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2010年8月29日 (日)

キリストにある結婚  マラキ2:14-16、Ⅰコリント7:7-9

長続きできない多くの結婚生活は、結婚についての正しい理解を持っていないことです。また、神のみことばに合わないこの世の結婚観を持っているからです。人々は、幸福になるために結婚しようとします。そして、幸福でないからと言って離婚します。幸福は、結婚の目的ではありません。神様のみこころに従うとき、ボーナスとして与えられるものです。また、多くの人たちは、結婚式の準備はしますが、結婚生活に関しては準備しません。結婚式はたった1日ですが、結婚生活はその先、一生の問題です。しかし、だれも正しい結婚について教えてくれません。みんなぶっつけ本番で結婚してしまうので、失敗するのです。きょう来られていらっしゃる皆さん全員が、結婚しているわけではありません。これからの人は準備のため、「もう卒業した」と、思っている方は、次の世代に伝えるために、共に学びたいと思います。

1.結婚とは神からの召命です。

 ソクラテスの弟子が悩んで質問しました。「先生、私は結婚したら良いでしょうか?」ソクラテスが答えました。「もし、結婚したら、『ああ、結婚しなければ良かった』と後悔するだろう。また、もし、結婚しなかったなら、『ああ、結婚すればよかった』と後悔するだろう。結婚して後悔するか、結婚しないで後悔するか、どちらも同じじゃよ」と答えたそうです。使徒パウロがⅠコリント7章でこのように教えています。Ⅰコリント7:7「私の願うところは、すべての人が私のようであることです。しかし、ひとりひとり神から与えられたそれぞれの賜物を持っているので、人それぞれに行き方があります。」使徒パウロは一生涯独身でした。パウロは「私のように独身であれば、神様に最大限に仕えることがきるので、それが理想的である。だが、それぞれ神様から与えられた召命と賜物がある。私のように独身の賜物が与えられているなら、それで良し。もしも、結婚するように召されているなら、それでも良し。」と教えました。この世の中では、結婚して所帯を持たなければ一人前に扱われないようなところがあります。結婚していなければ、成熟していないのでしょうか?聖書ではそうは言っていません。成熟度は、結婚しているか、結婚していないかには関係ありません。独身であっても神さまの前では、成熟した男性であり、また女性なのです。

パウロが言っているように、結婚は神さまからの召命です。パウロはさらにこのように教えています。Ⅰコリント78-9「次に、結婚していない男とやもめの女に言いますが、私のようにしていられるなら、それがよいのです。しかし、もし自制することができなければ、結婚しなさい。情の燃えるよりは、結婚するほうがよいからです。」そうです。情が燃えてきて自制することができない。「ああー、結婚したい!」と思っている人は、おそらく、独身で召されているのではなく、結婚するように召されていると信じます。しかし、自分が生まれ育った家庭環境によって、結婚に対する悪いイメージを持っている場合がかなり多いと思います。「結婚はしたいのですが、うちの両親を見ていると不安になる。あんな家庭は築きたくない」「お父さんのようにはなりたくない」「お母さんのようにはなりたくない」。そういう傷があると、実際に結婚してから、問題が起こる可能性が大です。アメリカでは多いのですが、プレマリッジ・カウンセリング、結婚前カウンセリングというものを受けられたら良いと思います。相手の家庭環境や成育史というものが、かなり影響を与えています。結婚するときに、それぞれの背中にバッグを背負っているわけです。しかし、多くの場合は、恋愛感情が高まっていて、そんなものは些細なものに見えます。でも、実際結婚してから、背中のバックを開けると、次から次へといろんな物が出てくるのです。ですから、結婚前に、背中のバックをできるだけオープンにして、解決しておく必要があります。全部は無理でしょうが、決定的なものをお互いが合意しているなら、結婚後、問題が起きても乗り越えられるのではないかと思います。私たちが結婚する前、柿谷先生という結婚カウンセラーが、すぐ近くにおられました。日本では結婚カウンセリングの草分け的存在の方です。立ち話しでしたが、私の家庭と家内の家庭をちょっとお話しました。先生は「ああ、それだったら、カウンセリングをする必要がありますね」とおっしゃいました。しかし、カウンセリングを受ける機会をなくして、私たちはここまでやってきました。「花も嵐も踏み越えてー」であります。ですから、結婚前に、霊的な面、心情的な面など、いくつかの準備をする必要があるということです。

2.結婚とは、神との契約です

アメリカで、ある数のご夫婦にアンケートをしました。「あなたがたは今の結婚に対して満足していますか」という問いに対して、「95%の人たちが満足していない」と答えたそうです。アンケートの対象は、なんと、クリスチャンであったということです。アメリカは、そういう意味で、もはやキリスト教国ではありません。50%近くも離婚しているからです。神様のみこころは何でしょうか?マラキ書2章には、「神様は離婚を憎む」と書いてあります。つまり、離婚は神様のみこころではないということです。さらに、マラキ書は「あなたがたの霊に注意せよ」と言っています。これはどういうことかと言いますと、結婚とは霊と霊の結び付きだということです。結婚して、肉体関係を持ちますと、お互いの霊と霊を交換することになります。それは神様が一致のために与えた恵みなのであります。もし、そのカップルが離婚するとどうなるでしょうか。接着剤でつけた2枚の板を剥がすとどうなるでしょうか?板がきれいにはがれて、もとの2枚の板になると思いますか。そうではありません。一方の板に片方の木切れがくっつき、もう一方の板に片方の木切れがくっついています。離婚したカップルもそうなのです。同じことが、結婚する前に肉体関係を持った人にも起こります。A子さんの霊の一部が、B男さんの霊にくっついています。そして、B男さんの霊の一部が、A子さんの霊にくっついています。複数の異性と肉体関係を持ちますと、たくさんの人の霊が、自分にくっついてしまって混乱状態に陥ります。ですから、そういう罪を犯した人は悔い改めましょう。そして、御霊の剣によって、自分にくっついた霊の一部を切り離して、相手に返します。そして、相手に行ってしまった霊の一部を取り返します。そういう作業をしない限り、あなたはずーっと、別れた人に囚われてしまいます。

本題に戻ります。結婚とは、神が定めたものであり、人間が考え出したものではありません。契約には2種類あります。1つは人間との契約です。英語では、contractと言いますが、この契約は一時的であり、条件付きで、部分的です。人間の契約は、ある一定期間、ある条件を満たした時だけ有効なのであります。一方、神との契約は、covenantと言いますが、これは全生涯に渡るものです。だから、夫婦はいかなるときにも死が二人を分かつ時まで、忠誠を誓い合うのです。さらに、神との契約は、無条件であり、全体的であります。図を見て、分かると思いますが、左側が人との契約です。これは売買契約とか保険などの契約です。人との契約は、一時的です。一方、神様との契約は全生涯にわたるものです。また、人との契約は条件付きです。多くのカップルは「性格が合わない」とか「暴力をふるう」「家にお金を入れない」「性的満足を与えない」と言ってすぐ離婚します。でも、神様との契約は無条件であります。また、人との契約は部分的、パーシャル・マリッジです。「パーシャルデント」、部分入れ歯の洗浄剤で聞いたことがあります。でも、神様との契約は全体的(トータル・マリッジ)です。全体的とは何かということは、第二のポイントで学びたいと思います。

3.結婚とは全体的なものです

マタイ19:5,6「『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」。聖書は「神様の前に夫婦が一体となる」という約束を与えておられます。でも、ただ結婚したからと言って、自動的に一体になることはできません。では、どのように夫婦は一体になれるのでしょうか。また、それはどのような分野でなされるのでしょうか?

①1つの霊

 夫婦は霊的に1つになることが何よりも大切です。そのためには、お互いが祈り合うことです。祈り合うと、お互いの霊と霊が交わり、霊的一致が与えられます。韓国に熱心なクリスチャンのカップルがいました。それぞれ早天祈祷会に出席し、一日に、2時間も祈ります。でも、お互い一致なく、いつも争っていました。彼らは、一人で祈りますが、一緒に心を合わせて祈ったことがなかったのです。このことに気付いて、二人でお祈りするようにしました。すると、内側からすばらしい一致が与えられたということです。

②1つの心

 心と心が1つになるために、何をしたら良いでしょうか?それは会話です。正直に何でも話し合うことによって、魂と魂が交わることができるのです。結婚前のカップルは良く話し合います。でも、一旦、結婚したらどうでしょうか。お互いの会話がなくなります。レストランに行って、周りを見渡してみると、結婚しているカップルかそうでないカップルすぐわかります。お互いに目を見つめ合って、べらべら、ぺらぺらしゃべっているカップルは、結婚前です。そして、むっつりしてマガジンや新聞を見ているカップルは、既婚者です。ある調査によりますと、男性は一日、2万語を話すそうですが、女性は一日5万語を話さないと満足しないそうです。夫は会社で、営業とか何かで、その2万語を全部使い果たしてしまいます。お家にいる奥さんは、ほとんど使っていません。夫が帰って来たら、5万語をなんとか消化したいのです。「きょう、会社で何があったの」「どんなことがあったの」と聞いても、夫は「飯」「風呂」「寝る」しか答えません。会話に関しては、男性が弱いんです。だから、夫は、心から妻の声に耳を傾ける必要があります。また、夫は「それは、こうだろう!」と、教えてはいけません。ただ、ひたすら耳を傾け、理解しましょう。そうすると、妻は愛されていると感じるわけです。このことに関しては、私も勉強中です。

③1つの体

 これは、肉体の交わり、セックスです。男性の性的な欲求は、すべての中でNo.1です。しかし、女性の場合は、No.3かNo.5くらいなんです。ここで大きな違いが生じてきます。夫は、「喜んで協力しろ!」と妻に言いたくなるのですが、そうはいきません。日本では、こういう話題はタブーになっています。お悩みの方は、もうすぐ、銀婚式を迎える、私と家内に個人的に聞いてください。

