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2010年4月18日 (日)

キリストの弟子とは     マタイ10:37-39、11:28-30

 前回は4回にわたって「癒しと解放」について学びました。これからはキリストの弟子について学びたいと思います。皆さん、「癒され、解放されて良かったなー」でおしまいになってはいけません。なぜなら、糸の切れた凧のようになってしまうからです。次の段階はキリストの弟子として従っていく必要があります。キリストに従うことについては「神の国の福音」でも少しお話ししました。イエス・キリストは救い主だけではなく、私たちにとって人生の主であり王様であるということです。私たちクリスチャンは死んでから天国に行くだけが目的ではありません。私たちは神の国に生きるキリストの弟子として、使命があるのです。「癒しと解放」がプラスマイナスゼロであったなら、今度は、主にあってプラスの人生を送るべきではないでしょうか?神の国における、キリスト弟子とは何か?2つのポイントでメッセージをお伝えしたいと思います。

1.キリストに従う人

 福音書を見てわかりますが、イエス様は福音を宣べ伝え、癒しと解放を行ないました。その結果、イエス様のもとに大勢の人たちが集まりました。その後、どうなされたでしょうか?イエス様は「自分の十字架を負ってわたしについて来なさい」と言われました。順番的には、癒しと解放を受けた人たちに、弟子になるかということを問いただしたのです。イエス様がどう言われたのかもう少し詳しく見てみたいと思います。少し前の34節あたりから見ますと、イエス様は「私よりも自分の家族(父母、妻子)を愛する者は、私にふさわしい者ではありません」とおっしゃいました。イエス様の弟子になるとき、家族の人たちがあなたの妨げになることもあるのです。なんと、家族を敵に回すこともありえることを示唆しています。ちょっと、これはちょっと厳しいんじゃないでしょうか?初めての方は、どうぞシートベルトをお締めください。誤解の与えないようにちょっと説明させていただきます。父や母、妻あるいは夫、息子、娘を愛するなということではありません。これは「生まれつきの人間の情というものを一度断ち切りなさい。あなたの父や母、妻あるいは夫、息子、娘はあなたのものではなく、神様があなたに与えたものですよ。新たに信仰によって受け取りなさい。そして、彼らをキリスト様よりも第一にしてはいけません」ということなのです。ハレルヤ!36節には、「キリストのゆえに、自分のいのちを失った者は、それを得る」とも書いてあります。これも同じで、私たちのいのちも自分のものではなく、神様があなたに与えたものです。自分のいのちよりも、キリストを第一にしていくなら逆にそれを得るということです。この世の人たちは、なぜ家族関係がうまくいかないのでしょうか?あるいは、なぜ、自分のいのちを自ら絶つのでしょうか?その原因は、それらのものが全部自分のものだと考えているからです。そうではありません。家族も自分のいのちさえもみんな神様からの授かり物です。そして、キリストを第一としてそれらを管理していくときに、家族も自分のいのちも結局は、守られるということです。

イエス様は人々に、「自分の十字架を負ってわたしについて来なさい」と言われました。これはどういう意味でしょうか?世の人たちは、自分の子どもの病気とか、どうしようもない問題を背負っていくことを「十字架を負う」と言います。「それは私の十字架です。一生背負って行きます」みたいなことを聞いたことがあるでしょう。しかし、それはイエス様がおっしゃられた十字架の意味ではありません。人の十字架ではなく、自分の十字架を負うのです。つまり、自分がかかる自分の十字架を負うということです。イエス様もゴルゴタまでご自分がかかる十字架を負われました。その道筋、みんなから嘲笑され、石を投げられたり、つばきをかけられました。その後、イエス様はご自分が背負ってきた十字架にかかって、死なれたのです。そのように、私たちも自分自身がかかる十字架を負いながらイエス様について行くということです。でも、それは私たちにとってどういうことでしょうか?自分自身がかかるってどういうことでしょう?それは、自分に死ぬ、自分を否定するということです。私たちはだれよりも、自分が可愛いですし、自分が大事です。その証拠にどうでしょうか?みんなで、集合写真を撮ったとします。一番、最初に誰の顔を見るでしょうか?自分の顔でしょう。もし、自分が目をつぶっていたり、変な顔をしていたらどうでしょう?その写真を注文するでしょうか?おそらくしないでしょう。「自分が可愛い、自分が大事」それは人間の本能であり、人間のいのちなのです。でも、イエス様は39節で、逆説的なことをおっしゃっています。「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、自分のいのちを失った者は、それを自分のものとする」というのです。これはどういう意味でしょう?イエス様が、その代わりに本当のいのちをあなたに与えるということです。どうでしょう?イエス様は自分を捨てて十字架におかかりになって死なれました。イエス様はそのままずっと死んで墓の中におられたのでしょうか?そうではありません。父なる神様が死人の中からイエス様をよみがえらせました。イエス様は二度と死なない、栄光のからだによみがえったのです。「自分に死んだら、これと同じことがあなたにも起きますよ」ということなのです。No Cross No Crown「十字架なくして冠なし」であります。

