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2010年5月30日 (日)

御霊の法則   ローマ8:1-7、ガラテヤ5:16-18

 私たちは自分の力、つまり肉によって神様の要求を満たそうと努力すればするほど、律法の法則にはまりこみます。律法は「まだ足りない、まだ不十分だ」と、あなたに叫ぶでしょう。律法はあなたの中にある不十分さや罪を暴露して、決して「これで良い」とは言いません。私たちはキリストと共に葬られ、キリストと共によみがえらされました。つまり、律法という夫と別れて、こんどは新しい夫、イエス・キリストと結婚したのです。やさしいイエス様は「私に重荷をゆだねなさい。私と一緒にやりましょう」とおっしゃってくださいます。私たちがなすべきことは、自分の力で努力することではなく、私たちの内に働いてくださるキリスト御霊にゆだねることなのです。神様は私たちを通して、神様ご自身が働きたいのです。きょうは、私たちの内側に、キリストの御霊がどのように働くのか、詳しく学びたいと思います。

1.御霊の法則

 使徒パウロは「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と自分に絶望しました。なぜなら、「自分の肉のうちには善が住んでいない。善をしたい願いがあるのに、かえってしたくない悪を行なってしまう」からです。でも、どうでしょうか?ローマ8:1-2「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」7章と8章の間に何があったのでしょうか?実際、聖書の原文には何章とか何節と分けられていません。これは後代の人が便宜上、文脈を見ながら付けたものです。でも、パウロは何かを発見して、その絶望のどん底から脱出したのです。自然科学には原理とか法則というものがあります。私たちは学校で、アルキメデスの原理とか、ボイルの法則など、いろいろ学びました。霊的な世界にも原理や法則があるのです。パウロはその大切な原理を発見しました。ローマ7章の後半を見るとどうでしょうか?21節には「私に悪が宿っている原理を見出す」とあります。23節「私のからだの中には異なった律法がある」「からだの中にある罪の律法」とあります。25節には「肉では罪の律法に仕えている」と書いてあります。ギリシャ語の聖書は全部、ノモスであります。ノモスは「原理、法則、律法」と訳されています。つまり、私たちの内側(肉)には、神の律法に逆らう別の律法があるんだということです。これをパウロは「罪と死の原理(律法)」と呼んでいます。

 では、肉の中にある「罪と死の原理」と相対するものとは何でしょうか?パウロは、それは「いのちの御霊の原理」であると言っています。私たちの肉は「神様の律法に逆らう」という原理を持っています。一方、御霊はどのような原理を持っているのでしょうか?ローマ8:2「罪と死の原理から解放した」とあります。解放とはどういう意味でしょうか?私たちの肉は、これから先ずっと、神の律法に逆らい、したいと思う善を行なわずに、かえってしてはならない悪を行ないます。しかし、どうでしょう。その原理に打ち勝つ力があるのです。それが、「いのちの御霊の原理」です。ウォッチマン・ニーの『キリスト者の標準』に、このように分かりやすく解説されています。引力の法則は、どのようにしたら無効にすることができるでしょうか。私のハンカチに関しては、この法則ははっきり作用しており、いつでもそれを下へと引っ張っています。しかし私がハンカチの下へ手をもっていきさえすれば、それは落ちません。なぜでしょう。引力の法則はなおも存在しているはずです。私は引力を処理したのではありません。事実上、私は引力の法則を処理することはできません。では、なぜハンカチは地に落ちないのでしょう。それは、そうなることを食い止め、支えている力が存在するからです。引力の法則は存在しますが、それにまさったもう1つの法則が、それに打ち勝って作用しているのです。つまり、それはいのちの法則です。もし私たちが鳥に、「引力の法則に恐怖を感じていませんか」と尋ねることができたなら、鳥はどう答えるでしょう。「私たちはニュートンという名前を一度も聞いたことがありませんし、その人の法則について何も知りません。私たちが飛ぶのは、飛ぶことがいのちの法則であるからです。」鳥の内側に飛ぶ力を備えているいのちがあります。つまり、引力の法則に勝たせるいのちの法則を持っているのです。それでも、引力は依然として存在しています。もし、地面の上に死んでいるすずめを見つけるとすれば、私たちはただちに引力の法則の永続性を思い出すでしょう。しかし鳥は、生きている間はそれに勝つのです。鳥が「飛ぶ」ということは、もはや鳥の意志の問題ではなく、いのちの問題なのです。

 ウォッチマン・ニーが言いたいことは、「私たちの中には肉の法則があるけれど、それをとどめるいのちの御霊の法則が働いている」ということです。では、私たちがなすべきことは何でしょうか?自分の力でもっと努力することでしょうか?そうではありません。御霊の法則の中に落ちることです。力を抜いて、御霊にゆだねることです。そうするなら、御霊ご自身があなたの中に働いてくださるのです。ハレルヤ!私は、せっかちな気持ち、汚れた考え、軽率なことば、批判的な思いを取り除いて、「自分を変えよう、変えよう」と努力してきました。それで、数時間は持つかもしれません。しかし、半日もすればケロっと忘れ、軽率なことを語り、せっかちな自分を発見します。「うぁー、イエス様のように聖くなろう」と、また努力します。しかし、そういう努力は肉に対してちっとも役にたちません。空しい努力です。私たちのすべきことは、私に欠けている聖さ、謙遜、柔和を作りだしてくださる御霊を仰ぐことです。自分の意思の力で自分をなんとかしようとしても無理です。そうではなく、御霊にゆだねて歩むのです。たとえば、あなたの心臓をあなたの意志で動かしているでしょうか?「自分の心臓の鼓動はどうだろう?ちゃんと休まないで動くだろうか?」と気にします。そうするとどうでしょう?あなたの心臓はとたんに不具合を生じるでしょう。心臓は私たちのどこか知らないところがコントロールしているんです。それを私たちの意思が横取りするならば、心臓はぎこちなくなるでしょう。私たちのすべきことは自分に集中することではなく、御霊に集中することです。そうすると、あなたの中にある御霊が働いてくださるのです。ハレルヤ!

 ガラテヤ人への手紙5章には「御霊によって歩みなさい」と書かれていますこれは、未信者ではなく、クリスチャンに書かれている内容です。未信者には御霊が宿っていませんので、このような葛藤はありません。クリスチャンならではの経験です。せっかくクリスチャンになったのに、こんな戦いがあるのですか?あります。使徒パウロが7章で経験した、全く同じことがこのガラテヤ5章に書いてあります。自分の内側に肉と御霊との戦いが繰り広げられています。私自身の意思はどこに向けられるべきなのでしょうか?「こら肉よ、お前は怒ってはならない。御霊から忍耐をいただくように!」と命じるべきでしょうか?自分の意思が飛行場の管制塔のように交通整理をするのでしょうか?しかし、御霊によって歩むとはそういうことではありません。「主よ、私はこういう原因で怒ったのです。あの人があのように言ったからです。この怒りの感情はそこから来ているんです。でも、主よ、あなたがさばいてください。私自身は赦します。どうか私にあなたからの平安と寛容さを与えてください。主の御名によって祈ります。アーメン。」私たちは、日々、いろんなことがあります。怒ったり、悲しくなったり、混乱したり、あせったりするでしょう。そのときに、主と交わり、自分の状況を主に申し上げるのです。さらに、自分の思いと感情はこうなんですと申し上げます。すると、主は「なるほどそうだね。でも、あなたはどうすべきでしょうか?」「はい、あなたのみこころは分かっております。私はこうすべきだと思います。そうします。アーメン」。主にゆだねるのですが、丸ごとではなく、風呂敷から1つ1つ問題を取り出してゆだねていくのです。すると、自然に私たちは悔い改め、新しい道を歩むことができます。御霊によって歩むとは、御霊と一緒に交わり、導かれて歩むということです。御霊ご自身が私たちに意思を与え、思いを与え、そして命の道へと導いてくださるのです。御霊と親しく交わっていくと、やがて、それが自分の中に実として表れてきます。それが御霊の実なのです。ガラテヤ5:22「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」アーメン。

2.恵みによる歩み

 クリスチャンになって一番、陥りやすいのが律法主義です。律法と律法主義は違います。律法というのは神のさだめ、戒め、命令ですから、それ自体は悪くはありません。律法は、正しくて中立的です。問題なのは、私たちが「律法を守ることによって、神様に受け入れられよう」と努力することです。私たちは一度死んで、律法という夫から、イエス様という新しい夫と結ばれたはずです。にもかかわらず、律法があまりにも完全で立派なので、ふらふらと寄ってしまうのです。これは霊的な浮気であります。イエス様の恵みよりも、きまりや命令を重んじているからです。大体、律法主義には共通したセリフがあります。どういうものでしょうか?「聖書を読まなければならない」「伝道しなければならない」「祈らなければならない」「献金しなければならない」「罪を犯してはならない」「良い証を立てなければならない」。そうです。「…しなければ、ならない」というセリフです。昔、本田弘慈先生は、「…しにゃーならん、…しにゃーならん。これを猫信者という」とおっしゃっていました。どうでしょうか?みなさんの中に、そういう習慣があるでしょうか?スティーブ・マクベイという先生が、『恵みの歩み』という本でこのように教えておられます。「多くのクリスチャンは救われるために行ないは必要ないと理解しているものの、救われた後、信仰生活の勝利のためにそれが必要だと信じているのです。本当は信仰生活の勝利というものは報酬ではなく賜物なのです。神のために一生懸命行ないをもって努力している人は信仰生活で勝利を体験できないのです。聖書を読まなかったときはやるべき事をしなかったので、罪悪感を覚えました。律法は聖書を読みたくない気持ちを起させ、読まなかったときは罪の宣告をしたのです。奇妙に聞こえるかもしれませんが、聖書を読まなくてもいいということに気づいたとき聖書をエンジョイして読むようになりました。聖書をなぜ読むのでしょうか?みことばを通して神と交わりたいという願いがあるからです。恵みによる聖書研究はみことばの飢え渇きを造り出しますが、律法によるアプローチはやらなければならないという疲労感を残します。律法主義者だった頃は聖書を読むという義務感に縛られていました。しかし、今はそうしたいので聖書を読む自由があります。読まない自由を発見するまで、聖書を読む自由がありませんでした。」

