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2010年4月25日 (日)

召された目的     マルコ3:13-15、16:15-18

 前回は、キリストの弟子とは、くびきを負って従っていく必要があることをお話ししました。では、私たちはどのようなくびきを負うべきなのでしょうか?私たちはかつて罪の中にいました。ところが、恵みによって救われました。その後、癒しと解放を受けました。神様は、今度はあなたを通して、他の人々が救われ、また癒しと解放を受けるよう願っておられるのではないでしょうか?イエス様は「受けるよりも与える方が幸いです」と言われました。不思議なことに、人の世話をするとき、自分が成長します。人から受けているだけでしたら、成長しないのです。ある人は「十分成長してから、人々のお世話をします。まだまだ私は力不足です」と言うかもしれません。でも、「自分が十分に成長してから」だとしたら、そういう時は一生来ないかもしれません。きょうは、「召された目的」と題して、キリストの弟子としてどのようなことをすべきなのか学びたいと思います。

1.召された目的

イエス様の地上での使命はどういうものだったでしょうか?福音書から分かりますが、第一は福音宣教、第二は悪霊を追い出し、病を癒すことです。第三は人々を教えるということです。教えるとは、おもに弟子たちに教えるということです。群衆にはたとえで語りましたが、弟子たちにはその奥義を教えてあげました。イエス様の地上での公の時間は、たったの3年半でした。ですから、イエス様は弟子たちを召し集め、彼らにご自分の働きを伝授しました。それは、ご自分の働きを彼らに継続・拡大させるためです。マルコ313-15「さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」とあります。呼び寄せる、つまり召し集めるとはどういう意味でしょうか?昔、王様が自分の国を治めるために、国民の中からある人たちを召し集めました。集められた人たちはいわば大臣(公僕)であります。そして、ある大臣には軍事の領域に仕えるように、ある大臣には経済の領域に仕えるように、ある大臣には教育の領域に使えるように任命しました。王様が、そのように召した人たちを、ギリシャ語ではエクレーシアと言います。エクレーシアはやがて、教会ということばに置き換えられました。神の国の王である神様も、ご自分の国を治めるために、クリスチャンを召しておられるのです。ですから、みなさんは救われて天国に行くだけではなく、この地上において神の国を広げるために、何らかの使命があるということです。もう一度繰り返します。イエス様が12弟子を召し集めたのは、ご自分がしていることを任せるためでした。つまり、福音宣教、癒しと解放、教えの3つができるように、弟子たちを養成したのです。

ここで、問題になるのが「私たちが12弟子と同じか?」ということです。「イエス様は12弟子に、これらのことをするように命じたけど、私たちは平信徒、ただのクリスチャンじゃないか」と言うかもしれません。もう、ここから間違っています。使徒と呼ばれる12弟子と私たちクリスチャンの違いは1つだけです。使徒たちはキリスト様と一緒に生活し、教えを受け、十字架と復活を見ることができました。そして、イエス様から受けた教えと目撃したことを聖書に書いて残しました。残念ながら、私たちはイエス様を直接、見てはいません。でも、12弟子たちに与えた使命と私たちクリスチャンに与えた使命は同じです。もしも、「そうではありません。私たちと彼らとは違います」というなら、使徒性を欠いた異端の教会です。私たち教会は、キリストを信じるだけではなく、使徒たちに与えた命令をも受け継いでいるのです。マルコ16章の終わりに何と書いてあるでしょうか?マルコ1615-18それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」この命令は使徒たちだけに与えられたのではありません。私たち、すべてのクリスチャンに与えられた命令でもあります。ここには2つの命令があります。第一は福音を宣べ伝えることです。第二は悪霊を追い出し、病を癒すことです。ここには「信じる人々には次のようなしるしが伴います」と書いてあります。「牧師や伝道者だけに」とは書いてありません。キリストを信じるすべての人ができるということです。また、マタイ28章には「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい…彼らを教えなさい」と命じられています。マタイ28章には、「教えよ」という第三番目のことが命じられています。この命令も、すべてのクリスチャンに対する命令であります。

イエス様はこの3つのことを弟子たちが実際に行なえるように、何度か彼らを遣わしました。マタイ10章には二人一組で彼らを遣わしたと書いてあります。またルカ福音書には70人の弟子たちを遣わしたとも書いてあります。イエス様の教え方は、教室でやるような教え方ではありません。少し教えたら、「実際の現場でやってみなさい」と派遣しました。つまり、イエス様は頭ではなく、体験的に学ばせました。弟子たちは、あるとき、悪霊を追い出すことができませんでした。イエス様は「それには祈りと断食が必要だ」と教えました。このように、弟子たちは失敗を通しても学びました。しかし、中世の神学校は西洋の哲学的なスタイルを取り入れました。それがプロテスタント教会にも受け継がれています。教室の中に生徒たちを3年か4年間、入れてありったけの知識を詰め込みます。一定のカリキュラムを終了したら、学位を与えます。確かに、生徒たちは神学的な知識はいっぱいになったかもしれません。しかし、実際の現場で適用できないのです。なぜなら、適用の仕方を現場で教わらなかったからです。逆に、膨大な知識がじゃまになり、恐くてできないのです。知識が増すと、恐れも増すのです。神学校に入る前は、熱心に伝道したかもしれませんが、神学校を卒業した頃は、もう人が恐くて伝道ができないのです。なぜでしょう?現場でトレーニングを受けていなかったからです。イエス様の教え方は、on the job training 、現場で教えたのです。イエス様が道を歩いていると、律法学者たちから難問をふっかけられました。そのとき、イエス様が神からの知恵によって答えました。弟子たちはそれを見ていました。イエス様のもとに大勢の人たちが病の癒しを求めてきました。弟子たちはどう癒すのか見ていました。そして、次回からは、自分たちでやってみました。あるときはイエス様から「5000人の人たちに食物を与えなさい」と言われました。彼らは「そんなことはまだ、教えられていませんよ。とんでもない」と思ったでしょう。イエス様は、5つのパンと2匹の魚を手に取って祝福しました。弟子たちはイエス様の手から、増えたパンと魚を取って群衆に渡しました。そこで、弟子たちは、イエス・キリストがいのちのパンであり、このお方を通して人々を養うことができると分かったのです。

私たちと12弟子とは、使命は同じです。私たちもイエス様によって召された者であり、同時に使命があるのです。召された以上は、イエス様の使命をも受け継ぐべきであります。第一は福音宣教、第二は病の癒し悪霊の追い出しです。第三は教えることです。「えー?そんなことは、牧師や伝道者、フルタイムの献身者がすることでしょう?」そうではありません。あなたもクリスチャンであったなら、キリストから召された者であり、使命があるのです。違いはフルタイムでそれをするか、それともパートタイムでそれをするかです。そのためにはどうしたら良いでしょう?まず、あなたが、現在、遣わされたところで、3つのことをすべきです。あなたはキリストの弟子として家庭に派遣されています。あなたはキリストの弟子として会社に派遣されています。あなたはキリストの弟子として学校に派遣されています。あなたはキリストの弟子として地域社会に派遣されているのです。あなたはだれかに福音を伝え、だれかの病を癒し、だれかを教えているでしょうか?もし、その働きが一般の仕事よりも大きくなったならば、フルタイムでそれをする人になれば良いのです。大事なのは、実が現れてからフルタイムの牧師になるということです。ある牧師たちは、実が十分見えていないのに、神学校へ行って牧師の免許を取ります。そして、どこかの教会のフルタイムの牧師として招聘されるかもしれません。でも、牧師になる前に伝道したり、人を教えたりしなかった人が、牧師になってからできるでしょうか?十分な賜物と召命がないのに、牧師になったら行き詰まってしまうのは当然です。ですから、まず、あなたが、現在、遣わされたところで、それらをすべきです。イエス様は山上の説教で「あなたがたは地の塩です。あなたがたは世界の光です」と言われました。イエス様は「地の塩、世の光になれ」とは言われませんでした。クリスチャンであるならば、すでに地の塩であり、世界の光なのです。ですから、程度の差はあれ、遣わされたところで、3つのミニストリーは可能なのです。

