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2010年6月13日 (日)

共同体の必要性     創世記1:27、マタイ18:20

 本日から4回にわたり、共同体ついてお話しさせていただきます。果たして、「共同体」ということばは、日本語になっているでしょうか?英語ではコミュニティなのですが、コミュニティの方が一般的かもしれません。教会は神様が与えてくださった共同体、コミュニティであります。しかし、従来の教会は「神様との関係さえあれば良い」としてきたところがあります。「礼拝が終ったら、さっさとお家に帰るように」と言われてきたのです。ある教団は、「信徒同士が交わると噂話をしたり、牧師の悪口を言うから、セルには反対だ」というところもあります。セルというのは、元来、細胞という意味ですが、これも共同体を意味していることばです。私たちは神様との縦の交わりも大切ですが、横との交わりも大切なのではないでしょうか?なぜなら、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」と命じられているからです。

1.創世記における共同体

 旧訳聖書には「教会」ということばはありません。しかし、創世記には教会の原点と言うべき事柄が書いてあります。創世記1:27「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」神のかたちとは何でしょう?これは、神学的に難しくて、一口では言えません。しかし、あえて言うならば、神のかたちとは、三位一体の神さまから来ていると思います。父なる神、子なる神、聖霊なる神と人格は別々でありながらも、互いに愛し合って1つになっています。その神のかたちに、男と女を創造されたのです。ということは、男と女が愛し合う関係こそが、神のかたちだということです。「男と女」というと、何か変なイメージを持たれるでしょうか?聖書に「アダムと妻のエバは、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった」と書いてあります。男と女というよりも家庭における夫婦の関係が神のかたちなのであります。やがて、アダムとエバには子どもたちが与えられました。おそらく、家族で神さまを礼拝したのではないかと思います。創世記を見ていくと、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、みんな祭壇を築いて家族で礼拝を持っていました。つまり、教会の原点は、家族であるということが分かります。そして、家族の中心とは何でしょう?それは夫と妻であります。夫と妻の関係が良ければ、子どもたちも良くなるのではないでしょうか?

 アダムとエバが罪を犯してからどうなったでしょうか?そうです、夫と妻の関係が壊れました。互いに罪をなすりつけました。その後、どうなったでしょうか?兄カインは、ねたみのゆえに弟のアベルを殺しました。その後、カインはエデンの東、ノデの地に住みつきました。「エデンの東」というと、ジェームズ・ディーン主演の映画を思い出すかもしれません。創世記4章を見ますとわかりますが、カインはそこに町を建てました。当時の町というのは、城壁を町の周りにめぐらせました。城壁というのは外から敵が簡単に侵入できないために作るものであります。が、同時に、自分も外に出て行くのが困難になります。エデンの園には城壁はありませんでした。なぜなら、神さまが中心にいてくださって、人々を守ってくれたからです。神さまは人々がカインを殺さないように1つのしるしを下さいました。それなのに、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みつきました。だから、カインは自分を守るために城壁を作ったのです。城壁というのは、自分が人から傷つけられないように自分を守るための壁(バリヤー)を暗示させます。どうでしょう?みなさんも目に見えない心の壁を、築いておられるのではないでしょうか?京都という町は敵が簡単に侵入できないように、道が入り組んでいるということを聞いたことがあります。どうでしょう?京都の人たちも、同じように、自分の本心を簡単に表したりしないのではないでしょうか?それはともかく、カインの子孫は人間関係よりも業績を求めました。カインの子孫である、ヤバルは牧畜の先祖になりました。ユバルは音楽の先祖、トバルカインは工業の先祖になりました。創世記4章には「○○した」「○○した」と書いてありますが、何歳まで生きたかは書いてありません。面白いことに、創世記5章にはセツの子孫について記されています。彼らは何をしたとかはひとことも書いていません。その代わり、「○○は何年生きて、○○を生んで、死んだ」「何年生きて、○○を生んで、死んだ」と書いてあります。神さまにとっては何をしたかよりも、ご自分と関係があったかどうかの方が重要なのかもしれません。ところが、罪が入ったために、私たちは人間関係よりも何ができるかという業績の方に価値を置くようになりました。神のかたちである、共同体を壊すのは、業績志向と言っても過言ではありません。みなさんは人間関係と業績、バランスを保っておられるでしょうか?それとも自分の業績を上げるために、人間関係を利用しているでしょうか?エペソ2章には「イエス・キリストは、私たちの中にある敵意という壁を壊してくださった」と書いてあります。イエス・キリストこそが、人間関係を回復してくださるお方なのであります。