 意味がご理解できたでしょうか?マクベイ先生は、長年「良い」クリスチャンになるためには、教会に出席し、聖書を読み、祈り、キリストを人々に伝えることなどをしなければならないと信じていました。これらの行ないは、クリスチャンにとって重要だと思います。でも、どこが間違っているのでしょうか?それらの行ないの真の目的は、イエス様と親しく交わることであります。私たちはイエス様と交わるために、教会に出席し、聖書を読み、祈るのです。でもそれを、義務にしたらどうでしょうか?「これをしなければ、神様に喜ばれない」としたら、律法主義に片足をつっこんでいます。何度も言いますが、神様はイエス・キリストの贖いを信じた私たちを喜んでおられます。私たちは肉によって神様を喜ばせることはできないし、喜ばせる必要もないのです。では、どうしたら良いのでしょうか?奉仕や伝道はしなくて良いのでしょうか?クリスチャンとしてやるべきことがたくさんあるでしょう?アーメン、あります。最も重要なことはこのことです。律法とは私たちが神さまのために何かをすることを意味します。一方、恵みとは、神様が私たちに何かをされることを意味します。では、律法から解放されるとはどういうことでしょうか?私たちがそれを行なうことを免除され、恵みにあって神ご自身がそれなされるということを意味します。私たちは神様のために、何もしなくて良いのです。私たちが肉によって何か努力しようとするなら、律法の罠に陥ります。では、どうしたら良いのでしょうか?私たちは神様ご自身に目を向けるのです。神様が私たちを通して、伝道したいのです。主役は神様で私たちはあくまでもその管であります。神様が私たちを通して、良い行ないをしたいのです。主役は神様で私たちはその手足です。ハレルヤ!イエス様はそのご生涯において何とおっしゃられたでしょうか?ヨハネ5:19「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」アーメン。イエス様は救い主でありますが、同時に、私たちの模範であられました。イエス様が御父にいつも、お聞きしながら歩まれました。「自分からは何事も行なわない」とは、私たちに言われれば「肉によっては何事も行なわない」ということではないでしょうか。イエス様は自分の神としての力ではなく、御父の力と導きによって、この地上を歩まれたのです。同じように、私たちはイエスの御霊に聞き従って歩むべきであります。これが、恵みによる歩みです。

 当教会に、インディアンのメルボンド先生が来られたことがあります。先生は、天に引き上げられ、イエス様とお会いした人物です。イエス様が先生に、「これこそが教会の成長を妨げている最も悪いものである。それは律法主義である」とおっしゃったそうです。うぁー、律法主義、これはぜがひでも避けなければなりません。「なりません」と言うと、律法になるかもしれません。丸屋真也先生も律法主義には口をすっぱく、注意しておられます。律法的に「こうあるべき」「こうでなければならない」と、律法的な信仰に進むと、もっとしなければならないと思うようになる。「あかしをもっとしなければならない」という律法的なアプローチをする。「あー、自らの方法で、職場のだれかに、あかしを正しくしなければならない」と思う。もっとしなければならないと思う。そして、私たちは祈り、救われるように、より良い証ができるように、具体的に誘うことができるように計画する。思い切って、声をかける。しかし、家族、友人、職場においてうまくいくかどうかは分からない。なかなか、それで結果が出るだろうか?全体として、証をするとき、うまくいかないことが多い。自分の信仰がまだまだダメなんだと罪悪感を覚える。さらに祈って、次にチャレンジをする。必ずしもうまくいくわけではない。証をして、何百回して、限られた人しかクリスチャンにならない。そんなに多くはいない。しかし、「なんとなく信仰者としてダメかもしれない」と罪悪感を覚える。律法的な姿勢で何回も繰り返す。だれかが救われる。「自分がこうしたから」と自分を誇る。周りの人もそれを律法的に受け止める。律法的になればなるほど、罪が増してくる。「自分はまだダメなのかな?」「もっと聖書を読まなければ」「いろんなものをしなければ」。ある人は、わりと考えているほどうまくいかない。あまり触れたくないので、自分でできること(奉仕)に熱心になる。罪悪感は表に出ないかもしれない。しかし、この罪悪感が深いところで居座る。意識していなくても、心の中にある。「何かしなければ、こうでなければ」。その罪悪感がふっと出てくる。それは、霊の世界ではない。私たちの精神的、心理的なものである。

 私も牧師として、一ヶ月間、どう過ごしたら良いでしょうか?毎月、聖務表というのが作られます。いろいろ、スケジュールを立てて、埋めていきます。でも、そんなに毎日、忙しいというわけではありません。ゴスペル、コーチング、勉強会、説教準備、たまにだれかと面談します。ある人は、「牧師先生って楽だよね。日曜日、説教すれば良いだけだもんね。それで一か月分の給料もらえるんだから」と言うかもしれません。私も何度か間接的にそういうことを聞いたことがあります。ですから、あるときは一生懸命、何かスケジュールを入れて、忙しそうにふるまいました。「あの人のところに訪問しよう。この人にコンタクトを取って伝えよう」と追い立てられるように生活していました。いわゆる業績思考、パフォーマンス思考でした。しかし、あるときから「牧師は忙しくしてはいけないなー」と思いました。何か相談事があっても取り付く島がないというのは困りものです。でも、人のお世話に日夜、ふりまわされるような牧師も問題だと思います。今は、私は人からではなく、神様の御目で「お前は、忠実にやっている」と評価されたらそれで良いじゃないかと思っています。牧師として一番重要なのは、忙しく動き回るのではなく、神の御声を聞いて、霊的な洞察力、創造性、方向性をいただくことであると確信しています。ですから、私もあるときから律法主義から解放され、主体的に生きることができるようになりました。みなさんはいかがでしょうか?周りの必要から動かされているでしょうか?あるいは、心の中からくる「あれもしなければ、これもしなければ」という義務感で生きているでしょうか?もし、そうであるならばそれは律法主義の中にいます。

私たちはこの世において、自分がすることと他人がすること、そして、神様がすることの境界線(バウンダリー)を持つ必要があります。境界線を犯してまで、人のことに首をつっこんだり、人をコントロールしたりしてはいけません。ある人は神様をコントロールする人もいたりします。それは、恵みの歩みと反するものです。恵みの歩みというのは、ある意味では、神様がなさる分と自分がする分の境界線をはっきり理解することであります。「ああ、これは神様のなさることだなー」と思うなら、神様にゆだねるべきであります。もし、神様があなたに「これをすべきですよ」と促すならば、「はい、聖霊様、一緒にまいりましょう。どうか私の力となってください。アーメン」と祈れば良いのです。恵みの歩みをしている人は、寝るときや寝て、休むときは休みます。詩篇127:2「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」アーメン。また、恵みの歩みをしている人は、あまり思い煩いません。Ⅰペテロ5:7「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」アーメン。昔の私は歯を食いしばり、「ちくしょう、ちくしょう」と、生き延びるために生きてきました。私の中の原動力は怒りであり悲しみでした。しかし、今は神様の深い愛と恵みの中で生かされています。主は私を忠実な者と見ておられます。だから、それに喜んで応えたいと思います。みなさんの人生、それぞれ神様から与えられた人生があると思います。恵み深い主は最もあなたが最も満足するような愛し方で、あなたを満たしてくださいます。

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2010年5月23日 (日)

律法からの解放     ローマ7:14-25

 前回の学びでは、私たちの古い人はキリストと共に十字架につけられ死んだということを知りました。次に私たちは死人の中からよみがえらされた者として、自分自身を神様にささげました。しかし、この続きがあることを忘れてはいけません。あるところにそこつな召使がいました。彼がじっとしておれば、そのそこつさは表面に出ません。でも、一日中何もせずにしておれば、何の役にもたちません。ところが「さあ、怠けないで何か仕事をしなさい」と言われれば、すぐさまトラブルが起こるのです。彼は立ち上がる拍子に、イスをひっくり返し、数歩先へ行ったところで、踏み台につまずいて倒れるでしょう。それから大事なお皿を手にしたとたん、それを壊してしまいます。彼に何も要求しないなら、彼のそこつさはわかりませんが、何かするように頼んだとたん、彼は本性を表すのです。この物語はウォッチマンニーの『キリスト者の標準』からの引用ですが、私たちのことを言い当てています。

1.肉の存在

 ローマ3章にはキリストを信じて義とされたことが記されています。そして、ローマ6章には私たちがキリストと共に死んで共によみがえらされたことが記されています。「主が私のためにこんなすばらしいことをしてくださったのだから、私も主のために何かをしなければならない」と考えるでしょう。みなさんも、洗礼を受けた後、「ああ、私も何か奉仕をしたいので、何でもおっしゃってください」と思ったことはないでしょうか?車の送迎、台所のお手伝い、お掃除、集会の奉仕。しかし、どうでしょう?「なんだかしっくりこない。クリスチャンって、みんな良い人だと思っていたのに、案外、冷たいわ。私がこんだけ一生懸命やっているのに手伝ってくれない。感謝もしない」。そのように思ったことはないでしょうか?最初は喜びでやったつもりなのに、さばき心や怒りが生まれたということはないでしょうか?これが最初にお話した「そこつな召使」であります。あなたは失敗しないで、その奉仕を完璧にこなしたかもしれません。しかし、問題なのは、あなたの中に生じた「しっくりこない思い」であります。最初は、表面には出てこないかもしれません。しかし、やがて「躓いた」とか「疲れた」「いやになった」という形で出てきます。その原因は何でしょう?それは肉でやっていたからです。肉というのは神様に寄り頼まない一切のものです。自分の力、自分の考え、自分の経験から来るものです。それらは決して醜いものではなく、むしろ美しいものです。しかし、あなたが肉で始めるならば、罪を刈り取ることになるのです。私たちがクリスチャンになって、どうしても知らなければならないものは、自分の中に存在する肉、つまり罪の性質です。

 「え、どうして私にそのような肉があるのですか?」とおっしゃるかもしれません。肉がわかるのは、律法が来たときであります。律法とは神様が私たちに命じておられる様々な要求です。聖書には数限りない律法が記されていますが、律法は大体「○○せよ」「○○するな」という形で書かれています。もし、私たちが「○○せよ」という命令を受けたならどう反応するでしょうか?「やーだよ」と言わないでしょうか?あるいは「○○するな」と言われたらどうでしょうか?してはいけないことをあえてするんじゃないでしょうか?たとえば、子どもに「ゲームをしないで宿題をしなさい」と言ったらどうでしょう?かなりの確立で、もう2、3回言わないとやめないでしょう。子どもの心の中に律法が反応したからです。人間の心というのは天邪鬼です。「見るな」と言われたら「見たい」。「さわるな」と言われたら「さわりたい」。「食べるな」と言われたら「食べたい」。これが、罪の中にある私たちです。使徒パウロはこう言っています。ローマ7:18-20「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。」

