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2010年9月26日 (日)

礼拝の生活          詩篇111:1-10

 信仰のDNAシリーズも後半になりました。これから4回に渡って、クリスチャンの基本的生活についてお話しさせていただきます。第一回目は礼拝です。最近、『いつも礼拝していなさい』という本を読んで、礼拝がいかに大切か、目が開かれました。私は自分で、「ある程度は礼拝している」と思っていました。しかし、私たちが日々の生活の中で、神さまを礼拝し、神さまをほめたたえていないために、得られなかったものがたくさんあることに気がつきました。「こんな基本的なことを何故、おろそかにしていたのか!」と悔しいばかりです。もし、私たちがこの礼拝を個人の生活で、あるいは私たちの集いで行うなら、これまでとは、ぜんぜん違ってくるでしょう。きょうは、『いつも礼拝していなさい』という本から、かなり引用しながらメッセージをお届けしたいと思います。

1.礼拝の重要さ

 『いつも礼拝していなさい』の著者、ノーベル・ヘイズという人が、あるとき、車を運転していました。その時、神の御霊が臨み、彼にこう言われました。「子よ、教会には、欠けているものが、悲しいまでたくさんあります」。彼は「それは、どういうことでしょう?」と聞きました。すると御霊は「私の子どもたちは確かに私を愛していますが、貧困と病気と敗北の中で過ごしています。彼らは天の祝福の中で過ごしていません。それは、彼らが私を十分なまでに礼拝していないからです」。彼は「おっしゃる通りです。主よ。事実、あなたを礼拝することに少しも時間を費やしていない教会を、私はいくつか知っています。そういう牧師たちは『しばらくの間、神さまを礼拝しましょう。彼は神であられるから』とは決して言いません。彼らが会衆に教えているのは、教会に通うことと、少し歌を歌うことだけです。しかし、彼らは本当にあなたを礼拝しているのではありません」と言いました。すると、御霊が「あなたもそうです。あなたが私の子どもたちに、もっと私を礼拝するよう教えるなら、私は彼らのために大いなる力あるわざを行うようになります」と言われました。

ノーベル・ヘイズ師があるところで礼拝のすばらしさをお話しました。「病気がちで、貧困に打ちのめされ、弱々しく、混乱した生活をしている信者たちがいますが、そういう生活は、神が私たちのために備えてくださった種類の生活ではありません。神が私たちのために備えてくださった生活とは豊かな生活です」。メッセージの後で、一人の姉妹がこう言いました。「でも、ノーベル先生、私の子どもたちは信仰から離れています。私の夫は病気で、医者たちは、彼には何もしてあげられないと言っています。『どうして、こんなことばかり私に起こるのかしら?どうして神さまは私のために何とかしてくださらないのかしら?』といつも思っています。」先生は彼女に「お尋ねしますが、今月、あなた自身はどのくらい神を礼拝してきたでしょうか?」と聞きました。彼女は「はい。私はいつも立派な教会に通っていますし、私の牧師はすてきな方なんですよ?」と答えました。先生は「あなたの教会や牧師が、あなたに代わって礼拝をすることはできません。あなたは今月、イエス様を少しでも礼拝したでしょうか?あなたは今月、イエス様の御前で身をかがめ、あなたの救い主、あなたの癒し主、あなたのために奇跡をなしてくださる方として彼に呼びかけたでしょうか?あなたの名が天に書かれていることで、あなたは彼に感謝をささげたでしょうか?彼がいかにすばらしい方であられるかを、あなたは彼に話して、彼を、彼だけを礼拝したでしょうか?」。彼女はしばらく、言い訳をしていましたが、最後に「実を言うと、私はそういうことはしていません」と答えました。

 私はその本を読みながら、「ああ、うちの教会でも、あまり礼拝をしていないな」と気付かされました。確かに賛美をしています。お祈りもします。聖書からのメッセージも頂くでしょう。「でも、神さまを礼拝し、神さまをほめたたえているだろうか?」と思いました。私たちが礼拝で祈る祈りは「○○して下さい」という求める祈りはあっても、「あなたはすばらしいです。あなたをほめたたえます」と主をほめたたえていません。「主を賛美します」という歌は確かに歌います。しかし、全身全霊で「主よ、あなたを賛美します!」と告白しているでしょうか?私たちは礼拝式を行なっているように思います。そのため、本当に神さまのすばらしさを思って、神さまを礼拝し、神さまをほめたたえるということが少ないのです。私は、「何かが足りない」とずーっと思ってきましたが、これだったんですね。また、みなさん個人の生活ではどうでしょうか?あなたは平日、どこかの時間を割いて、神さまを礼拝し、神さまをほめたたえているでしょうか?私は聖書を読んでディボーションをしています。その後、できるだけ声を出して祈ることにしています。しかし、神さまを礼拝し、神さまをほめたたえる時間は、ほんのわずかでした。「家庭でも、家内との関係でも、どうだろうか?」と自らに問いました。確かに祈るときはありますが、家庭で神さまを礼拝し、神さまをほめたたえることは皆無でした。聖書を読み、勉強はします。お祈りもします。しかし、神さまを礼拝し、神さまをほめたたえることが本当に少なかったということを告白します。

 ノーベル・ヘイズ師は、あの日、御霊が臨んだ日までは一人で部屋に閉じこもって神を礼拝する時間を過ごしたことはありませんでした。確かに、集会の前に神さまから油注ぎを受けようとして祈ることはありました。しかし、だれにも見られない自分の部屋で一人になり、充実した時間を過ごしたことはなかったのです。けれども、先生は、ある期間、一人で部屋に閉じこもり、身をかがめて神を一人で礼拝することを始めました。それからどんなことが起こったでしょうか?「私はこのことを実行し始めた日以来、経済的な問題を1つも経験していません。私は聖書学校のための土地も購入しました。愛するみなさん、私は本当のことをお話しますが、私たちは現在4つの会堂を所有しています。しかし、私はそのうちのどの建物の支払いのためにも献金を募らなかったのです。」とにかく、神さまのさまざまな恵みが望み、全き祝福が臨んだということです。ノーベル・ヘイズ師がご自分の体験から、強調していることはこのことです。「もしあなたが、あなたの周囲に人々が何人か一緒にいないと神を礼拝できないとすれば、あなたの神との関係は、半ば病的です。神を礼拝するのに、だれかがあなたと一緒にいなければならないというようでは、いけません。神に対するあなたの礼拝は、それを一人でするのを神がご覧にならないうちは、十分に神を喜ばせるものとはならないでしょう」。つまり、神さまの前に一人で出るということです。マタイ66「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」アーメン。ある人から先生のもとに手紙が来ました。「ノーベル先生、私は一年間、神さまを礼拝したところ、いろいろなことが起こりました。現在、私の生活は完全に変わり始めています。私にとって人生は、もう、辛いことではなくなっています。神さまは私にさまざまな恵みを注いでおられます。耐えられないくらいです!」。礼拝の基本はこのような公けの礼拝ではなく、個人的に神さまの前に出ることです。そして、個人的に神さまを礼拝し、神さまをほめたたえ、神さまと蜜のような時を過ごすことです。何時かとか、どのくらい礼拝するとか決めないで、一人でひざまずいて、神さまを礼拝するときを持ちましょう。何かを求めるのでなく、神さまが既に自分に与えておられるものを感謝しましょう。詩篇136篇に「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」とあります。

