« 2010年2月 | トップページ | 2010年4月 »

2010年3月28日 (日)

十字架による心の癒し イザヤ53:1-5、Ⅱコリント5:20-21

 「クリスチャンとして成長したい」、「何か神様のためにお役に立ちたい」とほとんどの人たちは思っているでしょう。しかし、「自分自身の中に、そうできない妨げになっているものがある。イエス様を信じて救いを受けたことは確かだけど、どうも未解決の問題がある。そのために、急に怒ったり、急に落ち込んだりしてしまう」。そういう人はいないでしょうか?同時にそういう人たちは家庭や、世の中の人間関係でも葛藤を覚えていた人たちです。教会に来てから、「神様の愛のもとでうまくいくかなー」と期待していたのに、そうでもなかった。「ある人に躓いた。牧師に躓いた。もう、教会に行くのもイヤだ」。そこまで行ってしまった人は、きょうはここにいないでしょう。きょうここに来られている人たちは、そういう問題をクリヤーした人か、ギリギリでなんとかやっている人かもしれません。きょうは、信仰のDNAシリーズの、「癒しと解放」の第三回目です。

1.さまざまな過剰反応

 心理学者は「胎児のときから幼児期まで受けた心の傷は、その後の成長に大きな影響を及ぼす」と言っています。幼児にとっては親から養育を受けるときでありますが、しばらくすると自我が目覚めてくるので、親から独立しなければなりません。だから、「ノー」を連発します。そのとき、親が未熟であったり、親自身に傷がある場合、子どものありのままの姿を受け止めることができません。お母さんから「あなたは、良い子でしょう?」と言われると、子どもは「ああ、自分は良い子にしなければ愛されないんだ」と思ってしまうでしょう。子育てにおいては、過干渉であってもいけないし、かといって放任主義でもいけません。親はそういうつもりでしなかったのに、子どもは、拒絶や無視、虐待や支配と受け取るかもしれません。そのとき、子どもの心に、親に対する怒り、悲しみ、喪失のトラウマとなって残ります。ある傷は自然と治るかもしれません。しかし、ある傷は表面には包帯が巻かれていますが、内部はぜんぜん治っていない。ひどい痛みを感じるばかりか、傷が膿んでいるということがあります。日本人は自分の感情を表に出してはいけないというふうに育てられています。そのため、私たちは怒りや悲しみ、あるいは恐れの感情を心の奥底に沈めます。1つや2つのテニスボールだったら、沈めておくことができます。しかし、それが5とか6つになったらどうでしょうか?外から圧力がかかると、ポコーンと出てきます。つまり、感情の塊というものは抑圧したらなくなるというものではありません。抑圧すれば抑圧するほど、負のエネルギーとなって蓄積し、あるとき、「ばっ」と噴出してしまいます。まるで火山の噴火であります。火山というのは下にマグマが溜まっています。マグマの圧力が上がり、ある一定量を超えると、どこか弱いところから噴出するわけです。「どっかん!」と、石や火山灰が空中高く舞い上がり、熱い溶岩も噴出するでしょう。まわりにいる人たちはものすごい被害を受けます。そういう状態を、だれかが地雷を踏んだとか、過剰反応を引き起こしたと言います。

 私はこれまで、アバラブミニストリー、エリヤハウス、丸屋真也師、李師のディープヒーリングなど、様々なカウンセリングを学んできました。それらを見比べ、統合してみて「ああ、こういうことなんだなー」とやっと分かってまいりました。それぞれ用語は違いますが、だいたい言わんとしていることは共通しています。でも、最近は李光雨先生から学んでいますので、どうしても、先生の用語が出てきてしまうことをお許しください。李先生は「過剰反応とは、特定のステージで現れてくる心や体や行動における、合理性を欠いた強い反応である」と定義しています。人がある出来事によって、過剰反応するとき、「心の叫び」が一緒に出てきます。丸屋師はそれを「自動思考(セルフトーク)」と呼んでいます。「お前がちゃんとやらないからだ」「だれも守ってくれない」「俺のせいじゃない」「なんで、そんなことをするんだ」…実際、口で言う場合もあるし、心の中で言っている場合もあります。人が過剰反応をしたとき、これはチャンスであります。その人の「心の叫び」がわかるからです。その人の「心の叫び」がどこから出てくるのか?実は心の奥底、核の部分から出ているのです。李師はそれを「コア世界観」と呼んでいます。丸屋師は「核信念(コア・ビリーフ)」と呼んでいます。私は「世界」の方が、なんとなくロマンがあって良さそうに思えます。つまり、その人が何かのことで過剰反応したときに出る「心の叫び」によって、その人の世界を垣間見ることができるということです。あなたの世界はどんな世界でしょう?どうぞ、1週間、あるいは1ヶ月間、どんなことで過剰反応したのかチェックしてみてください。「今月は出費がかさんでどうしょう。一体生活ができるのだろうか?」「なんであの人はあんなことを言うんだ。もう、許せない」「職場で真面目にやっているのに、認めてもらえない」「また失敗した。いつも最後はこうなんだ」。いろんな状況で発すると思います。まず、その状況を特定し、具体的にどうだったのか知るのです。過剰反応をした状況を詳しく知るということです。第二番目はそのときどう思ったかです。これはもう無意識でやっていますので、ことばになっていないかもしれません。それは「心の叫び」かもしれません。「不当な扱いを受けた」「軽く見られた」「不適格だと思われた」。とにかく、思いをことばに表すことが重要です。第三番目は感情です。どう感じたか?これは思いよりも、明確かもしれません。怒りや悲しみ、恐れ、絶望感、いろいろあります。最高がレベル100だとしたら、「そのときはレベルどのくらいだったか」も書くと良いですね。70%とか、80%としか判定できるかもしれません。そういうのをいくつかやっていくと、自分の世界が分かってきます。自分の世界はひとことで何なのか?これはあなたのテーマになります。

 私たちは日常生活において、様々なことで過剰反応を起こします。いろんなところで火山が爆発するわけです。しかし、ある人はそれを「ぼかーん」と人や物にぶっつけます。しかし、ある人は人にぶっつけないで自分のところにもっていきます。前者は他の人を攻撃しますが、後者は自分を攻撃します。自分を攻撃するとどうなるでしょうか?それは鬱になります。ある意味で、鬱は怒りの1つのかたちと言っても良いかもしれません。また、怒りや鬱の他に不安や恐れというものもあります。私たちは、自分の世界が壊れそうなときに、怒りによって反応します。しかし、ある場合は、不安や恐れとして出てきます。現代は様々な心の病気を抱えている方がたくさんいらっしゃいます。学校や会社に行くことができない。電車にも乗れないという人がいます。会社には行けるけど、人間関係が辛い。人とうまくいかない。鬱的になり、精神科や心療内科に通って薬を飲んでいる人もたくさんいるのではないでしょうか?すべての薬物療法を否定はしませんが、本当の原因になっている、「コア世界観」「核信念」は何なのかということを探り、その問題を解決することがより重要です。

2.さまざまな世界観

エリヤハウスでは、「悪い実から、根っこをさぐる」と言います。どのカウンセリングでも言うのですが、多くの場合、幼少の時代の問題が解決されていないことが原因しています。そこが未解決なので、様々な問題が出てくるということです。その傷が生じた、いくつかの幼少期のエピソードがあるはずです。多くの場合、それに蓋がされて、自分でも覚えていないということがあります。子どものときにひどい虐待を受けた場合は、記憶がない。あるいは「あれば別の人だったんだ」と思い込んでいることもあるそうです。過去の自分を見るということは、ある意味では、恐ろしいことです。もう一度、あのときのトラウマを経験しなければならないからです。受けた恥、受けた苦しみ、受けた悲しみ、喪失感、拒絶感…それらと向き合うことは、大変な勇気を伴います。ですから、多くの場合、自分をサポートしてくれる兄弟姉妹、あるいはカウンセラーが必要です。でも、このようなメッセージを一度、聞いておくと「あ、大丈夫なんだ。癒されるためにはオープンすることが必要なんだ」と分かるでしょう。そうです。隠したり、それを否認しているうちは、決して直りません。イエス様と共に、過去の暗いところに行くのです。そこには小さな3歳か4歳のあなた自身が震えて泣いているかもしれません。何があったのでしょうか?忘れてしまっている場合には、イエス様に尋ねて見てください。ある人は胎児のとき大きな傷を受けました。お母さんが生みたくないと思ったからです。それなのに「できちゃった。堕胎できなくてしかたなく生んだ」のです。そのためにお母さんが大嫌いになったということです。あとから、お母さんにそのことを聞いたら、実はそうだったということでした。いくつかのエピソードを思い浮かべることができるでしょう。自分を傷つけた相手がお父さんでしょうか?あるいはお母さんでしょうか?あるいは「きょうだい」でしょうか?どういう状況で、そんなことが起きたのでしょうか?

