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2010年4月 4日 (日)

肉体が贖われる    Ⅰコリント15:40-52

 私たちが「救い」というときに、そこにはいろんな意味があります。罪が赦されて義と認められる。天の御国を受け継ぐ神の子とされる。新しく生まれ変わり、永遠の命が与えられる。もちろん、そう意味で「私はキリストを信じて救われた」と言います。しかし、私たちの救いが本当に完成するのは、この肉体が復活したときであります。なぜなら、キリスト教の救いは魂だけではありません。この肉体が復活する、つまり肉体が贖われたときに救いが完成するのです。この地上にいる間は、残念ですが、救いの途上にあります。私たちは救われていても、罪を犯すこともあるし、病気になることもあります。いろんな悩みもあるし、失敗することもあります。なでしょう?救いがまだ完成していないからです。でも、すばらしい保証があります。それは、イエス・キリストが十字架で贖いを成し遂げられた3日目に、よみがえられたからです。イエス・キリストは私たちの最大の敵である死に勝利されました。そして、イエス・キリストを信じる私たちも終わりの日に、よみがえると約束されています。ハレルヤ!きょうは、キリストにある復活が私たちの人生において、どのような意味があるのか共に学びたいと思います。

1.復活のからだ

 使徒パウロは復活のからだというものがどういうものなのか、私たちの周りのものと比較しながら述べています。復活のからだは、いわば天上のからだです。一方、私たちの肉体は、地上のからだです。どちらに栄光があるのかというと、もちろん天上のからだです。種まきのたとえでも説明するとこのようになります。私たちはこの地上に種として蒔かれました。種というのは、卑しくて、弱くて、まるで私たちの血肉のからだのようであります。朝顔やコスモスの種をご覧になったことがあるでしょうか?小さくて、あまり見栄えがしません。でも、種が地面に蒔かれるとどうでしょうか?種は一旦、地面の中で死にます。しかし、全く新しい姿になって地面から出てきます。そして、美しい花を咲かせます。これが復活です。復活のからだは、栄光があり、強くて、御霊に属するからだです。また、アダムに属するからだは、土で作られたはかないからだでした。聖書には「人間は塵で作られたのだから、塵(土)に帰る」と言っています。しかし、最後のアダムであるキリストは、天から出たものであり、神さまのように永遠です。なぜ、私たちはこの肉体ではダメなのでしょうか?それは、この肉体では神の御国を相続できないからです。だって、そうでしょう。この肉体はもって100年です。人間の寿命は最高で120年と言われています。でも、そのときは目もかすみ、歯もなくなり、頭もボケて、日常生活ができない状態でしょう。つまり、この肉体に対して、いくら美容整形しても、サプリメントを飲んだとしても、朽ちてしまうのです。なぜなら、この肉体はこの地上の生活のためにあるからです。

 では、天上のからだとはどういうからだなのでしょうか?パウロは「朽ちない栄光のからだである」と言っています。朽ちないというのは、年老いたり、病気にもならないということです。もちろん、死ぬこともありません。パウロは53,54節に「朽ちないものを着る、不死を着る」と言っています。着るということはどういう意味でしょうか?私たちのこの肉体が朽ちる着物であるということです。そして、やがて天上のからだという朽ちない着物を着るのです。ということはどうでしょう?着物を着る前の私たち自身、私たちの本体とは何でしょうか?Ⅱコリント5章には、「それを着たなら、私たちは裸の状態になることはない」と書いてあります。私たち自身、つまり裸の状態とは、内なる人であります。「外なる人衰えても、内なる人は日々新たにされています」という、内なる人です。内なる人というのは、厳密に言うならば、私たちの霊と魂です。私たちの構造は、一番外側が肉体です。そして、その中に霊と魂を持っています。霊と魂はくっついており、引き離すことが困難です。人間は、生物学的には「ヒト」と言って、他の生物と一緒にされます。確かに、私たちの肉体は他の動物とほとんど変わりません。しかし、理科や科学では説明できない、霊と魂が私たちの中にあるのです。「それは心ですか?」と聞かれると、「はい、心です」とも言えません。心と魂は同じですが、私たちの内側には霊も存在しています。動物には魂、つまり心があります。動物だって悲しんだり、喜んだり、何かを考えたり、意思も持っています。しかし、彼らには霊がないのです。創世記に神はご自身のかたちに似せて人を造られたと書いてあります。神のかたちとは、霊であります。私たちは霊的な生き物なので、神さまと交わり、神さまのイメージを持っているのです。

