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2010年10月31日 (日)

動く教会     マタイ18:20、Ⅰコリント3:16

「日曜日は教会へ」というキャッチ・フレーズを時々、見たり、聞いたりします。しかし、ここにはいくつかの問題が隠されています。第一は教会とは建物ではないということです。教会とはクリスチャンの集まりです。第二は「日曜日さえ教会に来れば良い。月曜日から土曜日まではどうでも良い」というふうに解釈できます。これはインドネシアのエディ・レオ師がよく話すことです。日曜日は教会で「ハレルヤ!この手はきよいです。ハレルヤ!」と賛美する。しかし、家に帰ってから妻をビシュ、ビシュと叩く。そして、次の日曜日、教会へ行って、「ハレルヤ!この手はきよいです。ハレルヤ!」と賛美する。しかし、家に帰って、妻をビシュ、ビシュ。バキ(蹴る)。そして、次の日曜日、教会へ行って、「ハレルヤ!この手はきよいです。ハレルヤ!」。そこに天使がやって来て、「ぺっ」とつばきをかける。きょうは、教会という私たちの概念をひっくり返すようなメッセージをさせていただきます。

1.教会とは何か?

 私たちは「日曜日は教会に行く」と言います。するとどうなるでしょうか?日曜日の朝は神様を礼拝します。しかし、日曜日の午後、教会から帰るとこの世のものを追い求めます。午前中は神さまを追い求めるかもしれません。しかし、日曜日の午後から月曜日、火曜日、水曜日、木曜日、金曜日、土曜日、この世のものを追い求めます。もし、「日曜日は教会に行く」ということを言うと、サンディ・クリスチャンを生み出してしまいます。しかし、日曜日、教会に行かない場合はどうでしょうか?「え?クリスチャンなのに教会に行かないの?なんてひどいクリスチャン、信仰があるの?」と言われてしまいます。クリスチャンとは日曜日、教会に行く人たちなのでしょうか?そもそもどこが問題なのでしょうか?「私たちは教会に行きます」。これが間違っているのです。この考えが、日曜日だけのクリスチャンを生み出しているのです。私たちは教会に行くことはできません。「え?何を言っているんですか?私たちはこうやって教会に来ているじゃないですか?」と思っているでしょう。でも、みなさんは、教会に行くことはできません。教会とは何でしょうか?教会とは、本来、人々のことを指していることばだからです。教会はギリシャ語でエクレーシアと言いますが、「神様によって召し出された人々」という意味です。ですから、教会は建物でもなければ、場所でも、施設や団体でもありません。教会とは何でしょう?あなたが教会なのです。隣の人に言ってください。「あなたが教会です。」。あなたが教会であったならば、教会に行くということは不可能です。人々が集まるところ、それが教会です。今、亀有教会という建物の中に、教会という人たちが集まっているのです。もし、私たちは水元公園に集まって礼拝をしているなら、そこが教会になります。アリオに集まれば、そこが教会になります。アリオのあの丸いテーブルに座っても大丈夫です。そこが教会になります。

 現代は、「教会」ということばが、聖書的な意味を表していないので、別な呼び方をしている教会がたくさん出ています。大和カルバリーチャペルは「チャペル」と言っています。新松戸クリスチャンセンターは「クリスチャンセンター」と呼んでいます。大阪には「Jハウス」と呼んでいる教会もあります。呼び名はどうでも良いのですが、教会とは建物ではなく、人々であるという考えが重要です。旧訳聖書では神殿に神様がおられました。しかし、イエス様は「私は死んで3日目に神殿を建てる」とおっしゃいました。それはどういう意味でしょう?Ⅰコリント3:16「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っていることを知らないのですか」と書かれています。つまり、私たちが神の宮、神殿なのです。アメリカに行くと、テンプル・オブ・ガッドという名前の教会があるそうです。「神の神殿」という名の教会であります。あるところでは、礼拝堂を聖堂、サンクチャリーと呼んだりしています。新約ではそういうことはありえません。なぜなら、私たち自身が神の神殿であり、サンクチャリーだからです。旧約の時代は、神様の前に近づくとき、いろいろな手順がありました。動物を携えて行って、身代わりにささげました。動物の血を流すことによって、罪がきよめられたのです。でも、自分が近づくのではなく、祭司や大祭司が間で奉仕をしていました。至聖所におられる神様に近づけるのは年に一回、大祭司がきよい動物の血を携えて近づくことができました。聖所と至聖所に厚い幕があって、ふだんは入ることが絶対、許されなかったのです。しかし、イエス・キリストが十字架で死なれたとき、至聖所の幕が上から裂けました。それは何を意味するかと言うと、私たちはイエス・キリストの血によって、神様の御前に近づくことができるということです。マルチン・ルターは「私たちは万人祭司であって、だれでも神様の前に近づくことができるんだ」と言いました。私たちが教会なのです。私たちが神殿なのです。そして、私たちが祭司なのです。

 教会は場所ではない。教会は建物ではない。教会は私たち自身であるというなら、どのような信仰生活を送るべきなのでしょうか?それは私たち自身が動く教会だということです。少し前に、「ハウルの動く城」と言う映画がありました。中に火が燃えていて、それが原動力になっていました。私たちの内側に聖霊の火が燃えているなら、動くんじゃないでしょうか?それはともかく、私たち自身が教会であると明確に考えるならどういうことが起こるでしょうか?教会は葛飾区亀有2-27-3という固定したところにはないということです。ここは建物、ここは私たちが集まる場所です。でも、本当の教会はどこにあるんでしょうか?本当の教会は、家庭や職場、学校、地域社会に点在しているということです。しかも、じっとしていないで動いているということです。あるときは満員電車に乗っているかもしれません。また、あるときはオフィスビルにいるかもしれません。また、あるときはショッピングモールにいるかもしれません。するとどういうことになるでしょうか?教会は日曜日ではないということです。教会は24時間であるということです。あなたは教会から離れられないし、教会をやめることもできません。つまり、教会は単なる名詞ではなく、教会は動詞になります。「教会をする」「教会をしている」ということになります。かたつむりをご覧になったことがあるでしょうか?みんなお家を持っています。みんな、お家を背負っています。私たちクリスチャンも教会というお家を背負って生きているのです。教会を捨てることはできません。もし、教会を捨てたらナメクジになって、「人々から気持ち悪い」と言われます。私たちクリスチャンは神殿を背負っている、かたつむりのような存在です。「教会とはかたつむりのようなものである。」これはものすごく画期的な神学、教会論であろうと思います。

2.教会をする

 ベン・ウォン師がコーチングのために2年間、香港から通ってくださいました。先生は何度も「教会は建物ではなく、私たち自身が教会である」と教えてくださいました。第一ポイントの内容の半分はベン・ウォン師が言ったことです。「私たち自身が教会であり、教会をやめることができない。私たちが行くところどこでも、そこが教会になりうる。教会は、家庭や職場、学校、地域社会に点在している。」これは、コペルニクス的な新しい考えではないでしょうか?でも、1つだけベン・ウォン師に文句があります。文句というと強い表現になりますので、訂正すべき点があります。それは教会とは個人ではなく、共同体だということです。では、最低、何人いればそこが教会になるのでしょうか?マタイ18章には「二人もしくは三人」と書いてあります。ですから、私はクリスチャンが二人もしくは三人、集まれば、そこは教会になりうると考えます。でも、これに対して、異論を唱える牧師や神学者はたくさんいます。でも、文句の言えない教会のプロトタイプ、教会の原型は何でしょうか?それはイエス様と12人の弟子たちです。イエス様の周りに、この世から呼び出された12人の弟子たちがいました。イエス様はルカ12:32で「小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです」とおっしゃいました。小さな群とは、イエス様と12弟子の集団です。ですから、教会の最小単位は二人もしくは三人、多くて12人だということです。今、外国ではG12とかG10というふうに、教会の中を小分けしている教会がいつくかあります。1つのセルが、12人もしくは、10人で構成されているということです。そのような核があれば、1万人、2万人の会衆が集まっても組織として耐えられるということです。

 私たちは職場に一人しかクリスチャンがいない場合があります。でも、なんとかあと二人くらいクリスチャンを発掘したら良いですね。他のクリスチャンを探すか、新しくクリスチャンにするかです。そうしますと、お昼、一緒に食事をしたり、祈り合うことも可能になります。もう、そこが教会になります。私が招かれている区役所セルもそうです。固定メンバーは3人です。そこに求道者1名、クリスチャンが2名加わったりします。彼らは月2回、お昼、食事をしながら聖書を学んでいます。そして、3000名の区役所職員のために祈ります。そこも立派な教会ではないでしょうか?インドネシアでは、学生が喫茶店で集まって集会をします。たまに、そこで悪霊追い出しがなされる時もあるそうです。日本で悪霊追い出しは無理かもしれませんが、集会ならできます。福沢満雄先生は中学を卒業して、ニコンで働いていました。ニコンで働きながら夜学の高校へ通っていました。まもなく、上司の田中さんから、誘われて、聖書研究会に入りました。やがて、福沢青年はクリスチャンになりました。ある時、お昼の集会で、田中さんが「この会社からどうか伝道者が出ますように」と一生懸命にお祈りしました。でも、その当時、聖書研究会に常時、出席していたのは、田中さんと福沢青年の二人だけでした。「うぁー」と驚きました。なぜなら、長男である自分が牧師になったら、家が経済的に立ち行かなくなります。福沢青年は、家族の反対を押し切って、直接献身の道を歩むようになります。でも、先生の信仰の土台は会社の小さな聖書研究会だったのです。やろうと思えば、どこでも、教会はできます。たとえば、教会が特別伝道集会を開いたとします。95%がクリスチャンで、5%が未信者です。100人中、5人のために、特別講師を呼んで、多額の予算で行います。それだったら、未信者がいるところで集会を持ったら良いのではないでしょうか?名古屋の山下先生は、路上でライブをしています。そこで音楽をして礼拝をしていると、他の未信者の若者が集まってきます。教会で伝道集会を開いても、未信者を集めるのが難しい。でも、未信者がいるところで集会を持つなら、なんとすばらしいでしょう。KGC亀有ゴルペルクワイヤーも時々、アリオで賛美します。すごい未信者の数です。普通はチラシを取らないのですが、あのようなところだと、みんなもらいます。教会という建物から外へ出て、教会を行う。そうしたら大勢の未信者と会えます。すばらしい発想の転換ではないでしょうか?