 エリヤハウスの女性の先生ですが、自分が子どものとき、近所のお兄ちゃんから性的ないたずらを受けたそうです。それをお父さんに言ったら、お父さんがその男の子の家に訴えに行ったそうです。男の子のお母さんは「うちの子がそんなことをするはずがありません。あなたのお嬢さんが嘘をついているのです」と強く言い返しました。昔のことでもあり、そんなことはその村で、一度も起こったことがありませんでした。それで、お父さんは家に帰るなり、「お前はおこりもしないことを嘘をついたんだろう」と言いました。女の子は「私を守るべきお父さんが、私を守らなかった」ということで、男性に対してものすごく不信感を抱くようになりました。結婚してからどうなったでしょう?ご主人がちょっとでも帰りが遅いと、「あなた他の女性と浮気をしているんじゃないの?」と怒りました。ご主人が「私はお前に忠実であって、そんなことは絶対しない」と言うとおさまります。でも、ご主人に対する疑いは晴れることがありませんでした。そのあと、ミニストリーを受けると、子どものときのことが思い出されました。お父さんが私を守ってくれなかったということが分かりました。そのお父さんを赦しました。お父さんを赦したとたん、お父さんから手紙が来たそうです。「これまで一度も手紙くれたことがないのに、どうしてだろう?」と思いました。つまり、お父さんを赦したということは、お父さんを籠の中から出してあげたということなのです。お父さんも自分の罪で、霊的に捕らわれていたということなのかもしれません。

私の「コア世界観」のテーマは、不当な扱いを受けたために、翻弄されている自分であります。その元となる原因が子どものときにありました。私が小学校5年生のとき、私は記念切手を集めていました。そのとき、東京オリンピック開催記念の切手が発行されました。私は遅刻覚悟で、郵便局に並びました。発行されたシートの数が少なくて、じゃんけんしました。私が勝って得た貴重な切手でした。あるとき、兄が俺にくれと言いました。私が「ダメだよ、返してよ」と争いになりました。兄はその切手シートをぐちゃぐちゃにしました。私は「わあー、何をするんだ!」と怒って叫びました。目の前で父がストーブにあたっていました。父が手を伸ばし、「こんなものがあるからだ!」と言って、切手をストーブの中にくべてしまったのです。私はおそらく気が狂ったように泣いたと思います。私はそれ以降、切手収集をぴったりやめました。他のすべての切手を捨てました。梅の花を見るたびに、「ああ、梅の切手もあったなー」と思い出します。本来、父が兄弟の喧嘩をいさめ、正しいさばきをするのが本当でしょう。父がそこにいて、一部始終を見ていたのに何もしなかたのです。今、思えば、我が家は無政府状態でした。父が酒を飲むと暴れ出し、母や私たちをよく殴りました。父の血走った眼、なぐられた母の頭の音、母のうめき声は今でも忘れません。兄弟げんかもしょっちゅうありました。ある正月、長男と次男が血を流すような喧嘩もしました。父は止めるどころか、そこでだまって酒を飲んでいました。つまり、我が家では父が家庭を正しく治めていないために、無政府状態というか、守りがなかったのです。だから、大きくなって、似たような不条理が起こると、「ちくちょう!なんでだよー」と怒りが噴出してきます。どうぞ皆さんも、ご自分で、あるいはだれかの手を借りて、心の核の部分(世界)を発見してください。そこには必ずテーマがあるはずです。

3.十字架による心の癒し

 本日から受難週がはじまります。多くの場合、イエス様が十字架にかかったのは私の罪のためであると理解しています。私たちが罪の赦しを受けて、救われるためにはこのことを理解することはとっても重要です。しかし、自分が犯した罪だけではなく、自分がひどい目にあったという被害者的な部分にもイエス様の十字架があるのです。イザヤ53:3-4「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」と書いてあります。Ⅰペテロ2章には、不当な苦しみを受けた人々へのことばがありますが、イザヤ書53章が解決になっています。イエス様は何も悪いことをしていないのに、人々からののしられ、苦しめられました。また、イエス様は十字架の上で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。イエス様は人々からも、そして父なる神様からも捨てられ、拒絶を味わわれました。そういうことを合わせますと、イエス様は十字架で、私たちの悲しみ、恥、病、痛み、不当な扱い、そして拒絶を背負ってくださったということです。つまり、人となられたイエス様は、私たちの悩みや苦しみをよくご存知であるということです。同時に、イエス様は神様ですから、私たちの子ども時代まで一緒に行ってくださり、その子どもを癒してくださいます。あるところに、とっても乱暴で怒りっぽい男性がいました。牧師が彼のために祈ってあげました。牧師は祈りながら、「何か見えますか」と男性に尋ねました。彼は「5,6歳頃のときの、家の中が見えます。お父さんがその夜も酒を飲んであばれていました。子供の私は怖くて泣いていました。ああ、お台所の窓ガラスが割れて、大きな穴があいているのが見えます。窓の穴から見える外は真っ暗です。」と言いました。だいたい、こういう家庭は、しょっちゅう窓ガラスが割れるので、何日間か、そのままにしておくのが多いのです。突然、男性は涙を流しはじめました。どうしたのですか、と聞くと。「あのときは気付かなかったのですが、窓ガラスの穴から、イエス様がお家の中を眺めています。イエス様はとっても悲しい顔をしています」。そのとき、男性は、イエス様から「私も気の毒に思ったよ」と慰めのことばをいただきました。それで、彼は大声で泣きました。それから、彼は怒りから解放されたそうです。イエス様は永遠の神様ですから、あなたの過去の出来事をご存知であり、深い慰めを与えてくださるのです。

 李先生は、癒しを受けるためには、まず「心の叫び」を完了させなければならないと言います。私たちが心の蓋を開けると、「わあっ」と色んなものが出てきます。怒りとともに、「○○をして欲しかったんだ!」とか、「奪ったものを返してくれ!」「どうして分かってくれなかったんだ。本当はこうだったんだ」「なんで、あんなことをしたのか!ひどいじゃないか」とか、叫びが出てきます。その怒りをどこにぶっつけるのでしょう?イエス様の十字架にもって行くのです。Ⅱコリント5: 19 「すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」イエス様は、「あなたを傷つけた人のために、私が十字架にかかって代価を払いました。これで赦してはもらえないだろうか」とおっしゃいます。イエス様は「私に免じて、赦しておくれ!」と懇願しておられます。私たちは「それだったら、赦します。私にひどいことをした父を赦します。私にひどいことを言った母を赦します。私に○○をした誰それを赦します」と赦すべきです。赦しとは怒りを手放すことです。赦しとは訴える権利を放棄するということです。そのとき、父なる神様はあなたが失ったものをすべて回復してくださることを知るはずです。恥の代わりに誉れを、悲しみの代わりに喜びを、嘆きの代わりに踊りを。父なる神様はあなたが失ったもの、あるいはあなたが得られなかったものを豊かに与えてくださるお方です。贖いとは罪の贖いだけではなく、あなたが失ったものを神様は贖ってくださる。弁償してくださる。回復してくださるということです。私はかつて切手を失いましたが、神の御国にはちゃんと保管されていることを知っています。幼くして死んだ子どもがいるかもしれません。でも、神の御国ではちゃんと生きています。あなたが大事にしていた人形も、おもちゃも、宝物も御国の倉庫にちゃんとあります。あなたは父や母によって受け入れられなかったかもしれませんが、父なる神様はありのままのあなたを無条件で受け入れてくださいます。「あなたは私の目には高価で尊い、私はあなたを愛している。あなたは私のものだ」と言われます。どうぞ、父なる神様の回復を得ましょう。そうするなら、あなたの心の奥底が満たされるでしょう。