2.礼拝の祝福

では、私たちが神さまを礼拝するという、第一のことを第一のこととして行うならどのような祝福が訪れるのでしょうか?詩篇1111-2「ハレルヤ。私は心を尽くして主に感謝しよう。直ぐな人のつどいと集会において。主のみわざは偉大で、みわざを喜ぶすべての人々に尋ね求められる。」「主のみわざは偉大でみわざを喜ぶ」とは、まさしく神さまを礼拝し、神さまをほめたたえている内容です。神さまは全世界、全宇宙を造られたお方です。そして、それを今も保持しておられます。そして、私たちのために御子イエス・キリストを送ってくださいました。かつて、私たちは罪の中にいて、滅びる運命の中にありました。しかし、イエス・キリストが2000年前、十字架で身代わりに死んで、罪の代価を払ってくださいました。私たちは、イエス様を信じるだけで救われたのです。なんという恵みでしょうか?神さまが、私たちが救われるように、いろんな人を遣わしてくださり感謝します。今までもいろんな辛い経験がありました。しかし、主は私を癒してくださり、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせてくださいました。ハレルヤ!主こそまことの神です。あなたのくださった平安と喜びと希望を感謝します。家族を感謝します。結婚を感謝します。仕事を感謝します。このように、恵みを数えていきます。「ああ、なんと私は主の恵みを当たり前のように受けてきたのだろうか?」とガクゼンとします。不思議なことに、最初の祈りは「私たち」でしたが、最後は「私」になります。「私の神さまはすばらしい」となるのです。礼拝の土台は、やはり、自分と神さまとの関係です。「世界で、私が一番、神さまから愛されている」と考えても間違いではありません。

詩篇111:3-5「そのみわざは尊厳と威光。その義は永遠に堅く立つ。主は、その奇しいわざを記念とされた。主は情け深く、あわれみ深く、主を恐れる者に食べ物を与え、その契約をとこしえに覚えておられる。」私たちが神さまを礼拝し、神さまをほめたたえるとどうなるのでしょうか? ノーベル・ヘイズ師は『いつも礼拝していなさい』という本の中で、神のみわざにはどんなものがあるか教えています。第一に神のみわざは、いやすことです。聖書には、たくさんの病の癒しや奇跡が記されています。いやしを受けた人は、必ず、神様を礼拝し、神さまをほめたたえています。使徒の働き3章の生まれつき足なえ人が癒されたらどうしたでしょうか?彼は「歩いたり、はねたりしながら、神を賛美した」と書いてあります。第二に神のみわざは、経済的な必要が満たされることです。神さまがノーベル師にこう言われました。「私が望むのは、私の民が私を礼拝して過ごすことです。私の望むのは、私の教会が礼拝することです。しかし、それ以上に私が望むのは、一人ひとりが私を礼拝することです。特に、一人ひとりが私の前で一人でいる時にです」と。先生が神を礼拝し、ほめたたえることを第一にすると、先生にも先生のミニストリーにもお金が入って来るようになりました。教会員も同じです。さまざまな必要やお金がないことにばかり目を留めるのではなく、神を礼拝し、神をほめたたえ、天に目を向けることにもっと多くの時間を費やさなければなりません。アーメンです。詩篇1115「主を恐れる者に食べ物を与える」と約束されています。第三に神のわざは、御霊からの贈り物です。先生はこう述べています。「あなたが神を礼拝し、ほめたたえるとき、それはあたかもごちそうと盛り沢山の食物が備わった神の食卓に座るようなものです。神の食卓の上にある1つ1つのお皿には、救い、癒し、信仰、奇跡、解放、知識、知恵などが盛られています。あなたは食べたいだけ、それらの容器に手を伸ばして、食べて良いのです。あなたは食べるとき、それを一回一回、よくかんでください。口に入れるたびに喜びをもって食べてください。そうすれば、あなたは堂々とそれを受け取るようになるのです。」アーメン。

私たちは神さまと契約を結ぶべきです。詩篇1115「主は、その契約をとこしえに覚えておられる。」そもそも、契約というものは私たち人間からするものではなく、神さまから私たち人間に交わされるものです。神さまは最初、エデンにおいて、アダムと契約を結ばれました。アダムは神を礼拝しながら、何でも神さまに従いました。しかし、堕落してからは、神よりも自分が大事だと思うものを礼拝するようになりました。堕落した人間にとって、もはや、神さまが第一ではありません。自分の願い、自分の生活、自分の命が第一になり、そういうものをかなえてくれる神さまを礼拝するようになったのです。ある人たちはイエス様を信じてクリスチャンになるかもしれません。でも、どうでしょうか?神さまが第一になっているでしょうか?相変わらず、自分の願いをかなえてくれる神さまを求めているのではないでしょうか?ただ相手が偶像の神さまから、まことの神さまに変わっただけです。どうでしょう?あなたは自分の大切なものをささげるかもしれません。時間をささげ、お金をささげ、自分の生活をささげるかもしれません。実際、今、こうやって皆さんは、日曜日の午前中をささげ、献金し、聖書の教えに自分の生き方を修正し、神さまに従って行こうとしています。私たちはここで、確かに神さま礼拝を捧げているのです。でも、お聞きします。みなさんは、自分の命を神さまにささげているでしょうか?本当の礼拝とは、自分自身を神さまに捧げて、神さまをたたえることであります。『いつも礼拝していなさい』という本で、このような契約を神さまと結びなさいと書かれています。「イエス様、私はあなたをほめたたえます。主よ、私はあなたを愛しています。あなたは私の主であられ、私の神であられます。主なる神の御名がとこしえにほめたたえられますように!主なる神さま、あなたを礼拝し、あなたをほめたたえます。あなたこそ、生けるまことの神であられます。ああ、神さま、私はあなたと契約を結びます。すなわち、私は生きている限り、イエス様の御名をほめたたえ、あなたを礼拝するという契約です。主よ、感謝します。私を弱い者ではなく、強い者としてくださることを。主なる神の御名がとこしえにほめたたえられますように。ああ、イエス様、あなたを礼拝します。あなたの聖なる御名をほめたたえます。主よ。感謝します。あなたを礼拝し、あなたをほめたたえます。イエス様の御名によって」。もし、あなたが神さまと契約を結び、神さまをほめたたえ、神さまを礼拝することを始めるならどうでしょう?あなたは神さまが備えておられる豊かな命に入るようになり、それがあなたを自由にしてくれるようになります。神さまはあなたを祝福したいと願っておられるのです。