私たちは「教会堂という建物があるところが教会である」という固定観念があります。そうすると、どうしても人を集めることしか考えなくなります。いろんなプログラムをして、何とか人々を集めようとします。そういう教会もあります。あっても良いと思います。でも、動く教会、こちらから出向いて行く教会がもっと聖書的ではないでしょうか?旧訳聖書では、人々が礼拝するためにエルサレム神殿に行きました。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう」と人々が歌いました。「世界の諸民族は、イスラエルにやって来て、神の栄光を仰ぐべきである」と考えられていました。なぜなら、エルサレムの神殿に神様がおられるからです。でも、新約聖書はどうでしょうか?弟子たちが「何とすばらしい建物でしょう!」とエルサレムの神殿を指差して言いました。イエス様は「この神殿を壊してみなさい。私は3日で建てる」とおっしゃいました。紀元70年、ローマによってエルサレムの神殿は破壊されて、今はありません。でも、その前に、イエス様は素晴らしい神殿を建てておられたのです。それはご自分の体である、教会であります。イエス様の体が、神殿であり、また教会なのです。イエス様はマタイ28章で「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と命じられました。マルコ16章でも「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」と命じられました。つまり、旧訳聖書は「集まれ!」と言われていますが、新約聖書は「行きなさい」と命じられているのです。でも、どういう訳か、教会堂に集まって、礼拝をささげるので「来なさい」と言われています。西暦313年、コンスタンティヌス帝の後に旧訳聖書に戻されてしまったのです。しかし、本当の教会は世界に出て行く教会です。教会に人々を連れてくるのではなく、人々の所に教会を持っていくのが本当の教会です。

3.動く教会

 新約聖書の教会は人々が来るのを待っている教会ではありません。むしろ、人々のところへ行くのが教会であるとしたら、頭がパニックになるでしょうか?多くの場合は、教会を開拓する、新しい教会を建てるとき何をするでしょうか?「どこに集まるべきか?」と建物を探します。教団がお金をかけて始める場合は、教会という建物をまず建てます。そこに人々を集めようとします。どこの教会か名前を忘れましたが、ある村に立派な教会堂を建てました。しかし、牧師夫妻の他に、信徒が一人もいないのです。果たしてそれが教会でしょうか?「そのような教会開拓をしていいのだろうか?」と思います。でも、クリスチャンを長くやっていますと、教会堂という建物から離して物ごとを考えることができません。「では、日曜日の礼拝はどうなるんだ?」と文句がでるでしょう?私たちは日曜日、ここで集まって礼拝をささげる。これが教会のすべてであるかのように思っています。「日曜日、教会で礼拝を守る」これは悪いことではありません。とっても良いことです。でも、日曜日に礼拝を守ることが、クリスチャンのすべてではありません。問題なのは、教会堂という建物ですべてのことを行うことです。当教会も17年前にこのすばらしい会堂が建てられました。礼拝堂、多目的室、そして、冷暖房、音響設備、ピアノやオルガンもあります。設備が整っているということは、とてもすばらしいことです。でも、建物の中ですべてをしてしまう。そして、この建物に人々を集める。そのことに集中してしまうということです。どうでしょう?私たちの職場にあるいはご家庭に、「一生、教会に来ない」という人がいないでしょうか?その人たちをここに連れてくるのは99%不可能です。そういう人は永遠に救われないことになります。みなさんのように来れる人は本当に幸いです。でも、いろんな事情で来れない、来たくない人の方が圧倒的に多いのではないでしょうか?

 私の家内は毎年、岩手の実家に帰ります。この間も、8月に1週間ほど帰りました。日曜日が間にあると、弟さんの車で近くの教会へ行きます。でも、30分はゆうにかかります。下手したら、1時間かかるかもしれません。その場合、お母さんと弟さんが一緒に行けば良い方です。お父さんは絶対に行きません。お父さんはもう、80歳を超えています。いろんなところが悪くなり、病院にも通っています。特に、田舎に住んでいる人は、「教会に行け」と言っても、行かれません。家内と子どもたちが、毎年、通っているので、いつかは信じると思っています。でも、私たちも、勘違いしているところがあるのではないでしょうか?まず、教会に連れてこなければならない。「あの人は、教会に来ないから絶対だめ!」みたいなところはないでしょうか?しかし、あなたがた教会だったら、話は違います。また、あなたの家で教会をはじめたらもっと良いのではないでしょうか?もちろん、私たちのように立派な教会堂があり、このような礼拝をささげられるのはすばらしいことだと思います。礼拝に出ると神様を体験することができます。この時間は、私たちの信仰の基盤であり、信仰のよりどころと言っても良いでしょう。でも、何度も言いますが、これだけだと、新約聖書の教会ではありません。人々のところへ行く教会、動く教会こそが、新約聖書の教会です。

 では、具体的にどうしたら良いのでしょうか?何からはじめたら良いのでしょうか?まず、自分の家庭です。自分の住所が新小岩だったら、新小岩の住民が救われるように。「ここに教会ができるように、つまりここにクリスチャンの群ができるように」と祈るべきです。新小岩には亀有教会まで来れない人がいっぱいいるでしょう。あなたの家が教会になれば良いのです。あなたが○○株式会社に勤務しているとします。その会社の上司や同僚が、「教会に行きなさい」と行っても無理かもしれません。それよりも、あなたが教会の核になり、もう一人の人を導いて、会社に教会を作ったらどうでしょうか?やがて、お昼休みに、集会を持つことが可能になるでしょう。もしかしたら、近くの別の会社にもう一人のクリスチャンがいるかもしれません。その人と、ビジネス街で、教会を作ることも可能です。日本にVIPクラブというのがありますが、会社の人たちが、ビジネス街に集まっています。教会はベースキャンプです。ここには牧師もいるし、いろんな設備もあります。でも、小さなキャンプを方々に作ることも可能です。今、日本において注目されているのが、ハウスチャーチ、あるいはチャーチ・プランティングです。家で教会をはじめる。あるいはいろんなところに教会を作るという働きです。でも、私が見るところ、あまり成果をあげていないように思えます。こう言ったら怒られるかもしれません。なぜでしょう?ベースキャンプである教会がないからです。小さな教会はあります。でも、経済的なサポート、あるいは牧師の霊的なサポートがありません。だから、小さいままです。常磐牧師セルの仲間である大喜多先生が牧会している教会はとても成功しています。どんな方法でしょうか?それは「ストロベリー教会開拓方式」と言うようです。みなさんは、いちごがどのように増えるかご存知でしょうか?親の株から、何本か枝が出ます。枝の先に根があって、地面に着地します。しばらく、親とつながって栄養をいただきます。でも、ある時になると、株別れしたところに根がはえ、葉っぱも生えるので独立が可能になります。そうです。中央に教会があり、そこから小さな教会がいろんなところに派遣されるのです。そして、日曜日に戻って来て、また派遣される。それを繰り返しているうち、やがては、その株別れした教会で礼拝をはじめる。

 私たちは教会を動かない建物として考えるのではなく、動く教会として考えるべきです。会社でも、学校でも、保育園でも可能です。もちろん家庭でも可能です。公園でも、喫茶店でも、マックでも可能です。なぜなら、二人三人集まるなら、そこが教会だからです。どうぞ、人々が来るのを待つ教会ではなく、人々のところへこちらから行く教会になりたいと思います。

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2010年10月24日 (日)

聖なる世界と俗なる世界    ヨハネ17:14-21

 信仰のDNAも10番目になり、いよいよ佳境に入りました。これから4回に渡り、「この世における教会の役割」ということについてお話ししたいと思います。教会の歴史を通していろんなことを学ぶことができます。中世の教会は政治的な権力と結びついて腐敗しました。また、あるときは、教会は霊的なことばかりして、政治や経済は関知しないことがありました。近年、NCCの教会は、社会運動ばかり行ってきました。福音派の教会は、福音宣教ばかり行ってきました。果たして、私たちはどのようなバランスを取ったら良いのでしょうか?きょうは、聖書的な世界観を学びながら、教会にはどのような目的があるのか、ともに学びたいと思います。

1.理神論の台頭

聖書には神様がこの世界を造り、すべての被造物を支配していると書いてあります。中世まで、人々はそのことを信じていました。ところが、17世紀、啓蒙主義の影響を受けて、イギリスにおいて理神論なるものが生まれました。理神論は、神様がこの世界を創造したことは認めます。しかし、「神様は完全な機械的な法則によって動くように整えたのであり、今は世界の動きに干渉しない」と考えるようになりました。ちょうどその頃、ニュートンが宇宙の法則を発見しました。人々は、この世界は神様の手を離れ、機械のように秩序の中で作動していると考えたのです。18世紀、フランス革命以降、さらにこの考えが発展しました。様々な自然の法則が発見され、産業革命によって生活が豊かになり、人々は「私たちは成長した。神様なしでも何でもできる」と考えるようになりました。科学がますます大きくなり、神様がますます小さくなりました。挙句の果に、「神は死んだ」と言う神学まで出てきました。つまり、こういうことなのです。理神論は創造主なる神様と自然界を分けました。そして、自然界は神様から与えられた法則によって一人で動いているんだということです。その後、神様が忘れ去られ、自然界だけが残ったのです。「自然には力がある。自然には生命すら生み出すことができる」という進化論まで生まれてきました。「これまでは神によって自分たちは縛られてきた。神から独立したい。神に支配されたくない。神は死んだんだ。ああ、俺たちは、やっと自由になった。」18世紀、イギリスやフランスではこのような思想が支配的になったのです。

これに対して教会はどのように対処したでしょうか?教会は2つの対処をしました。1つは、自由主義的な教会、リベラルです。彼らは「神様はいなんだ。聖書も神話なんだ」と考えたのです。アメリカのハーバード大学には神学部があります。しかし、ある人たちは学位を取るために入るのです。「イエス様を信じています」と言わなくても、点数があれば卒業できます。そして、牧師にもなれます。神様を信じなくても牧師になれたのです。リベラル派のいろんな冗談があります。ある日、リベラル派の教師が校内を歩いていました。そして、若い人が聖書を読んでいました。突然、興奮して「おー、ハレルヤ!神は偉大なる神だ!」と叫びました。リベラル派の教師が「どうしたんだ」と聞きました。「ああ、先生、聖書を読んでいるのですが、神様はすばらしい。イスラエルの民が紅海に直面したとき、前に行くことができませんでした。モーセが杖を向けると、紅海の水が開かれました。そして、民はこの紅海を渡って行きました」。「おお、若者よ。あなたは理解していない。この紅海というのはとても浅いんだ。膝までしか水がなかった。だから、水が開かれたのではない。とても浅かったので、紅海を普通に歩いて渡ったのだ」。「先生、ありがとうございます。神のことばを教えていただいてありがとうございます。今、私は分かりました」。若者は「おー、ハレルヤ!神様はなんとすばらしいんだろう」。教師が「何を感動しているんだ」と言いました。「先生、神様はすばらしい。今、読んだところに、すべてのエジプト軍がわずか膝までしかないところで溺れ死んだと書いてあります」。どのようにして、聖書から神を取り除くことができるのでしょうか?何と愚かなことでしょう。しかし、それを信じる人がいます。この世のほとんどの人がそれを信じています。