2.あなたのミニストリー

前半は、神学的で少し抽象的でした。後半は、あなたのミニストリー、あなたの奉仕とか使命は何かということです。「私たちは具体的に何ができるか?」ということです。私たちは、何をしたら良いのでしょうか?何ができるのでしょうか?そのヒントとなるものがいくつかあります。第一は、「あなたがどこから救われたか?あなたはどのようなところから癒され解放されたか?」に関係があります。神様は訳あって、あなたが苦しいところを通ることを許されたのです。今度、神様はあなたが負ってきた傷や問題を、ご自身の栄光のために用いたいのです。アルコール依存症から解放された人は、アルコールで苦しんでいる人たちを助けることができます。離婚を通った人は、離婚で痛みを覚えておられる人たちを助けることができます。劣等感から解放された人は、劣等感で悩んでいる人を助けることができます。私のように父親の虐待を受けた人は、虐待の傷を負っている人を助けることができます。子育ての悩みから救われた人は、子育てで悩んでいる人を助けることができるでしょう。あなたは全部の人たちを助けることはできないかもしれません。でも、少なくとも、自分と同じような苦しみを負った人に対しては専門家なのではないでしょうか?このことを李光雨先生は「逆転勝利」と言われました。それは、あなたの傷が役にたつということです。ローマ828「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」アーメン。つまり、あなたが何に召されているか?それは、自分がどこから救われたのか?ということと関係があるということです。CSで、子どものときに救われたのだったら、CSの重荷があるかもしれません。青年のとき救われたのであったら、青年に重荷があるかもしれません。音楽関係で救われたのでしたら、音楽を通して伝道することに重荷があるかもしれせん。大切なのは、人と比べないことです。大きいか、小さいかも問題ではありません。それぞれの人たちが、それぞれの経験をしてきました。教会にはいろんな人たちがいます。それは、いろんな人たちに福音を届けることができるためです。どうぞ、自分自身の召命と使命を発見してください。

 第二のヒントは「それをやっていてとても好きだ」ということです。別な言い方をすると、「それをしていて、疲れない。いつまでもそのことをしていたい」というものです。多くの場合、神様がすでにあなたに与えておられます。ただ、あなたは頭からそれを否定して、開発してこなかったのかもしれません。イギリスのブリストルの出身でポール・ポッツという人がいます。幼い頃から家が貧しく顔立ちがあまり恵まれず、それ故に周囲からいじめられ続けていました。10歳から教会で聖歌隊として歌い始めました。彼は2003年(33歳の時)、自転車で出勤中に交通事故に遭い、鎖骨を骨折しました。そのため、むち打ち症にも悩まされていました。退院すると莫大な治療費の請求が来たため、妻の反対も押し切って歌のレッスンを辞め、所属していたアマチュアのオペラ劇団も退団しました。彼は携帯電話のセールスマンとして働きました。歌からは4年間遠ざかっていましたが、2007年、妻の後押しもあり、イギリスで放映されているタレント発掘オーディション番組へ出場を決意しました。これで駄目なら歌は諦める覚悟で臨みました。彼はすごく恥ずかしがり屋で、自ら「私にとっての一番の葛藤は自信が持てないことです」と言っていました。審査員が「きょう、あなたは何を歌ってくれるのですか?」と聞きました。彼は「オペラ」と言いました。3人の審査員が意外な顔をしながら「まあ、いいですよ。歌ってください」と言いました。彼が歌い始めたらどうでしょう?審査員は「これはどうしたことか」と唖然。最後は観客も総立ちになりました。ある審査員は「鳥肌が立った」と言いました。もう一人の審査員は「ダイヤモンドの原石を見たようだ。だれにも、ダイヤモンドがあるんだ」と言いました。彼がアルバムを出したら、すぐ200万枚以上売れました。ここで私たちが学べるのは、人は外形によらないということです。一人ひとりのうちに神からのダイヤモンドが備わっているのです。

 第三のヒントは、人々もあなたの賜物を認めているということです。これは第三者による評価ということです。「あなたは良い声していますよ」「あなたはとても思いやりがあります」「あなたは細かい作業ができます」「あなたのケーキはとても美味しいですよ」…何か1つぐらいはあると思います。学校では、不得意の科目が目立ちます。でも、得意な分野も結構あったのではないでしょうか?神の国では必ずしも、一流でなくても良いのです。私は家族みんなから「お前は不器用だ、不器用だ」といわれて育ちました。18歳で工業高校を卒業し、高速道路の現場に配属されました。自分たちの工区が5.5キロくらいありました。そこに、100メートル毎に、看板を書く作業がありました。「鈴木がうまい」と言われ、50枚くらい書いて、それを立てました。また、座間キリスト教会の大川牧師から「鈴木君は絵が上手だ」と言われ、コンサートのたびごとに大きな看板を描かされました。プロではありませんが、それなりに用いられたのです。どうでしょうか?他の人から「あなたにはこういう賜物がありますよ。こういうことが得意ですね」と言われたものが1つや2つはあるでしょう。そこに、神様の賜物と召命があるかもしれません。

 第四のヒントです。ローマ12章にあります。ここには7つの資質の賜物が記されています。これは生まれつきの賜物ではなく、聖霊によって新しく生まれたときに与えられた賜物です。賜物というよりも動機です。神様は、あなたに何らかの動機を与えておられます。ローマ126-8「私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。」主のからだなる教会には、預言、奉仕、教える、勧める、分け与える、指導、慈善の7つ賜物が与えられています。これは、Ⅰコリント12章の御霊の賜物とは別な基本的な賜物です。この7つの賜物は、クリスチャンであるなら、もれなく与えられています。「預言」は、旧約の預言者のような気質を持っています。ものごとを善か悪、正しいか正しくないか分けたがる傾向があります。主の体の目です。聖書ではバプテスマのヨハネとペテロがそうです。「奉仕」は目に見える兄弟の必要(物質的な必要)に非常によく気がつき、率先してそれを行ないたいと思う人です。主の体の手です。聖書では、パウロに仕えたテモテがそうです。「教え」は、真理を探究し、それを伝えることを好む人です。ものごとを、「真理か偽りか」見分けたがる傾向があります。主の体の頭脳です。聖書ではルカやエズラがそうです。「勧め」は、他の人が勝利の生活を送れるように勧めることを好む人です。この人の関心事は人々の霊的状態です。主の体の口です。聖書ではバルナバとパウロがそうです。「分け与える」は、他の人の益になるような資力(お金、持ち物)を惜しみなく与える人です。神様の入り用に備え、ささげる心の動機があります。主の体の腕です。聖書ではアブラハムとマタイがそうです。「指導」は、組織だて、導き、指導することを好む人です。群れを目標までどういうふうに導くかに関心があります。主のからだの肩(権威を表わす)です。旧約聖書のヨセフとネヘミヤがそうです。「慈善」は、必要な人に愛とあわれみと思いやりを示す人です。傷ついている人や弱い人や小さな人に関心があります。主のからだの心臓です。聖書ではルツと使徒ヨハネがその人です。

 私たちは生まれた瞬間ある程度の気質や能力が備えられています。それと同じように御霊によってクリスチャンとして生まれたときも、御霊の気質と能力が与えられるのです。神様は、「その賜物によって、キリストのからだなる教会に仕えるように」と召しておられるのです。ですから、生まれつきはそうでもなかったけど、クリスチャンになってから急に、「こういうことに興味がわいてきた。こういうことに重荷や使命を感じる」ものはないでしょうか?聖書にはタラントのたとえが書いてあります。主人が、ある人には5タラント、ある人には2タラント、またある人には1タラントを預け、それで商売するように命じました。5タラントの人は自分の能力に応じて5タラントをもうけました。2タラントの人は、自分の能力に応じて2タラントをもうけました。1タラントの人はどうしたでしょうか?おそらく、5タラントや2タラント預けられた人をねたんだのかもしれません。それで、自分のタラントを地面に埋めました。そして、主人が帰ってきたとき、そのまま返しました。主人は彼に対して「悪いなまけ者のしもべだ」と叱って、そのタラントを取り上げました。1タラントは今日でいうと、6000日分の給与ですから、決して少ない額ではありません。彼が1タラントもうけたら彼らと同じように「よくやった。良い忠実なしもべだ」と言われたでしょう。いや、彼が一生懸命やって、その1タラントをなくしたとしても、「良い忠実なしもべだ」と言われたに違いありません。私たちはこの世にあって、神の国をもたらすように召し集められた存在です。どうぞ、この世の生活だけではなく、神の国のためにも自分の能力と資源を投資してください。今、持っているものに忠実であるならば、主はもっと多くの物をあなたに任せてくださるでしょう。主は、「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたはわずかな者に忠実だったから、あなたにたくさんの物を任せよう」と言ってくださいます。

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2010年4月18日 (日)