十字架を負って、自分に死ぬのが一度きりなのでしょうか?残念ですが、そうではありません。ルカ923イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」。このこところには、「日々」と書いてあります。日々とはどういう意味でしょうか?日々とは、日曜日だけでしょうか?「日曜日の1時間半だけはイエス様に従います。でも、午後からは従いませんよ。だって、せっかくの休みなんだから。夕方、笑点くらいは見せてくださいよ」。月曜日から金曜日は、この世のシステムに従います。だって、生活がかかっています。「しちゃいけないかなー」と思うようなこともしなければなりません。土曜日は休みなので、のんびりさせてください。でも、日曜日の午前中は、イエス様に従います。ちゃんと礼拝に行って、牧師先生のメッセージを聞きますから。牧師はどう思うでしょうか?「ああ、日曜日、ちゃんと礼拝を守っているなー。献金もしているし、良い兄弟だ。良い姉妹だ」と思うでしょう。日曜礼拝すら守れない人もいますが、日曜礼拝を守っていたなら良いクリスチャン、つまりキリストの弟子なのでしょうか?エディ・レオ師から、よくこのようなお話をします。教会では「ハレルヤー」と賛美します。「ハレルヤー、私の手は聖いです。イエス様、ハレルヤー」。でも、家に帰ったらどうでしょうか?奥さんを「ビュシュ、ビュシュ、ビュシュ」と叩きます。そして、教会に来たらでどうでしょうか?「ハレルヤー、私の手は聖いです。イエス様、感謝します。ハレルヤー」。でも、家に帰ったらどうでしょうか?奥さんを「ビュシュ、ビュシュ、ビュシュ」と叩きます(蹴りも入れる)。そして、教会に来たら「ハレルヤー、イエス様、賛美します。」天使がそこへやって来ます。そして、「ぺっ」とつばきをかけるでしょう。これはキリストの弟子の姿ではありません。なぜなら、日曜日の礼拝のときだけしか、従っていないからです。

つまり、本当の弟子とは「日々」イエス様に従う人です。日々とは、一日中、24時間という意味です。日曜日だけではなく、月曜、火曜、水曜、木曜、金曜、土曜日もイエス様に従うということです。つまり、キリストの弟子になるとは、単なる教えではなく、ライフスタイルです。キリストの弟子とは、生き様、ライフスタイルです。キリストの弟子であるならば、どうでしょうか?主イエス・キリストがあなたに「そうではなく、このようにしなさい」と言われたならどうするのでしょうか?「はい、わかりました」と従います。なぜなら、「自分を捨て、日々自分の十字架を負って、そしてイエス様に従うことですから」そのようにすべきです。ブラック・ゴスペルにSay Yes Lordという賛美があります。このような歌詞です。「あなたのみこころに従います。あなたの道に従います。どんなことがあってもそれをします。一日中、あなたにお仕えします。はい、主よ。Say Yes Lord .Say Yes Lord .Say Yes Lord.はい、主よ。はい、主よ。はい、主よ。」なんと気持ちの良い賛美でしょうか?日々、いろんなことがあります。はっきりと、イエス様が「ノー、それはしちゃいけないよ。これをしなさい」とおっしゃっているのが分かります。そんなときどうしたら良いのでしょうか?私たちの毎日がそのような選択があります。どっちを選び取るのでしょうか?「ノー」の方を選ぶのでしょうか?それとも、主が言われる方でしょうか?私たちは、「はい、主よ。あなたに従います」と常に主が示す道を選ぶべきです。そうするなら、神からの幸いと祝福が日々、あなたに訪れます。アーメン。