もう1つの教会は、根本主義的な教会です。ここには福音派やペンテコステの教会も含まれます。彼らは聖なる世界と俗なる世界を分けたのです。神様は世俗の世界から離れて存在しておられる。神様は世俗の世界には全く興味がない。そして、神様はもっぱら聖なる世界にだけ興味があるという考えです。するとどういうことが起こるでしょうか?神様が、興味があるのは霊的なこと、道徳的なこと、宗教に関することです。神様は信仰、恵み、聖書、伝道、神学、ディボーション、弟子訓練に興味があります。特に、教会の中でやっていることに興味があります。礼拝、祈り、聖書の学び、賛美、奉仕…とってもすばらしい。そして、私たちは教会を出るとどうなるでしょうか?そこには俗なる世界があります。仕事、ビジネス、政治、教育、医療、マスメディア、芸術があります。聖なる神様は俗的な世界にはいらっしゃらない。この世は罪と悪に満ちている。月曜日から土曜日までは罪の中で生活している。そして、日曜日、「ハレルヤ!主を賛美します。世俗の汚れを取り除いてください。私たちを聖めてください」。そして、また俗なる世界に行きます。何のため働くのでしょう?お金をかせいで献金するためです。なんとか、やりくりして、教会の奉仕もしなければなりません。クリスチャンは聖と俗の2つの世界を行き来しているのです。しかし、これはおかしくないでしょうか?

ドイツは宗教改革が起こった国であります。しかし、ナチス・ドイツによって何百万人ものユダヤ人が殺されました。同じ国です。信じられるでしょうか?第二次世界大戦当初、ヒットラーはドイツ国民の圧倒的な支持を受けました。彼はあるとき、「教会は宗教に関することを行ない、政治には口を出さないように。俺たちも教会に口は出さない」と言いました。教会も「わかった」とナチス・ドイツと協定を交わしました。しかし、どうでしょう。ナチスはユダヤ人狩りを始めました。それは、神のことばに反することです。でも、教会は協定を交わしていたので、見て見ぬふりをしました。教会では「ユダヤ人はイエス・キリストを十字架につけたので、その報いを受けているのだ」と考えました。しかし、そのとき敢然と立ち上がったのが、ボン・ヘッファーという牧師でした。彼はヒットラーの暗殺に失敗して、処刑されました。しかし、彼はその前、「告白教会」を作り、ナチス・ドイツにはっきりと抵抗しました。そして、「私たちは、主イエス・キリストによる義認と聖化を必要としないような領域があるという誤った教えを退ける」と宣言しました。日本においては、戦時中、政府の力によってキリスト教会が1つにまとめられました。その名前が日本基督教団です。教団は天皇陛下を神と認め、神社参拝をし、戦争に勝利するために祈りました。ホーリネス系の牧師はそれに反対したために投獄されました。一番被害にあったのは、当時、日本に占領されていた朝鮮半島のキリスト教会です。日本基督教団が天皇陛下を神と認め、神社参拝をしたので、「お前らもそうしろ」と強制されました。しかし、彼らは「それはできない」と抵抗したために、教会が焼かれ、多くの牧師やクリスチャンが殉教しました。ここから反省すべきこと、学ぶべきこととは何でしょう?イエス・キリストはどの世界でも、主であるということです。「この世においても、政治の世界においても、イエスは主であるべきだ」ということです。イエス様は「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」と言われました。それはカイザルのものと神のものとを分けるのではなく、両方の責任を負っているということです。そして、カイザルも実は神の支配下にあるということです。

 

2.聖書的な世界観

 現代でも理神論の影響をどこかしこに受けています。たとえば、「教育とか政治に宗教を持ち込まないように」と言われています。「宗教は個人的なものであり、公のものではない」という考えが当たり前のように思われています。私は宗教という表現が良いとは思いませんので、神様と聖書に置き変えたいと思います。神様と聖書のない教育というものはどうなるのでしょうか?神様あるいは聖書のない政治や国家がどうなるのでしょうか?箴言に「幻(預言)のない民は滅びる」と書いてあります。日本はまさしく、そういう国ではないでしょうか。教育にこそ、神様と聖書がなければなりせん。政治にこそ神様と聖書がなければなりせん。今、アフリカがどんどん変えられて行っています。数十年前は、リバイバル運動が起こり、「みんながクリスチャンになれば世の中が変わる」と思われていました。ケニアでは87%がクリスチャンです。でも、腐敗は世界の第二番目だと言われています。大統領自ら汚職をしています。少し前になりますが、ルワンダでもリバイバルが起こり、クリスチャン人口が70%になりました。しかし、彼らは礼拝が終った後、敵対する部族を殺しに行きました。なんと、200万人の人たちが虐殺されました。彼らはキリストを信じて回心はしたかもしれませんが、「頭の中は古いまんま」だったのです。でも最近は考えや制度も聖書的にしなければならないとわかってきました。たとば、ウガンダなどでは国をあげて、聖書を土台とした教育、あるいは政治を行なおうとしています。まさしく、変革、トランスフォーメーションが起きています。

 理神論の影響を受けたキリスト教は、聖と俗を分けて考えます。伝道や聖書研究、教会の奉仕は聖いけど、ビジネスやマスコミ、芸術は俗的だという考え方がどこかにあります。たとえば、あなたが病気になったらどうするでしょうか?「神様に癒して下さい」と祈ります。でも、不安なので、病院に行って、薬も処方していただこうと思います。でも、矛盾していないでしょうか?教会では全能の神様を信じているのに、病気になったら神を信じていない人たちのお世話になります。どこかやましい気持ちになるのではないでしょうか?会社で働いていても、周りの人たちはほとんどノンクリスチャンです。利益追求を第一にしています。コンプライアンス遵守とか言いますが、神様を恐れていたら、そんなものは不要になります。会社においても神さまの御目を意識したならば、そういうことはしないのです。つまり、どういうことでしょうか?何が悪いのでしょうか?それは、聖なる世界と俗なる世界を分けて考えているからです。聖なる世界には神様がいるけれど、俗なる世界には神様はいないと考えているからです。みなさんも、そうですか?教会では神様の臨在を感じるけれど、会社に行ったら、そこに神様はいないのでしょうか?神様は遍在なるお方であり、どこにでもいらっしゃいます。神様にとっては、聖なる世界も俗なる世界もないのです。なぜなら、この世は神様によって造られ、今も神様によって保たれているからです。確かにこの世の人たちは神さまに逆らい、神様を認めていません。私たちはそういう世界に彼らと一緒に住んでいます。でも、私たちは信仰の目を開くなら、ビジネスの世界でも神様は働いてくださいます。音楽や芸術の世界でも、神様は働いてくださいます。もちろん、教育や医療の世界でも、神様は働いてくださいます。

 では、私たちのこの世に対する見方をどのようにすべきなのでしょうか?神様がこの世界を創造されました。そのときは「良かった。はなはだ良かった」と言われました。しかし、その後、人間が罪を犯したために、被造物全体が喪に服しました。本来、人間が自然界を支配すべきでしたが、自然界の方が人間に逆らい、牙をむいているような状態です。地球温暖化、地震や津波、さまざまなウィルスが人間を滅ぼそうとしています。世の終わり、人々の愛が冷え、犯罪率はうなぎのぼりです。でも、本来、この世界は神様が造られたのですから、いくらかでも神様の真理、神様の善、神様の愛が見えるのです。私たちはそこに目をとめ、神様の存在を拡大しなければなりません。拡大するは英語で、マグニファイ(虫眼鏡で拡大する)と言いますが、それは栄光をたたえるとか賛美するという意味になります。ピリピ4:8でパウロはこのように教えています。ピリピ48「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。」このみことばは、私がまだ20代後半の頃、クリスチャンのジャーナリスト、ネル・ケネディから学びました。かつて、私はホーリネスの神学校で学びました。そこでは、聖さがとても強調されます。「世的なもの、俗的なものはみんなダメ」と教えられました。できるだけ、世の中から離れ、聖い生活をする。そうなると、未信者との接点がなくなります。しかし、ネル・ケネディは「世の中にもすばらしものがあるのです。そこに目を留めるのです」と教えてくれました。映画や小説にも、完全ではありませんが、真理の断片が描かれています。医学や医療は、神様が与えた一般恩寵です。祈って薬を飲んだり、祈って手術を受ければ良いのです。

3.教会の使命

 イエス様の時代、3種類の人たちがいました。第一は、世の中と全く妥協した人たちです。ヒロデ党は、ローマの権力の下で甘い汁を吸っていました。サドカイ人たちは祭司でしたが、お金のために宗教を利用していました。この2つのグループはまったく俗的な人たちでした。第二は、世の中から離れていた人たちです。パリサイ人や律法学者は「自分たちは聖い」と言って、律法を守れない人たちとは交わりませんでした。また、エッセネ派は俗世界から離れるために、荒野に住んでいました。バプテスマのヨハネも同じような生活をしていました。この2つのグループは世の中と全く離れた生き方をしていました。第三は、イエス様とその弟子たちです。イエス様は町や村にも出かけました。取税人や罪人の中に入って、福音を宣べ伝え、病を癒しました。もちろん、人々を避けて、父なる神様と親しく交わるときも持たれました。イエス様は弟子たちになんとおっしゃられたでしょう。マタイ5:13 -15「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。」そうです。私たちは地の塩なのです。塩というのは2つの役目をします。第一に塩は腐敗を留める働きがあります。冷蔵庫がない時代は、魚や野菜を塩付けにして保存しました。私たちはこの世の腐敗を完全になくすことはできません。しかし、地の塩として少しでも腐敗を留める働きをするように神様から求められています。また、塩は料理に使われます。いっぱい入れると塩辛くてダメですが、少量、自らの姿を隠して溶け込むのです。そうすると、食材が持っている味を引き出すことができます。クリスチャンがいることによって、そこにいる人々の良さが引き出されるとしたら何と幸いでしょう。また、世界の光とは何でしょう。この世には神様から離れているために、嘘や偽り、無知が存在します。人々は真理から離れているために、不幸な生活をしています。光の子どもである私たちがそこに行くとき、神様が持っている真理が与えられます。また、私たちの良い行ないを見て、「神様はすばらしい」と言ってくれたら何と幸いでしょう。

