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2010年7月11日 (日)

共同体における価値観  マタイ6:33、マタイ20:25-27

1970年代から、「教会成長」という言葉が使われはじめました。教会が会社でも経営するように、大きな建物を建てて、人を集めようと頑張ってきました。しかし、そこにはいくつかの弊害も生まれました。弱い人がはじかれたり、教会同士の醜い競争があったり、力のある牧師が教会をコントロールしました。ですから、今はあんまり「教会成長」ということを強く言わなくなりました。その代わり、「健康な教会」とか、「自然に成長する教会」というような、柔らかい表現を用いるようになりました。ところで、本日は「共同体シリーズ」の第4回目、最終であります。教会を共同体、コミュニティと考えるとき、どのような価値観が求められるのでしょうか?この価値観は、牧師をはじめ、セルグループや奉仕のリーダーが最も忘れてはならないことであります。もし、教会が共同体であることを大事にしていくならば、最低3つのことが求められるのではないかと思います。

1.神の国中心

 信仰のDNAシリーズで何度も言っていることばは「神の国」です。なぜなら、イエス・キリストのメッセージの中心が神の国であったからです。パウロも使徒28章で「神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた」と書いてあります。神の国とは何でしょうか?それは神さまが王として治める、王国であります。私たちは神の国の民なのです。今は見えませんが、やがてははっきりと目に見えるかたちで訪れます。シカゴ大学は「世界終末時計」というのを管理しているらしく、今は、人類滅亡5分前だそうです。前は7分前だったのですが、北朝鮮やイランの核開発、そして地球温暖化によって、2分進められたそうです。しかし、私たちにとっては、この世の終わりは、千年王国(御国)の始まりであります。そこではすべてものが回復され、報いが与えられるでしょう。その後に、新しい天と新しい地がやって来るとヨハネ黙示録に書いてあります。では、教会というのは何なのでしょうか?教会というのは、神の国を宣べ伝え、神の国に一人でも多くの人が入るように願い求める、いわば大使館なのであります。そして、教会というのは建物ではなく、私たち一人ひとりであって、私たち一人ひとりが大使なのであります。Ⅱコリント5:19「すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。」とあります。

 私たちは教会とか教団という言葉を使い過ぎてきました。ローマ・カトリックでは、教会が人間的な組織になり、ものすごく腐敗しました。プロテスタント教会ではどうかというと、はじめは純粋だったのですが、教団・教派ができてくるとどうしてもエゴイスティックになります。「うちの教団さえ良ければ良い」「うちの教会さえ良ければ良い」ということになります。教団や教会の成長にやっきになって、大切なものを忘れてしまっていたところがあります。今、もう一度、思い出すべきことばは「神の国」「御国」であります。私たち教会の存在目的は、「御国が来るように」願うことであります。私たちは同じ、キリスト様を王として仰ぐ、御国の民なのであります。そうしますと、けちくさい教会同士の争い、教団同士の争いはどうでも良くなります。残念ではありますが、同じ町の教会というのは、お互いに閉鎖的であり、交わりが疎遠であります。私たちもこの近くにいくつかの教会があります。どうして交わりが疎遠なのでしょうか?それは「信徒が行ったり、来たりしないように」です。特に、都内ですと電車ですぐ行けますので、「あの教会が良さそうだ」と思えば、みんなそっちに行きます。ですから、できるだけ教会同士の交わりを避ける傾向があります。でも、当教会はブラックゴスペルをやって、いろんな教会から来られます。また、私自身もエリヤハウスとか、JCMNのセルコーチングをしていますので、教派を超えて交わっています。そうしますと、ある教会の牧師は「自分の信徒が亀有に盗られる」と思うかもしれません。「あー、なんてケツの穴が小さいんだろう!」と言いたくなりますが、これが日本の教会の特徴です。しかし、神の国中心の教会はそうではありません。「あなたの教会は私の教会、私の教会はあなたの教会。あなたの教会の成長は、私の教会の成長。あなたの成功は、私の成功」と喜ぶことができます。だって、私たちは同じ、神の国の民なのです。