キリストの弟子とは     マタイ10:37-39、11:28-30

 前回は4回にわたって「癒しと解放」について学びました。これからはキリストの弟子について学びたいと思います。皆さん、「癒され、解放されて良かったなー」でおしまいになってはいけません。なぜなら、糸の切れた凧のようになってしまうからです。次の段階はキリストの弟子として従っていく必要があります。キリストに従うことについては「神の国の福音」でも少しお話ししました。イエス・キリストは救い主だけではなく、私たちにとって人生の主であり王様であるということです。私たちクリスチャンは死んでから天国に行くだけが目的ではありません。私たちは神の国に生きるキリストの弟子として、使命があるのです。「癒しと解放」がプラスマイナスゼロであったなら、今度は、主にあってプラスの人生を送るべきではないでしょうか?神の国における、キリスト弟子とは何か?2つのポイントでメッセージをお伝えしたいと思います。

1.キリストに従う人

 福音書を見てわかりますが、イエス様は福音を宣べ伝え、癒しと解放を行ないました。その結果、イエス様のもとに大勢の人たちが集まりました。その後、どうなされたでしょうか?イエス様は「自分の十字架を負ってわたしについて来なさい」と言われました。順番的には、癒しと解放を受けた人たちに、弟子になるかということを問いただしたのです。イエス様がどう言われたのかもう少し詳しく見てみたいと思います。少し前の34節あたりから見ますと、イエス様は「私よりも自分の家族(父母、妻子)を愛する者は、私にふさわしい者ではありません」とおっしゃいました。イエス様の弟子になるとき、家族の人たちがあなたの妨げになることもあるのです。なんと、家族を敵に回すこともありえることを示唆しています。ちょっと、これはちょっと厳しいんじゃないでしょうか?初めての方は、どうぞシートベルトをお締めください。誤解の与えないようにちょっと説明させていただきます。父や母、妻あるいは夫、息子、娘を愛するなということではありません。これは「生まれつきの人間の情というものを一度断ち切りなさい。あなたの父や母、妻あるいは夫、息子、娘はあなたのものではなく、神様があなたに与えたものですよ。新たに信仰によって受け取りなさい。そして、彼らをキリスト様よりも第一にしてはいけません」ということなのです。ハレルヤ!36節には、「キリストのゆえに、自分のいのちを失った者は、それを得る」とも書いてあります。これも同じで、私たちのいのちも自分のものではなく、神様があなたに与えたものです。自分のいのちよりも、キリストを第一にしていくなら逆にそれを得るということです。この世の人たちは、なぜ家族関係がうまくいかないのでしょうか?あるいは、なぜ、自分のいのちを自ら絶つのでしょうか?その原因は、それらのものが全部自分のものだと考えているからです。そうではありません。家族も自分のいのちさえもみんな神様からの授かり物です。そして、キリストを第一としてそれらを管理していくときに、家族も自分のいのちも結局は、守られるということです。

イエス様は人々に、「自分の十字架を負ってわたしについて来なさい」と言われました。これはどういう意味でしょうか?世の人たちは、自分の子どもの病気とか、どうしようもない問題を背負っていくことを「十字架を負う」と言います。「それは私の十字架です。一生背負って行きます」みたいなことを聞いたことがあるでしょう。しかし、それはイエス様がおっしゃられた十字架の意味ではありません。人の十字架ではなく、自分の十字架を負うのです。つまり、自分がかかる自分の十字架を負うということです。イエス様もゴルゴタまでご自分がかかる十字架を負われました。その道筋、みんなから嘲笑され、石を投げられたり、つばきをかけられました。その後、イエス様はご自分が背負ってきた十字架にかかって、死なれたのです。そのように、私たちも自分自身がかかる十字架を負いながらイエス様について行くということです。でも、それは私たちにとってどういうことでしょうか?自分自身がかかるってどういうことでしょう?それは、自分に死ぬ、自分を否定するということです。私たちはだれよりも、自分が可愛いですし、自分が大事です。その証拠にどうでしょうか?みんなで、集合写真を撮ったとします。一番、最初に誰の顔を見るでしょうか?自分の顔でしょう。もし、自分が目をつぶっていたり、変な顔をしていたらどうでしょう?その写真を注文するでしょうか?おそらくしないでしょう。「自分が可愛い、自分が大事」それは人間の本能であり、人間のいのちなのです。でも、イエス様は39節で、逆説的なことをおっしゃっています。「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、自分のいのちを失った者は、それを自分のものとする」というのです。これはどういう意味でしょう?イエス様が、その代わりに本当のいのちをあなたに与えるということです。どうでしょう?イエス様は自分を捨てて十字架におかかりになって死なれました。イエス様はそのままずっと死んで墓の中におられたのでしょうか?そうではありません。父なる神様が死人の中からイエス様をよみがえらせました。イエス様は二度と死なない、栄光のからだによみがえったのです。「自分に死んだら、これと同じことがあなたにも起きますよ」ということなのです。No Cross No Crown「十字架なくして冠なし」であります。

十字架を負って、自分に死ぬのが一度きりなのでしょうか?残念ですが、そうではありません。ルカ923イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」。このこところには、「日々」と書いてあります。日々とはどういう意味でしょうか?日々とは、日曜日だけでしょうか?「日曜日の1時間半だけはイエス様に従います。でも、午後からは従いませんよ。だって、せっかくの休みなんだから。夕方、笑点くらいは見せてくださいよ」。月曜日から金曜日は、この世のシステムに従います。だって、生活がかかっています。「しちゃいけないかなー」と思うようなこともしなければなりません。土曜日は休みなので、のんびりさせてください。でも、日曜日の午前中は、イエス様に従います。ちゃんと礼拝に行って、牧師先生のメッセージを聞きますから。牧師はどう思うでしょうか?「ああ、日曜日、ちゃんと礼拝を守っているなー。献金もしているし、良い兄弟だ。良い姉妹だ」と思うでしょう。日曜礼拝すら守れない人もいますが、日曜礼拝を守っていたなら良いクリスチャン、つまりキリストの弟子なのでしょうか?エディ・レオ師から、よくこのようなお話をします。教会では「ハレルヤー」と賛美します。「ハレルヤー、私の手は聖いです。イエス様、ハレルヤー」。でも、家に帰ったらどうでしょうか?奥さんを「ビュシュ、ビュシュ、ビュシュ」と叩きます。そして、教会に来たらでどうでしょうか?「ハレルヤー、私の手は聖いです。イエス様、感謝します。ハレルヤー」。でも、家に帰ったらどうでしょうか?奥さんを「ビュシュ、ビュシュ、ビュシュ」と叩きます(蹴りも入れる)。そして、教会に来たら「ハレルヤー、イエス様、賛美します。」天使がそこへやって来ます。そして、「ぺっ」とつばきをかけるでしょう。これはキリストの弟子の姿ではありません。なぜなら、日曜日の礼拝のときだけしか、従っていないからです。

つまり、本当の弟子とは「日々」イエス様に従う人です。日々とは、一日中、24時間という意味です。日曜日だけではなく、月曜、火曜、水曜、木曜、金曜、土曜日もイエス様に従うということです。つまり、キリストの弟子になるとは、単なる教えではなく、ライフスタイルです。キリストの弟子とは、生き様、ライフスタイルです。キリストの弟子であるならば、どうでしょうか?主イエス・キリストがあなたに「そうではなく、このようにしなさい」と言われたならどうするのでしょうか?「はい、わかりました」と従います。なぜなら、「自分を捨て、日々自分の十字架を負って、そしてイエス様に従うことですから」そのようにすべきです。ブラック・ゴスペルにSay Yes Lordという賛美があります。このような歌詞です。「あなたのみこころに従います。あなたの道に従います。どんなことがあってもそれをします。一日中、あなたにお仕えします。はい、主よ。Say Yes Lord .Say Yes Lord .Say Yes Lord.はい、主よ。はい、主よ。はい、主よ。」なんと気持ちの良い賛美でしょうか?日々、いろんなことがあります。はっきりと、イエス様が「ノー、それはしちゃいけないよ。これをしなさい」とおっしゃっているのが分かります。そんなときどうしたら良いのでしょうか?私たちの毎日がそのような選択があります。どっちを選び取るのでしょうか?「ノー」の方を選ぶのでしょうか?それとも、主が言われる方でしょうか?私たちは、「はい、主よ。あなたに従います」と常に主が示す道を選ぶべきです。そうするなら、神からの幸いと祝福が日々、あなたに訪れます。アーメン。

