし、十字架の前に逃げてしまいました。イエス様を3度も知らないとまで言いました。ペテロはすっかり砕かれて、肉の力ではなく、御霊による力を求めました。そして、初代教会の素晴らしいリーダーになりました。ペテロはこの手紙で、「支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい」と勧めました。まさしく、それはイエス様の生き方でした。イエス様がペテロをはじめ、弟子たちの足を洗ってあげました。そして、「あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」と模範を示してくれたのです。だから、リーダーは自ら模範を示しながら、人々を導く必要があります。

「人を支配したい、自分の思うとおりに動かしたい」。これは支配の霊です。私は、以前は、こういうことがさっぱり分かりませんでした。しかし、自分が癒されてから、とても敏感になりました。セミナーとかで、色んな教会に行くことがあります。教会に入った瞬間、「ここには支配の霊があるなー」とか「ここにはないなー」ということが良くわかります。支配の霊がある教会は、牧師が支配的な人なのです。そのため、教会の雰囲気がピリピリしています。勝手なことをしたら裁かれる。何でも報告しなければならない。何でも許可を得なければならない。それは完全に、支配の霊の教会です。反対に、御霊の自由にあふれた教会があります。それは善意の霊、喜びの霊にあふれています。みんな自主的に、喜んで奉仕しています。なぜでしょう?好きでやっているからです。その教会は、たとえ失敗しても、「失敗から学ぶ」という雰囲気があります。主任牧師は、ある意味では、その教会の雰囲気を決めてしまいます。主任牧師が神経質だと、教会も神経質になります。私の場合はどちらかと言うと楽観的なので、教会も楽観的になっているでしょうか?香港のベン・ウォン師は「教会は雰囲気が大切である」と言いました。どんな雰囲気が良いでしょうか?だれが書いたか忘れましたが『愛、受け入れ、赦し』という本がありました。当教会に、「愛、受け入れ、赦し」という雰囲気があったら本当に良いなーと思います。雰囲気とはどこから出てくるのでしょうか?リーダーだけではなく、一人ひとりの魂の内側から出てくるものです。その人と接すると、ことばでは言い表せない、何かが出てきます。ある場合は敵意であったり、怒りであったり、疑いであったりします。教会は聖霊の宮であると聖書に書いてあります。私たち個人個人が聖霊の宮であり、聖霊が住んでおられます。また教会全体で集まっているところにも聖霊がおられます。心構え、動機、心の傷はすぐに表には出てきません。それらはまるで木の根っこのような存在です。私たちはどうしても目に見える木とか木の実の方に注意を向けてしまいます。それは表に出てくる行動とか考えということができるでしょう。確かに、それらも大切ですが、もっと大切なのは内部に潜む、心構え、動機、心の傷です。では、どうしたら心構え、動機、心の傷がきよめられていくのでしょうか?そこには2つの方法があります。第一は聖霊様(イエス様)を心の中に歓迎することです。そして、罪や傷があるならば神さまに差し出して癒してもらうことです。第二は兄弟姉妹でそれらを分かち合うことです。ヤコブ書5章には「あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです」と書いてあります。これは自分がリーダーであるとかないとか全く関係ありません。いや、むしろリーダーであるからこそ、罪を言い表して、自ら模範を示す必要があります。自分が癒され、解放されるならば、周りがその影響を受けるからです。

イエス様が教会の大牧者です。その下に中くらいの牧者、小さな群の牧者がいます。もし、あなたが何年か前にイエス様を信じた人であるなら、これからの人を指導する立場にあります。そういう意味では、皆さん全員が牧会の心、イエス様の心を持つ必要があります。大牧者が現れる時、そういう人たちが「しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。」

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2010年11月14日 (日)

世の終わりの教会     マルコ13:5-23

 伝統的な教会は罪の世からできるだけ離れて、福音宣教のみに力を注いできました。しかし、これまで3回のメッセージで教会がこの世においてどのような使命があるのかお話ししました。私たちはむしろ、この世に出て行って、地の塩、世の光として御国の価値観を浸透すべきです。また、私たち自身が教会であり、私たちが行くところで教会を行うということです。そして、ビジネス、政治、芸術いろんな分野に、神さまの良きものを運ぶ存在として教会があることも学びました。このように、私たち教会は、この世に御国が来るように励むべきであります。そして、この4回目はこれまでのメッセージと矛盾しているようなことも話さなければなりません。まことに残念ですが、私たちがいくら良くしようと思っても、この世は、まもなく終わりを告げます。ですから、世の終わりの時代に住む者として、私たちはどのように生きるべきなのでしょうか?「世の終わりの教会」と題して、メッセージさせていただきます。