2.新約聖書における共同体

 マタイ18:20「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」とあります。マタイ18章には「教会」という用語が出てきますので、教会の最小単位が、二人もしくは三人ではないかと思います。二人もしくは三人がイエス様の御名によって集まるところ、そこが教会ではないでしょうか?私たちは教会というとどうしても、建物を思い浮かべてしまいます。しかし、教会は建物ではありません。神さまによって召し集められた人々が教会なのです。だから、建物があっても良いし、なくても良いわけです。大阪の遠藤先生はあえて教会堂をなくしました。そして、20箇所以上の家庭で、毎日曜日、礼拝をささげています。遠藤先生にお聞きしましたら、「教会堂があって良いところもありますが、教会堂があるために悪いところもあります」とおっしゃっていました。なぜでしょう?教会堂があると確かに便利です。しかし、欠点は全部の集会を建物の中でやろうとしてしまいます。すると、人々は遠くから教会堂まで来なければなりません。しかし、各家庭で集会を開くならどうでしょう?その家にいる、ご主人や子どもたちも、集会に出やすいでしょう。ご近所の人たちも来ることができるかもしれません。しかし、遠くの教会に行こうとすると、敷居が高くて、なかなか足が向かないのではないでしょうか?私たちは何でもかんでも、教会堂という建物を中心にしてやってきました。その結果、「教会とは人々ではなく、建物なんだ」という誤った考えを持ってしまったのです。

 では、初代教会はどうだったのでしょうか??使徒2:41-42「そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」ペンテコステの日、3000人が救われて教会が誕生しました。でも、そんな大勢の人たちをどのようにフォローしたのでしょうか?ここには「彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた」と書いてあります。使徒たちの教えが十分に行き届くためにはどうしたら良いでしょうか?しかも、その人たちは交わりをし、パンを裂き(聖餐式)をして、祈っていました。おそらく、彼らは小グループに分かれていたのではないかと思います。そうでなければ、3000人がちゃんと教えを受けたり、交わりを持つことなどできません。その証拠に、46節以降に何と書いてあるでしょうか?使徒2:46,47「そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」彼らは、神殿でも礼拝していましたが、家々でも集まって、聖餐式を行ない、食事を共にし、神を賛美していたようです。使徒2章には、ペンテコステの日聖霊を受けた人たちが120人いたと書いてあります。おそらくは、彼らの家々に、3000の人たちが振り分けられたのではないかと思います。初代教会は聖餐式が食事とセットにされていたので、今の聖餐式とは随分違っていたのではないかと思います。今の聖餐式は礼拝とセットなので、どうしても堅くなります。「もっと食べたいナー」、「もっと飲みたいナー」と言われても無理です。

 では、どうして教会が初代教会のようなうるわしい交わりを失ってしまったのでしょうか?それは紀元312年、コンタンチヌスによってキリスト教がローマの国教になってからです。それ以来、教会というのは人々ではなく、制度とか建物、聖職者による組織と置き換えられてしまったのです。ドイツ語の「キルへ」という言葉は、まさしくそういう意味で使われました。その「キルへ」が「チャーチ」、あるいは「教会」となったのです。残念ですが、宗教改革が起こった後も、そういう考えを払拭することができなかったのです。20世紀になってやっと、「教会とは共同体である。私たち自身が教会である」ということが再発見されたのです。今でも、イギリスやドイツに国教会があります。また、国教会の伝統に添った教会があります。そういう教会は、人々よりも、組織や制度、儀式あるいは聖職者を重んずるところがあります。ある人が「教会は何があれば、最低限、教会として成り立つでしょう?」と質問しました。どうでしょう?教会には、建物がなければならないでしょうか?牧師がいなければならないでしょうか?このような聖日礼拝が必要でしょうか?月定献金が必要でしょうか?役員会が必要でしょうか?聖書や讃美歌が必要でしょうか?オルガンやピアノが必要でしょうか?使徒信条や様々な信条が必要でしょうか?教会総会が必要でしょうか?では、最低限、教会が教会としてなりたつ条件とは何でしょうか?はい、イエス様と人々(クリスチャン)がいれば教会なのです。中国の地下教会は政府からものすごい迫害を受けています。田舎の地下教会は、牧師もいないし、聖書もない、会堂もありません。それでも爆発的に成長しています。しかし、そこにはイエス様と人々がいます。インドネシヤはイスラムの国ですが、クリスチャンも20%前後います。今から10数年前、イスラムの大迫害により、教会という教会が焼き討ちに合いました。集まりたくても教会堂がないのです。クリスチャンたちはどうしたでしょうか?教会堂の跡地に集まりました。それまでは、「うちは○○派」「うちは○○派」と、教団教派の壁がありました。ところが、教会堂が焼けてから、自分たちは、キリストにあって1つだということが分かったのです。なんと、迫害によって、教団教派の壁までが壊されたのです。私たちは初代教会に帰るべきではないでしょうか?中世の教会がもっていた古い着物を脱ぎ捨てるべきです。そして、聖霊が自由に働かれる、神の共同体を取り戻すべきではないでしょうか?

