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2010年6月27日 (日)

セル集会の持ち方    使徒2:43-47、コロサイ3:16

 きょうは「セル」という言葉を使います。別にセルと言わなくても良いんです。セルとは方策のように思われていますが、そうではありません。セルとはキリストのからだの細胞という意味から来ています。日本の教会ではセルという言葉をあえて使わない教会もあります。ですから、小グループと呼んでもさしつかえありません。でも、私が当教会で15年間、セル、セルと言ってきたので、「セル集会」と呼ばせていただきます。でも、セルといわなくも、全く、構いません。重要なのは新約聖書が言っている教会を目指せば良いのです。新約聖書の教会には、キリストを中心とした麗しい共同体、コミュニティがありました。この共同体とセル集会とが深いつながりがあります。

1.セル集会とは

 ペンテコステの日、3000人の人たちがいっぺんで救われました。彼らはどのような集まりを持ったのでしょうか?使徒の働き2章後半に、初代教会の様子が記されています。まず、彼らは神殿に集まって礼拝をしていました。今で言う、聖日礼拝であります。もう1つ彼らは家々で集会を持っていたとあります。おそらく、10名前後の人たちが平日、集まっていたと思われます。その小さな集まりを「セル集会」と呼んでいます。もちろん、スモールグループとか、ファミリーと呼んでもぜんぜん構いません。では、従来の「家庭集会」とどこが違うのでしょうか?多くの場合、家庭集会は牧師や伝道師が、ある信徒の家庭におじゃまします。そこに近くのクリスチャンが集まります。だいたい、そこでは牧師がメッセージして、お祈りし、お茶を飲んで終わりというプログラムです。そこでの会話の方向は、牧師からメンバーへと一方向です。しかし、セル集会の場合は、牧師がそこに行きません。そこに集まるクリスチャンの主導で行なわれます。だれか一人が教えるというよりも、みんなでみことばを分かち合うということがなされます。会話の方向は、あっちから、こっちから、こっちから、あっちからと入り乱れています。リーダー的な人はいますが、集会をコントロールするというよりも、交通整理的な役割が求められます。だれかが一人で話題を独り占めしているときは、「ちょっと控えて、他の人の話も聞きましょう」と言います。リーダーの主な役割は、集会を仕切るのではなく、人々の心が開かれ、気軽に話せるような雰囲気を作るということです。特に、黙りこんでいる人の口を開かせる。そのためにはリーダー自身の恥や失敗を喜んで、分かち合う必要があります。

 セル集会には最低限度のきまりが必要です。第一はフラットな関係です。フラットとは平らという意味であり、上下関係がないということです。だれか強い人が、「私の言うことを聞きなさい」とコントロールしてはいけません。セル集会には父親的な人はいても、ボスはいないということです。私はJCMN関東セルチャーチのコーディネーター(世話役)をしています。年に3回か4回、牧師やリーダーのためにセミナーを開きます。そこに出席した牧師たちがまずびっくりします。あまりにもフラットで解放的な雰囲気でふらっとするみたいです。普通、キリスト教の集会では、大教会の牧師は上座に座ります。小さい教会の牧師は、どうしても卑屈になります。しかし、セルチャーチでは、偉い人がいないんです。それと同じように、セル集会でもそのようなフラットな関係が必要です。第二は秘密を守るということです。そこで話された内容を他のところで話さないということです。もし、そうしないならば、表面的な話しかできません。そこが安全であるならば、どんな深い内容でも、分かち合うことができます。秘密を守るとは、ここは安全な場所であるというしるしです。第三は人の噂話はしないということです。特に、そこに参加していない人の話題は避けるということです。この世ではゴシップというのはおいしいご馳走のようにみなされています。ご近所でも、会社でも、PTAでも、そういうゴシップに花を咲かせます。私がある教団の牧師に「セルはどうですか?」と聞きました。すると、「セルはだめだよ。牧師の悪口を言う場になるから」とつっぱねられました。それは、牧師が信徒を信頼していないからかもしれません。でも、そういう危険性はあるということです。第四は、セル集会は教えるということよりも、「私がこのように教えられました」と分かち合い形式で言うということです。「あなたはこうした方が良いですよ」「あなたはここが間違っています」と言うと、雰囲気が悪くなります。それよりも、「私がこうしたら、こうなりましたよ」と私メッセージで伝えれば良いのです。

2.セル集会の目的 

 昔の教会は、「礼拝が終ったなら、さっさと帰るように」と言われました。それは、語られたメッセージをじっくり噛締めるためです。人と話すと心が乱れて、恵みが消えてしまうので、そのまま帰るのかもしれません。でも、どうでしょうか?教会は神さまとの縦の関係だけではなく、兄弟姉妹の横の関係も必要です。なぜなら、教会とは「聖徒の交わり」と言われているからです。聖徒とは、罪が贖われて、神さまとの縦の関係のある人たちのことです。そして、「聖徒の交わり」となると、個人と神さまとの関係だけではなく、罪が贖われた者同士との関係も必要だということです。なぜなら、神さまからの戒めがそのようになっているからです。イエス様は、マタイ22章でこのようにおっしゃられています。「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。これがたいせつな第一の戒めです。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよという第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。」そうです。私たちは神さまを愛するだけではなく、隣人を自分のように愛するように命令されているからです。そして、教会の兄弟姉妹が持つ集会というのは、この隣人愛の練習の場になるということです。この世における人との関係とはどういうものでしょう?親子や親族などの血縁関係、会社においては利害関係、男女においては恋愛関係です。この世においては友だち関係というのがなかなか作りにくいですね。本来、友だち関係というのは夫婦の間にも、教師と生徒、牧師と信徒、あらゆる関係の基盤になるべきなのです。しかし、特に日本人はそれができません。必ず、年齢とか役職、身分が土台した上下関係になります。アメリカには敬語というのがほとんどありません。YOUとかファーストネームで呼び合っています。しかし、日本は上下関係が強いので、敬語や丁寧語がものすごく多いんです。しかし、教会というところは身分も年齢も、男女関係もありません。みな、兄弟姉妹の関係であります。頭では分かりますが、それを体験していく場がセル集会なのであります。柏に「人生やりなおし道場」という教会があります。ミッション・バラバの鈴木啓之師が牧会しています。教会も神の愛、兄弟姉妹同士の愛を学ぶ、道場なのであります。

 そして、セルのもう1つの目的はお互いに建て上げるということです。建て上げるとは、ギリシャ語で、オイコドメオーと言います。新約聖書にこのことばが非常に多く用いられています。このことばは実際、家や建物を建てるという意味です。しかし、聖書では「神の家を建てる」というふうに用いられます。そうすると、その意味が若干、変わってきます。「信仰を強化する、人を向上させる、品性を高める、相手の徳を高める」というふうになります。英語ではedify、edification(啓発)と言ったりします。では、「建て上げる」の反対は何でしょうか?「こきおろす、批判する、ダメ出しをする」というふうになります。日本人はこれをやったり、やられたりしていますので、もうビクビクしています。「また、何か言われるかなー」と構えてしまいます。大体、日本は、励ましたり、ほめたりする文化ではありません。どしても短所や欠点、間違いの方に目がいきがちです。あっちを切られ、こっちを切られ、盆栽のようにちぢこまってしまいます。ですから、セル集会では励ましたり、ほめるということがとても重要です。4月は東京ホープチャペルで関東コーチングセミナーがありました。先生方がいろんな発表をします。「いやー、これよかったね」「あれはよかったねー」とほめるんです。もちろん、悪いところや足りないところもあるんです。でも、言い方ひとつ、見方ひとつで、肯定的になることが可能です。その集会に、「葛飾中央教会」という名札をつけた牧師が参加しておられました。私はその先生のところに行って、「ようこそ、私は亀有です。先生はどちらからですか?」とお聞きしました。先生は「柴又一丁目にあります葛飾中央教会です」と答えました。私は「わあ、すごい。葛飾中央教会というのが良いですねー」と言いました。すると先生は、「うちは家族7人でやっている教会です。こういう名前をつけて、いろんな教会から批判されました。ほめてくれたのは先生がはじめてです」と言われました。私は「葛飾中央じゃ、そんなに大きくないですよ。東京中央教会でも良いんじゃないでしょうか」と言いました。すると、先生はそれがとっても励まされたということなんですね。私は「日本の教会の牧師は、励ましが必要なんだなー」と思いました。

 一口に「建て上げ」と言いますが、具体的にはどういうことなのでしょうか?新約聖書には「互いに」という表現がたくさんあります。「互いに」ということが実行できるのは、二人以上、十名未満の人数ではないでしょうか?50人では「互いに」は不可能です。ですから、小グループが必要になってきます。では、新約聖書にどのような「互いに」というのがあるのでしょうか?みなさんもお考えください。「互いに愛し合いなさい」「互いに赦し合いなさい」「互いに祈り合いなさい」「互いに励まし合いなさい」「互いに教え合いなさい」「互いに戒め合いなさい」「互いに重荷を負い合いなさい」「互いに注意し合いなさい」「互いに預言し合いなさい」「互いに親切にし合いなさい」「互いに語りなさい」「互いに従いなさい」「互いに徳を高め合いなさい」「互いに平和を保ちなさい」…本当にたくさんあります。これらを一口に言って、「建て上げ合う」ということだと思います。もし、これが教会の兄弟姉妹の間でなされるなら、信仰が強化され、力がついてきます。そして、こんどは家族や会社、学校、地域社会で実行していけば良いのです。日本にはそういう文化がほとんどありません。あなたから新しい文化を作っていけば良いのです。ハレルヤ!