 ということで、お分かりいただけたでしょうか?私たちの霊と魂はからだを必要としています。なぜなら、霊と魂では考えることはできても、物質に対しては何もできません。からだがあるときはじめて、何かできるわけです。また、霊と魂では裸の状態です。この地上のからだはいつしか朽ちて土に帰るべき存在です。ですから、私たちは天上に住むためには是が非でも、朽ちない復活のからだを持つ必要があるのです。このようなことを分かったなら、もう、お化粧をやめてしまうでしょうか?でも、無駄な抵抗だとわかっていても、やめないでください。若返る方法を見つけて、いろいろなさっても結構だと思います。でも、この世の人たちと私たちとでは、根本的に違います。この世の人たちは、いつかは死ぬことを知りながら、無駄な抵抗をし続けています。しかし、私たちはどうでしょう?いつかは死ぬこの地上のからだだけれども、大事に使います。でも、やがては天上のからだに移り住むので、未練はないということです。パウロは私たちの地上のからだは天幕、テントみたいな存在だと言っています。テントは雨風にさらされると10年もたないでしょう。しかし、天上のからだは建物、ビルディングであると言っています。ヨーローッパの建造物をご覧になったことがあるでしょうか?古い教会堂などは500年以上も経っているのに平気です。それは、比較の問題ですが、天上のからだは恒久的、永遠だということです。私たちはこの地上べったりに住んでいる存在ではなく、天上のからだに引越しする存在だということです。この地上は仮の住まいであり、向こうが永住地だということです。

2.復活の根拠

 第一のポイントで終りますと、何か御伽噺か作り話のように思われてしまいます。ある人は、キリスト教は、非科学的だと言います。しかし、私は非常に科学的であると思います。なぜなら、イエス・キリストは一度死なれて、栄光のからだへと復活したからです。そして、そのことを見たという証人が一人や二人ではありません。Ⅰコリント15:5以降を見ますと、12弟子のほかに、500人以上の兄弟たちに同時に現れたとあります。そして、パウロも復活の主と出会ったと証言しています。私たちはマタイ28章、マルコ16章、ルカ24章、ヨハネ20-21章から、弟子たちの証言を見ることができます。しかし、不思議なことに彼らの証言には一貫性がありません。でたらめとは言いませんが、時間的に矛盾があり、だれがどう出会ったのかつじつまが合わないところがあります。聖書をまともに信じない人たちは、「だから復活はなかった、作り話だ」と言います。しかし、そうではありません。弟子たちはあえて、つじつまを合わせなかったのです。むしろ、自分たちが見たことをそのまま書いたのです。「えー?どうしてですか?それじゃ、説得力に欠けるでしょう」と言いたくなります。でも、それだから信憑性が高いのです。ヒントは、Ⅰコリント15章にあるように、イエス様は彼らに同時に現われたからです。同時に現われると、時間の整合性、アリバイがおかしくなります。イエス様の以前の肉体では、ガリラヤにいるとエルサレムにいることができませんでした。また、エルサレムにいるならば、エマオにもいることはできなかったでしょう。しかし、復活の栄光のからだは、そういうことができたのです。なんと、時間と空間を超えることができたのです。その証拠に、弟子たちが部屋の戸を閉じていても、そこをすり抜けて、彼らの前に現われることができました。また、イエス様はエマオの途上で二人の弟子たちとかなりの時間、歩いていたでしょう。しかし、エルサレムでは「シモンに、み姿を現された」と書いてあります。では、イエス様のお体が何体もあったのか、どうか私たちの小さい頭では理解できません。とにかく分かることは、多くの人たちがよみがえられたイエス様に、いろんなところで出会ったということです。