 それから今度は考え方を変えて、イエス様と勝利の道を歩むのです。もう、あなたの世界は壊れません。もうあなたの魂は大丈夫です。なぜなら、イエス様があなたを常に支えておられるからです。さらにすばらしいことは、神様はあなたが経験したマイナスをもプラスに変えてくださるお方です。ローマ828「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」アーメン。イエス様はペテロに何とおっしゃったでしょうか?「だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」アーメン。癒されたあなたは、同じような苦しみや悩みに合っている人たちを慰めることができます。それだけではありません、彼らの縄を解き、獄屋から出すことができるのです。

|

2010年3月21日 (日)

父なる神の愛を受ける エペソ6:1-3、ローマ8:14-15

 十戒の5番目は「あなたの父と母を敬え」です。十戒の1から4までが神様に関することです。そして、十戒の5から10番目までが人間に関することです。すると、十戒の5番目の位置はどうなるでしょう?神様と人間の戒めを繋ぐ役割を果たしています。申命記6章には、親の役割が記されています。それは子どもたちに、「心を尽して神様を愛しなさい」ということを教えるということです。特に、父親は子どもたちにとって、神様を示す人であり、また神様の代理でもあります。もし、子どもたちが神様を愛し、父と母を敬うことを学んだならば、人間に関することがうまくいくということです。だからパウロは、「父と母を敬うことは、第一の戒めである」と言っているのです。父と母を敬ったならばどうなるのでしょうか?「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」と約束されています。アーメン。

1.不完全な父

 子どもにとって、努力しないで自然に、父と母を敬うことができたなら幸せなことです。しかし、多くの場合、両親は不完全であります。福音書には、「主の祈り」が記されています。イエス様は「天の父よ」と祈りなさいと教えてくださいました。ですから教会で教えるスタンダードな祈り方は「天のお父様、○○○」と始まります。私たちが「天のお父様」と祈りはじめるときに、どうでしょうか?「ああ、もう一人いたなー」と地上の父を思い出すのではないでしょうか?なぜ、イエス様は「天の父よ」と祈りなさいとおっしゃったのか不思議でたまりません。「イエス様」とか「聖霊様」あるいは「神様」でも良いはずです。でも、「天のお父様」と祈り始めるとき、抵抗感を覚える人がいるのではないでしょうか?クリスチャンであっても、神様を「天のお父様」と呼べない人がかなりいるようです。それはなぜでしょう?自分の父に対する心の傷があるからです。怒りや憎しみ、赦せない思い、いろんなものがくっついているかもしれません。どうしても私たちは地上の父を通して、目に見えない天の父を連想してしまいます。もし、地上の父に対する私たちの心が癒されていなければ、どうしても天の父がゆがんで見えるのではないでしょうか?逆に言うなら、地上の父を赦し、愛し、敬うならば、天の父がもっとすばらしいお方に見えてくるのではないかと思います。お母さんとの関係は来週に回して、きょうは父親だけにポイントを当てたいと思います。

 では、どのような不完全な父がいるのでしょうか?そして、そのもとで育った子どもはどのような心の傷を受けるのでしょうか、代表的なものをリストアップしていきたいと思います。第一番目は独裁的な父親です。リーダーシップがあって良いのですが、妻や子どもたちの意見を全く聞き入れません。威張ってばかりいて、愛がない父親です。明治から昭和のはじめには、こういうお父さんが標準だったのではないでしょうか?何でも、一方的に言われたのでは子供たちはたまりません。心の中に怒りや反抗心がいっぱいたまってきます。これはある家庭の話しです。お母さんと子どもたちはお家で団欒のときを持っていました。お父さんの車の音が聞こえてきました。子どもたちはさっと、自分の部屋に入っていきました。お父さんは「子どもたちはどうしたんだ?出迎えもしないのか?一体、だれのお陰で飯食っていると思っているんだ」と言いました。家の中に緊張感が走ります。今は、こういうお父さんは少なくなったかもしれません。でも、普段はおとなしくても、お酒が入ると強くなる場合もあります。こういう家庭で育った子どもは、神様が恐い存在ではないでしょうか?神様と親しい関係を持つことが、おそらく困難でしょう。第二番目は全く逆なタイプ。弱々しい、優柔不断な父親です。ある女性たちは、優しい男性に惹かれます。今で言う草食系男子でしょうか?でも、結婚してみると、それでは物足りなくなります。そして、妻や娘から、いじめられるようなお父さんです。そういう家庭で育った子どもは、神様をどのように見てしまうでしょうか?きっと、「神様も弱くて、あんまり頼りにならないんじゃないかな?」と思うでしょう。そして、「神様、これしてくださいよ、きっとですよ」と神様に命令するかもしれません。

 第三番目は無口で無関心な父親です。いるかいないか分からない、存在感の薄い父親です。どちらかと言うと家では、母親の方がよくしゃべる。母親が無口な父親の代わりになって、家庭のコミュニケーションを計るというタイプです。父親の父親(おじいちゃん)も、おそらくそういう人だったのかもしれません。自分が父親とほとんど話したことがないので、子供たちとどう接して良いか分からない。「うん」とか「ああ」で、あとは新聞を見ている。「お父さん、運動会で1位だったよ!」「うん」。「お父さん、学校の成績上がったよ」「うん」。会社では部下に対して、よくしゃべることができるのに、家に帰ると口からことばが出て来ない。そういう父親を持つ子どもは、どうなるでしょう?「天のお父様」と祈り始めても、あとが続かない。「天のお父様」「うん」。3分も祈れない。第四番目はいい加減な父です。本来、父親は家庭を守らなければならないのにそうではない。飲んだり、ギャンブルをして働いたお金を家庭に入れない。代わりにお母さんが一生懸命に働いている。子どもたちもアルバイトをする。子どもたちが社会人になると、お父さんが「おこずかいくれ」とねだる。こういう家庭で育った子どもはどうなるでしょうか?「天のお父様」と祈ることは祈るかもしれません。でも、心の中では、「祈っただけではダメで、やっぱり私がやらなくちゃ」と思うでしょう。つまり、神様をあまりあてにしていない。父親がそうだったので、神様を心から頼ることができないのです。

 第五番目はいない父です。自分が幼少の時、亡くなった場合です。そのため、お父さんの記憶が全くないという人もいます。あるいは、子どものときに離婚して、父親が家庭にいなかった。さらには、いたにはいたのですが父親が不在であった。出張とか仕事が急がし過ぎて、ほとんど家庭にいない。父親が出稼ぎでいなかったという場合もあります。母親が父親の役割を果たすかもしれません。もし、長男や長女が欠けた父親の役割を果たすと、アダルトチルドレンになる可能性もあります。とにかく、父親が家庭にいないということは、いろんな面でダメージを与えるでしょう。そういう人が「天のお父様」と祈っても、天のお父様がわかりません。子どものとき父親をなくした、ある牧師の証を聞いたことがあります。「天のお父様」と祈っても、「天は空っぽであった」とおっしゃっていました。このように、地上の父親は、神様のイメージに大きな影響を与えるということです。