④1つのビジョン

 たとえ召命や賜物が違っても、同じビジョンを持つということが大切です。クリスチャン同士でも、考え方や性格が違うことがよくあります。「お前がこっちに来い」、「あなたこそ、こっちに来てよ」とお互いに主張します。でも、相手に合わせることは屈辱的であります。夫婦が共通して持つべき最も大切なビジョンとは何でしょうか。それはお互いがキリストに似た者になるということです。夫と妻が「キリストに似た者になりたい」と願って、神様に近づくのです。こちらに夫、こちらに妻がいます。二人が神様に近づけば、近づくほど、二人の距離が縮まって行きます。

⑤1つの会計

 これは、お金を夫婦で別々にしないということです。財布はそれぞれ、持って良いのです。でも、会計は1つです。ある夫婦は、それぞれ貸し借りをしています。お互いにいくら持っているかは秘密です。イエス様は「宝のあるところにあなたの心もあるからです」とおっしゃいました。お金が別々であるなら、もう既に、心が別々になっているのです。夫婦、どちらが大蔵省になるかは自由ですが、1つの会計にしましょう。

⑥1つの親

 日本では舅、姑の問題が大きいです。「お前の親父はヘンだなー」「いいえ、あなたのお母さんこそヘンよー」などと、お互いの両親を悪く言うことはないでしょうか。そうではありません。結婚したら、義理の父も義理の母もありません。「あなたの父であり、あなたの母」なんです。つまり、自分のお母さんが二人、自分のお父さんが二人になったわけです。

 一致を体験するために6つの知恵を分かち合いました。結婚は部分的ではなく、全体的であることを理解しましょう。これが祝福のカギです。

4.結婚とは責任の拡大です

エペソ5:23-25「なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい」。エペソ5:33「それはそうとして(無条件に)、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい」。

夫にとって一番大切なこととは何でしょうか。それは、かしらとしてリーダーシップを取り、妻を愛することです。聖書は、「夫は妻のかしらである」と言っています。「かしら」だからと言って、何も偉いわけではありません。それは、機能、「働き」の問題です。夫は「かしら」として造られているので、リーダーシップを取るようになっているのです。リーダーシップとは、家庭において、最終的な決断をすることです。では、妻にとって一番大切なことは何でしょうか。それは、かしらである夫を敬って従うことです。「従う」と言っても、「何でもかんでも奴隷のように従え」ということではありません。「主にあって」ですから、神様が禁止していることに対して、従う必要はありません。でも、家庭において夫がリーダーシップを取り、妻がそれに従うというのが、神が与えた秩序です。しかし、戦後、靴下と女性が強くなり、夫に従わない妻が増えてきました。ある妻は子どもの前でも、夫を馬鹿にます。そして、自分で何でも決めて、夫に「このように決めたので、良いわね」と言います。しかし、それは愚かなことです。男性は、かしらとして造られているのです。もし、妻が全部決めたら、夫は「お前が決めたんだから好きにしろ!」と言って、責任を放棄するでしょう。どういうわけか、妻がリーダーシップを取ってしまうと、夫はなめくじのようにヘナヘナと弱くなってしまうのです。賢い妻はどうでしょうか。色んなことを調べ、資料を提供します。95%くらいまでは自分でやるかもしれませんが、あとの5%、おいしいところを夫に残します。「あなたがかしらなんですから、あなたがお決めください」。夫が決断したなら、最後まで、夫が責任を取るのです。賢い妻は「あなたは頼もしいわー」と褒めて、尊敬します。そうするとどうなるでしょう。夫は木に登るかもしれません。でも、夫はない力を振り絞ってでもがんばります。自分を尊敬してくれる妻には、命まであげるでしょう。それがオトコなんです。悲しいサガです。家で馬鹿にされた夫はどこへ行くでしょう。「社長さん」と呼んでくれる、キャバクラに行きます。

夫はかしらだと申し上げましたが、「かしら」には、源と言う意味があります。源が清ければ、下流には清い水が流れます。逆に、源である夫が汚れるなら、妻や子供に悪影響が及ぶでしょう。それは、傘にたとえることができます。夫が妻のかしらであるということは、このように傘が上を向いている状態です。すると、妻や子供たちが雨にぬれなくても良いわけです。しかし、夫が夫の役目を果たさない場合はどうでしょうか。働かなったり、浮気をしたり、暴力を振るったりする場合です。傘に穴が開いた状態になります。雨が下にいる妻や子供たちに落ちてきます。それでは、逆に妻がかしらになったらどうなるのでしょうか。それは、傘をさかさまにした状態になります。さかさまになった傘は、雨を防ぐことは出来ません。子供は一体どこに隠れるのでしょうか。でも、傘を立てて歩くなら、前に進むことができます。それは、夫がかしらとして、リーダーシップを取るということです。では、なぜ、聖書は夫に「妻を愛しなさい」とだけ言って、妻に「愛しなさい」と言っていないのでしょうか。妻は夫を愛さなくても良いのでしょうか。いいえ、妻も夫を愛さなければなりません。ここで、夫が妻を愛するように命じられているのは、夫がかしらであるからです。悪いかしらは横暴になって、妻を苦しめる恐れがあるからです。だから、「かしらにとって忘れてならないのは、妻を愛することだよ」と言っているのです。

数年前から「父親の学校」とか「母親の学校」というものが開かれています。世界的な規模で「メンズセミナー」とか「ウイメンズセミナー」というのもあるようです。そこでは、男性は家庭の祭司であり、預言者であり、王であると教えられます。教会の祈祷会に来るのは大体、女性がほとんどです。しかし、Ⅱテモテ2:8に「ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい」と書いてあります。男性が祈るとまた違うんです。家のかしらとして、手をあげて祈るときどのようなことが起こるでしょうか?自分に家長としての権威が与えられます。そして、祈った人たちと親密さが与えられます。妻のために祈ると妻と親密になり、子どもたちのために祈ると子どもたちと親密になります。男性は、「怒らないで、祈る!」これがとても重要な鍵です。さらに言うならば、夫は自分の体のように妻を愛して労わることです。妻は夫に従いそして敬うということです。私たちが自分たちの役割を果たすとき、神さまは幸いと祝福を家庭にもたらしてくださるのです。

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2010年8月22日 (日)

人間の成長と家庭   詩篇139:13-16、箴言22:6

 本日から4回に渡って、「良き家庭の形成」というテーマで話させていただきます。日本には聖書という土台がないので、子どもを物みたいに考えています。本来教育は人格とマッチしなければなりませんが、学校では知的な面しか教えてくれません。家庭も会社と同じように分業制みたいに分けるところがあります。年を取って働けなくなれば存在価値までなくなります。このような人生は、創造主なる神さまがいない、進化論的な価値観から生まれてきます。もし、私たちが聖書的な価値観で育てられたならなんと幸いでしょう。きょうは、人間の成長過程において、何が最も重要なのかメッセージさせていただきます。

1.胎児期

胎児期で知るべき重要なテーマは、お腹の中にいる赤ちゃんは一人の人間であるということです。人間の誕生はいつから始まるのでしょうか?法的にはいつから一人の人間として認められるのでしょうか?多くの人たちはお母さんのお腹から、「おぎゃー」と生まれた時から、その子の人生が始まると言います。しかし、聖書は受精した瞬間から、その人の人生が始まると書いてあります。詩篇139:13-16「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」ここでは創造主なる神さまが、骨格や人格形成にいたるまで参与していると書かれています。子どもは親の欲望や都合で生まれるのではありません。神さまが両親に新しい命を与えることをお許しになったと考えるべきです。神さまが「ご自分の代わりに育てるように」と、その子を両親に託したのであります。もし、そのような考えがなければ、一人の人格を持った人間として、尊厳をもって、育てることが不可能です。

学者は、「赤ちゃんは、お腹にいるときから、かなりのことをキャッチしている」と言います。特にお母さんの怒り、悲しみ、不安などが、お腹の赤ちゃんに伝わるそうです。お母さんが緊張すると、赤ちゃんの心臓の鼓動が高まり、血圧も上がるそうです。たとえば、お母さんが「早すぎたわ、中絶すれば良かった」と思ったとします。すると、赤ちゃんの霊に大きなダメージを与え「私はこの世にいてはいけない存在だ」と考えます。生まれて大きくなっても、心の深いところに、自殺願望やお母さんに対する怒りがあるそうです。ある男性が、「私はだれとも友達になれない。自分の家族ともうまくいかない」と悩みを打ち明けました。カウンセラーは彼と話していて、心の深いところに拒絶感があるのを知りました。彼は言いました。「覚えている限り、私は小さい時から、いつも人に嫌われていて、避けられていて、からかわれていました。私が何も言わないのに、何もしていない先から、人から拒絶されていることを感じました」。カウンセラーは「一緒に祈って、この拒絶の根っこがどこにあるか、神様に示していただきましょう」と言いました。祈ってから二日後、彼は夢を見ました。あたかも本当に起こっているかのような夢で、部屋の壁の色、カーテンの色まで見えました。ある男性がお母さんをののしって、最後にお腹を蹴飛ばして出て行った夢でした。お母さんに電話でそのことを話すと「一体だれがそんなことを教えたの」と驚いて、信じようとしませんでした。それは実際にあったことで、彼が9ヶ月目のとき、父親が家を飛び出したそうです。胎児の彼は父親を怒ってさばいたのです。彼が父親と母親を赦す祈りをしたら、人と会話がだんだんできるようになったそうです。

ルカ1章に、イエス様をみごもったマリヤがすぐにエリサベツのもとを訪ねて行ったことが書かれています。マリヤがエリサベツを訪ねたとき、エリサベツのお腹の中にいたバプテスマのヨハネが喜んで踊りました。それは、バプテスマのヨハネの霊がすぐさま、マリヤのお腹の中にいるのがイエス様であるということが分かったからです。近年「胎教」ということが良く言われます。妊娠5か月頃から音を聞き分ける能力が発達し、8ヶ月頃にはほぼ完成するそうです。そのため、良い音楽を聞かせたり、両親が仲良く暮らすことが大事なのです。つまり、子育ては誕生したときからではなく、妊娠中から始まっているということです。