2.キリストに学ぶ

もう1つ別の方向から弟子とは何かについて考えたいと思います。マタイ1128-30「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」多くの教会の入口には、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と書いた看板が掲げられていると思います。私たちクリスチャンも、イエス様を信じ、癒しと解放を得ました。でも、どうでしょうか?重荷が全部なくなったのでしょうか?悩みや苦しみは取り去られたのでしょうか?クリスチャンになったのに、相変わらず、多くの重荷を負い、悩みや苦しみに負けているのはどうしてでしょうか?それはイエス様のくびきを負わないからです。そのためサタンが、別のくびきをあなたに負わせるのです。多くのクリスチャンが教会に来ます。イエス様が言われます。「私のところへ来なさい。あなたは重荷を負っていますね。私がその重荷を取り去ってあげますよ」。だから、私たちは重荷を持って教会へ来ます。きょうも、重荷を負って教会に来ました。イエス様が「私がその重荷を負ってあげます」と言われました。「ああ、自由になった。楽になった」と言います。そして、家に帰ります。サタンが「あなたは自由ですか?では、一個あげましょう」と言います。日曜日の午後から土曜日までけっこう重荷がたまりました。そして、日曜日再び教会に来ます。イエス様は「私のところへ来なさい。あなたの重荷を下ろしなさい」と言われます。また、イエス様のところに重荷を下ろします。あなたは「ああ、自由になった。楽になった」と言います。そして、家に帰ります。サタンが「あなたは自由ですか?」ともっと重い荷物を与えます。次の週、また重い荷物を持って行きます。イエス様は「私のところへ来なさい。あなたの重荷を下ろしてください」と言われます。彼に何が起こるのでしょうか?サタンは、もっともっと重い重荷を与えます。次の週、もっともっと重い荷物を持っていきます。そこで、気づきます?「あれ、クリスチャンになって信仰を持ったのに、もっと苦しくなった。おかしなー?」。なぜでしょう?イエス様のところに来て、重荷を降ろすことだけがすべてではないからです。解決策はないのでしょうか?魂に安らぎが来る解決策は何なのでしょう?

実はこのみことばには後半があります。「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」アーメン。そうです。私たちは救われて、癒しと解放を受けたとしても、負うべきくびきがあるということです。イエス様が「わたしのくびきを負いなさい。そうすれば魂に安らぎが来ますよ」と言われました。聖書の時代、どのように畑を耕したのでしょうか?二頭の牛が必要でした。一頭は若い牛で、もう一頭は年取った牛です。一頭は先輩牛、もう一頭は後輩牛です。なぜ、二頭使うのでしょう?若い牛が、年取った牛から学ぶためです。年取った牛は経験豊かです。力もあり大変訓練されています。若い牛は、年取った牛から学びます。どのように学ぶのでしょう?二頭一緒にくびきを負って、それで学ぶことができるようにします。若い牛は、いつでも、年取った牛について行きます。年取った牛は、「私の方がお前より強いんだよ」と言います。でも、若い牛はよくしつけられていません。「何か食べたい」と立ち止まります。年とった牛は「ダメだ今は畑仕事だ。私と一緒に行かなければならない」と言って引っ張ります。年取った牛がこっちに行こうとすると、若い牛は別の方向に行こうとします。年取った牛は、「忘れるなよ。俺の方が、力があるんだ」と言います。そのように、一緒にくびきを負って、若い牛は訓練されていきます。このイラストレーションは、年取った牛というのは、イエス様です。そして、若い牛は、あなたです。隣の人に言いましょう。「あなたが若い牛ですよ」。そうです。私たちがイエス様のくびきを一緒に負うとき、サタンからのくびきを負う必要はなくなるのです。私たちはこの世にべったりになり、問題に支配されて生きるべきではありません。私たちはすでに神の国の中で生きているのです。イエス様と一緒にくびきを負うなら、不思議なことに、サタンの重荷から解放され続けるのです。ハレルヤ!

さらに、みことばは何と言っているでしょうか?イエス様は、くびきを一緒に負うだけではなく、「私から学びなさい」と言われます。なぜなら、イエス様は心優しくてへりくだっているからです。私たちは、神の国でどのように生きるかまだ分かっていません。ですから、イエス様から学ぶ必要があります。実は「学ぶ」というギリシャ語は、「弟子」と同じ語源です。キリストの弟子になるとは、キリストから学ぶということなのです。しかも、この学ぶというのは、学校などで知的に学ぶということではありません。どちらかと言うと、「習う」「見習う」の方が近いのです。弟子になって、職人や芸人から学ぶでしょう。お医者さんだってそういうシステムです。やっぱり、現場で師匠の芸や技術を体得していくのではないでしょうか?つまり、弟子とは「見習い(インターン)」であります。見習い(インターン)は、実際の現場や生活の場で師匠から学ぶ人であります。私たちも師匠から学ぶ必要があります。イエス様が私たちの師匠です。イエス様は「みなさんは私をラビと呼ぶだろう。そうです。私こそあなたのラビです」と言われました。ラビ、正確には、ラバイですが、どういう意味でしょうか。当時、ラバイといえば先生のことでした。どのような先生のことでしょう。人生の先生のことです。当時は、今のような大学はありませんでした。もし、あなたが何かを学びたければ、二つの場所しかありませんでした。第一はお父さんから学びます。イエス様は父ヨセフから大工の仕事を学びました。もし、お父さんが教えることができなければ、ラバイから学びます。ラバイとはだれでしょう?人生のあらゆる領域について教えることができる人です。数学も教えられます。結婚生活についても分かります。ラバイは人生の父です。イエス様は私たちの人生のラバイ、父です。どんなことでもイエス様から学ぶことができるのです。すべてのことの先生です。でも、イエス様について行かなければなりません。イエス様について行かなければ、彼から学ぶことはできないのです。

私たちはこのことを信仰生活に適用すべきです。あらゆることについて、人生のラビであるイエス様から学ぶべきです。メッセージとしては分かりました。でも、イエス様は目の前に見えるお方としておられません。「私の目の前にいらっしゃれば、本当に、毎日、ご一緒しながら学べるのになー」と思います。では、どうしたら良いのでしょうか?「それは信仰によってですよ。信仰によってイエス様と共に歩むのですよ」と、言えばもう決まりです。「やっぱり、イエス様は見えないので不安です」と答えるでしょう。実はイエス様は今、聖霊によってあなたの内に、そしてあなたと共におられるのです。私たちが意識しれば、ちゃんとお答えくださるし、助け導いてくださいます。「いや、それでも分かりません」と答えるでしょう。私は朝、30分かけて散歩をします。そのとき、頭の中でひとりごとを言います。セルフトークですが、そこにイエス様もお招きします。ルカ24章に、復活したイエス様がエマオの途上で弟子たちと会話をしたことが書かれています。それと同じです。あのことを思ったり、このことを思ったり、とても自由です。少々、分裂気味ですが、思いとはそんなもんです。イエス様をそこにも招きます。「イエス様どうでしょうか、そうですよね」。突然、過去の暗い思い出がよみがえります。とっても、いやなことです。そのとき「ハレルヤ、主よ」と礼拝します。自分に「あのことがあったから良かったんだ」と言い聞かせます。家に戻ってから30分以上、ディボーションをします。日中も、心の中で自分と会話します。イエス様を時々お招きします。「主よ、どうしたら良いでしょうか?」すると主は答えてくださいます。17世紀にブラザー・ローレンスという人がいました。彼はコックであり、いつも厨房で料理を作っていました。しかし、彼はコランデォー「神の臨在の前に生きる」ということを実践した最初の人です。彼は父なる神と24時間、関係を持ちました。後に、彼は「神の臨在を実践する」と言う本を書きました。彼の書いた本は、現代書かれた、あらゆる本よりもすばらしい本です。有名な伝道者や牧師が彼の本から影響を受けました。彼の本は非常にシンプルです。その料理を作っているときに、神様と話しました。「お父さん、感謝します」と、毎日、話しました。彼の人生に何が起きたでしょうか。彼は福音を宣べ伝える必要がなかった。多くの場合、食事を持ってきて彼が仕えるとき、人々が彼の顔を見て、「ああー」と涙を流して悔い改めたそうです。なぜなら、彼の顔が神の栄光に満ちていたからです。後代の人たちが、「神の臨在の内に歩む」ということを学びんで素晴らしいことが起こりました。

みことばを読み、ディボーションをすることはとても大事です。しかし、もっと大事なのは、ディボーションが終わった後、生活の中でも、神様の臨在の前で生きることです。イエス様は「日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」と言われました。どうぞ、今も私たちと共におられるイエス様を目の前にして、イエス様に従いましょう。試練や苦しみもありますが、イエス様とご一緒ならきっと乗り越えられます。「主イエスと共に歩きましょう、どこまでも。主イエスと共に歩きましょう、いつも。嬉しい時も、悲しい時も、歩きましょう、どこまでも。嬉しい時も、悲しい時も、歩きましょう、いつも。」

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2010年4月11日 (日)