 前回は、お酒のたとえを用いて、罪を製造する工場が潰されたということを知りました。私たちの古い人はキリストと共に十字架につけられて死んだのです。しかし、製造工場は閉鎖されても、酒瓶がどこかに残っているということを申し上げました。政府がお酒を飲むことを禁じても、どこかの倉庫や、家の台所、車のトランクの中に隠されているかもしれません。同じように、私たちの魂と肉体には、残念ながら罪の残渣(ざんさ)、残りかすが残っているのです。パウロはそれに気づいて愕然としています。ローマ7:23-24「私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」聖書には、「力を尽くし、思いを尽して主なる神を愛しなさい。あなたを愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」と命じられています。この戒めにだれも反対する人はいないでしょう。私たちは「ああ、そうです。愛します」と隣人を愛そうとします。しかし、どうでしょう。そのようにできるときもあれば、そのようにできないときもあります。神の愛は無条件の愛、自分自身を捨てる愛であるということは頭では分かっています。でも、そのような愛がないのです。逆に、憎しみ、妬み、怒り、さばき心が出てきます。愛とは正反対のものが心の中にあるのです。「いや、私の心にそういう醜いものはありません」という人は、それ以上、成長もしないし、聖められることはありません。「自分にはそういう愛はない」。これは、悲しい発見ですが、主にあってはすばらしい前進になるのです。

2.律法からの解放

 律法とは何でしょう。旧訳聖書では「おきて」「命令」「さばき」「教え」と言われています。詩篇19篇には、「主のみおしえは完全で主の仰せはきよい。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。それを守れば、報いは大きい」と書いてあります。律法は私たちが幸いを受けるように、与えられたものです。これを守れば、確かに報いられるのです。しかし、イスラエルの民はどうだったでしょうか?私たちは、少し前に聖書日課で申命記を学びましたが、モーセは何べんも主の戒めを彼らに伝えました。でも、どうでしょうか?彼らはカナンの地に入ってから、主の戒めを破り、偶像礼拝をしてしまいました。イスラエルの歴史は不従順の歴史と言っても過言ではありません。彼らは律法を守れなかったのです。新約の私たちはキリストの恵みによって救われました。キリストは律法を全うし、律法の呪いから私たちを贖い出してくださいました。私たちはすでに、恵みの世界に生きているのですから、律法は不要なはずです。でも、どうして再び、律法を持ち出してくるのでしょうか?パウロは何と言っているでしょうか?ローマ7:7-8「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。」そうです。律法は、「あなたの内側に罪がまだ宿っていますよ」ということを教えてくれるのです。律法自体は悪いものではありません。今も、律法は正しくて完全です。しかし、私たちの肉がその律法に反応するのです。律法が、「むさぼってはならない」と言うまでは、むさぼりはないと思っていました。しかし、律法が「むさぼってはならない」と言ったので自分のうちにあらゆるむさぼりが引き起こされたのです。つまり、律法の役割は「あなたには罪がありますよ」ということを教えるのです。

 さて、イエス様によって救われた私たちは、この律法に対して、どうしたら良いのでしょうか?確かに私たちの内には肉がある。神の律法に従えない罪の法則があるということが分かりました。ここで私たちは仕えるべき主人を換えなければなりません。平野耕一先生の『これだけは知ってもらいたい』という本にこのような物語が記されています。アメリカに一人の女性がおりました。彼女はとても人のいい、やさしい女性でしたが、ちょっとおっちょこちょいで、彼女のやることには少々抜けたところがありました。反対に、彼女のご主人は完全主義者で、とても几帳面な人でした。そんなご主人が仕事から帰って来ると、指でテーブルを拭いては、「おい、テーブルちゃんと拭いたか?ここにほこりがついているぞ」とやり始めるのです。食事を出すと「おい、このスープ、ちょっと塩がききすぎて塩辛いぞ」といちいちチェックが入ります。もともと彼女は大雑把な性格だったにも関わらず、かなり神経質にならざるをえませんでした。夫に気を使うと同時に、いつもビクビクしながら生活するようになってきました。ところで、彼女の家の隣に一人の男性が住んでいました。ある日、「奥さん、ちょっと芝生が伸びているようですね。私でよかったら刈っておきますよ」と言って、その男性は機械を持って来て庭の芝生を刈ってくれました。他に窓拭きやリビングルームのお掃除もしてくれました。彼女は次第に、私の夫もこんな人だったらいいのにと思い始めます。自分の夫に比べると、隣の人は全然違う。隣の人と一緒にいると心が安らぐし、喜びを感じるけれど、夫といると、自分の過ちやいたらなばかりを指摘されて、自己嫌悪に陥ってしまう。彼女はその夫と別れて、隣の男性と結婚したくなりました。夫が死んじゃえば良いと思ったけど、夫はすごく健康で、風邪一つひかない人でした。

 これは実際あった話ではありませんが、どうしたら、彼女はこの夫から解放されるでしょうか?実はこの夫こそ、律法の象徴です。律法も道徳的な完全を要求するのです。彼女が夫の要求を満たすことができないように、私たちも律法の要求を満たすことができません。夫が頑丈なからだを持ち、健康そのものであったように、律法も健全で、どの時代でも揺るがない強さを誇っています。夫と同じように、律法が死ぬことを期待できないならどうしたら良いでしょう。聖書が教える解決は、妻が死ねば、夫から解放されるということです。でも、自分が死んだらすべてが終ってしまいますから、死人には再婚などできません。パウロはローマ7章の前半でこのように述べています。ローマ7:4「あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。」私たちはキリストと共に死んで葬られ、キリストと共によみがえったということです。そしてどうなったのでしょうか?かつての古い人は律法と結ばれていました。しかし、古い人が死んで、今は、キリストによって生かされ、キリストという夫のもとで生活しているということです。律法は多くのことを要求しますが、その要求を達成するために、何らの助けも与えてくれません。一方、キリストも私たちに要求なさいますが、ご自分でなさった要求を、私たちの内に成就されるのです。律法はなおも要求を続けるでしょうが、私たち対する力はすでに失ったのです。なぜなら、私たちは一度、キリストと共に死んだので、律法から解放されているからです。そして私たちクリスチャンは、新しい夫であるキリストと再婚したのです。しかも、キリストは、要求を出すだけではなく、彼みずから私たちの中にあって、それを達成する力となられるのです。この力については、次回の「御霊の法則」で学びます。

3.神の要求

 ローマ8:8「肉にある者は神を喜ばせることができません。」使徒パウロは、「自分の力で神様にお仕えしよう。律法を守って聖くなろう」と一生懸命、努力しました。その結果はどうだったでしょうか?「私の内に善が住んでいないのを知っています。したいと思う善を行なわないで、かえて、したくない悪を行なっています」と告白しました。最後には「私はほんとうにみじめな人間です」と絶望しています。スティーブ・マクベイという牧師は、16歳の時から説教しました。駐車場に車を駐車して、その車の上に上って、駐車場の中でよく説教をしました。映画館で並んでいる列の人たちに向かって説教をしたこともあります。19歳で教会の主任牧師になりました。それから21年間、神様に仕えました。教会の人数も増え、いろんなところからも呼ばれるようになりました。人々から「良くやっていますね」「先生の説教は本当に面白い」「あなたのカウンセリングで変えられました」と言われました。先生自身は「自分は物足りない。何とか自分の努力によって、もっと、もっと神様にふさわしい者にならなければならない」と、プレッシャーを感じていました。そのように、いつも自分のことを見つめてばかりいました。あるとき、他の教会から招聘を受けました。祈って、神様の導きであると確信し、行くことに決めました。「牧師先生どうして、この教会を去るのですか!」と悲痛な叫びを振り切って、新しい教会に赴任しました。先生は、そこへ着いて一生懸命、神様のために働きました。一番、良い説教をしました。地域の人たちを訪問し、自分が知っている一番良いプログラムをやってみました。ところが、赴任して1ヶ月くらいたってからあることに気付きました。この人たちは先生のことを気に入っていないということを悟りました。「前の牧師が良かった」という雰囲気がありました。先生は一生懸命、その教会を成長させようとしました。もっと祈り、もっと勉強し、もっと働き、もっと訪問し、できるだけのことをしました。それでも人数は減るばかりでした。先生は神様に祈りました。「主よ、この教会が成長するのではなく、むしろ死んでいくんじゃないのですか。主よ、どうぞ私を強めてください。力をください。私は諦めません。がんばりますから。あなたの助けによって私はできます。」赴任してちょうど1年目になりました。明日は一年目の記念礼拝です。土曜日の夜、先生は事務所の中でうつぶせになっていました。午前2時、鬱で、まったくやる気がない状態になりました。「神様、前の教会では成功していたのに、なぜ、こんな教会に導いたのですか?私を殺すためですか?何故、私に力を与えてくれないのですか?私は16歳のときから説教して、あなたを喜ばしてくたではないですか?」そして、天に向かって「私から何を望んでいるのですか!」と言いました。すると、神様は先生の霊に語ってくださいました。「スティーブ、あなたそのものを欲しい」。先生はこのように大切なことを悟りました。「神様は、私がいろんなことができるから、そのために私を欲しかったと思っていました。そうではなく、神様は私自身を欲しいということが分かりました。神様はお手伝いを求めているのではなくて、花嫁を求めておられる。神様の働きをする者を求めているのではなくて、神様の愛の対象を求めているのです。」スティーブ・マクベイ師は一生懸命努力して、挫折し、再献身しました。また、一生懸命努力して、挫折し、再献身するという生活でした。しかし、最後に分かったことは、一生懸命努力することではなく、努力を諦めることだったのです。

私たちは自分の力で、神様のために良い働きをすれば、神様から愛され、受け入れられ、評価されると思って頑張ります。肉で行なうと私たちは律法の中にはまりこみます。律法は、やればやるほど、「あなたはまだ、足りませんよ。あなたはまだ完全ではありません」と主張します。使徒パウロは「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と、自分に絶望するところまで到達しました。そこで、はじめて「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」と問題の解決を発見したのです。自分がするのではなく、神様がすべてのことをなさるということを発見したのです。父なる神様はキリストにあって、すでに満足しておられるのです。なぜなら、私たちの代わりに、キリストがすべての要求を満たしてくれたからです。また、これからもキリストが満たしてくださるのです。私たちのすべきことは、肉による一切の努力を放棄して、神様のふところに安らぐことです。「ああ、キリストにあって受け入れられている」ということを心から喜ぶことです。パウロはローマ8:8で「肉にある者は神を喜ばせることができません。」と言いました。これはどういう意味でしょう?神様は「あなたの肉によって、私を喜ばせなくても良いのです。肉でやるくらいなら、やらない方がよっぽどましです」とおっしゃっているのです。どうでしょう、「私たちの肉で神様を喜ばせなくても良い。神様はそのことを私たちに要求してはおられない」、これは福音ではないでしょうか?私たちはキリストにあって、父なる神様のもとで完全に受け入れられているのです。神様から受け入れられるために、何もしなくて良いのです。そうしますと、私たちの心の深いところに、安心感がやってきます。するとどうなるでしょうか?今度は、私たちの心の中に、神様に仕えたいという思いがやってきます。それは外側からの「やりなさい」という律法ではなく、内側から「やらせてください」という自主的な声です。Ⅱコリント3:6、17 「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」アーメン。私たちに与えられた思いというのは、主の御霊から来るものです。肉ではありません。私たちの深い霊のところに、御霊が宿っておられます。この御霊が私たちに思いと願いを起させているのです。そして私たちが自由な中から、「このことをしよう」と願うのです。「しなさい」と外から言われたらイヤですが、自分自身の中から、「こうしよう」と自主的に決めたものには力があります。