2.幼児期

幼児期のテーマは、愛情あふれる養育です。0歳から2歳までは、基本的信頼感を学ぶ大事なときです。これがあると、周りの人々や、人生に対して心を開いて接することができます。さらには、神様にも心を開いて接することができます。基本的信頼感は日本語的には「絆」と言っても良いでしょう。両親との絆が浅いならば、人間関係も難しくなります。なぜなら、人を信頼することを学んでいないからです。0~2歳までの赤ちゃんは、いくらだっこしても十分過ぎるということはありません。随分、昔ですが、人の手で触れることが欠けている赤ちゃんがどうなるか実験しました。そういう赤ちゃんは生きる力がなくて、死んでしまいました。いくらお乳、栄養を提供しても、触れられない赤ちゃんは、栄養を吸収して生きる力につなげることができないのです。家庭において父親が不在で生まれ育った子供、あるいはいつも怒っている両親、問題があり愛情表現が欠けた家庭で育った子供、なぐられ虐待された子供は、基本的信頼を持つのが困難です。赤ちゃんにはスキンシップだけではなく、励ましの言葉が必要です。赤ちゃんはそれらを頭ではなく、霊で捉えることができるからです。

2歳から4歳までは大変な時です。独立心が芽生え、何でも「いや!」と言いたがります。また、親に反抗し、何でも自分でやろうとします。目を離したら何をするかわかりません。可愛らしかった赤ちゃんが、怪物のように見えてくるでしょう。このときに、親がしてはいけないことが3つあります。1つは無視(ニグレクト)です。ニグレクトは子どもにとって、親から見捨てられたという気持ちがします。2つ目はことばと肉体的な虐待です。親はある場合は、感情にまかせて、どなったり殴ったりします。そうすると子どもの中に親に対する怒りが生まれます。エペソ64に「子どもをおこらせてはいけません」書いてあるのはそのためです。3つ目は子どもの言いなりになることです。英語でspoil「甘やかす」という意味は、「だめにする」という意味があります。つまり、ちゃんとした境界線を決めるということです。叱るときは叱る。その後、赦して、ぎゅっと抱きしめるのです。害を与えるのは、「あなたは良い子でしょう。悪い子は私の子どもじゃない」という条件付きの愛です。子どもは「ありのままでは受け入れてもらえない」ので、本音を隠して、良い子を演じてしまいます。親の顔色を見て生きるで、大人になったら、ひきこもりになる可能性が大です。

これは私の考えですが、0歳とか1歳児を保育園に全部任せるのは良くないと思います。人格形成において、一番大事なときに他人に任せるというのはどうでしょう。保育師は親ではありません。子どもにとって、親を独占したいのに、十人いたら十分の一になります。みんなでおもちゃを分け与える前に、自分のものは自分のものと主張して良いときが必要です。自分のものがあってはじめて、他の人にも与えることができるのです。幼い時に家庭という所属感、自分のものであるという所有意識が必要です。その後で、人と分かち合ったりすることができるのです。心理学によりますと、6歳まで人格の骨組みが決まると言われます。それ以降は内装、カーテン、付属品です。しかし、日本では経済的な必要が第一で、共稼ぎをして育児に手かけることができません。大人になってから、得られなかったものを得るのは、そのときの何百倍もかかります。ですから、親は幼児期の子どもに対して、愛という投資をたくさんしましょう。

3.成長期

6歳から12歳までは成長期であります。テーマは主体性であります。箴言22:6「若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない」。「その行く道にふさわしく」とは、「神さまがその子どもに与えた気質や能力にふさわしく」という意味です。「教育」educationとは、ラテン語の「引き出す」に由来しています。つまり、真の教育とは、人間の可能性を外からの働きかけによって引き出すことを意味します。しかし、日本の教育は知識を詰め込み、規格品のような人間を作ってしまいます。最近、チャーチ・スクールがいろんなところで開かれていますが、聖書の価値観を土台とした全人格的な教育を目指しています。子どもが、家から学校へ行き始めると、全く環境が違います。これまでは「かわいい」「頭が良い」色々ほめられてきたかもしれません。しかし、学校へ行くと、いろんな悪口を言われます。勉強や体育ができなくても、色々言われます。学校の先生からも、他の人と比べられ落ち込むでしょう。ですから、それまで基本的信頼感が心に十分に築かれていないと、偽りを信じるようになります。「自分は、本当はダメなんだ。能力や才能がないんだ。人から嫌われ、受け入れられないんだ」と思うようになります。

そういう時こそ、親とのコミュニケーションが大事です。小学校の頃はまだまだ、親とよく話します。三男が「友達から馬鹿と言われた」と帰ってきました。私は「有悟は頭が良いんだよ。パパと友だちが言うのとどっちが正しい?」と聞きました。学校は子どもにとっては戦場です。いじめられたり、嫌なことがたくさんあります。ですから、私も家内も、学校に行くときは毎日、手を置いて祈りました。また、寝る前も祈ってあげたり、一緒に祈ったりしました。祈りというのは、本当にすばらしいと思います。祈りの中で励ましたり、本当のアイディンテティを教えてあげることができます。このとき、お母さんと、お父さんの役割が多少違います。お母さんは母性本能から、子どもを守ろうとします。子どもは家庭で泣いても良いのです。多少、甘えても良いのです。でも、お母さんだけが子育てに関わると、どうしても子どもを依存的にさせてしまいます。子育てのために父親も必要です。なぜなら、子どもに社会性を教えることができるからです。子どもに「パパも何度も失敗したよ。失敗しても大丈夫さ、また立ち上がれば良いんだ。」と、チャレンジを与えます。特に男の子は冒険が好きで、一緒に遊んだりすることが必要です。ある子どもが「パパ、一緒に遊ぼう!」と言いました。お父さんは「ん、あとでね」と言いました。また、子どもが「パパ、一緒に遊ぼうよ!」と言いました。その時もお父さんは「ん、今、忙しいんだ、あとでね」と言いました。やがて、お父さんは定年退職し、大きくなった息子に言いました。「たまには家に遊びに来いよ!」。息子は「ん、今、忙しんだ。あとでね」。子どもと一緒に遊べる時間というのは、本当に一時期です。

この時期に父親の役目を果たさなかったり、あるいは離婚すると、子どもに大きなダメージを与えます。日本の場合は父親がいても、忙しくて家庭にいません。よくあるケースですが、お母さんが子どもに自分の悩みを相談します。本来なら夫に分かち合うべき深い内容まで話します。そうすると、「お母さんこうしたら良いよ」と子どもはカウンセラーになります。お母さんの悩みことを一杯聞いて、最後にはパンクします。アダルトチルドレン(大人子ども)というのはこのために起こります。子どもは子どもらしく生きるべきです。すぐ大人になってはいけません。子どもは、親のもとで、のびのびと、安心して暮らす時が必要なのです。

4.思春期から大人

12歳から19歳くらいまでです。親から自立して自分の足で人生を歩み始めるときです。このときのテーマは個別化です。「自分は自分で良いんだ」というアイディンテティが確立するときです。ヨシュア19「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」この時期は、体つきは、もう大人ですが、精神はものすごく不安定です。親に逆らって自由になりたいけど、親の世話になっている状態です。口では反抗していますが、心の中では親から理解してもらいたいのです。思春期はまさしく人格が統合するときです。英語では、integrate、人格が統合、融合するということです。これがうまくいかないと、統合失調症ということになります。この病気は遺伝とか環境が複雑に絡み合って生まれるので、一口には言えません。でも、だれしもが程度の差はあれ、思春期に「一体、自分はだれなのか?人間は何のために生きているのか?」と悩むのではないでしょうか?ある女子中学生が学校の先生に「何のために勉強するのですか?」と聞いたそうです。すると先生は、「そんなくだらないことを考える暇があったら、単語の1つでも勉強しろ」と言ったそうです。その女子中学生はそのあと、自殺したそうです。学校の先生も「人生の目的は何か、何のために勉強するのか」分からないのです。だから、伝道者の書12章で「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に」と言っているのです。

思春期における人格形成によくないものは、親のダブルバインドです。子どもに「どこの学校に進んでも良いよ。お前の好きなところへ行って良いよ」と言います。しかし、実際に「こうしたい」と言うと、「なんだよ、そんなところ」と喜んでくれません。本年と建前というのでしょうか?ブルバインドは、それをもっと強力にしたものです。また、この頃は、異性の問題も出てきます。ポルノにはまる恐れもあります。日本では親子で性の問題を言うのは難しいかもしれません。ですから、教会のジュニアとか学生会でこういう問題を扱うと良いと思います。何でも相談できるお兄さん、お姉さん的な人が必要です。また、思春期に良くないのがコントロールです。「親子パック」というタイプがあるそうです。親が自分が叶えられなかった夢を子どもに託します。たとえば、お母さんは音大のピアノ科卒。しかし、自分は一流までいかなかった。今度は、子どもにはちゃんとピアノをならわせて一流にしたい。母親は「まだ、だめ。ぜんぜんだめ」と叱ります。子どもはお母さんにどうしたら認められるのか?気に入られるために、一生懸命に頑張る。しかし、到達できない。そういう子どもに限って、リストカットや拒食症が多いそうです。親は子どもの人格を認め、手放す、自由にさせることが大事です。

 大人とは何でしょう?どういう人を大人と言うのでしょうか?私は「自分で決断し、その結果に対して責任を持てる人である」と思います。では、親が子どもの自立を妨げてしまう最も、してはならないことは何でしょう?それは、親が子どもの代わりに決断をすることです。もし、親が選択して決断したならば、どうでしょうか?子どもが失敗したならば、親が責任を取らなければなりません。親はアドバイスしても良いのです。「これと、これがあるよ」と、いくつか選択肢を提供することはできます。しかし、選択し決断するのは本人がすべきことです。本人が決断したならば、本人が責任を取るしかありません。ある場合は、失敗するかもしれません。でも、そこから、また学ぶことができます。しかし、親が子どもの代わりに決断したら、子どもは不安になり、自分で決断できなくなります。すると、死ぬまで親が面倒みなければなりません。大学も、仕事も結婚相手までもそうなります。それでは、本当の自立にはなりません。子育ての一番の目的は、自立することであります。でも、その自立は神さまと共に歩める人になることです。私たちの父なる神さまは万事を益としてくださる神さまです。失敗さえも、益にしてくださるお方です。

