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2010年5月 9日 (日)

弟子の再生     マタイ28:18-20

 マタイ28章のこの命令は、マルコ16章の大宣教命令と並んで、クリスチャンに与えられた最も重要な命令です。なぜなら、イエス様が天にお帰りになる直前に弟子たちに与えた命令だからです。人間も死ぬ前に遺言を残すとしたら、「これだけは伝えておきたい」という重要なものではないでしょうか。しかし、この2つの命令を比較してみますと、2つは微妙に違うというか、互いに補いあっています。しかし、マタイ28章から語るときナーバスというか、鬱的になります。なぜなら、できていないからです。できれば、パスしたいのですが、ここを飛ばしてしまうなら、キリストの弟子に関するDNAは完成しません。ですから、一大奮起して、マタイ28章から「弟子の再生」ということを特に学びたいと思います。

1.弟子作り大命令とは

前回も話しましたが、イエス様が公生涯でなされた奉仕には3つありました。福音宣教、病の癒しと悪霊追い出し、そして教えるということでした。さらに、イエス様はこれらのことを弟子たちが実際に行なえるようにそばに置いて訓練しました。最後、天にお帰りになるとき、大切な命令を弟子たちに残しました。マルコ16章には、福音宣教、病の癒しと悪霊追い出しの2つの命令が記されています。では、「マタイ28章は?」というと、「教えよ」という命令です。イエス様は公生涯において教えるというときは、群衆ではなく、おもに弟子たちを教えました。ですから、教えることと弟子は深い関係にあります。その証拠に、マタイ2819「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と書いてあります。その後に、何が書いてあるのでしょうか?「そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」です。ちゃんと最後に「教えなさい」と書かれています。つまり、「イエス様が命じておいたことを守るように彼らを教えて、弟子としなさいよ」ということです。何度も言いますが、イエス様の私たちに対する命令は、福音宣教、病の癒しと悪霊追い出し、そして教えるということです。でも、教えるということはキリストの弟子を作ることが目的であります。

ということで、本日は、「弟子を作る」とはどういうことなのかということを学びたいと思います。私たちはすでに、弟子に関しては3回学びました。1回目は、弟子とは自分の十字架を負ってイエス様に従う者だということでした。2回目は、弟子として召された目的はイエス様の使命を受け継ぐということでした。3回目は一人前の弟子になるには賜物と人格が整えられる必要があるということを学びました。そして4回目は「弟子を作る」ということです。4回目は何が違うのでしょうか?何が新たなこととして付け加えられているのでしょうか?そうです。自分がキリストの弟子になるだけではなく、今度は、自分が新たに弟子を作るということです。表現を換えるならば、弟子の再生産であります。まず自分がキリストの弟子になります。そして、別な人を新たにキリストの弟子にします。そのとき、その新しい弟子に大切なことを申し送る必要があります。何でしょう?何を申し送るのでしょうか?そうです。「あなたも新しい弟子を作りなさいよ」ということです。でも、そのためには順番がありました。第一行くことです。これには関係作りと福音宣教が含まれています。第二はバプテスマを授けることです。バステスマは救いのゴールです。信じた人はバプテスマを受けるのです。第三は、キリストが命じたことを守るように教えるということです。でも、どうでしょうか?多くのキリスト教会は、福音宣教し、バステスマ(洗礼)を施し、何らかのことを教えるかもしれません。でも、何かが足りないのです。何が足りないのでしょうか?その人をキリストの弟子とし、その人が新しい弟子を作るように教えるところまで行かないのです。再生産できる弟子を養成しないので、回転していかないのです。「自分が救われる」あるいは「自分が弟子になる」でおしまいになってしまいます。