 でも、一番、大事なのはこのことです。ローマ8:8「肉にある者は神を喜ばせることができません。」神様は、私たち自身の力でご自分を喜ばせることを要求していないということです。つまり、私たちの肉で、神に仕え、神の律法を守り、神の命令を守る責任はないということです。どうぞ、安心してください。その代わり何があるのでしょうか?イエス・キリストの御霊が、私たちの内にあって、私たちの力となってくださるのです。私たちを通して、イエス様が働いてくださるのです。このことは次回、学びたいと思います。でも、本日、ぜひ理解していただきたいことは、キリストにあって神様のもとに安らぐことです。肉によって、律法の要求を果たさなくても良いのです。私たちは一度死んで、キリストと新たに結ばれたものです。私たちの夫、私たちの主人は律法ではなく、イエス・キリストです。こんどはイエス・キリストが私たちの内にあって思いを与え、神のみこころを実現させてくださるのです。

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2010年5月16日 (日)

古き人の死      ローマ6:6-19

 私たちはイエス・キリストを信じたことによって、神のものとされました。同時に私たちは、キリストによって新しく生まれたので、聖徒であり神の子です。そういう意味で私たちはすでに聖いのです。でも、問題は私たちの実質、中味であります。私たちはキリストを信じたことによって、新しく生まれました。でも、これから神の子として成長していく必要があります。また、私たちは聖徒とされましたが、実質的に聖徒らしくなるように求められています。キリストが来られ復活したならば、完全な姿(栄化)になります。それまでは、私たちは日々、聖められる必要があるのです。このことを神学的には聖化と言います。信仰のDNAシリーズの聖化ということを4週にわたってお話ししたいと思います。

1.古い人の死

 聖化において最初に語られるべきテーマは「古い人の死」であります。古い人とは何でしょう?古い人とはアダムから受け継いだ罪を持っている、このからだのことです。私たちは罪を犯したから罪人なのではありません。罪人であるから罪を犯すのです。イエス・キリストを信じると、今まで犯したすべての罪が赦されます。キリストの血はすべての悪から私たちをきよめてくださるのです。しかし、どうでしょう?イエス様を信じて救われましたが、それ以降は罪を犯さなくなったでしょうか?「ああ、主よ、また私は罪を犯しました。イエス様、お赦しください。」アーメン。私たちは罪を告白するたびに、キリストの血によって赦されます。なぜなら、2000年前、イエス様は十字架ですべての罪の代価を支払ってくださったからです。私たちが罪を告白するのは、赦されるためというよりは、その赦しを適用するということです。一生分与えられている罪の赦しの銀行口座から、その時、犯した罪の代価が引き落とされるということです。その結果、私たちの良心がきよめられ、神様との交わりが回復します。でも、数時間後「ああ、主よ、また私は罪を犯しました。イエス様、お赦しください」と祈って、罪の赦しをいただきます。でも、それで良いでしょうか?もちろん、父なる神様はこれから先、永遠に私たちを赦してくださるでしょう。でも、父なる神様は「同じ罪を何度も犯し続けないで、神の子として成長するように」と願うのではないでしょうか?そのために、神様は十字架ですばらしいことを成してくださいました。ローマ6:6「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」アーメン。これはどういう意味でしょう?イエス・キリストは私たちの罪を赦すために十字架についてくださいました。このことによって、私たちに罪の赦しが与えられました。アーメンです。しかし、それだけではありません。ローマ6章を見ると、私たちもキリスト様と一緒に十字架につけられて、私たちの古い人が一緒に滅びたということがわかります。バプテスマ(洗礼)とはキリストと1つになるということです。イエス様を信じてバプテスマを受けたときに、私たちの古い人は一緒に、十字架につけられて死んだのです。

 私たちは古い人を、自分の手で十字架につけて殺すことはできません。私が手に金槌を持って自分を十字架に釘付けできるでしょうか?両足を釘付けできるでしょう。また、左手も釘付けできます。でも、この金槌を持った右手はどうするのでしょうか?この右手が罪を犯すでしょう。だから、自分を死なせることはできないのです。私はホーリネス教団の東京聖書学院の基礎科で学びました。いろんな集会で語られることは「古い自分に死になさい。古い自我に死になさい」でした。「死ね、死ね」と何べんも言われると「お前こそ、死ね!」と言いたくなります。なんだか、暗い部屋に閉じ込められて、「まだ罪があるだろう。吐け!吐け!」と、もぐら叩きにあっている感じがしました。私は学院の部屋にこもったり、中庭の樹木の下で、「私の古い自我を殺してください、殺してください」と何度も祈りました。残念ながら、きよめというのを体験しないまま卒業しました。その後、大川牧師がウォッチマン・ニーの『キリスト者の標準』という本を貸してくださいました。その本には、「あなたはすでに死んでいる」と書いてありました。どこかで聞いたような表現ですが、その本で分かったのです。「しかし、どのように死ぬことができるでしょうか?私たちの何人かは、この罪ある生命から逃れるため、ずいぶん努力したでしょうか、逃れる道はどこにあるのでしょうか?それは自分を殺そうと努力することではなく、神がキリストにあって私たちをすでに処理しておられるということを認識することにあります」と書いてありました。ローマ611「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」とあります。「思いなさい」はギリシャ語で、ロギゾマイといいますが、帳簿や会計に関して勘定することを意味します。私が事実、死んでいるので、神はそのように勘定せよと告げられるのです。そのように思う(認識する)ことによって、私たちが死ぬためではなく、現に私たちが死んでいるからです。アーメン。ですから、これは自分自身に対する信仰ではなく、キリストに対する信仰の問題です。私たちはキリストにあってすでに死んだのです。この事実を私たちは「アーメン」と認めることが唯一、必要なのです。皆さん、一人ひとりも、キリストを信じているなら、あなたの古い人は十字架に付けられてすでに死んだのです。「アーメン」と認めましょう。

 ローマ66「罪のからだが滅びて」の「滅び」はどういう意味でしょうか?これは「運営不能、無効となる」という意味です。この事は私たちの古い人とどのように関係しているのでしょうか?分かり易いたとえ話があります。政府がもし徹底的な禁酒運動を行なおうとすれば、どのような手段を取ればよいでしょうか。国中の酒類販売所へ行き、酒やビールやブランデーなどの瓶を1つ残らずこわしてしまえば、それで問題は解決するでしょうか。もちろんそうはいきません。その背後に醸造工場があれば、瓶だけ処理してもダメです。工場をそのままにしておけば、酒類の生産は継続し、恒久的な解放は望めないでしょう。飲酒問題を恒久的に解決しようと思うなら、国中の醸造工場、蒸溜装置が取り除かれなければなりません。私たちはその工場と言えます。そして、私たちが犯す罪はその生産物なのです。主イエスの血は、生産物、すなわち私たちの罪の問題を処理しました。すでに行なった罪の問題は、これで解決されます。私たちが犯した罪はすでに処理されました。しかし、私たち自身は、どのように処理されるべきでしょうか。神様は、生産されたものと同時に、それを製造する工場も一掃されたのです。つまり、神様は私たちの古い人を十字架で死なせることによって、罪の製造工場を叩き潰してくださったのです。ハレルヤ!製造工場はなくなったのですから、新たにお酒は生産されなくなりました。でも、どうでしょうか?国のどこかの倉庫や販売所にまだお酒があるかもしれません。各ご家庭に買いだめされているかもしれません。車のトランクにウィスキーが隠されているかもしれません。それはどういう意味でしょうか?古い人という罪の工場はなくなりましたが、私たちの魂や肉体に罪を犯す傾向がまだ残っているということです。これを肉と呼びます。肉の問題は次回、取り扱います。きょう、ぜひとも知ってもらいたいことは、罪を作り出す工場である、古い人は死んだということです。ハレルヤ!あとはどこかに残っている酒瓶だけです。それを一本、一本、壊していけば良いのです。これで、私たちに希望が与えられたのではないでしょうか?

 もう1つ別の方向から「古い人の死」について、お話したいと思います。ローマ人への手紙には「キリストにあって」「キリストと共に」「キリストに接ぎ合わされて」ということばが度々出てきます。私たちは「古い人は死にましたよ」と言われても、「いや、ちゃんとこのように生きているじゃないか」と思ってしまいます。今、私は56歳です。子供のころの記憶もあるし、学生時代、青年のときの記憶もちゃんとあります。クリスチャンになって確かに救われましたが、過去の自分もちゃんと記憶にあります。過去に犯した罪や過ちの記憶、人から受けた傷、あるいは罪の性質も残っています。クリスチャンになったからと言って、すべての傷が癒され、性格が変わったわけではありません。何が変わったのでしょうか?私たちは「キリストにあって」死んでいるのです。もし、私たちがキリストになければ、相変わらず、古いままの自分がそこにいるかもしれません。でも、私たちはキリストを信じたときに、キリストの内に置かれたのです。聖書は「キリストのうちに入るように」とは命じていません。私たちがキリストを信じたときに、神様ご自身が、私たちをキリストの内に入れてくださったのです。神様が私たちの古い人をキリストと共に十字架につけられたのです。するとどうなるのでしょうか?今度はキリストと共によみがえるのです。「きよめ」と言われる、いろんな体験があります。ある人は「○○月○○日に、キリストと共に死んだ」と言うかもしれません。しかし、そういう体験よりも、「神様は私をキリストの内に置かれた。これは真実である。だから、私はキリストの内に宿っていよう」と信仰に立つことが大事なのです。私たちはあまり、体験を求めるならば罠にはまります。そうではなく、キリストにあるならすでに死んだ者であり、また、キリストにあって、神に生きた者なのです。あなたの頭の中に、記憶があるかもしれません。心の傷やトラウマもあるかもしれません。でも、キリストにあって、あなたの古い人は一度死んで、今は新しい人になったのです。これを不連続の連続と言います。一度、あなたという古い人は死んだのです。