 この世ではヒューマニズム(人本主義)が心の底辺にあります。日本人も人の気持ちとか感情を重視します。しかし、神の国と比較するならば、それらは2番目になります。イエス様が「私に着いてきなさい」とある人を召しました。その人は、「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください」と言いました。するとイエス様は「だれでも、手を鋤につけてから、後ろを見る者は、神の国にふさわしくありません」と言われました(ルカ9:61-62)。おそらく、イエス様はご存知だったのでしょう。この人がお家に帰って、「イエス様からこう言われた」と説明します。すると、家の者たちが、「あなた、仕事はどうなるの?家族をだれが養うの?」と反対するでしょう。彼は「ああ、そうだよなー」と結局、諭されて、イエス様の弟子になるのを断念する。だから、イエス様は「手を鋤につけてから、後ろを見る者は、神の国にふさわしくありません」とおっしゃったのです。ところで、教会を動かすものは何でしょう?ある教会は伝統が教会を動かします。また、ある教会は役員会や牧師が動かします。また、ある教会はプログラムや行事が動かします。しかし、教会を動かすのは、神の国のビジョンでなくてはなりません。「一人でも多くの人が教会を通して救われるように」と願うべきであります。最近、江戸川区のある教会から「新しい会堂を建てました」という献堂の知らせを受けました。平面図を見ると、敷地面積180坪に、1階建ての40名の礼拝堂、お庭と牧師館があるという教会です。そこは容積率が300%なので、「もったいないなー」と思いました。1階は、10台の駐車場と多目的室、二階は100名くらいの礼拝堂にして、三階の一部を牧師館にできると思いました。よその教会なので何とも言えませんが、おそらく、「自分たちが出せる経済力の大きさ」を考えたのかもしれません。当亀有教会の会堂は、「自分たちの経済力ではなく、神さまからの信仰で建てる」というのがモットーでした。神の国のビジョンこそが、教会を動かしていくべきであります。伝統とか、牧師や役員、行事でもありません。王なる神さまが教会を通して、何を望んでいるのか?神の国の拡大のために、私たちは何ができるのか?ここに焦点を合わせる必要があります。マタイ633「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」アーメン。

2.関係作り

 第二番目はお互いの人間関係であります。戦後、日本は経済大国になろうと必死に頑張ってきました。同じように、キリスト教会も、まるで会社を経営するように頑張ってきました。大きな会堂を建てて、いろんなプログラムを開いて人を集めました。非生産的な交わりよりも、奉仕が重要だと思われてきました。その結果、どうなったでしょう?教会のリーダーあるいは信徒リーダーというものは、力がある人でなければならないと思われるようになりました。「指導する力、教える力、賜物のある人がふさわしい。だから、そういう人を育てる」というふうになりました。つまり、その人の存在というよりも、その人の能力が重視されました。そのため、何もしない人、弱い人が教会にいづらくなりました。日本の企業も戦後、業績思考でガンガンやってきました。それでどうなったでしょう?家庭崩壊、燃え尽き、精神的な疾患がものすごく多くなりました。そして、あるときから企業が気付き始めました。これまでは、IQ、知能指数が高ければビジネスで成功すると思われてきました。しかし、それだけではなく、EQ、自分の感情をうまく管理し、人間関係を作ることが重要だということが分かってきました。世界のトップ企業のうち、8割の企業が教育などの研修等によって自社になんらかの形でEQを導入しているそうです。本来、教会こそが、EQ、人間関係のプロだったはずです。ところが、「教会を大きくしよう、成長させよう」とやってきたために、色んな問題が起こりました。牧師の燃え尽き、牧師家庭の崩壊、牧師と役員の戦い、あるいは、信徒と教会側との戦い。教会でも一年に一回、教会総会というのがありますが、一般企業の総会と変わらない、寒々とした光景があります。これは、関係が重視されていないことから来ています。