3.小グループを持った教会

 最後に「では、私たちはどのような教会を目指すべきなのか?」という実践的なお話したいと思います。総会資料の挨拶にもお書きしましたが、私は1996年から本格的に「セル」を導入しました。シンガポールのローレンス・コング師は、「セルチャーチとセルのある教会では天と地との違いがある」と言いました。つまり、本来、セルチャーチというのは、すべてセルで行う教会であります。それで私は従来の教会が持っている、壮年会、婦人会、青年会、祈祷会、家庭集会というものを全部やめました。すべてをセルにしました。また、「委員会」とか「部会」という言い方をしないように、極力避けてきました。役員会だけは宗教法人に定められているので、これだけは残しました。数年前から、「牧師がセルリーダーを任命してもらいたい」とか、「自然発生的ではセル生まれない」という意見が出ました。私自身、「セルリーダーを任命して、セルを作らせるようにするのか」という、プレッシャーを感じてきました。今年の1月末、小笠原先生を久しぶりに当教会にお呼びいたしました。実は、小笠原先生に15年前セルを勧められたんです。この間、先生にこのようなメールを送りました。「セルチャーチというと信仰がわいてこないばかりか、挫折感と閉塞感に陥ってしまいます。そこで祈った結果、セルチャーチと言うことはやめて、新約聖書の教会を目指すということに決めました」。そのようなメールしたとたん、肩から重荷がすっと落ちました。私はセルチャーチを作り、セルを増殖させることを目的としていました。つまり、セルが目的だったんですね。しかし、セルは目的ではなくて、手段であり、システムです。どんなやり方でも、教会が実際に機能していれば良いのです。

 新約聖書の教会はどうでしょうか?使徒パウロとヨハネは教会に対して「互いに」という表現を何度も用いています。「互いに愛し合いなさい」「互いに祈り合いなさい」「互いに赦し合いなさい」「互いに教え、互いに戒め、互いに励まし合いなさい」と書いてあります。この「互いに」を実行できる人数とは何人くらいでしょうか?50人では多く過ぎるでしょう。大体、5、6人、多くても10人くらいではないでしょうか?イエス様でも、ご自分のもとで訓練を与えたのは12人です。私たちはイエス様より勝るものでしょうか?ですから、教会はこのような会衆と、もう1つは5人から10人くらいまでの小グループが必要だということです。2人でも3人でも構いません。マタイ18章に書いてありますから。でも、2人だと1人欠席すると、できなくなります。とにかく、共同体の喜び、共同体の力を体験するためには、自分が小グループに属す必要があるということです。近年、心理学者たちも、「私たちが何らかのグループに属することは、癒しにつながる」と言っております。ただし、そのグループが自分のありのままを受け入れてくれるということです。だれも気を使うようなグループには属したくはないでしょう。もう1つは、自分がそのグループに必要とされているということです。また、同時に、自分もそのグループを必要としている。つまり、「互いに助け合う」相互依存の関係を持ったグループです。丸屋先生は「現代はだれもが、うつに陥りやすい社会環境である。うつを予防する1つの方法は、サポートシステムである。人間関係は心理的抗鬱剤である。どんなサポートシステムがあるか、第一は家族である。家族としっかりとコミュニケーションをとる。自分の状態について、何かあれば伝える。第二はコミュニティである。友人・知人よりは、コミュニティに属する。地域のコミュニティ、市県国のさまざまなグループに属するように」と教えておられます。ちなみに、第三は友人・知人、第四は専門家です。コミュニティの中で、もっとすばらしいのは神の教会ではないでしょうか?