3.セルの一生 

 セルとは細胞であると最初に申し上げました。実は私たちのからだの細胞も「生まれては死に、生まれては死に」を繰り返しています。ある人から、玄米を勧められました。その人は「6ヶ月ぐらいで、体全体が玄米でできた細胞になりますよ」とおっしゃっていました。どのくらい生物学的な根拠があるか分かりません。でも、細胞が生き延びるためには、たえず増殖し、そして、古い細胞は死んでいくという運命にあります。しかし、細胞核にあるDNAはちゃんと伝達されるということです。同じようにセルグループにも一生があります。はじめ生まれたてのセルグループは新鮮で喜びがあります。「こんにちは、こんにちは」と、いろんな人と親しく交わることができます。兄弟姉妹がみんな良い人に見えます。自分が本当に受け入れられ、歓迎されているように感じます。それは結婚で言うと、ハネムーン期です。でも、結婚された方はご存知ですが、ハネムーン期間は長くは続きません。1年くらいたつと、相手の欠点やアラが見えてきます。「こういうところがだらしない。あんな言い方はないだろう。なんで支配するんだ。なんであんなに軟弱なんだ。ちょっと変わっているんじゃないかなー。あれでもクリスチャンなのかな?」これが第二期の葛藤期です。セル集会では自分の内面を出して良いところです。そうすると自分の良い面も出ますが、悪い面も当然、出てきます。その人のバックグラウンドと申しましょうか、生い立ち、これまで受けた傷、自分の考えや好み、主義主張、こだわり…そういうものがバーッと出てきます。そこで、衝突が生じてきます。しかし、それは良いことなんです。それがないと本当の親密さには発展しません。第三期は調整期です。どういうことかというと、不一致を調整するということです。「こういう言い方をするとあの人がカチンと来るらしい。だから、表現を変えよう」「ああ、あの人にはこういう弱さがあるんだから、別の角度で見て行こう」「私の流儀や考え方のこの部分をなおさないとダメだな。こういう場合はだまって同情した方が良いんだなー」。こういうふうに調整していきます。これを聖書的に言うならば、悔い改めと建て上げであります。壊して建てるということです。私たちの内面を見て、良くないところは取り壊し、良いものに取り替える必要があります。そして、第四期は円熟期です。もう、しっかりと信頼関係ができています。親密さにあふれている関係です。夫婦もここまで来ると良いですね。兄弟姉妹もそういう関係を目指すべきです。第五期は死です。そのグループはやがて死を迎えます。「えー死ってひどいじゃないですか?」と言うかもしれません。そうです。3年も4年も、同じメンバーだとそのグループは死んでしまいます。

では、細胞、セルが死なないためには、どうしたら良いのでしょう?増殖です。細胞は細胞分裂し、増殖しながら生き延びています。セルグループも新しい人を加え、細胞分裂して、増殖しなければならないのです。1つの同じセルグループを、ずーっとやっていたのでは、そのグループは死んでしまいます。亀有教会もある時は12個くらいのセルがありました。しかし、今では4個くらいかもしれません。なぜでしょう?ずーっと同じメンバーだったからです。私たち日本人は、メンバーを換えるということにはとても消極的です。「せっかく慣れたのに、別なグループを作るのは嫌だわ、別れたくない。ずっといたい」。気持ちは分かります。でも、長年、グループにいた人は、新たに自分がリーダーとなってグループを作る必要があります。なんのためでしょうか?それは新しい人が救われ、育成され、やがては大人のクリスチャンになるためであります。つまり、セルグループの最終的なゴールは伝道によって新しい人が加えられ、やがては増殖することにあるということです。ですから、細胞分裂して増えるため、別れることは良いことなのです。「別れることは良いことです」と言いましょう。つまり、セルは内向きだと死んでしまいます。ですから、たえず外に向かう必要があるということです。

4.セルの重要なポイント

最後にセル集会において重要なポイントを3つ上げて終りたいと思います。セル集会が生き生きとした交わりになるため、つまり、お互いがお互いを高め合うためにどういうことが大切なのでしょうか?第一はお互いに心を開くことです。男性は気持ちを分かち合うということが女性と比べてとても下手です。どうしても自分の考えとか知識を分かち合います。しかし、もっと分かち合うべきことは、自分の感情であります。心の傷や痛み、悲しみを分かち合うべきです。そのためには、心を開くということです。お互いが心を開けば、開くほど、そのグループの新密度が高まります。多少の衝突があるかもしれません。でも、人間関係の傷は人間関係で癒されるしかないのです。もし、あなたが関係を絶つならば、その部分だけ手付かずのままで、残ってしまいます。私たちの成熟度、あるいは聖化という面を考えると、どうしても人間関係を抜きにしては考えられません。私たちは人間関係によって、人格が成長するようになっているのです。そのためには心を開くということがとても重要です。第二は帰属意識です。私たちはどこかに属しているという意識がとても必要です。人間は元来一人では生きて行けません。でも、これまでさんざん傷ついてきたので、一人にさせてくれという人がいるかもしれません。でも、自分を受け入れてくれるグループに属するということはとても重要です。では、どういうグループが必要なのでしょうか?それは自分がグループにとって、必要とされているという意識です。そうです。そのグループは、あなたの賜物、あなたの性格、あなたの考えが必要なのです。あなたはグループから必要とされているのです。しかし、同時に、あなたもそのグループが必要なのです。手の指が一本で存在できないことと同じです。指は手の平につながり、手の平は腕につながり、腕がからだにつながっています。キリストのからだなる教会もそれと同じです。キリストのからだなる教会はあなたを必要とし、あなたもキリストのからだなる教会を必要としているのです。第三は聖霊を歓迎するということです。イエス様はマタイ18章で「もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」とおっしゃいました。今、イエス様は聖霊によって、私たちのところにお越しになっています。イエス様は個人の中にもおられますが、私たちの間にもおられます。私たちは心を合わせて祈るなら、どんなでもかなえてくださると約束しておられます。つまり、セル集会の原動力は生けるキリスト、聖霊であります。聖霊様が私たちに愛を与え、知恵を与え、賜物を与えてくださるのです。一人ひとりは取るに足りない者であったとしても、そこに聖霊が臨在してくださるならばどうでしょうか?聖霊様ご自身が、すばらしいわざをなしてくださるということです。

かなり前、インドネシアのセル集会の証を聞きました。一人の男性は脳腫瘍にかかりました。何度も手術を受けましたが、全部の腫瘍を取り除くことができませんでした。お医者さんは「数ヶ月後に、また来てくださいよ」と言いました。しかし、彼はお金がなくて行くことができませんでした。それで、セル集会に参加したとき、みんなから祈ってもらいました。するとどうでしょう?彼の目の前に見上げるほどの大男が立ちました。大木のような足ですから、10メートルもの身長です。彼は「ああ、この方はイエス様だな」と分かり、「主よ、大き過ぎて分かりませんので、もう少し小さくなってください」と心の中でお願しました。すると、するするとその人は小さくなりました。顔を見上げましたが輝いて見ることができませんでした。彼は「お願です。イエス様、私の頭を癒してください」とお願しました。すると、その方は自分の頭の上に按手してくれました。他の人は分かりません、彼が見た幻であります。それから半年くらいたって、頭のことは忘れていました。他の用事で病院に出かけました。お医者さんが「君どうしたの?」と聞きました。「いや、別に?」と答えました。詳しいことは忘れましたが、とにかくCTスキャンで見てもらいました。しかし、頭の中の腫瘍が全く消えていたということです。だれかが特別に祈ったのではなく、セルのみんなが祈ったときに、イエス様が来られて、その人を癒してくださったのです。イエスの御名によって集まるところに、主がおられ、みわざをなしてくださるのです。どうぞ、個人で信仰を守るだけではなく、互いに建て上げ合うために、小グループに身を置いてください。