2.人間関係に与える影響

 父親との関係で傷のある人が最も問題を感じるのは、権威ある人との関係です。父親というのは、いわば権威の象徴であります。自分の父親に対して、いろんな悪い感情を抱いているとします。「自分を守ってくれなかった」「そんなんじゃダメだと、業績をあおった」「ただしく治めてくれなかった。不公平であった」「酒乱でひどい虐待を受けた」「怠け者で働かなかった」「私を認めてくれなかった、拒絶された」「冷たかった、私を愛してくれなかった」…いろいろあると思います。心の中に、様々な怒りや憎しみ、尊敬できないものがあるわけです。そういう人はこの世の中の権威ある人を敬うことができません。心から従うことができないのです。たとえば、学校の先生に対してはどうでしょうか?私は学校の先生から本当によく叱られました。落ち着きがない私にも原因があったかもしれません。しかし、私の父が家庭を正しく治めてくれなかったので、私の中に不安定さがあったのです。心の強さとか守りがなかったので、叱られ易いタイプだったのかもしれません。会社の上司との関係はどうでしょうか?「コピーとってくれ、お茶入れてくれ」と言われると、なんだか命令されているような気がする。「お茶ぐらい自分で入れたらどうだ。私はお茶汲みをするために会社にはいったんじゃない」。あるいは、「あの上司はどうして私にだけ厳しいんだろう?他の人だってかなりいい加減じゃないか?」不公平だなーと思う。そして、牧師との関係はどうでしょうか?牧師というのはある意味で、怨念晴らしの対象であります。特に姉妹方にその傾向があります。父親との関係が悪い人は、牧師にそのことが投影するようです。「ああしてくれない」「これが足りない」「これはひどい」…いろんな注文があるでしょう。牧師が何か言うと命令調に聞こえる。心の中に何とも言えない反抗心を感じる。私も牧師として、いたらないことはたくさんあります。でも、「それだけでもないなー」と分かるようになりました。どういうことかと言うと、自分が父親から受けられなかったものを、牧師から受けようとする。しかし、それが叶わないとき、怒りを覚える。そして「なんとかしてよ!」と訴える。あるいは、「どうしようもない」と諦めて遠ざかる。そういう意味で、牧師は自分の父親との関係を計る試金石であります。

 それだけではありません。自分よりも目下の人、あるいは子どもたち、そして伴侶にも影響を与えます。自分に父の心がないので、他の人がみんなライバルに見えます。部下や後輩に対して「10年早い」と言いたくなります。「はい」と素直に聞く人には面倒を見るけど、反抗的な人に対しては軽んじるか無視します。父の心があれば、たとえ追い抜かれても、それを自分のことのように喜ぶことができます。子どもが自分を乗り越えるのは喜びだからです。でも、父の心がないので、それができないのです。子どもたちに対してはどうでしょうか?自分が受けたように、子どもにしてしまいます。特に男性がそうであります。世代間連鎖と言いますが、「あんな親父にはなりなくない」と否定しても、そのようになるのです。我が家でもそうでした。「酒乱の父にはなりたくない」と兄弟たちはみんな思います。ところが、家庭を持つと、同じようなことをしてしまいます。私も結婚し立ての頃は、家内や子どもたちを殴ってやろうかと、内側から湧き上がってくるものがありました。独裁的な父は嫌いだったと子どものときは思いました。しかし、いざ家庭を持つと、子どもに対して命令調になります。聞く耳を持たないという感じです。無意識に父親と同じことをしているわけです。では、伴侶との関係はどうでしょうか?これは男性の場合は妻に対して、女性の場合は夫に対してであります。本来、父親は模範的で良い夫であるべきです。しかし、多くの場合、悪い模範です。そうするとどうなるか?やっぱり、自分の妻を虐待したり、妻の話を聞こうとしません。父親が母を見下げたように、今度は妻を見下げてしまいます。女性の場合は、父親に対して抱いていた怒りや満たされなかった欲求を夫にぶっつけます。「あなたこうしてよ、ああしてよ」「ああしてくれない、こうしてくれない」。それらは、自分の父親から受けられなかったという傷から来ています。いくら夫が妻の言うことを聞いても、解決することはありません。なぜなら、過去の問題が解決していないからです。最後は、自分自身のアイディンテティと関係してきます。父親を否定するということは、自分のどこか一部を否定することになります。私たちは父親を通して生まれてきました。その性格や能力の一部、良いところも悪いところも受け継いでいます。もし、父親を否定するなら、父親から受け継いだ良いところも否定しなくてはならなくなるでしょう。

このように、父親というのは、子どもたちに多大な影響を与えているということです。もし、敬えるような父親であるならば、幸いが来るのですが、そうでない場合は、呪いとなります。旧訳聖書の最後、マラキ書にはこのようなみことばがあります。マラキ4:5,6「見よ。わたしは主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」近年、キリスト教会において、「家庭での父親の回復」あるいは「父親との関係の癒し」など、さまざまなミニストリーが行なわれています。

3.父なる神の愛を受ける

 いよいよ、第三ポイントは癒しに関してであります。かなり前に台湾で開かれた聖会で、私が「父の愛」に関してメッセージしました。最後に、大勢の女性たちが、泣きながら前に進み出ました。「アジアの女性たちは、身分的に認められず、傷が深いんだなー」と思いました。エディ・レオ師がたびたび、ロシアに行くそうです。メンズ・ミニストリーなのに、司会者も賛美もみんな女性だそうです。先生が「父の愛」に関するメッセージをすると、みんなが泣いて、癒しと解放を得るそうです。何故かというと、ロシアでは父親がウォッカを飲み、妻や子どもたちを殴るそうです。さらには、妻や子どもを捨てて、家を出て行くそうです。ロシアの離婚率は世界一です。ですから、家庭には父親がいないのです。そのため、女性たちが男代わりになるしかありません。でも、それで欠けを満たすことはできません。日本ではどうでしょうか?みなさんの家庭ではどうだったでしょうか?父なる神様の愛と恵みは、豊かな湖のようにいっぱいに溢れています。しかし、自分のところに流れてくるのはほんの数滴です。なぜでしょう?川が丸太やゴミでせき止められているからです。だから、自分のところに流れてこないのです。妨げになっているのは、地上の父に対する赦せない心、内なる誓いではないでしょうか?ある人たちは、「もう過ぎたことだ。父もあのときはしょうがなかったんだ!」と、言って済ませるかもしれません。問題は、あなたが幼いとき、どう思ったかです。怒りにまかせ、どんなことを誓ったかです。それが苦い根として、あなたの心の中に今なお生きているのです。そこを解決しなければ、いろんな悪い実が出てきて、現在のあなたを苦しめるでしょう。

 では、どうしたら良いのでしょうか?それは、父なる神の愛と出会うことです。別な言い方をすると、父換えをすることです。あなたを産んだのは父と母かもしれません。しかし、あなたを創造したのは、父なる神様です。ローマ8:15あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。アーメン。私たちは、イエス様の恵みによって、神様を「アバ、父」と呼ぶことができます。「アバ」とは、「おとうちゃん」というものすごく親しい呼び方です。ルカ15章には「放蕩息子の父」が記されています。私たちの天の父は、無条件の愛で私たちを愛してくださるお方です。父なる神様が、あなたに地上のお父さんを与えました。残念ながら不完全な地上の父はいません。でも、父なる神様が深いご計画のもとで、あなたに与えたのです。ですから、私たちは神様が私に与えたという一点において、地上の父に感謝し、そして敬う必要があるのです。赦すためには、「私に○○をしてくれなかった」あるいは「私にこういうことをした」父を赦しますと具体的に言わなければなりません。また、「父のような人にはならない」「父のような人とは結婚しない」とか、誓った「内なる誓い」をキリストの御名によって取り消しましょう。そして、地上の父を恨んだことや呪ったことを悔い改めましょう。最後に、父なる神様の愛を豊かにいただくのです。神様は教会に「天の父」に代わる人たちを用意しておられます。その人があなたをハグして、代わりに謝ってくれます。そして、「あなたを愛します。受け入れます。誇りに思うよ」と言ってくれるでしょう。私はインドネシアに何度か行ったことがあります。エディ・レオ師が「父なる神の愛」というメッセージをしてくださいました。その後、私はシンガポールから来ていた聖公会の牧師にハグして祈ってもらいました。その時、腹の底から嗚咽が出てきて、何かつっかえている物が出て、その代わり、父の心がすとんと入ってきたような体験をしました。それ以来、私の中に「父の心」が芽生えてきたのです。