1.惑わされないように   

世の終わりにどのようなことが起こるのでしょうか?イエス様はマタイ、マルコ、ルカの福音書で世の終わりの前兆について語っておられます。まず、戦争や民族間の争いがあります。それから、方々で大地震やききんが起こります。しかし、それらは産みの苦しみの初めに過ぎません。さらにクリスチャンに対する迫害が起こります。それから「かつてなかったような苦難」がやってきます。それは黙示録に記されている7年の患難であろうと思います。そのときは、エルサレムに神殿が再建され、「荒らす憎むべきもの」が、その真中に立って、世界を支配するでしょう。紀元70年に起こったローマによる迫害に似たようなことが、患難の時代にも起こるということです。3つの福音書で共通して言われていることは「惑わされないように」であります。マルコ135「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそそれだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」とあります。また、マルコ1322「にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民を惑わそうとして、しるしや不思議なことをして見せます。」世の終わりには、にせ宗教、にせキリスト、にせ預言者が現われ、多くの人を惑わすということです。少し前に「ノストラダムスの大予言」というのがありました。人類は1999年で滅びることになっていました。それで終ったかなーと思いきや、「2012年人類滅亡説」が出てきました。これはマヤ文明の神話からきたもので、かなりオカルト的です。確かに、終末は近づいていますが、教会も同調して、そういう説を唱えてはいけません。ものみの塔のエホバの証人は、何度も主の再臨と世の終わりを預言しましたが、ことごとくはずれてしまいました。もう、完全な異端です。世の終わりの恐れをあおって、布教活動しています。

また、にせキリストとは、自分が救世主であるという意味です。韓国の文鮮明がまさしく、そうであり、多くの日本人が惑わされています。統一教会は、聖書を使ってはいますが、全くひどい解釈です。日本人は聖書の知識がないので、「聖書にありますよ」と言われると、ころっと騙されてしまいます。海外では「自分はキリストだ」と名乗る人が1000人以上もいるということです。日本でも、それに近い人たちがいます。様々な新興宗教の教祖がそうです。「幸福の科学」の大川なんとかという人も困った人です。大和カルバリーの大川牧師も有名ですが、本の数ではあちらの方がまさっています。新興宗教はお金儲けの手段になりやすいようです。でも、今、最も脅威になっているのが「ニュー・エージ」です。これは一口に言えませんが、汎神論的な宗教です。東洋のヨガや禅とも似ていますが、チャネリング(降霊術)や超能力を行います。「啓発セミナー」というのが会社で開かれていますが、「自分が神のようになって、能力を現す」ことが目的です。音楽や漫画、映画、さまざまなところに、ニュー・エージの思想が現れています。背後にスポンサーがいるのかもしれません。私たちクリスチャンは神の子でありますが、神さまと一体になるわけではありません。神さまの人格と私たちの人格は別々です。しかし、ニュー・エージの場合はこうです。自分が無になって、宇宙の大霊と一体化されることにより、自分が神の一部になるのです。私たちは無になってはいけません。イエス様のご人格と親密な関係になるのです。

教会は聖書の真理を保つところであります。最近、セルチャーチとか、ハウスチャーチとか小さなグループが強調されがちです。悪いことではありません。でも、エペソ4章にはキリストのからだが健康に成長するために仕える五職の人たちがいることを明記しています。エペソ411「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。」とあります。私はいろんなセミナーに出かけて、学ぶタイプの牧師です。30年前は韓国のリバイバル聖会に良く行きました。弟子訓練や教会成長、癒しの集会、カウンセリングなど、あっちこっち行きました。今も行っています。この間は若木先生が強く勧めるので『二つの翼』というのにも行きました。最近、よく言われることは、健康な教会を形成するためにはバランスが重要だということです。ある教会は預言を強調しすぎて、信仰的におかしくなっています。また、ある教会は昔のリバイバル集会を今も続けています。いくら、お金をかけても教会につながりません。私は癒しも預言も信じます。でも、教会はバランスがとれていなければなりません。これは人間のからだにも言えることです。人間のからだが健康に成長するためには、バランスのとれた食物と適度な運動です。教会の真理の土台は聖書です。終わりの時代、「聖書が何と言っているのか?」ここにいつも立ち返らなければなりません。昔、Back to the future.という映画がありましたが、大切なのはBack to the Bible.であります。ある人たちは「聖書は古い、時代遅れだ」と言いますが、そうではありません。マルチン・ルターは「聖書は古いものでもなければ新しいものでもない。聖書は永遠のものである」と言いました。キリスト教会の中でも聖書をまともに信じない教会があります。マルコ1331「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」終わりの時代だからこそ、私たちは永遠に変わらないみことばに信頼を置くべきなのです。ハレルヤ!