牛乳の殺菌方法をご存知でしょうか?牛乳の殺菌方法で最も採用されているのが、超高温短時間殺菌法です。これは、牛乳を120~150 ℃で2秒間位、殺菌処理する方法です。100 ℃を超す殺菌温度のため、滅菌といってもよいほど完全に細菌及び微生物を死滅させます。しかし、短時間のため牛乳固有の栄養成分などは、特別関係ないといわれています。牛乳に人格があるなら、数秒間の出来事だったので、一度死んだことを覚えていないのです。私たちも、キリスト様を信じたとき、「うっ」と数秒間、古い人が死んだのです。そして、その後、キリストと共によみがえらされたのです。まだ、少し「罪の成分」が体の中に残っているかもしれません。しかし、罪を作り出す本体が死んだのです。いわゆる罪の工場が破壊されたのです。Ⅱコリント5:17も同じことを述べています。Ⅱコリント5:17「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」アーメン。神様は古い創造をキリストの十字架によって切り離されました。それは復活により、キリストにあって新しい創造をもたらすためです。私たちは生まれつきの命が変化したのではありません。全然別の命、神様からの全く新しい命が私たちのものとなったのです。

 

2.神にささげよ

 使徒パウロは一度死んだ私たちに何と命じているでしょうか?ローマ6:12-13「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」アーメン。「ささげる」ということばは、13から19節の間に、5回記されています。「ささげる」とはどういう意味でしょうか?献身という意味でしょうか?確かに献身ということですが、13節に「死者の中から生かされた者として」と書かれています。これは「古い人」の属している、生まれつきの賜物、生まれつきの知恵や力をささげるということではありません。私たちが神様にささげるものは、死から復活へと移ったものだけをささげるということです。私たちのからだは、私たちのものではありません。このからだは神様のものなのです。では、私たちが持っていた生まれつきの賜物や、生まれつきの知恵や力はどうなったのでしょうか?これも、やはり十字架の死を経なければなりません。神様は死によって古い創造に属するものをすべて切り離してくださいました。ですから、今、持っている賜物や知恵や力すらも、神さまのために、聖別されたのです。私はクリスチャンになる前、この体とその能力を罪の生活のためにささげて生きてきました。高校のときからマージャンやパチンコをしていました。酒やタバコは、中毒にはなりませんでしたが、たしなんでいました。詳しくは申し上げることはできませんが、男性の特有の罪も犯しました。しかし、洗礼を受けてから、そういうものがイヤになり、ぴったりとやめることができました。なぜでしょう?「私は神様のために、福音のために生きたい」と願ったからです。もし、私が、信仰が篤いうちに、献身をしなかったならば、どうなっていたか分かりません。ですから、ただ、そういうものをやめるだけだと誘惑に弱いと思います。積極的に、生まれ変わった私たちのからだとその能力を神様にささげるときに、罪からの誘惑が半減するのではないかと思います。

 ローマ6章の後半には二種類の奴隷について書かれています。1つは罪の奴隷です。もう1つは義の奴隷です。以前の私たちは罪の奴隷でした。なぜなら、罪のために手足をささげて生きてきたからです。「気持ちいい!これが私の生きる道だ」と何の罪責感もなく生きてきました。でも、キリスト様を信じてから、ぐらぐらぐらと、揺らされ、180度、変わってしまいました。180度、方向が変わるということはどういうことでしょうか?これまで右に見えていたものが左に見え、これまで左に見えていたものが右に見えるということです。これを回心、英語でconversionと言います。conversionとは、転換、転化、改造という意味です。私たちクリスチャンは、聖霊によって転換された者であります。パウロは罪の奴隷になるか、あるいは義の奴隷になるか2つに1つしかないと言います。神の奴隷なのか、あるいは悪魔の奴隷なのかということです。自然界には真空というものがないように、ここでも中間というものがありません。罪から解放されて神の奴隷になるか、罪の奴隷となって永遠の滅びに行くか2つに1つです。19節には「その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい」と書かれています。聖潔というのはホーリネスという意味です。ウォッチマン・ニーは『キリスト者の標準』でこのように教えています。聖潔とは何でしょうか?多くの人は、内にある何か悪いものを根絶することによって聖くなると考えます。しかしそうではありません。私たちは、神のために聖別されることによってきよくなるのです。旧約時代には、ある人が全く神のものとなるために選ばれた場合、その人は公に油を注がれました。そして「聖別された」と言われたのです。それ以後、彼は、神のために区別されたものとみなされました。同様に動物や物体さえもきよめられることができました。それは、それらのものの内にある悪しきものを根絶することによるのではなく、主のため全面的に区別されることによってでした。ヘブル語の意味するホーリネスは、このように区別された何ものかを指しています。私は自己を完全にキリストにささげます。それがホーリネスです。アーメン。

 ある人たちは「私は牧師や伝道者になるために、自分自身をささげます」と言うかもしれません。しかし、これはそういう意味ではありません。自分自身を神にささげるということは、自分が完全に神様のものであるということを承認することです。もやは、私は自分のための人生ではなく、神のための人生であると認めることです。これがキリスト者の標準であります。残念ながら、そういう意味で自分を神にささげなかった人が、牧師や伝道者になっている場合があります。そうなると、人々や神様を自分のために利用することになるでしょう。私たちがこのようにして、日曜日、神の前に出て礼拝をささげています。これはありがたいお話を聞くためではありません。ま、そのように思っておられる方には感謝しますが、そのためではありません。日曜日のこの時間をささげるということは、1週間の初穂、最初の時間をささげているということです。みなさんが、この場において献金をささげますが、それは自分のもっとも大切なものをささげているのです。ある人は「お金は自分のいのちの次に大切のものである」と言いました。ですから、信仰がなければ1円たりともささげる気持ちにはならないでしょう。しかし、本当の礼拝は時間やお金だけではありません。あなた自身を神様の御前にささげることなのです。Ⅰコリント6:19-20「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」アーメン。罪から贖われた私たちが、罪から離れ、神の前で聖い生き方ができる一番の秘訣をご存知でしょうか?それは、神様に自分をささげるということです。死者の中から生かされた者として、私たち自身とその手足を義の器として神にささげるということです。そうすれば、世と悪魔の攻撃から解放されるでしょう。もちろん、全く解放されるという訳ではありません。でも、「自分自身は神のものであり、自分を神様のためにささげて生きるんだ」としたら、優先順位ががらっと変わるでしょう。趣味や楽しみを全部捨てろという意味ではありません。休んだり、くつろいだりすることがあって良いのです。でも、そういう時間が心と体を休め、また、次の目標に向かって生きるための力となるのです。

私はクリスチャンになる前、「人間は何のために生きるんだろう」と午前零時くらいまで、よく考えていました。そして、東京FMのジェットストリームを聞きながら寝ました。「ロンリー、アイ、ミスター、ロンリー」の淋しい音楽がテーマソングです。7,8年くらい前、10巻1セットのジェットストリームのCDを買いました。聞いても、昔のように感動しないのです。なぜでしょう?心がもう空虚じゃないからです。私はキリストを信じて自分をささげてから、ぼーっと考えるとか、暇をもて遊ぶということがなくなりました。神様のために生きるということが分かったからです。最後にこのことばを引用いたします。ローマ6:22-23「しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」報酬というのは労働に対するサラリーです。給料日が来ると本当に嬉しいものです。人生において罪を犯していただくサラリーが死だとしたら、ちっとも嬉しくありません。しかし、神様が下さる賜物があります。賜物はサラリーと違って、労働なしにただで与えられるものです。神様は私たちの行いに関係なく、イエス様を信じる人に永遠の命を与えてくださるのです。さらに、神さまは永遠の命だけではなく、この世において罪からの解放と、聖潔に至る実を与えてくださるのです。アーメン。

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2010年5月 9日 (日)

弟子の再生     マタイ28:18-20

 マタイ28章のこの命令は、マルコ16章の大宣教命令と並んで、クリスチャンに与えられた最も重要な命令です。なぜなら、イエス様が天にお帰りになる直前に弟子たちに与えた命令だからです。人間も死ぬ前に遺言を残すとしたら、「これだけは伝えておきたい」という重要なものではないでしょうか。しかし、この2つの命令を比較してみますと、2つは微妙に違うというか、互いに補いあっています。しかし、マタイ28章から語るときナーバスというか、鬱的になります。なぜなら、できていないからです。できれば、パスしたいのですが、ここを飛ばしてしまうなら、キリストの弟子に関するDNAは完成しません。ですから、一大奮起して、マタイ28章から「弟子の再生」ということを特に学びたいと思います。

1.弟子作り大命令とは

前回も話しましたが、イエス様が公生涯でなされた奉仕には3つありました。福音宣教、病の癒しと悪霊追い出し、そして教えるということでした。さらに、イエス様はこれらのことを弟子たちが実際に行なえるようにそばに置いて訓練しました。最後、天にお帰りになるとき、大切な命令を弟子たちに残しました。マルコ16章には、福音宣教、病の癒しと悪霊追い出しの2つの命令が記されています。では、「マタイ28章は?」というと、「教えよ」という命令です。イエス様は公生涯において教えるというときは、群衆ではなく、おもに弟子たちを教えました。ですから、教えることと弟子は深い関係にあります。その証拠に、マタイ2819「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と書いてあります。その後に、何が書いてあるのでしょうか?「そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」です。ちゃんと最後に「教えなさい」と書かれています。つまり、「イエス様が命じておいたことを守るように彼らを教えて、弟子としなさいよ」ということです。何度も言いますが、イエス様の私たちに対する命令は、福音宣教、病の癒しと悪霊追い出し、そして教えるということです。でも、教えるということはキリストの弟子を作ることが目的であります。