3.礼拝による奇跡

私たちは問題や困難の中でも神さまを礼拝すべきであります。ある人たちは「問題や困難が解決したら、神さまを礼拝し、神さまをほめたたえますよ」と言うかもしれません。そうではありません。私たちは問題をぶらさげてでも、神さまの前に平伏して礼拝をささげるべきです。礼拝というギリシャ語は「プロスキュネオー」と言いますが、かつてペルシャやギリシャでは、王様や神さまの前に平伏して、床や地面、足または衣服の裾に接吻しました。「平伏して崇拝する」これが礼拝の意味であります。福音書を見ますと、ある人たちはイエス様の前に平伏して、自分たちの必要を申し上げました。会堂司ヤイロの一人娘が死にかかっていました。ヤイロはどうしたでしょうか?マルコ5章、彼はイエスを見て、その足もとにひれ伏し、いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」と願いました。ヤイロはイエス様の前に平伏しました。イエス様はヤイロの信仰を通して、一度死んだ娘をよみがえらせてくださったのです。それから、らい病人がイエス様のところに自分を清めてくださいとお願しました。最近の聖書はツアラトと訳されています。ルカ5:12 さて、イエスがある町におられたとき、全身ツァラアトの人がいた。イエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」彼は、イエス様に平伏してお願しました。つまり、イエス様を礼拝したのです。イエス様はなんとおっしゃったでしょう?ルカ513イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに、そのツァラアトが消えた。アーメン。ツロ・フェニキアの女性はどうだったでしょうか?彼女は最初、「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです」と叫びました。しかし、イエス様はひとこともお答えになりませんでした。しかし、彼女は途中からアプローチを変えました。マタイ1525「しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください」と言った。つまり、イエス様を礼拝したのです。すると、イエス様は子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくない」と言われました。彼女は「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」と言いました。そのとき、イエス様は「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりなるように」と言われました。イエス様とこの女性とのやり取りは、どうだったでしょうか?おそらく、彼女は平伏しながら、イエス様に求めたのではないでしょうか?私たちは自分の問題をくどくどと言ってはなりません。神さまはあなたの問題をすでにご存知なのです。その代わり、神さまを礼拝し、神さまと時間を過ごすのです。神さまは私たちの礼拝を喜び、私たちが求める救いを与えてくださるのです。

『いつも礼拝していなさい』の著者ノーベル・ヘイズの娘は、3年間、麻薬の中にいました。先生がどんなに努力しても、娘にそれをやめさせることができませんでした。先生は、ただ、娘のためにあわれみを求め、泣いて祈るばかりでした。なぜなら、娘の友だち5人か6人、麻薬のやりすぎで死んでいたからです。電話が鳴るたびに、悪魔が「お前の娘のことだぞ。娘は死んだんだよ」と言いました。先生は「イヤ、娘は死んではいない。イエスの御名によってやめろ、サタン。お前に命じる。娘から手を離せ、彼女を解放しろ!」と祈りました。さらに、先生は神さまの前にひざまずいて礼拝しました。3年間そのように祈りました。ある晩、彼女が麻薬をしていたクラブの天井が父の顔に変わりました。彼女は飛び起きて、そこから走り去りました。部屋に帰ると、男性二人分くらいの天使が訪れました。その天使が現れると彼女は「ああ、あーっ!」と言いました。そして、その日から今日まで、彼女はもう麻薬をやっていません。ノーベル・ヘイズ師はこう勧めています。「神さまが事を行う仕方は、あなたの仕方とは少々違うかもしれません。けれども、私の言うことを信じてください。あなたの問題は神にとってむずかしすぎるものではないのです。ただし、あなたは第一にすべきことを第一にすることを学ぶ必要があります。あなたは神を礼拝しなければなりません。あなたの口から神の御名を語り、出してください。あなたの口から神への礼拝が出てくるようにしてください。こう言ってください。『イエス様、あなたを礼拝します。あなたを愛します。』」

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2010年9月19日 (日)

特別礼拝

本日は、 李光雨師による特別礼拝の為、原稿が用意できませんでした。

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2010年9月12日 (日)

走るべき道のり     Ⅱテモテ4:6-8 

 パウロは、「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです」と言いました。Ⅱテモテはパウロが書いた最後の手紙ですので、これはテモテに宛てた遺言のようなものです。パウロは自分の人生が何のためにあるのか良く知っていました。そして、今、走るべき道のりを走り終えようとしているところです。それは、まもなく天に召されるということです。そこでは、イエス様から義の栄冠を受けることができます。私たちもパウロのような「走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました」という人生を送りたいと思います。英語で、finish well は、直訳すると「良く終る」という意味です。キリスト教的に言えば、「堕落しないで、最後まで忠実に走り終える」ということになるでしょうか?私たちは人生において走り終えるべきものがあると思います。それが仕事であったり、奉仕、あるいは家庭としての働きではないでしょうか?

1.仕事と家庭

仕事は、私たちの人生にとってどれほど重要なものなのでしょうか?また、家庭との関係はどのようなものであるべきなのでしょうか?仕事の起源は、創世記2章に遡ります。最初の人間であるアダムはエデンの園において、土地を耕していました。動物たちの名前をつけていますので、何らかの交わりもあったと思います。しかし、罪を犯して、堕落してから、どうなったのでしょうか?創世記3章には罰として、2つのことが強いられるようになりました。女性はみごもりの苦しみを受けました。「あなたは、苦しんで子を産まなければならない」と主が言われました。男性にはどうでしょうか?「土地が呪われたので、あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る」と言われました。エディ・レオ師がこんなことを言ったことがあります。それでは、女性と男性ではどっちらが苦しいだろうか?女性の産みの苦しみは、半ぱじゃありません。「本当に苦しい!」そうです。これは男性には分かりません。では、男性はどうでしょうか?「一生、苦しんで食を得る」とありますので、一生、労働の苦しみが与えられるということです。女性は一生で何人の子供を産むでしょうか?平均3人位ではないでしょうか?現代はもっと少ないかもしれません。一生において、3度、死ぬほどの大きな苦しみを体験するということです。一方男性は、死ぬほど大きくはないかもしれませんが、一生ずっと労働の苦しみがあります。では「どっちが苦しいでしょうか?」ま、今は、女性も働いていますので、愚問かもしれません。