2.迫害の中で証をする 

世の終わりに必ず迫害がやってきます。しかし、それは福音を証するチャンスになるということです。マルコ139-10「だが、あなたがたは、気をつけていなさい。人々は、あなたがたを議会に引き渡し、また、あなたがたは会堂でむち打たれ、また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされます。それは彼らに対してあかしをするためです。こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。」福音宣教と証と、どこが違うのでしょうか?福音宣教とは福音を語ることに力点が置かれます。こういう会衆の前で、文書や放送などいろんな手段があります。牧師や伝道者は福音を論理的に分かり易く語ることができます。でも、多くの人たちは福音に対して耳や心を閉ざしています。そういう人たちに「宣教大会や教会に行こう」と誘ってもなかなか来ません。証というのは、私たちが自分の体験を通して、福音を語るということです。しかも、対象の人たちは少人数であなたと何らかの関係のある人たちです。昔はどこかの大きなホールや競技場で福音を語りました。路傍で福音を語っても人が救われる時代でした。しかし、今は関係の時代です。人間関係を築いて、そして福音を証することが、効果が上がっています。語り方はフォーマルではなく、とてもぶっちゃけた話し方です。説教というよりも、「俺はこうだった。私はこうだった」と自分の体験を分かち合うことが主流です。どうでしょう?自分が健康になったという自然食品とかサプリメントを私たちは隣人に「これ良いよー」と、勧めたくなるでしょう。私たちは同じノリで、イエス様を証することが可能なのです。

しかし、ここで言われていることは、強制された証です。「お前は、なんでキリストを信じるのか?話してみろ!」という感じです。今の時代は、信教の自由がまだ保障されています。しかし、終わりの時代は、信仰を持っているがゆえに捕らえられたり、死に渡されたりするということがあるということです。ローマの時代は、キリスト教に対するものすごい迫害がありました。使徒の働きを見ると、パウロは何度も捕らえられ、そのたびごとに証をしています。大勢の裁判の席の場合もあれば、少人数の場合もありました。使徒の働き16章では、牢獄の中で看守に証をしました。使徒の働き27章では荒れ狂う船の上で証をしました。パウロの場合は福音宣教と証の境目がはっきりしません。それでも、機会あるごとに自分の体験談と共に福音を語りました。私たちに「そんなことができるだろうか?」という心配があります。でも、イエス様は何とおっしゃっているでしょうか?マルコ13 11「彼らに捕らえられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。」ハレルヤ!聖霊が、私たちに何を言うべきか教えてくれるというのです。みなさん、説教とか公の証は準備しておくべきです。なぜなら、限られた時間内で話さなければならないからです。原稿用紙に書いて、横道にそれないように準備すべきです。でも、突然の証は原稿なしで、やらなければなりません。「わぁー、頭、真っ白だ」という時もあるでしょう。そのときに「主よ、何をどのように話すべきでしょうか?」と一寸、聞くのです。その後は、主にゆだねます。そうすると、口を開いたとたん、何かが出てくるということです。相手もびっくりするかもしれせんが、当の本人もびっくりします。「私は、なんとすばらしいことを語っているんだろう?」と驚きます。まさに、聖霊様の超自然的な働きです。

第二次世界大戦のときも、キリスト教会が迫害を受けました。ホーリネス系の牧師はそのままストレートに語り、牢獄の中で殉教した先生もいます。それも、1つの道ですが、聖霊様が与える知恵で弁明することもできます。銀座教会の牧師で、神学博士の渡辺善太という先生がおられました。先生は官憲に呼ばれ「キリストが神だとしたら、天皇はだれか?」と聞いたそうです。「人間だ」と答えるならば、即、牢獄行きです。渡辺先生は一寸、目をつぶってからこう答えたそうです。「うんー、畏れ多くてお答えできません」と。すごいんじゃないでしょうか?否定もしていないし、肯定もしていません。これこそ、聖霊様がくださる知恵ではないかと思います。イエス様は「蛇のようにさとく、鳩のように素直でありなさい」と言われました。使徒パウロはあるときは、「自分は純粋なユダヤ人だ」と言いました。しかし、あるときは「自分はローマ市民権を持っている」と言いました。どちらも嘘ではありません。語るべき対象によって使い分けているのです。私たちは年下に語る口調と、年上に語る口調を変えるべきです。学校の先生はどうしても「上から目線で語ります」。私もそうなるときがあって、注意されます。セールスマンで成功する人というのはどちらかと言うと自信満々の人ではありません。誠実で熱心だけど、どこか弱そう。「買ってあげようかな」と、同情したくなる。こっちは「あのセールスマンを助けてあげた」と思っています。ガンガン強気な人よりも、どこか弱そうな人の方が成績が良いようです。私たちは演技してはいけませんが、自分が罪人の頃のことを思えば、反抗的な人のことを思いやることができます。反抗的な人ほど、一度、信じたら信仰が強くなります。「何でも信じるよ」と言う人はかえって危ないですね。とにかく命を大事にしながら、迫害の中で証をするのです。しかし、命が取られる時が来たなら、それも感謝です。どうせ、殺されても、彼らは肉体しか殺せないのです。魂を殺せるのは神さまだけです。神さまを恐れていたなら、人は恐れる必要はありません。どうぞ、機会を逃さずに、逆に機会を捕らえて、福音を証する者となりましょう。