ということで、本日は、「弟子を作る」とはどういうことなのかということを学びたいと思います。私たちはすでに、弟子に関しては3回学びました。1回目は、弟子とは自分の十字架を負ってイエス様に従う者だということでした。2回目は、弟子として召された目的はイエス様の使命を受け継ぐということでした。3回目は一人前の弟子になるには賜物と人格が整えられる必要があるということを学びました。そして4回目は「弟子を作る」ということです。4回目は何が違うのでしょうか?何が新たなこととして付け加えられているのでしょうか?そうです。自分がキリストの弟子になるだけではなく、今度は、自分が新たに弟子を作るということです。表現を換えるならば、弟子の再生産であります。まず自分がキリストの弟子になります。そして、別な人を新たにキリストの弟子にします。そのとき、その新しい弟子に大切なことを申し送る必要があります。何でしょう?何を申し送るのでしょうか?そうです。「あなたも新しい弟子を作りなさいよ」ということです。でも、そのためには順番がありました。第一行くことです。これには関係作りと福音宣教が含まれています。第二はバプテスマを授けることです。バステスマは救いのゴールです。信じた人はバプテスマを受けるのです。第三は、キリストが命じたことを守るように教えるということです。でも、どうでしょうか?多くのキリスト教会は、福音宣教し、バステスマ(洗礼)を施し、何らかのことを教えるかもしれません。でも、何かが足りないのです。何が足りないのでしょうか?その人をキリストの弟子とし、その人が新しい弟子を作るように教えるところまで行かないのです。再生産できる弟子を養成しないので、回転していかないのです。「自分が救われる」あるいは「自分が弟子になる」でおしまいになってしまいます。

今から25年、アラバマの教会が、日本人6名を飛行機代と2ヶ月間の滞在費を出して招いてくれました。6名の中に私もおりまして、アメリカの200人の大学生と一緒に、フロリダのパナマシティの海岸か2月間弟子訓練プログラムを受けました。そこで教えられたことは、このマタイ28章の弟子を作るということでした。度肝を抜かれたのが、弟子を作るということがどんなにパワーがあるかということでした。たとえば、人口一万人の島に一人の宣教師が行って福音を宣べ伝えるとします。一年で一人の回心者を得るという率でいくならば、島全体の人がクリスチャンになるまで何年かかるでしょうか?1万年かかります。でも、宣教師はそんなに長生きできないので、途中でストップするでしょう。では、1年に一人の弟子を作ります。そして、その人に「あなたもこの1年に新たな弟子を作りなさい。そして、次の人にも弟子を作れと命じるのですよ」と教えます。1年目は宣教師と一人の弟子ですから2人です。2年目は4人、3年目は8人、4年目は16人、5年目は32人、…10年目は1024人、11年目は2048人、12年目は4096人、13年目は8192人、14年目には16千になりますので、島全体に行き渡ることになります。このことを世界に向けて、続けて行くと、33年目には80億人になります。前者は一人ずつ救うというのですから、足し算的な増え方です。後者は弟子が弟子を作るというのですから、倍加的な増え方です。これを世の中では、ネズミ算と言います。聖書にそんなことが書いてあるのでしょうか?あります。ペンテコステの日、一日で3000人救われました。それから迫害が起こりました。色んな問題も起こりましたが解決しました。使徒67「弟子の数が非常にふえて行った」とありますが、英語の聖書は、multiplyとなっています。multiplyとは、掛ける、掛け合わせるという意味です。初代教会は、足し算な増え方ではなく、倍、倍に増えていったということを示唆しています。

使徒パウロは、コロサイの人たちにこのように書き送っています。コロサイ16「この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。」パウロは「福音が世界中に行きわたった」と言いました。さらに、コロサイ123「この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられている」と言いました。世界中に行っただけではなく、すべての被造物が福音を聞いたと言っています。「パウロ先生、それはオーバーじゃないの?」と反論したくなります。パウロはどうしてそんなことが言えたのでしょうか?パウロだけが福音を宣べ伝えたでしたら、そのようなことは不可能です。そうではありません。パウロと他の使徒たちはキリストの弟子を作ったのです。そして、「あなたも新しい弟子を作るのですよ」と命じたのです。そのようにして福音が全世界に広がっていったのです。でも、実際、その頃はまだ全世界に広がっていなかったかもしれません。でも、パウロは「イエス様が命じたように弟子を作っていくなら、福音は世界の果まで届いたと同じだ」とそのように確信していたのです。実際に、コロサイの教会はパウロが開拓したのではありません。パウロがエペソにいた時、そこから小アジアの人たちが福音を聞いて、自分たちのところに持ち帰ったのです。私はこの原則を25年前、アメリカで学びました。「あーこれだな!これしかない!」と帰ってきてから、大川牧師に告げました。大川牧師は「そんなことは君よりも知っているよ」というようなお顔をしていました。私はそれからことあるごとに、「弟子作り」がいかに重要か教会で証しました。かなり、私は生意気だったんでしょうね。翌年、この亀有教会から招聘がありました。大川牧師は「ぜひ、行ってみなさい」と言われました。おそらく、先生は、心の中で「そんなに言うなら、君自身が、実際にやってみたら」と思っていたのでしょう。私は座間キリスト教会を追い出されたのか、それとも派遣されたのか、どちらなのか、今だに分かりません。しかし、私には負い目があります。アメリカの教会が、その当時、一人当たりに60万円を投資して「弟子作り」の大切さを教えてくれたからです。どちらにしても、マタイ28章はイエス様が私たちに与えた、最大の命令の1つであることは確かです。私たちが弟子を作るならば、ものすごく可能性があるのではないでしょうか。

2.弟子作り大命令を果たす

では、イエス様がお与えになった弟子作り大命令をどのように果たすのでしょうか?さきほどの話の続きになります。私は教会に赴任してから、一生懸命、伝道牧会しました。伝道集会、コンサート、訪問伝道、家庭集会、祈祷会、早天、徹夜祈祷会、断食祈祷、ありとあらゆることをやりました。5年くらいで礼拝が倍の56名くらいになりました。私は弟子作りのことはすっかり忘れ、人集めだけを考えていました。私は座間キリスト教会でやっていた同じことを、この亀有教会でも再現していたのです。それまでの、私の奉仕の1つはカウンターで、礼拝人数を数えることでした。同じように亀有でも、礼拝に来る人の頭の数を数えていたのです。私のゴールは人々が洗礼を受けることであり、あとは礼拝に忠実に出席することでした。しかし、1991年、韓国のサラン教会の見学に行きました。その直前、サラン教会の玉漢欽師の「信徒を目覚めさせよう」というメッセージテープを聞きました。そのとき、体全体が「ぐらぐらぐらー」と揺らされました。「あー、これだった。私はこれを忘れていた!」と気づかされました。それから小牧者訓練会に所属し、弟子訓練をみっちり学びました。その頃、日本に、弟子訓練とディボーションの大ブームが起こりました。しかし、うまくいきませんでした。弟子訓練を教室で教えるために、頭では分かっていても、遣わされた現場で行なうことができなかったのです。私は、その当時のリーダーをずいぶん傷つけました。「あなたが人々を救って、新たな群を作りなさい」と言いました。石塚兄姉や柏姉妹に心からお詫びしたします。もう1つ失敗した理由は、韓国スタイルの弟子訓練をそのまま日本に持ってきたからです。その次にやったのがセルチャーチです。小笠原先生に感化され1996年からセルをスタートしました。従来の組織や集会をぜんぶやめて、セル一本槍にしました。セルは14年間行ないました。過去形になっています。最初は10くらいのセルがありましたが、現在活動しているのは4つくらいだと思います。あるいは3つかもしれません。今年の2月、小笠原先生を久しぶりに当教会にお招きしました。ビジョンについて尊い教えをいただきました。その直後の2月9日ですが、私は小笠原先生とJCMNの津倉さん、月井先生にこのようなメールを送りました。「小生、お祈りした結果、今後、当教会がセルチャーチと名乗ることをやめて、新約聖書の教会を目指すということに変更しました。セルチャーチということになると、セルグループとか、セルリーダー、あるいはセル増殖となり、挫折感と閉塞感に陥り、信仰がなくなります。そのかわり、新約聖書の教会を作るということにします。もちろん、今後、皆さんがよろしければ、セルチャーチ・ネットワークに所属させていただきます」。ということは、ある意味で、これは失敗宣言かもしれません。

 私は今も、セルチャーチ・ネットワークに属させていただいております。関東コーチングのコーディネーターまでやらされています。もとはといえば、石原先生が、斯波先生の代わりに私を入れてくださったのですね。こんなプライベートなことを申し上げて良いのか分かりません。では、今はどうなったのでしょうか?みなさん、あれも失敗、これも失敗、どれも失敗となると、もうモチベーションが上がりません。「どうせ、またやってもダメかもなー」という恐れがあるので、教会員の皆さんに強くアピールすることができないのです。相撲で言うなら「死に体」であります。でも、不思議なことにまた、熱意がわいてきました。それは、新約聖書の教会を目指すということです。なぜ、こんな風になったかと申しますと、数年前から起き上がっている、教会の単立化の問題です。役員の皆さんが「単立になるのが目的ではなく、単立になってどうしたいのか?どういう教会をめざすのか、ビジョンの方が大切でしょう」と言ってくれました。それで、祈りに祈り、29日のメールになったわけです。セルチャーチと前面に出さないで、新約聖書の教会を作る。これだったら、どこからも文句が出ないと思います。では、「どういうものが新約聖書の教会なのか?」という質問が次に出てくると思います。そのために、備えたのが今、語っている「信仰の12のDNA」なのであります。これは、私の人生のというか、伝道牧会の集大成であります。私はこれに命を賭けているのであります。正直に言って、いろんなところからのパクリがあります。香港のベン・ウォン先生は面白いことをおっしゃいました。「1つの教会を丸ごと真似るのを模倣と言うが、たくさんの教会の部分、部分を取り入れることをリサーチと言う」と。アーメンだと思います。私もこれまで色んな所へ行き、たくさんのセミナーを受けてきましたが、無駄ではないということです。私の賜物は学者が研究したことを、分かり易い形に変えることです。私のIQがあまり高くないことを親に感謝しています。でも、私は複雑で込み入った内容を分かり易く作り変える能力があります。なぜなら、自分が複雑なものを理解できないからです。私の頭脳に合わせたものを、私はみなさんに提供します。するとどうなるでしょう?平均的な頭脳の方々が、「ああ、そういうことですね」と理解してくれます。アーメン。