 また、教会は世の中と比べてどうでしょうか?中世の頃までは、音楽や絵画、彫刻など、すべてが神様のために造られました。教会のものが最先端でした。しかし、ルネッサンスや啓蒙主義が入ってからは人間そのものを誇るようになりました。政治や科学、教育や医療においても神様から離れて成長・発展していきました。それで、どうなったでしょう?技術は向上したかもしれませんが、意味とか意義がなくなりました。なぜなら便利さとか大量消費だけを追求したからです。特に現代は家族や人間関係が壊れて、精神的な疾患を抱えている人が大勢います。やっぱり神様しか埋めることのできないものがあるのです。そこに私たちは癒しと解放、愛と平和をもたらすことができるのです。私たちにはそういうものがありませんが、神さまはもっていらっしゃいます。イエス様はご自分のからだである教会を用いて、この世に働きかけたいと願っておられるのです。今、医療でもホーリスティックな癒しが求められています。昔は病んでいる肉体の一部だけを見てきました。しかし、人間が病気になるのはさまざまな原因があるということがわかってきました。生活を変えたり、感情や考え方を変えることにより、健康を維持できることがわかってきました。つまり人間は単なる動物ではなく、霊的な生き物だということです。これはやっぱり聖書を土台とした人間理解が必要です。福祉においても、ヒューマニズムでは限界があります。身体に障害があろうと、年を取って何もできなくても、存在そのものに意味があるのです。なぜなら、神さまがその人を創造し、神様が生かしておられるからです。そして、イエス・キリストがその人を贖い、永遠の生命と御国を与えようとしておられます。そうすると、一人の生命の重さがとてもかけがえのないものになります。人間は猿から進化したものであり、死んだら無になるという考えでは教育も福祉も成り立ってはいきません。そういう意味で、私たちクリスチャンはものすごい存在であります。

この世はますます世俗化が進むでしょう。キリスト教主義の企業や学校も最初は純粋でも、この世の価値観が入り込みます。今や、全く力をなくしてしまったところがたくさんあります。また、教会ですらもこの世の罪が入り込み、リバイバルの火が消えてしまいます。アメリカや韓国の教会も、その傾向があります。そこには、「純粋の孤立か、もしくは妥協の埋没か」という緊張関係があります。この世が俗的であると離れていたのでは、この世は変わりません。かといって、この世に入り込むとこの世が私たちの中に入ってきます。イエス様はヨハネ17章でこのように言われました。ヨハネ17:16-18「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」私たちはたえず真理のみことばに留まっている必要があります。そして、父なる神様がイエス様を遣わしたように、イエス様が私たちをこの世に遣わしてくださるのです。なぜなら、世の人々が私たちと共におられるイエス様を信じることができるためです。私たちはこの世のものではなく、この世に派遣されている存在であることを忘れてはいけません。

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2010年10月17日 (日)

告白の生活      Ⅰヨハネ1:9、ヤコブ5:16

 クリスチャンの基本的生活の第4回目は罪の告白です。私たちが日常生活において、習慣としなければならないことは、罪の告白であります。しかし、このテーマほど暗くて、嫌なイメージを与えるものはありません。私もこのテーマは、できれば話したくはありません。でも、このことをないがしろにしているため、多くのクリスチャンが、あるいは牧師たちが敗北的な生き方をしています。決して信仰がないわけではありません。でも、日の当たらないところで、秘密を持って生活しています。なぜでしょう?それは罪を神さまの前に言い表していないからです。きょうは、2つのポイントで、神さまの前に言い表す罪と、互いに言い表さなければならない罪について学びたいと思います。どうぞ、シートベルトを締めて、お聞きください。

1.神の前での罪の告白  

Ⅰヨハネ19「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」これはクリスチャンに対するみことばです。何故なら、ヨハネ第一の手紙は、神の子とされた人たちに向けて書かれた手紙だからです。私たちはクリスチャンになるために、個々の罪を悔い改める必要はありませんでした。「私は神の前で罪人です。私の罪のために十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたイエス様を救い主として信じます。」これで、人は救われます。でも、クリスチャンは、2種類の罪を神さまの前に告白し、悔い改める必要があります。1つは、自分が縛られている過去の罪であります。過去に犯した罪のために良心に呵責があり、しっくりこない。そのため悪魔から訴えられている場合です。もう1つは、現在、犯した罪によって神さまとの交わりが絶たれている場合です。私たちはたとえ罪を犯しても、神の子の身分はなくしません。永遠の命はなくすことがありません。でも、なくすものは神さまとの親しい交わりです。神さまとの交わりを回復するために、私たちは犯した罪を告白し、罪から離れる必要があります。これを悔い改めと言います。イエス様を信じるときの悔い改めは一生で、一回で良いのです。でも、クリスチャンになって天国に行くまで、私たちは何度も何度も罪を犯すでしょう。だから、罪の悔い改めは一生涯続くのです。

Ⅰヨハネ19の「罪を言い表す」はギリシャ語でホモ・ロゲオーと言います。ホモとは「同じ」という意味です。ロゲオーは「言う」という意味です。つまり、ホモ・ロゲオーとは「同じことを言う」という意味です。つまり、神さまの前で、「これこれ、しかじかのことをしました」とそのままを申し上げることを「罪を言い表す」「告白する」というのです。「罪を具体的に言い表すことがそんなに大事なのですか?」大事なのです。そうすることによって、その罪がキリストの血によって赦され、またその悪からきよめられるからです。丸ごとではダメです。風呂敷から出して、1つ1つ並べる必要があります。神さまの前に1つ1つ差し出すのです。最初は言い訳がましいかもしれません。「だって、しょうがなかったんですよ」とか。でも、そのうち罪が示され、「ああ、主よ、お赦しください」と言えるでしょう。神さまは怒るのに遅く、恵みとまことに富んでおられます(詩篇86:15)。エペソ5書には、罪を告白することに対する、すばらしい約束が記されています。エペソ5:11-14「実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。なぜなら、彼らがひそかに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです。」これはどういう意味でしょう?私たちの罪を明るみ、つまり神さまの光の前に差し出すのです。すると、その罪が光によってきよめられるということです。梅雨のシーズンは、クローゼットの衣類にカビが生えることがあります。どうしたら良いでしょう?カビの生えた衣類を日干しにするのです。カビは紫外線によって消毒されます。あとで「パン、パン」と叩けば良いですね。私たちの罪も暗やみの中にあるときは、ものすごく勢力があって、手のほどこしようがないかもしれません。でも、聖霊の助けによって、光の中に差し出すのです。そうするとあれほど大きかった罪が、「シューン」と小さくなります。そうです。イエス様の血しおには力があるからです。イエス様の血しおはどんな罪をも赦すことができます。

私はクリスチャンになりたての頃、とても反抗的でした。礼拝に出ていて、メッセージの前半は耳に入ってきません。最後の10分間くらいのところで、心が柔らかくなり、メッセージが入ってきます。みなさんもそういう人はいないでしょうか?「主の祈り」の賛美で、ジーンと来るのはもったいないですね。私は育ちが悪くてというか、育てられ方が悪くて、「ごめんなさい」が言えませんでした。なぜなら、私は不当な扱いを小さなときから受けたので、「自分は悪くない!」と思ってきたからです。だから、ちっとやそっとでは「ごめんなさい」は言いません。しかし、教会で「恵み」ということばを始めて聞きました。また、その頃、教会では「さばき合わない」という運動がなされていました。「ああ、私はさばかれていない。ここは大丈夫だ」という安心感がありました。ある日曜日、放蕩息子のお父さんの物語を聞きました。お父さんは放蕩して帰ってきた息子をひとことも責めないで、赦してあげました。さらに靴を履かせ、着物を着せ、指輪もはめてあげました。なんという愛でしょう。私は、神さまは恐ろしい神さまではなくて、放蕩息子のお父さんのような方なのだということが分かりました。つまり、父なる神さまは初めから赦そうということをお決めになっているのです。私たちが罪を告白して、「ごめんなさい」と言うならば、赦してあげるというのではありません。キリストにあって、私たちを既に赦しておられるのです。私たちは、親や先生から「なんて強情なんだ。ちゃんと謝らなければ赦さないぞ。ごめんなさいと言いなさい」と、言われ続けてきました。あるときは、仕方なく、口を開いたかもしれません。でも、父なる神さまはそうではありません。御子イエス様が十字架で血を流し、すべての罪を贖ったので、赦しておられるのです。父なる神さまはあなたを、私を赦したいと願っておられるのです。私たちは神さまのすばらしい愛と恵みに出会うとき、罪を告白せずにはおれなくなるのです。そして、その後は、お風呂から上がったように、きれいさっぱりなるのです。ハレルヤ!私たちは神さまの愛の中にいると、罪を持ち続けるのがイヤになるのです。Ⅰヨハネ19「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」アーメン。

2.互いに罪を告白する

ある神学者が、「今日の教会で、最も従っていない神さまの命令は何か?」ということを調査しました。それは1つだけありました。今日の教会で最も従っていない聖書の箇所はヤコブ5:16です。ヤコブ516「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」聖書は「お互いに罪を告白し合いなさい」と言っています。これは命令であって、招きではありません。何故、今日の教会は、この聖句に従わないのでしょうか?それは「私は神さまに告白しているから、それで良い」と思っているからです。何故、今日、たくさんの病気が教会にはびこっているのでしょうか?情緒的な問題をかかえているクリスチャンがたくさんいます。何度も癒しの集会に行っても癒されない。人々はそこへ行って泣いて悔い改めるかもしれません。でも、家に帰ったらまた元に戻ってしまいます。なぜなら、その人は、まだ罪に縛られているからです。ヤコブ書には「互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです」と書いてあります。ある人は、この癒しというのは、肉体的な病気ではなく、精神的な病気の癒しであると言っています。なかなか癒されないので、たくさんの人がカウンセリングに行きます。丸屋先生のところは、予約しても3ヶ月か、4ヶ月待ちだそうです。本当に今は、カウンセリング・ブームです。でも、初代教会にはカウンセリングはほとんどありませんでした。なぜでしょう?彼らは集まったら、互いに罪を告白したからです。罪をお互いに告白してから祈ります。するとどうでしょう?「義人の祈りは働くと、大きな力があります。」アーメン。義人の祈りは働くと力があります。でも、どうして義人なのでしょうか?義人とはどういう人たちのことなのでしょうか?それはお互いに罪を告白した者たちのことです。だから、彼らの祈りには力があるのです。