3.きよい生活をする 

マルコ1333「気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。」マタイ25章には「10人のおとめのたとえ」が書かれています。花婿が来るのが遅いので、かしこい乙女も愚かな乙女もみんな眠ったと書いてあります。末の時代の教会は、霊的に眠ってしまう教会が多くなるということです。世の中は悪くなり、教会は霊的に眠ってしまう。これはどういう意味でしょう?教会堂やキリスト教の組織はあります。しかし、命がないのです。そして、世俗主義に陥って塩気のない教会になっています。ヨハネ黙示録には7つの教会が記されています。いろんな解釈がありますが、ラオデキアの教会は世の終わりの教会を象徴しているとも言われています。ラオデキアの教会とはどんな教会でしょうか?熱くもなく、冷たくもない教会です。「自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もない」と言っています。しかし、実際は貧しくて、盲目で、裸の者であることを知りません。そして、イエス様を外に締め出している教会です。イエス様を信じていない教会があるのでしょうか?ヨーロッパの教会がまさしくそのような状態です。アメリカの教会も後を追っています。一番深刻な問題は、キリスト以外にも救いがあるとする多元主義的な教会です。「ヒンズー教も仏教も、イスラム教も同じ神さまを仰いでいる。現われ方、啓示の仕方が違うだけなのだ。私たちキリスト教だけが絶対と言ってはいけない。彼らにも救いがある。私たちは彼らと交わることが可能である。」カトリック教会やWCCに属しているエキュメニュカル教会がこのようなことを言います。とんでもありません。世の終わり、「背教の教会が起こる」と言われています。やがて、宗教が統一され、そういう教会が吸収されてしまうでしょう。ヨハネ146「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」使徒412「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」だから、私たちは霊的に目覚めていなければなりません。眠ってはいけないのです。

マタイ24章には「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります」と書いてあります。また、Ⅱテモテ31-4「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり…」とあります。新聞やテレビのニュースを見ると、ドラマなのか本当のことなのか区別がつかなくなりました。犯罪がエスカレートして、殺人事件が毎日のように報道されています。「この間もバラバラ死体があったけど、これとあれとは違うのか?」ということがよくあります。「オレオレ詐欺」もありますが、最近は高齢者の年金をそのままいただいているというケースもあります。日本は長寿国と言われていますが、本当はどうなんでしょうか?不遜な者、神をけがす者、情け知らずの者…私たちはこういう人々を避けて、聖い生活をしなければなりません。もちろん、彼らに対しても証をしたり、伝道しなければなりません。でも、彼らは福音を足で踏みにじり、向き直って私たちを引き裂こうとするでしょう。世の終わり、聖い者たちはますます聖くなり、汚れた者たちはますます汚れの中に落ちていくでしょう。クリスチャンでもそうです。世の終わりは迫害と誘惑がものすごく強くなります。ですから、命がけで信じるか、それとも信仰なんか捨ててしまうか、2つに1つになるのです。イエス様を信じて、神さまと結ばれ命にあふれた正しい生活をするか?それとも、自分の腹を神として、この世の罪と快楽の中でどっぷりと浸かって暮らすか?2つに1つです。一方は永遠の御国ですが、他方は永遠の滅びです。一方は報いと栄光の喜びですが、他方は裁きと暗やみと恥です。コロサイ32,4「あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。…私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。」アーメン。