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2010年6月20日 (日)

共同体における成長    Ⅰヨハネ2:12-14

教会は家族にたとえられています。一人っ子で育った人は、急に兄弟が増えるでしょう。お父さんもしくはお母さんがいなかった人は、神の家族の中でそういう人が与えられるでしょう。人間関係で深い傷を負った人も神の家族によって癒されることでしょう。Ⅰヨハネ2章には、神の家族には3種類のクリスチャンがいることが分かります。子どもたち、若者、そして父です。父とは成熟したクリスチャンの呼び方なので女性も含まれています。神の国における霊的成長とは、子どもたち、若者、父です。この地上と同じですね。また、Ⅰヨハネ2章にはそれぞれの必要も記されています。きょうは成長の段階に応じて、3つのポイントでお話いたします。

1.子どもたち

子どもたちとは、イエス様を信じたばかりの人たちのことです。クリスチャンになりたての人には何が必要なのでしょうか?Ⅰヨハネ2:12「子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。」そうです。第一は、子どもたちは罪が赦されていることを知らなければなりません。言い換えると、「救いの確信」を持つということです。イエス様は十字架で私たちすべての罪を負って、身代わりに死んでくださいました。イエス様が代価を払ってくださったのですから、私たちが犯したすべての罪が赦されているのです。それでも罪責感を覚えている人にはどうしたら良いでしょう?ヘブル10:22「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」ここに邪悪な良心とありますが、これは罪でゆがんでいる良心のことです。私たちは自分の心ではなく、神のことばを聞く必要があります。聖書が「あなたの罪は赦されました」と言うなら、「アーメン」とそれを受け取るべきなのです。そのことができるために、あなたは心にキリストの血の注ぎを受ける必要があります。キリストの血は私たちの罪を赦すための代価となりました。でも、それだけではありません、キリストの血は、私たちの心にある罪責感をきよめてくださいます。もし、悪魔が私たちの心に訴えるならば、「キリストの血によって赦された者である。悪魔よ、退け!」と命じることができるのです。どうぞ、私たちの心にキリストの血を受けましょう。さらに、聖書は私たちが罪赦されているだけではなく、「義と見なされている」と言います。あなたは神の目から義と認められているので、罪の生活から離れ、義にふさわしい生き方がスタートできるのです。

もう1つクリスチャンになったばかりの人が必要なことがあります。Ⅰヨハネ2:14「小さい者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが御父を知ったからです。」そうです。第二は、子どもクリスチャン天の父を知らなければなりません。御父を知らなければ、自分がだれであるかアイディンテティが分からないからです。私たちは多かれ少なかれ、地上の父を敬わないで、怒ったり、憎んだり、否定したのではないでしょうか?残念ながら、私たちが父を否定した同じ部分が、私たちの中に欠けてしまうのです。「あのような父にはならない」と誓うならば、父と同じような欠点を負ってしまうのです。私は家庭を正しく治めてくれなかった父を否定しました。そのため私にどんなことが降りかかってきたでしょうか?今度、私が家庭を持ったときに、怒りによって子どもを治めようとしました。子どもたちと平和な気持ちで話し合うのではなく、一方的に押し付けました。正しく治めるというよりは、力で治めるという感じです。でも、それが良くないとわかると、こんどは何も言えなくなってしまうのです。放任かもしくは絶対君主か、その中間がありません。しかし、あの父を赦し、神が与えてくれた父として感謝しました。するとどうでしょう?私の中に父の心が少しずつ芽生えてきました。コミュニケーションを取りながら、事を進めることができるようになりました。ですから、みなさんも地上の父を赦しましょう。怒りをイエス様のところに持って行って取り除いてもらいましょう。すると、神さまを見る目が良くなっていきます。あなたは神さまに対して、どんなイメージを持っていますか?もし、神さまが怖い方であったなら、親しく交わることができません。もし、神さまが「まだ不十分だ!」と業績をあおるようなお方であったら、未達成感の中で生きるしかないでしょう?このレッスンは「父なる神の愛を受ける」で学びました。どうぞ、無条件で私たちを愛してくださる父なる神さまを体験的に知りましょう。あなたは神の子どもであり、そのままで価値がある存在なのです。「愛され、赦され、受け入れられている」という安心感があるときはじめて、成長していくことができるのです。

もう一度、繰り返します。子どもクリスチャンの必要は何でしょう?第一は罪が赦されたという確信を持つことです。罪責感は成長をさまたげます。罪責感をもった良心は邪悪な良心です。邪悪な良心をキリストの血によってきよめていただきましょう。私もかつては、自分で自分を責めていました。自分の中に二人の自分がいるのです。二人の自分が互いに争いあっているのです。それでは力も出ないし、集中力もわきません。でもあるとき、イエス様の和解を受け入れて、自分と自分が1つになりました。自分と自分が和解したのです。自分が自分を「頑張れ、応援しているから!」と励ましてくれます。そうなると力強いですね。イエス様はあなたに調和した心を与えてくださいます。そして、第二は父なる神を知り、父なる神さまと親しい関係を持つということです。父なる神さまこそ、本当の父親です。地上の父は、神さまが与えてくださったのです。かなり不十分だったかもしれません。でも、父なる神さまは完全であり、あなたを愛して、100%受け入れてくださいます。天地を創られた神さまがあなたの味方なんですから、もう何も恐れる必要はありません。父なる神さまは、失敗をしても赦してくださいます。むしろ、「失敗を恐れず、チャレンジしなさい。私が共にいるから」と励ましてくださいます。

2.若者たち

第二の段階は、若者のクリスチャンです。彼らにも2つの必要があります。Ⅰヨハネ214後半「若い者たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。」第一は、神のみことばにとどまるということです。子どもクリスチャンの段階では、「神さま、神さま!」でした。しかし、それだけでは成長しません。神のみことば聖書を学ぶ必要があります。日本語の学ぶは「勉強する」という意味があります。しかし、ヘブル的な「学ぶ」は「弟子となる」とか「師に倣う」という意味があります。つまり、頭だけではなく、その教えに従うということも含まれているのです。イエス様はヨハネ831「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です」と言われました。当時、イエス様のところに大勢の人たちがやって来て、イエス様の教えを受けました。彼らは「ああ、なんと深い教えだ。ああ、なんと権威ある教えだ」と感心しました。しかし、多くの人たちはイエス様の教えにとどまろうとはしませんでした。もし、その教えに従ったなら自分の生活を変えなければならないからです。彼らは自分の生活がおびやかされない程度に聞き従ったのです。しかし、それはキリストのことばにとどまることでもないし、キリストの弟子になることでもありません。今日も、教会の礼拝に聖書の教えを学びに来られている方が結構いらっしゃいます。ミッションスクールから紹介されて来られている方もいらっしゃいます。大歓迎いたします。しかし、いつか、どこかで、そういう人は、主イエス・キリストに従うのか、従わないのか決断しなければなりません。「この部分は従うけど、他の部分は従いません」ということはありえません。一部でも従わなければ、不服従であるとみなされるからです。良い教えだけを受けている段階では、キリストの弟子になることはできません。自分にとって嫌な教えをも神のことばとして受けるのです。そうするならば、その人はバランス良く成長するのです。