先日もテレビで、ハンディキャップのある息子と一緒にトライアスロンのレースに出たお父さんのことが放映されていました。あるとき息子が手話で「お父さん、ボクには夢があるんです。ボクはトライアスロンのレースに参加したいんです」と伝えました。トライアスロンは、最初は水泳で3キロ、次は自転車で130キロ、最後は30キロを走らなければならない最も過酷なレースです。お父さんは、そのために何年もかけて準備をしました。ある日、ハワイでトライアスロンのレースがありました。委員会の人たちは、「どうやってハンディを負っている人が、このレースに参加できるんですか?そんなの、とても参加させられませんよ」と言いました。だが、お父さんは説明しました。「私の息子は泳ぐことができません。でも、私は息子をボートに乗せ、そのボートを引っ張りながら泳ぎます。私の息子は自転車に乗れません。でも、この自転車の前に椅子を取り付けて、彼をそこに乗せます。そして私がその自転車を運転します。私の息子は走れません。でも、私は彼を車椅子に乗せて彼を押します」。委員会の人たちは、それを聞いて感動して許可を与えました。その日、多くの参加者がありました。いよいよレースが始まりました。みんな水泳と、自転車と、マラソンをしました。やがて、みんながゴールしました。暗くなっても、人々は家に帰ろうとしませんでした。このお父さんと息子さんが最後のゴールまで達するまで待っていました。8時間たち真っ暗になりましたが、遠くの方から人が来るのが分かりました。お父さんが車椅子を押していました。最後のゴールでは、ほとんど死にかけていました。ゴールで、彼の息子がにっこり笑っていました。これが父なる神の心です。皆さんや私はこの息子さんのようにハンディを負った人のようです。私たちは自分のレースを最後まで走り抜くことができません。私たちはみんな罪人です。私たちは霊的に麻痺しています。私たちは人生の競争を走りぬくことができません。しかし、私たちの天の父が、私たちを最後まで運んでくださるのです。天の父は良い父親です。今、父のもとに行きましょう。まだ父の愛を体験したことがない人に、単に頭にだけ神様を信じている人に、今、神様は、あなたに触れたいのです。父なる神の愛を体験しましょう。無条件の愛をいただきましょう。そして、父の心を持つ者となりましょう。

|

2010年3月14日 (日)

あなたはだれか?    イザヤ43:1-4、Ⅰコリント1:1-3

 信仰のDNAシリーズの3つめは、「癒しと解放」です。このテーマを4回に分けてお話ししたいと思います。本日は、その基礎にあたるものです。みなさんは「あなたはだれですか?」と聞かれたら何と答えるでしょうか?「私はだれだれです」と名前を答えるかもしれません。あるいは「私は何をしています」と、職業を答えるでしょうか?他に、性別、年齢、家族構成、出身地、学歴、特技、趣味、持っている資格等を答えるかもしれません。しかし、それはあなた自身を表しているでしょうか?名前を呼ばれても、自分の名前を嫌いな人もいるかもしれません。職業を聞かれても、無職だったらどうでしょうか?年齢や学歴、資格を答えるとなると、うっとうしくなるかもしれません。では、私たちの人生を支え、しかも永遠に続く、自己証明とは何なのでしょうか?

1.あなたはだれか?

 アイディンテティということばは、既に日本語になっているのではないでしょうか?IDカードといえば、身分証明書であります。でも、アイディンテティを1つの日本語にするのはとても困難です。本来、Identityは「同一であること、自己同一性」という意味です。でも、これだとよくわかりません。今回は「自己存在、自己認識、自分の身分」と文脈の中で、置き換えながらお話したいと思います。創世記1章と2章を見るとまず私たちは神様によって造られた存在であることが分かります。天と地を創造された神様がはじめからおられて、その神様がご自分のかたちに似せて私たちを造られたのです。おそらく学校では、「人間はサルから進化したんだ」と教えるでしょう。そして「能力がある人が、価値があるんだ」と頭の中に入れられるでしょう。その結果、「私は何ができるのか?」「私は何を持っているのか?」。そういうことで、自分の価値を推し量ってしまうのです。学校教育はすでにスタート地点から間違っています。そうではありません。人間は神のかたちに造られたのであり、存在そのものに価値があるのです。つまり、「何かできるか」という前に、「自分は何者なのか」ということを知ることがもっと重要なのです。なぜなら、「自分は何者なのか」が「何をするか」を生み出すからです。人は自分が考えているように生きます。これをセルフイメージとも言います。そうです。みなさんはだれでも、自分が考えている自分にあったように、生きているんです。多くの場合は、無意識的で行なわれていますが、みな自分に対して抱いているイメージどおり、生きています。英語の聖書、箴言23:7を直訳するとこうなります。「彼は、自分が心の中で考えているような人です」。他の英語の聖書は「彼は、自分が考えていることを全部合計した人です」。まさしく、私たちは自分が考えている自分にふさわしく生きています。

でも、残念ですが、アダムとエバが神に逆らって堕落してから、自分がだれなのか分からなくなりました。神様から創造された時点においては、神様と共に歩み、神様から生きる目的と価値をいただいていました。しかし、神様から離れて、自分で独立してからどうなったでしょう?神様がアダムに問いかけました。「あなたはどこにいるのか?」そのとき、アダムは「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました」と答えました。つまり、恐れと恥と罪悪感が入ってきたのです。アダムの子孫であるカインはどうしたでしょうか?町を建て、そこに自分の息子の名前をつけました。彼は自分の名を残したかったのです。その後、カインの子孫はどうなったでしょう?ヤバルは牧畜の先祖、ユバルは芸術の先祖、トバル・カインは工業の先祖になりました。カインの子孫は身を立て、名を上げる業績志向の人になったのです。卒業式で歌われる『仰げば尊し』の「身を立て名をあげ」と似ています。どうでしょうか?今でも、「あなたはだれですか?」と聞かれたら、「何ができるか」ということにポイントを当てるのではないでしょうか?多くの人たちは、自分の存在を高めるために、良い学校に行き、少しでも高い学歴を取ろうとします。そして、色んな資格を取ります。女性ですと容姿を磨き、料理やお稽古事をするかもしれません。男性ならば尊ばれる職業につき、名を上げることが重要です。しかし、それで自分の中にある、恐れや恥、罪責感がなくなったのでしょうか?人は一旦そういうものを得ると、「いつ失ってしまうのか」と恐れます。リストラされたら職業も失います。病気になって死んだらどうなるのでしょう?心の奥底に「自分は一体何者なのだろうか?」という細い声があるのではないでしょうか?

2.神の子というアイディンテティ

クリスチャンとはどういう自己存在、どういう身分でしょう?ヨハネ1:12「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」。これは、私たちの血筋や、努力に関係なく、キリストを信じることによって神の子どもとされるということです。もう少し分かり易く言いますと、「あなたがどこの国の人で、どの家に生まれ、どんな育ち方をしようとも関係ない。あなたがイエス様を信じたなら、神さまの息子、娘になるということです」。これは、私たちの努力や行ないではないということです。しかし、どうでしょうか?私たちはこれまで、「人から受け入れられるためには、何かをしなければならない、何かができなければならない」と教えられてきました。クリスチャンになっても、「自分は神様から愛されるために、罪を犯さないで、もっと正しいことを行なわなければならない」と考えている人がいます。そうではありません。父なる神様はキリストがなされた贖いによって、すでに満足しておられます。私たちはもう何もしなくても、神様から愛され、受け入れられ、価値あるものとみなされているのです。私たちはもうすでに、神様の子どもなのです。みなさん、私たちがこれから、罪を犯したとしても神の子という身分は失いません。何を失うのでしょうか?神様との親しい交わりです。では、どうしたら回復できるのでしょうか?Ⅰヨハネ1:9「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」アーメン。罪を言い表したなら、神との関係が回復します。どうぞ安心してください。これから先、どんなことがあっても、神の子としての身分、永遠の命は失うことがないのです。また、神様が王様であるなら、その子どもたちはどういう身分でしょうか?男性ならば、王子(プリンス)です。女性であるならば王女(プリンセス)です。私たちはキリストと共同相続人として、神様が持っておられる財産を相続できるのです。