でも、ここに勤勉である日本人がよーく知るべき点があります。人間が堕落してから、仕事にも呪いが入ったということです。聖書的には「汗」というものは呪いの象徴であります。もちろん、良い汗もあります。勤労の喜びというのもあるでしょう。しかし、仕事をすればするほど、どんなことが起こるでしょうか?男性は仕事中毒になります。仕事ばっかりして、家庭を顧みなくなる場合もあります。そのため、子どもがおかしくなったり、離婚ということもありえます。男性はどういうわけか、仕事は好きなんです。仕事中毒になりやすいのです。そして、仕事、つまり職業というものが、自分のステイタスになります。職業が自分の身分や価値を決めるということです。どうでしょう?「あなたはだれですか?」と人に聞くなら、普通は、自分の職業を答えるのではないでしょうか?もし、自分が一流企業の重要なポストにいるならば、名刺も出しやすいですね。でも、それがいつまでも長続きするわけではありません。失敗して左遷されたり、クビになるかもしれません。会社が倒産する場合もあるでしょう。無職になるとどうなるでしょうか?全部、失った気持ちになるかもしれません。幸い、停年退職まで会社で勤めたとしてもどうでしょう?退職したら、やはり、その身分を失います。男性はとたんに鬱になり、生きる目的すらも失うようであります。今は、「社友」と言って、会社のOB会に属することによって、緩和するように工夫されているようです。でも、気付くべき点は、職業(仕事)は、自分の本質的な身分ではないということです。なぜなら、いつかなくなるからです。それなのに、医者や弁護士、一流企業あるいは、公務員のエリートコースを目指して頑張っています。悪いことではありません。でも、職業が自分の身分、アイディンテティではないということを知るべきです。

では、何のために仕事をするべきなのでしょうか?また、家庭との関係はどうなのでしょうか?パウロはⅡテサロニケにおいて、こう教えています。Ⅱテサロニケ310「私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました」。12-13節「静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。しかしあなたがたは、たゆむことなく善を行いなさい」と書いてあります。つまり、労働というものはパン、食物を得るためであります。また、社会に貢献するためにあります。日本では「働かざる者、食うべからず」ということばがあります。しかし、聖書は「働きたくない者は食べるな」と言っています。この2つには微妙な違いがあります。聖書は、働きたくても働けない人のことを考えているということです。そして、「働けるのに働かない者は食べる権利はないよ」と言うのです。ですから、私たちは健康である限りは、自分で働いて、糧を得るという責任があります。でも神さまは、どんなお方でしょうか?天の父は空の鳥を養い、野の花を育てて下さいます。「ましてや、神の子である私たちを良くしてくださらないことがあろうか」とおっしゃっています。つまり、天と地を造られた神さまが、あらゆる源であって、私たちに必要なものを恵んでくださるということです。日本人は世界で最も勤勉な人種でありますが、天の父に対する信仰がありません。だから、たとえ寝ないで働いても、満たされることがないのです。また、日本は家庭よりも仕事が大事だという価値観があります。昭和の高度成長期は、このように考えられたのではないでしょうか?夫は外で働くことが仕事、妻は家で家庭を守ることが仕事、子どもは勉強と分業制にしました。それは家族ではなく、まるで会社であります。するとどうなるでしょうか?子どもに何か問題が生じたときに、夫は妻に「家のことは全部、お前に任せているんだから」と言うでしょう。つまり、子育てのことは全部、妻がやって自分には責任がないということになります。そういう父親不在のために、大きな間違いを生じさせてしまったのです。確かに時間的な割合は少ないかもしれませんが、家庭における父親の責任、父親しかできない役割もあるのです。家庭は会社と違います。決して、分業ではないことを知るべきです。昔、モレクという醜悪な偶像礼拝がありました。自分の愛する子どもを火の中に投げ入れることが、信仰の証でした。現代のモレクとは何でしょうか?家庭の父親が仕事を偶像にしているということです。そして、モレクに最愛の子どもささげているのです。「俺は仕事で忙しいんだ」と家に帰りません。しかし、お家では妻や子どもが泣いています。まさしく、モレクの偶像です。

日本の場合は、仕事至上主義で、単身赴任がよくあります。妻だけで、子どもを育てます。そして、本来なら夫に分かち合うべきことを、子どもに分かち合ってしまいます。子どもがお母さんのカウンセラーになります。また、ある場合は、数年で転勤させられることもあるでしょう。そうすると、子どもは転校しなければなりません。「でも、生活のために仕方がない」と言います。しかし、欧米にはそういう考えはありません。昔、阪神にバースというホームラン・バッターがいました。彼の子どもがアメリカで重い病気にかかりました。絶好調だったのに、バースはさったと球団を辞めて、国へ帰りました。彼にとっては、仕事よりも家族が第一だったのです。日本人としてはとても不思議に思われました。現在、バースはオクラホマ州の上院議員として活躍しています。私は建設業から、小さな貿易会社に入社しました。私がミスすると先輩は「たかが、仕事じゃないか?人生にはもっと大事なことがあるよ」と励ましてくれました。彼はクリスチャンだったのです。仕事を馬鹿にするわけではありませんが、ギリシャやローマ時代は、仕事をするのは奴隷でありました。一般の市民は政治や哲学をしていたのです。私が言わんとしていることは、職業が自分の身分やアイディンテティではないということです。私たちが持つべきアイディンテティとは何でしょうか?それは、私は神の子、クリスチャンであるということです。この身分は退職後も、持ち続けることができます。私も牧師である前に、神の子、クリスチャンであることの方が大事だと思っています。でも、みなさん神さまは私たちに天職、これをもって神の栄光を現しなさいという仕事も与えておられるということです。その仕事をもって人々に仕えることができたら幸いです。現代はお金儲けがすべてみたいなところがありますが、社会に役に立つ生産的なものであるべきです。イエス様はこの地上では、大工をなされ、仕事を聖めてくださいました。私たちも神さまから手のわざが祝福され、必要が満たされるように、大胆に求めていきたいと思います。アーメン。