何故、私たちは霊的に目をさまし、きよい生活を心がけるべきなのでしょうか?それは、イエス様が来られたとき、信仰のある者は天に引き上げられるからです。マタイ2437-41「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。」これは携挙と呼ばれている箇所です。世の終わり、イエス様が来られるとき、携挙が起こります。でも、それがいつなのか?神学的に物議をかもすテーマです。ある人は大患難の前だと言うし、ある人は大患難の途中、またある人は大患難の終わりであると言います。私は奥山実先生の説がすばらしいと思います。クリスチャンであっても携挙を信じている人と信じていない人がいます。つまり、イエス様が来られたとき、自分は引き上げられる携挙を信じている人が、携挙される。しかし、「そんなものはない」と信じていない人はそのまま残される。残されたクリスチャンも信仰はあります。でも、大患難を通して、ある場合は、殉教して救いを全うするということです。ですから、世の終わり、一番最初に起こるイベントは「携挙」だと言われています。世の終わり、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしています。悪いことではありません。でも、人々は世の終わり、イエス様が来られると言うことを信じて準備していません。洗礼を受けてクリスチャンになった人も、この世の中でべったりと暮らしているかもしれません。もう、教会の礼拝にもしばらく行っていないかもしれません。そういう人は霊的に眠っているので、取り残されてしまうでしょう。私たちはヨハネ黙示録の最後にあるように、「主よ、来てください!」と待ち望む教会になりたいと思います。そのためには、私たちは一緒に集まり、共に励まし合う必要があります。ヘブル1024,25「また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」

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2010年11月 7日 (日)

御国をもたらす教会    エペソ1:20-23

 福音派の教会はもっぱら魂の救いでした。「十字架の贖いを信じて、一人でも天国に入ることができるように」と励んでいます。では、この世との関係はどうなるのでしょうか?「この世はまもなく終る。イエス様が再び、来られたら御国が完成する。それまでは、信仰を守り、ただひたすら耐えるしかない。この世はますます悪くなるだろう。私たちはこの世の悪に染まってはいけない。できるだけ、世とは関わらないようにしなさい」。その結果どうなるでしょう?ビジネスや政治、あるいは芸術に対しては消極的になります。神学校に入って牧師になるか、あるいは仕事をしながら日曜学校の教師をしたり、もっぱら教会内の奉仕に励むようになります。こういう考えが福音派の教会にあるのではないでしょうか?もちろん、この世の終わりは来るでしょう。しかし、私たち教会はこの世に対して、何をすべきなのか共に学びたいと思います。

1.神さまの願い

エペソ人への手紙には、教会に対する神様の偉大な計画が記されています。エペソ122,23「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」このところで分かることは、キリストがすべてのもののかしらであるということです。イエス様は十字架で死なれてから復活し、天に昇り、父なる神さまの右に座っておられます。座っているとはどういう意味でしょう?イエス様は王として、かしらとして君臨しておられるということです。それでは、キリストのからだとはどこでしょう?教会こそが、キリストのからだであり、神様のすばらしいものが満ち満ちておられるところです。では、神様は何をしたいと望んでいらっしゃるのでしょうか?教会を通して、ご自身が持っているすばらしいものを、この世のすべてのものに満たしたいと願っておられるのです。この容器が教会としたら、神様が持っておられるものが水です。容器がないと水を留めておくことができません。教会は神様のすばらしいものが満ちているところです。そして、神様は教会という器を用いて、この世界をご自身のすばらしいもので満たしたいと願っておられるのです。では、神さまが私たちに与えたいと願っておられるもっともすばらしいものとは何でしょう?2つあります。

第一は、キリストの和解によってもたらされた神様の永遠の命です。神様はご自身の命である、永遠の命を私たちに与えたいと願っておられます。神の命を教会という器を通して、この世にもたらすのです。表現を変えるならば、これが宣教です。魂の救いのための宣教は、教会が担っている最大の使命です。マタイ2819「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」この命令こそが、イエス様が私たち教会に与えた最大の使命です。しかし、この命令を良く見ると、「あらゆる国の人々」となっています。英語ではAll nationsであります。この意味はどうでしょう?それは個人の救いはもちろんですが、国レベルの救いを神さまは願っておられるということです。個人を弟子とすることはもちろんですが、国を、国民をキリストの弟子とする。「わぁー、なんと大きい考えなのでしょう?大風呂敷を広げないでください!」と言われるかもしれません。でも、日本の教会に、この考えはとても重要です。日本の教会は、「自分の教会さえ良ければ、自分の教団さえ良ければ」という狭い考えがあります。だから、「羊が取られたとか、羊を取るな」とか教会間のいざこざが絶えません。終わりの時代、教団教派の壁を乗り越えて、国を、国民をキリストの弟子とすることに目を向けなければなりません。だって、教会のかしらはイエス・キリストさまであり、同じ主につながっているからです。だから、私の教会はあなたの教会のもの。あなたの教会の成功は私の教会の成功になるのです。