では、どういう罪をお互いに告白するのでしょうか?第一のポイントでは、神さまに罪を告白するということを学びました。でも、ヤコブの手紙には「互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい」とあります。つまり、ある罪は神さまの前にだけ告白すれば良いのです。神さまとの関係で犯した罪であるならば、神さまに告白すれば良いですね。でも、ある罪はお互いに告白する必要があります。では、どういう罪についてなのでしょうか?私たちは2つの罪をお互いに告白する必要があります。1つは、共同体における罪であります。つまり、だれかを傷つけたり、だれかに悪いことをした場合です。そういう時は、互いに罪を告白する必要があります。マタイ533-34「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」このみことばを守っているでしょうか。ある男性は、奥さんと喧嘩をしました。家族のだれを批判して傷つけました。その後、日曜礼拝に来て、手を上げて「ハレルヤ!」と賛美します。しかし、マタイ5章には何と書いてあるでしょう。「供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい」とあります。「礼拝よりも、その人と仲直りすることが大事ですよ」と言っています。しかし、特に日本人は罪を告白しません。父親は権威を持たなければならないので、息子には罪を告白しません。こういう状態で、どうして回復できるでしょうか?他に共同体の罪とは何でしょう?それは教会の中で、お互いを裁いたり、傷つけることです。放っておくと、教会が分裂や分派が起こります。また、姦淫は共同体において、最も大きな罪です。個人の問題ではありません。共同体を汚してしまいます。ですから、他の人や共同体に対して犯した罪は、互いに告白しなければなりません。そして、被害者は「あなたを赦します」と言う必要があります。日本人は「いいよ、いいよ。気にしていないから」とごまかします。でも、心の中では赦していないのです。赦すことは、忘れることではありません。自分の意思で「赦します」と言うならば、時間が経つと忘れるのです。

第二に、お互いに告白すべき罪とは何でしょう?ここに「互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです」とあります。「赦されるためです」ではなく、「癒されるためです」と書かれています。ある罪はお互いに言い表さないと、癒されない罪があるということです。それは、繰り返しの罪、習慣的な罪です。もし、悪いとは思っていながらも、何度も何度も繰り返してしまう。それは癒されていない罪です。このような罪から解放されるためには、言い表さなければなりません。ある姉妹は怒りでとても悩んでいました。どうしても娘たちに怒ってしまう。一度怒り出すと、怒りがおさまらない。「こういう訳ですので、私のために祈ってください」と頼まれました。私はイエス・キリストの御名によって、怒りから解放されるために祈りました。もちろん、ある場合はカウンセリングが必要なときもあるかもしれません。幼い時に、父や母から不当な扱いを受けたのかもしれません。ある場合は、父や母を赦す祈りも必要です。でも、最後にイエス・キリストの御名によってその人が怒りから解放されるように祈ります。するとどんなことが起こるのでしょうか?これまでは自分一人で神さまの前に出て「ああ、主よ、どうか私が怒らないように助けてください」と祈りました。しかし、その後も怒ってしまいました。でも、他の人から祈ってもらうと、その祈りが楔のように働くのです。ふっと怒りそうになったとき、その祈りが歯止めになるのです。これは、ポルノとか性的な罪、盗癖、うそ、飲酒、拒食症にも有効です。なぜでしょう?私たちはロープで後ろ手に縛られた場合、自分でほどくことはできません。やっぱり、だれかからロープを切ってもらう必要があります。特に中毒性の罪は、お互いに言い表す必要があります。AAとか、リカバリーでは、週一回集まって、お互いに告白し合うのです。それによって、彼らはいろんな罪から守られているのです。

でも、みなさん、何でもかんでも、人に告白すれば良いというのでもありません。ごみ出しの日でないのに、勝手にごみを出したら、近所迷惑になります。ですから、知恵が必要です。では、どういう罪は人に言わなくて良いのでしょうか?それは神さまとの縦の罪です。他の人を直接、傷つけていない場合です。たとえば、だれかが私にこう言ったとします。「私は鈴木先生をこういうことで、とても誤解していました。先生はそういう人じゃなかったのですね、ごめんなさい」。私にはぜんぜん、身に覚えがありません。その人が勝手に思い込んでいたのです。でも、私がそういわれると、「え?そんな風に思っていたの!」と記憶に残ります。ですから、神さまとの縦の罪は、人には言わなくて良いのです。また、過去において多くの罪を犯したかもしれません。でも、今はそのことは繰り返していません。そのような罪については告白する必要はありません。ある男性は若いときプレイボーイでした。75人の婚約者がいました。かなりの人と肉体関係もありました。でも、その後、イエスさまを信じて新生しました。そして今は、そこから全く解放されています。その人がもう一人の新生したクリスチャンと結婚しました。わざわざ、その男性は「若いときプレイボーイで、75人の婚約者がいました。」と言う必要がありません。もし、言ったなら、その女性は傷つくでしょう。そして、「どうやって75人もの女性を作ったの?一人ひとり聞かせてくれない」と言うでしょう。そのため、新しい問題を作り出してしまうでしょう。既に葬りさられた罪は告白しなくて良いのです。それが相手の徳を高めないのであれば、告白しなくて良いのです。

しかし、今の今まで、その問題をずっと繰り返しているならば、その罪は告白しなければなりません。では、だれにどのようにして罪を告白するのでしょうか?もし、あなたが結婚しているならば、妻か夫に告白するのが最も良いでしょう。夫婦間で罪を言い表すのがベストです。しかし、ある場合は、相手が準備ができていないかもしれません。特に、新生していない場合はそうです。だから他のクリスチャンの友人に告白します。そういう罪の告白は同姓が良いでしょう。LTGという小さなグループを持っている教会があります。マタイ18章のように、2人もしくは3人の小さなグループを持っている。そこで、罪を告白したり、みことばを分かち合うのです。今はメールが流行っているので、携帯でも可能です。とにかく、一緒に祈ってくれる信仰の友を持つことが重要です。もし、いなかったなら牧師か牧師夫人がお祈りいたします。でも、多くの場合、牧師が罪を犯しても、告白する人がいないのです。アメリカの教会の調査によりますと、牧師の70%が親友と呼べる人を持っていない。牧師夫人の80%が教会のメンバーたちから疎外され、十分に感謝されていないと感じているそうです。アメリカでも、特に日本ではそうですが、牧師が性的な罪を犯したら、クビです。再起不能です。ですから、黙っているケースがとても多いのです。4,5年前、インドネシアに行ったことがあります。1万人くらいの集会のメインスピーカーの一人が、アメリカから来ていました。彼は教会員が5万人いるアメリカ最大の福音派の教会の牧師でした。素晴らしいメッセージを語ってくださいました。一緒に食事をしたとき、握手もしました。しかし、数ヶ月後、彼が同性愛者であることが発覚しました。「うぁー、握手したのに?」後で、エディ・レオ先生にあったとき、「先生、あのような人をメインスピーカーに呼んで、後から大変だったでしょう?」と言いました。すると、先生は、「問題ありません。インドネシアでは罪を告白することに慣れていますから、ちっとも驚きません」と言われました。

エディ・レオ先生はあとから、こういうメッセージを語ってくださいました。ルカ12章でイエス様はこのように言われました。「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。おおいかぶされているもので、現されないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。ですから、あなたがたが暗やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められます。」12章を見てわかりますが、パリサイ人たちは、外側の目につくことばかり大事にしていました。中味が本当に良くなることではなく、外側が良く見えることに気を使っていました。でも、イエス様は彼らに「あなたは白く塗られた墓である」と言われました。イエス様は偽善が大嫌いです。教会員も偽善的な人がいますが、牧師の方がもっと偽善になる傾向があります。「ああー、それをみんなに見せたくない」という罪があるかもしれません。隠れたところで罪を犯し続けています。もし、見せたくないならば、イエス様がそれを助けてくださいます。どのようにしてでしょうか?「おおいかぶされているもので、現されないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。ですから、あなたがたが暗やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められます。」明るみに出したくないなら、それでも良い。だが、イエス様はあなたを心底、愛しておられるので、それを明るみに出される。暗やみでやっていたことをみんなの前に現す。家の中で隠れてやっていたことを公にする。さきほどのアメリカの牧師は、自分で明るみに出さなかったので、神さまがそれを手伝ってくださいました。ですから、2つの選択肢があります。自分から明るみに出す方法。もう1つは、イエス様によって明るみに出してもらう方法です。自分で告白する場合は、被害が最小限に済まされます。でも、イエス様が手伝ってくれると大変なことになります。私たちは人の顔を恐れて、罪を言い表すことをなかなかしません。しかし、聖書は何と言っているでしょうか?ルカ124,5「そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。」どうぞ、人よりも神さまを恐れましょう。でも、その神さまはキリストにあって、私をあなたを豊かに赦してくださるお方です。

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2010年10月10日 (日)

感謝の生活  エペソ5:20、コロサイ3:17、Ⅰテサ5:18

 クリスチャンの基本的生活の第3回目は感謝と賛美についてです。あとでもお話ししますが、マーリン・キャロザーズという先生は、感謝と賛美が主の前にいかにすばらしいものであるか何冊も本を書いています。先生だけではなく、それを実行した人たちが、困難な状況から救い出されたという証が数え切れないほど書いてあります。私たちはこのような公の集会だけではなく、日々の生活で、困難の真中で、感謝と賛美をする必要があります。公の集会はそのことを練習していると思えば良いでしょう。もっと重要なのは、この場を去って、家庭や職場に行ったときであります。この場所で感謝や賛美をささげることは簡単かもしれません。みんながやっていますから。でも、あなたが遣わされた場所で、現場で、感謝と賛美をするならば何と幸いでしょうか?きょうはそのことをチャレンジさせていただきます。

1.感謝は神の命令

 みなさんは、感謝することは神さまの命令であることをご存知でしたでしょうか?詩篇のいたるところには「主に感謝せよ」と記されています。また、新約聖書ではパウロの書簡に記されていますので、代表的なものを引用いたします。エペソ5:20「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」コロサイ317「あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい」。Ⅰテサロニケ518「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」当然といえば当然ですが、パウロが書いたものであるなら、共通しているはずです。しかし、なぜ、パウロは「すべてのことについて感謝しなさい」と命じているのでしょうか?私たちはこのみことばを見るとき、「そんなの不可能ですよ」と一蹴するのではないでしょうか?常識的には、良いことがあれば感謝し、悪いことがあれば怒ったり、悲しんだりするでしょう。しかし、「すべてのことについて」とは、良いことはもちろんですが、悪いことや困難に遭遇したときもです。「わぁ、そんなのできっこないよ!」と思ってしまいます。