2.老いと死

 年を取るというのは、一般に嬉しくないものです。子どものときは誕生日が来ることは嬉しいことでした。しかし、大人になると誕生日が来ることがあまり嬉しくありません。特に、40、50、60と、桁数が変わるときはショックであります。それと同時に、体力も気力も記憶力もガクンと落ちてきます。ですから、おのずと自分の年を受け入れなければなりません。女性では更年期というのがあります。男性もありますが、女性の方がいろんな障害が起こります。教会では霊的なことばかり強調されますので、更年期になって感情が不安定になると、「霊的じゃない」と裁かれるかもしれません。確かに、更年期になるとホルモンのバランスの変調から、感情も不安定になるようです。私たちはこういうことをあらかじめ知っておかないと、裁き合ったりする可能性もあります。今は、いろんなサプリメントとか自然食品で軽くする方法もあるようです。また、家の中でじっとしていないで、何か気持ちをまぎらわすことをすると良いということも聞いています。とにかく、夫の理解と労わりが必要だということです。また、もう1つ「空の巣症候群」というのがあります。ウェブで調べてみました。「40代から50代の女性によく見られる抑うつ症状。子育てが終わり、子どもが家を巣立っていったあたりから出てくる事が多いので、こう呼ばれる。子どもが自立し、夫は仕事で忙しく、構ってくれず、夫婦生活もないに等しくなり、涙もろくなる。夫の定年が近いと、退職、即離婚といった方に展開していく事もある。」今までは、子どもがいたので、何となくやってこれました。しかし、今度は夫と二人っきり。話す話題もありません。どうしてもうつ的になります。

少し前の「共同体」のところで、私たちは色んなコミュニティに属する必要があると申し上げました。奉仕やボランティアも良いと思います。教会は神の家族ですから、育てるべき霊の子どもがたくさんいます。そういう意味で、いくらでも、必要があるのではないかと思います。また、男性にとっても、女性にとっても、一生涯貫くものが必要です。前のポイントでお話ししましたが、男性は退職してしまうと自分のアイディンテティもなくしてしまいます。女性ですと、子育てが終ったり、若さと美貌がなくなると、自分の存在価値もなくなった感じがします。ですから、たとい老いがやってきたとしても、継続すべきものが必要です。一般的には趣味とかボランティア、お稽古ごとが良いと言われています。しかし、私たちクリスチャンはもう一歩踏み込んだ、神さまとの関係でそういうものがあれば幸いです。堅苦しい言葉でいうなら、使命とでも言いましょうか?自分の一生涯貫くテーマというものはないでしょうか?もし、それが自分の職業と結びついている場合もあるし、そうでないものもあるかもしれません。たとえば、音楽はどうでしょうか?職業としてできる人はほんの一部かもしれません。でも、音楽を通して一生涯、神さまや人々のために、できることってあるのではないでしょうか?賛美やゴスペルでも良いし、日曜学校もあります。また、自分の興味あることを研究するというのはどうでしょうか?たとえプロにならなくても、アマであってもかなりの領域に達することのできるものはたくさんあります。私は聖書の他に、心と体の癒しに関してとても興味があります。ですから、退職後はカウンセラーもしくはコーチとして働き場を求めていきたいと思います。みなさんの中にも得意分野、専門分野というものが1つや2つはあるのではないでしょうか?それを神の国の1つに取り入れて、伝道のために用いることもできます。本郷台キリスト教会では、囲碁のサークルもあります。また、山登りもあります。一人でお住まいのお年寄りのために弁当をつくるグループもあります。自然食、菜園、絵画、習字、さまざまなものがあります。当教会でも、この間、お茶会がありました。ゴスペル、フラ、サインダンスもあります。私たちは生きている限り、一生、勉強であり、一生、何かのために働くことができます。でも、手足が思うように動かなくなったらどうしたら良いのでしょう?祈りこそが、もっともすばらしい奉仕です。本来、祈りによって多くのことができたはずです。でも、自分の体が丈夫だったために、祈りに時間を割かなかったということもあります。しかし、手足が思うように動かなくなったら、最も効果的な、とりなしの祈りをすることができます。祈りこそ、神の御手を最大限に動かすものがないのに、どうして、私たちは祈りを後回りにするのでしょうか?ですから、老後に再発見すべきものは祈りだということです。人々からいろんな祈りのリクエストをいただいて、「私は祈るのに忙しい!」となったらすばらしいと思います。

老後とは何でしょうか?人生の冬でしょうか?確かに、人生の冬と言えるかもしれません。でも、見方を変えるならば、人生の収穫期かもしれません。「私は走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通した」という満足感は、何よりも代えがたいものではないでしょうか?マイ・ウェイというフランク・シナトラの歌があります。また、マイ・ウェイという映画もありました。未信者のときは、あのような生涯を送りたいと憧れました。「すべては、心の決めたままに」生きたいと思いました。しかし、クリスチャンになると、マイ・ウェイではありません。ヒズ・ウェイであります。イエス様が道であり、真理であり、命だからです。イエス様に導かれ、神さまが進みなさいという道を歩むのです。この世の中から見たらどうか分かりませんが、神さまの御目からみたら、「アーメン、ハレルヤ!」であります。finish well は、「良く終る。堕落しないで、最後まで忠実に走り終える」という意味であると申し上げました。私たちにとっては、「私は走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通す」ということであります。ある人が調べました。聖書に出てくる人物で一体、どれくらいの人が、finish well走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通したのか?なんと30%だそうです。70%の人は、うまくいかなかったということです。サウル王やソロモン王は、最初はとても良かったです。しかし、最後は悲惨で、神さまから捨てられました。すばらしいことに、ヨシュアとカレブは最後まで信仰を守り通しました。香港のベン・ウォンが私たちに聞きました。「世界の牧師がどのくらいfinish wellしているでしょうか?」その答えは20%だそうです。聖書よりも率が悪いのです。私が知っている、活躍している牧師たちも「不祥事で辞めた」という人が何人もいます。私は、主のあわれみによって、なんとかfinish wellをしたいと願っております。

そして一番、最後に死がやってきます。老後の場合もあるし、「人生の半ばに」という人もいないわけではありません。お役目柄、今まで、他の人のお葬式は何十人もやってきました。火葬場に入って、お骨を引き上げるのも立ち会ってきました。いずれは、「私もあの中に入るのかなー」と思います。できたら、私の場合は、「お骨を拾うことは無しにして、人々がお茶を飲んでいる間に、係り員によって骨壷に入れてもらいたいなー」と思います。ハワイでは実際、そのようにやっているそうです。「全部、見せるというのは恥ずかしいなー」と思います。今後、そういう方がおられましたら、そのようにすることも可能です。ご検討ください。でも、それよりも大切なのは、死ぬときが来た時であります。『死ぬ瞬間』という本があるようですが、読んだことはありません。世の終わりの再臨が来ない限りは、みんな死ぬことになります。ですから、死に対する備えが必要です。ご家族が未信者の場合は、「お葬式は、キリスト教式でお願いします」と一筆書いておかれた方がよろしいと思います。たとえ仏式でも本人は天国に行けます。でも、伝道になりません。教会のお葬式は、一生一代の伝道集会であります。一人でも多くの人が、道連れに天国へ、いや、救われて天国に入れたら良いですね。

