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2010年7月25日 (日)

信仰のABCD      マタイ7:7-10

前回から信仰について学んでいますが、本日は信仰をどのように働かせたら良いのか共に学びたいと思います。徐起源(ソウキウォン)という先生が信仰に関する本を書いていますが、その中に「信仰のABCD」という項目がありました。内容があまりにもすばらしくて、かなりの部分をパクらせていただきました。かなりと言っても、四分の一くらいです。信仰のABCというと、「信仰のいろは」みたいに聞こえますが、そうではありません。ABC、Dまであるからです。実は英語の頭文字でありまして、この順番がすばらしいのです。Aはask「求める」ということです。Bはbelieve「信じる」ということです。Cはconfess「告白する」ということです。そして、Dはdo「行なう」です。絶対、この順番でなければならないということではありませんが、信仰にはこのような要素が含まれているということです。

1.求める(ask)

イエス様はマタイ7:7「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」と約束されました。私たちはこの地上で生きていますと、様々な必要を覚えたり、困難や苦しみを受けます。ロバート・シュラーという先生が「悩みや問題がない人たちがいます。それはどういう人たちでしょう?」と質問しました。そして、こう答えたそうです。「それはお墓の下にいる人たちです。彼らはもう悩む必要がありません。この地上で生きているからこそ、悩みや問題があるのです」と。隣の人に言ってください。「悩みがあるのは、生きているからですよ」。でも、ここすばらしいニュースがあります。「求めなさい。そうすれば与えられます」と書いてあります。私たちはイエス様を信じたなら、神さまの子どもであります。そうなると、神さまは天のお父様です。ですから、私たちは何でも、どんなことでも父なる神さまに求めて良いのです。なんとすばらしい特権でしょうか?でも、神さまは意地悪でケチなお方でしょうか?そうではありません。マタイ79-10「あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」アーメン。地上の父は、自分の子どもには良いものを与えようとするでしょう。子どもが「パンをくれ」というのに石を与えるようなお父さんはいません。なおのこと、天の父は、「求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。与えますよ」ということです。

 でも、信仰生活を長くやっていると、「そうじゃないなー」ということもあります。与えられるものもありますが、与えられないこともあります。なぜでしょう?ヤコブ43「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです」とあります。たとえば、学校が嫌いな子どもが、神さまに「学校を燃やしてください」と祈ったら、神さまがきかれるでしょうか?あるいは「あいつが憎いので、痛い目に合わせてください」という祈りがきかれるでしょうか?あるいは「人はともかく、私だけ祝福してください。他の教会はともかく、私の教会だけ大きくしてください」という祈りがきかれるでしょうか?正直、私は似たような祈りをしてきました。「ああ、きかれなくて良かったなー」という祈りもあります。私たちの神さまは偶像の神さまではありません。偶像の神さまは、「こちらの言うことを聞かなければ、拝んであげない」みたいな所があります。しかし、まことの神さまは私たち以上のお方であり、私たちの奴隷ではありません。神さまはあらゆることをご存知なので、みこころに合わないことはかなえてくださらないのです。では、必ず、かなえられる祈りというのがあるのでしょうか?Ⅰヨハネ514-15「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」すごいですね。「下手な鉄砲数打てば当たる」という祈りもあります。でも、神さまのみここにかなう願いをするならば、もっともっと確率が高くなるのではないでしょうか。でも、神のみこころはどうしたら分かるのでしょう?それは聖書です。聖書を読むと、神さまのみこころがわかります。ある人は、聖書には3万以上の約束が含まれていると言いました。ですから、聖書から、神さまの約束を握って求めたら、もっと、もっと私たちの祈りがかなえられるのではないでしょうか。

 私の長男が小さい頃、ガンダムのプラモデルが流行っていました。一個が大体、450円くらいしました。しかし、中には数の少ない、「レアもの」というのがあります。私は長男を車に乗せて、松戸のおもちゃ屋さんまで行ったことがあります。たまに長男が「パパ、あれ買ってくれるって、約束したよね」と言うのです。私も家内から「あなたは人の話を聞いていない」とよく叱られました。だから、長男から「パパ、約束したでしょう」と言われると、「ああ、そうだったのかな?」と、買わざるを得ません。そうでないと「パパの嘘つき」と言われるかもしれません。牧師が「嘘つき」と呼ばれるのは、ちょっと耐えられません。でも、今、思うと「本当に買ってあげる」と約束したのかな?というところもあります。みなさん、神さまは嘘つきでしょうか?父なる神さまは真実で、愛なるお方です。私たちに良いものを与えようと願っておられます。どうぞ、聖書から約束と取り付けて、みこころにかなうものを求めましょう。そのためには、祈りながら求める必要があります。神さまに祈っているうちに、その祈りが清められ、神さまのところに届くものとなるのです。

2.信じる(believe)

私たちは祈り求めていくうちに、あるとき「祈りはかなえられた」という確信を持つことができます。いや、確信を持つまで祈る必要があります。それまでは、「ください」「ください」と祈り求めてきました。しかし、確信がやってくると、もうそのような祈りはしなくて良いのです。そのときは「私はそれを得たと信じます」と言えば良いのです。信仰とはまだ見ていないものをつかむ手であります。霊の世界ではもうすでに叶えられているのです。あとはそのときを待てば良いのです。チョー・ヨンギ先生は、数年前に書かれた『四次元の人』という本でこのように語っておられます。信仰は四次元の世界から三次元を変える強力な力です。聖書にも「あなたの信じたとおりになるように」「できるものなら、と言うのか。信じる者にはどんなできるからです」と教えています。つまり、目に見える、この三次元は、霊的な四次元によって支配されているということです。マルコ11:24 「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」とあります。ですから、私たちはこの三次元で受ける前に、四次元において受けたと信じる必要があるのです。私たちは、現実にここにあるものを信じる必要はありません。ただ、「ここにあります」と言えばよいだけです。でも、今、ここにないならば、信じる必要があります。私たちは今、ここにないものを「すでに得た」と信じる、これが信仰であります。