今から25年、アラバマの教会が、日本人6名を飛行機代と2ヶ月間の滞在費を出して招いてくれました。6名の中に私もおりまして、アメリカの200人の大学生と一緒に、フロリダのパナマシティの海岸か2月間弟子訓練プログラムを受けました。そこで教えられたことは、このマタイ28章の弟子を作るということでした。度肝を抜かれたのが、弟子を作るということがどんなにパワーがあるかということでした。たとえば、人口一万人の島に一人の宣教師が行って福音を宣べ伝えるとします。一年で一人の回心者を得るという率でいくならば、島全体の人がクリスチャンになるまで何年かかるでしょうか?1万年かかります。でも、宣教師はそんなに長生きできないので、途中でストップするでしょう。では、1年に一人の弟子を作ります。そして、その人に「あなたもこの1年に新たな弟子を作りなさい。そして、次の人にも弟子を作れと命じるのですよ」と教えます。1年目は宣教師と一人の弟子ですから2人です。2年目は4人、3年目は8人、4年目は16人、5年目は32人、…10年目は1024人、11年目は2048人、12年目は4096人、13年目は8192人、14年目には16千になりますので、島全体に行き渡ることになります。このことを世界に向けて、続けて行くと、33年目には80億人になります。前者は一人ずつ救うというのですから、足し算的な増え方です。後者は弟子が弟子を作るというのですから、倍加的な増え方です。これを世の中では、ネズミ算と言います。聖書にそんなことが書いてあるのでしょうか?あります。ペンテコステの日、一日で3000人救われました。それから迫害が起こりました。色んな問題も起こりましたが解決しました。使徒67「弟子の数が非常にふえて行った」とありますが、英語の聖書は、multiplyとなっています。multiplyとは、掛ける、掛け合わせるという意味です。初代教会は、足し算な増え方ではなく、倍、倍に増えていったということを示唆しています。

使徒パウロは、コロサイの人たちにこのように書き送っています。コロサイ16「この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。」パウロは「福音が世界中に行きわたった」と言いました。さらに、コロサイ123「この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられている」と言いました。世界中に行っただけではなく、すべての被造物が福音を聞いたと言っています。「パウロ先生、それはオーバーじゃないの?」と反論したくなります。パウロはどうしてそんなことが言えたのでしょうか?パウロだけが福音を宣べ伝えたでしたら、そのようなことは不可能です。そうではありません。パウロと他の使徒たちはキリストの弟子を作ったのです。そして、「あなたも新しい弟子を作るのですよ」と命じたのです。そのようにして福音が全世界に広がっていったのです。でも、実際、その頃はまだ全世界に広がっていなかったかもしれません。でも、パウロは「イエス様が命じたように弟子を作っていくなら、福音は世界の果まで届いたと同じだ」とそのように確信していたのです。実際に、コロサイの教会はパウロが開拓したのではありません。パウロがエペソにいた時、そこから小アジアの人たちが福音を聞いて、自分たちのところに持ち帰ったのです。私はこの原則を25年前、アメリカで学びました。「あーこれだな!これしかない!」と帰ってきてから、大川牧師に告げました。大川牧師は「そんなことは君よりも知っているよ」というようなお顔をしていました。私はそれからことあるごとに、「弟子作り」がいかに重要か教会で証しました。かなり、私は生意気だったんでしょうね。翌年、この亀有教会から招聘がありました。大川牧師は「ぜひ、行ってみなさい」と言われました。おそらく、先生は、心の中で「そんなに言うなら、君自身が、実際にやってみたら」と思っていたのでしょう。私は座間キリスト教会を追い出されたのか、それとも派遣されたのか、どちらなのか、今だに分かりません。しかし、私には負い目があります。アメリカの教会が、その当時、一人当たりに60万円を投資して「弟子作り」の大切さを教えてくれたからです。どちらにしても、マタイ28章はイエス様が私たちに与えた、最大の命令の1つであることは確かです。私たちが弟子を作るならば、ものすごく可能性があるのではないでしょうか。