 この聖句を良く見ると、ただ「感謝しなさい」とは命じられていません。「主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝する」あるいは「キリスト・イエスにあって神に感謝する」と書かれています。つまり、感謝とは神さまへの祈りであり、届け物であります。目の前に悪いことが起きたとき、「今、こういうことが起こりました。でも、主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝します」ということなのでしょうか?実はそうなのです。でも、実際のところ私たちはどうするでしょうか?たとえば、車をぶつけた時はどうするでしょうか?「わぁ、なんてこった。何でこんなことになったんだろう」と困惑します。その次に、「だれが悪い」とか、人のせいにします。人や物のせいにできなければ、最後に仕方なく自分のせいにします。「あぁ、どうやって直すんだ。損害はどのくらいだ。どこから出すんだ!」と後始末のことを考えます。困惑、怒り、心配、絶望はやって来ても、感謝はやってきません。どうでしょう?みなさんも、病気とか怪我をしたとき、すぐ感謝できますか?「果たして、治るだろうか?治療費はいくらだろう?ああ、痛い、ああ、苦しい」とかで、感謝がやってくるのはいつでしょう?治ってからでしょうか?問題や困難が起こったときに、感謝をするってとても不可能のように思えます。

 では、そういう時、感謝の代わりに自然と出てくるものは何でしょう?特に、失敗したとき、不運な事故、不当な扱いを受けたときはどうでしょう?感謝ではなく、つぶやき、不平不満、怒りが出てくるのではないでしょうか?生身の人間だったら当然です。この間、T兄が自転車に乗っていたとき、前のタクシーが突然ドアを開けました。T兄は飛ばされ、地面にたたきつけられました。タクシーの運転手に「テメー、コノヤロー、○○してやるぞー」と言ったそうです。道路に寝ながらです。これは条件反射的なものですので、罪と言ってはかわいそうです。でも、あとから、「そうじゃないよなー」と悔い改めたそうです。でも、すぐに感謝するというのは、よっぽどでないとできそうもありません。聖書には感謝だけではなく、「喜びなさい」とか「愛しなさい」という命令もあります。もし、それらが感情であったならば、すぐには不可能です。しかし、感謝や喜び、愛は感情ではなく、自分の意思で選択するものです。それだったら、どうにもならないような状況でも、「主イエスの御名によって感謝します」と言えるはずです。最初は3分くらいかかるかもしれません。でも、訓練によっては10秒、いや3秒くらいで「感謝します」と言えるかもしれません。香港のベン・ウォン師は、「私は今では、2秒で言えるようになりました」と証ししておられました。座間キリスト教会で、大川牧師が「ハレルヤ!主よ、感謝します!」というのをはやらせました。「はやらせた」というのは変ですが、そういうことをみんなでやりました。新会堂ができてまだ間もない時、ある事件が起こりました。一人の青年があることをするために、屋根裏を渡りました。そこには二枚の細い足場板が渡されているだけで、あとは金具で天井板が吊られている構造でした。中が暗かったのでしょう。2,3メール先で彼は足場板を踏み外し、天井を踏み抜いてしまったのです。大川牧師が天井を見て「あぁー」と嘆きつつうなだれました。ちょうど、先生の後ろに私がいました。私は反射的に「ハレルヤ!主よ、感謝します!」と言いました。大物である大川牧師は「そうだったなー」と悔い改め、そのことをみんなの前で告白しました。新会堂天井事件であります。教会主事である私が後から、穴を修繕しました。

 当時、安藤先生という小学校の先生を引退し、日曜学校の教師をしている姉妹がいました。もうかなりの高齢でした。ある日、教会に来るとき、側溝に足をすべらせてころんだそうです。そのとき思わず言ったことばが「ハレルヤ!主よ、感謝します!」だったそうです。そこまで、いくと、もう聖域に達しているという感じです。でも、「ハレルヤ!主よ、感謝します!」によって、教会全体が恵まれていました。でも、何故、問題や困難に遭遇したときも感謝しなければならないのでしょうか?マーリン・キャロザーズ師が、『讃美の力』という本の中でこのように教えておられます。「困難な問題や病気や災難のゆえに神を讃美するということは、文字通り、その病気や災難が起こったことを私たちの人生における神のご計画の一部として受け入れて、賛成することを意味します。それは、今起こっているその事に対して神が責任を取っておられるという事実を受け入れることになるのです。そうでないなら、その事で神に感謝するということは意味を成さないでしょう。神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています(ローマ8:28)。」つまり、こういうことなのです。どのような状況の中でも、これが神さまのご計画の一部であり、神さまが益になるように働いてくださることを私たちが感謝するのです。そうすると、神さまは「では、そうしましょう」と働いてくださるのです。逆に、私たちが嘆いたり、不平不満をもらすなら、神さまが益になるように働こうとしておられるのを、留めてしまうことになるのです。マーリン・キャロザーズ師はさらに教えておられます。「あなたの人生のために、神はすばらしいご計画を持っておられるのです。もし、あなたが神に信頼し、あなたの身に起こったあらゆる事を神に感謝するなら、今ここで、神があなたを助けようとしておられることが分かるでしょう」。多くの人は、マリーン先生に「この事を神に感謝するんですって?」と反発します。しかし、その人たちが絶望的な状況の中で、神を讃美し感謝するとどうでしょう。あとから、すばらしい奇跡が起こるのです。その手の証が、3冊も4冊もあります。エペソ5:20「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝し」ましょう。神さまの命令であり、神さまのみこころなのですから、そうさせていただきましょう。

2.つぶやきと不平不満

 感謝の反対は何でしょうか?それはつぶやきであり、不平不満です。これは神さまが最も、お嫌いなものであります。旧訳聖書を見てわかりますが、イスラエルの民はエジプトを奇跡的に脱出したのですが、どうだったでしょうか?出エジプト記、民数記、あるいは申命記に彼らの罪が克明に記されています。それは、つぶやきと不平不満です。なんと、エジプトを脱出して、まだ3日しかたっていないのに、「私たちは何を飲んだらよいのですか?」とつぶやきました。さらに、イスラエルの民は、荒野を旅しました。「ああ、肉が食べたい。魚が食べたい。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。何もなくて、このマナを見るだけだ」と泣いて言いました。それで、神さまはあきるほど、うずらを降らせました。さらに民は「どうしてモーセだけが神さまと話すのか?私たちとも話されないのか?」と非難しました。Ⅰコリントに、不平不満やつぶやきがいかに罪が深いのか書かれています。Ⅰコリント1010「また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。」この出来事は、民数記16章の出来事を背景にして書かれたものであります。コラとダタンというレビ人が、モーセとアロンに逆らって焼き滅ぼされました。その後、民たちが「あなたがたは民を殺した」とつぶやきました。そうすると、神罰が民にくだり17,000人が死にました。つぶやきがなぜ、そんなに悪いのでしょうか?

 つぶやきの反対は、神さまを賛美し、感謝を捧げることです。私たちが神様を賛美するとき、神様は賛美の中に住まわれます。つまり、神様を賛美したなら、私たちは神様の摂理の下に身を置くことになるのです。神様に感謝するならば、神様にこう言っていることになります。「神様、あなたは良き神様です。あなたは世界をご支配することをご存知です。あなたの下には、何も悪いことはありません。ローマ8:28を信じます。すべてのものを働かせて益としてくださいます。神様、感謝します。神様、感謝します。あなたは良き神様です。」それが神様をほめたたえることです。神様をほめたたえることの反対は何でしょう。それは、つぶやくことです。不平不満を言うと何が起こるでしょうか?神様のご摂理(ご支配)の下から逃げてしまうことになります。神様は良い神様であることを受け入れないばかりか、その神様を批判することになります。神様に文句を言います。「神様、あなたは良き神様ですか?もし、本当に良い神様だったら、何で、この町の小さな教会で奉仕させるのですか?神様、あなたは本当に良い神様ですか?もし、良い神様だったら、何故、日本にリバイバルが起きないんですか?神様、あなたが本当に良い神様だったら、どうしてゴリラと結婚させたのですか?(これはエディ・レオ師が言ったこと)」。このように、いつも不平不満を言う。これは、「神様、あなたは本当に神様ですか?」と言っているのと同じことなのです。多くの人たちはつぶやきのために尊い奉仕が死んでしまいます。つぶやきや不平不満を言ったために家族が死んでしまいます。つぶやきや不平不満を言ったために可能性が全部死んでしまいます。だから、つぶやきや不平不満を悔い改めなければなりません。

 インドネシアのエディ・レオ師がこのようなメッセージをしてくださったことがあります。賛美と感謝は神さまを引き上げることであり、つぶやきと不平不満は神さまを天から引き降ろす事であると言われました。そして、1つの例を上げて教えてくださいました。ある人が魚を干して干物を作っていました。日本人のクリスチャンです。あるとき多くの魚が捕れました。全部売りさばくことができません。そして、売れ残ったものを全部、干物にしました。干物にするためには太陽光線が必要です。天気が良くなるまで待っていました。「ああ、太陽が出てきた。この日は、この日は、主が造られた、主が造られた」と賛美しながら干物を干しました。1時間もすると雲がやってきました。「あー、雲ってきた」とその魚を引き上げ家の中に入れました。すると、神様に対して怒りがこみ上げてきました。上を見上げて「神様、何故ですか?何故、1時間しか太陽を照らしてくれないのですか?」。そう言っているうちに、また日が再び照ってきました。「ああ。この日は、この日は、主が造られた、主が造られた」と、魚を再び干しました。たった30分後に、また雲が出てきました。今度は、雲だけではありません。雨が降ってきました。そして、全部の魚がびちょびちょになりました。そして、もうかんかんに怒って、雨の中に突っ立って、上を向いて「神様、あなたは天気もコントロールできないのですか?あなたが天気をコントロールできないなら、私がそこへ行って天気をコントロールします。そして、あなたがこっちに降りて来て、干物を干してください」。隣の方に「これが、文句ですよ」と、言いましょう。不平不満を言うとはどういうことでしょう?神様を引き降ろすことです。それが最も大きな罪、クーデターです。王様を引きずり降ろすことができるでしょうか?そういうことを企てたら殺されるでしょう。それは神の国のクーデターです。神様を引きずり下ろそうとする謀反です。不平不満を言っているなら、悔い改めましょう。