たとえば、アメリカにいる長男から「学費が足りないので送金してくれ」と電話が来たとします。今は送っていませんが、ものすごく大変だったことがあります。これは体験から来たものです。「いくらか」と聞くと「100万円だ」と言います。「え?この間、送ったばかりだろう?」と言います。でも、息子は「これとあれと、これで必要だ」と言います。私はものすごく悩みます。そして、なんとか工面します。それで銀行からアメリカに送金します。すぐ後、私は「きょうの午前11時に送金したから」とメールを送ります。こっちは朝ですが、向こうは夜です。息子は次の朝起きて、メールをあけます。「送金した」という私のメールを見ます。どうでしょうか?息子は私に再び「送金してくれ」と電話をかけてくるでしょうか?しません。なぜなら、「送金した」という私のメールを見たからです。あとは、自分ところの銀行へ行って、現金を引き出せば良いのです。それが「信じる」ということです。まだ、現金は手にしていません。しかし、銀行にはすでに入っているのです。私たちも最初は神さまに求めます。「ああしてください、こうしてください」と。でも、祈り求めていくうち、信仰がやってきます。「おお、神さまは私の祈りを聞いてくださった」。それだったらもう求める必要はありません。「主よ、信じます。アーメン」で良いのです。ただし、その信仰が現実のものとなるまでは、少し時間がかかるときがあります。父なる神さまには、時間というものがありません。常に今です。私たちが信じたその時に与えるのです。ただし、それが私たちの手元に届くまでに時間がかかるのです。神さまの側ではすでに与えてくださったのです。でも、私たちは三次元の中で生きているので、時間がかかるのです。

子どもを生んだことのあるお母さんなら、このことがよく分かるでしょう。ある時点で子どもが宿ります。医学的に「ご懐妊」と言うのでしょう。でも、どうでしょう?すぐ生まれるわけではありません。体調に変化をきたし、つわりになったりします。そして、だんだんおなかが大きくなります。でも、赤ちゃんは外側からは見えません。見えませんが、確かにおなかの中で育っているのです。「1010日」と言うのでしょうか?来るべき日がきたとき、「おぎゃー」とこの世に生まれます。これも信仰の世界と同じではないでしょうか?「主よ、信じます」と信じた日から、定まった時間がたったあとに、実際に手にすることができるのです。私たちは手に入れる前に、まず信じる必要があるのです。私たちは肉眼で見る前に、霊の世界で見る必要があるのです。これが信じるということです。

3.告白する(confess)

 第三は信じたことを口に出す、告白するということです。告白というギリシャ語は、ホモ・ロゲオゥと言います。これは「同じことを言う」という意味です。私たちが心の中で本当に信じているならば、口から信じていることが出てくるということです。ローマ人1010「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」とあります。私たちはどこで信じるのでしょうか?心であります。ここで言う「心」とは知性ではありません。どちらかと言うと「霊」であります。心の深いところ、霊で信じます。その次には、信じたことをこの口から告白する必要があるのです。なぜなら、告白したことばによって、この世界が変えられるからです。マルコ1123「まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」イエス様は、「山に向かって『動いて海に入れ』と言え」とお命じになられました。山とは私たちが生活している中で起こってくる、困難や問題あるいは病気と言って良いでしょう。その山に向かって「動いて、海に入れ」と言うのです。最近、ゴスペルでSpeak to the mountainという賛美を練習しています。日本語に訳すとこういう歌詞です。「山に向かって言いなさい。どきなさいといいなさい。困難な状況に向かって言いなさい。そうすれば、今日それが動くだろう。…言いなさい。求めなさい。信じなさい。受け取りなさい。それはあなたのものです」。まあ、すごい信仰的な賛美です。この歌の「求めなさい」は英語でclaimとなっています。Claimといえば、0120の電話、「クレーム」をつける意味もあります。しかし、Claimには「主張する、要求する、自分のものだと言う」という意味もあります。

 去る56日のことです。私は毎月1日、丸愛朝祷会というところでお話に行きます。一回である程度の謝礼をいただけます。私は51日朝祷会に出かけました。すると、会社の門に大きな鍵がかけられていました。「ありゃー、連休なので休みか?」と思って帰ってきました。後日、ご自宅に電話すると、「連絡しないですみません、6日に行います」と言われました。5日の夜、「明日は朝祷会だなー」と思って寝ました。5時半頃、猫に起されて目が覚めました。猫を外に出してからまた寝ました。家内が「朝ですよ」と私を起こしました。時計を見るとなんと725分です。なんと、朝祷会の開始時間に目がさめたのです。会社に電話したら「こちらでやります」ということでした。「うぁー、私はいっぺんで、謝礼と信用の2つを失いました」。「いやー」鏡の前に立ちました。情けない顔をしています。そのとき思いました。私は1999年から皮膚病(乾癬)でなかなかなおりません。薬代もかかります。数ヶ月前から漢方も飲んでいます。でも、なかなか良い兆候が現れません「はぁー」とため息が出ました。これまで数え切れないほど神さまに祈り、体にも命じてきました。でも、もう十分だという気持ちになりました。「そうじゃない、癒されたと信じるんだ。イエス・キリストは2000年前、私の病を背負ってくださったんだ。だから、この病を私は負う必要はない。」そのときに、内側から信仰が湧き上がってきました。そして、鏡の自分に向かって、「信じます。皮膚病が治ったと信じます!」と宣言しました。あの日から何かが変わったと思います。皮膚が癒されてきたのです。もちろん、漢方とか気候のせいもあるかもしれません。でも、「信仰によって、また告白によって癒しを得た」と確信します。それ以来、私は神さまに祈り求めていません。「主よ、ありがとうございます」と、感謝しています。

 ある人たちは信仰をもって祈ります。また、ある場合はだれかに病の癒しのために祈ってもらうかもしれません。しかし、立ち上がるときにこう言うのです。「やっぱり、現実は難しいからなー」「ああ、まだ痛みがあるので、癒されなかったのかな?」と言います。それは自分の口で、信仰を否定しているのです。つまり、神さまの前で「信じます」と言った直後、自分の口で「今のを、キャンセルします」とやっているのと同じなのです。箴言1820,21「人はその口の結ぶ実によって腹を満たし、そのくちびるによる収穫に満たされる。死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」このみことばは、私たちがどのようなことを口に出すかによって、死んだり、あるいは生きたりするということです。みなさんはどっちの実を食べたいでしょうか?死でしょうか?あるいは命の実でしょうか?どうぞ、信仰的なことばをこの口から発しましょう。