第二は悪い者に打ち勝つ必要があります。Ⅰヨハネ214「あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです…あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです」と二回も書いてあります。ここには、「悪い者に打ち勝ちつつある」とは書いていません。「悪い者に打ち勝った」と書いてあります。つまり、悪や罪に対して葛藤している状態ではなく、悪や罪に対して勝利している人です。私たちはクリスチャンになったとき、たくさんの古いものも引きずって神の国に入りました。23年前、私が座間から亀有に引っ越してきたときのことを思い出します。古い会堂のときは、祈祷室の引き戸が木製で窓がありませんでした。座間からアルミサッシのガラス戸を4,5枚一緒に軽トラックに積んできました。祈祷室に使えるかと思ったからです。しかし、ドアというのは周りの枠がちゃんとあっていなければ、ピシッと閉まりません。アルミのガラス戸を持って来たものの、縦の寸法も横の寸法も合わないのです。4年くらい、外に放っておきましたが、結局はガラスを割って、教会の丸愛軽金属さんにアルミだけ引き取ってもらいました。みなさんもどうでしょうか?大事だなーと思ってはいたけど、それが信仰の妨げになっていたものはありませんか。「心の癒しと解放」で、すでに学びましたが、クリスチャンになる前の悪習慣があるでしょう。また、処理しきれていない、罪や心の傷があるかもしれません。クリスチャンになったからといって、すべてがきよめられたわけではありません。怒りや憎しみ、恐れや不安が残っています。そこに悪い者である悪魔がやってきて、あなたをつかまえて、誘惑するのです。カラスやねずみがどうしてやってくるのでしょう?それは生ゴミがあるからです。あなたが、カラスやねずみを追っ払っているだけならどうでしょう?彼らはまた戻ってきます。そうです。心の中にある生ゴミを処理すれば、彼らはやってこなくなります。たとえ、やって来てもすぐ追い出すことができます。ある教会では、「悪霊を出て行け!出て行け!」と声をからしてやっています。なかなか出ていきません。祈る人は「お前が出て行かないなら、私が出て行く」と言うかもしれません。何故、出て行かないのでしょう。彼らにも、出て行かない理由があるからです。そのため、罪を告白し、赦すべき人は赦し、悔い改めるべきことは悔い改める必要があります。その後、「出て行け!」と命じるなら、彼らは仕方なく出て行くのです。なぜなら、そこに留まる理由がないからです。

若者たちは、いつでも生活に問題があります。悪い者に縛られています。だから悪から解放され、悪に打ち勝たなければならない。ビジネスマンも悪いもので縛られています。クリスチャンのビジネスマンでも税金を払わなかったり、ごまかしたりします。私は郵便局に2年と4ヶ月くらい勤務しました。「このくらい賃金を得ましたよ」と申告しました。でも、辞めた年、深刻なことが起こりました。支払うべき税金が依然として高いのです。さらには国民健康保険までがそうでした。税金は一年遅れなのですね。「ああ、正直に申告しなければ良かった」と思いました。でも、それでは良くないのですね。みなさん、ごまかしは良くありません。国や会社、家庭において不正をしているなら、悪魔につけ込まれてしまうでしょう。あなたはその部分、その領域において力を失うことになります。私たちはクリスチャンになっても、悪いもので縛られています。新生しても自動的に、悪いものから解放されることはありません。ですから、若い者たちの時代に、多くの課題を取り扱わなければならないのです。イエス様はみことばにとどまり、悪い者に打ち勝ったクリスチャンを求めておられます。勝利しているクリスチャン、ビクトリー・クリスチャンになりましょう。

3.父たち

第三の段階は父たちです。父たちとはどのようなクリスチャンでしょうか?Ⅰヨハネ2:13「父たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。」父たちの必要とは何でしょう?彼らは「初めからおられる方を知っている」ということです。「初めからおられる方」というのは、神さまに違いありません。でも、どうして、神さまではなく、「初めからおられる方」と書いてあるのでしょう?「初めからおられる方」を知っているとは、神さまを知っているだけではないということです。神さまを知るというのは、子どもクリスチャンも同じ必要がありました。若者クリスチャンでも、癒しを受けて、神さまを正しく見ることが必要です。でも、父たちクリスチャンになるためには、それだけでは足りません。何が必要なのでしょうか?「初めから」とは、神さまの計画を知っているということです。神さまが抱いている計画とは何でしょうか?神さまの最大の関心事は神の国の実現であります。そのために御子イエス様を十字架にお与えになりました。今は、イエス・キリストを信じる人たちをどしどし、集めています。そして、神さまは集められ人が訓練を受けて、神の国における、それぞれの領域を治めるように願っておられます。教会というギリシャ語はエクレーシアですが、その本当の意味は、「神さまの領域を治めるために、人々を集める」という意味なのであります。父たちクリスチャンというのは、人々が救われ、訓練され、自分の領域を治めることができる、その行程(サイクル)を推し進めることができる人であります。神さまの計画で最も重要な鍵を握っているのは、人なのであります。神さまはご自分の人を通して、神の国を拡大しようと計画しておられるのです。そのために、神さまの使命をになう人々、つまり父たちクリスチャンを求めておられます。では、具体的に父たちクリスチャンとはどのような人のことなのでしょうか?

セルチャーチで有名なラルフ・ネイバー博士はこのようにおっしゃっています。霊的な父親には2つの特性があります。1つは天の父なる神を非常に親しく知っているということです。もう1つは命を生み出すということです。たとえば、私たちはこのような間違いを犯しがちです。「この人は1日3時間祈っているので、100の聖句を暗唱しているので霊的に父たちです」と言うかもしれません。しかし、多くの聖句を暗唱していても霊的に父にはなることはできません。父親になるためには子供を持たなければなりません。ここに「私は父親です」という人がいるなら、その人は父親である実証がなければなりません。つまり、それは子どもがいるという事実が必要なのです。「あなたは何人の子供がいるでしょうか」。たしかに、この地上において「父親」という人は、子どもがいてはじめて父親であります。年をとっても、もし子どもがいなければ、父親とは言えないわけです。「おー!」そうなると、「私はだれか一人でもキリストに導いたことがあるかなー」と考えてしまいます。また、私の霊的父であるエディ・レオ師はこのように語っています。だれかが神の国の福音を語って、その人を神の国に導き入れることができるなら、彼はその人の父になる。神の国の福音を通して父になることができる。パウロは「私がキリストにならったように、私にならいなさい」と言いました。だれが父でしょうか?どのようにイエス様に従っていったら良いかを模範を示すことの出来る人が父です。神の国でどのように生きて行ったら良いか、模範を示すことの出来る人が父です。つまり、クリスチャンを生み出し、その人を神の国のために、養育する人が父であります。

きょうは、3つのクリスチャンの成長段階を申し上げました。第一は子どもたち、第二は若者たち、第三は父たちです。では、なぜ私たちは父になれないのでしょうか?まずそれは、子どもクリスチャンのときに2つの必要が満たされなかったためです。罪の赦しと天の父を知ることです。それが満たされないと若者たちへと成長できません。子どもクリスチャンで止まった人たちはどうなるでしょう?最初は「罪が赦された、ハレルヤ!」と喜んでいます。しかし、彼らが再び罪を犯すと、罪責感に捕らわれてしまいます。「ああ、もう私は救われていないんじゃないか」と思って、教会から去っていくでしょう。つまり、子どもクリスチャンで止まった人たちは、教会から去っていくということです。ですから、子どもクリスチャンは「救いの確信」をしっかり持って、次の段階である若者の段階に進まなければなりません。また、若者の時代には、2つの必要が満たされなければ父になることはできません。みことばにとどまることと、悪い者に打ち勝つということです。若者たちはいろんな問題で縛られています。ですから、教会は若者が自由になれるように、教えなければなりません。そうしなければ、若い者たちが教会の中で、止まった状態になります。そういう人たちは、「教会がああしてくれない、こうしてくれない」と不満を言うようになります。最初は羊でしたが、角が生えてヤギみたいになります。今の時代、牧師が鬱病になるケースが非常に多いようです。なぜでしょう?ヤギ的クリスチャンの問題処理にエネルギーを費やすからです。本来なら、伝道、魂の救いのために力を注ぐべきなのですが、内部の火を消すのにエネルギーが吸い取られてしまいます。ですから、若者で止まっているのではなく、次の段階である父になるように挑戦すべきであります。そして、教会は若者に賜物にあった奉仕の場を与えることが重要になります。奉仕とはこの建物内のことだけではありません。あなたが日常、触れている人たち、つまり職場や家族、地域社会が第一線の奉仕の場なのです。

そして、最後の段階は父たちクリスチャンです。この世の人たちは、本当の父を探しています。家においても本当の父がいません。最近は虐待されて死ぬ子どもが大勢います。何故、そのような悲しいことが起こるのでしょうか?彼らは子どもを設けたとしても父の心がないのです。だから、子どもをペットか物みたいに扱ってしまうのです。職場でも学校でも、地域社会、そして教会でも霊的父が必要です。多くの人たちは本当の父を探し求めています。「私を受け受け入れ、私を愛し、私を正しい道に導いてくれる人はいないのか?」と探し求めています。あなたが、その人たちの霊的父になるべきではないでしょうか?霊的父とはその人を霊的に生み出し、その人を育てる人であります。自分が生んだこどもであるならどうでしょうか?父の心を持っていないなら、「もう、ゴメンだ」と言って見捨てるでしょう。しかし、父の心を持っている人は、その人の尻拭いをします。赤ちゃんのアレです。「わぁー、きたない」。それでも、父の心を持った人は、尻拭いをします。そして、やがて、その人が父の心を持つ人になるまでに育てるのです。子どもから若者へ、若者から父へと、恵みによって成長させていただきましょう。