 新約聖書の教会の話題に戻りますが、なぜ、初代教会には力があたったのでしょうか?正確に言うなら、力ではなくDNA、増殖する生命力があったのです。逆に言うなら何故、教会は増殖する生命力を失ったのでしょうか?教会が4世紀、ローマの国教になりました。その後、聖書から少しずつ離れて、キリスト教は宗教になりました。組織と制度と儀式が中心になったのです。教会は聖職者と一般信徒を分けました。新約聖書の時代は信徒であったピリポも洗礼を授けました。聖餐式は今のような硬いものではなく、愛餐と結びついていました。会議や委員会というものはほとんどなく、聖霊によって促された人たちが奉仕していました。みんなが、かしらなるキリストに聞いて、それぞれがいろんな奉仕をしていたのです。会社や政治のようなトップダウンではありません。宗教改革者マルチンルターは万人祭司と聖書の権威を説きました。神学的にはそうなったかもしれませんが、実際にはローマカトリックのものをたくさん受け継いでいます。「信徒が勝手に教えたら間違うだろうし、勝手に奉仕したら教会の秩序が乱れだろう」。これが、教団教派の考えです。教会の歴史が悪いといっているのではありません。むしろ、教会は歴史とともに、初代教会にあったものを回復しているのではないかと思います。たとえば、信仰義認はマルチンルターが発明したのではありません。パウロがちゃんと新約聖書で語っていたことです。聖化もジョンウェスレーが発明したのではありません。新約聖書にちゃんと書いてあります。癒しや聖霊の働きもペンテコステの人たちが発明したのではありません。新約聖書にちゃんと書いてあります。「今はセルチャーチ、共同体だ」と言うけれど、それも新約聖書にちゃんと書いてあります。教会がこの世の学問や政治体制、価値観を入れたために、聖書からはなれてしまったのです。

 という訳で、私はこのマタイ28章の弟子作り大命令を忘れたわけではありません。セルという共同体ももちろん忘れたわけではありません。また、癒しや解放、カウンセリングいろんなものも学びました。でも、それらを統合して「信仰の12のDNA」を作っています。12のテーマにはそれぞれ、従来の教会にはないDNA、増殖する命が入っていると信じます。私はこれによって日本の教会にブレイクスルーが起こることを願っています。そのために、『信仰の12のDNA』という本も出そうと思います。そのための、ご献金をお願い致します。でも、今はインタネットの時代なので、「タダで配布しようかなー」とも思っています。私の牧会人生あと10年あるでしょうか?10年過ぎると、アンクル鈴木になってしまうかもしれません。私は残りの10年を美しく燃えて終りたいのです。12のDNAを伝授してから、天国に行きたいのです。このテーマでする、礼拝での説教は1年間ですが、これをこんどは実践するほうにエネルギーを回していきたいと思います。絵に描いた餅で終りたくないからです。信仰のDNAを実践することが、弟子の再生につながると信じています。最後にもう一度、マタイ28章を見たいと思います。マタイ2819「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と書かれています。これは何度も申し上げますが、弟子作り大命令です。でも、19節に「それゆえ」とあるので、前の節とつながっているということです。18節には、イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえに」と続いています。ということは、イエス様が天において地においても、いっさいの権威が与えられていることが、この使命を果たす、大きな力の源だということです。神様は私たちに命令を与えるときには、必ず、その保証も同時に与えるということです。つまり、私たちが行って、あらゆる国の人々を弟子とするときに、イエス様のすべての権威が与えられるということです。実はもう1つすばらしい保証が、この大命令の後にもあります。それは20節です。「…彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」イエス様は世の終わりまで私たちと共にいて、弟子をつくることができるように助けてくださるということです。つまり、弟子作り大命令の前と後にはすばらしい約束、資源となるものがあるということです。私たちはどうしても、自分の実力や、人間的なものを見てしまいます。そして、「難しい、できない」と失望落胆してしまいます。そうではなく、イエス様が一番願っていることなのですから、できないわけがないのです。問題は、絶えず、私たちが弟子作り大命令が達成できるように、目標を定めるということです。つまり、人が救われただけで満足せず、その人が弟子として成長し、さらには新しい弟子を作ることができるまで助けながら、見届ける必要があるということです。サラン教会のサラン教会の玉漢欽師が「これが私の弟子作りです」とおっしゃっていた聖書箇所を引用して終えたいと思います。コロサイ128,29「私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。」弟子作りには、労苦と奮闘が伴うけれど、そこにキリストの力も力強く働くということです。

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2010年5月 2日 (日)

整えられる       エペソ4:7-16

 整えられるとは、いわばアドバンストコース、上級コースであります。スキー場に行きますと、なだらかなゲレンデがあります。それは初心者コースです。さらにリフトを上っていくならば、傾斜がきつくなり、ところどころにこぶがあります。それは、上級者のためのコースです。これまで私たちが学んで来たことは、初心者コースです。「自分の好きなこと、得意なものをやってみるように」と勧めてきました。しかし、あるところまで行くと私たちは整えられる必要があります。そうでないと、もっと上のコースに行くことができません。では、整えられるとはどういう意味でしょうか?ギリシャ語には2つの意味があります。1つは装備する、equippingという意味です。兵士にたとえるなら、武器を与え、その武器を十分に使えるように訓練するということです。そして、もう1つは整理整頓するという意味があります。これは網を修繕するという意味もあります。私たちの人格的な欠点を修復し、完全な人格にする、perfectingということです。イエス様も山上の説教で、「天の父が完全なように、完全でありなさい」と言われました。

1.武器を装備する

 装備するとはどういう意味でしょうか?さきほどは、「武器を持たせて、その武器を十分に使えるように訓練する」と言いました。「たとえが、戦争ではちょっと?」と文句が出るかもしれません。表現を換えるならば、スキル、技術面をのばすということです。初心者コースでは、自分の好きなもの、得意なもの、「これが召されているんじゃないだろうか?」ということをやってきました。でも、次の段階は、それらをフォーカスする必要があります。フォーカスとは、焦点をしぼるとか、集中するということです。つまり、「自分が本当にやりたいこと、専門的にやりたいことは何か?」ということです。私たちのこの地上での人生はそんなに長くはありません。「あれもやって、これもやって」となると、人生が終るとき、「何やってきたのかなー?」と悩むかもしれません。使徒パウロは「ただ、この一事に励んでいます」「目標を目指して一心に走っています」と言いました。そして、パウロは最後に、Ⅱテモテ4:7「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました」と言いました。ということは、私たちは、走るためには明確なゴールを持っていなければならないということです。ただ、やみくもに走っているのは初心者コースの人であります。オリンピックでは、強化コースというのがあります。オリンピックに出られそうな人たちをどこかに集めて、彼らを訓練します。戦争ではブートキャンプと言います。少し前に、ビリーズブートキャンプという短期集中型のエクササイズがありました。しかし、本当は、新兵に対して行われる教育・訓練プログラムです。だいたい、6週間くらいの特別訓練です。とにかく、聖徒(セイント)を神の国で戦える聖徒に訓練するということです。みなさんは、今のまま、マイペースで良いでしょうか?それとも、「ああ、整えられたい」と思うでしょうか?

 私たちが戦うことができるために、神様は霊的賜物を与えておられます。これは神様がくださる能力、武器であります。エペソ4:7「しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました」とあります。この賜物とは具体的に何でしょうか?それは、Ⅰコリント12章にあります御霊の賜物です。これはクリスチャンが神様の奉仕ができるように、御霊が与える賜物です。そこには9つあげられています。知恵のことば、知識のことば、信仰、いやし、奇蹟、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力です。ローマ12章にも御霊の賜物がありました。どこが違うのでしょうか?Ⅰコリント12章の賜物は、キリストのからだなる教会全体に与えられるものです。つまり、聖霊が教会を見渡して、聖霊が「今、この人に」と思う人に与えます。聖霊が意志したときに現れるのであって、個人が常に所有しているという訳ではありません。現れるときもあれば、現れないときもあるということです。ですから、Ⅰコリント12:11「みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださる」と書いてあります。私は、病のいやしのために用いられるときがあります。手を置いて祈りますが、癒されるときもあれば、癒されないときもあります。私の願いとしては「癒されるように」という強い思いがあります。しかし、癒されない場合もあります。足腰が痛いといのは、80%は癒されると信じます。でも、病気や障害の場合は、正直、30%ぐらいではないかと思います。先日も、尾山先生が親知らずを抜いたことが原因で、あごの神経が麻痺していました。私がお祈りしました。あとから「先生、ぜんぜん直っていないよ!」言われました。以前だったら、落ち込んでいたでしょうが、御霊に主権があるということを知ってからは、「ああ、そうか残念だなー」くらいしか思わなくなりました。この賜物は、いくら私たちが力んでもダメなのです。でも、現れるときには、ちゃんと現れます。聖霊が「ああ、この人は忠実な人だなー」と認めてくだされば、もっと現れるかもしれません。この賜物が現れるためには、信仰が必要です。

 また、私たちは「自分がこれをもって奉仕する」というものがあったら、それをもっと鍛える必要があります。もっと専門的に学んで、スキル(道具)を身につけるということです。プロレスを見てよく思うのですが、彼らには必殺技というのがあります。このわざを使えば相手を倒すことができる。彼らは、そういう必殺技を1つ以上持っています。力道山には空手チョップ、ジャイアント馬場は16文キック、猪木ですと卍固めがありました。他に四の字固め、ブレーンバスタ、ラリアート、パイルドライバー…。何を言っているのか、横道にそれました。えーと、必殺技です。つまり、自分の得意技です。あなたの得意技、専門とするものは何でしょう?私たちは1つ自信を持つなら、あともう1つ、あともう1つと増やしていけるのではないでしょうか?ある牧師は、「私は伝道はできるけど、牧会はできないんだよな」とはっきり言います。しかし、それはハナから諦めていると思います。伝道を極めると、救われた人を牧会したくなるでしょう。救われた人が自分と同じように伝道をする人にできるはずです。多くの人たちは、「Aがだめだったら、Bにしょう」とAを捨ててしまいます。「統合」integrateということばがあります。いろんな要素や部分を統合する、まとめるということです。私は説教することが得意といえば得意です。でも、カウンセリングにとても興味があります。しかし、人の話を聞くのがあまり得意ではありません。では説教とカウンセリングを統合したらどうでしょう?カウンセリング的な説教をすることができるでしょう。つまり、そういう問題が起こる前に、予防的に教えることができます。「このようにしたら、こういう問題が起こらないのですよ」と教えることができます。イエス様はペテロに「人間を取る漁師にしてあげよう」と言いました。ペテロは魚を取ることはプロでした。では、人間を取るのとどう共通しているのでしょうか?魚の場合は、魚の習性を知る必要があります。「網なのか、釣り竿を使うのか?どんな魚を取りたいのか?どんなしかけか?どんな餌か?時間帯はいつなのか?」いろいろ調べ、道具を選択します。人間も同じであります。ターゲットにするのは子どもか、若者か、それとも年配者か?主婦かビジネスマンかそれとも浮浪者か?山の手か下町か、ブルーカラーかホワイトカラーか?まず、自分が得意で、自分が持っている資源(リソース)で始めるでしょう。だんだん、それが広がっていくかもしれません。ですから、自分の得意なものをのばし、専門化する必要があります。そのためには、たえず研究し、そのための訓練を受ける必要があります。