4.行動する(do)

 信じたら、あとは信じたとおりに行動することです。ヤコブ2:17「信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです」と書いてあります。福音書に中風の友人を4人の人がイエス様のところに運んできた物語があります。戸口まで人があふれて、入ることができませんでした。彼らはイエス様がおられるあたりの屋根をはがして穴をあけました。そして、中風の人を寝かせたまま、その床をつり降ろしました。イエス様は彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われました。彼らの信仰とは、4人が屋根を剥がしてまでも、中風の友人をイエスさまのもとへ連れてきたことです。彼らに信仰があったので、途中であきらめなかったのです。イエス様は「そのような行動に現れた彼らの信仰を見た」のです。信仰があったのは4人だけではありません。イエス様は中風の人に「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われました。中風の人は「えー?無理ですよ。中風ですよ?起きられるわけないじゃないですか?」とも言えました。聖書はそう書いていません。「すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みんなの前を出て行った」とあります。彼は起き上がっただけではありません。今まで寝ていた床をくるくる巻いて、それを担いで出て行ったのです。彼はイエス様のことばに従ったのです。なぜなら、彼の中に信仰があったからです。この物語に似たようなことが福音書にはたくさんあります。マタイ12章には、片手のなえた人が会堂にいました。イエス様はその人に「手を伸ばしなさい」と言われました。聖書は何と書いてあるでしょう?マタイ1213「彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった」と書いてあります。片手のなえた人はだまっていたわけではありません。イエス様が「手を伸ばしなさい」と言われたので、自分も手を伸ばしたのです。伸ばしたら、伸びて、もう一方の手と同じようになったのです。彼はイエス様から与えられた信仰のことばどおり、行なってみたのです。そうしたらそうなったのです。

 かなり前に、ネィティブ・インディアンのメル・ボンド師がこの教会に来られたことがあります。癒しの3ステップということでお話くださいました。第一はリラックス、第二はレーシーブ(受け取ること)、第三は、アクション(行動を起すこと)だと言われました。メル・ボンド先生は祈ったあと、歩かせたり、走らせたりします。先生は「信仰をもってアクションを起せば、どんどん癒される」と言いました。ひとりの女性が癒しを受けるためにやってきました。その人は足が痛くて、亀有駅からタクシーに乗ってやってきました。メル・ボンド師が彼女のために祈りました。その後、「さあ、この通路を走ってみなさい」と言いました。その女性は、「私はお医者さんから走ってはいけない」と言われていますと言って、拒否しました。先生は「あなたは神さまがおっしゃることと、お医者さんとどちらの言うことを聞くのですか?」と言いました。彼女は「いや、お医者さんがだめだと言ったので」と、その場を動こうとしませんでした。人に信仰を強制することはできませんので「仕方がないなー」と思いました。私もメル・ボンド先生から教えられた祈り方をします。祈った直後に、痛いところの肩とか腰を動かしてもらいます。「あれ、楽になった」とか言います。「どうですか?」と聞くと「まだ、痛い」とか言います。すると、もう一度、患部が良くなるようにイエスの御名によって命じます。そして、また動かしてもらいます。その人は信仰をもって動かしてみます。すると、癒しがさらに進みます。とうことは、祈る方の信仰も必要ですが、受け取る方の人も信仰が必要だということです。イエス様は「もし、信じるなら神の栄光を見る言ったではないか」と言われました。私たちは、この地上で神さまの栄光をもっと、もっと見たいのですよね。それだったら、父なる神さまに求め、信じ、告白し、信じたとおりに行動すべきであります。

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2010年7月18日 (日)

信仰によって歩む     ヘブル11:1-6

私たちクリスチャンは、主イエス・キリストを信じることによって救われました。これは、私たちが救いを得るための基本的な信仰であります。しかし、神さまは「この信仰を用いて生活しなさい」と願っておられます。神さまは信仰を用いてご自分に願い求めるなら、それをかなえようというのがみこころなのであります。ある人たちは、せっかくクリスチャンになったのに、信仰を用いないために、現実に打ち負かされて、貧しく敗北的な生き方をしています。私たちは神さまの子どもであり、御国の世継ぎなのです。ですから、この地上でも神さまの子どもらしく、堂々と胸を張って、豊かな生活を送ることが可能なのです。でも、そのためには信仰が必要です。私たちが信仰によって歩むときに、喜びと感謝に満ちた、神さまが望まれるような生活を送ることができるのです。信仰のDNAシリーズの7回目は「信仰」であります。信仰に関して、4回に渡ってお話したいと思います。

1.信仰とは

 信仰とは何でしょう?信仰の定義を教えている、みことばがヘブル11:1であります。ヘブル11:1「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」ヘブル11:1を最も端的に言うならばこうなります。信仰=保証、あるいは信仰=確信であります。私がどこかの銀行の小切手張を持っていたとします。そこに私が100万円と書いて、自分の名前を裏書きしたとします。それをあなたに「どうぞ差し上げます」と言ったとします。ある人はその小切手をいただいても、「嘘だろう!鈴木先生はそんなにお金を持っていないよ。これは単なる紙切れだよ」と銀行に行かなかったらどうでしょう?100万円は永久にその人のものになりません。もう一人の人は、少し疑いましたけど、銀行に行ってその小切手を差し出しました。カウンターの女性は「お待ちどうさまです」と言って、100万円の現金を渡してくれました。ここで言う信仰とは何なのでしょうか?100万円と書いた小切手はお金ではありません。でも、それは単なる紙切れではなく、100万円の価値がある証書です。なぜなら、銀行へ行けば100万円に換えてくれるからです。ここで言う、信仰とは「これはお金に換算できる」と信じて、その小切手を銀行に持っていくことであります。神さまの方法は、実物をあなたに上げる前に、小切手をあなたに手渡すのです。裏書の名前は、ジーザス、イエス・キリストであります。とっても、分かり易い例話ではないでしょうか?でも、問題が残っていないわけではありません。神さまも見えないし、その小切手も目に見えないということです。ですから、信仰とは神さまからの保証、あるいは神さまからの確信があなたの心の中にしっかりと与えられるということです。それは単なる確信ではなく、「かーくーしーん」であります。