霊的束縛からの解放  出エジプト19:1-6、エペソ4:26-27

クリスチャンが、悪霊によって束縛されることはありえるでしょうか?悪魔は、私たちの救い、つまり永遠のいのちを奪い取ることは決してできません。しかし、私たちの罪や傷が解決されていない場合、私たちのある一部が悪霊によって束縛されることは十分ありえます。エペソ4:27「悪魔に機会を与えないようにしなさい」と書いてあります。機会とは、ギリシャ語ではトポスと言います。トポスとは「場所」あるいは、「駐屯地」とも訳せることばです。ローマ時代、軍隊が敵地に乗り込むとき、作戦行動の拠点となるところをトポスと言いました。霊的な意味では、悪魔が人々を支配するために設ける、足場、足がかりとも言うことができます。「わぁー、そんなものがあるのですか?」と驚くかもしれませんが、実際にあるのです。私たちにはどのようなトポス(足場)があるのでしょうか?3つの分野からお話したいと思います。

1.霊的な罪

霊的な罪とは、偶像礼拝からくるものです。悪魔(サタン)はかつて、自分は神のようになりたいと高慢になって、堕落しました。だから、悪魔は自分も神様のように礼拝を受けたいと願っています。たとえば、アニミズムでは大木を拝みます。神木というかもしれませんが、木自体は悪魔と何の関係もありません。しかし、人が木を拝み続けるなら悪魔がそこにやってきます。なぜなら、悪魔は自分が礼拝されることを求めているからです。そして、悪霊は、木を拝んでいる人の一部をつかまえるでしょう。また、仏壇は物ですから、本来は悪魔と何の関係もありません。しかし、人が仏壇に向かって毎日、お焼香して祈るならどうでしょうか?悪魔は「ああ、私も拝まれたい」と思ってそこにやってきます。そして、悪霊がその人の一部をつかまえるでしょう。聖書には悪霊につかれたゲラサ(ガダラ)人のことが記されています。イエス様が「お前の名は何か」と尋ねました。彼は「私の名はレギオンです」と答えました。おそらく、イエス様は、その人物に名を尋ねたのでしょう。でも、彼の内側にいた悪霊が「レギオンです」と答えました。つまり、彼は人格まで完全に支配されていたのです。しかし、こういう人はめったにいません。ほとんどの場合は、一部分が捕まれて、そのためにコントロールされるのです。たとえば、耳でも捕まれたらどうでしょうか?痛いので、そちらに、顔を向けてしまうでしょう。小指だって捕まれたら、体全体がそちらに持っていかれます。私たちがまことの神様を礼拝するなら、神様の愛と恵みのもとで、自由と喜びにあふれた生活をすることができます。しかし、偶像礼拝をするならば、心や体、霊的な面において何らかの束縛を受けることになるでしょう。

では、偶像礼拝にはどのようなものがあるのでしょうか?第一はアニミズム、神道、仏教に関するものです。日本で行なわれる年中行事はみなそれらの偶像と関係しています。また。ほとんどのお葬式は仏教であり、家には仏壇や神棚があるでしょう。天皇家は天照大神であり、いわば太陽神です。第二は、オカルト関係です。占い、風水、霊能者、超能力などがそうです。昔、「こっくりさん」とか「キューピットちゃん」というのがありました。第三はキリスト教の異端、および異教からくるものです。統一教会は今でも存在しています。また、明治以降、日本にはたくさんの新興宗教が生まれました。あるところは政党まで持っています。外国からニューエイジ・ムーブメントも入ってきています。一部の啓発セミナーやヒーリングミュージックはニューエイジと関係があると言われています。こういうものと関係するとどうなるのでしょうか?悪魔の策略は、まことの神様から人間を限りなく離すことです。そのためには良いものも与えます。病気の癒し、商売繁盛、能力アップ、災いから守ってくれるかもしれません。悪魔がイエス様をどのように誘惑したでしょうか?マタイ48,9「悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう」と言いました。悪魔は良いものを与えるかもしれませが、その代わり、その人の魂(いのち)をもらうのです。そのため、救いを得ることができず、悪魔と同じ永遠の滅びに行くしかありません。クリスチャンも悪魔や悪霊に束縛されることがあります。それは、信仰を持つ前に、あなたの親もしくは、あなた自身が偶像と関係を持ったからです。主は、偶像崇拝をした「父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼす」と言われました。では、そういう人はどんな害を受けるのでしょうか?家系を渡ってくる呪いがあります。金銭トラブル、暴力、離婚、自殺、ガン、精神病、偏頭痛、事故死などです。聖書を読んでも、祈っても集中できません。神様を信じてはいるのですが、混乱や恐れがあります。「自分は何をしてもうまくいかない。どうせまた失敗するんだ」という思いが離れない。神様の約束を信じ切れないというか、深いところに疑いがあります。金縛りにあったり、恐い夢を見ます。変な声が頭の中に聞こえたりする。これは悪霊に対して開かれたドアがあり、そこから暗闇の力があなたに襲いかかっているからです。

どうしたら良いでしょうか?まず、偶像礼拝のチェックリストから、自分が拝んだものや、霊能者から拝まれたことがあるかを調べる必要があります。特に問題なのは、親か自分が偶像の神様と祈願をして契約を結んだ場合です。契約ですから、たとえクリスチャンになっても有効になっているときがあります。ですから、イエス・キリストの御名によって先ず、悔い改めましょう。その後、イエスの御名と血しおによって、それらの契約を破棄するのです。つまり、関係を断ち切って、後ろのドアを閉じる必要があります。その後、主イエス・キリストと父なる神さまに自分自身を捧げる祈りをすべきです。悪霊に離れることを命じてから、霊と魂、身体、すべての部分を主が支配してくださるように願うのです。一度で全部、できないときもありますから、過去の偶像礼拝を思い出したとき、同じようにすれば良いのです。結構、重い場合は、スポンサーから断ち切りの祈りをしてもらった方が良いでしょう。なぜなら、自分で自分自身のロープを切れない場合もあるからです。イエス様は「信じる者は、私の名によって悪霊を追い出すことができる」と約束しておられます。もちろん、偶像礼拝と関係のあるものは全部、処分することが肝心です。

2.魂の傷や罪

前回、「十字架による心の癒し」というメッセージをしました。きょうの場合は、魂の傷や罪から悪霊が入った場合です。全部が全部ではありませんが、そこを足場にして、悪霊が攻撃している場合もあります。エペソ4:26-27「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」これはどういう意味でしょうか?怒りは必ずしも罪ではありません。イエス様も神殿が汚されているのを見たとき、怒りました。しかし、人が怒ったままでいるならば、そこに悪魔が足場を設けることがあるということです。つまり、人が怒りをコントロールしないならば、「悪魔がそこから入り込みますよ」ということです。この世では、ある人たちは、怒りを治めることができず、殺人を犯してしまいます。ほとんどの人たちは、罪を犯してから、「ああ、自分はなんてことをしたんだろう?」と反省するでしょう。でも、後の祭りです。悪魔は、最初は「さあ、殺っちまえ!」とけしかけます。しかし、罪を犯したあと、一変して、「ああ、お前はなんてことをしたんだ。神様もお前を赦さないぞ」と言います。怒りと似ていますが、人を赦さない罪も、悪魔に場所を与えます。マタイ18章には、1万タラントを王様から赦されたしもべのたとえが記されています。1タラントは6000日分の賃金に相当しますが、その1万倍ですから、とほうもない金額です。しかし、そのしもべは、100デナリ借りのある仲間を赦すことができませんでした。仲間は「もう少し待ってくれ」と頼みましたが、承知せず、借金を返すまで牢に投げ入れました。主人はそれを聞いて「私がお前をあわれんでやったように、お前も仲間をあわれんでやるべきではないか」言いました。「主人は怒って、借金を全部返すまで彼を獄吏に引き渡した」と書いてあります。私は、この獄吏にあたるのが、悪霊ではないかと思います。ある人を絶対に赦さないという人がおられますが、心や肉体の病気になるというデーターがあるようです。