神さまが私たちに与えたいと願っておられるもっともすばらしいものの二番目は何でしょう?神様はこの世のあらゆる分野に、ご自身のすばらしいもので満たしたいと願っておられるのです。この世のどのような分野でしょうか?政治の分野を、ご自身のすばらしいもので満たしたいと願っておられます。神様は政治に無関心なのでしょうか?神様は国々を作り、国の境を設けました。詩篇2228「主は、国々を統べ治めておられる」と書いてあります。日本の政治には希望がありません。資源もなく、借金大国で、犯罪もうなぎのぼりです。もし、まことの支配者である神様に願い求めたら、資源と知恵と正義が与えられるのではないでしょうか?また、神様はビジネスの世界もご自身のもので満たしたいと願っておられるのではないでしょうか?聖書にはビジネスで成功した人たちのことが記されています。また、どのように商売したら良いか、その知恵や方策についても記されています。また、神様は芸術の世界もご自身のもので満たしたいと願っておられます。神様は偉大な芸術家ではないでしょうか?この世界がモノクロでなく、カラーなのは神様が芸術家だからです。この宇宙、大自然、動植物は神さまが造られたので、そのように美しいのです。神様は教育の世界もご自身のもので満たしたいと願っておられます。真理や法則は神様が造られたものです。人間がそれをあとから、1つ1つ発見しているに過ぎません。神様なしの教育は高慢な魂と荒廃した社会をもたらします。知識のはじまりは、神様を恐れることだからです。また、神様は医療の世界もご自身のもとで満たしたいと願っておられます。病のもとは、罪です。人間が罪を犯し、神から離れたために、死と病がやって来たのです。現代は精神的な疾患者がものすごく増えていますが、キリストによる罪の赦しと調和が心にないからです。他に、神様は福祉の世界、スポーツの世界、テクノロジーの世界もご自身のもとで満たしたいと願っています。神様の願いは、キリストからだなる教会を通して、ご自身が持っておられるすばらしいもので満たしたいと願っておられるのです。

2.神さまの方策

今からちょうど2年前です。江古田の聖書キリスト教会でメンズセミナーがありました。3日間の集会が終って、講師のエディ・レオ師と一緒に焼肉を食べに行きました。尾山清仁先生ご家族、通訳の高澤さん、斯波先生らで打ち上げをしました。エディ先生は3日間話したのに、まだ話し足りない様子でした。焼肉がなくなってきた頃です。エディ師が、焼肉のテーブルを囲んで、このことを熱く語ってくれました。これは教会で語られたのではなく、焼肉屋で語られた内容です。御国は英語でkingdomと言いますが、2つのことばで成り立っています。king王様とdomain領域(領土)です。王様でもdomain領域(領土)を持っていなければ、真の王様ではありません。では、教会とは何でしょうか?教会はギリシャ語でエクレーシア、「召し出された人たち」という意味です。しかし、当時、エクレーシアと言えば別の意味がありました。イエス様の時代、王様がその地域を治めようとするとき、最初に何をしたでしょうか?王様は一般の人たちの中から、お医者さん、軍隊の隊長、哲学者を呼び出しました。このような人たちが、王さまと一緒に決断をし、王様と一緒に国を治めたのです。エクレーシアとは何でしょう?とても単純です。王様のための大臣がエクレーシアです。王様は、ある大臣には軍事の領域に仕えるように、ある大臣には経済の領域に仕えるように、ある大臣には教育の領域に仕えるように任命しました。王様が、そのように召した人たちを、ギリシャ語ではエクレーシアと言うのです。エクレーシアはやがて、教会ということばに置き換えられました。神の国の王である神様は、ご自分の国を治めるために、クリスチャンを召しておられるのです。しかし、今日の教会は、ただ礼拝するために集まります。6日間、働いてとても疲れたので、リフレッシュするために教会にやって来ます。そして、牧師のメッセージ聞いて、家に帰ります。しかし、自分が何者であるかが分かっていません。エクレーシアとして、機能していないのです。エクレーシアとは大臣(ミニスター)のことです。本当は、すべてのクリスチャンが、王なる祭司なのです。本来なら、すべてのクリスチャンが、自分自身の領域を見出さなければならないのです。

そのエクレーシアが一緒になったときに、どういう話し合いがなされるでしょうか?オバマ大統領が大臣(アメリカでは長官)たちを集めたとき何を話し合うでしょう?「サラリーを上げてください」というような話し合いはしません。でも、教会では祝福をもらうために、そのようなことをしています。「私を祝福してください」「あなたは祝福されましたか?」。それはエクレーシアではありません。オバマ大統領はエクレーシアと何を話し合うのでしょうか?第一に、その国の将来を話し合うのです。その国の問題を話し合うのです。第二に、それぞれに与えられたところの領域について話し合うでしょう。なぜなら、それぞれが大臣として任された領域があるからです。もし、教会をエクレーシアと考えるなら、集まったときの話題が変わります。日曜日に会うときは、祝福を受けるために集まりません。そこで、王様が何とおっしゃるのか聞くのです。私たちの町について語ります。そして、そのニーズを満たそうとします。どのようにして自分の領域をさがしたら良いのか教えます。自分自身の領域を見つけると、自分の領域に喜んで出て行きます。教会の組織がプログラムを運営するのではありません。人々の中にいる神様ご自身が導いてくださるのです。霊に燃え、狂った人たちがミニストリーをするとき、自分たちでお金を出してでも、その働きをしようとします。そして、様々な領域が、重なり合って、一緒になって届こうとします。これはとてもパワフルです。