 もう1つ別な方法で信仰について説明させていただきます。たとえば、下の食堂であなたがカレーライスを食べていたとします。だれかがあなたに冷たい水をサービスしようとします。あなたはお皿を出しますか、それとも両手を出すでしょうか?まちがいなくコップを出すでしょう。こんどは、だれかがあなたにお金の入った財布をあげようとします。現実にはめったにいませんがたとえばです。そのとき、コップを出すでしょうか?おそらく手を差し出すでしょう。また、ある人がパソコンの大事なファイルをあなたにあげますと言ったとします。そのとき、手を差し出すでしょうか?おそらくUSBスティックを出して、「これに入れてください」と言うでしょう。今、言った、コップ、手、そしてスティックにあたるものが信仰であります。では、信仰とは何でしょう?神さまがあなたに与えようとしているものを受け取るものであります。つまり、信仰という、見えない器、あるいは見えない手がなければ、受け取ることができないということです。

 今から17年前に、この会堂が建てられました。この建物は信仰によって建てられたということは確かです。昔の会堂はとても古くて床があちこちいたんでいました。雨漏りもするし、戸の開け閉めにも問題がありました。そのとき、山崎長老さんがハガイ書のみことばから「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか。山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ」と会堂建築を訴えました。そのとき全教会員に「ああ、そうだ」と信仰が与えられました。どんどん献金がささげられました。バブルの頃だったので、銀行に預けたお金にものすごく利息がつきました。しかし、問題が起こりました。山崎長老さんは、「教会は借金をしてはいかん。捧げられる範囲の会堂でなければならない。予算は備品も全部入れて1億円にしょう」と言いました。私は「土地が150坪もあるので、建坪80坪くらいじゃ小さすぎる。120名収容するためには、どうしても130坪でなければならない」と主張し、その大きさの図面を書きました。130坪だと1億3000万円くらいになります。そこで、私は「予約献金をしよう。予約献金を上乗せした額に匹敵した、教会の大きさにしよう」と提案しました。それで、予約献金が3000万円になり、図面どおりのサイズにしようと思いました。ある土曜日の晩、何かの用事で、山崎長老さん宅を訪れました。山崎長老さんは「予約献金なんてあてにならない」と言い出しました。私も若かったので「会堂は人間の予算ではなく、信仰によって建てるものです」と反論しました。議論になり、「私はそれだったら牧師やめます」と言いました。山崎長老さんも「わしも教会にいかん」と言いました。ちょうどそこに、ご長男の和章さんが「まあ、まあ」と間に入ってくれました。山崎長老さんから「わしも教会に行くから、あんたも教会をやめないように」と言われ、そうしました。結論を申しますと、1億4300万円集まって、オルガンをはじめすべての備品を購入することができました。つまり、信仰によってこの会堂が建ったということです。会堂建築のときは、経済的な常識、自分のふところ、神さまからの信仰、これらがごちゃ混ぜになり、ひどい場合は教会が分裂します。しかし、会堂建築は私たちの信仰がテストされるときでもあります。もちろん、会堂だけではありませんが、みなさんの人生において、本当に信仰によって立たなければ、前に進めないという時が必ずあるはずです。

2.信仰がなければ

 ヘブル11:6「 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」神さまは、信仰がある人を喜ばれます。どんな信仰でしょうか?信仰をもって神さまに近づき、求める人であります。「神さまは、求めることに対して、必ず報いてくださるんだ」と信じることです。新約聖書には、イエス様に近づいて、求めた人たちが何人も記されています。長血を患った女性は、イエス様のうしろから近づき、「きっと直る」と口ずさみながら、イエス様の衣の裾に触りました。するとどうでしょう。イエス様から力が流れ込んできて、血の源が癒され、すっかり良くなりました。イエス様は彼女に「あなたの信仰があなたを直したのです」と言われました。また、スロ・フェニキアに行ったとき、カナンの女性が「私をあわれんでください。娘がひどく悪霊に取り付かれてします」とお願しました。イエス様は「子どもたちのパンを取り上げて小犬に投げてやるのはよくないことです」と断りました。その女性は「主よ、そのとおりです。ただ小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」と言いました。イエス様は「ああ、あなたの信仰は立派です。その願いどおりになるように」と言いました。また、盲人の乞食が、「ダビデの子イエスさま。私をあわれんでください」と道端で叫びました。弟子たちは「黙れ」と彼をたしなめました。すると彼はもっと大きな声で「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫びたてました。イエス様は彼を呼び、「私に何をしてほしいのか」と聞かれました。彼は「先生、目が見えるようになることです」と言いました。イエス様が「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われると、すぐさま、彼は見えるようになりました。福音書の物語からも分かりますように、人々はイエス様のもとに信仰をもって近づきました。すると、イエス様は、彼らの必要を満たしてあげたのです。でも、条件があります。彼らは3人とも、そうなる前から、「必ず、そうなるんだと確信していた」ということです。

 ヘブル11章には、すばらしい信仰を持っていた人たちのことが列挙されています。「信仰によって」「信仰によって」と書かれています。神さまは人間的な正しさよりも、信仰のある人を喜ばれるようです。ヤコブは兄と父を騙して、長子の権利を奪い取りました。彼はそのため家を出なければならなくなりました。荒野で一人淋しく、石を枕にして寝ていたとき、主が現れてくださいました。「私はあなたとともにあり、…決してあなたを捨てない」と言いました。ヨセフは兄たちに「私は夢を見た」と自慢した人でした。でも、やがてエジプトの総理大臣になりました。ダビデは8人兄弟の末っ子でした。サムエルが、二代目の王様に油を注ごうとエッサイの家にやってきました。サムエルもお父さんも「主が選ばれるのは、兄たちだろうな」と思いました。「主は、この者たちを選んでいない。他にいないのか?」とサムエルが言いました。エッサイは「まだ末の子が残っています。あれは今、羊の番をしています」。主は「あれ」と言われた、数に足りないダビデを選びました。でも、ダビデは王様になってから、姦淫と殺人を犯してしまいました。でも、神さまは罪を悔い改めたダビデを赦し、王のくらいどころか、ダビデの末に王国を与える約束をしました。サウル王とダビデ王が犯した罪の大きさを考えるならば、ダビデ王の方がはるかに重いでしょう。でも、サウル王には信仰がなかったので、神さまから捨てられてしまいました。新約聖書ではどうでしょうか?ペテロはイエス様の一番弟子でした。でも、彼の性格には幾つかの問題がありました。1つは自己主張が強いこと、2つ目はおっちょこちょいで、しゃべらなくてよいときにしゃべる。3つ目は大胆なわりには、気が小さくて心が安定していませんでした。ですから、大祭司の中庭でイエス様を3度も知らないと言ってしまいました。イエス様を裏切ってしまったのです。イスカリオテ・ユダもイエス様を裏切りました。でも、罪の大きさはさほど変わりありません。ペテロは「どのつら下げて」と言われるかもしれないけど、イエス様のもとに行きました。一方、ユダは「私は罪を犯した」と後悔はしましたが、イエス様のところへは行きませんでした。ペテロには「イエス様はきっと赦してくださる」という信仰があったのです。やっぱり信仰なのです。もちろん、人格も大切です。でも人格はやがて、信じたとおりに変わっていくのです。みなさんも、「今の生活では証ならない。こんな私を見たらみんな躓く」とおもっている方もおられるかもしれません。そうじゃありません。「こんな私をも神さま愛してくださる。」こういう信仰のある人と神さまが共におられるのではないでしょうか。