 神さまの私たちに対する戒めは何だったでしょうか?イエス様はマタイ22章でこのように言われました。「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。これがたいせつな第一の戒めです。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ、という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。」アーメン。神さまを愛するということは第一の戒めです。これは、さきほどの「神の国中心」と同じことです。しかし、第二の戒めは「あなたの隣人をあなた自身のように愛する」、これは人間関係を重んじるということです。つまり、「教会というところは、神さまとの縦の関係もさることながら、横との関係も忘れてはならないよ」ということです。ここ3回共同体の大切さということをお話してきました。「共同体の必要性」「共同体における成長」「セル集会の持ち方」であります。最後に「共同体における価値観」をここで話しております。でも、まず、そのことを一番理解しなければならないのが、教会のリーダーある牧師です。残念ながら、多くの牧師が「関係作り」ということが下手であり、優先順位において後回しだということです。牧師自身、いろんな傷がありますので、「人間嫌い」とまでは、いかなくても「人間関係は面倒だなー」と思っています。大体、神学校で「人間関係」という科目がありません。組織神学や聖書解釈、教会の歴史や説教は学ぶかもしれません。しかし、教会の役員さん方とどうコミュニケーションを取るかが分からない。会議における議事の進め方は分かるかもしれません。でも、膝をわって、お互いに話し合うということが分からない。いや、そういう話し合いは不必要だと思われているかもしれません。一方的に話す説教やアドバイスは得意でも、人の話に耳を傾けるということは苦手です。これは、私にも言えることです。ですから、「教会が共同体である」と言うことは、牧師自身の首を絞めることにもなります。もし、牧師が「神さまとの関係があれば良い。あとは、おまけだ!」という姿勢ならばどうでしょうか?教会も事務的な話し合いはするかもしれませんが、神の家族ではなくなります。みなさんの家族、夫婦同志で、事務的な話ししかしなかったなら、どうなるでしょうか?

 教会は確かに組織でありますが、会社や軍隊のような組織ではありません。使徒パウロは、「神の家族である」、あるいは「キリストのからだである」といっています。人々が救われ、教勢がアップする。つまり、生産を上げるということも確かに大切です。その前に、私たちは神の家族として、互いに交わり、愛し合うという関係がなくてはなりません。私たちは行ないによって救われたのではありません。イエス様を信じる信仰によって救われたのです。私たちの価値はdoing行ないではなく、being存在にあります。何もしなくても、キリスト様によって価値あるものとみなされ、愛され、受け入れられている。この安心感が基盤になければなりません。では、行ないはどのように出てくるのでしょうか?「キリストの恵みによって、神さまを愛し、隣人を愛します」と願い求めるならば、神さまがその行ないを与えてくれます。「…しなければ」と律法主義的になりますと、変になります。全知全能なる神さまは私たちの献金や奉仕がなくてもやっていける方です。神さまが私たちの助けがなくてもやってゆけるお方です。でも、神さまは私たちを通して働きたいのです。神さまが主役で、私たちが道具であり器であります。私たちを差し出す時に、私たちの内におられる聖霊様が働いてくださるのです。ということは、私たちが神さまに喜ばれる共同体、体質を持っているならば、聖霊様がどんどん働いてくださるということではないでしょうか?使徒パウロはコロサイ127「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」と言いました。私たちがお互いを愛して、聖霊様を私たちの中に歓迎するとき、聖霊様が働いてくださるということです。このところが、世の中の会社組織と違うところです。働きの主役は聖霊様で、私たちが脇役だということです。ですから、私たちは神の家族、キリストのからだの器官として、互いに交わりを持ち、互いに建て上げ、御国の働きに参与していく必要があります。そうすると、聖霊様が私たちを通して、働いてくださるのです。

3.権威委譲

 権威委譲という言葉はあまり聞いたことがないかもしれせん。これは『自然に成長する教会』から生まれたことばです。英語ではempoweringと言います。直訳すると「人に権限を与える。人に権能を与える」という意味になります。ですから「能力付与」とも言ったりします。一番、古い、権威委譲あるいは能力付与の物語は、出エジプト18章です。モーセはイスラエルの指導者として朝から夕方まで、民たちを裁いていました。それを見ていた、しゅうとのイテロが提案しました。「あなたも、あなたといっしょにいるこの民も、きっと疲れ果ててしまいます。このことはあなたには重すぎますから、あなたはひとりでそれをすることはできません。あなたは、民全体の中から、神を恐れる、力のある人々、不正の利を憎む誠実な人々を見つけ出し、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民の上に立てなければなりません。いつもは彼らが民をさばくのです。大きい事件はすべてあなたのところに持って来、小さい事件はみな、彼らがさばかなければなりません。あなたの重荷を軽くしなさい。彼らはあなたとともに重荷をになうのです。」これと似たような話が、使徒の働き6章にもあります。使徒たちが7人の執事たちを任命しました。旧訳聖書は少々ピラミッド型なので、新約聖書ではもう少し、フラットになるべきだという考えがあります。みなさん、多くの教会は牧師もしくは、牧師と役員が主だったことを決めて、教会員がそれを行なうというシステムです。これは会社と同じようなトップダウン式であります。しかし、聖書的な権威委譲、能力付与はそうではありません。イエス様は福音書で何とおっしゃっているでしょうか?マタイ20:25-27「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」数年前から、「サーバーント・リーダーシップ(仕えるリーダーシップ)」ということが言われるようになりました。これはピラミッドをひっくり返した考え方です。普通のピラミッドは頂点が上で、下に広がっていきます。しかし、サーバーント・リーダーシップとは、それを反対にしたものです。つまり、底辺が上で、頂点が一番下です。一番下からリーダーが支える、これがサーバーント・リーダーシップです。イエス様は2000年前から、同じことを教えておられたのです。