 しかし、イエス様が復活したから、この世の人たち全部が復活するかというとそうではありません。厳密に言うならば、全部復活します。ある者は永遠の御国に入るため、ある者は永遠の滅びに入るため復活すると書いてあるからです。でも、同じ復活するならば、永遠の御国に入りたいですよね。そこに入るための根拠、保証とは何なのでしょうか?それは、Ⅰコリント15:20「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」とあります。飛んで、15:23「しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。」初穂とは、どういう意味でしょうか?初穂とは、畑にできた最初の作物であり、それを神さまにささげるように定められていました。その後に、本格的な収穫がはじまるわけです。つまり、イエス様が死んだ人の中から最初に復活した、初穂であります。第一号です。その後に、数え切れない人たちが復活しますが、条件は「キリストに属している者」です。つまり、イエス様を信じて、御霊をいただいている人です。御霊とは、聖霊の証印であり、御国を受け継ぐことの保証であります。神さまは、そのことによって、どの人が救いを受けているかいっぺんで分かるのです。夏になると子どもたちを連れて、稲毛浜海浜プールによく出かけたものです。そのプールは海岸にも隣接しています。もし、海岸に行きたければ、腕か手の甲に係り員がスタンプを押してくれます。そのスタンプは色が全くついていません。それで、海岸でちょっと遊んで、プールに戻ります。すると、さきほどの係り員が入り口で、レンズみたいなものをかざします。驚くべきことに、押してもらったスタンプが、黄色く光って見えるのです。あれと同じです。私たちはこの地上で生活していて、どの人がクリスチャンで、どの人がクリスチャンでないか全くわかりません。でも、神さまはどの人が、ご自分のもので、どの人が自分のものでないのか分かるのです。なぜなら、キリストに属している者は、聖霊の証印が押されているからです。ですから、終わりの日、まず、神さまは聖霊の証印が押されている人たちを最初によみがえらせます。もし、再臨のときに生きていたならば、死なないで、一挙に栄光のからだに変えられ、天に引き上げられます。繰り返し申し上げますが、最も重要なことは、イエス・キリストを信じて、神のものとなっているか、そうでないかであります。

 しかし、私たちクリスチャンが復活するか、しないかは科学では証明できません。科学というのは、繰り返し、実験してみて、「あーそうだ」と証明できることであります。イエス・キリストの復活は一度きりです。そして、私たちの身に起こるであろう復活は将来のことです。このことは、科学ではなく、信仰の世界です。私は聖書から信仰のことについてお話しているのです。どうでしょうか?科学で証明されていないから、決して信じないでしょうか?でも、イエス・キリストが初穂として復活したのは、証明されている事実です。本当です。だから、キリスト教会は日曜日の午前中に、主日礼拝をささげます。当時、ユダヤ教の安息日は土曜日でした。これはイスラエルにとって永遠のさだめでした。日曜日は週のはじめであり、仕事をする日でした。しかし、初代教会は土曜日の安息日ではなく、あえて日曜日に礼拝をささげたのです。なぜでしょうか?主の復活を記念して、これを後代の人たちに知らせるためです。別に月曜日や木曜日、礼拝しても構わないのです。でも、あえて日曜日にしたのは、イエス・キリストが復活したからです。ハレルヤ!ですから、私たちが日曜日の朝、このように集まって、神さまに礼拝をささげるということはすばらしい証なのです。こんど人々から「どうして、あなたがたは日曜日の朝、教会に行くのですか?」と聞かれたらこう答えてください。「2000年前、イエス・キリストが私たちの罪のために死なれ、三日目によみがえられたからです。私たちはこのことを感謝するために教会に礼拝をささげるために行くのです」と。仏教という死の世界を信じている人たちには、大いなる証ではないかと思います。

3.復活の人生

私たちがこの肉体が終わりの日に復活するということを信じているならば、この地上の生き方が変わるのではないでしょうか?その前に、パウロの頃の人たちは肉体の復活についてどう考えていたのでしょうか?パウロが伝えた世界はギリシャ哲学を基盤とした世界です。ギリシャ的な考えでは、魂は善であるが、肉体は悪と見なされていました。つまり、魂は肉体という牢獄に閉じ込められているということです。そして、「霊魂だけが不滅、永遠なんだ」と信じられていました。彼らに対して、パウロが肉体の復活ということを伝えると、彼らの多くはあざ笑いました。「どうして、悪である肉体を取り戻す必要があるのか?そんなの無意味だ」と考えたからです。しかし、肉体が悪であり、霊魂が善であると考える彼らの生き方はどうなるでしょうか?両極端に分かれます。1つは快楽主義、もう1つは禁欲主義です。快楽主義とは、「この肉体をどのように用いても霊魂とは関係ない。だから、肉体を快楽のために好き勝手に用いても良い」というふうになります。使徒パウロがⅠコリント15:32「もし、死者の復活がないなら、あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか、ということになるのです」とあります。どうでしょうか?日本人でも、そういう人がいるのではないでしょうか?「生きているうちが花だ」だから、面白おかしく生きればそれで良いんだというふうになります。しかし、ある人たちは、死というものを直視しないで、ただひたすら生きる、人生を全うするという考えです。そういう人たちは、未解決な死をいうものをいつもぶらさげて生きているのではないでしょうか?