聖書の時代は、13歳になったら、その若者は大人とみなされた。この成人式は「バルー・ミツバ」と呼ばれ、「神聖なる律法の子」という意味です。これからは、両親の救いから抜け出して、自分が神の前で責任をもって生きるということです。エリア・ハウスでは「ティーン(10代)への親のアドバイス」というのがありましたので、最後に分かち合いたいと思います。

・ティーンは幼い子供のようにコントロールすべきではない。

・「手放す」ことを始める。コントロールしたい気持ちを抑える。

・たとえ失敗したとしても、信じてやる。

・無条件に愛情を降り注ぐ。

・いつも、いつも、物事の意味を教えてやってはいけない。自分で学ぶ体験や、決断の機会を奪ってしまわないために。

・自分(親)の失敗について語る(自己弁護したり、動機を説明したりせずに)。

・もし父親、あるいは母親として、やり過ぎをやめることができず、子供の反抗がさらにひどくなっていく場合には、親戚か友人の家にしばらく預けること。距離を置くことで緊張が和らぎ、親のやり過ぎとティーンの反抗という悪循環を止めることができる。このように親から離れると、実際には多くの場合、ティーン自ら正しい決断をする。これまでそうできなかったのは、親が「正しいのは自分」という態度でいたからである。

 きょうは、偉そうなことを言いましたが、私自身が「子育てが成功したのか?」と問われたならば、「60点くらいかなー」と答えるでしょう。なぜでしょう?私も父や母、兄弟、先生からいっぱい傷を受けてきました。私自身が世の中の基準に合わなかったからかもしれません。しかし、私は律法ではなく、神さまの恵みを知りました。恵みは、数学で言うなら、方程式を覚えた時くらいの感動です。この世の方式ではダメだったけど、神さまの方式では解くことができたのです。家系の呪い、成育史における傷、様々な罪やトラウマ…神さまは癒してくださいます。そして、より良い家庭を、子どもから孫へと、自分の後から残すことが可能になります。出エジプト20: 6「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」神さまは呪いよりも、恵みを私たちに与えたいのです。

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2010年8月15日 (日)

イエスの御名の権威    ヨハネ14:10-14 

 私たちの祈りとは、天におられる父に向かって祈ることです。「天のお父様、○○○。最後にイエス様のお名前によってお祈りします」。これが祈りの定式と言って良いでしょう。しかし、イエス様は、もう1つ別な祈りを提唱しておられます。それは正確には「祈り」ではないかもしれません。むしろ、命令とか要求に近いものです。私たちは父なる神さまに、命令したり、要求するなんて「とんでもない!」と恐れるでしょう。もちろん、天の父にはそういう失礼なことはしてはいけないと思います。でも、イエス様が私たち信じる者に、特別な権威を与えておられるのではないでしょうか?もし、信仰によってその権威を用いるならば、神さまが私たちに対して願っている豊かな生活を送ることができるのではないかと思います。きょうは信仰シリーズの最後ですが、「イエスの御名の権威」と題して共に学びたいと思います。

1.イエスの御名で要求する

イエス様はマタイ6章で、弟子たちに「このように祈りなさいよ」と言われました。私たちも、「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように」と祈ります。私たちはイエス様の御名を通して、天のお父様に祈りをささげます。また、イエス様の御名を通して、いろんなものを求めます。そうすると、父なる神さまが、守りや助けなど、必要なものを与えてくださいます。でも、聖書をよく見ると、父なる神さまに対してではない祈りがあります。ですから、これは正確には祈りでないかもしれません。ヨハネ1414「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」ここで言われている「私」と言うのはイエス様のことです。ですから、私たちが「イエス様の名前で何かを求めるなら、イエス様がそれをなさる」という意味です。また、この聖句の「求める」というのは、願い求める以上のものであることが分かります。「求める」はギリシャ語でアイテオゥであります。このことばには、「求める」だけではなく、「要求する」「願う」という意味もあります。ヘロデはヘロデアの娘に対して「何でもほしい物を言いなさい。与えよう。おまえの望む物なら、私の国の半分でも、与えよう」と誓いました。すると少女は「何を願いましょうか?」と、母へロデアに相談しました。その後、娘は「今すぐに、バプテスマのヨハネの首をお盆に載せていただきとうございます」と、頼みました。この「頼んだ」という日本語は、ギリシャ語ではアイテオゥであります。つまり、ヘロデ王が「なんでも欲しいものを与えよう」と約束したので、少女は「ヨハネの首を」と要求したのです。例話的には残酷すぎますが、少女には求める権利があったのです。

 かなり前に、メル・ボンドというアメリカ・インディアンの先生が、このテーマでお話してくださったことがあります。求めるというのは、英語でclaimであると言っておられました。claimと聞くと私たちは、「何かにクレームつけることだろう」と思います。それもありますが、claimは「主張する、要求する、請求する、自分のものだと言う」という意味です。もし、これが聖書のアイテオゥであるならば、ものすごいことになります。しかも、メル・ボンド師は「何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう」ということばは、もっと深いと言われました。これは「もしないならば、私がそれを造ってあなたに差し上げましょう」という意味であると教えてくださいました。メル・ボンド師はどこからそういうことを学んだのでしょう?先生は、ケネス・へーゲン師の「レーマ神学校」で学んだ方です。ですから、その発信元のケネス・へーゲン師の本を調べてみました。すると、このように書いてありました。「私たちの権利として要求すること。でも、私たちはそれを神さまに要求しているのではありません。私たちはこれを悪魔に要求しているのです。私たちが自分の権利として求める、すなわち要求することは何でも、『イエス様がそれを行なう』と言われたのです。もし、私たちが生活の収支に困っているとすれば、サタンに私たちの金銭面から手を離せと命じる権利が私たちにあるのです。私たちの必要があれば何であっても、その必要が満たされるように求め、要求することは、キリストにあっての私たちの特権であり、私たちの権利なのです。」このように書いてありました。

では、聖書にそういうことが書いてあるのか?調べてみたら、ペンテコステの後、ペテロがこのように要求しています。生まれつき足のなえた人に向かって「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言いました。その足の不自由な人が立ち上がって歩くように、ペテロはイエス様の御名によって要求しました。ペテロは「神さま、これをしてください」と祈ったのではありません。ペテロは、イエス様の御名によって要求することは何でも、イエス様がしてくださることを知っていたのです。ヨハネ14:3でイエス様は弟子たちに、何とおっしゃっておられたでしょうか?ヨハネ1412「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。」アーメン。ペテロが、あの足の不自由な人にいやしの奉仕を行なったとき、彼は、イエス様のなさったわざを行なっていたのです。福音書を見て、驚くのですが、イエス様は病人に手を置かれましたが、病人のために祈られたことは一度もありません。また、悪霊に対してもただひとこと「去れ」と命じただけです。ということは、ヨハネ14:12-14に書いてあるように、これは父なる神さまに対して祈ることではありません。私たちもペテロが行なったように、イエス様の御名によって要求すべきだということです。前回も引用しましたが、ゴスペルにSpeak to the mountainという賛美があります。「山に向かって言いなさい。どきなさいと言いなさい。そうしたら動く」という歌詞です。そして、最後の部分は、Name it, claim it, it’s yoursとなっています。nameは「はっきりと指示する、明示する」という意味です。そして、claimは、まさしく「要求する、求める」という意味です。

ですから、私たちは祈り方をあるときは変えなければなりません。病の癒しのとき、天の父に対して「どうか、この病気を治してください」と祈ります。自分のためにも他の人のためにも、そのように祈り求めることができます。しかし、それだけではありません。もっと有効な手段があります。病気の患部に対して、命じることです。ある場合は叱ることもあります。たとえば、花粉症とかアレルギー鼻炎というものがあります。私はそういう場合、「アレルギーを叱る。この人から去るように命じる!」と言います。アレルギーの霊があるかそうかわかりませんが、願うのではなく、命じるのです。私のイメージの中では、アレルギーがぱっと離れ去るような感じがします。腰が悪い場合、左右どちらかの足が短くなっています。実際、足が短いのでなくて、腰がゆがんでそうなっているのです。ですから、足首を取りながら、「短い方の足よ、伸びよ!」と命じます。すると1秒かかるか、かからないうちにぱっと伸びます。ある姉妹は背が低かったので、「両足が伸びたら良いだろうなー」と思って。「左右の足よ、伸びよ!」と命じたことがあります。5ミリくらい身長が伸びたようです。それから何度も祈りましたが、「足がムズムズする。かゆい、かゆい」と言いましたけど、それ以上、長くなる様子はありませんでした。しかし、徐起源(ソウキウォン)先生の本に書いてありました。あるとき、標準よりもずっと背の低い少年がいたそうです。先生がその少年のために背が伸びるように祈りました。そうすると少年は仰向けに倒れ、両足をバタバタさせていました。10分以上、そういう状態で両足をバタバタさせていました。その後、起き上がったら、10センチ以上背が伸びていたということです。この会堂が建つ前のことです。私は教団の赤羽教会に2年くらい半徹夜祈祷会に通いました。一番最後に、荒川の土手に行って「叫びの祈り」をします。午前2時頃です。深谷先生もちょうど赤羽教会の前の土地を買って会堂建築を求めていました。私も会堂建築の必要が与えられるように祈りました。深谷先生は「1億円降って来い!」と天に向かって大声で叫んでいました。私も真似をして、「5000万円降って来い!」と叫びました。志茂の団地の人たちは大めいわくであったと思います。その後、赤羽教会も当亀有教会も必要が満たされたのであります。

もちろん、神さまに命じたり、要求してはいけません。やっぱり、へりくだってイエス様のお名前によって求めるべきであります。しかし、もう1つの祈りもあることを忘れてはいけません。この世界や環境、病気、悪霊に対して、命令すべきであります。イエスの御名によってclaim「これは私のものです」と主張すべきであります。イエス様は盲人のバルテマイに、「私に何をしてほしいのか?」と聞かれました。彼は「先生、目が見えるようになることです」と言いました。バルテマイはイエス様に要求したのです。するとイエス様は「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われました。すぐさま彼は見えるようになりました。今まで、「下さい、下さい」と願い求めていたかもしれません。そういう祈りも必要ですが、今度はイエスの御名によって、要求してください。「それは私のものです」と請求してください。イエス様は「あなたの信仰のようになるように」と、あなたに与えてくださいます。