 しかし、リーダーにはリーダーの神さまから与えられた働きというのがいくつかあります。それは何でしょう?私は第一に神からのビジョンだと思います。これは旧約、新約聖書を見ても共通した考え方です。神さまは一人のリーダーを立て、その人にビジョンを与えます。かしらが腐るならば、からだも腐ります。かしらがちゃんとキリストにつながっていれば、からだは健康に保たれます。第二は最終的な決定権です。いろいろ話し合い、いろいろな意見があって良いのです。すべてがかしらなるキリストから聞くことが可能です。でも、最終的にはリーダーが決断しなければなりません。そうでないと、からだなる教会がバラバラになります。そして、第三はこの権威委譲、能力付与であります。つまり、リーダーが神さまからいただいたビジョンと決定権を独り占めしないで、他の人にも分け与えるということです。簡単に言いますと、神からのビジョンを分かち合い、教会員が自分のビジョンであると受け止めることです。また、決定権を牧師だけが持つのではなく、できるだけ任せていくということです。簡単に言うと、「報告書を出せ」みたいに、管理しないで、自分たちで決めさせるということです。もちろん、大事なことは知らせるべきです。でも、「俺は聞いていないぞ。勝手にやって、どういうことか?」というような雰囲気は作らないということです。「かしらなるキリストに聞いて、どんどんやって良いよ」。こういう雰囲気が必要だということです。現代の教会はリバイバルではなく、サバイバル、生き残りをかけているのかもしれません。テレビなどを見ますと、生き残りをかけて必死にやっている会社や飲食店が良く紹介されています。「富士そば」というチェーン店がありますが、そこの社長はバブルの前後、不動産業で大もうけしました。しかし、何十億も借金して、趣味でやっていた立ち食いそば屋一件だけが残ったそうです。その『富士そば』が今、大成功をおさめています。社長は支店長たちを呼んで会議を開きません。各店舗の店長に権限を与える方針を取っており、考案した新メニューはその店舗で試験販売を行う形式を用いています。つまり、各店長に「メニューは、何を出しても良い」と任せています。そば屋なのに、そばに大きなウィンナーを乗せたり、スパゲッテイ風にしたり、カツ丼とカレーを合わせたり、いろいろ。各店舗によって味もメニューが異なるのですが、それが成功したようです。「売れなかったら、別のものを作れば良い。それが当たったら、全店の定番メニューに採用しよう」という考えです。

 私は教団・教派のもとで動く教会は生き残れないと思います。それよりも各教会がかしらなるキリストとつながって、オリジナルな伝道牧会をすれば良いのです。今の時代はトップダウン式ではなく、ネットワークの時代です。コントロールしたり、コントロールされるという力関係がありません。そして、良いものはみんなで分かち合います。少し前に『ヒトデはクモよりなぜ強い』という本が出ました。クモというのは頭を切られたら死んでしまいます。それは中央集権型の組織です。上部にお伺いを立てて決定するという一般企業や官庁がそういう組織です。一方、ヒトデというのは不思議な生き物で、頭にあたるところがないそうです。どこを切っても、そこから手足がはえてくるそうです。古くはインディアのアパッチ、現代ではAAというアルコールの支援団体、さらにはインターネットであります。教会が中央集権型ではなく、セルグループがかしらなるキリストに聞いて動いたならどうでしょうか?世の終わり、大迫害がやって来て、教会が閉鎖されても大丈夫です。セルグループであるなら、どこにでも入り込むことが可能です。最低限、3つのこと、神の国中心、関係作り、権威委譲の価値観があれば良いのです。

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