 私が教会に来だした頃、おどろくべきみことばを発見しました。マタイ11:11-12「まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」これは天の御国の価値観を教えている箇所であります。イエス様は、バプテスマのヨハネは人間の中で一番偉大な人であるとおっしゃいました。しかし、彼が天の御国に行ったならばどうでしょうか?天の御国で一番小さい者であっても、ヨハネよりは偉大だということです。なぜでしょう?何故、天の御国にいる人がヨハネよりもすばらしいんでしょうか?それは人格とか行ないとは関係ありません。イエス・キリストを信じているならば、神の義が与えられるからです。それでは、どういう人たちが、この天の御国に真っ先に入るのでしょうか?「激しく攻める者たちがそれを奪い取る」人たちです。激しく攻める者とは、見栄や外聞にこだわらないで、「私も天の御国に入れてくれ!」と求める人たちのことです。では、具体的にどういう人たちだったのでしょうか?イエス様が当時の宗教家たちにこう告げています。マタイ21:31,32「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。」ハレルヤ!どうぞ、人々をこの世の基準で、「立派だとか立派でない」と、見るのはやめましょう。 信仰をもって神さまの前に近づく人がすばらしいのです。神さまは何よりも、信仰を持っている人を喜ばれるのです。

3.信仰の大切さ

 マルコ9章に、ある父親が、悪霊のためてんかんの症状のような子どもを連れてきました。しかし、弟子たちは悪霊を追い出すことができませんでした。イエス様は「その子を私のところに連れてきなさい」と言われました。イエス様が父親に「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか?」と尋ねました。父親は言いました。「幼い時からです。この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください」。イエス様は「できるものなら、と言うのか?信じるものにはどんなことでもできるのです」と言われました。すると父親は「信じます。不信仰な私をお助けください」と叫んで言いました。ここで、問題になるのは何でしょう?父親が「もし、おできになるものなら」というふうに願ったことです。英語の聖書では「if You can do」であります。これは、大変、不信仰な求め方であります。でも、私たちもこれに似たような求め方をしているのではないでしょうか?「もし、みこころであるならば、どうかお願します」。これは一見、敬虔そうな感じがしますが、やっぱり不信仰な祈りです。この人は、それが神さまのみこころなのか、みこころでないのか分からない状態です。それだったら、まず、神さまに「本当に、これはみこころでしょうか?」と聞けば良いですね。もし、「これは神さまのみこころだ!」と確信が来たなら、そういう前置きはしないで単純に「お願いします」と求めれば良いのです。「もし、できるならば」と言うのは、謙遜ではなくて、全能なる神さまに失礼であります。では、その父親はどうしたのでしょうか?「信じます。不信仰な私をお助けください」と叫んで言いました。「信じます」と言いながら「不信仰な私を助けて」というのは変です。しかし、ギリシャ語や英語の聖書はちょっとちがいます。「信じます。私の不信仰をお助けください」となっています。これは、「信じます。どうか、私の信仰の足りない部分を助けてください」と言う意味です。

 どうでしょう?この地上にあって、完全な信仰を持つというのは不可能な場合が多いでしょう。いくら祈ってもどこかに疑いや恐れが残っているかもしれません。不信仰を追い払っても、追い払っても、また、戻ってくるかもしれません。でも、どうでしょうか?不足なところに、イエス様の信仰で満たしていただけば良いのでしょうか?そうすれば、疑いや恐れが追い出され、信仰で満たされるのではないでしょうか?マルコ11章にすばらしいみことばがあります。マルコ11:22-23イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。アーメン。日本語の聖書は「神を信じなさい」と書いてあります。しかし、原文は「神の信仰を持て」「神にある、信仰を持て」という意味です。つまり、私たちの信仰すらも、神さまがくださるということです。自分の信仰で間に合いそうもないなら、「おお、主よ、あなたの信仰をください。あなたの信仰で満たしてください」と願えば良いのです。そうすると、心の中から疑いが去って、「神には何でもできるのです」と信じることができるのです。何故、神さまは私たちに信仰を求められるのでしょうか?それは、天の御国とこの世との関係があります。天の御国では神さまのみこころが100%なされます。なぜなら、神のご支配が100%及ぶところだからです。しかし、この世はどうでしょうか?この世は神から離れた人間が、罪と死の中で暮らしているところです。そこには悪魔や悪霊も働いています。神さまは神さまでありますが、かといって、この世に勝手に手を出すことができません。もし、神の子である私たちが、イエス様の名によって求めるならば、神さまはご自身の手を差し伸べることができます。つまり、神さまは私たちの信仰を通して、救いのみわざをなされるのです。ですから、信仰の大小はあまり関係なくて、その信仰が本当かどうか、命があるかないかが問題なのです。だから、イエス様は「もし、からし種のような信仰があったら、この山に、ここからあそこに移れ、といえば移るのです。」と言われました。つまり、からし種のほどでも良いから、生きている本当の信仰があれば良いのです。神さまはその信仰を通して、働いてくださるのです。

