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2010年7月25日 (日)

信仰のABCD      マタイ7:7-10

前回から信仰について学んでいますが、本日は信仰をどのように働かせたら良いのか共に学びたいと思います。徐起源(ソウキウォン)という先生が信仰に関する本を書いていますが、その中に「信仰のABCD」という項目がありました。内容があまりにもすばらしくて、かなりの部分をパクらせていただきました。かなりと言っても、四分の一くらいです。信仰のABCというと、「信仰のいろは」みたいに聞こえますが、そうではありません。ABC、Dまであるからです。実は英語の頭文字でありまして、この順番がすばらしいのです。Aはask「求める」ということです。Bはbelieve「信じる」ということです。Cはconfess「告白する」ということです。そして、Dはdo「行なう」です。絶対、この順番でなければならないということではありませんが、信仰にはこのような要素が含まれているということです。

1.求める(ask)

イエス様はマタイ7:7「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」と約束されました。私たちはこの地上で生きていますと、様々な必要を覚えたり、困難や苦しみを受けます。ロバート・シュラーという先生が「悩みや問題がない人たちがいます。それはどういう人たちでしょう?」と質問しました。そして、こう答えたそうです。「それはお墓の下にいる人たちです。彼らはもう悩む必要がありません。この地上で生きているからこそ、悩みや問題があるのです」と。隣の人に言ってください。「悩みがあるのは、生きているからですよ」。でも、ここすばらしいニュースがあります。「求めなさい。そうすれば与えられます」と書いてあります。私たちはイエス様を信じたなら、神さまの子どもであります。そうなると、神さまは天のお父様です。ですから、私たちは何でも、どんなことでも父なる神さまに求めて良いのです。なんとすばらしい特権でしょうか?でも、神さまは意地悪でケチなお方でしょうか?そうではありません。マタイ79-10「あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」アーメン。地上の父は、自分の子どもには良いものを与えようとするでしょう。子どもが「パンをくれ」というのに石を与えるようなお父さんはいません。なおのこと、天の父は、「求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。与えますよ」ということです。

 でも、信仰生活を長くやっていると、「そうじゃないなー」ということもあります。与えられるものもありますが、与えられないこともあります。なぜでしょう?ヤコブ43「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです」とあります。たとえば、学校が嫌いな子どもが、神さまに「学校を燃やしてください」と祈ったら、神さまがきかれるでしょうか?あるいは「あいつが憎いので、痛い目に合わせてください」という祈りがきかれるでしょうか?あるいは「人はともかく、私だけ祝福してください。他の教会はともかく、私の教会だけ大きくしてください」という祈りがきかれるでしょうか?正直、私は似たような祈りをしてきました。「ああ、きかれなくて良かったなー」という祈りもあります。私たちの神さまは偶像の神さまではありません。偶像の神さまは、「こちらの言うことを聞かなければ、拝んであげない」みたいな所があります。しかし、まことの神さまは私たち以上のお方であり、私たちの奴隷ではありません。神さまはあらゆることをご存知なので、みこころに合わないことはかなえてくださらないのです。では、必ず、かなえられる祈りというのがあるのでしょうか?Ⅰヨハネ514-15「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」すごいですね。「下手な鉄砲数打てば当たる」という祈りもあります。でも、神さまのみここにかなう願いをするならば、もっともっと確率が高くなるのではないでしょうか。でも、神のみこころはどうしたら分かるのでしょう?それは聖書です。聖書を読むと、神さまのみこころがわかります。ある人は、聖書には3万以上の約束が含まれていると言いました。ですから、聖書から、神さまの約束を握って求めたら、もっと、もっと私たちの祈りがかなえられるのではないでしょうか。