『パワーフォーリビング』という本にすばらしい証が載っています。ある町に、一人の少年がいました。お母さんが彼を未婚で産んだので、学校で嫌なあだなを付けられ、からかわれました。彼はとても傷つきました。そのため、彼は休み時間や昼食の時間は独りでどこかへ行っていました。街へ行くと人々が「本当の父親はだれなんだ」と彼をじろじろ見るので、さらに傷つきました。彼が12歳の頃、新しい牧師が近所の教会に来ました。彼は礼拝にはいつも遅れて入り、早めに出ました。しかし、ある日曜日、早めに抜け出そうと思ったのに、入口でつかまってしまいました。牧師が彼をまっすぐ見つめて言いました。「坊や、君はだれだね?誰の子どもかね?」昔からあの重たい気持ちが再びのしかかって来ました。まるで大きな真っ黒いような重々しさでした。「牧師までもが私を見下しているんだ」と思いました。しかし、牧師は少年を見下ろしながら、少年の顔をじっくり見ていました。そして、まるで少年に見覚えがあったかのように、大きな笑みを見せました。「ちょっと待てよ。君が誰だか知っているよ。君に似ている家族を知っている。君は、神様の子どもだ!」。そう言うと、先生は少年のお尻をポンと叩いて、こう言いました。「君はすごい遺産を受け継いでいるんだ。行って、自分のものだと主張しなさい」。その少年が大きくなってどうなったでしょうか?テネシー州の人たちが私生児を州知事として選出したのです。知事の名前はベン・フーバーです。同じように、私たちは神さまの子どもです。ですから、神様から素晴らしい遺産を受け継いでいます。天国に行ってからではなく、今、この地上で「その遺産は私のものです」と主張して、用いることができるのです。ハレルヤ!

クリスチャンとはキリストに属する者という意味です。私たちが「イエスは主です。私はキリストに属しています」と言うならどうでしょう?千々万々の御使いたちが「アーメン」と唱えるでしょう。その代わり、悪魔や悪霊があなたを恐れるでしょう。厳密に言うと、あなたを恐れるのではなく、あなたの背後にあるお方を恐れるのです。私たちはものすごいバックがついているのです。チョー・ヨンギ先生は12月31日を支払日にした、約束手形を振り出したことがあります。締切日の午後3時になっても、お金の工面ができていません。奥さんが「アメリカに逃げたら」と提案しました。時計の針はすでに5時を指しています。チョー先生は銀行に出かけましたが、大晦日のため駐車場は車でごったがえししていました。普通なら支店長と予約もなしで会えるわけがありません。すると聖霊が「堂々と、大会社の社長のようふるまいなさい」と激励しました。支店長室の秘書は「どちらさまでしょうか?ご予約はお済みなにでしょうか?失礼ですが、どちらさまで?」と聞きました。先生は「わたしは、最高権威筋から者です」と、威厳をこめて返答しました。先生は神様から遣わされた者であるという意味で言ったのですが、秘書は、韓国では大統領府から派遣された者と勘違いしたのです。チョー先生は支店長に会うと「あなたのために、お役にたちたいのです。私に1500万円の小切手を振り出してください。そうしたら、教会員に働きかけ、新規に1万人分の預金をさせていただきます」と言いました。支店長はけげんな顔をしながら、副支店長を呼び入れました。副支店長は「と、とんでもございません。支店長、これは、あなたの首がかかっていますよ。この人は、担保もなければ、書類の手続きもしていないのですよ」と言いました。支店長は何度も首をかしげながら「いやー、何とも変な気分です。こういう興奮は今までの私の生涯にはありませんでした。本当に不思議です。信用しましょう。あなたは本当に大胆な人です。今回だけは私の首をかけます」。そう言って、1500万円の小切手を渡すように副支店長に指示しました。みなさん、これが神の子という身分の力です。私たちのバックには父なる神様という最高権威者がついておられるのです。ローマ8:32「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」

3.聖徒というアイディンテティ

もう1つ大事なアイディンテティがあります。それは、聖徒であります。聖徒、英語でセイントであります。ローマ・カトリックでは聖徒となるためには、様々な制約があって、よっぽどの功績がなければいただくことができません。しかし、それは聖書的ではありません。キリストを信じた人は、すべて聖徒、セイントであります。コリント人への手紙にこのように書いてあります。Ⅰコリント1:1-2「神のみこころによってキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。」コリントの教会はどんな教会だったでしょうか?教会には分裂や争いがありました。近親相姦もあったようです。彼らはパウロの使徒性を認めない高慢な人たちでした。だけど、パウロはコリントの人たちを何と呼んでいるでしょうか?「聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ」であります。ここでも、はっきり分かりますが、行ないや品性とは全く関係がないということです。「え?ひどい罪を犯しているのに、聖徒なんですか?」と文句を言うかもしれません。はい、それでも立派な聖徒なのです。つまり、私たちの行ないには関係ないのです。では、なぜ、使徒パウロがこういったことを冒頭で述べているのでしょうか?パウロはいきなり、コリントの教会の罪を責めていません。まずは、「キリストにあってあなたがたはどのようにされているか?どのような者なのか?」これを知らせたかったのです。では、このことと私たちの信仰生活とどのような関係があるのでしょうか?ニール・アンダーソンの本にはこのように書いてあります。ほとんどのクリスチャンは、自分自身を恵みによって救われた罪人であると言います。しかし、本当に罪人なのでしょうか?それが聖書的なアイディンテティなのでしょうか?そうではありません。神さまは私たちクリスチャンを罪人とは呼ばれず、「聖徒」「聖なる人」と呼んでくださったのです。もし、自分が罪人のことを罪人だと考えるなら、どのように生きるのか考えてみてください。おそらく罪人として生活し、罪を犯すでしょう。私たちは自分の本当の存在を認識すべきです。それは罪を犯すことがあるかもしれませんが、「聖徒」なのです。私たちは次のことを覚えておくべきです。どう生きるかが存在そのものを左右するのではなく、どういう存在であるかが生き方を決定していくのです。アーメン。

ニール・アンダーソンが口をすっぱく言っていることは、「すべきことが人間の存在価値を決定するのではなく、どのような存在であるのかが、なすべき事柄を決定するのです」ということです。もし自分がダメな人間だと考えていたなら、おそらくダメな人間として生き続けることでしょう。しかし、自分がキリストにあって永遠に生きる神の子と認めるなら、キリストが生きたように勝利と解放の中で、生き始めることができるのです。この理由は、だれも自己認識と矛盾するような行動をし続けることができないとういことです。みなさんの自己認識、つまり、セルフイメージはどうでしょうか?アメリカよりも、日本の方がずっとずっと否定的でしょう。ある調査によると、お母さんが子供に話しかけることばの80-90%が否定的なことばだそうです。学校へ行くと、生徒は積極的なことばが1に対して、否定的なことばを7つ受けていると言われています。また、1つの否定的なことばの影響力を帳消しにするには、4つの積極的なことばが必要であるということを指摘しています。新しいスーツやドレスを着るたびに経験することを考えると、おそらく正確に分かるでしょう。多くの友人が、「まあ、なんて素敵な洋服でしょう」と言ってくれても、誰かにひとこと「あまりあなたに似合わないわねえ」と言われたらどうでしょう。タンスの奥にしまって、二度と着ないかもしれません。ですから、私たちの頭の中にある否定的なことばを、聖書の積極的なことばに置き換えていかなければなりません。聖書は私たちを何と言っているのでしょうか?「あなたは神の子です」「あなたは聖徒です」「あなたの罪は赦されました」「あなたは義とされています」。みなさん、罪赦されているのと、義とされていることとは違います。罪の赦しはプラスマイナスゼロですが、義とはプラスであり、神の義があなたに与えられているということです。「アーメン」とは、聖書で神様が言われていることは、「本当に、そのとおりです」と言うことです。私は義とされている。「アーメン」と心から信じるなら、それにふさわしい行ないをしようとするでしょう。私は信仰歴30年になりますが、最近、「アーメン」の意味がわかってきました。神様の恵みを知る時に、心から「神様、アーメン、本当ですね」と言うことができます。どうぞ、神様が私たちにおっしゃっていることばを「アーメン」「アーメン」とたくさん入れましょう。パソコンをなさる方はご存知だと思いますが、「アーメン」とはenterです。私たちが「アーメン」と言うときはenterキーを押して、心の中に入れている時なのです。