最も力強い働きは、キエフにいるサンデー・アデラジャによってなされています。彼はナイジェリア人です。たった14年間で、3万人の教会になりました。彼は神の国主導の教会をやっています。とても力強くて、国中が変えられました。あるとき、大統領が「共産党の政権が、終った後、どうしてこの国が成長したのでしょう」と質問されました。大統領が答えました。「あなたは間違った人に尋ねています。私は何もしませんでした。どのようにして、このような急速な成長が遂げられたのか?あそこにいる黒人の牧師に聞いてください。あの教会が私たちの国を変えているのです。」その教会は建物がありません。毎週、スタジアムで礼拝を持っています。3万人の人たちが集まりますが、みな働き人です。実際、教会員はそこに集まりません。教会はそこいら中にあります。牢屋、市場、政府の中に、家々に、500万人がその教会につながっています。サンデーの教会では、さまざまなミニストリーがあります。ある一人の若者がいますが、彼はまだ26歳です。教会で父なる神の愛によって触れられて、彼は決断をしました。「どのようにしたら父親になれるか」ということを教えるためにセルグループを始めました。そして、その働きがどんどん広がって行ったので、そのような組織を開設しました。「父親インスティチュート」というのを作りました。働きが大きくなったので、あるとき、政府が彼を呼び出し「あなたが教えている内容を教えてくれませんか?」と言いました。彼は、国の大臣たちに言いました。「国の政治で、技術者を訓練し、医者を訓練し、弁護士を訓練してきました。しかし、どうして父になることを教えられないのですか?それを教えることができないから離婚があるのではないでしょうか?」彼らは驚いて「どうやったら解決できるのですか?」と聞きました。彼は「私が助けてあげます」と答えました。政府が彼の「インスティチュート」を使って、17万3000人の人たちを訓練しました。彼は26歳ですが、そのような働きがたくさん起きています。300の麻薬から立ち直る施設ができあがっています。だれがお金を払っているのでしょうか?サンデーの教会から払っているのではありません。ビジョンをもらった人たちが払っているのです。そして、すべてのミニストリーが地域教会につながっています。どのミニストリーも教会と離れてはいません。とてもパワフルです。これが、自分の領域を発見した人の生き方です。神さまはあなたを天国に行くためだけに召したのではありません。この地上に、御国が来るようにあなたを用いたいのです。ですから、あなたしかできないあなたの領域があるはずです。どうかそれを見つけてください。

3.御国をもたらす教会

御国の福音を聞いてから、あるビジネスマンがエディ先生のところに来ました。ヤコブという背の低い人です。「エディ先生、私は、説教はできません。でも、今、私のミニストリーが分かりました。私のミニストリーは教会の中にはありません。私のミニストリーはビジネスの中にあります。私はどのようにしたら良いビジネスマンになるか訓練できます」と言いました。インドネシアではハウス・メイドがいます。彼女たちはとても貧しくて、月給が30から50ドルくらいです。ヤコブは家で働いているメイドたちを訓練しました。400人の人たちを訓練しましたが、全員、成功したビジネスマンになりました。ある女性が忠実に学びました。ヤコブは「もし、あなたがこのまま忠実であり続けるなら、どうやって管理したら良いか教えてあげます」と言いました。彼女は忠実にそれをやったので、今度は営業を教えました。そして、マーケティングを教えました。さらに工場をどのように始めたら良いか教えました。現在、このお手伝いさんは、工場を3つ持っていて、300人の従業員がいます。彼女の会社の売上がどのくらいか?月930万円くらいの売上です。彼女はそのことでイエス様を信じました。彼女が自分の町に戻ったときに、イスラム教徒の人たちをみんな会社の従業員にしました。そして、彼らに同じことを教えました。訓練するとその人たちは耳を傾けるようになりました。彼女の町はあまり良い町でありませんでした。道があまりよくなかったので、自分のお金を出して、町の道路をみんな舗装しました。そして、古い橋もかけ直しました。彼女は市長よりも有名になりました。