もう1つ悪霊が私たちを支配する場所は思い(マインド)であります。悪魔はいつも私たちのマインドに働きかけようとします。もし、悪魔によって思いの中に足場(拠点)が設けられるとどうなるのでしょうか?それはコンピューターのプログラムのように働き、考えや行動パターンが自分の意思ではどうすることもできなくなります。1つの習慣みたいになります。私たちの思いがどうして、悪魔の足場となるのでしょうか?第一は、家族をはじめ、人生で出会う人たちから来るものです。たとえば、「そんなこともできないのか?お前は、何をやってもダメだなー」と親や先生から言われたとします。すると自分の中に劣等感ができてしまいます。その人は、人から認められるために一生懸命頑張ろうと、パフォーマンスに走るでしょう。あるいは「あんたは汚い」あるいは「あんたは醜い、可愛くない」と拒絶されたとします。すると自分の中に怒りと拒絶の悲しみが残り、人を心から愛せなくなります。なぜなら、自分には愛される価値がないと思っているからです。ある牧師が三歳のときこのようなことがあったそうです。お姉ちゃんがノートを買ってくれと言ったら、お母さんは「消しゴムで消したら、もう一度仕えるだろう」と言ったそうです。その当時、ノートは10円でしたが、三歳の子どもは「うちは貧乏なんだ。贅沢はできないんだ」と思ったそうです。大人になっても、中古の車、借家で甘んじていました。解放されるまで、父なる神様に自分の欲しい物を願うことができなかったそうです。第二の足場はトラウマ体験から来るものです。アルコール中毒の父親があばれて、とっても恐くて押入れに隠れました。その人は大人になっても、臆病さが消えません。学校のいじめも子どもにとっては大きなトラウマになります。どの子供も自分がいじめられないように、小学校、中学校でどうやって関門を抜けるかと言うことを考えているようです。いかにいじめに会わないか、ということを考え、勉強どころではありません。両親の離婚もトラウマになりますが、一番ひどいのは虐待や性的虐待です。親は世界で最も信頼できる人なのに、その親から虐待を受ける。虐待を受けた子どもは「自分には愛される価値がないんだ」と石の心を持つでしょう。石の心を持った人を、どんなに愛しても、全部、外に流れてしまいます。その人が愛と信頼感を回復するためには、子供のときの何百倍もの愛を受けなければ、差引勘定が合わないのです。

では、どのようにして癒しと解放を受けることができるのでしょうか?これは前回「十字架による心の癒し」の続編でもあります。違うところは、罪や傷の部分に悪霊がくっついているということです。どうしたら悪霊が離れさるのでしょうか?それは生ゴミを出さなければなりません。生ゴミがあると、カラスやねずみがやってきます。多くの場合、カラスやねずみをおっぱらうだけです。でも、また戻ってくるでしょう。そうではなく、原因となる生ゴミを処分したら、もうカラスやねずみはやってきません。同じように、私たちも解放のミニストリーをすべきであります。まず、心を開いて、愛なる神さまに打ち明けることです。オープンにしない限り、癒しと解放もありません。まるで、下水道のドブさらいみたいかもしれません。腐ったものや空き缶、ドロドロしたものが出てきます。そして、あなたに被害を与えた人たちを赦しましょう。赦すということは、復讐したいという権利を放棄することです。加害者はともかく、あなたがそのことによって自由になることがもっと重要です。赦すということは忘れることではありません。また感情でもありません。赦す感情は永遠にやってきません。大事なのは、「赦します」という意志なのです。その後、イエス様の血しおと聖霊によって傷口を洗い聖めてもらいましょう。最後に、得られなかったもの、失ったものを父なる神様から満たしていただきましょう。父なる神様は救い主イエス様を与えたように、すべての良きものを与えてくださいます。また、思い(マインド)の中にある間違ったものを、イエス・キリストの御名によって、打ち砕きましょう。アンインストールです。そして、正しい神のみことばと入れ替えるのです。聖書は何と言っているでしょうか?あなたには価値がある。あなたはありのままで受け入れられている。あなたは王の子どもであり、御国の世継ぎです。あなたは最良のものを受けることができるのです。アーメン。

3.身体的な罪

身体的な罪とは、悪習慣です。悪習慣とは、救われる前から持っていたものであり、救われた後のものではありません。例えば、クリスチャンになってからタバコの悪習慣を身につけるようになった人がいるでしょうか?また、クリスチャンになってから、麻薬を始めた人はいるでしょうか?そんな人はまずいません。そうです。いつでもクリスチャンの成長を妨げるのは、救われる以前からの罪であり、悪習慣です。悪霊は霊的な存在であり、住む家をさがしています。なぜなら、悪霊は肉体を持っていないからです。彼らの性質を発揮するためには、彼らが住むべき家が必要なのです。だから、聖書には「彼らは地を歩き回って。だれかの体をさがす」と書いてあります。悪霊は絶えず同じ性質を持った住み良い家を探しています。あなたは家を買うときに、あなたの好みに合った家を探すでしょう。同じように、悪霊も自分に合った家を探しています。つまり、悪霊と同じ性格をもった人を探して、そこに住みたいと願っているのです。では、悪霊にそのような場所を与えてしまうのは、どういうプロセスによってでしょうか。悪霊が心の中に入って、その人がそういう性質になるというのではありません。実際は逆です。それは人が心の中に、悪霊にふさわしい性格を育ててしまうからです。たとえば、ある人が心に情欲を育てたとします。いつも「おお、おお」と、ポルノ雑誌やビデオを見ています。女の人を見たら、「おお、おお」となります。そのように長い時間をかけて、情欲の性質ができてしまいます。そのとき悪霊がやって来て、「おお、良い家を見つけたぜ!この家は私と同じ性質だ!」と喜んで入ります。すると、その人の情欲はもっとひどくなり、性的中毒、さらには性的犯罪にまでエスカレートするでしょう。

身体的な罪、つまり悪習慣には、他にどんなものがあるのでしょうか?いま上げた性的罪のほかに、ことばの罪があります。悪口、ゴシップ、嘘、不平不満です。私の口には悪口と不平不満があふれていました。家が貧しかったので、母には不平不満をいつも言っていました。父はとても批判的な人でした。兄や姉たちは自分たちのことを自慢し、私を見下げました。だから、私は学校で自己主張し、他の人の悪口を言いました。結婚してから分かりました。家内が私に「あなた、テレビに向かって、馬鹿、馬鹿と言っているわよ!」と。私は人から批判されると、その何倍も返して、戦ってきました。口に悪霊がいたかどうか分かりませんが、私の性格の一部になっていたことは確かです。神様がくちびるの汚れた者を、贖い取って、ご自分の栄光のために用いるとは一体どういうことでしょうか?神様のあわれみにただ感謝するばかりです。他に、盗み、ギャンブル、ストーカー、食べ物、薬物、ゲームがあります。最近は依存症と言いますが、昔は中毒と言いました。仕事も中毒になります。もちろん、アルコールも中毒になります。そういう悪習慣の背後に、悪霊がひっついているならどうなるでしょうか?やめたくてもやめられない。自分ではどうしようもなくなります。ますます、下降線をくだり、最後は死です。しかし、渦中にある人たちはどうでしょうか?助けを求めるなら希望があります。多くの場合、それらを否認して、「自分はたいしたことない。いつでもやめられる!」と言うのです。そういう罪を光の中に出さなければ、決して解放されることはありません。

こういう身体的な罪から解放されるためには3つのことが必要です。第一は自分の罪を言い表すということです。エペソ5:11-14 実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。なぜなら、彼らがひそかに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」第二番目は、悪霊を追い出します。「この宮は、キリストによって贖い取られた聖なる宮である。イエスの御名によって出て行け!」と命じます。しかし、それだけだとまた悪霊がやってきます。7人の友達と一緒に「この家にもう一度、入ろう」とやって来ます。第三番目の悔い改め、つまり人格的な変化が必要です。悔い改めはギリシャ語で、メタノイアと言います。メタノイアとは方向を変えるということです。イエス様の時代に、ローマ兵士は行進をしました。「1・2、1・2、1・2、1・2、メタノイア」(方向を変える)。「1・2、1・2、1・2、1・2、メタノイア」(方向を変える)。「1・2、1・2、1・2、1・2、メタノイア」(方向を変える)。これがメタノイアです。メタノイアとは、反対に方向転換するということです。では、情欲の逆は何でしょう。きよい愛です。だから、情欲からきよい愛へと変えることです。盗みをしている人はどうすべきでしょうか?盗むのをやめるだけでは、まだメタノイアしてはいません。「困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働く」ことです。反対のことを行なうために方向転換をすることがメタノイアです。「盗み、盗み、盗み、メタノイア」(方向を変える)。「与える、与える、与える」です。悪口、ゴシップはどうしたら良いでしょう?「ゴシップ、ゴシップ、ゴシップ、メタノイア」(方向を変える)。「建て上げる、建て上げる、建て上げる」です。アルコール中毒の人はどうしたら良いでしょうか?アルコールをやめるだけではなく、メタノイアして、こんどはみことばの中毒になることです。依存症(中毒)の場合は、サポートグループに入って、互いに励まし合うことが必要です。

イエス・キリストはルカ4章でこのように言われました。「主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」アーメン。主は今も生きておられ、霊と心と体が縛られている人たちを自由にしてくださいます。ヨベルの年、つまり悪魔の奴隷状態から、私たちを解放してくださるのです。

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2010年4月 4日 (日)