イザヤ書43章は、私たちの自己存在、アイディンテティがどんなにすばらしいか教えてくれる重要な箇所です。43章のはじめには、「主は私たちを創造された方、形造った方である」と書かれています。私たちは神さまの作品であって、それぞれユニークな存在だということです。私たちは他の人と比べる必要はないのです。あなたと同じ人は、世界に二人といない、固有な存在なのです。「アーメン」enter。それから、主は「恐れるな、私はあなたを贖った」とおっしゃっています。そうです。イエス・キリストは十字架で尊い血を流し、あなたを買い戻してくださったのです。あなたにはキリストの命と交換するくらい価値があるのです。「アーメン」enter。そして、「私はあなたの名を呼んだ。あなたは私のものだ」とおっしゃっています。私たちはどこに属しているのでしょうか?世界に60億人いようとも、キリストにあってあなたは選ばれているのです。神様はあなたは私のものだとあなたの名前を読んでおられます。「アーメン」enter。さらに、「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」。自分たちの親、友人、先生…多くの人たちは、「あなたはこうだ」と言ったかもしれません。そして、そのことばで「ああ、自分はこうなんだ」と自分をイメージしたでしょう。でも、多くの部分が偽りでした。あなたは偽りを信じてきたのです。偽りはdelete削除しましょう。あなたは、神様の目から見たらどういう存在なのでしょうか?「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」「アーメン」enter。神様の愛は無条件の愛です。何ができるから、何をするからではありません。あなたのありのままを愛し、受け入れているのです。罪も欠点も醜いところもみんな含めてです。良い人になってからではありません、神様はありのままのあなたを愛し、受け入れておられるのです。「アーメン」enter。

みなさん、このことを理解することがクリスチャンの成長の土台です。神様の無条件の愛による安心感がなければ、成長はありえません。私たちは神様の愛を得るために、何もしなくても良いのです。父なる神様はキリストにあって既に満足しておられるからです。私たちはキリストにあって、神の子であり、聖徒です。ここからスタートするのです。自分がキリストにあって、どういう存在かを知ること、これがクリスチャンの成長の土台となるのです。

|

2010年3月 7日 (日)

聖書の世界観    Ⅰコリント13:8-13 

 世界観ということばをお聞きになったことがあるでしょうか?それは「めがね」のようなものであります。あるものはちゃんと見えるけど、あるものは歪んで見えます。あるものは入ってきますが、あるものはフィルターにかけられて見えないのです。しかも、それが無意識的に行なわれているのです。パウロが「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ています」と言っているのと同じです。私たちは、真実(現実)を完全に把握することはできません。その人が育った文化的な背景が多大な影響を与えているからです。人々が真実(現実)をとらえるときに、そのとらえ方の根底にある前提条件を世界観と言います。西洋の人たちには西洋の世界観があります。東洋の人たちには東洋の世界観があります。しかし、私たちは聖書の世界観を持つべきであります。

1.西洋の世界観

 西洋の世界観に多大な影響を与えたのは、17世紀にイギリスで興った「理神論」です。理神論とは、「神様がこの世界を創造したとき、世界がひとりでに動くように法則を与えた。今は、神様はこの世に対して干渉しない」という考えです。だんだんと科学が発達し、この世界のことがすべて証明できるようになりました。医学も発達し、薬や手術で病気が治るようになりました。もはや、祈りなどというのは時代遅れです。産業も発達し、別に神さまに頼らなくても、生きていけるようになりました。彼らはこのように考えました。「目に見えるものだけが真実(現実)であり、目に見えないものは存在しないんだ。人間のあらゆる問題は、理性で解決できる。理性に合わないものは除外するしかない」と考えました。そして、聖書に対する見方も変わりました。「人間には霊があるといわれてきたけど、本当は他の動物となんら変わりない。死んだら無になるんだ。聖書に記されている、悪魔とか悪霊とか天使などは迷信であり、そういうものは存在しないんだ。奇跡や病気の癒しだって本当かどうかわからない。神話かもしれないし、作り話かもしれない。当時は文明が発達していなかったので、そのように描写するしかなかったんだ」。このように考えるようになりました。

では、宗教はなくなったのでしょう?宗教は相変らず存在していました。彼らはそれでも、神さまを信じていたのです。「神さまは宗教の世界であり、私たちが住んでいる現実の世界とは違う。宗教の世界は、目に見えない精神的なものを扱う。だから教会では、神さまを礼拝し、祈りをささげても良い。でも、自分たちが住んでいる物質的な世界は、科学や理性が支配している」と、言うでしょう。もし、公共の場、たとえば学校教育や政治に宗教を持ち込むならどうでしょう?それはノーです。「宗教は宗教の世界でやってください。公共の場ではいけませんよ。人には信仰の自由がありますので、押し付けてはいけませんよ」と言うでしょう。この考えは、世界中、どこにでもあるのではないでしょうか?でも、彼らの中に矛盾が生じました。「聖書を見ると神さまは祈りに答えてくださると書いてある。聖霊がおられて、私たちを助けてくださると書いてある。私たちは教会で祈りを捧げる。でも、本当に神さまは答えてくださるのだろうか?聖霊の導きというものが本当にあるのだろうか?いや、それは精神的なものであって、実際は私たちが努力しなければならないんだ。祈っただけでは状況は変わらない。祈りも必要だけど、実際は、私たちが考え、努力しなければならないんだ。天は自ら助くる者を助く、自力で努力する人には天が援助を与えるんだ」ということです。どうでしょうか?どこかおかしいと感じませんか?この考えは、自分が一生懸命やって、そのあと「神さまの助けがあれば幸いだなー」ということです。ひょっとしたら、その助けがないかもしれません。

まとめてみますと、西洋の世界観とはこういうものです。神さまがおられる宗教的な領域と科学で証明できる自然の領域の2つに分けたということです。奇跡(超自然的なこと)はたまには起こるかもしれないが、めったには起きないということです。西洋の世界観の欠点は、霊的な世界、つまり中間層が全く排除されていることです。だから、科学で証明できない、悪魔、悪霊、奇跡、預言、病気のいやし、聖霊の導きさえも、排除してしまいます。実はこの考え方は、キリスト教会にも多大や影響を与えました。キリスト教はイスラエルに始まり、ヨーロッパ、そしてアメリカに渡りました。戦後、日本に入って来たキリスト教は、欧米の衣を着たキリスト教であります。「欧米か?」であります。このことは最後に詳しくお話します。

2.東洋の世界観

一方、東洋の世界観とはどういうものなのでしょうか?西アジア、東南アジア、インド、中国、韓国、日本であります。東洋人はアニミズム的な世界観を持っています。アニミズムは、精霊崇拝ともいいますが、すべてのものに霊があるという考えです。「山、樹木、岩にも霊が宿っている。動物の霊、死んだ人の霊(先祖の霊)、悪霊、さまざまな霊がいる」と言うのです。では、神さまはいるのか?彼らは天地を造られた神という概念をあまり持っていません。もちろん神さまを信じてはいますが、あまりにも遠くはなれているために、地上のことには関与していません。ですから、霊の世界の存在は、地上で生きている人たちが支配しなければならないのです。だから、霊の世界を支配する特別な賜物を持ったシャーマンを用意します。彼らは魔術とか魔法、特別なことばや霊力によって、霊の世界をコントロールします。日本では、祈祷師、拝み屋、霊媒師、霊能者、陰陽師(おんみょうじ)、いたこ、ユタ…いろんな人たちがいます。日本人の多くは「自分たちは学問をした知的な人たちであり、迷信なんか信じない」と言います。しかし、会社にスーパーコンピューターを設置するときは、神主を呼んで御祈祷してもらうそうです。家を建てるとき、子どもが生まれたとき、七五三、入学試験、厄年になったとき、お世話になったという人はいるのではないでしょうか?野球でもそうなんですね。シーズンが始まる前に、監督、選手たちが総出で、御祈祷を賜るんじゃないでしょうか?私はやめてくれと思っていますが、毎朝、テレビに「きょうの占い」というのが出てきます。日本はまさしく、アニミズムの世界です。