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2010年6月13日 (日)

共同体の必要性     創世記1:27、マタイ18:20

 本日から4回にわたり、共同体ついてお話しさせていただきます。果たして、「共同体」ということばは、日本語になっているでしょうか?英語ではコミュニティなのですが、コミュニティの方が一般的かもしれません。教会は神様が与えてくださった共同体、コミュニティであります。しかし、従来の教会は「神様との関係さえあれば良い」としてきたところがあります。「礼拝が終ったら、さっさとお家に帰るように」と言われてきたのです。ある教団は、「信徒同士が交わると噂話をしたり、牧師の悪口を言うから、セルには反対だ」というところもあります。セルというのは、元来、細胞という意味ですが、これも共同体を意味していることばです。私たちは神様との縦の交わりも大切ですが、横との交わりも大切なのではないでしょうか?なぜなら、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」と命じられているからです。

1.創世記における共同体

 旧訳聖書には「教会」ということばはありません。しかし、創世記には教会の原点と言うべき事柄が書いてあります。創世記1:27「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」神のかたちとは何でしょう?これは、神学的に難しくて、一口では言えません。しかし、あえて言うならば、神のかたちとは、三位一体の神さまから来ていると思います。父なる神、子なる神、聖霊なる神と人格は別々でありながらも、互いに愛し合って1つになっています。その神のかたちに、男と女を創造されたのです。ということは、男と女が愛し合う関係こそが、神のかたちだということです。「男と女」というと、何か変なイメージを持たれるでしょうか?聖書に「アダムと妻のエバは、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった」と書いてあります。男と女というよりも家庭における夫婦の関係が神のかたちなのであります。やがて、アダムとエバには子どもたちが与えられました。おそらく、家族で神さまを礼拝したのではないかと思います。創世記を見ていくと、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、みんな祭壇を築いて家族で礼拝を持っていました。つまり、教会の原点は、家族であるということが分かります。そして、家族の中心とは何でしょう?それは夫と妻であります。夫と妻の関係が良ければ、子どもたちも良くなるのではないでしょうか?

 アダムとエバが罪を犯してからどうなったでしょうか?そうです、夫と妻の関係が壊れました。互いに罪をなすりつけました。その後、どうなったでしょうか?兄カインは、ねたみのゆえに弟のアベルを殺しました。その後、カインはエデンの東、ノデの地に住みつきました。「エデンの東」というと、ジェームズ・ディーン主演の映画を思い出すかもしれません。創世記4章を見ますとわかりますが、カインはそこに町を建てました。当時の町というのは、城壁を町の周りにめぐらせました。城壁というのは外から敵が簡単に侵入できないために作るものであります。が、同時に、自分も外に出て行くのが困難になります。エデンの園には城壁はありませんでした。なぜなら、神さまが中心にいてくださって、人々を守ってくれたからです。神さまは人々がカインを殺さないように1つのしるしを下さいました。それなのに、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みつきました。だから、カインは自分を守るために城壁を作ったのです。城壁というのは、自分が人から傷つけられないように自分を守るための壁(バリヤー)を暗示させます。どうでしょう?みなさんも目に見えない心の壁を、築いておられるのではないでしょうか?京都という町は敵が簡単に侵入できないように、道が入り組んでいるということを聞いたことがあります。どうでしょう?京都の人たちも、同じように、自分の本心を簡単に表したりしないのではないでしょうか?それはともかく、カインの子孫は人間関係よりも業績を求めました。カインの子孫である、ヤバルは牧畜の先祖になりました。ユバルは音楽の先祖、トバルカインは工業の先祖になりました。創世記4章には「○○した」「○○した」と書いてありますが、何歳まで生きたかは書いてありません。面白いことに、創世記5章にはセツの子孫について記されています。彼らは何をしたとかはひとことも書いていません。その代わり、「○○は何年生きて、○○を生んで、死んだ」「何年生きて、○○を生んで、死んだ」と書いてあります。神さまにとっては何をしたかよりも、ご自分と関係があったかどうかの方が重要なのかもしれません。ところが、罪が入ったために、私たちは人間関係よりも何ができるかという業績の方に価値を置くようになりました。神のかたちである、共同体を壊すのは、業績志向と言っても過言ではありません。みなさんは人間関係と業績、バランスを保っておられるでしょうか?それとも自分の業績を上げるために、人間関係を利用しているでしょうか?エペソ2章には「イエス・キリストは、私たちの中にある敵意という壁を壊してくださった」と書いてあります。イエス・キリストこそが、人間関係を回復してくださるお方なのであります。

2.新約聖書における共同体

 マタイ18:20「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」とあります。マタイ18章には「教会」という用語が出てきますので、教会の最小単位が、二人もしくは三人ではないかと思います。二人もしくは三人がイエス様の御名によって集まるところ、そこが教会ではないでしょうか?私たちは教会というとどうしても、建物を思い浮かべてしまいます。しかし、教会は建物ではありません。神さまによって召し集められた人々が教会なのです。だから、建物があっても良いし、なくても良いわけです。大阪の遠藤先生はあえて教会堂をなくしました。そして、20箇所以上の家庭で、毎日曜日、礼拝をささげています。遠藤先生にお聞きしましたら、「教会堂があって良いところもありますが、教会堂があるために悪いところもあります」とおっしゃっていました。なぜでしょう?教会堂があると確かに便利です。しかし、欠点は全部の集会を建物の中でやろうとしてしまいます。すると、人々は遠くから教会堂まで来なければなりません。しかし、各家庭で集会を開くならどうでしょう?その家にいる、ご主人や子どもたちも、集会に出やすいでしょう。ご近所の人たちも来ることができるかもしれません。しかし、遠くの教会に行こうとすると、敷居が高くて、なかなか足が向かないのではないでしょうか?私たちは何でもかんでも、教会堂という建物を中心にしてやってきました。その結果、「教会とは人々ではなく、建物なんだ」という誤った考えを持ってしまったのです。

 では、初代教会はどうだったのでしょうか??使徒2:41-42「そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」ペンテコステの日、3000人が救われて教会が誕生しました。でも、そんな大勢の人たちをどのようにフォローしたのでしょうか?ここには「彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた」と書いてあります。使徒たちの教えが十分に行き届くためにはどうしたら良いでしょうか?しかも、その人たちは交わりをし、パンを裂き(聖餐式)をして、祈っていました。おそらく、彼らは小グループに分かれていたのではないかと思います。そうでなければ、3000人がちゃんと教えを受けたり、交わりを持つことなどできません。その証拠に、46節以降に何と書いてあるでしょうか?使徒2:46,47「そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」彼らは、神殿でも礼拝していましたが、家々でも集まって、聖餐式を行ない、食事を共にし、神を賛美していたようです。使徒2章には、ペンテコステの日聖霊を受けた人たちが120人いたと書いてあります。おそらくは、彼らの家々に、3000の人たちが振り分けられたのではないかと思います。初代教会は聖餐式が食事とセットにされていたので、今の聖餐式とは随分違っていたのではないかと思います。今の聖餐式は礼拝とセットなので、どうしても堅くなります。「もっと食べたいナー」、「もっと飲みたいナー」と言われても無理です。

 では、どうして教会が初代教会のようなうるわしい交わりを失ってしまったのでしょうか?それは紀元312年、コンタンチヌスによってキリスト教がローマの国教になってからです。それ以来、教会というのは人々ではなく、制度とか建物、聖職者による組織と置き換えられてしまったのです。ドイツ語の「キルへ」という言葉は、まさしくそういう意味で使われました。その「キルへ」が「チャーチ」、あるいは「教会」となったのです。残念ですが、宗教改革が起こった後も、そういう考えを払拭することができなかったのです。20世紀になってやっと、「教会とは共同体である。私たち自身が教会である」ということが再発見されたのです。今でも、イギリスやドイツに国教会があります。また、国教会の伝統に添った教会があります。そういう教会は、人々よりも、組織や制度、儀式あるいは聖職者を重んずるところがあります。ある人が「教会は何があれば、最低限、教会として成り立つでしょう?」と質問しました。どうでしょう?教会には、建物がなければならないでしょうか?牧師がいなければならないでしょうか?このような聖日礼拝が必要でしょうか?月定献金が必要でしょうか?役員会が必要でしょうか?聖書や讃美歌が必要でしょうか?オルガンやピアノが必要でしょうか?使徒信条や様々な信条が必要でしょうか?教会総会が必要でしょうか?では、最低限、教会が教会としてなりたつ条件とは何でしょうか?はい、イエス様と人々(クリスチャン)がいれば教会なのです。中国の地下教会は政府からものすごい迫害を受けています。田舎の地下教会は、牧師もいないし、聖書もない、会堂もありません。それでも爆発的に成長しています。しかし、そこにはイエス様と人々がいます。インドネシヤはイスラムの国ですが、クリスチャンも20%前後います。今から10数年前、イスラムの大迫害により、教会という教会が焼き討ちに合いました。集まりたくても教会堂がないのです。クリスチャンたちはどうしたでしょうか?教会堂の跡地に集まりました。それまでは、「うちは○○派」「うちは○○派」と、教団教派の壁がありました。ところが、教会堂が焼けてから、自分たちは、キリストにあって1つだということが分かったのです。なんと、迫害によって、教団教派の壁までが壊されたのです。私たちは初代教会に帰るべきではないでしょうか?中世の教会がもっていた古い着物を脱ぎ捨てるべきです。そして、聖霊が自由に働かれる、神の共同体を取り戻すべきではないでしょうか?