 私の長男が小さい頃、ガンダムのプラモデルが流行っていました。一個が大体、450円くらいしました。しかし、中には数の少ない、「レアもの」というのがあります。私は長男を車に乗せて、松戸のおもちゃ屋さんまで行ったことがあります。たまに長男が「パパ、あれ買ってくれるって、約束したよね」と言うのです。私も家内から「あなたは人の話を聞いていない」とよく叱られました。だから、長男から「パパ、約束したでしょう」と言われると、「ああ、そうだったのかな?」と、買わざるを得ません。そうでないと「パパの嘘つき」と言われるかもしれません。牧師が「嘘つき」と呼ばれるのは、ちょっと耐えられません。でも、今、思うと「本当に買ってあげる」と約束したのかな?というところもあります。みなさん、神さまは嘘つきでしょうか?父なる神さまは真実で、愛なるお方です。私たちに良いものを与えようと願っておられます。どうぞ、聖書から約束と取り付けて、みこころにかなうものを求めましょう。そのためには、祈りながら求める必要があります。神さまに祈っているうちに、その祈りが清められ、神さまのところに届くものとなるのです。

2.信じる(believe)

私たちは祈り求めていくうちに、あるとき「祈りはかなえられた」という確信を持つことができます。いや、確信を持つまで祈る必要があります。それまでは、「ください」「ください」と祈り求めてきました。しかし、確信がやってくると、もうそのような祈りはしなくて良いのです。そのときは「私はそれを得たと信じます」と言えば良いのです。信仰とはまだ見ていないものをつかむ手であります。霊の世界ではもうすでに叶えられているのです。あとはそのときを待てば良いのです。チョー・ヨンギ先生は、数年前に書かれた『四次元の人』という本でこのように語っておられます。信仰は四次元の世界から三次元を変える強力な力です。聖書にも「あなたの信じたとおりになるように」「できるものなら、と言うのか。信じる者にはどんなできるからです」と教えています。つまり、目に見える、この三次元は、霊的な四次元によって支配されているということです。マルコ11:24 「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」とあります。ですから、私たちはこの三次元で受ける前に、四次元において受けたと信じる必要があるのです。私たちは、現実にここにあるものを信じる必要はありません。ただ、「ここにあります」と言えばよいだけです。でも、今、ここにないならば、信じる必要があります。私たちは今、ここにないものを「すでに得た」と信じる、これが信仰であります。

たとえば、アメリカにいる長男から「学費が足りないので送金してくれ」と電話が来たとします。今は送っていませんが、ものすごく大変だったことがあります。これは体験から来たものです。「いくらか」と聞くと「100万円だ」と言います。「え?この間、送ったばかりだろう?」と言います。でも、息子は「これとあれと、これで必要だ」と言います。私はものすごく悩みます。そして、なんとか工面します。それで銀行からアメリカに送金します。すぐ後、私は「きょうの午前11時に送金したから」とメールを送ります。こっちは朝ですが、向こうは夜です。息子は次の朝起きて、メールをあけます。「送金した」という私のメールを見ます。どうでしょうか?息子は私に再び「送金してくれ」と電話をかけてくるでしょうか?しません。なぜなら、「送金した」という私のメールを見たからです。あとは、自分ところの銀行へ行って、現金を引き出せば良いのです。それが「信じる」ということです。まだ、現金は手にしていません。しかし、銀行にはすでに入っているのです。私たちも最初は神さまに求めます。「ああしてください、こうしてください」と。でも、祈り求めていくうち、信仰がやってきます。「おお、神さまは私の祈りを聞いてくださった」。それだったらもう求める必要はありません。「主よ、信じます。アーメン」で良いのです。ただし、その信仰が現実のものとなるまでは、少し時間がかかるときがあります。父なる神さまには、時間というものがありません。常に今です。私たちが信じたその時に与えるのです。ただし、それが私たちの手元に届くまでに時間がかかるのです。神さまの側ではすでに与えてくださったのです。でも、私たちは三次元の中で生きているので、時間がかかるのです。