2.弟子作り大命令を果たす

では、イエス様がお与えになった弟子作り大命令をどのように果たすのでしょうか?さきほどの話の続きになります。私は教会に赴任してから、一生懸命、伝道牧会しました。伝道集会、コンサート、訪問伝道、家庭集会、祈祷会、早天、徹夜祈祷会、断食祈祷、ありとあらゆることをやりました。5年くらいで礼拝が倍の56名くらいになりました。私は弟子作りのことはすっかり忘れ、人集めだけを考えていました。私は座間キリスト教会でやっていた同じことを、この亀有教会でも再現していたのです。それまでの、私の奉仕の1つはカウンターで、礼拝人数を数えることでした。同じように亀有でも、礼拝に来る人の頭の数を数えていたのです。私のゴールは人々が洗礼を受けることであり、あとは礼拝に忠実に出席することでした。しかし、1991年、韓国のサラン教会の見学に行きました。その直前、サラン教会の玉漢欽師の「信徒を目覚めさせよう」というメッセージテープを聞きました。そのとき、体全体が「ぐらぐらぐらー」と揺らされました。「あー、これだった。私はこれを忘れていた!」と気づかされました。それから小牧者訓練会に所属し、弟子訓練をみっちり学びました。その頃、日本に、弟子訓練とディボーションの大ブームが起こりました。しかし、うまくいきませんでした。弟子訓練を教室で教えるために、頭では分かっていても、遣わされた現場で行なうことができなかったのです。私は、その当時のリーダーをずいぶん傷つけました。「あなたが人々を救って、新たな群を作りなさい」と言いました。石塚兄姉や柏姉妹に心からお詫びしたします。もう1つ失敗した理由は、韓国スタイルの弟子訓練をそのまま日本に持ってきたからです。その次にやったのがセルチャーチです。小笠原先生に感化され1996年からセルをスタートしました。従来の組織や集会をぜんぶやめて、セル一本槍にしました。セルは14年間行ないました。過去形になっています。最初は10くらいのセルがありましたが、現在活動しているのは4つくらいだと思います。あるいは3つかもしれません。今年の2月、小笠原先生を久しぶりに当教会にお招きしました。ビジョンについて尊い教えをいただきました。その直後の2月9日ですが、私は小笠原先生とJCMNの津倉さん、月井先生にこのようなメールを送りました。「小生、お祈りした結果、今後、当教会がセルチャーチと名乗ることをやめて、新約聖書の教会を目指すということに変更しました。セルチャーチということになると、セルグループとか、セルリーダー、あるいはセル増殖となり、挫折感と閉塞感に陥り、信仰がなくなります。そのかわり、新約聖書の教会を作るということにします。もちろん、今後、皆さんがよろしければ、セルチャーチ・ネットワークに所属させていただきます」。ということは、ある意味で、これは失敗宣言かもしれません。

 私は今も、セルチャーチ・ネットワークに属させていただいております。関東コーチングのコーディネーターまでやらされています。もとはといえば、石原先生が、斯波先生の代わりに私を入れてくださったのですね。こんなプライベートなことを申し上げて良いのか分かりません。では、今はどうなったのでしょうか?みなさん、あれも失敗、これも失敗、どれも失敗となると、もうモチベーションが上がりません。「どうせ、またやってもダメかもなー」という恐れがあるので、教会員の皆さんに強くアピールすることができないのです。相撲で言うなら「死に体」であります。でも、不思議なことにまた、熱意がわいてきました。それは、新約聖書の教会を目指すということです。なぜ、こんな風になったかと申しますと、数年前から起き上がっている、教会の単立化の問題です。役員の皆さんが「単立になるのが目的ではなく、単立になってどうしたいのか?どういう教会をめざすのか、ビジョンの方が大切でしょう」と言ってくれました。それで、祈りに祈り、29日のメールになったわけです。セルチャーチと前面に出さないで、新約聖書の教会を作る。これだったら、どこからも文句が出ないと思います。では、「どういうものが新約聖書の教会なのか?」という質問が次に出てくると思います。そのために、備えたのが今、語っている「信仰の12のDNA」なのであります。これは、私の人生のというか、伝道牧会の集大成であります。私はこれに命を賭けているのであります。正直に言って、いろんなところからのパクリがあります。香港のベン・ウォン先生は面白いことをおっしゃいました。「1つの教会を丸ごと真似るのを模倣と言うが、たくさんの教会の部分、部分を取り入れることをリサーチと言う」と。アーメンだと思います。私もこれまで色んな所へ行き、たくさんのセミナーを受けてきましたが、無駄ではないということです。私の賜物は学者が研究したことを、分かり易い形に変えることです。私のIQがあまり高くないことを親に感謝しています。でも、私は複雑で込み入った内容を分かり易く作り変える能力があります。なぜなら、自分が複雑なものを理解できないからです。私の頭脳に合わせたものを、私はみなさんに提供します。するとどうなるでしょう?平均的な頭脳の方々が、「ああ、そういうことですね」と理解してくれます。アーメン。