3.小グループを持った教会

 最後に「では、私たちはどのような教会を目指すべきなのか?」という実践的なお話したいと思います。総会資料の挨拶にもお書きしましたが、私は1996年から本格的に「セル」を導入しました。シンガポールのローレンス・コング師は、「セルチャーチとセルのある教会では天と地との違いがある」と言いました。つまり、本来、セルチャーチというのは、すべてセルで行う教会であります。それで私は従来の教会が持っている、壮年会、婦人会、青年会、祈祷会、家庭集会というものを全部やめました。すべてをセルにしました。また、「委員会」とか「部会」という言い方をしないように、極力避けてきました。役員会だけは宗教法人に定められているので、これだけは残しました。数年前から、「牧師がセルリーダーを任命してもらいたい」とか、「自然発生的ではセル生まれない」という意見が出ました。私自身、「セルリーダーを任命して、セルを作らせるようにするのか」という、プレッシャーを感じてきました。今年の1月末、小笠原先生を久しぶりに当教会にお呼びいたしました。実は、小笠原先生に15年前セルを勧められたんです。この間、先生にこのようなメールを送りました。「セルチャーチというと信仰がわいてこないばかりか、挫折感と閉塞感に陥ってしまいます。そこで祈った結果、セルチャーチと言うことはやめて、新約聖書の教会を目指すということに決めました」。そのようなメールしたとたん、肩から重荷がすっと落ちました。私はセルチャーチを作り、セルを増殖させることを目的としていました。つまり、セルが目的だったんですね。しかし、セルは目的ではなくて、手段であり、システムです。どんなやり方でも、教会が実際に機能していれば良いのです。

 新約聖書の教会はどうでしょうか?使徒パウロとヨハネは教会に対して「互いに」という表現を何度も用いています。「互いに愛し合いなさい」「互いに祈り合いなさい」「互いに赦し合いなさい」「互いに教え、互いに戒め、互いに励まし合いなさい」と書いてあります。この「互いに」を実行できる人数とは何人くらいでしょうか?50人では多く過ぎるでしょう。大体、5、6人、多くても10人くらいではないでしょうか?イエス様でも、ご自分のもとで訓練を与えたのは12人です。私たちはイエス様より勝るものでしょうか?ですから、教会はこのような会衆と、もう1つは5人から10人くらいまでの小グループが必要だということです。2人でも3人でも構いません。マタイ18章に書いてありますから。でも、2人だと1人欠席すると、できなくなります。とにかく、共同体の喜び、共同体の力を体験するためには、自分が小グループに属す必要があるということです。近年、心理学者たちも、「私たちが何らかのグループに属することは、癒しにつながる」と言っております。ただし、そのグループが自分のありのままを受け入れてくれるということです。だれも気を使うようなグループには属したくはないでしょう。もう1つは、自分がそのグループに必要とされているということです。また、同時に、自分もそのグループを必要としている。つまり、「互いに助け合う」相互依存の関係を持ったグループです。丸屋先生は「現代はだれもが、うつに陥りやすい社会環境である。うつを予防する1つの方法は、サポートシステムである。人間関係は心理的抗鬱剤である。どんなサポートシステムがあるか、第一は家族である。家族としっかりとコミュニケーションをとる。自分の状態について、何かあれば伝える。第二はコミュニティである。友人・知人よりは、コミュニティに属する。地域のコミュニティ、市県国のさまざまなグループに属するように」と教えておられます。ちなみに、第三は友人・知人、第四は専門家です。コミュニティの中で、もっとすばらしいのは神の教会ではないでしょうか?

 私たちは人間関係によって傷ついてきました。ある人たちは、「これまで随分と傷つけられてきたので、人に本心をあかすのはやめよう。できるだけ最小限の人間関係にしておこう」と決めています。しかし、どうでしょう?人間関係の心の傷は、やはり人間関係でしか癒すことはできません。もし、自分が好む、特定のしか交わらなかったならどうなるでしょう。ある部分はずっと改善されることはないでしょう。他の人は自分の弱さや欠点を教えてくれます。そのときはとてもイヤな気持ちになります。でも、今までは「あの人が悪いんだ」と全部人のせいにしてきました。人のせいにしているうちは、自分が変えられたり、成長することはありません。しかし、自分が属している共同体から、「そこは違う」と指摘されました。おそらく、自分のことを思って、それは愛をもって真理を語ってくれたのではないでしょうか?そこで、少し立ち止まり、「どうして自分はこうなってしまったんだろう。ああ、あのことが未解決だからだ」ということが分かるのではないでしょうか?ある人たちは、ちょっと突っつかれただけで、もう二度と教会の交わりに加わろうとしません。おそらく、その人はこれまで多くの傷を受けてきたので、「教会も世の中と同じだ」と躓いたのかもしれません。その人の気持ちも分からないでもありません。でも、そこで真実を見ることを避けて、離れてしまったならどうなるでしょう。なかなか、「こうじゃないの」と愛をもって真理を語ってくれるところはありません。

セル、あるいは小グループでもそうですが、最初の頃はハネムーン期です。みんな気を使っていますので、人を傷つけるようなことは絶対言いません。しかし、数ヶ月後、仮面をはずします。そして、本音で話すようになります。ハネムーン期から葛藤期に入ります。「えー?あなた私のことそんなふうに思っていたの?ひどい!」というふうになります。おそらく、結婚生活もそうじゃないでしょうか?結婚して数ヶ月は、お互いに気をつかっていますので、喧嘩になることはあまりありません。でも、1年もたってメッキがはげてくるとどうでしょう。今まで言わないで、我慢していたことを、ポロっと言ってしまうんじゃないでしょうか?必ず衝突します。でも、その葛藤や衝突というのは、本当に親しくなるために絶対に、通らなければならない段階なのです。男性はおもに自分の考えを分かち合います。「日本の社会はこうだ」「聖書はこうだ」とか、一般論しか話しません。それではいつまでたっても親しくはなりません。何を分かち合うのでしょうか?自分の感情です。嬉しいこと、悲しいこと、辛いことを分かち合うのです。あるときは、自分の傷やトラウマさえも分かち合うのです。もちろん、受け入れてもらえないときもあるかもしれません。拒絶されたりすることもあるかもしれません。グループに留まるためには、自分の行動や言葉を調整しなければならないかもしれません。でも、そこで諦めてはいけません。なぜなら、その後に本当の親密さがやってくるからです。

なぜ、主にある共同体、小グループはすばらしいのでしょうか?そこにイエス様がおられるからです。イエス様が私たちの傷や痛みを受け止めてくださり、それを喜びに変えてくださるのです。使徒パウロはコロサイ人への手紙でこのように言っています。コロサイ1:27「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」イエス様は個人、個人の中におられます。しかし、それだけではありません。「あなたがたの中におられる」のです。中とは、あなたがたの間にという意味です。つまり、イエス様は個人の中だけではなく、共同体の中におられるのです。神さまは三位一体の共同体の神さまです。神さまはご自分と同じような共同体の中にお住みになりたいと願っておられます。もし、私たちの間に、神さまが住んでくださったらどうなるでしょう?神さまご自身がそこにおられて、すばらしい救いのわざ、奇跡のわざをなしてくださるのではないでしょうか?ですから、私たちが努力すべきことは、互いに愛し合い、互いに赦し合い、互いに励まし合って麗しい共同体を作ることなのです。

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2010年6月 6日 (日)