私もいざ、死ぬときが来たら、怖いと思いますが、安心に思うところもあります。なぜなら、イエス様も死を経験なさったからです。イエス様は十字架で「私の霊を御手にゆだねます」と祈られました。まるで、自分が子どものようになって、御父にゆだねたのです。また、ステパノも同じ祈りをしました。ステパノもイエス様に倣ったのでしょう。天が開けて、イエス様が見えるかもしれません。でも、見えるのは本人だけで、周りの人はわからないかもしれません。御使いがお迎えにこられて、貧乏人ラザロのように天に引き上げてくださるでしょう。きっと、二人の御使いが両脇を抱えて、パラダイスに引き上げてくださる。多くの人たちは天国があまりにもすばらしくて、もう帰る気がしなくなるそうです。アフリカのガジマという牧師も一度死んで、天国に行きました。イエス様が「戻れ」と言っても、彼は「いやだ、ここが良い」とごねたそうです。でも、イエス様が命じるので、地上に戻ってきた。そして、自分のからだの中に飛び込んだそうです。そうして、生き返ったのであります。よみがえる場合は、病気や怪我も治っているそうです。ま、そういうこともあるかもしれません。神さまから信仰が与えられたときは、「よみがえれ!」と大胆に、命じてください。でも、そうならない場合は、お送りしましょう。私たちは行くべきところがちゃんとあります。ですから、キリスト教では死と言わないで、召天、「主が召してくださったのだ」と言います。私たちはこの地上から、天に移り住むのです。残された人はそれでも悲しいと思います。特に、自分の子どもが召された時はそうでしょう。この地上では、「どうしてなんだろう?」ということがたまにあります。でも、聖書に「あとになってから分かる」つまり、天国に行ってから分かるということがあります。おそらく、そちらの方が多いかもしれません。パウロは「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです」と言いました。アーメン。天国ではいくつかの冠があります。私たちが忠実に信仰を守りとおしたならば、素晴らしい報いが与えられます。この地上とは比べようもない素晴らしい世界です。神ご自身が涙をぬぐってくださる。死もなく、悲しみ、叫び、苦しみない。涙も、別れもないすばらしいところです。

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2010年9月 5日 (日)

男と女の違い  箴言27:17、Ⅰコリント13:4-7

 何故、この世には男性と女性がいるのでしょうか?創世記127「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」と書いてあります。「神のかたちとは何か」ということが、神学的に色々と議論されてきました。バルトという神学者は「男と女の愛し合う関係こそが、神のかたちなのだ」と言いました。神さまは父、子、聖霊と3つのペルソナ(位格)を持っていらっしゃるのに、1つのように愛し合っておられます。これが三位一体であります。そのような愛のかたちに、神さまは男と女を造られたのであります。男と女が結び合うのが結婚であります。結婚して家庭を作るのでありますが、1つになるのがとても困難です。なぜなら、お互いに違うからです。同じものが1つになるよりも、違ったものが1つになることの方が、がっちり組み合います。頭では分かるのですが、実際に二人がひとつ屋根に住むようになるとバトルが繰り広げられます。解決の道とは何でしょう?それはお互いの違いを認め、歩み寄ることのできるところは歩み寄るということです。

1.男と女の違い

まず、男性と女性の違いを知ることが重要です。代表的な違いを5つ上げたいと思います。第一は、男性は全体的で女性は部分的であるということです。たとえば家を建てるときはどうでしょうか?モデル・ハウスになどに行くと良くわかります。男性は構造とか間取りに興味があります。壁や土台の耐震性、防火性なども考えるでしょう。一方、女性は台所やキッチン、カーテンや壁の色、インテリアに興味があります。女性の場合は、あの人が何を着ていたか衣服の色まで覚えています。男性は細かいことはさっぱり覚えていないのです。

第二は、男性は計算的で、女性は直感的です。男性は左脳で論理的に考える傾向があります。悪く言うと理屈っぽい。あまり、感情に左右されません。一方、女性は、右脳で直感的に捉える傾向があります。ピピッピと一瞬にしてわかるのです。キリスト教は頭では分かりません。だから、クリスチャンには女性が多いのもそのためかもしれません。でも、一旦、男性が信じると、神学的な学びにのめりこんでしまいます。

第三は、男性は目的を達成することに興味があり、女性は過程(プロセス)に興味があります。たとえば買い物にしても、男性は望んでいる品物を買うためにそのコーナーに向かいます。品物を買ってしまえばおしまいです。一方、女性はあれを見たりこれを見たりする、ウィンドウ・ショッピングが楽しいのです。「買うのかな?」と思ったら買わない。別に買わないで帰ってきても満足するようです。男性が買い物に付き合えないのが、そういうところにあります。車の運転でもそうです。男性は「ここに行くぞ!」と決めたら、ひたすら目的地に向かって車を走らせます。サービス・エリアで休むと、「ずいぶん後ろの車に抜かれたなー」と思います。一方、女性は周りの景色とか、途中寄る「道の駅」とか、名所に興味があります。

第四に、男性は性によって愛情を表現しますが、女性は会話によって愛を感じるようであります。なぜ、結婚してうまくいくかいかないのでしょうか?男性が愛を感じるNo1.は性、セックスによる喜びです。残念ですが、女性は、性は大体3番目か4番目の優先順位です。女性はそれよりも親しい愛情のこもった会話が第一なのです。だから、聞いてもらいたい。しかし、男は結論を出したり、教えたりしがちです。No!ただ聞けば良いそうです。「くやしいです!」

第五、男性は革命的であり、女性は保守的(安定的)です。男性は現状維持では満足できません。冒険をしたい、新しいことにチャレンジをしたいのです。今、NHKの大河ドラマで坂本竜馬をやっています。坂本竜馬は本当に落ち着きがないですね。あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、じっとしていません。一方、女性は保守的で今の生活を維持したい方です。昔、「もしも、私が家を建てたなら」という歌がはやりました。女性は、男性よりも幸福や安定を好みます。もしも、人類が男性だけだったら、この世はオーバーヒートするでしょう。女性が、水をかけて冷やすから良いのです。車のエンジンのまわりには、水が流れています。あれはエンジンを冷やしているのです。もし、そうでなかったなら、エンジンが焼け付いてしまうでしょう。男は世界を動かすと言われます。しかし、世界を動かす男性を動かしているのは女性であると言われます。