 新約聖書の教会の話題に戻りますが、なぜ、初代教会には力があたったのでしょうか?正確に言うなら、力ではなくDNA、増殖する生命力があったのです。逆に言うなら何故、教会は増殖する生命力を失ったのでしょうか?教会が4世紀、ローマの国教になりました。その後、聖書から少しずつ離れて、キリスト教は宗教になりました。組織と制度と儀式が中心になったのです。教会は聖職者と一般信徒を分けました。新約聖書の時代は信徒であったピリポも洗礼を授けました。聖餐式は今のような硬いものではなく、愛餐と結びついていました。会議や委員会というものはほとんどなく、聖霊によって促された人たちが奉仕していました。みんなが、かしらなるキリストに聞いて、それぞれがいろんな奉仕をしていたのです。会社や政治のようなトップダウンではありません。宗教改革者マルチンルターは万人祭司と聖書の権威を説きました。神学的にはそうなったかもしれませんが、実際にはローマカトリックのものをたくさん受け継いでいます。「信徒が勝手に教えたら間違うだろうし、勝手に奉仕したら教会の秩序が乱れだろう」。これが、教団教派の考えです。教会の歴史が悪いといっているのではありません。むしろ、教会は歴史とともに、初代教会にあったものを回復しているのではないかと思います。たとえば、信仰義認はマルチンルターが発明したのではありません。パウロがちゃんと新約聖書で語っていたことです。聖化もジョンウェスレーが発明したのではありません。新約聖書にちゃんと書いてあります。癒しや聖霊の働きもペンテコステの人たちが発明したのではありません。新約聖書にちゃんと書いてあります。「今はセルチャーチ、共同体だ」と言うけれど、それも新約聖書にちゃんと書いてあります。教会がこの世の学問や政治体制、価値観を入れたために、聖書からはなれてしまったのです。

 という訳で、私はこのマタイ28章の弟子作り大命令を忘れたわけではありません。セルという共同体ももちろん忘れたわけではありません。また、癒しや解放、カウンセリングいろんなものも学びました。でも、それらを統合して「信仰の12のDNA」を作っています。12のテーマにはそれぞれ、従来の教会にはないDNA、増殖する命が入っていると信じます。私はこれによって日本の教会にブレイクスルーが起こることを願っています。そのために、『信仰の12のDNA』という本も出そうと思います。そのための、ご献金をお願い致します。でも、今はインタネットの時代なので、「タダで配布しようかなー」とも思っています。私の牧会人生あと10年あるでしょうか?10年過ぎると、アンクル鈴木になってしまうかもしれません。私は残りの10年を美しく燃えて終りたいのです。12のDNAを伝授してから、天国に行きたいのです。このテーマでする、礼拝での説教は1年間ですが、これをこんどは実践するほうにエネルギーを回していきたいと思います。絵に描いた餅で終りたくないからです。信仰のDNAを実践することが、弟子の再生につながると信じています。最後にもう一度、マタイ28章を見たいと思います。マタイ2819「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と書かれています。これは何度も申し上げますが、弟子作り大命令です。でも、19節に「それゆえ」とあるので、前の節とつながっているということです。18節には、イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえに」と続いています。ということは、イエス様が天において地においても、いっさいの権威が与えられていることが、この使命を果たす、大きな力の源だということです。神様は私たちに命令を与えるときには、必ず、その保証も同時に与えるということです。つまり、私たちが行って、あらゆる国の人々を弟子とするときに、イエス様のすべての権威が与えられるということです。実はもう1つすばらしい保証が、この大命令の後にもあります。それは20節です。「…彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」イエス様は世の終わりまで私たちと共にいて、弟子をつくることができるように助けてくださるということです。つまり、弟子作り大命令の前と後にはすばらしい約束、資源となるものがあるということです。私たちはどうしても、自分の実力や、人間的なものを見てしまいます。そして、「難しい、できない」と失望落胆してしまいます。そうではなく、イエス様が一番願っていることなのですから、できないわけがないのです。問題は、絶えず、私たちが弟子作り大命令が達成できるように、目標を定めるということです。つまり、人が救われただけで満足せず、その人が弟子として成長し、さらには新しい弟子を作ることができるまで助けながら、見届ける必要があるということです。サラン教会のサラン教会の玉漢欽師が「これが私の弟子作りです」とおっしゃっていた聖書箇所を引用して終えたいと思います。コロサイ128,29「私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。」弟子作りには、労苦と奮闘が伴うけれど、そこにキリストの力も力強く働くということです。

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