 ゴリアテが、イスラエル軍に「おれと勝負し、おれを打ち殺すなら、おれたちはおまえらの奴隷になる。もし、おれが勝って、それいつを殺せば、おまえらがおれたちの奴隷となり、おれたちに仕えるのだ。ひとりをよこせ、勝負しよう」と挑発しました。ガチンコというかタイマン勝負です。相手は3メートルもある巨人ゴリアテ、戦いのプロです。イスラエルの兵士たちは震え上がりました。そのとき、少年ダビデが、お兄さんのために弁当を届けにやってきました。ダビデはそれを聞いて「このしもべが、あのペリシテ人と戦いましょう」と言いました。サウル王は、ダビデに自分のよろいかぶとを着させました。頭には青銅のかぶとをかぶらせ、身にはよろいをつけさせました。ダビデはそれを着て、思い切って歩いてみました。ダビデは「こんなものを着けては、歩くこともできません。慣れていないからです」と言って、それを脱ぎました。川からなめらかな石を5つ選び、それを袋にいれました。そして、いつも自分が愛用していた石投げを手にして向かいました。ゴリアテはダビデを見下ろして「おれは犬なのか?」とダビデをのろいました。ダビデはたった一発で巨人ゴリアテを倒しました。彼が放った石が眉に食い込んだのです。これと同じです。借り物ではダメだということです。自分がいつも使って、使い慣れている武器。そういう武器を身につける必要があります。そのためには、たえず研究し、実践し、自らを訓練しなければなりません。どうぞ、自分の目指すものは何か?何に時間とエネルギーを費やすのか?そして、自分は何をもって神様に仕えるのか?神様に聞きましょう。

2.人格的に整えられる

 もう1つ、「整える」は、整理整頓するという意味があります。これは網を修繕するという意味もあります。私たちの人格的な欠点を修復し、完全な人格にする、perfectingということです。第一のポイントでは武器を装備し、能力を伸ばすというところにポイントがあてられました。しかし、もう1つ重要なことがあります。それは人格的に整えられるということです。「え?なんでそんなものが必要なんですか?力があれば、能力があればそれで良いじゃないですか」と言うかもしれません。実はこのことは私が最も課題にしていたことです。私は朝青龍関が好きです。何故でしょう?彼は強いからです。でも、日本では相撲は国技なので、強いだけではだめで、横綱の品格というのがあるようです。「横綱の品格とは何か?相撲もプロレスと同じで強ければ良いだろう」と、私はテレビに向かってよく言います。「何、やくみつるだ、だまって漫画かいていろ!」と言いたくなります。なぜ、ムカツクのでしょうか?それは、私が責められているような気がするからです。朝青龍とオーバーラップするところがあるからかもしれません。私は救われて1年後、東京聖書学院に行きました。確か、木曜日の午後でしたが、川越で伝道実習がありました。私たちが商店街でチラシをくばって、喫茶店の2階で伝道集会をしました。そのとき、私が救いの証をすることになっていました。集会前、上級生の渡辺姉妹が私のとなりで祈ってくれました。「神様、どうか鈴木兄弟の唇をきよめてください。どうか、その唇をきよめてお用いください。どうか鈴木兄弟の唇を、どうかきよめてください」。「やかましい!これから証をしようとする時、あてこすり的な祈りはするな!テンション下がるだろうが!」と思いました。そんなことで、きよめを主張する、ホーリネス教団にはちょっと穏やかでないものがあります。しかし、それから10年以上たってからでしょうか?大和キリスト教会にアルゼンチンからソーサーという伝道者が来られて一人ひとりに預言してくれました。みんなバタン、バタンと倒れて、それから先生が耳元で預言してくれました。何百人もいるので、彼は私がだれか知る由もないでしょう。ソーサー先生は「あなたがもっと整えられるなら、あなたを通して、もっと大勢の人たちが救われるでしょう」と言いました。「うぁー、当たっているなー」と思いました。

 神様がその人を用いるために、必ずその人を訓練するということが聖書を見るとよくわかります。困難や試練を与えて、その人の自我を砕き、神の人として整えることがわかります。モーセは40歳のとき、「この私がイスラエルの民をエジプトから救い出してやる」と思いました。たまたま、喧嘩の仲裁に入り、エジプト人を打って死なせました。そのことがパロ王の耳に入り、モーセはエジプトをのがれ、ミデヤンの荒野に住みました。なんとそこで、40年間も羊を追って暮らし、気がついたら80歳になっていました。革命を起すのには年が取りすぎています。モーセが神様から「行け」といわれたとき、「私は一体、何者なのでしょう」と言いました。しかし、主はそのモーセを指導者に立てて、100万人以上いるイスラエルの民をエジプトから脱出させたのです。ヤコブはどうだったでしょう?彼はお兄さんとお父さんを騙して、長子の権利を奪い取りました。ヤコブの性格は、まさしく「押しのける者」でありました。彼は父のもとから逃げ、おじのラバンのもとに身をよせました。ヤコブが「押しのける者」であるなら、ラバンは「押しのけるチャンピオン」でした。神様はあえてそういう人のところにヤコブを送ったのです。ヤコブは何度も約束をくつがえされました。そして、20年もただ働きをさせられました。しかし、ヤボクの渡しで、天使と格闘(レスリング)しました。彼は「私を祝福してくださらなければ、離しません!」と言いました。天使は勝てないのを知り、ヤコブのつがい(腿の付け根)を打ちました。彼は完全にくだかれたのです。そして、「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ」と言われました。名前が、「神の皇太子」に変わったのです。旧訳聖書の最大の預言者エリヤはどうだったでしょうか?彼は天から火を下して、450人のバアルの預言者にかったということで有名です。彼は偶像崇拝をやめないアハブ王に「これから3年は雨降らず、露も降りない」と言いました。エリヤは命を狙われ、ケリテ川のほとりに身を隠していました。すると、カラスが朝と夕に、パンと肉を運んで来てくれました。人間がカラスから養われたのです。その後、ケリテ川が枯れたので、ツァレファテのやもめのところに行きました。そのやもめと子どもは最後の麦粉でパンを作り、死のうと思っていたところです。ところが、エリヤは「小さなパン菓子を作り、私のところに持ってきなさい」と命じました。「この、人でなし」と叫ぶかもしれません。でも、どうでしょう。地の上に雨が降るまで、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなったのです。エリヤは3年間、最もあてにならないカラスと、最も力のないやもめから養われました。これが、整えられるということです。エリヤはこのレッスンを通された後、天から火を下して、バアルやアシュラの預言者850人を倒すのです。私たちは華々しいところに目が行きがちでありますが、日陰の人生があったということです。あのパウロだって、10数年間、アラビヤと故郷のダマスコに留まっていたのです。神の人は、みんな整えられるという期間を通らされたのです。

 しかし、みなさん新約聖書がいう「整える」とは、もう1つ意味があります。神様は、困難や試練で整えてくださいますが、それだけではありません。なんと、私たちを人間の中に置いて、人間関係の中で私たちを整えてくださるのです。それがこのエペソ4:16です。「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」私たちが「しっかりと組み合わされ、結び合わされる」ためには何が必要なのでしょうか?みなさん、お家を建てるところをご覧になった方はおられるでしょうか?基礎の上に、大きな角材を回します。その上に柱を建てます。さらに柱の上には梁を渡します。そのつなぎ目をご覧になったことがあるでしょうか?「ほぞ」といいましょうか?柱や梁には、出っ張りと穴ぽこがあって、それぞれが組み合わされる必要があります。ほとんどは工場で作るのでしょうが、木材をそのままは使えません。切られたり、削られたり、穴をあけられたりするでしょう。「俺は、私は、このスタイルで良いんだ。俺流でやらせてもらいたい!」と主張しても、神の教会ではそれは通じません。神様は人間関係の中で私たちを整えたいと願っておられます。「あの人が嫌いだ」「あの人とは馬が合わない」。そういう理由で、関係を絶ちます。そして、自分の気の合った人とだけ交わります。もし、関係を絶ち、孤立しているなら、整えられることは決してありません。ある人たちは、聖書的な知識を得、罪から離れて生活をしているかもしれません。しかし、そういう人たちが聖められた人なのではありません。律法学者やパリサイ人たちがそうでした。本当に聖められた人と言うのは、イエス様のように人間関係を保ちながら聖い生活をしている人です。神様はあなたを整えたいと願っておられます。だから、あえてあなたのそばに、嫌な人、攻撃的な人、気の合わない人を送っているのです。「あの人があんなだから!」と人のせいにしているうちは、整えられることはありません。私たちは他人を変えることはできませんが、自分を変えることができます。自分が変わることにより、その結果、人も変わるのです。

 最後に、どうして教会に、イエス様は、使徒、預言者、伝道者、牧師また教師をお立てになったのでしょうか?エペソ 4:12 「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるため」です。私たちには自分をコーチしてくれる人が必要です。第一のポイントでは武器を装備するためには、訓練を受けるということでした。第二のポイントでは、神の人になるために、人格的に整えられるということでした。一方は技術やスキルを伸ばし卓越したものになります。もう一方は品性が整えられ、愛の人になるということです。Ⅰコリント13章でも、いくら賜物があっても、愛がなければ無に等しいと書いてあります。ガラテヤ人の手紙には御霊の実について書いてあります。そういう人格的なものが必要だということです。でも、どうしたら技術を身につけ、人格的にも整えられるのでしょうか?みなさん、そのためにはあなたをコーチしてくれる人が必要です。スケートでもコーチを受ける必要があるでしょう。ピアノや歌もそうでしょう。いつまでも我流でやっていたら、あるところでストップしてしまいます。しかし、ある人は「いえ、私は結構です。だれからも教えられたくありません」と拒否します。ヤコブ書には「上からの知恵は温順であり」と書いてあります。温順とは、ある英語の聖書にはteachable personと書いてあるそうです。このみことばは、大川牧師が。私が神学校に行くときに、くださったことばです。大川牧師は有名な車田秋次という先生からいただいたとおっしゃっていました。温順とは、だれからも教えられる、柔らかい心です。この世のコーチはとても厳しいですね。罵倒したり、足で蹴ったり、気絶したら水をぶっかけるかもしれません。その点、キリスト教界のコーチは優し過ぎるかもしれません。私たちは人々を教えたり、訓練するためには、まず、自分がだれかから教えを受けていなければなりません。神の人として整えられ、用いられるために、喜んで、訓練を受ける者となりましょう。

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