子どもを生んだことのあるお母さんなら、このことがよく分かるでしょう。ある時点で子どもが宿ります。医学的に「ご懐妊」と言うのでしょう。でも、どうでしょう?すぐ生まれるわけではありません。体調に変化をきたし、つわりになったりします。そして、だんだんおなかが大きくなります。でも、赤ちゃんは外側からは見えません。見えませんが、確かにおなかの中で育っているのです。「1010日」と言うのでしょうか?来るべき日がきたとき、「おぎゃー」とこの世に生まれます。これも信仰の世界と同じではないでしょうか?「主よ、信じます」と信じた日から、定まった時間がたったあとに、実際に手にすることができるのです。私たちは手に入れる前に、まず信じる必要があるのです。私たちは肉眼で見る前に、霊の世界で見る必要があるのです。これが信じるということです。

3.告白する(confess)

 第三は信じたことを口に出す、告白するということです。告白というギリシャ語は、ホモ・ロゲオゥと言います。これは「同じことを言う」という意味です。私たちが心の中で本当に信じているならば、口から信じていることが出てくるということです。ローマ人1010「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」とあります。私たちはどこで信じるのでしょうか?心であります。ここで言う「心」とは知性ではありません。どちらかと言うと「霊」であります。心の深いところ、霊で信じます。その次には、信じたことをこの口から告白する必要があるのです。なぜなら、告白したことばによって、この世界が変えられるからです。マルコ1123「まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」イエス様は、「山に向かって『動いて海に入れ』と言え」とお命じになられました。山とは私たちが生活している中で起こってくる、困難や問題あるいは病気と言って良いでしょう。その山に向かって「動いて、海に入れ」と言うのです。最近、ゴスペルでSpeak to the mountainという賛美を練習しています。日本語に訳すとこういう歌詞です。「山に向かって言いなさい。どきなさいといいなさい。困難な状況に向かって言いなさい。そうすれば、今日それが動くだろう。…言いなさい。求めなさい。信じなさい。受け取りなさい。それはあなたのものです」。まあ、すごい信仰的な賛美です。この歌の「求めなさい」は英語でclaimとなっています。Claimといえば、0120の電話、「クレーム」をつける意味もあります。しかし、Claimには「主張する、要求する、自分のものだと言う」という意味もあります。

 去る56日のことです。私は毎月1日、丸愛朝祷会というところでお話に行きます。一回である程度の謝礼をいただけます。私は51日朝祷会に出かけました。すると、会社の門に大きな鍵がかけられていました。「ありゃー、連休なので休みか?」と思って帰ってきました。後日、ご自宅に電話すると、「連絡しないですみません、6日に行います」と言われました。5日の夜、「明日は朝祷会だなー」と思って寝ました。5時半頃、猫に起されて目が覚めました。猫を外に出してからまた寝ました。家内が「朝ですよ」と私を起こしました。時計を見るとなんと725分です。なんと、朝祷会の開始時間に目がさめたのです。会社に電話したら「こちらでやります」ということでした。「うぁー、私はいっぺんで、謝礼と信用の2つを失いました」。「いやー」鏡の前に立ちました。情けない顔をしています。そのとき思いました。私は1999年から皮膚病(乾癬)でなかなかなおりません。薬代もかかります。数ヶ月前から漢方も飲んでいます。でも、なかなか良い兆候が現れません「はぁー」とため息が出ました。これまで数え切れないほど神さまに祈り、体にも命じてきました。でも、もう十分だという気持ちになりました。「そうじゃない、癒されたと信じるんだ。イエス・キリストは2000年前、私の病を背負ってくださったんだ。だから、この病を私は負う必要はない。」そのときに、内側から信仰が湧き上がってきました。そして、鏡の自分に向かって、「信じます。皮膚病が治ったと信じます!」と宣言しました。あの日から何かが変わったと思います。皮膚が癒されてきたのです。もちろん、漢方とか気候のせいもあるかもしれません。でも、「信仰によって、また告白によって癒しを得た」と確信します。それ以来、私は神さまに祈り求めていません。「主よ、ありがとうございます」と、感謝しています。