2.キリストに学ぶ

もう1つ別の方向から弟子とは何かについて考えたいと思います。マタイ1128-30「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」多くの教会の入口には、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と書いた看板が掲げられていると思います。私たちクリスチャンも、イエス様を信じ、癒しと解放を得ました。でも、どうでしょうか?重荷が全部なくなったのでしょうか?悩みや苦しみは取り去られたのでしょうか?クリスチャンになったのに、相変わらず、多くの重荷を負い、悩みや苦しみに負けているのはどうしてでしょうか?それはイエス様のくびきを負わないからです。そのためサタンが、別のくびきをあなたに負わせるのです。多くのクリスチャンが教会に来ます。イエス様が言われます。「私のところへ来なさい。あなたは重荷を負っていますね。私がその重荷を取り去ってあげますよ」。だから、私たちは重荷を持って教会へ来ます。きょうも、重荷を負って教会に来ました。イエス様が「私がその重荷を負ってあげます」と言われました。「ああ、自由になった。楽になった」と言います。そして、家に帰ります。サタンが「あなたは自由ですか?では、一個あげましょう」と言います。日曜日の午後から土曜日までけっこう重荷がたまりました。そして、日曜日再び教会に来ます。イエス様は「私のところへ来なさい。あなたの重荷を下ろしなさい」と言われます。また、イエス様のところに重荷を下ろします。あなたは「ああ、自由になった。楽になった」と言います。そして、家に帰ります。サタンが「あなたは自由ですか?」ともっと重い荷物を与えます。次の週、また重い荷物を持って行きます。イエス様は「私のところへ来なさい。あなたの重荷を下ろしてください」と言われます。彼に何が起こるのでしょうか?サタンは、もっともっと重い重荷を与えます。次の週、もっともっと重い荷物を持っていきます。そこで、気づきます?「あれ、クリスチャンになって信仰を持ったのに、もっと苦しくなった。おかしなー?」。なぜでしょう?イエス様のところに来て、重荷を降ろすことだけがすべてではないからです。解決策はないのでしょうか?魂に安らぎが来る解決策は何なのでしょう?

実はこのみことばには後半があります。「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」アーメン。そうです。私たちは救われて、癒しと解放を受けたとしても、負うべきくびきがあるということです。イエス様が「わたしのくびきを負いなさい。そうすれば魂に安らぎが来ますよ」と言われました。聖書の時代、どのように畑を耕したのでしょうか?二頭の牛が必要でした。一頭は若い牛で、もう一頭は年取った牛です。一頭は先輩牛、もう一頭は後輩牛です。なぜ、二頭使うのでしょう?若い牛が、年取った牛から学ぶためです。年取った牛は経験豊かです。力もあり大変訓練されています。若い牛は、年取った牛から学びます。どのように学ぶのでしょう?二頭一緒にくびきを負って、それで学ぶことができるようにします。若い牛は、いつでも、年取った牛について行きます。年取った牛は、「私の方がお前より強いんだよ」と言います。でも、若い牛はよくしつけられていません。「何か食べたい」と立ち止まります。年とった牛は「ダメだ今は畑仕事だ。私と一緒に行かなければならない」と言って引っ張ります。年取った牛がこっちに行こうとすると、若い牛は別の方向に行こうとします。年取った牛は、「忘れるなよ。俺の方が、力があるんだ」と言います。そのように、一緒にくびきを負って、若い牛は訓練されていきます。このイラストレーションは、年取った牛というのは、イエス様です。そして、若い牛は、あなたです。隣の人に言いましょう。「あなたが若い牛ですよ」。そうです。私たちがイエス様のくびきを一緒に負うとき、サタンからのくびきを負う必要はなくなるのです。私たちはこの世にべったりになり、問題に支配されて生きるべきではありません。私たちはすでに神の国の中で生きているのです。イエス様と一緒にくびきを負うなら、不思議なことに、サタンの重荷から解放され続けるのです。ハレルヤ!