御霊の実を結ぶ      ガラテヤ5:19-23

 これまで聖化、聖くなるということについて学んできました。私たちはすでに古い人に死んでおり、キリストにあって生きています。私たちの内におられるキリストの御霊が、死と罪の法則に対抗して、私たちを支えてくださいます。私たちには肉、つまり罪の性質がありますが、それに打ち勝つことができるということです。さらに、私たちはキリストの御霊と共に歩んで行くときに、御霊の実が結ばれていくことができます。これは実ですから、時間がかかることが予想されます。「桃栗三年、柿八年」ということわざもあるくらいですから、昨日、今日で結ばれるものではありません。でも、私たちが御霊の実を結ぶときに、神さまが喜ばれるだけではなく、自分自身も、また私たちと交わる人々も、その実を味わい喜ぶことができます。神様は、天国に行ってからではなく、地上においてそのような実を結ばせてくださるのです。

1.御霊の実とは

ガラテヤ人への手紙を見ますと、肉の働きと御霊の実とにはっきり分けられています。肉の働きというのは、古い人に属する罪の性質です。私たちはキリストを信じて新しく生まれましたが、私たちの魂や肉体には、罪の性質が残っています。これを肉と呼んでいます。肉の働きには、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興などがあります。このリストを見ますと男性が陥りやすいものもあれば、女性が陥りやすいものもあります。今、私たちは聖書日課で「士師記」を読んでいますが、サムソンという人は怪力の持ち主でしたが、いったって女性に弱かったようです。また、イスラエルの民は平和になると、すぐ、偶像崇拝に走り、不品行や、汚れ、好色に陥ります。さらに、部族間の敵意、争い、そねみ、憤り、分裂、分派、ねたみ、そういったものが全部あります。私たちも「ぼーっ」としていると同じことをしがちであります。では、反対に、御霊の実にはどのようなものがあるでしょうか?5:22-23「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」「しかし」と書いてありますので、肉の働きと対抗するものであります。肉の場合は「働き」「わざ」となっていますが、御霊は「実」「おのずと結ぶ実」になっています。この表現の違いに、解決のヒントがあるようです。

御霊の実は、私たちが御霊によって歩むときに、結ばれる実であります。ですから、最も重要なことは、神さまと日々、交わることにあります。「祈り」というと私たちは手を組んで、「天のお父様」と祈ることだと思いがちです。もちろん、そういう祈りも大切ですが、日中、心の中で会話をすることも可能です。電車に乗りながら、道を歩きながら、ご飯を食べながらも主と会話することができます。しかし、「交わり」と言う場合は、祈りだけではなく、礼拝も含まれます。このような日曜日の公の礼拝だけが礼拝ではありません。ことあるごとに、感謝したり、「ハレルヤ!すばらしいですね」と主をあがめることもできます。賛美を口ずさむことも礼拝です。私たちがこのように主と交わるとどうなるのでしょうか?「朱に交われば赤くなる」ということわざがありますように、主と交われば主のようになります。Ⅱコリント318 「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」アーメン。これは新約時代の私たちに与えられている特権です。モーセが主と交わって山から降りたとき、顔の皮膚が光を放っていました。人々は「ああー、神の人だ!」と恐れて、モーセのことばに耳を傾けました。しかし、時間がたつと、モーセの顔の光が失せてしまいました。それを隠すために、モーセは顔におおいを掛けました。その後、主と交わると、再び、顔の皮膚が光を放ちました。そして、人々の前に立ち、み旨を告げました。その後、また自分の顔におおいを掛けました。つまり、モーセの顔にあった栄光は一時的であったということです。なぜなら、外からの栄光だったからです。しかし、新約の私たちは御霊が内側におられて、内側から永続的に栄光を現してくださるのです。だから、外なる人は滅びても、内なる人は日々、新しいのです。これにはドモホルンリンクルも敵いません。外側からのお化粧も大切ですが、魂の内側からにじみ出てくる主の輝きもより大切です。

では、御霊の実は、イエス・キリストとどのような関係があるのでしょうか?エペソ人の手紙を見ますと、「古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着るべきです」と書いてあります。また、コロサイ人への手紙にも「古い人をその行ないと一緒に脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです」とあります。そして、新しい人とは造り主のかたちに似せられることであり、深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、慣用、愛を着るということです。また、ガラテヤ書やローマ書には、「キリストを着る」と書いてあります。つまり、御霊の実とは、キリストの品性でありキリストに似ることなんだということです。私たち人間は神のかたちに似せてつくられました。神の栄光が内に秘められていたのです。ところが、罪を犯してから神のかたちがあとかたもなく損なわれてしまいました。まるでそれは、鏡を割ったような状態です。そのかけら1つを取って、「ああ、神の栄光が見える」ということもできます。神から離れた罪人の中にも、少しだけ、神の栄光を見ることができるかもしれません。しかし、それはほんのわずかです。イエス・キリストは私たちの罪を贖うためにこの世に来られました。さらに、イエス・キリストは私たちが神のかたちを回復するために、2つの資源を与えてくださいました。1つは聖霊です。私たちがイエス様を信じると新生し、内側にキリストの御霊が与えられます。私たちの内におられる聖霊が栄光から栄光へと主の姿に変えさせてくださるのです。もう1つはキリストによる模範です。イエス様は私たちを贖うだけではなく、完全な人として、神に従われました。私たちもイエス様に倣い、イエス様を仰いでいくときに、キリストに似たものになるのです。つまり、御霊の実を結ぶということは、神のかたちを回復することであり、それはキリストに似た者になるということです。つまり、聖化の最終ゴールは、私たちクリスチャンがキリストに似た者になるということです。ハレルヤ!

2.御霊の実の目的

御霊の実の「実」とはフルーツであります。ぶどうやオレンジにたとえられます。実というのは人が食べて、それを味わうようになっています。御霊の実もだれかが食して、「いやー、おいしいなー。すばらしいなー」と喜びと感動を与えることができたら幸いです。では、だれがその実を食べるのでしょうか?ビリーグラハムは『聖霊』という本の中でこのように述べています。「愛、喜び、平安は、特に私たちの神へ向かっての関係を物語っています。寛容、親切、善意は対外的な人間関係において、私たちがどんなクリスチャンであるかに関連しています。誠実、柔和、自制は、内面の関係(自己の態度と活動)に特に見られます」と、このように3つに区分しています。ビリーグラハム師の分類を参考にするならば、3種類の方々が御霊の実を食べるということではないでしょうか?愛、喜び、平安は神さまが食べます。私たちが神さまを愛し、神さまを喜び、神さまとの平安を持って、神さまと交わるならどうでしょう?神さまご自身がとっても喜んでくださるということです。ですから、聖書には「心を尽しし、思いを尽くし、力を尽して、主を愛しなさい」と命じられているのはそのためです。次に寛容、親切、善意は人々が食べます。寛容で親切で善意にあふれている人と交わるのと、怒りっぽくて意地悪で、何でも悪く捉える人と交わるのでは、どちらが良いでしょうか?人々は、私たちの内側から生産された寛容や、親切、善意を食べると喜ぶのではないでしょうか?最後に、誠実、柔和、自制の実があります。これは自分自身が食べるものです。「え?自分が食べてどうするのですか?」と言うかもしれません。でも、私たちの中には良心とか人格があります。自分自身に対して、誠実で柔和で自制心があったらどうでしょうか?とても満足するんじゃないでしょうか。私たちは人に対して誠実で柔和で自制的ある前に、まず、自分自身に対して誠実で柔和で自制的であるべきです。