肉体が贖われる    Ⅰコリント15:40-52

 私たちが「救い」というときに、そこにはいろんな意味があります。罪が赦されて義と認められる。天の御国を受け継ぐ神の子とされる。新しく生まれ変わり、永遠の命が与えられる。もちろん、そう意味で「私はキリストを信じて救われた」と言います。しかし、私たちの救いが本当に完成するのは、この肉体が復活したときであります。なぜなら、キリスト教の救いは魂だけではありません。この肉体が復活する、つまり肉体が贖われたときに救いが完成するのです。この地上にいる間は、残念ですが、救いの途上にあります。私たちは救われていても、罪を犯すこともあるし、病気になることもあります。いろんな悩みもあるし、失敗することもあります。なでしょう?救いがまだ完成していないからです。でも、すばらしい保証があります。それは、イエス・キリストが十字架で贖いを成し遂げられた3日目に、よみがえられたからです。イエス・キリストは私たちの最大の敵である死に勝利されました。そして、イエス・キリストを信じる私たちも終わりの日に、よみがえると約束されています。ハレルヤ!きょうは、キリストにある復活が私たちの人生において、どのような意味があるのか共に学びたいと思います。

1.復活のからだ

 使徒パウロは復活のからだというものがどういうものなのか、私たちの周りのものと比較しながら述べています。復活のからだは、いわば天上のからだです。一方、私たちの肉体は、地上のからだです。どちらに栄光があるのかというと、もちろん天上のからだです。種まきのたとえでも説明するとこのようになります。私たちはこの地上に種として蒔かれました。種というのは、卑しくて、弱くて、まるで私たちの血肉のからだのようであります。朝顔やコスモスの種をご覧になったことがあるでしょうか?小さくて、あまり見栄えがしません。でも、種が地面に蒔かれるとどうでしょうか?種は一旦、地面の中で死にます。しかし、全く新しい姿になって地面から出てきます。そして、美しい花を咲かせます。これが復活です。復活のからだは、栄光があり、強くて、御霊に属するからだです。また、アダムに属するからだは、土で作られたはかないからだでした。聖書には「人間は塵で作られたのだから、塵(土)に帰る」と言っています。しかし、最後のアダムであるキリストは、天から出たものであり、神さまのように永遠です。なぜ、私たちはこの肉体ではダメなのでしょうか?それは、この肉体では神の御国を相続できないからです。だって、そうでしょう。この肉体はもって100年です。人間の寿命は最高で120年と言われています。でも、そのときは目もかすみ、歯もなくなり、頭もボケて、日常生活ができない状態でしょう。つまり、この肉体に対して、いくら美容整形しても、サプリメントを飲んだとしても、朽ちてしまうのです。なぜなら、この肉体はこの地上の生活のためにあるからです。

 では、天上のからだとはどういうからだなのでしょうか?パウロは「朽ちない栄光のからだである」と言っています。朽ちないというのは、年老いたり、病気にもならないということです。もちろん、死ぬこともありません。パウロは53,54節に「朽ちないものを着る、不死を着る」と言っています。着るということはどういう意味でしょうか?私たちのこの肉体が朽ちる着物であるということです。そして、やがて天上のからだという朽ちない着物を着るのです。ということはどうでしょう?着物を着る前の私たち自身、私たちの本体とは何でしょうか?Ⅱコリント5章には、「それを着たなら、私たちは裸の状態になることはない」と書いてあります。私たち自身、つまり裸の状態とは、内なる人であります。「外なる人衰えても、内なる人は日々新たにされています」という、内なる人です。内なる人というのは、厳密に言うならば、私たちの霊と魂です。私たちの構造は、一番外側が肉体です。そして、その中に霊と魂を持っています。霊と魂はくっついており、引き離すことが困難です。人間は、生物学的には「ヒト」と言って、他の生物と一緒にされます。確かに、私たちの肉体は他の動物とほとんど変わりません。しかし、理科や科学では説明できない、霊と魂が私たちの中にあるのです。「それは心ですか?」と聞かれると、「はい、心です」とも言えません。心と魂は同じですが、私たちの内側には霊も存在しています。動物には魂、つまり心があります。動物だって悲しんだり、喜んだり、何かを考えたり、意思も持っています。しかし、彼らには霊がないのです。創世記に神はご自身のかたちに似せて人を造られたと書いてあります。神のかたちとは、霊であります。私たちは霊的な生き物なので、神さまと交わり、神さまのイメージを持っているのです。

 ということで、お分かりいただけたでしょうか?私たちの霊と魂はからだを必要としています。なぜなら、霊と魂では考えることはできても、物質に対しては何もできません。からだがあるときはじめて、何かできるわけです。また、霊と魂では裸の状態です。この地上のからだはいつしか朽ちて土に帰るべき存在です。ですから、私たちは天上に住むためには是が非でも、朽ちない復活のからだを持つ必要があるのです。このようなことを分かったなら、もう、お化粧をやめてしまうでしょうか?でも、無駄な抵抗だとわかっていても、やめないでください。若返る方法を見つけて、いろいろなさっても結構だと思います。でも、この世の人たちと私たちとでは、根本的に違います。この世の人たちは、いつかは死ぬことを知りながら、無駄な抵抗をし続けています。しかし、私たちはどうでしょう?いつかは死ぬこの地上のからだだけれども、大事に使います。でも、やがては天上のからだに移り住むので、未練はないということです。パウロは私たちの地上のからだは天幕、テントみたいな存在だと言っています。テントは雨風にさらされると10年もたないでしょう。しかし、天上のからだは建物、ビルディングであると言っています。ヨーローッパの建造物をご覧になったことがあるでしょうか?古い教会堂などは500年以上も経っているのに平気です。それは、比較の問題ですが、天上のからだは恒久的、永遠だということです。私たちはこの地上べったりに住んでいる存在ではなく、天上のからだに引越しする存在だということです。この地上は仮の住まいであり、向こうが永住地だということです。

2.復活の根拠

 第一のポイントで終りますと、何か御伽噺か作り話のように思われてしまいます。ある人は、キリスト教は、非科学的だと言います。しかし、私は非常に科学的であると思います。なぜなら、イエス・キリストは一度死なれて、栄光のからだへと復活したからです。そして、そのことを見たという証人が一人や二人ではありません。Ⅰコリント15:5以降を見ますと、12弟子のほかに、500人以上の兄弟たちに同時に現れたとあります。そして、パウロも復活の主と出会ったと証言しています。私たちはマタイ28章、マルコ16章、ルカ24章、ヨハネ20-21章から、弟子たちの証言を見ることができます。しかし、不思議なことに彼らの証言には一貫性がありません。でたらめとは言いませんが、時間的に矛盾があり、だれがどう出会ったのかつじつまが合わないところがあります。聖書をまともに信じない人たちは、「だから復活はなかった、作り話だ」と言います。しかし、そうではありません。弟子たちはあえて、つじつまを合わせなかったのです。むしろ、自分たちが見たことをそのまま書いたのです。「えー?どうしてですか?それじゃ、説得力に欠けるでしょう」と言いたくなります。でも、それだから信憑性が高いのです。ヒントは、Ⅰコリント15章にあるように、イエス様は彼らに同時に現われたからです。同時に現われると、時間の整合性、アリバイがおかしくなります。イエス様の以前の肉体では、ガリラヤにいるとエルサレムにいることができませんでした。また、エルサレムにいるならば、エマオにもいることはできなかったでしょう。しかし、復活の栄光のからだは、そういうことができたのです。なんと、時間と空間を超えることができたのです。その証拠に、弟子たちが部屋の戸を閉じていても、そこをすり抜けて、彼らの前に現われることができました。また、イエス様はエマオの途上で二人の弟子たちとかなりの時間、歩いていたでしょう。しかし、エルサレムでは「シモンに、み姿を現された」と書いてあります。では、イエス様のお体が何体もあったのか、どうか私たちの小さい頭では理解できません。とにかく分かることは、多くの人たちがよみがえられたイエス様に、いろんなところで出会ったということです。