 私たちは人間関係によって傷ついてきました。ある人たちは、「これまで随分と傷つけられてきたので、人に本心をあかすのはやめよう。できるだけ最小限の人間関係にしておこう」と決めています。しかし、どうでしょう?人間関係の心の傷は、やはり人間関係でしか癒すことはできません。もし、自分が好む、特定のしか交わらなかったならどうなるでしょう。ある部分はずっと改善されることはないでしょう。他の人は自分の弱さや欠点を教えてくれます。そのときはとてもイヤな気持ちになります。でも、今までは「あの人が悪いんだ」と全部人のせいにしてきました。人のせいにしているうちは、自分が変えられたり、成長することはありません。しかし、自分が属している共同体から、「そこは違う」と指摘されました。おそらく、自分のことを思って、それは愛をもって真理を語ってくれたのではないでしょうか?そこで、少し立ち止まり、「どうして自分はこうなってしまったんだろう。ああ、あのことが未解決だからだ」ということが分かるのではないでしょうか?ある人たちは、ちょっと突っつかれただけで、もう二度と教会の交わりに加わろうとしません。おそらく、その人はこれまで多くの傷を受けてきたので、「教会も世の中と同じだ」と躓いたのかもしれません。その人の気持ちも分からないでもありません。でも、そこで真実を見ることを避けて、離れてしまったならどうなるでしょう。なかなか、「こうじゃないの」と愛をもって真理を語ってくれるところはありません。

セル、あるいは小グループでもそうですが、最初の頃はハネムーン期です。みんな気を使っていますので、人を傷つけるようなことは絶対言いません。しかし、数ヶ月後、仮面をはずします。そして、本音で話すようになります。ハネムーン期から葛藤期に入ります。「えー?あなた私のことそんなふうに思っていたの?ひどい!」というふうになります。おそらく、結婚生活もそうじゃないでしょうか?結婚して数ヶ月は、お互いに気をつかっていますので、喧嘩になることはあまりありません。でも、1年もたってメッキがはげてくるとどうでしょう。今まで言わないで、我慢していたことを、ポロっと言ってしまうんじゃないでしょうか?必ず衝突します。でも、その葛藤や衝突というのは、本当に親しくなるために絶対に、通らなければならない段階なのです。男性はおもに自分の考えを分かち合います。「日本の社会はこうだ」「聖書はこうだ」とか、一般論しか話しません。それではいつまでたっても親しくはなりません。何を分かち合うのでしょうか?自分の感情です。嬉しいこと、悲しいこと、辛いことを分かち合うのです。あるときは、自分の傷やトラウマさえも分かち合うのです。もちろん、受け入れてもらえないときもあるかもしれません。拒絶されたりすることもあるかもしれません。グループに留まるためには、自分の行動や言葉を調整しなければならないかもしれません。でも、そこで諦めてはいけません。なぜなら、その後に本当の親密さがやってくるからです。

なぜ、主にある共同体、小グループはすばらしいのでしょうか?そこにイエス様がおられるからです。イエス様が私たちの傷や痛みを受け止めてくださり、それを喜びに変えてくださるのです。使徒パウロはコロサイ人への手紙でこのように言っています。コロサイ1:27「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」イエス様は個人、個人の中におられます。しかし、それだけではありません。「あなたがたの中におられる」のです。中とは、あなたがたの間にという意味です。つまり、イエス様は個人の中だけではなく、共同体の中におられるのです。神さまは三位一体の共同体の神さまです。神さまはご自分と同じような共同体の中にお住みになりたいと願っておられます。もし、私たちの間に、神さまが住んでくださったらどうなるでしょう?神さまご自身がそこにおられて、すばらしい救いのわざ、奇跡のわざをなしてくださるのではないでしょうか?ですから、私たちが努力すべきことは、互いに愛し合い、互いに赦し合い、互いに励まし合って麗しい共同体を作ることなのです。

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