イエス様は私たちに「あなたがたは、地の塩、世界の光です。」とおっしゃいました。塩には2つの効果があります。1つはものを腐らせないようにする力があります。そのため、昔は魚を塩漬けにして保存しました。クリスチャンもこの世において、腐敗をとどめる役割があります。また、塩は料理のときに用いられます。いっぱい入れると塩辛くて食べられませんが、少しだけ入れると素材自身の味を引き立たてることができます。クリスチャンも地の塩です。でも、「私はあなたがたとは違いますよ」と言って、孤立するなら塩の役目は果たせません。塩が自らの姿をなくして溶け込むように、私たちも世の中に入り込むのです。私たちがいるだけで、周りの人たちが生き生きする。私たちが人々の良いところや賜物を引き出すことができたら何と幸いでしょう。また、世界の光とはどういう意味でしょう?光は不思議な存在で、光自体は見えません。光そのものを見ると目がくらみます。光は物に反射してはじめて、まわりを明るくすることができます。私たちが神の国の価値感で生きているなら、世の人たちはそれを見て、「すばらしい」と思うのではないでしょうか?この世界はあまりにも、ギスギスしています。怒りや恐れ、疑いでいっぱいです。そういうところで、私たちが愛とか平安、親切、誠実さをもって生きているならどうでしょう?もちろん、やっかむ人もいるでしょう。イエス様だって、当時の宗教家から嫌われていました。でも、真理を求める人からは好かれていました。私たちもこの世で誠実に生きようとしたなら、最初は、波風が立つかもしれません。しかし、そのように継続して生きているなら、少しずつ分かってもらえるのではないでしょうか?注意しなければならないことは、地の塩や世界の光として生きるためには、孤立しないということです。私たちの存在そのものに価値があることを覚えましょう。私たちがどうのこうのではなく、私たちの内におられるキリストの御霊が働いてくださるのです。「どうしたら塩の役目を果たすだろうか?」とか「どうしたら世の光として輝くことができるだろうか?」などと、律法主義的な考えは捨てましょう。イエス様は私たちに「地の塩になれ」とか「世界の光になれ」とはおっしゃっていません。「あなたはすでに地の塩であり、世界の光である」とおっしゃっています。何ができるかではなく、あなたの存在そのものがすばらしいということを自覚しましょう。そうすると、キリストの御霊は自然に、私たちに創造性を与え、隠された知恵を与えてくださるでしょう。Ⅰコリント130には「キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました」とあります。私たちは旧訳聖書のダニエルのように、神の英知をもって、人々をリードすることができるのです。あなたはそのような神の恵みによって、周りの人たちを生かすことができるのです。ハレルヤ!

3.御霊の実がみのるため

御霊の実がみのるために、重要ないくつかの点があります。第一は、キリストにとどまるということです。ヨハネ154「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」イエス様は私たちが実を結ぶための重要な条件として、「私にとどまりなさい」と何度も言われました。これはどういう意味でしょう?私は青森でリンゴがなっている木を見たことがあります。でも、リンゴが「私は立派な実をならせるぞ!」とプルプル震えているところを見たことがありません。リンゴはただ、枝によって木につながっているだけです。つながっているならば、木の方から必要な養分が流れてくるのです。私たちが一番、集中すべきことは、キリスト様につながっているかどうかです。キリストにつながるとは具体的にどういう意味でしょうか?それは、キリスト様に聞き、キリスト様から知恵と力を得るということです。そうするなら、自然と、自分の中からキリストによる実が現れ出てくるということです。つまり、キリストと命の関係、有機的な関係になるということです。このことを個人的に言っても、だれも反対する人はいないでしょう。みんな「アーメン」と言うでしょう。しかし、教会という集団になるならどうでしょうか?私たちは教会の役員会、教会の総会、さまざまな会議となるとそういうことはどこかに置き忘れ、ひたすら左脳で議論するんじゃないでしょうか?会議となるととたんに、会社モードになる人がいます。しかし、教会はキリストのからだです。私たちはかしらなるキリストに聞き、そして従うべきであります。ですから、議論をする前に、御霊の声に耳を十分に傾ける必要があります。アンテオケの教会はどうだったでしょうか?使徒132-3「彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、『バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい』と言われた。そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した」とあります。だれか力のある人が言ったのではなく、聖霊ご自身が命じたのであります。私たちが聞こうとする気持ちがあるならば、聖霊は今も語ってくださるのです。

また、御霊の実がみのるためには人と関わることをパスしてはなりません。御霊の実の多くは、人間関係を通して成熟していくのです。人々から離れて、隠遁生活をしていたならば、決して、成熟しません。他の人というのは、自分が足りないところを指摘してくれます。自分の顔が見えないように、私たちは自分の本当の姿というものが見えません。人から指摘されたとき、むかっと来て、嫌な思いをするときもあるでしょう。しかし、多くの場合、その人たちが言うことは十中八九当たっています。当たっているから悔しいんです。当たっていない場合は、聞き流すことができます。もちろん、ひどいことを言われたときは「私はこのように傷つきましたから、次からはそのような言い方はやめてもらえないでしょうか?」と言うことも大切です。これはバウンダリーの問題です。でも、重要なのは他の人は、私の御霊の実が成熟してくれるように助けてくれるということです。色んな状況で、人との中で生きていると、「私には愛がないなー」「寛容さがないなー」ということが分かります。山の中で、一人で暮らしてしている分には、「私には愛があるし、寛容だよなー」と思うかもしれません。でも、人々の中に入ったときに、それが本物かどうか試されるのです。あなたの前に、とてもじゃないけど愛せない人が一人や二人、三人、現れるはずです。もし、あなたがむかーときて、怒りや憎しみがおさまらないとしたら、あなたにはやっぱり愛がないのです。つまり、御霊の実は人々の中で結ばれ、成熟していくということです。もし、あなたが嫌いな人、苦手な人を避けて、自分と気の合う人とだけ交わっていたならどうなるでしょう。それも平和で良いかもしれません。しかし、私たちはキリストのからだなる教会において、共に生きるときに避けられないことが多々あります。そのときこそ、私たちに御霊の実がみのる機会となるのです。私たちは人々を避けて、できるだけ傷つかないようする傾向があります。そして、最後には「自分はあの人たちと違うんだ」と誇るようになります。

イエス様の時代にパリサイ人や律法学者という宗教に熱心な人たちがいました。彼らは「自分たちは律法を守っているし、彼らと違ってきよいんだ」と自らを誇っていました。しかし、イエス様は彼らを偽善者と呼んで、とても嫌いました。彼らは人々に聖書を教えましたが、自分たちが汚れるといけないので、人々と親しく交わろうとはしませんでした。彼らは本心を隠して、仮面をかぶって生きていました。だから、イエス様は「白く塗った墓のようなものです。外側は美しく見えても、内側は汚れたものがいっぱいです」と言われました。イエス様はどうだったでしょう?イエス様は取税人や罪人たちと一緒に食事をしました。人々の間に出て行き、彼らと一緒に生活しました。人々はイエス様をどう思ったでしょうか?パリサイ人たちのように、近寄り難いと思ったでしょうか?パリサイ人たちは「寄らば、切るぞ!」みたいに、すぐ人々をさばきました。だから、一般の人たちは近寄ることはできませんでした。でも、イエス様の場合はどうでしょうか?イエス様の行くところどこでも、多くの人たちが集まりました。そして、彼らはイエス様に近づいて、着物に触ったりして、癒しや祝福を得ようとしました。イエス様ご自身も当時、人々から嫌われていた、ツアラト(らい病人)に自ら触れられました。触ったイエス様が病気になったでしょうか?逆にイエス様のきよさによって、その病気がきよめられたのです。ハレルヤ!ですから、同じようにあなたが御霊の実に満たされたならば、人々があなたの周りに自然に集まってくるでしょう。人々はあなたによって恵みと平安を受けるのです。

石塚兄姉は10数年間、この教会に在籍していました。今は、実家のある日立に住んでおられます。お二人が引っ越してから何度かお会いし、その後の様子を聞くことができまた。石塚兄姉は月に一回、自宅でセル集会を開いており、茨城大学や茨城キリスト教大学の学生さんたちが多く集まっているそうです。前半は一緒に食事をし、後半は聖書に何が書いてあるか、発見したことを分かち合ってもらうそうです。彼らはそれが楽しくて、夜11時になっても帰らないそうです。石塚姉は教会や教団の婦人部で活躍しておられるようです。石塚兄はもと太陽エネルギーの仕事をしていました。現在は日立市民のサークルに属しながら、自然エネルギーを教えています。「日立は日が立つと書くので、太陽エネルギーのことです」とみんなに言ったそうです。最近は、若い人も「エコ」に興味があり、加わっているそうです。また、「日立理科クラブ」にも属しており、学校の実験室の実験を手伝っています。ふだんはあまり使われなかった実験室が、リタイアした技術者のボランティアによって活気付いているそうです。石塚兄姉は、当教会におられたときから、本当に肯定的な人でした。批判的なことは一切言わず、小さなことも喜んで励ましてくださいました。ブラック・ゴスペルで多くの人が救われたとき、一番喜んでくれたのが石塚兄姉です。すずめの学校を創設したときも、退職金の一部を献金してくださいました。今は、日立の方で地の塩、世界の光として活躍しておられます。このように、御霊の実は、概念的なものではなく、実際的なものです。家庭、教会、会社、学校、地域社会で人々と触れたときに、御霊の実が生かされてくるのです。私たちは、神さまとの関係ももちろん大切です。しかし、その実が存在価値を示すのは、人々と関わったときであります。ですから、バランスが重要です。まず、イエス様の内にとどまって力をいだだき、その次には、イエス様と共にこの世に遣わされていくのです。そのようなプロセスの中で、御霊の実が成熟し、キリストに似た者となるのです。

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