 私は子どもたちが小さいころ、自転車の乗り方を教えたことがあります。最初は自転車の後ろをこっちが、がっちり押さえてあげます。子どもはハンドルを握って、ペダルを踏めば良いだけです。最初は、子どもはフラフラしながらも、進んでいきます。でも、スピードが出てくると怖くなります。それで「怖いよー」と言って、ハンドルから手を離します。するとどうでしょう?ハンドルがガクッと曲がってしまって、こっちがいくら押しても、前には進みません。子どもは怖がらないで、ハンドルをただ握っていれば良いのです。そうすると、こっちはちゃんと自転車を押さえて、進ませることができます。信仰とは何でしょう?私は自転車のハンドルを握ることだと思います。私たちが信仰というハンドルをちゃんと握ってさえいれば、神さまが動かしてくださるのです。神さまが後ろから、右だとか、左だとか言ったら、それに合わせれば良いのです。でも、私たちが恐れたり、疑ったりして、両手を離すならば、それでおしまいです。私たちが「ああ、もうできないよー」と、諦めるなら、いくら、神さまでもみわざをなすことができません。この世とはそういうものなのです。この世で、神さまが働かれるためには、私たちの信仰が必要なのです。私たちの信仰を通して、神さまは働くということにご自身を制限なされているのではないかと思います。ヘブル人への手紙11章を見ると、神さまは人々の信仰を通して、働いているのがはっきりと分かります。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」イエス様を信じている人なら、だれにも天国に行く信仰が与えられています。しかし、神さまは、その信仰をこの地上でも用いてもらいたいのです。どうぞ、何ごとでも、信仰を用いて生活しましょう。

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2010年7月11日 (日)

共同体における価値観  マタイ6:33、マタイ20:25-27

1970年代から、「教会成長」という言葉が使われはじめました。教会が会社でも経営するように、大きな建物を建てて、人を集めようと頑張ってきました。しかし、そこにはいくつかの弊害も生まれました。弱い人がはじかれたり、教会同士の醜い競争があったり、力のある牧師が教会をコントロールしました。ですから、今はあんまり「教会成長」ということを強く言わなくなりました。その代わり、「健康な教会」とか、「自然に成長する教会」というような、柔らかい表現を用いるようになりました。ところで、本日は「共同体シリーズ」の第4回目、最終であります。教会を共同体、コミュニティと考えるとき、どのような価値観が求められるのでしょうか?この価値観は、牧師をはじめ、セルグループや奉仕のリーダーが最も忘れてはならないことであります。もし、教会が共同体であることを大事にしていくならば、最低3つのことが求められるのではないかと思います。

1.神の国中心

 信仰のDNAシリーズで何度も言っていることばは「神の国」です。なぜなら、イエス・キリストのメッセージの中心が神の国であったからです。パウロも使徒28章で「神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた」と書いてあります。神の国とは何でしょうか?それは神さまが王として治める、王国であります。私たちは神の国の民なのです。今は見えませんが、やがてははっきりと目に見えるかたちで訪れます。シカゴ大学は「世界終末時計」というのを管理しているらしく、今は、人類滅亡5分前だそうです。前は7分前だったのですが、北朝鮮やイランの核開発、そして地球温暖化によって、2分進められたそうです。しかし、私たちにとっては、この世の終わりは、千年王国(御国)の始まりであります。そこではすべてものが回復され、報いが与えられるでしょう。その後に、新しい天と新しい地がやって来るとヨハネ黙示録に書いてあります。では、教会というのは何なのでしょうか?教会というのは、神の国を宣べ伝え、神の国に一人でも多くの人が入るように願い求める、いわば大使館なのであります。そして、教会というのは建物ではなく、私たち一人ひとりであって、私たち一人ひとりが大使なのであります。Ⅱコリント5:19「すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。」とあります。

 私たちは教会とか教団という言葉を使い過ぎてきました。ローマ・カトリックでは、教会が人間的な組織になり、ものすごく腐敗しました。プロテスタント教会ではどうかというと、はじめは純粋だったのですが、教団・教派ができてくるとどうしてもエゴイスティックになります。「うちの教団さえ良ければ良い」「うちの教会さえ良ければ良い」ということになります。教団や教会の成長にやっきになって、大切なものを忘れてしまっていたところがあります。今、もう一度、思い出すべきことばは「神の国」「御国」であります。私たち教会の存在目的は、「御国が来るように」願うことであります。私たちは同じ、キリスト様を王として仰ぐ、御国の民なのであります。そうしますと、けちくさい教会同士の争い、教団同士の争いはどうでも良くなります。残念ではありますが、同じ町の教会というのは、お互いに閉鎖的であり、交わりが疎遠であります。私たちもこの近くにいくつかの教会があります。どうして交わりが疎遠なのでしょうか?それは「信徒が行ったり、来たりしないように」です。特に、都内ですと電車ですぐ行けますので、「あの教会が良さそうだ」と思えば、みんなそっちに行きます。ですから、できるだけ教会同士の交わりを避ける傾向があります。でも、当教会はブラックゴスペルをやって、いろんな教会から来られます。また、私自身もエリヤハウスとか、JCMNのセルコーチングをしていますので、教派を超えて交わっています。そうしますと、ある教会の牧師は「自分の信徒が亀有に盗られる」と思うかもしれません。「あー、なんてケツの穴が小さいんだろう!」と言いたくなりますが、これが日本の教会の特徴です。しかし、神の国中心の教会はそうではありません。「あなたの教会は私の教会、私の教会はあなたの教会。あなたの教会の成長は、私の教会の成長。あなたの成功は、私の成功」と喜ぶことができます。だって、私たちは同じ、神の国の民なのです。