2.イエスの御名の聖書的根拠

イエス様は、公生涯をはじめる前に、悪魔の試みを受けられました。そのとき、悪魔はイエス様を高いところに連れて行き、世界の国々を全部見せてこう言いました。「この国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私にまかされているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もし私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう」(ルカ46と誘惑しました。悪魔が「国々のいっさいの権力と栄光が私のものです」と言ったのです。もし、それが嘘であるならば、イエス様は「馬鹿こけ!これは御父のものである」と一蹴したはずです。でも、イエス様は「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい」と答えました。つまり、悪魔が言ったことを否定していないということです。では、この地上の国々、すべてのものが悪魔のものなのでしょうか?創世記1章において、神さまはアダムになんとおっしゃったでしょうか?「生めよ。増えよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ」と言われました。そうです。はじめは、自然界と地のすべての動植物は人間のためのものであり、それらすべてを支配する権威が与えられていました。 ところが、アダムとエバが神に逆らって罪を犯してからどうなったのでしょう?「土地は呪われてしまった。土地はあなたのためにいばらとあざみを生えさせる。あなたはちりに帰らなければならない」と言われました。そして、二人はエデンの園から追放されてしまいました。エデンの園は、神さまの祝福、あるいは神さまの権威を象徴しています。しかし、エデンから出されたということは、神さまの祝福と権威を失ったということです。それだけではなく、土地が呪われ、いばらとあざみを生えさせるというのです。

少し前、宮崎県で口蹄疫が大流行して、10万頭近くの牛や豚が殺処分されました。原因はウィルスでした。ウィルスはまさしく生物です。生物が人間に牙を向いているということです。中世ではヨーロッパでペストが大流行し、3000万近くの人が死にました。つまり、ヨーロッパ人の3人に1人がペストで死んだと推定されています。日本では結核がありました。また、現代ではエイズが全世界に猛威をふるっています。他にも様々な病原菌やウィルスがあり、人間はなんとかワクチンや薬を作っています。私はこういった病気があるのは、極論を言えば、人間が従来もっていた権威がなくなり、逆に自然界が人間を飲みつくそうとしているのです。しかし、その背後には悪魔・サタンがいることは間違いありません。ヨハネはⅠヨハネ519「私たちは神からの者であり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています」と言っています。何故、この世に災害や不条理、事故、ひどいことが起こるのでしょう。多くの人たちは「神さまがいるのに、何故、こんなことが起こるんだ。やっぱり、神さまはいないんだ」と言うでしょう。正確に言うならば、この世は神から離れているために、神さまの守りがないのです。でも、この世がまだ存続しているのは、神さまのあわれみがあるからです。神さまがおられないならば、とっくの昔にこの世界は滅びたでしょう。災害や不条理、事故、病気が起こるのは、神さまのせいではなく、人間の罪と悪魔のゆえであります。本来、人間がこの世界を管理すべきだったのに、その権利を失いました。それどころか、この世界を我が物顔に治め、自然を破壊し、本来、人間が行なうべきことをしていません。ローマ書1章から3章に書かれているように「当然の報いを受けているのです」。でも、イエス様が人のとなってこの地上に来られました。ヨハネ316「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」とあります。私たちはすぐ、このところを「人間を愛された」と置き換えますが、そうではありません。神さまは世、世界を愛されたのです。この世界を回復するために、御子イエス様をお送りになったのです。世界の中には人間、動物、植物、あらゆる生き物が含まれています。

イエス様はこの地上に来られたとき、本来、人間が持つべき権威と力を行使されました。あるとき、弟子たちとイエス様が舟でガリラヤ湖を渡ろうとしていました。ところが、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって沈みそうになりました。そのとき、弟子たちは「私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思わないのですか?」と眠っておられるイエス様を起しました。イエス様は起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われました。すると風はやみ、大なぎになりました。その後、イエス様は弟子たちに何とおっしゃったでしょう?「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです」と。つまり、「あなたがたはこんな嵐を静めることができないのですか?信仰があるなら普通にできることです」とおっしゃっているのです。つまり、人間には本来、自然界を治める権威があるんだということです。あるときは、「5000人の群衆をあなたがたが食べさせてあげなさい」と言われました。弟子たちは、「え?ここには5つのパンと2匹の魚しかありません。こんなものが一体、何の役に立ちましょう」と答えました。しかし、イエス様の標準的な考えは、「神の子ならば、これらの群衆を祝福する権威が与えられています。感謝して、父から求めなさいよ」ということなのです。イエス様はこの世を去るとき、どのように言われたでしょうか?マタイ2818「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」とおっしゃいました。この意味は、「ご自分が持っているすべての権威をあなたがた与えますよ」ということなのです。何故、私たちは神さまの子どもなのに、失望落胆して、うつむいて歩かなければならないのでしょうか?それは神の子として、イエス・キリストの御名の権威を用いていないからです。

私は最近、牧師先生たちのコーチングをさせていただいています。あるとき、一人の牧師のお話を聞きました。「セミナーで自分が話したけれど、みんながよく聞いてないようだ。さっぱりだった」というのです。教会員とのやり取りの中でも、さしさわりのないようなことしか話さないということです。彼は牧師の子どもで長男は一般の仕事をして、弟の自分がなったということでした。いろいろ聞いていくうちに、自分が子どものときお父さんに何か言うと「お前はだまっておれ!」とよく言われたそうです。やがて、お兄ちゃんは牧師の表と裏の世界を見て、「牧師にはなりたくない」と大学のとき言ったそうです。お父さんは長男が牧師になることを願っていましたが、弟の自分がなりました。彼は自分の意見を言うのにとても遠慮気味です。できるだけ衝突を起さないように、大変気を使っています。いろいろ、考えてみて、やはり子どものときお父さんから「お前はだまっておれ!」と言われ、自分に自身がなくなったのではないかと思います。「認めてもらえなかった、自分は小さい存在である、だれも私の意見を聞いてくれない」というイメージができたのではないかと思います。そのため、みなさんにメッセージを語っても、「うまく伝わっていないんじゃないか?自分の力不足だろうか?」と思う。また、人にも自分の考えを主張できないことがある。つまり、子どもの多感なとき、出鼻をくじかれてしまったのではないかと思います。イエス様が12歳のとき、両親と一緒にエルサレムに上りました。そのとき、律法学者たちと対等に話しました。人々は少年イエスの知恵と答えに驚いたと聖書に書かれています。その先生も子どものとき、知恵にあふれていた。ところが悪魔はお父さんを使って、「将来、牧師になって力強く語らないように」とガツンとやったのではないかと思います。神さまは私たちにすばらしい将来を計画しています。しかし、サタンは私たちが小さいときに、可能性の芽を摘もうと悪さをします。もう、その人は大きくなっても、「自分はできないんだ」と考えて、本来、神さまが願っていたことができなくなっています。みなさんは、サーカスの象をどのように調教するかご存知でしょうか?調教師は、象がまだ子どものとき、足の一本にロープを結び、その端を木につなぎます。子象は一生懸命、力を振り絞ってロープを切って自由になろうとします。毎日、毎日、足がすりむけるほど引っ張ります。やがて、子象の頭の中に、「この木は引っ張っても、絶対、動かないんだ」と思うようになります。その後、調教師は象を一本の杭につないでおくことができます。象は大人になっているにも関わらず、一本の杭につないでおくことができるのです。なぜなら、象の頭の中に「この木は引っ張っても、絶対、動かないんだ」という思いが信念としてあるからです。

悪魔は私やあなたを子どものときに、あることを信じ込ませたのではないでしょうか?「お前は、絶対、リーダーには向かない」「お前は、何をやっても成功しない」「お前は、幸せになることができない」「お前は、一生涯、貧しく暮らすのだ」「お前は、人から好かれない。」これらは、みんなあなたが子どものときに信じ込まされた嘘です。あなたはイエス様を信じた後も、心の深いところで「自分はだめなんだ」という思いに支配されているのではないでしょうか?マルコ1123「だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります』」。ヨハネ1414「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」どうぞ、イエスの御名によって要求してください。「これは私のものです」と請求してください。イエス様から、天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。イエスの御名の権威を用いて、本来、自分のものであったものを「これは私のものです」と、取り戻そうではありませんか。

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2010年8月 8日 (日)

癒しに関する信仰  イザヤ53:4-5、マルコ16:17-18 

肉体の病気はどうし起こるのでしょうか?それはアダムとエバが罪を犯したからです。そのために、私たち人類に、死と病が入り込みました。私たちに死がある限り、病も存在するのです。しかし、イエス・キリストは十字架で病を負い、死に勝利してくださいました。ですから、私たちが天国に行ったならば、死も病もありません。多くの教会はこのところで満足します。しかし、聖書を読むならば、主イエス・キリストがなされた三分の一の奉仕が病の癒しと悪霊の追い出しでした。また、イエス様は弟子たちにも「それをせよ!」とお命じになられました。ある人たちは「使徒の働きの出来事は聖書の成立と同時に終った」と言いますが、そうではありません。福音宣教とともに、病の癒しも私たちに与えられた大切な命令であります。本日は、癒しを受ける信仰と癒しを行なう信仰について両方からお話したいと思います。

1.祈りによる癒し

 イエス様は「私の名によって求めなさい」と何度もおっしゃいました。ヨハネ1623,24「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」私たちが病気になったとき、「私を癒してください」と祈ることはいけないことなのでしょうか?「求めなさい。そうすれば受けるのです」の中には、癒しのための祈りも含まれるのではないでしょうか?もし、自分や自分の家族が癒されたなら、喜びが満ち満ちたものとなるでしょう。Ⅲヨハネ2「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康であるように祈ります」と書いてあります。神さまのみこころは私たちが健康であって、神さまと人々に仕えて、神の栄光を現すことです。病気のままでは、それがかないません。だから、イエス様は「私の名によって、求めなさい。そうすれば受けるのです」と約束されたのです。