さらに、みことばは何と言っているでしょうか?イエス様は、くびきを一緒に負うだけではなく、「私から学びなさい」と言われます。なぜなら、イエス様は心優しくてへりくだっているからです。私たちは、神の国でどのように生きるかまだ分かっていません。ですから、イエス様から学ぶ必要があります。実は「学ぶ」というギリシャ語は、「弟子」と同じ語源です。キリストの弟子になるとは、キリストから学ぶということなのです。しかも、この学ぶというのは、学校などで知的に学ぶということではありません。どちらかと言うと、「習う」「見習う」の方が近いのです。弟子になって、職人や芸人から学ぶでしょう。お医者さんだってそういうシステムです。やっぱり、現場で師匠の芸や技術を体得していくのではないでしょうか?つまり、弟子とは「見習い(インターン)」であります。見習い(インターン)は、実際の現場や生活の場で師匠から学ぶ人であります。私たちも師匠から学ぶ必要があります。イエス様が私たちの師匠です。イエス様は「みなさんは私をラビと呼ぶだろう。そうです。私こそあなたのラビです」と言われました。ラビ、正確には、ラバイですが、どういう意味でしょうか。当時、ラバイといえば先生のことでした。どのような先生のことでしょう。人生の先生のことです。当時は、今のような大学はありませんでした。もし、あなたが何かを学びたければ、二つの場所しかありませんでした。第一はお父さんから学びます。イエス様は父ヨセフから大工の仕事を学びました。もし、お父さんが教えることができなければ、ラバイから学びます。ラバイとはだれでしょう?人生のあらゆる領域について教えることができる人です。数学も教えられます。結婚生活についても分かります。ラバイは人生の父です。イエス様は私たちの人生のラバイ、父です。どんなことでもイエス様から学ぶことができるのです。すべてのことの先生です。でも、イエス様について行かなければなりません。イエス様について行かなければ、彼から学ぶことはできないのです。

私たちはこのことを信仰生活に適用すべきです。あらゆることについて、人生のラビであるイエス様から学ぶべきです。メッセージとしては分かりました。でも、イエス様は目の前に見えるお方としておられません。「私の目の前にいらっしゃれば、本当に、毎日、ご一緒しながら学べるのになー」と思います。では、どうしたら良いのでしょうか?「それは信仰によってですよ。信仰によってイエス様と共に歩むのですよ」と、言えばもう決まりです。「やっぱり、イエス様は見えないので不安です」と答えるでしょう。実はイエス様は今、聖霊によってあなたの内に、そしてあなたと共におられるのです。私たちが意識しれば、ちゃんとお答えくださるし、助け導いてくださいます。「いや、それでも分かりません」と答えるでしょう。私は朝、30分かけて散歩をします。そのとき、頭の中でひとりごとを言います。セルフトークですが、そこにイエス様もお招きします。ルカ24章に、復活したイエス様がエマオの途上で弟子たちと会話をしたことが書かれています。それと同じです。あのことを思ったり、このことを思ったり、とても自由です。少々、分裂気味ですが、思いとはそんなもんです。イエス様をそこにも招きます。「イエス様どうでしょうか、そうですよね」。突然、過去の暗い思い出がよみがえります。とっても、いやなことです。そのとき「ハレルヤ、主よ」と礼拝します。自分に「あのことがあったから良かったんだ」と言い聞かせます。家に戻ってから30分以上、ディボーションをします。日中も、心の中で自分と会話します。イエス様を時々お招きします。「主よ、どうしたら良いでしょうか?」すると主は答えてくださいます。17世紀にブラザー・ローレンスという人がいました。彼はコックであり、いつも厨房で料理を作っていました。しかし、彼はコランデォー「神の臨在の前に生きる」ということを実践した最初の人です。彼は父なる神と24時間、関係を持ちました。後に、彼は「神の臨在を実践する」と言う本を書きました。彼の書いた本は、現代書かれた、あらゆる本よりもすばらしい本です。有名な伝道者や牧師が彼の本から影響を受けました。彼の本は非常にシンプルです。その料理を作っているときに、神様と話しました。「お父さん、感謝します」と、毎日、話しました。彼の人生に何が起きたでしょうか。彼は福音を宣べ伝える必要がなかった。多くの場合、食事を持ってきて彼が仕えるとき、人々が彼の顔を見て、「ああー」と涙を流して悔い改めたそうです。なぜなら、彼の顔が神の栄光に満ちていたからです。後代の人たちが、「神の臨在の内に歩む」ということを学びんで素晴らしいことが起こりました。

みことばを読み、ディボーションをすることはとても大事です。しかし、もっと大事なのは、ディボーションが終わった後、生活の中でも、神様の臨在の前で生きることです。イエス様は「日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」と言われました。どうぞ、今も私たちと共におられるイエス様を目の前にして、イエス様に従いましょう。試練や苦しみもありますが、イエス様とご一緒ならきっと乗り越えられます。「主イエスと共に歩きましょう、どこまでも。主イエスと共に歩きましょう、いつも。嬉しい時も、悲しい時も、歩きましょう、どこまでも。嬉しい時も、悲しい時も、歩きましょう、いつも。」

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