もう1つは禁欲主義です。これは、肉体の中にある欲望を絶つことによって、霊魂がきよめられるという考えです。使徒パウロはこれに対して何と言っているでしょうか?コロサイ2:21-23「『すがるな。味わうな。さわるな』というような定めに縛られるのですか。そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。」こういう禁欲主義は、キリスト教の中にもありますし、仏教や他の宗教にもあります。肉体を打ち叩いて修行したり、断食したり、結婚もしない、肉も食べない。しかし、そういうものは、肉体の欲望に対しては全く効き目がないということです。ある人が、祈っているクリスチャンと禅をしている人の脳波を調べたそうです。私たちは神さまと交わっているとき、祈りでも瞑想でもそうですが、脳派は安定しているそうです。しかし、禅をしている人は脳波が突然、乱れるときがあるそうです。なぜでしょう?それは、自分の意思で自分を無にしようと努力しているからです。私たちの場合は、自分の欲望や悪い思いを抑圧するのではなく、神さまの前にそのまま差し出していきます。そうしますと、内におられる聖霊がそれらを支配して、魂を安定させてくださるのです。自分の意思ではなく、聖霊様がうまくやってくださるのです。また、私たちの肉体は悪ではありません。なぜなら、神さまが物質や肉体をもお造りになり、「すべて良し」とされたからです。ただし、人間が罪を犯してから、それらを正しく用いることができなくなりました。たとえば、結婚における性的な交わりは、夫婦が喜び楽しむように神さまが与えてくださったものです。しかし、神さまが定めた枠を飛び越えるならば、不品行や姦淫になるのです。また、さまざま物質は、神さまがくださった一般恩寵の一部であります。物質がすべて悪であるとして、「できるだけ節約し、貧しく生きるんだ」としたら回りの人はどう思うでしょう?「熱心だけど、あのようにはなりたくない」と思うでしょう。私たちはこの物質の限界を知りつつ、生活を楽しむことができます。

しかし、復活を信じている私たちと、この世の人たちと決定的な違いがあります。それはこの世での生き方が全く違ってくるということです。この世の人たちは、「死ねば終わりだ」と考えているので、快楽主義か禁欲主義になります。たとえそのようにならなくても、空虚な思いを拭い去ることはできません。「死ねば終わりだ」と考えている人が、ニヒリズム(虚無主義)にならない方がおかしいのではないでしょうか?では、復活を信じてる人たちの、この世のでの生き方はどうでしょうか?私たちはこの世の人生は、来世、天の御国の準備であると信じています。この世で報いられなかったことは、やがて天の御国では回復されると信じています。ある人は生まれつき目が見えなかったり、耳が聞こえなかったり、いろんなハンディキャップを負って生きています。またある人は、ものすごい不条理、不当な扱いを受けで、とても不幸な生き方をしているかもしれません。もしもこの地上の人生がすべてであったなら、どうしてもガテンがいきません。不公平きわまりないと思うでしょう。生まれつき金持ちの家で生まれる人もあれば、貧しくて教育も受けられない人たちだっています。セレブの人もおれば、ひどい境遇の中で差別を受けていきる人だっているでしょう?もし、この地上の人生がすべてであったら、馬鹿馬鹿しくて真面目に生きることなんかできないでしょう。しかし、イエス・キリストによる復活が事実としてあるならばどうでしょうか?天における報いを信じて、ひたすら与えられた人生を全うすることができるのではないでしょうか?1タラントしか与えられていない人は、5タラント行なう必要はありません。神から与えられた1タラントを忠実に用いれば良いのです。神さまが与えてくれた人生、いろいろあるでしょう。でも、キリストによる十字架の贖いと復活は、そこに生きる価値と意義をもたらしてくれます。

使徒パウロが復活を信じる私たちに熱いメッセージを送っています。Ⅰコリント15:58「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」アーメン。キリストによる復活があるので、私たちは堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励むことができるのです。なぜなら、私たちの労苦が主にあってむだでないことを知っているからです。キリストによる復活の人生は、労苦が無駄にならない人生です。なぜなら、天において神さまがすべてのものを報いてくださるからです。

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