 また、自分でなかなか祈れないときは、他の人たちからも祈ってもらう必要があります。マタイ1819「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」これは教会の祈祷会だけではありません。二人がどこにおいても「一緒に祈ろう」と祈るならばイエス様がそこにおられて、かなえてくださるのです。毎週月曜日、亀有ゴスペルクワイヤーの練習がここでなされています。最後に、祈りの課題を出し合って祈ります。ある時は、「お店の店長の姪ために」とか「私の友人のお母さんのためにお祈りください」という課題も出ます。私は心の中で「ちょっと遠すぎるんじゃないの?そういうのはどうかな?」と思います。ある病院で、祈りがどのくらい効果があるか実験したそうです。人数は定かではありませんが、AとB病棟には同じような患者さんが入院していました。それで、お医者さんがA病棟の人たちの名簿を差しあげて、「この人たちのために祈ってください」とお願したそうです。B病棟の人たちのためには祈らないでそのままにしておきました。教会の人たちは1ヶ月間、A病棟の人たちのためにお祈りしました。名簿の人たちは顔も見たことのない人たちです。病院も自分たちのところから離れている場所にあります。でも、とにかく心を合わせていのりました。するとどうでしょう?がぜん、A病棟の回復率がアップし、退院する人たちも多かったそうです。このように私たちが主イエス・キリストの御名によって祈るとき、神さまは祈りに答えてくださるのです。たとえ、お薬やお医者さんよる治療であっても、主の御名によって祈るときに、効果が現われるのです。

2.みことばによる癒し

 第二番目は、神さまは、私たちにご自身のみことばを与えて、私たちを癒してくださいます。詩篇10720「主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。」アーメン。聖書には癒しを約束しているみことばがたくさん書かれています。聖書を読んでいると、あるとき、「これは私に対するみことばだ。私の病気がいやされるのは神さまのみこころだ。主よ、信じます」ということが起こります。病の癒しで最も有名なみことばはイザヤ53章です。イザヤ534-5「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」「主イエス・キリストが、私たちの罪を負ってくださり、そのために私たちの罪が赦された」ということは、クリスチャンならだれでも知っています。しかし、このみことばを読むと、イエス様は罪だけではなく、病を負ってくださったということがわかります。ですから、ある人たちは、イエス様の贖いの中に病の癒しが含まれていると言います。つまり、2000年前に罪が解決されたように、病の問題も解決したということです。私たちが自分の罪を背負わなくても良いように、病気も背負う必要がないのです。なぜなら、イエス様が2000年前に取り去ってくれたからです。私たちが罪の赦しを信仰によって受け取ったように、病の癒しをも信仰によって受け取ることが必要なのです。

 韓国のあるご婦人が癌になりました。お医者さんから「もう手遅れで手術してもだめです」と言いました。そのご婦人はⅠペテロ2:24「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」というみことばを紙に書いて壁にはりました。ベッドの上から、来る日も、来る日もそのみことばを口ずさみました。体はどんどん弱まって行き、もう立ち上がることもできます。それでも、あきらめずそのみことばを繰り返しました。ある日、突然「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」というみことばが、心の中で、「ぴかーっ」と光ました。そうしたら体中が熱くなりました。そして、急にお腹がいたくなり、トイレに駆け込んだそうです。そうしたら、汚いものが全部出て、完全に癒されたそうです。これはまさしく、みことばの信仰による癒しです。韓国のチョー・ヨンギ先生は一人ひとりに手を置いて癒すことをもちろんします。それよりも、教会員に「みことばを読んで、そこから信仰をいただくように」と教えます。それで多くの癒しや奇跡が起こったのです。私たちも聖書を読んでそこから自分に語られる生きたことば「レーマ」を求めるべきであります。聖書は「ロゴス」書かれた神のことばです。しかし、主を待ち望みながら聖書を読んでいくと、突然、レーマに変わります。レーマとは、今、神さまが私に語られたことばです。そのみことばを握って「私の病は癒された。アーメン」と宣言するのです。たとえ、まだ症状があっても、痛みがあっても、「私は癒された」と信仰をもって受け取るのです。

3.手を置くことによる癒し

福音書を見て分かりますが、イエス様はよく手を置いて癒しておられます。ご自分の郷里ナザレに戻られたときのことが書いてあります。彼らは「なんだ、大工のせがれじゃないか」と躓きました。マルコ65「それで、そこでは何一つ力あるわざを行うことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。」イエス様は彼らが不信仰なために力あるわざを何一つ、できませんでした。でも、他のことはうまくいかなくても、手を置くことはうまくいきました。少数の人たちは、イエス様が手を置くことによって癒されたのです。他の町では、人々が手を置いてくださるように懇願しました。そのたびごとに、イエス様は手を置いて癒してあげています。マルコ16章でイエス様は、「信じる人々は、病人に手を置けば病人はいやされます」と約束されました。これは大宣教命令と一緒に与えられた命令でも言えるでしょう。使徒ペテロも、使徒パウロも、やはり病人に手を置いて癒しを行なっています。

でも、手を置くということに抵抗を覚える人たちもおられるでしょう。なぜなら、使徒パウロがテモテに「だれにも軽々しく按手をしてはいけません」と告げているからです。聖書を見ると指導者を任命するとき手を置きました。使徒パウロが人々の頭に手を置くと、聖霊に満たされたと書いてあります。現代も牧師を任命するときに手を置きます。ですから、頭の上に手を置くというのは、簡単にはやるべきではないと思います。でも、マルコ16章のみことばは、信じる人々ですから牧師でも伝道者でもありません、すべてのクリスチャンが対象です。任命式をやる以外であれば、私は手を置いて癒しをなさって結構です。残念ながら、現代のキリスト教会はあまりそれをしません。だから、真光という変な宗教が手を置いて町角に立って祈っているのです。そして、本当に癒されています。でも、それは悪魔の力です。本当は私たちがイエスの御名によって、すべきことなのです。

アメリカのテキサス州の田舎にあるご婦人がいました。彼女は学校から50キロも離れているので学校に通いませんでした。何の教育も受けず、大人になってから近所の青年と結婚しました。子どもたちが大きくなったとき、ある人たちがやって来て、集会を始めました。その時、彼女はイエス様を信じて、聖霊に満たされました。それまで全く読み書きできなかったのに、聖書だけは読むことができました。他のどんな本も読むことができなくても、聖書だけが読めました。その後、彼女の家は町に引っ越しました。夫と子どもたちは農場に仕事にでかけましたが、彼女一人、家に残されました。彼女は「主よ、私にできることは、何かあるでしょうか?」と祈り求めました。私は教会で歌うこともできません。日曜学校で教えることもできません。教材を読むことができないからです。彼女が家でマルコの福音書を読んでいると、「信じる人々には次のようなしるしが伴います。…病人に手を置けば病人はいやされます」。彼女はこう考えました。「人々に手を置くのは、何の教育もいらないのだわ」。それで彼女は近所を回って、見つけることのできる病人を捜しました。午前9時から午後3時まで、毎日病人たちを訪問して、彼らにいやしの聖書を読んであげて過ごしました。三日間くらい彼らに読んであげた後、彼女はこう尋ねます。「あなたに手を置いてもよろしいでしょうか?」彼女が手を置いたほぼ全員が癒されたのです。驚いたことに、手を置いた人のほとんどが、寝たっきりで、医者から死ぬしかないと諦めていた人たちでした。アーメン。手を置くことは、私たちすべての者に与えられていることなのです。牧師や伝道者だけではなく、信じている人たちができるのです。

4.賜物による癒し

Ⅰコリント12章には、「癒し」の賜物が記されています。これは聖霊の油注ぎによって与えられる賜物です。同じコリント12章には、使徒や預言者のほかに「癒しの賜物を持つ者」がいると書いてあります。ケネス・ヘーゲン師は、この癒しを「油注がれた人による按手」と呼んでいます。8年くらい前に岡山県から中嶋長弘先生が来られました。そのとき、癒しをどのように行なうか、先生から実際に教えていただきました。そのとき、両腕を左右に広げ、ぱちんと合わせました。そうすると片方の手が短かったのです。つまり、体がどちらかにねじれていたわけです。中嶋先生が「イエス・キリストの御名と聖霊の力によって、短い方の手を伸びよ!」と言われました。そのとたん、手というか腕が前の方にひっぱられました。「おおー」なんだろう!その時から、「癒しはできるんだ」という信仰が与えられました。もちろん、その前から、私は癒しのためにお祈りをしてきました。しかし、顕著な癒しは起こりませんでした。しかし、中嶋先生が来てから、賜物が開かれたような感じがします。それからと言うもの、腰が痛い人、首が痛い人、どこか悪い人のために祈るのが大好きになりました。正直、「癒しの賜物が与えられたら、夜昼『癒してください』と電話や人が来て嫌だなー。あんまりいらないなー」と思っていました。ところが、癒しの賜物が与えられてから、同時にあわれみの心が与えられ、ぜんぜん苦にならなくなりました。むしろ、「どんどん癒して差し上げたい」と思うようになりました。

しかし、これは牧師だけができるというのではありません。聖霊様が教会を見回して、「今この人に」ということで与えます。その時は、「癒しの管」として用いられるのです。ですから、大胆に行なえば良いのです。ただし、祈るのではありません。命じるのです。祈りというのは、「天のお父様、○○してください」という願いであります。しかし、病の癒しや悪霊の追い出しは、いわゆる祈りではなく、要求であり命令です。聖書をよく見るとイエス様は病の癒しのとき、一度も祈ったことがありません。常に命じておられます。「手が伸びるように」「開け」「立って歩け」「病の霊よ、出て行け」とか、すべて命令であります。私たちの場合は、「イエスの御名」を用いる権威が与えられています。ですから、イエスの御名によって、患部に命じると良いのです。するとどういうわけか、体は言うことをきくようです。そのとき大切なことは、癒しを受ける人は、祈らないで、受け取ることに専念することです。リラックスして、「アーメン、受け取ります」という姿勢が必要です。