これまでのものは一般論でありましたが、結婚して、夫婦の関係になりますともっと複雑になります。人によっていろんな性格や好みがあるからです。人というのは大体、自分が持っていないものに憧れ、全く反対の人を求める傾向があります。たとえば、外交的な男性は、おしとやかな女性を求めます。パラフルで支配的な女性は、おとなしくて従順そうな男性を求めるでしょう。中国では陰と陽という考えがあるようですが、本能的にバランスを取るところがあります。私たちの場合は、私がしゃべる方で、家内はあまりしゃべらない静かな方でした。しかし、結婚すると家内もずいぶんとしゃべるようになりました。私はおちつかない方ですが、家内は結構、落ち着いています。2年くらい前に「カップルズ・コース」というのをやったことがあります。その中に「違いを確認する」という項目がありました。「もし、私たちが全てにおいて同じ意見だったら、結婚はとても退屈でしょう。初め、互いの違いはお互い引き合い、夢中にさせたものです。しかしそれから、ハネムーン段階が終わり、だんだん熱が冷めてくると、魅惑的だったこれらの違いは衝突を引き起こす刺激物になってしまうことがあります。この段階では、違いを取り除く試みが共同生活をする上で必要となります。脱いだ靴下を洗濯機に入れるか、はしの持ち方など、自分と同じことを要求します。要求する、巧妙にごまかす、イライラする、不満を口に出す。これらの全ては必然的に親密な関係を失わせてしまいます。悲しいことにたくさんのカップルがそのとき、自分たちはうまく行かないと結論を出してしまいます。しかし、実際はそうではありません。違いはお互いを補完するものであって、共同の利益を得るために作用します。私たちは違いや多様性について排除を試みるのではなく、貴重なものとして評価することが必要です。」と、そのように書いてありました。アーメンです。

さらに、そのテキストには、私たちには異なる5種類のタイプ・性格がありますと書いてありました。さきほどの男女の違い5つと、生活の違い5つを合わせると立体的になるかもしれません。第一は外交的な人または内向的な人です。外交的な人は人と交わることによってエネルギーを得ることができます。このような人は他人と一緒にいることに、より多くの時間を費やすことを望み、パーティーでは生き生きしています。一方、内向的な人は対照的に静かな状況から、エネルギーを得ることができます。考えやアイディアの内部の世界に自然な焦点を当てます。温かく、親切で、気配りですが、あまり多くの社交的な状況が続くと落ち込んでしまいます。回復するためには自分自身の時間が必要となります。

第二は論理的または直感的か?これは男女の違いでお話しました。第三は仕事志向か関係志向か?仕事志向の人は目標や期限を明確にします。そして、効率や、正義、真実といったもので動きます。一方、関係志向の人たちは、目標よりも人間関係を優先させます。他人の感情や気持ちを深く思いやり、大切にします。

第四は組み立て型か、または柔軟型の人です。組み立て型の人生を好む人は、自分の行動計画を先に作成してから進みます。柔軟型の人は流れに乗るタイプです。自由と自然さを愛する人です。変幻自在、悪く言えば行き当たりばったり。

第五はリーダーまたはサポーターです。リーダーは新しいアイディアを考え出し、苦もなく決定を下し、変化を恐れません。サポーターは自分以外の人が主導権を握ることを好みます。前回、夫は家庭のリーダーとしての機能を持っていると申し上げました。しかし、妻の方がリーダーの賜物がある場合があります。「それはダメだ」と言ってはいけません。賜物であり、性格なのですから、夫がそれをうまくささえるべきです。キリスト教会で有名なカップルは、三浦綾子さんと夫の光世さんです。また、米子さんと夫の田原先生かもしれません。

神さまは違う者同士をあえて巡り合わせて、ご自身のかたちに似るようにと導かれているのかもしれません。箴言2717「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる」とあります。一番自分を研いでくれるのは、妻であり、夫であるかもしれません。だけど、刃と刃が「バチバチ」と、ぶつかるとき、火花も散るでしょう。マルチン・ルターは、自己中心的な考え方をより薄め、イエス・キリストのようになる方法は2つあると言いました。「第一の方法は修道院に入ることである。そして、第二は結婚へと船出することである」と言いました。Ⅰコリント12章には「愛は寛容である」と書かれています。寛容さを表現する英語はたくさんあります。しかし、ある人がそこの箇所を「愛は理解することである」と言い換えました。理解するは英語で、understandであります。分解すると、下に立つであります。上から見下ろすと分かりませんが、相手の下に立つと「なるほどなー、さもありなん」ということが良くあります。その人の生まれとか生い立ちを、ちょっと理解すると「ああ、そうならざるを得ないのかな?」と同情心がわいてきます。多くの場合、理解するのではなく、相手を「こっちに来なさい」と、自分の方にひっぱろうとします。すると、相手も負けじとばかり、「あなたこそ、こっちに来なさいよ」と主張します。まるでパワーゲームであります。では、「相手の言いなりになるのか?」、そうではありません。相手を変えようとするのではなく、できるだけ相手を理解しようと努力するのです。そうすると、小さなことはあまりどうでもよくなります。むしろ、相手のこだわりが可愛らしく思えてくるのです。そうすると、相手は「ああ、つまらないことに意地を張っていたなー」と自ら変わってくれるのです。ですから、「愛は理解する」というのが、すばらしい解決法ではないかと思います。

2.親密になるために

ポール・トルニエというスイスの精神医学者は「意見の不一致があることは全く普通で、実際それはとても良いことである。結婚がうまくいっている人は、その問題に共同に取り組み、克服している人です」と言いました。後半は、「お互いに違う二人が、どのような問題をクリアーしたら、より親密になるのか」2つのことをお話ししたいと思います。二人が親密になるための、第一の課題は「コミュニケーション」です。まず、一日に発することばは男性と女性とで随分と違います。女性の方は男性の倍以上、話さないと満足できないという統計が出ています。男性は会社で全部、話すべきことばを話してしまいます。だから、家に帰ったら、もうめんどうくさくて話したくないのです。それでも、結婚前は、二人ともよく会話をしていました。しかし、結婚して数年経つと、あまり話さなくなります。妻がしゃべるのを、夫は新聞を読みながら、あるいはテレビを見ながら聞いています。「あなた聞いているの!」「聞いてるよー」と、しかたなく答えます。英語で「聞く」ということばが2つあります。1つはhearです。これは、風の音や猫の鳴き声が「聞こえる」という意味です。もう1つはlistenです。これは、意識して聞く、耳を傾けるという意味の聞き方です。音楽の演奏とかラジオはこちらの方です。でも、夫は、妻がしゃべるのをhear「あ、聞こえるなー」ぐらいで聞き流してしまう。これが問題なのですね。女性の場合は、感情面のコミュニケーション、感情を伝えたいのです。でも、男性はそれを情報として左脳で受け取り、分析して、「これはどうだろう」と、教えてしまうのです。違うんです。女性は自分の感情を分かち合いたい、受け止めてもらいたいんです。私も結婚して、29年たちますけど、今でも「ああじゃない、こうじゃない」と教えたりします。男性諸君、女性の話を聞きましょう。頭で聞くのではなく、心でlisten、聞きましょう。