 しかし、イエス様が復活したから、この世の人たち全部が復活するかというとそうではありません。厳密に言うならば、全部復活します。ある者は永遠の御国に入るため、ある者は永遠の滅びに入るため復活すると書いてあるからです。でも、同じ復活するならば、永遠の御国に入りたいですよね。そこに入るための根拠、保証とは何なのでしょうか?それは、Ⅰコリント15:20「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」とあります。飛んで、15:23「しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。」初穂とは、どういう意味でしょうか?初穂とは、畑にできた最初の作物であり、それを神さまにささげるように定められていました。その後に、本格的な収穫がはじまるわけです。つまり、イエス様が死んだ人の中から最初に復活した、初穂であります。第一号です。その後に、数え切れない人たちが復活しますが、条件は「キリストに属している者」です。つまり、イエス様を信じて、御霊をいただいている人です。御霊とは、聖霊の証印であり、御国を受け継ぐことの保証であります。神さまは、そのことによって、どの人が救いを受けているかいっぺんで分かるのです。夏になると子どもたちを連れて、稲毛浜海浜プールによく出かけたものです。そのプールは海岸にも隣接しています。もし、海岸に行きたければ、腕か手の甲に係り員がスタンプを押してくれます。そのスタンプは色が全くついていません。それで、海岸でちょっと遊んで、プールに戻ります。すると、さきほどの係り員が入り口で、レンズみたいなものをかざします。驚くべきことに、押してもらったスタンプが、黄色く光って見えるのです。あれと同じです。私たちはこの地上で生活していて、どの人がクリスチャンで、どの人がクリスチャンでないか全くわかりません。でも、神さまはどの人が、ご自分のもので、どの人が自分のものでないのか分かるのです。なぜなら、キリストに属している者は、聖霊の証印が押されているからです。ですから、終わりの日、まず、神さまは聖霊の証印が押されている人たちを最初によみがえらせます。もし、再臨のときに生きていたならば、死なないで、一挙に栄光のからだに変えられ、天に引き上げられます。繰り返し申し上げますが、最も重要なことは、イエス・キリストを信じて、神のものとなっているか、そうでないかであります。

 しかし、私たちクリスチャンが復活するか、しないかは科学では証明できません。科学というのは、繰り返し、実験してみて、「あーそうだ」と証明できることであります。イエス・キリストの復活は一度きりです。そして、私たちの身に起こるであろう復活は将来のことです。このことは、科学ではなく、信仰の世界です。私は聖書から信仰のことについてお話しているのです。どうでしょうか?科学で証明されていないから、決して信じないでしょうか?でも、イエス・キリストが初穂として復活したのは、証明されている事実です。本当です。だから、キリスト教会は日曜日の午前中に、主日礼拝をささげます。当時、ユダヤ教の安息日は土曜日でした。これはイスラエルにとって永遠のさだめでした。日曜日は週のはじめであり、仕事をする日でした。しかし、初代教会は土曜日の安息日ではなく、あえて日曜日に礼拝をささげたのです。なぜでしょうか?主の復活を記念して、これを後代の人たちに知らせるためです。別に月曜日や木曜日、礼拝しても構わないのです。でも、あえて日曜日にしたのは、イエス・キリストが復活したからです。ハレルヤ!ですから、私たちが日曜日の朝、このように集まって、神さまに礼拝をささげるということはすばらしい証なのです。こんど人々から「どうして、あなたがたは日曜日の朝、教会に行くのですか?」と聞かれたらこう答えてください。「2000年前、イエス・キリストが私たちの罪のために死なれ、三日目によみがえられたからです。私たちはこのことを感謝するために教会に礼拝をささげるために行くのです」と。仏教という死の世界を信じている人たちには、大いなる証ではないかと思います。

3.復活の人生

私たちがこの肉体が終わりの日に復活するということを信じているならば、この地上の生き方が変わるのではないでしょうか?その前に、パウロの頃の人たちは肉体の復活についてどう考えていたのでしょうか?パウロが伝えた世界はギリシャ哲学を基盤とした世界です。ギリシャ的な考えでは、魂は善であるが、肉体は悪と見なされていました。つまり、魂は肉体という牢獄に閉じ込められているということです。そして、「霊魂だけが不滅、永遠なんだ」と信じられていました。彼らに対して、パウロが肉体の復活ということを伝えると、彼らの多くはあざ笑いました。「どうして、悪である肉体を取り戻す必要があるのか?そんなの無意味だ」と考えたからです。しかし、肉体が悪であり、霊魂が善であると考える彼らの生き方はどうなるでしょうか?両極端に分かれます。1つは快楽主義、もう1つは禁欲主義です。快楽主義とは、「この肉体をどのように用いても霊魂とは関係ない。だから、肉体を快楽のために好き勝手に用いても良い」というふうになります。使徒パウロがⅠコリント15:32「もし、死者の復活がないなら、あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか、ということになるのです」とあります。どうでしょうか?日本人でも、そういう人がいるのではないでしょうか?「生きているうちが花だ」だから、面白おかしく生きればそれで良いんだというふうになります。しかし、ある人たちは、死というものを直視しないで、ただひたすら生きる、人生を全うするという考えです。そういう人たちは、未解決な死をいうものをいつもぶらさげて生きているのではないでしょうか?

もう1つは禁欲主義です。これは、肉体の中にある欲望を絶つことによって、霊魂がきよめられるという考えです。使徒パウロはこれに対して何と言っているでしょうか?コロサイ2:21-23「『すがるな。味わうな。さわるな』というような定めに縛られるのですか。そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。」こういう禁欲主義は、キリスト教の中にもありますし、仏教や他の宗教にもあります。肉体を打ち叩いて修行したり、断食したり、結婚もしない、肉も食べない。しかし、そういうものは、肉体の欲望に対しては全く効き目がないということです。ある人が、祈っているクリスチャンと禅をしている人の脳波を調べたそうです。私たちは神さまと交わっているとき、祈りでも瞑想でもそうですが、脳派は安定しているそうです。しかし、禅をしている人は脳波が突然、乱れるときがあるそうです。なぜでしょう?それは、自分の意思で自分を無にしようと努力しているからです。私たちの場合は、自分の欲望や悪い思いを抑圧するのではなく、神さまの前にそのまま差し出していきます。そうしますと、内におられる聖霊がそれらを支配して、魂を安定させてくださるのです。自分の意思ではなく、聖霊様がうまくやってくださるのです。また、私たちの肉体は悪ではありません。なぜなら、神さまが物質や肉体をもお造りになり、「すべて良し」とされたからです。ただし、人間が罪を犯してから、それらを正しく用いることができなくなりました。たとえば、結婚における性的な交わりは、夫婦が喜び楽しむように神さまが与えてくださったものです。しかし、神さまが定めた枠を飛び越えるならば、不品行や姦淫になるのです。また、さまざま物質は、神さまがくださった一般恩寵の一部であります。物質がすべて悪であるとして、「できるだけ節約し、貧しく生きるんだ」としたら回りの人はどう思うでしょう?「熱心だけど、あのようにはなりたくない」と思うでしょう。私たちはこの物質の限界を知りつつ、生活を楽しむことができます。

しかし、復活を信じている私たちと、この世の人たちと決定的な違いがあります。それはこの世での生き方が全く違ってくるということです。この世の人たちは、「死ねば終わりだ」と考えているので、快楽主義か禁欲主義になります。たとえそのようにならなくても、空虚な思いを拭い去ることはできません。「死ねば終わりだ」と考えている人が、ニヒリズム(虚無主義)にならない方がおかしいのではないでしょうか?では、復活を信じてる人たちの、この世のでの生き方はどうでしょうか?私たちはこの世の人生は、来世、天の御国の準備であると信じています。この世で報いられなかったことは、やがて天の御国では回復されると信じています。ある人は生まれつき目が見えなかったり、耳が聞こえなかったり、いろんなハンディキャップを負って生きています。またある人は、ものすごい不条理、不当な扱いを受けで、とても不幸な生き方をしているかもしれません。もしもこの地上の人生がすべてであったなら、どうしてもガテンがいきません。不公平きわまりないと思うでしょう。生まれつき金持ちの家で生まれる人もあれば、貧しくて教育も受けられない人たちだっています。セレブの人もおれば、ひどい境遇の中で差別を受けていきる人だっているでしょう?もし、この地上の人生がすべてであったら、馬鹿馬鹿しくて真面目に生きることなんかできないでしょう。しかし、イエス・キリストによる復活が事実としてあるならばどうでしょうか?天における報いを信じて、ひたすら与えられた人生を全うすることができるのではないでしょうか?1タラントしか与えられていない人は、5タラント行なう必要はありません。神から与えられた1タラントを忠実に用いれば良いのです。神さまが与えてくれた人生、いろいろあるでしょう。でも、キリストによる十字架の贖いと復活は、そこに生きる価値と意義をもたらしてくれます。

使徒パウロが復活を信じる私たちに熱いメッセージを送っています。Ⅰコリント15:58「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」アーメン。キリストによる復活があるので、私たちは堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励むことができるのです。なぜなら、私たちの労苦が主にあってむだでないことを知っているからです。キリストによる復活の人生は、労苦が無駄にならない人生です。なぜなら、天において神さまがすべてのものを報いてくださるからです。

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