自分でも祈っても癒されないときはどうしたら良いでしょうか?どうぞ、牧師あるいは癒し賜物のある人を呼んでください。遠慮せずに「祈ってください」と要請するのです。ヤコブ5:14-15にこのように書いてあるからです。「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。」アーメン。そうです。信仰による祈りは、病も癒されるし、また罪も癒されるからです。

5.神の超自然的な現われ

使徒1038「それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。」ここには、「油注ぎ」「聖霊」「力」と言うことばが出ています。私は「信仰」とか、「病の癒し」のために、ケネス・ヘーゲン師の本を10冊以上読みました。ある本の中に、「油注ぎ」「聖霊」「力」は、実際は同じ意味のことばであると書いてありました。さらにこのように書いてありました。「電気は、自然の領域における神の御力です。一方、聖霊の力は、霊の領域における神の御力です。電気が自然の世界に存在しているように、神の御力は霊の世界に存在しています。人間は電気にプラグを差し込んで、それが人間のために働くようにする方法を学ばなければなりません。同様に私たちは天来の電気、すなわち、神のいやしの御力が私たちの生活の中で現されるために『プラグを差し込む』方法を学ばなければなりません。」とありました。でも「プラグを差し込むという」みことばがあるのでしょうか?ヘブル42「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」「信仰によって、結びつける」とありますが、「結びつける」は英語でミックスアップ、「混ぜ合わせる」「結合させる」という意味です。つまり、神のいやし御力に自分を混ぜ合わせるということです。

福音書に長血を患った女性の物語があります。彼女は婦人特有の病で12年間も苦しみ、治療のために生活費を全部使い果たしていました。イエス様が近くに来られたというニュースを聞いて、彼女の中に「イエス様の着物にでもさわれば癒される」という信仰が芽生えました。彼女は群衆を掻き分け、這うようにして、後ろから近づきました。「イエス様の着物にでもさわれば癒される」そう言いながら、イエス様の着物のふさに触りました。そうすると、イエス様から力が流れ出て来ました。たちどころに出血が止まり癒されました。イエス様は「だれかが、私にさわった。私から力が出て行くのを感じた」と言われました。彼女は隠しきれず「私です」と震えながら前に進み出ました。イエス様は彼女に「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい」と言われました。ここに、さきほど話した、霊的電気のようなことが書かれています。この女性はイエス様ご自身には触れていません。着物のふさ、一番端っこであります。それでも、イエス様から霊的な力が流れてきたのです。つまり、彼女は「ブラグを差し込んだ、混ぜ合わせた」のであります。そうしたら、「がー」っと力が流れてきたのです。

今は、ペンテコステ以来、イエス様は聖霊によってこの地上にいらっしゃっています。聖霊がイエス様、イエス様が聖霊であります。聖霊の臨在が溢れますと、癒しや奇跡が起こります。でも、だれでも自動的に受けるのではありません。長血を患った女性がそうであったように、「プラグを差し込む」信仰がなければなりません。今、聖霊様はすぐ近くにおられ、神としての力も満ち溢れています。ナイアガラの滝が1000年前から轟々と流れているように、聖霊様の力もペンテコステ以来、轟々と流れています。要は、こちらの信仰であります。昔はキャサリン・クーマン、現代はベニーヒンがそういう働きをしています。その人たちが賛美して、聖霊様の力を祈り下すと、あちら、こちらに奇跡が起こります。つまり、信仰によってプラグを差し込んだ人たちが癒されるのです。有名な先生でなくても、私たちも聖霊様の力を祈り下すならば、死人さえよみがえるでしょう。タンザニアにジョセファット・ガジマという若い牧師がいます。そこでは癒しや奇跡が顕著で、死からよみがえってきた人たちが150名を超えるそうです。彼らの祈りは半ぱじゃありません。4時間くらい祈ると、聖霊様の力が下ってきて、死んだ人がよみがえるのです。本日は5種類くらい、癒しの方法を語りました。神さまは同じ方法ではなさいません。だから、聖霊様にその都度、聞くしかありません。でも、父なる神さまのみこころは、あなたが病のままいることではなく、一日も早く癒されることです。

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2010年8月 1日 (日)

最初のトレーニング 使徒2:40-47 (第一礼拝:鈴木牧師)

※第二礼拝は石井豊師を迎えての特別礼拝になります。

 イエス様は「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」(マタイ
937,38と言われました。ですから、私たちは収穫のために、働き手を養成すべきであります。初代教会は私たちの教会の模範であります。私たちは初代教会のように成長したいのですが、そこにはいくつかの秘訣があります。使徒240-47の間にandが16回、thenが2回用いられています。日本語の聖書は「そして」「そこで」というふうに訳されています。初代教会には現代の教会にないものがありました。何でしょう?それはすべてが同時進行であったということです。エディ・レオ先生は4つのimmediate「即座」があると教えておられます。4つのimmediate「即座」こそが、初代教会が持っていた力強いトレーニングのシステムであります。

1.即座のフォローアップです。immediate follow up

彼らは、洗礼を受けた後どうしたでしょうか?使徒2:42 「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」とあります。同じ日かどうか分かりませんが、彼らは非常に早く、フォローアップしたということです。エディ・レオ師のアバラブ教会では、新来者が来たら、だれかが48時間以内にコンタクトを取るそうです。一番良いのが訪問ですが、少なくとも必ず電話はするそうです。私はインドネシアに行ったとき、このことでびっくりしました。午前の礼拝で初めて来られた方を、その夜、訪問するのです。確か、あの時は夜の8時頃でした。日本ではありえないかもしれませんが、向こうでは歓迎してくれてお話を聞いてくれます。話し出したら、隣りの住民もやって来て、6,7人になりました。最初、セルリーダーの人はその家のご婦人と1メートル50センチくらいの距離で話していました。だんだん福音の確信にせまると、50センチくらいになりました。いただいたコップを手にして、「キリストを受け入れるとはこういうことです」と水を飲んで見せました。日本と文化の違いはありますが、インドネシアでは、訪ねられることがとても嬉しいのです。そして、セルリーダーが「何か、お祈りすることはありますか?」と聞きます。すると「私のおばさんが病気なのです。祈ってもらえませんか?」と言います。それで、みんなが、おばさんのために祈ります。すると彼らはとっても喜んでくれます。そして、奇跡が起こります。日本では最初は、家の中ではなく、玄関か縁側くらいかもしれません。それでも良いのです。生命保険の業務の人は、玄関か縁側で座り込んで、「これ良いですよ、あれ良いですよ」と勧誘しています。

 日本では教会に行くということ自体、勇気のいることです。一人ではとても入れません。私の場合は、1979年2月に、職場の先輩が一緒に誘ってくれました。立ったり、座ったりします。聖書と言われても、どこを開いて良いのか分かりません。聖歌も初めてです。牧師らしき人が一人でガンガン話すので、それも驚きました。献金ってどれくらいしたら良いんだろう? 1000円を入れたときには、大金でも失ったような気がしました。礼拝が終って、食事を誘われましたが、とても恥ずかしくて寄られませんでした。次の日、会社で先輩に「あれはどういう意味なのか?これはどうなのか?」と質問します。水曜日の祈祷会にも行きましたが、みんなニコニコしていました。証のときになり、「与えられました」「導かれました」「示されました」など、全部、受動態です。「ありゃ、この人たちは自分の考えがないんじゃないの?ちょっと変じゃないの?」と反感を持ちました。するとまた、次の日、会社で先輩と、「ああじゃない、こうじゃない」と話し合います。1979年3月、あることで躓いて1ヶ月休みました。その間、先輩は礼拝のテープを貸してくれました。また行き出して4月のイースターにイエス様を信じました。先輩がその日の午後12時半から9時半まで伝道して、根負けして、「それじゃ、信じるよ」と言ったのです。5月の連休、大川牧師が洗礼準備会をしてくれました。でも、なんだかうまくやられたような気がして、洗礼を断念しようと思いました。でも、翌週、放蕩息子のメッセージで悔い改めました。そして、6月10日に洗礼を受けました。しかし、その午後、月定と会堂の二つの献金袋を見て躓きました。次の日、先輩から献金の意味を聞いて考え直しました。受洗後、1ヶ月後に彼女と親友を失い、ものすごい試練がやってきました。夜になると「今から包丁をもって二人を殺しに行こうか」と思いました。先輩は「復讐は神さまのやることです。神さまに任せなさい」と諭してくれました。3ヶ月くらい礼拝でずっと泣いていました。12月「イエス様の弟子になりたいです」とお祈りしました。12月末、クリスチャンとして倫理的にやっていけないので、先輩と一緒に会社をやめました。翌年3月は神学校の基礎科に入りました。躓きの連続だったのに、どうして献身まで行けたのでしょうか?それは職場の先輩が私をフォローアップしてくれたからです。フォローアップといのは、「倒れないように支える」「倒れたら引き上げる」という意味でしょう。イエス様を信じたての頃は霊的にとても不安定なので、どうしてもフォローアップが必要なのです。

2.即座の弟子訓練、immediate discipleship

彼らは使徒たちの教えを新しい人たちに教えました。使徒たちの教えとは何でしょう?使徒たちの教えとは、イエス様の教えです。なぜなら、使徒たちとはイエス様が教えたことを書きとめた、いわばイエス様の証言者たちです。それでは、イエス様の教えとは何でしょうか?イエス様の教えの中心は神の御国の教えでした。その教えの中心は、マタイ5章から7章の「山上の説教」です。イエス様は、最後に「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます」(マタイ724と言われました。ですから、新しいクリスチャンがこの上に人生の土台を建てないなら、困難が来たときに倒れてしまうでしょう。ですから、できるだけ早く、彼らを訓練しなければなりません。アバラブ教会では、山上の説教をベースにした、テキストを作っています。洗礼を受ける前は5回の短いクラスがあります。これは途中から入っても構いません。回転寿司のようになっているので受け損なったクラスを学べるようになっています。それから彼らは23日で解放のキャンプに出かけます。そこで、癒しを解放を受け、最後の日に水のバプテスマも受けます。私が行ったときには80人くらいの人がプールで洗礼を受けました。それで帰ってくるとその次の日曜日は証し会です。洗礼を受けた人が家族や友人を連れてきて、そこでキャンプの証をします。ものすごくパワフルです。そこで、またイエス様を信じる人も起されます。そのあと、5回のクラスがあります。ここでの特徴は、最初からキリストの弟子になるということです。日本の教会の場合は、信じたあと、キリストの弟子になるかどうか決めます。キリストの弟子になることが、まるでオプション(選択)になっています。しかし、そうじゃありません。信じたら、即、キリストの弟子になるのです。だから、成長が早いのです。