また、コミュニケーションの障害になるのが、途中で口を挟むということです。相手がまだ、話しているのに、途中から割り込んで話すということを気づかないでやっています。2年くらい前に、カップルズ・コースというのをやったことがあります。「口を挟まないように聞く」というレッスンがありました。夫婦どちらかですが、ハンカチを持っている人が話すようにします。ハンカチを持っていない人は、ひたすら耳を傾けることに集中します。今度は、ハンカチを交代し、ハンカチを持っている人が話します。私はそれまで気がつきませんでしたが、結構、私たちは相手がまだ話しているのに、口を挟んで自分のことを話してしまいます。常磐牧師セルを私たちは月一回持っています。10教会くらいの牧師が集まるのですが、何組かはご夫婦で来られます。順番に近況報告をするのですが、ご夫婦になると、どちらかがやっぱり口を挟みます。他の牧師が話すときはさすがに遠慮しますが、夫婦になると遠慮がないのですね。ハンカチの話をしたら、「なるほど」と言われました。ハンカチ落としというゲームがありますが、それではありません。どうでしょう?レッスンのために、ハンカチを持った人が話し、持っていない人は相手に耳を傾ける。でも、ハンカチを奪い合って、引きちぎらないように。4、5分間くらい、交替交替でやったら良いですね。相手に自分の気持ちを伝えることができた。また、相手も自分の気持ちを受け止めてくれた。これは本当に幸せです。こういうコミュニケーションは、親密さを作り上げるために、非常に重要だと思います。

第二の課題は「不一致の管理」です。「衝突を解決する」と言っても良いでしょう。前半のポイントで、男性と女性との違い、また個人個人の性格や好みからくる違いということを申し上げました。神の愛によって、お互いを理解し、受け入れ合うということももちろん重要です。でも、具体的なスキルというか知恵もあったら良いと思います。丸屋真也先生が結婚カウンセリングの学びで「不一致の管理」ということを教えてくださいました。少し引用させていただきます。夫婦はすべてが一致することはありえません。でも、親密になるためには、共有する部分を作る必要があります。共有部分はある意味では絆ということができます。これを増やしていくのです。でも、すべてが1つでなくて良いのです。夫婦の間で共有できない問題もあります。たとえば、趣味において、夫はサッカーが好きです。妻は、スポーツは一切ダメで美術や芸術が好きです。夫は、美術は興味ありません。これまで美術館に一緒に行きましたが、いやな顔をしていました。妻は一年に一回サッカーに行ったら気絶しました。ここに、関係的妥協が必要です。関係的妥協とは何でしょう?サッカーは夫の趣味なので、サッカーは自分の友人と行くことを許します。また、妻の場合は、美術に関しては同じ趣味の人と行くことを許します。次に「交代で」というのもあります。今回はピカソ、次回は優勝決定戦に行くのです。でも、どうしても無理な場合は、他の人との関わりの中で満たしていくのです。お互いを認めてあげることによって、不一致が適切に解消します。これを関係的妥協と言うようであります。私と家内が結婚して一番ぶつかり合ったのが、医療の問題です。子どもたちが小さい頃、よく風邪をひいてぜん息気味になりました。私はどちらかと言うと神の癒しを信じる方です。「イエスの御名によって祈ります。アーメン」と。しかし、家内は安心できません。「やっぱり、医者に行こう」と言うのですね。「私は祈ったじゃないか。風邪なんか薬を飲まないで、あったかいものを食べて、寝るのが一番なんだ」と主張します。家内は看護師なので、医学的な知識が豊富なので、「手遅れになったらこういうことになる」と色々浮かんでくるのです。しかし、私は楽天的です。それで最初はよく喧嘩をしました。しかし、あるときから「ああ、両方やれば良いじゃないか」と思うようになりました。先ず、病気のために祈ります。さらに、お医者さんに行く必要があるならば行くということです。

カップルズ・コースに書いてありましたが、お互いが衝突するとき、2つのタイプに分けられるということです。ある人はサイのようになります。攻撃されると、自分も攻撃的になるということです。また、ある人はハリネズミのようになります。その人は威嚇されると内にこもってしまうのです。みなさんのカップルは、それぞれ、どちらのタイプでしょうか?サイvsハリネズミでしょうか?それともサイvsサイでしょうか?あるいは、両者ともハリネズミでしょうか?そうなっちゃうと、もう関係が持てなくなります。我慢はよくありません。あとから、「どっかん」と爆発してしまうからです。それよりも、冒険を犯してでも、自分の気持ちを伝える努力をすべきであります。以心伝心なんというのは「幻」です。衝突を解決するために、ある程度、まとまった時間を取る必要があります。夜10時以降は遅すぎます。夕食を食べて、落ち着いた時間が良いでしょう。それから、お互いを攻撃するのではなく、問題点を話し合います。そのときに「あなたはいつもこうなんだから」とレッテルを貼らないということです。「あなたはいつもそうだ」「あなたはいつも○○してくれない」そういう言い方は避けましょう。もう1つは「私メッセージ出語る」ということです。「○○と言われると、私は軽蔑された気持ちになるの」とか「私はそういうふうに思う」というように、です。逆に「あなたが」「おまえが」というと、さばいているように聞こえるからです。そういうふうに、話していくと、必ず解決の糸口が見えてきます。そして、一番の解決はお互いに祈り合うということです。祈るとイエス様が間を取り持ってくださり、また、結び合わせてくださるからです。神さまはあえて、違う者どうしを引き合わせてくださったのです。その後、不一致、あるいは違うところを認め合って、さらに解決していくことによって、本当の親密さが生まれてくるのです。はじめから親密なカップルというものはおそらく存在しないのではないかと思います。親密さは、お互いの努力と神さまの恵みによって生み出されてくるものであると信じます。

伝道者の書4:12「もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」このみことばは、ひとり、ふたりとなっていて、最後には「三つ撚りの糸」となっています。おそらく、二人の間に、イエス様が間におられるカップルではないかと思います。生身の人間は「ヤマアラシの論理」のようです。近づくとお互いの刺によって傷つけ合ってしまいます。かといって、離れると寒い。二人の間に、イエス様をお招きしたなら、イエス様が、両者の刺を受け止めてくださる。だから、私たちは教会内における兄弟姉妹との交わりでも、夫婦においてでも、私たちはイエス様を通して、互いに愛し合うことが可能なのです。

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