 この世ではヒューマニズム(人本主義)が心の底辺にあります。日本人も人の気持ちとか感情を重視します。しかし、神の国と比較するならば、それらは2番目になります。イエス様が「私に着いてきなさい」とある人を召しました。その人は、「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください」と言いました。するとイエス様は「だれでも、手を鋤につけてから、後ろを見る者は、神の国にふさわしくありません」と言われました(ルカ9:61-62)。おそらく、イエス様はご存知だったのでしょう。この人がお家に帰って、「イエス様からこう言われた」と説明します。すると、家の者たちが、「あなた、仕事はどうなるの?家族をだれが養うの?」と反対するでしょう。彼は「ああ、そうだよなー」と結局、諭されて、イエス様の弟子になるのを断念する。だから、イエス様は「手を鋤につけてから、後ろを見る者は、神の国にふさわしくありません」とおっしゃったのです。ところで、教会を動かすものは何でしょう?ある教会は伝統が教会を動かします。また、ある教会は役員会や牧師が動かします。また、ある教会はプログラムや行事が動かします。しかし、教会を動かすのは、神の国のビジョンでなくてはなりません。「一人でも多くの人が教会を通して救われるように」と願うべきであります。最近、江戸川区のある教会から「新しい会堂を建てました」という献堂の知らせを受けました。平面図を見ると、敷地面積180坪に、1階建ての40名の礼拝堂、お庭と牧師館があるという教会です。そこは容積率が300%なので、「もったいないなー」と思いました。1階は、10台の駐車場と多目的室、二階は100名くらいの礼拝堂にして、三階の一部を牧師館にできると思いました。よその教会なので何とも言えませんが、おそらく、「自分たちが出せる経済力の大きさ」を考えたのかもしれません。当亀有教会の会堂は、「自分たちの経済力ではなく、神さまからの信仰で建てる」というのがモットーでした。神の国のビジョンこそが、教会を動かしていくべきであります。伝統とか、牧師や役員、行事でもありません。王なる神さまが教会を通して、何を望んでいるのか?神の国の拡大のために、私たちは何ができるのか?ここに焦点を合わせる必要があります。マタイ633「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」アーメン。

2.関係作り

 第二番目はお互いの人間関係であります。戦後、日本は経済大国になろうと必死に頑張ってきました。同じように、キリスト教会も、まるで会社を経営するように頑張ってきました。大きな会堂を建てて、いろんなプログラムを開いて人を集めました。非生産的な交わりよりも、奉仕が重要だと思われてきました。その結果、どうなったでしょう?教会のリーダーあるいは信徒リーダーというものは、力がある人でなければならないと思われるようになりました。「指導する力、教える力、賜物のある人がふさわしい。だから、そういう人を育てる」というふうになりました。つまり、その人の存在というよりも、その人の能力が重視されました。そのため、何もしない人、弱い人が教会にいづらくなりました。日本の企業も戦後、業績思考でガンガンやってきました。それでどうなったでしょう?家庭崩壊、燃え尽き、精神的な疾患がものすごく多くなりました。そして、あるときから企業が気付き始めました。これまでは、IQ、知能指数が高ければビジネスで成功すると思われてきました。しかし、それだけではなく、EQ、自分の感情をうまく管理し、人間関係を作ることが重要だということが分かってきました。世界のトップ企業のうち、8割の企業が教育などの研修等によって自社になんらかの形でEQを導入しているそうです。本来、教会こそが、EQ、人間関係のプロだったはずです。ところが、「教会を大きくしよう、成長させよう」とやってきたために、色んな問題が起こりました。牧師の燃え尽き、牧師家庭の崩壊、牧師と役員の戦い、あるいは、信徒と教会側との戦い。教会でも一年に一回、教会総会というのがありますが、一般企業の総会と変わらない、寒々とした光景があります。これは、関係が重視されていないことから来ています。

 神さまの私たちに対する戒めは何だったでしょうか?イエス様はマタイ22章でこのように言われました。「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。これがたいせつな第一の戒めです。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ、という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。」アーメン。神さまを愛するということは第一の戒めです。これは、さきほどの「神の国中心」と同じことです。しかし、第二の戒めは「あなたの隣人をあなた自身のように愛する」、これは人間関係を重んじるということです。つまり、「教会というところは、神さまとの縦の関係もさることながら、横との関係も忘れてはならないよ」ということです。ここ3回共同体の大切さということをお話してきました。「共同体の必要性」「共同体における成長」「セル集会の持ち方」であります。最後に「共同体における価値観」をここで話しております。でも、まず、そのことを一番理解しなければならないのが、教会のリーダーある牧師です。残念ながら、多くの牧師が「関係作り」ということが下手であり、優先順位において後回しだということです。牧師自身、いろんな傷がありますので、「人間嫌い」とまでは、いかなくても「人間関係は面倒だなー」と思っています。大体、神学校で「人間関係」という科目がありません。組織神学や聖書解釈、教会の歴史や説教は学ぶかもしれません。しかし、教会の役員さん方とどうコミュニケーションを取るかが分からない。会議における議事の進め方は分かるかもしれません。でも、膝をわって、お互いに話し合うということが分からない。いや、そういう話し合いは不必要だと思われているかもしれません。一方的に話す説教やアドバイスは得意でも、人の話に耳を傾けるということは苦手です。これは、私にも言えることです。ですから、「教会が共同体である」と言うことは、牧師自身の首を絞めることにもなります。もし、牧師が「神さまとの関係があれば良い。あとは、おまけだ!」という姿勢ならばどうでしょうか?教会も事務的な話し合いはするかもしれませんが、神の家族ではなくなります。みなさんの家族、夫婦同志で、事務的な話ししかしなかったなら、どうなるでしょうか?

 教会は確かに組織でありますが、会社や軍隊のような組織ではありません。使徒パウロは、「神の家族である」、あるいは「キリストのからだである」といっています。人々が救われ、教勢がアップする。つまり、生産を上げるということも確かに大切です。その前に、私たちは神の家族として、互いに交わり、愛し合うという関係がなくてはなりません。私たちは行ないによって救われたのではありません。イエス様を信じる信仰によって救われたのです。私たちの価値はdoing行ないではなく、being存在にあります。何もしなくても、キリスト様によって価値あるものとみなされ、愛され、受け入れられている。この安心感が基盤になければなりません。では、行ないはどのように出てくるのでしょうか?「キリストの恵みによって、神さまを愛し、隣人を愛します」と願い求めるならば、神さまがその行ないを与えてくれます。「…しなければ」と律法主義的になりますと、変になります。全知全能なる神さまは私たちの献金や奉仕がなくてもやっていける方です。神さまが私たちの助けがなくてもやってゆけるお方です。でも、神さまは私たちを通して働きたいのです。神さまが主役で、私たちが道具であり器であります。私たちを差し出す時に、私たちの内におられる聖霊様が働いてくださるのです。ということは、私たちが神さまに喜ばれる共同体、体質を持っているならば、聖霊様がどんどん働いてくださるということではないでしょうか?使徒パウロはコロサイ127「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」と言いました。私たちがお互いを愛して、聖霊様を私たちの中に歓迎するとき、聖霊様が働いてくださるということです。このところが、世の中の会社組織と違うところです。働きの主役は聖霊様で、私たちが脇役だということです。ですから、私たちは神の家族、キリストのからだの器官として、互いに交わりを持ち、互いに建て上げ、御国の働きに参与していく必要があります。そうすると、聖霊様が私たちを通して、働いてくださるのです。