私も最初の頃、愛知県の蒲郡で行われた解放のキャンプに信じたばかりの人たちを送りました。良いところもありましたし、悪いところもありました。そこでは、アバラブとは違って、「共依存からの解放」ということが、強調されました。「あなたはありのままで良い。自分の感情を正直に出して、イヤのものはイヤと言って良いんだ」みたいに教わります。すると、怪物のように変身してキャンプから帰ってくる人もいます。ある程度、社会にもまれて苦労した人は、バランスがとれて良いくらいなんですが、若い人はわがままになって帰ってきます。そこいら辺が、失敗の原因でした。ですから、外国のものを日本に入れるとき、そのままではなく、文脈化しなければなりません。また、一回のキャンプで全く解放されるということは、まず、ありえません。応急処置みたいなものです。必要最低限、神の国で暮らすためのトレーングみたいなものです。アバラブ教会では、キャンプが終ったあと、5回のクラスがあり、神さまの前に従順になるとはどういうことなのか十分に学びます。私も弟子訓練に関しては、試行錯誤してやってきました。日本では、一度、失敗すると全部ダメみたいなところがありますが、そうではありません。私たちは、成功からは何も学ぶことができません。私たちは失敗から学ぶことができるのです。「鉄は熱いうちに打て」ということわざがあります。イエス様を信じたての熱いとき、「神の国ではどのように生きるのか!」ということを教えてもらう必要があります。弟子訓練ということばがイヤならば、マタイ5章から7章までを何回も読んで、自分の生活に適用することであります。初代教会の人たちは、救われて即座に、使徒たちの教えを守ったのです。これが重要です。

3.即座のセル、immediate joining the sell

 即座のセルとはどういう意味でしょう?教会の交わりに入るということです。本当はセルグループと言いたいところですが、中には「加わりたくない」という人もいますので困難を覚えている次第です。当亀有教会は従来の教会からセルチャーチに移行しましたので、それ以前の人たちは、従来の教会の体質を持っています。従来の教会の交わりとはどういうものでしょうか?それはあたりさわりのない交わりで、入るのも自由、出るのも自由という、あまり拘束されないものです。従来の教会には青年会、壮年会、婦人会、学生会というふうに分かれています。私も前の教会でははじめ、青年会に属しました。青年会自体は4,50人いるのですが、参加する人たちは、20人くらいでした。話す内容というのは、本当に表面的な話題でした。私は神学校の基礎科を出たばかりなので、霊的に燃えていました。しかし、当時の青年会や学生会は遊ぶことしか考えていませんでした。「なんて生ぬるくて、世的なんだろう」と思いました。私はすぐ、「鈴木教室」という勉強会を開きました。そこから献身者も何人か出ました。それから、私は30年も同じことをしています。でも、セルというのは勉強会ではありません。互いに信仰を分かち合う、グループであります。日本の場合は、本心を打ち明けるほど親しい交わりを持つのが教会でも困難です。「これは、なんとかしなければ」と試行錯誤しながらやってきました。今も、「これだ、これしかない」と言えない弱さがあります。セルなんか作らないで、従来のような交わりで良いのかもしれないという誘惑もあります。

でも、初代教会には3000人の人たちを受け入れる家の教会がありました。生きた小さな交わりがあったのです。だから、新しく信じた人たちは使徒たちの教えを守りつつ、交わりの中で成長することができたのです。新しく信じた人たちは、赤ん坊のような人たちです。赤ん坊に一番必要なものは何でしょうか?お母さんとお父さん、家族です。赤ん坊を会社に送ったなら死んでしまうでしょう。赤ん坊を軍隊に送って、トレーニングさせたら死んでしまいます。その人が肉体的に40歳であっても、信じたばかりであるなら霊的な赤ん坊です。ですから、彼らが神の家族の中に入れられる必要があります。赤ん坊は、ただちに家族を必要としています。これは、教会にとって非常に大事なことであります。これまでの学びで、教会が神の家族であり、霊的な父や母がいるということをお話ししてきました。もし、これを実行しないならば、霊的な赤ん坊は死んでしまいます。日本ではせっかく洗礼を受けても、教会に残るのが半分以下だと言われています。信じたばかりの人というのは、圧倒的に未信者の友人や知り合いが多いんです。彼らに信仰上の悩みを打ち明けたらどうでしょう?「そんなの信じるのやめなさい。馬鹿馬鹿しい」と言われるのがおちでしょう。でも、反対に教会の交わりで信仰に満たされたなら、未信者の友人を連れてくるのです。どんな名前でも良いですから、3人から5人くらいのグループを作ってください。そして、一週間あったことを分かち合って祈る。互いに励まし合うグループを持ちましょう。とにかく、霊的な父や母である人は、新しく信じた人をケアーする。そういう働きに積極的に参加してくださいますよう心よりお願いいたします。

4.即座の伝道、immediate evangelism 

使徒2:47「神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」どうして神さまは毎日のように、人々を教会に送ったのでしょうか?おそらく、彼らは毎日、自分の友達を連れて来たからだと思います。皆さん、だれが新しい人を連れてくるのでしょうか?新しく信じた人たちです。あるデーターによりますと、クリスチャンになって最初の2年間は、最も効果的な伝道ができる期間だということです。なぜなら、未信者の友人がたくさんいるからです。新しく信じたばかりの人は、救われた喜びがあります。自分の中に起きた変化をストレートに証できます。しかし、教会は「あなたはきよめられていない」とか「人々に弁明するために聖書を勉強しなければならない」と言います。そして、2年ぐらいたってから、「さあ、伝道してください」と言われます。伝道の賜物のある人は、クリスチャンの2割ぐらいであろうと言われています。多くのクリスチャンは新しい人に伝道することが困難です。さらに、教会生活を10年、20年、続けていますとほとんどの友人はクリスチャンです。未信者に証をしたくても、向こうもこっちも新鮮味がありません。伝えても、あんまりインパクトがないのです。しかし、新しく信じたばかりの人は、伝道はできなくても証ができます。だから、教会は新しく信じた人たちに、福音を語って友だちを連れてくるように励ます必要があります。クリスチャンとして、多少の欠けがあっても良いのです。彼らには「自分は救われた」という喜びと熱心さがあります。それを証するように指導するのです。

聖書にサマリヤの女性が出てきます。彼女は人々から嫌われていました。なぜなら、5人の男性と結婚してもうまくいかず、今、6人目の男性と同棲しているような女性だからです。しかし、彼女は、自分のことを言い当てたばかりか、命の水を与えるメシアに出会ったのです。彼女は水がめをそこに置いて、サマリヤの町へ行きました。人々に「来て見てください。私のしたこと全部を言い当てた人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか?」と伝えました。するとどうなったでしょう。その町のサマリヤ人のうち多くの者が、その女性の証言によってイエス様を信じたと書いてあります。彼女は非常に単純に、イエス様が自分にしたことを伝えたに過ぎません。それで良いのです。牧師になると、こういうところで説教はできます。しかし、未信者の友人がほとんどいないので、証をすることがほとんどできません。もちろん、未信者の友人を作るように努力しなければなりません。でも、一番すばらしいのは、信じたばかりの人が、今、関係を持っている家族や友人に自分のことを証することです。イヤなことを言われたり、いろんな迫害も起こるかもしれません。そのとき、励まして、また送り出すのです。そうすると、必ず、何人か導かれます。ある人が言いました。樹木で伸びる所はどこか?一番、先端の部分です。若葉が出てくるところです。幹の部分はベテランの信仰者とか、役員さんたちです。弱々しい、先端の部分が延びるんです。新しく信じたばかりの人が伝道の要になるのです。私たちがその人たちを支えていくのです。

 救いの証は、3つのポイントで伝えると効果的です。救われる前はどうであったか?「こういうわけでひどかった」とか暗い部分を伝えます。でも、あんまり露骨に言ってはいけません。人を殴ったら「血がどばっと出た」とか、罪の生活を生々しく語っても逆効果です。「あなたみたいにヒドイ人だからイエス様が必要でしょう。私はそれほど悪くないので結構です」と言われます。ま、とにかく救われる前の状態です。第二はイエス様を信じるきっかけ、経緯であります。「どんなとき、だれを通して、イエス様と出会ったか」であります。ゴスペルに行ったとか、友人に誘われたとか、本を読んだとか何かあるはずです。ギデオンの聖書で教会に行く人もいれば、ラジオの放送で聖書と出会う人もいます。でも、一番、多いのは友人や家族から誘われることかもしれせん。そのときは、きっと「うざいなー」「しつこいなー」と思ったかもしれません。でも、どこかで「信じる」と決断したはずです。第三は信じたらどうなったかです。使用前、使用後のように、どこか必ず変化があるはずです。暗かったら明るくなった、迷っていたら真理を発見したとか、その人によって違います。でも、信じた喜びが必ずあるはずです。それを自分のことばで表現するのです。多少、ぎこちなくても構いません。上手すぎるとかえって疑われます。一番、大切なのは自分が信じてどうなったかです。説教する必要はありません。自分の証として、伝えれば良いのです。

 本日のまとめをします。信じたばかりの人に必要なものは4つあります。

1.即座のフォローアップです。immediate follow up

2.即座の弟子訓練、immediate discipleship

3.即座のセル、immediate joining the sell

4.即座の伝道、immediate evangelism

 「三つ子の魂、100までも」ということわざがあります。霊的に新しく生まれて、クリスチャンになったときもこれと同じです。このとき、「クリスチャンとはこういうものなんだ!」と教え込まれると、これから先、ずっとそのように生きるということです。ハレルヤ!

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