3.感謝と賛美の力

 私はクリスチャンになる前、感謝するということがほとんどありませんでした。生まれ育った環境のせいもあり、いつも不平不満を言っていました。私は何につけても文句を言いました。一番上の姉は私と18歳も違うので、何かと面倒見てくれました。あるとき、グレーのセーターを買ってくれました。私は色が気に入らないと言いました。あるとき、百科事典を買ってくれました。「小学館」と書いてあるので、「これは小学生用だろう」と文句を言いました。結婚してから、家内が私に言いました。「あなたはいつも文句を言っている」と。「文句じゃないよ」と反発しましたが、やっぱり文句でした。クリスチャンになってからも、なかなか感謝するこということができませんでした。何故でしょう?不平不満を言うということが、習慣になっていたからです。もう、口を開けば、自動的に舌が不平不満を言うのです。ヤコブの手紙36「舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます」。私は本当に悩みました。何故、私は文句を言うようになったのでしょうか?それは、私の父や母が私を非難したからです。兄たちも私を非難しました。だから、私の中に苦い根が生えたのです。これを直そう、直そうとしても草をかってもまた生えてきます。私は毎朝、中川を散歩していますが、草が良く生えます。ときどき、区の人たちが機械で刈り取ります。しばらくはきれいです。でも、また生えるんですね。そうです。表面的な方法では不可能です。私は私をさばいた父や母、兄たちを赦しました。そして、父なる神さまから、「お前は価値があるよ。お前を受け入れるよ」と頭をなでてもらいました。それから、すこしずつ感謝が出るようになりました。

 みなさん、不平不満やつぶやきは習慣になっている場合があります。なおそうと思ってもなおらない。ついつい、「ポロ」っと、出てきてしまう。どうしたら良いでしょうか?まず、私のようにそうなった原因を探る必要があります。何がきっかけや原因があったのです。環境かもしれないし、両親や兄弟かもしれません。でも、人のせいばかりにしてはいけません。赦すべき人を赦し、悔い改めるべきことを悔い改めます。そして、自分の性格の一部になってしまった不平不満やつぶやきを十字架につけるのです。「私の不平不満とつぶやきの性質を十字架につけて死なせます。アーメン。」その次に、新しい命を神さまからいただきます。不平不満とつぶやきの反対は何でしょうか?そうです。感謝と賛美です。「おお、主よ、感謝と賛美という新しい性質をください」と願い求めるのです。アーメン。でも、それだけだとまた元に戻ります。どうしたら良いでしょうか?自分の意思で、どんなことがあっても感謝と賛美を選び取るのです。エペソ5:20「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」コロサイ317「あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい」。Ⅰテサロニケ518「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」アーメン。エディ・レオ師は、何でも40日間、継続するならば、自分のものになると言いました。みなさん、習慣には力があります。自転車も初めて乗ったときは大変でした。でも、一旦、なれると平気です。水泳もどうでしょうか?初めて泳いだときは大変でした。でも、一旦、なれると平気です。だから、不平不満やつぶやきという習慣を直すためには、感謝と賛美を継続しなければなりません。40日間かどうかわかりませんが、とにかく、何につけても、感謝と賛美をすることを選んで実行します。すると、こんどは条件反射的に、「感謝します」と言えるようになります。前の安藤先生が側溝にはまって転んだ時、「ハレルヤ、主よ感謝します!」と言ったのと同じであります。

 みなさん感謝と賛美には力があります。どんな力でしょう?それは運命を変える力です。クリスチャンは運命ということばをあまり使いません。神さまの摂理とか、神さまのご計画という風に言います。でも、この場合は、運命とか環境と言っても良いと思います。なぜなら、父なる神さまがすべてのことが益になるように私のために働いておられるからです。もし、私たちが不平不満やつぶやきを言うならば、神さまの御手はそこで止まってしまいます。しかし、そうではなく、「主よ、感謝します。このような状況の中でもあなたが共におられ、全能の御力をもって働いておられることを感謝します。主よ、あなたの御手にゆだねます。主よ、あなたの御名があがめられますように。御国がきますように。アーメン」。そうしますと、無駄な力が抜けてきます。心配も去ります。なぜなら、主に信頼しているからです。究極な祈りとは何でしょう?それは、父なる神さまに感謝と賛美をささげることであります。感謝と賛美こそが、全能なる御父の御手を動かすからです。今のありのままの状況を主に告げ知らせながら、感謝することであります。「父なる神さま、あなたが今も私のためにすべてのことを益とするために働いていることを、イエス様のお名前によって感謝します。アーメン」。どうぞ、実行してみましょう。思いがけないことが起こったときもやってみましょう。そして、主のみわざを、奇跡を、現実の真中で、見させていただこうではありませんか。

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2010年10月 3日 (日)

賛美の生活            詩篇100:1-4  

前回は礼拝についてお話ししましたが、2回目は賛美についてです。賛美はことばでも歌でも両方とも可能です。でも、きょうは歌う賛美の方にポイントをあてたいとおもいます。礼拝と賛美は分けることができません。なぜなら、賛美自体が主をほめたたえる行為だからです。日本人ならご飯と味噌汁、アメリカ人ならパンとミルクみたいな関係です。でも、どうでしょうか?賛美は礼拝の前座みたいに扱われる場合があります。どこの教会か分かりませんが、司会者がこのように言ったそうです。「まだ全員の方がそろっていないようですので、皆さんが集まるまで賛美でもして待ちましょう」。これは良くありません。賛美が時間待ちみたいになっているからです。そうではありません。賛美は礼拝の一部なのです。いや、賛美が礼拝と言っても過言ではありません。きょうは、賛美というものが一体どういうものなのか、ともに学びたいと思います。

1.賛美とは?

賛美とは何でしょう?詩篇1001-4「全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、入れ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。」ここで分かることは、私たちが近づくとき、携えていくものであります。喜び歌いつつ、賛美しながら神さまの前に近づくのであります。ある人たちは、賛美は神さまに近づく手段だと言います。しかし、そうではありません。私たちが聖なる神さまに近づける手段は、主イエス・キリストの血潮しかありません。イエス・キリストが、私たちの罪を贖ってくださったので、私たちは罪赦され、神さまのもとに近づくことができるのです。旧訳聖書のレビ記を見ますと、罪の赦しのためのいけにえ、献身のためのいけにえ、和解のためのいけにえなど、たくさんのいけにえがあります。しかし、世の終わり、イエス・キリストが一回ですべての贖いをなしてくださいました。ですから、私たちは主イエス・キリストの血潮を通して、大胆に神さま御座に近づくことができるのです。私たちは一週間前、いろんなことをしました。さっきまで喧嘩をしていたかもしれません。汚れた思いを抱いていたかもしれません。でも、私たちはイエス・キリストの血潮を通して、罪きよめられ、主の前に近づくことができるのです。そして、そのときに携えていくのが、賛美であります。喜び歌いつつ、賛美しながら神さまの前に近づくのであります。ハレルヤ!

賛美の中にいくつかの種類があります。一番、多いのが神さまの救いをほめたたえる賛美です。出エジプト記15章にミリヤムが歌った賛美が記されています。出エジプト151-2「主に向かって私は歌おう。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれたゆえに。主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。この方こそ、わが神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。」これは、神さまがエジプトから自分たちを救い出してくださった、すばらしい力ある主のみわざをほめたたえています。また、Ⅰサムエル記2章にはハンナの賛美があります。ハンナは不任でありましたが、神さまによって、子どもが与えられました。そして、その子を神さまにささげたときに、この賛美をしました。Ⅰサムエル21-2「私の心は主を誇り、私の角は主によって高く上がります。私の口は敵に向かって大きく開きます。私はあなたの救いを喜ぶからです。主のように聖なる方はありません。あなたに並ぶ者はないからです。私たちの神のような岩はありません。」ハンナの賛美は、新約聖書のマリヤの賛美ととても良く似ています。ダビデやソロモンもたくさん賛美を作りましたが、一番、多いのが詩篇であります。詩篇は圧倒的に「嘆きの歌」が多いのですが、後半には「たたえの歌」があります。ある場合は、1つの詩篇において、前半が嘆きで後半がたたえで終わっているものもあります。旧約の人たちは、詩篇に抑揚をつけて神殿や会堂で歌ったのではないかと思います。預言書の中にも賛美があります。

キリスト教会ではどうでしょう?バロック音楽やコラールという拡張高いものもありました。一方、宗教改革者マルチン・ルターは当時の酒場でよく歌われていた曲に、詩篇の歌詞を載せました。『神はわがやぐら』というのが有名です。民謡の曲を借りて讃美歌にしたのもたくさんあります。18世紀、ジョン・ウェスレーによってリバイバルが起こりました。兄弟のチャールズ・ウェスレーが、みんなで歌えるような讃美歌や聖歌をたくさん作りました。その後、アメリカでリバイバルが起こると、いろんな聖歌が作られました。不思議なことに、教会にリバイバルが起こると新しい賛美が生まれるのです。最近ではどうでしょうか?ヴィンヤード教会の賛美もありました。オーストラリアのヒルソングの賛美も有名です。日本の教会はもっぱら英語を和訳したものを賛美します。しかし、それではよくないということで、日本人独自で作詞作曲した賛美も歌われています。滝元明師が指導した日本リバイバル・クルセードからたくさんの賛美が生まれました。シティ・プレイズとか、ジェイ・ワシップというのもあります。日本では、最近、ブラックゴスペルで神さまを賛美しています。ハレルヤ!

時代によって教会の賛美がどうなったのでしょうか?昔は(30-40年前は)、讃美歌や聖歌のように信仰を鼓舞したり、証の歌が多かったように思えます。しかし、現代は神さまご自身を賛美する、ワーシップとかプレイズソングが多くなりました。「ギターを弾いて、ちゃらちゃらした歌は歌いたくない」という教会もあります。彼らは讃美歌21とか新聖歌を作りました。しかし、私から言わせますと、歌詞は新しくなったのですが、曲が古いということです。今の若い人たちが聞いている曲はとてもテンポが速くリズミカルです。もし、若い人たちに伝道したいと思うならば、年配者は少し譲る必要があると思います。私が礼拝形式や賛美を選ぶとき、このみことばを思い出します。ルカ537-38「また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。」皮袋にあたるものが、教会の礼拝形式や賛美であります。年輩の人たちは古いぶどう酒が良いと言います。なぜなら、これまで馴染んできたやり方だからです。しかし、新しい人、若い人たちはどうでしょうか?「それでは退屈だ、賛美している気にならない」と言うのです。これはまさしく、好みの問題です。聖書に「こういう賛美をこういう曲で歌いなさい」とは書かれていません。リック・ウォレン師が、『魅力的な礼拝のかぎ』という本の中でこう言っています。「教会で用いる音楽スタイルを決定することほど、重要であり、かつ論議を呼ぶものはあまりないだろう。教会が今後どのような人々をキリストに導けるか、また教会が成長していけるか否かは、音楽によって決まるといっても過言ではない。教会の音楽は、その教会が伝道の対象としている人々に合わせていくべきである」。つまり、教会音楽に良い、悪いはないということです。しかし、教会がどの歌を選ぶかによって、会衆が決まってくるということです。リック・ウォレン師はみんなに合わせるために、いろんな種類の曲を混ぜて賛美しました。すると、みんなが気持ち悪くなったのです。それで、「自分たちの教会が、どの年代、どういう人たちに伝道したいのか?」ターゲットを絞ったそうです。明日の教会を支えるのはどういう人たちでしょうか?教会が存続していくためには、すでに救われている人たちよりも、これからの人たちの救いに的を絞る必要があると思います。