3.権威委譲

 権威委譲という言葉はあまり聞いたことがないかもしれせん。これは『自然に成長する教会』から生まれたことばです。英語ではempoweringと言います。直訳すると「人に権限を与える。人に権能を与える」という意味になります。ですから「能力付与」とも言ったりします。一番、古い、権威委譲あるいは能力付与の物語は、出エジプト18章です。モーセはイスラエルの指導者として朝から夕方まで、民たちを裁いていました。それを見ていた、しゅうとのイテロが提案しました。「あなたも、あなたといっしょにいるこの民も、きっと疲れ果ててしまいます。このことはあなたには重すぎますから、あなたはひとりでそれをすることはできません。あなたは、民全体の中から、神を恐れる、力のある人々、不正の利を憎む誠実な人々を見つけ出し、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民の上に立てなければなりません。いつもは彼らが民をさばくのです。大きい事件はすべてあなたのところに持って来、小さい事件はみな、彼らがさばかなければなりません。あなたの重荷を軽くしなさい。彼らはあなたとともに重荷をになうのです。」これと似たような話が、使徒の働き6章にもあります。使徒たちが7人の執事たちを任命しました。旧訳聖書は少々ピラミッド型なので、新約聖書ではもう少し、フラットになるべきだという考えがあります。みなさん、多くの教会は牧師もしくは、牧師と役員が主だったことを決めて、教会員がそれを行なうというシステムです。これは会社と同じようなトップダウン式であります。しかし、聖書的な権威委譲、能力付与はそうではありません。イエス様は福音書で何とおっしゃっているでしょうか?マタイ20:25-27「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」数年前から、「サーバーント・リーダーシップ(仕えるリーダーシップ)」ということが言われるようになりました。これはピラミッドをひっくり返した考え方です。普通のピラミッドは頂点が上で、下に広がっていきます。しかし、サーバーント・リーダーシップとは、それを反対にしたものです。つまり、底辺が上で、頂点が一番下です。一番下からリーダーが支える、これがサーバーント・リーダーシップです。イエス様は2000年前から、同じことを教えておられたのです。

 しかし、リーダーにはリーダーの神さまから与えられた働きというのがいくつかあります。それは何でしょう?私は第一に神からのビジョンだと思います。これは旧約、新約聖書を見ても共通した考え方です。神さまは一人のリーダーを立て、その人にビジョンを与えます。かしらが腐るならば、からだも腐ります。かしらがちゃんとキリストにつながっていれば、からだは健康に保たれます。第二は最終的な決定権です。いろいろ話し合い、いろいろな意見があって良いのです。すべてがかしらなるキリストから聞くことが可能です。でも、最終的にはリーダーが決断しなければなりません。そうでないと、からだなる教会がバラバラになります。そして、第三はこの権威委譲、能力付与であります。つまり、リーダーが神さまからいただいたビジョンと決定権を独り占めしないで、他の人にも分け与えるということです。簡単に言いますと、神からのビジョンを分かち合い、教会員が自分のビジョンであると受け止めることです。また、決定権を牧師だけが持つのではなく、できるだけ任せていくということです。簡単に言うと、「報告書を出せ」みたいに、管理しないで、自分たちで決めさせるということです。もちろん、大事なことは知らせるべきです。でも、「俺は聞いていないぞ。勝手にやって、どういうことか?」というような雰囲気は作らないということです。「かしらなるキリストに聞いて、どんどんやって良いよ」。こういう雰囲気が必要だということです。現代の教会はリバイバルではなく、サバイバル、生き残りをかけているのかもしれません。テレビなどを見ますと、生き残りをかけて必死にやっている会社や飲食店が良く紹介されています。「富士そば」というチェーン店がありますが、そこの社長はバブルの前後、不動産業で大もうけしました。しかし、何十億も借金して、趣味でやっていた立ち食いそば屋一件だけが残ったそうです。その『富士そば』が今、大成功をおさめています。社長は支店長たちを呼んで会議を開きません。各店舗の店長に権限を与える方針を取っており、考案した新メニューはその店舗で試験販売を行う形式を用いています。つまり、各店長に「メニューは、何を出しても良い」と任せています。そば屋なのに、そばに大きなウィンナーを乗せたり、スパゲッテイ風にしたり、カツ丼とカレーを合わせたり、いろいろ。各店舗によって味もメニューが異なるのですが、それが成功したようです。「売れなかったら、別のものを作れば良い。それが当たったら、全店の定番メニューに採用しよう」という考えです。

 私は教団・教派のもとで動く教会は生き残れないと思います。それよりも各教会がかしらなるキリストとつながって、オリジナルな伝道牧会をすれば良いのです。今の時代はトップダウン式ではなく、ネットワークの時代です。コントロールしたり、コントロールされるという力関係がありません。そして、良いものはみんなで分かち合います。少し前に『ヒトデはクモよりなぜ強い』という本が出ました。クモというのは頭を切られたら死んでしまいます。それは中央集権型の組織です。上部にお伺いを立てて決定するという一般企業や官庁がそういう組織です。一方、ヒトデというのは不思議な生き物で、頭にあたるところがないそうです。どこを切っても、そこから手足がはえてくるそうです。古くはインディアのアパッチ、現代ではAAというアルコールの支援団体、さらにはインターネットであります。教会が中央集権型ではなく、セルグループがかしらなるキリストに聞いて動いたならどうでしょうか?世の終わり、大迫害がやって来て、教会が閉鎖されても大丈夫です。セルグループであるなら、どこにでも入り込むことが可能です。最低限、3つのこと、神の国中心、関係作り、権威委譲の価値観があれば良いのです。

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2010年7月 4日 (日)

特別礼拝

本日はホルン奏者の宮田四郎氏を招いての特別礼拝の為、原稿が用意できませんでした。

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