 エディ・レオ先生が、ある教会で2年間に渡って、神の国とは何かを教会員に教えました。イエス様が私を治めてくださり、イエス様と共に治めることを教えました。その教会に、小学校も卒業していない、シンプルなサイモンという男性がいました。ある日、神様が「サイモン、あなたの領域は気が狂った人たちである」と告げました。サイモンが住んでいた地域は、気が狂った人たちがたくさん住んでいました。あるとき彼がその町を歩いていると、3人の気が狂った人たちがいました。その時、神様が「そのおかしい3人を自分の家に連れて行って、あなたと一緒に住むように」とささやきました。それで、彼は3人を自分の家に連れて来ました。髪の毛を切ってあげて、爪を切って、食べさせて、体を洗ってあげて、愛して、彼らのために断食して祈りました。なんと、2週間で、3人の人たちが全員、癒されました。「私は心理学者ではない。ただ、断食して祈っただけなのに!」彼自身驚きました。その後、牧師が彼のしたことを知って「サイモン、あなたのミニストリーは何とすばらしいんだ。このことを教会で証しなさい」と言いました。サイモンは日曜日、このことを分かち合いました。どんなことをしているか、ビデオでも見せた。そのプレゼンティションを見て、教会のみんなが涙しました。神様は教会全員に触れてくださいました。その日曜礼拝の後、あるお金持ちがサイモンのところへやって来て、「サイモン、気が狂った人たち全員を集めてきなさい。私がお金を出すから。その人がもし癒されたら、その人に仕事を与える」と言いました。彼は7000万円くらいのお金を出して、彼の工場で働くための宿舎を建てました。それから、医者と看護婦がやって来ました。「サイモン、そういう人たちを連れてきたら、私たちは医療や薬を無料で提供しましょう」。若い人たちがやって来て「私たちはあなたと一緒にこの仕事をしたい。この町の気の狂った人たちを集めて連れてきましょう」と言った。その町のすべての気の狂った人たち癒すというキャンペーンを行いました。何百という人たちを連れて来た。彼らのために断食して祈りました。1ヶ月以内に、95%の人たちが完全に癒されました。何も精神医学を使っていません。何の薬も使っていません。ただ、祈りと断食だけです。神様はすべての人たちを癒してくださいました。癒された後、彼らはもともとイスラム教徒でした。彼らに名前を聞きましたが、精神的な病のために自分の名前を忘れていました。元イスラム教徒たちが、「サイモンさん、名前をつけてくれる?」と言いました。サイモンは「簡単だよ。名前がほしいんだね。私が新しい名前をつけてあげるよ。マタイ、マルコ、ルカ、ジョン、全部、聖書の名前だよ。良いね。」そして、彼らに洗礼を授けました。そして、彼らはクリスチャンになりました。ハレルヤ!その町には一人も、気が狂った人はいません。そして、教会の人たちは、自分たちの働きの場をどんどん見つけていきました。「貧しい人たちが私の領域です」という人もいます。ある人は、「若い人たちが私の領域です」と言います。そこから、たくさんのミニストリーが生まれました。この教会は2年間で、200人から5000人になりました。たった2年間です。なぜなら、神の国主導の教会になったからです。

 私たちは主の祈りの中で「御国が来ますように」と祈ります。「御国が来ますように」と、願うことに、だれも反対する人はいないでしょう。だって、イエス様が祈りなさいと言ったんですから。でも、御国がどこに来るべきなのでしょうか?「この世が終わって、早く御国が来るように!」という意味でしょうか?それだと、この世からできるだけ離れて、この世と関わらない教会になります。そうではありません。「御国が来ますように」とは、第一に個人に神の救いが来るようにということです。イエス様を信じて、神さまと和解することによって御国が来ます。御国に住む人はイエス様を王様としてあがめ、イエス様に従順する人です。イエス様は神の国民である、あなたに必要を与え、守り、導いてくださいます。しかし、「御国が来ますように」という祈りは、この国に神のご支配が来るようにという意味でもあります。「この国のあらゆる分野に、神のご支配が来ることによって、神さまの良いもので満たされるように」という祈りです。私たちは王なる祭司として、この世に遣わされています。私たちがエクレーシアとして自分の領域を発見し、そのところに神さまの良いものを運ぶためです。その結果どうなるのでしょう?今まで、教会に縁のなかった人たちが、私たちを通して神さまと和解することができるのです。ビジネス、政治、医療、教育、芸術、スポーツ界…教会と縁のなかった人たちが、神さまの良いもので満たされ、神さまと和解することができるのです。私たちは「御国が来ますように」と祈りつつ、御国をあらゆる分野にもたらす者として用いられたいと思います。

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