 ある人たちは信仰をもって祈ります。また、ある場合はだれかに病の癒しのために祈ってもらうかもしれません。しかし、立ち上がるときにこう言うのです。「やっぱり、現実は難しいからなー」「ああ、まだ痛みがあるので、癒されなかったのかな?」と言います。それは自分の口で、信仰を否定しているのです。つまり、神さまの前で「信じます」と言った直後、自分の口で「今のを、キャンセルします」とやっているのと同じなのです。箴言1820,21「人はその口の結ぶ実によって腹を満たし、そのくちびるによる収穫に満たされる。死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」このみことばは、私たちがどのようなことを口に出すかによって、死んだり、あるいは生きたりするということです。みなさんはどっちの実を食べたいでしょうか?死でしょうか?あるいは命の実でしょうか?どうぞ、信仰的なことばをこの口から発しましょう。

4.行動する(do)

 信じたら、あとは信じたとおりに行動することです。ヤコブ2:17「信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです」と書いてあります。福音書に中風の友人を4人の人がイエス様のところに運んできた物語があります。戸口まで人があふれて、入ることができませんでした。彼らはイエス様がおられるあたりの屋根をはがして穴をあけました。そして、中風の人を寝かせたまま、その床をつり降ろしました。イエス様は彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われました。彼らの信仰とは、4人が屋根を剥がしてまでも、中風の友人をイエスさまのもとへ連れてきたことです。彼らに信仰があったので、途中であきらめなかったのです。イエス様は「そのような行動に現れた彼らの信仰を見た」のです。信仰があったのは4人だけではありません。イエス様は中風の人に「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われました。中風の人は「えー?無理ですよ。中風ですよ?起きられるわけないじゃないですか?」とも言えました。聖書はそう書いていません。「すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みんなの前を出て行った」とあります。彼は起き上がっただけではありません。今まで寝ていた床をくるくる巻いて、それを担いで出て行ったのです。彼はイエス様のことばに従ったのです。なぜなら、彼の中に信仰があったからです。この物語に似たようなことが福音書にはたくさんあります。マタイ12章には、片手のなえた人が会堂にいました。イエス様はその人に「手を伸ばしなさい」と言われました。聖書は何と書いてあるでしょう?マタイ1213「彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった」と書いてあります。片手のなえた人はだまっていたわけではありません。イエス様が「手を伸ばしなさい」と言われたので、自分も手を伸ばしたのです。伸ばしたら、伸びて、もう一方の手と同じようになったのです。彼はイエス様から与えられた信仰のことばどおり、行なってみたのです。そうしたらそうなったのです。

 かなり前に、ネィティブ・インディアンのメル・ボンド師がこの教会に来られたことがあります。癒しの3ステップということでお話くださいました。第一はリラックス、第二はレーシーブ(受け取ること)、第三は、アクション(行動を起すこと)だと言われました。メル・ボンド先生は祈ったあと、歩かせたり、走らせたりします。先生は「信仰をもってアクションを起せば、どんどん癒される」と言いました。ひとりの女性が癒しを受けるためにやってきました。その人は足が痛くて、亀有駅からタクシーに乗ってやってきました。メル・ボンド師が彼女のために祈りました。その後、「さあ、この通路を走ってみなさい」と言いました。その女性は、「私はお医者さんから走ってはいけない」と言われていますと言って、拒否しました。先生は「あなたは神さまがおっしゃることと、お医者さんとどちらの言うことを聞くのですか?」と言いました。彼女は「いや、お医者さんがだめだと言ったので」と、その場を動こうとしませんでした。人に信仰を強制することはできませんので「仕方がないなー」と思いました。私もメル・ボンド先生から教えられた祈り方をします。祈った直後に、痛いところの肩とか腰を動かしてもらいます。「あれ、楽になった」とか言います。「どうですか?」と聞くと「まだ、痛い」とか言います。すると、もう一度、患部が良くなるようにイエスの御名によって命じます。そして、また動かしてもらいます。その人は信仰をもって動かしてみます。すると、癒しがさらに進みます。とうことは、祈る方の信仰も必要ですが、受け取る方の人も信仰が必要だということです。イエス様は「もし、信じるなら神の栄光を見る言ったではないか」と言われました。私たちは、この地上で神さまの栄光をもっと、もっと見たいのですよね。それだったら、父なる神さまに求め、信じ、告白し、信じたとおりに行動すべきであります。

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