「歌は世につれ、世は歌につれ」という格言みたいなものあります。まさしく、賛美もそのような性質があるということです。もちろん人間中心ではあってはなりません。私たちは曲とともに、その歌詞を味わいながら、賛美を神さまにささげていくということです。ヘブル1315「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか」と書かれています。賛美は、神さまにささげるいけにえであり、果実だということです。ですから、カラオケのように自分たちが喜ぶというよりも、神さまを喜び、神さまをたたえることが重要です。同時に、聖日礼拝においては、失われた人々に対する伝道ということも忘れてはならないと思います。

2.賛美の回復

数十年前から「ダビデの幕屋の回復」ということが言われています。「ダビデの幕屋」とはどういう意味でしょうか?ダビデの幕屋とは、ダビデ王によって創立され、始められた礼拝のことです。Ⅰ歴代誌15章と16章に、当時の記録があります。Ⅰ歴代誌1516「ここに、ダビデはレビ人のつかさたちに、彼らの同族の者たちを十弦の琴、立琴、シンバルなどの楽器を使う歌うたいとして立て、喜びの声をあげて歌わせるよう命じた」とあります。ダビデは神の箱が運びこまれるとき、力の限り踊ったのであります。ダビデは、神の箱が安置された後、和解のいけにえをささげさせました。Ⅰ歴代誌16:4-5 それから、レビ人の中のある者たちを、主の箱の前で仕えさせ、イスラエルの神、主を覚えて感謝し、ほめたたえるようにした。かしらはアサフ、彼に次ぐ者は、ゼカリヤ、エイエル、シェミラモテ、エヒエル、マティテヤ、エリアブ、ベナヤ、オベデ・エドム、エイエル。彼らは十弦の琴や、立琴などの楽器を携え、アサフはシンバルを響かせた。」このところから、当時の礼拝はどうだったのでしょうか?とても、にぎやかな礼拝であったということです。ある人たちは「ギターやドラムを礼拝に使って良いのだろうか?」と言う人たちがいます。しかし、ダビデが指導する礼拝では、大歓迎です。詩篇150篇にも同じようなことが記されていますが、いわゆる「鳴り物入り」です。おそらく、そこには踊り(ダンス)もあったでしょう。タンバリンをたたきながら、踊ったかもしれません。また、詩篇1342「聖所に向かってあなたがたの手を上げ、主をほめたたえよ」とあります。さらに詩篇471「すべての国々の民よ。手をたたけ。喜びの声をあげて神に叫べ。」とあります。つまり、礼拝において「手を上げよ」「手をたたけ」あるいは「神に叫べ」と命じられていたということです。しかし、今日の教会の礼拝では、それを交読文にして読んで済ませています。たとえば、司会者が「聖所に向かってあなたがたの手を上げ、主をほめたたえよ」と言うと、会衆は「すべての国々の民よ。手をたたけ。喜びの声をあげて神に叫べ」と言います。明らかにみことばに違反しています。実際に手をたたき、手を上げ、神に叫ぶべきなのに、交読文でお茶を濁すとは何事でしょうか?私たちの礼拝は静か過ぎます。ペンテコステ系の教会やアフリカの教会が聖書的ではないかと思います。

私は以前、松岡欣也師が主催する「パワープレイズ」というのに参加していました。当教会にもケン&アヤさんも加え、お招きしたことがあります。松岡先生は礼拝メッセージの中で「みなさん、手を上げるのに勇気がいるでしょうか?いらないでしょう。どうぞ、別な方に勇気を用いてください」とチャレンジして下さいました。先生は早稲田教会という、教団本部のすぐ隣で、「パワープレイズ」を毎週、開いていました。同じ曲を20分くらい賛美するときがあります。「今が恵みのとき、今が恵みのとき、今が恵みのとき」。まるでレコードの針が飛んでいる感じです。もう、ずっと同じ賛美をします。すると「ああ、そうなんだ。今が恵みのときなんだ。そうだ、今が恵みのときなんだ」。深いところから信仰がわいてきます。どうでしょうか?みなさんは賛美しながら、口ぱくで、他のことを考えているんじゃないでしょうか?体がそこにあっても、心がそこにない。イエス様はマルコ福音書では「力を尽して主を愛しなさい」と言われました。力を尽して神さまを愛するとは、私たちの身体をさしていると思います。世の中のコンサートやライブに行きますと、みんな立ちながら、全身を震わせて参加しています。どうでしょうか?私たちは本来、永遠の滅びに行く予定だったのに、イエス様によって贖われ、永遠の御国に入ることができるんです。いや、もう入っているのです。聖書にヨベルの年というのが記されています。50年に一度、巡ってくる贖いの年です。角笛が吹かれ、彼らは喜びと賛美をささげます。なぜなら、借金が棒引きされ、土地が回復されます。奴隷であったものは自由になります。私たちはどうでしょうか?すべての罪、咎が赦され、天国が与えられています。罪とサタンの奴隷であったのに今は自由です。神の子とされ、神さまの膨大な財産を受け継ぐことができるのです。それを思うと、「うぁー!すげぇー!」と賛美できるのではないでしょうか?不思議なことに、手足や体をつかって賛美し、喜びの叫びをあげると、「わぁー、本当に神さまはすばらしい」ということが分かるのです。頭だけ、交読文で「手をうちたたけ、主の前で踊れ」ではわかりません。実際に手をたたき、踊るのです。ハレルヤ!終わりの時代は、まさしく「ダビデの幕屋の回復」のときです。初代教会の議長であったヤコブがこう言っています。使徒1516「この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。」つまり、ダビデの幕屋の回復とは恵みにおける教会のことであります。ユダヤ人とか異邦人の差別もなく、またエルサレムとかシオンの地域でもなく、全世界で、全人類が集まって主を礼拝するということです。数年前、長沢兄によって、そのような、すばらしい賛美が作られました。「その日、全世界が、主の御名、高く掲げる。叫べ、王の王、イエスは、ハレルヤ、栄光、とわにあれ」。

3.賛美の目的

 もう一度、リック・ウォレン師の『魅力的な礼拝のかぎ』という本からいくつか引用したいと思います。先生は「音楽を吟味する」という章でこのようにおっしゃっています。「音楽はしばしば、説教にはできない方法で人の心に触れることができる。理性の壁を通り抜け、直接、心にメッセージを届ける。音楽は有効な伝道の道具である」。私は今、50代後半ですが、若いときはアメリカではロック、日本ではフォークソングが流行りました。その中で歌われる歌詞によって、若者たちの価値観が形成されたのです。教会が音楽の力を過少評価していたとき、サタンがこれを暗黒の力をもたらすために用いてきたのであります。教会は18世紀のヨーロッパで書かれた音楽だけが神聖な音楽だと言うのは、聖書的な根拠はありません。いろんなスタイルの音楽があって良いのです。大切なのは歌にこめられている、使信(メッセージ)であります。また、忘れてはならいのはサウンドであります。時代によってサウンド感覚が変わるんです。ひところは賛美歌をオルガンやピアノで伴奏しました。今はシンセサイザー、ドラム、ギターが主流です。そして、映像も駆使され、目でも訴えるようにしています。アメリカで信仰を持った若者たちは、普通の教会に来ません。礼拝のスタイルが全く違うからです。彼らはどうしても、ヒルソングとか、ニューホープの教会に行きます。では、彼らに迎合するのか?迎合ではなく、現代の人たちのサウンドに、使信(メッセージ)をこめるべきだということです。リック・ウォレン師が音楽スタイルを決めるときのいくつかのルールを提唱しています。第一は、「用いる音楽はすべて、前もって打ち合わせしておく」と言うことです。神学的に健全か、教会につながっていない人に理解できるか、歌詞と曲の両方を考慮するということです。第二はテンポを速める。多くの賛美は祭典的というよりお葬式に近いということです。第三は歌詞も現代風に変えなさい。賛美歌に出てくる聖書的比喩、神学的用語はわかりやすく書き直す必要があるということです。第四は教会員が新しい賛美を作るように励ます。多くの教会は牧師か賛美リーダー個人の偏向で、賛美歌の選択が偏る傾向がある。いつも使い古い賛美ばかりを歌うと礼拝心をそいでしまう。リック・ウォレン師の特徴は、たえず求道者のことを考えているということです。

賛美の目的とは何でしょうか?確かに、現代のサウンドで求道者にもわかる賛美を捧げる必要があるでしょう。しかし、もっと大事なことは私たちの心であります。賛美は、いわば神さまへの愛の告白であります。ですから、まるで目の前に、三位一体の神さまがおられるように賛美をいけにえとしてささげるのです。ですから、賛美は私たちのためというよりも、神さまのためであるということです。私たちが「きょうは、良い賛美で恵まれたなー」ということは悪いことではありません。でも、それ以上に「きょうは、全身全霊で神さまを賛美できたなー」という方が大事なのです。宣教師たちは、ジャングルの奥地に入って行って伝道します。キリストを信じてクリスチャンになった人たちは、生活も変えなければなりません。かつては偶像の神さまにお供えを捧げ、歌や踊りを捧げてきました。しかし、これからは天地を作られた神さまと、十字架で罪をあがなわれた御子イエス・キリストへの礼拝になります。村人たちは1週間、一生懸命、賛美と踊りの練習をします。そして、日曜日の礼拝が来たとき、準備した賛美と踊りを神さまの前にささげるのです。彼らはうかれてなんかいません。神妙になって、一週間準備した、賛美と踊りを神さまにささげるのです。私はかなり前に、台湾の原住民の夕方の礼拝に出たときがあります。ふだんは農作業で汚れているのに、リードする人たちは、おそろいの衣装を着て、首にレイをかけています。会衆全体の賛美は本当にすばらしく、透き通っています。純粋な神さまへの愛が、伝わってくるのです。私たちの賛美に対する姿勢はどうでしょうか?「前の人たちが歌えば良いんだ、自分たちはその他、大勢だから」という気持ちはあってはいけません。私たち一人ひとりが心をこめて、神さまに賛美をささげるのです。最後の主の祈りを賛美しますが、前で聞いていると、とても感動します。本当にみなさんが神さまに向かって賛美しているその声が聞こえてくるからです。うまい、下手ではありません。魂の内側から賛美することが重要なのです。私たちが主を賛美するとき、主が私たちをさらに恵んでくださるからです。詩篇1031-5「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。主はすべてしいたげられている人々のために、正義とさばきを行われる。」

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