では、東洋のアニミズムの欠点は何でしょうか?まず、絶対者なる神様がいません。いたとしてもそれは諸霊であります。死んだ人が神になったり、動物が神になったりします。つまり、最上階の絶対的な世界が欠落しているということです。そして、見えない霊の世界と物質的な世界の境目があいまいだということです。山や石、樹木、死んだ人の霊、諸霊がここにも飛び交っているということです。霊たちと一緒に生活していると言っても良いでしょう。テレビでやっていましたが、「家の中で変な物音がする、なぜだろう?」と霊能者を呼びました。霊能者は「ああ、この家は霊たちが行き来する通り道になっています。家を建て替えるか、何か特別なことをしなければなりません」と言っていました。アニミズムの考え方からは、科学や医学、産業は発達しません。なぜなら、物質と霊とは別の法則があるということを受け入れないからです。たとえば、彼らはこの世における物質は影であり、霊魂が永遠なんだと考えます。物質よりも霊魂に関することが大事なのです。ですから、僧侶たちは世俗と離れて暮らします。一昔前、インドでは「天然痘はマイサンマという神が怒っているんだ、怒りをしずめるために水牛を捧げなければならない」と考えていたそうです。しかし、天然痘のワクチンが入ってからその病気はなくなりました。農業においてもさまざまな祈祷を捧げます。でも、肥料や様々な技術によって、2メートルものとうもろこしが作られるようになりました。

アニミズムの考えはイスラム教、仏教、神道の中にも入り込んでいます。現在は、ニューエイジという危険な宗教が盛んですが、それは欧米の衣を着たキリスト教に力がないからです。西洋の世界観を持つ人たちは、そういう奇跡や超常現象を見ると、コロッとひっくり返って、彼らの言う神様を信じてしまうのです。なぜなら、東洋のアニミズム、霊の世界に対して抵抗力がないからです。アニミズムの人たちは、事故に会うのも、病気になるのも、何かの霊のせいではないかと恐れます。物質的な考えがないので、全部、霊のせいにしてしまうということです。彼らはこの世界を科学的に見ることができません。

3.聖書の世界観

さて、やっと本論に到達しました。みなさん、キリスト教の発祥地、パレスチナ(イスラエル)はどこにあるでしょうか?本当はアジアにあるのです。みなさん、あそこは西アジアなんです。不思議なことに地球儀を見ると、3つの大陸のおへその部分に位置します。南に行けばアフリカ大陸、東に行けばアジア大陸、そして北に行けばヨーロッパ大陸です。キリスト教の主流は、パレスチナからヨーロッパに渡り、それから南北のアメリカ大陸、そのあとアジアとアフリカに渡りました。でも、みなさん、聖書が書かれたのは、アジア地です。ですから、当然、夢や幻、預言も信じられていました。預言者たちが、隠れたことや未来のことを預言しています。奇跡もバンバン起こりました。私たちは、奇跡を超自然的出来事として区別しますが、神様にとっては奇跡と一般の区別はありません。神様は、ご自分が造った法則を尊重していますが、それを変えたり、早めたり、遅くしたりすることが可能なのです。なぜなら、神さまは目に見える世界と目に見えない世界の両方の支配者だからです。新約聖書を見ると、イエス・キリストが病を癒し、悪霊を追い出しました。悪魔(サタン)も登場し、ユダが彼に入ったと書いてあります。ヨハネ黙示録では、悪魔は火の池に投げ入れられると書いてあります。では、霊だけでしょうか?そうではありません、聖書は物質のことも書いてあります。聖書の神さまは宇宙、万物、そして私たちをも創造されました。すべてのものが良かったと言われました。つまり、物質や肉体は悪ではなく良いものです。人間は霊魂もありますが、物質や肉体も必要なのです。キリスト教の救いの完成は復活にあります。アニミズムは霊魂だけですが、キリスト教は死んだ肉体が復活することによって救いが完成します。そして、イエス・キリストが天の御住まいに(豪邸に)私たちを迎え入れてくださるのです。ハレルヤ!

では、聖書の世界観とはどういうものなのでしょうか?聖書の世界観は3層あります。まず、は天の御座には、神さまとイエス様がおられます。パウロはそこを第三の天と言いました。ロケットが行く天ではなく、もっと次元の異なった世界です。神さまは今もこの天と地を保持しておられます。そして、イエス様が御国の権威を教会に与えています。その下には中間層があります。そこには御使い(天使)が働いています。天使長や大天使、天の軍勢もいます。さらには悪魔とその手下である悪霊どもがいます。国の上を支配し、文化や宗教、政治にも影響を及ぼしています。個人個人の中に働く悪霊もいます。悪魔は未信者に対してどのようなことをするでしょうか?悪魔は偽りの父と呼ばれていますので、悪魔の策略はあざむきであります。未信者に対して、「人生において完全になるために、十字架以外に道がある」と言います。そして、キリストの十字架以外に代わるもの、他の宗教、哲学、物質主義、異端を持ち込みます。キリストの救いから離しておけば、悪魔の支配下にあるので、未信者のことは心配しません。でも、目ざわりなのはクリスチャンたちです。悪魔は神さまにははむかうことはできませんが、その代わり、神の子たちを攻撃します。クリスチャンが神の栄光を現して、未信者たちに影響を与えるのが一番困るのです。悪魔と悪霊は、未信者よりも、クリスチャンの方に誘惑や問題を持ってきます。今、あなたがた抱えておられるトラブルはどうでしょうか?それは人間や出来事だけではなく、背後に悪魔が働いていると考えるべきです。エペソ6:12「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」

では、私たちの地上の世界、物質の世界はどうなのでしょうか?確かに、私たちの上には悪魔や悪霊の妨げがあります。でも、神さまは私たちに助けの手を伸べてくださいます。西洋の世界観はこの世界と神さまのとの間に断絶がありました。しかし、そうではありません。神さまがご自分が望むなら、いつでもこの世界に救いの手を差し伸べることができるのです。その第一の手段は聖霊であります。聖霊は神の霊として私たちのところに来られ、私たちを導き、私たちを助けてくださいます。第二の手段は御使いです。ヘブル1:14「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか」とあります。今も、数知れない御使いたちが、私たちのために働いておられるのです。しかし、御使いは私たちの言うことには従わないし、聞くこともしません。御使いはただ、神さまだけの方から、一方通行的に来るのです。私たちがすべきことは、主イエス・キリストの御名によって父なる神様に祈ることであります。だから、御使いのことは意識しなくても良いのです。私たちが父なる神様との関係が正しければ、神の守りがあるということです。また、神さまは創造主として、物質世界にも一定の法則を与えました。数学、物理、化学、生物、経済、芸術…それぞれの世界に法則や原理があります。ですから、アニミズムのように何でも悪霊と関係があるとは考えてはいけません。何か問題が起こるのは、それなりの原因があるのです。たとえば病気になったとします。すべての病気は悪霊のせいではありません。不摂生が原因であったり、ストレスが原因かもしれません。私たちは怪我や病気を治すために、医者や薬に頼っても良いのです。なぜなら、それは神さまが与えてくれた一般恩寵だからです。でも、そのときに祈って医療を受けるのと、祈らないでい医療を受けるのとではぜんぜん違います。アメリカのある大学でテストしたそうです。クリスチャン100人に、「A病棟の人たちのためにお祈りください、でもB病棟のためにはお祈りしなくても良いです」とお願しました。彼らは顔も名前も知らない人たちのために、1ヶ月間、一生懸命お祈りしました。するとどうでしょう、がぜん、A病棟の人たちの回復率が良かったということです。

4.私たちの聖書の見方

アジアの私たちに伝道してくださったのは欧米の宣教師たちです。「欧米か?」日本は宣教国であり、その人たちに心から感謝しなければなりません。でも、欧米のキリスト教は神さまとこの現実の世界を信じていますが、中間層という霊の世界が欠落しています。奇跡や病いの癒しはめったには起こらないんだという考えがあります。また、聖霊に関しては頭では理解していましたが、実際、私たちの信仰生活でどのように働くのか体験がありません。そういう人たちが、日本に教会を開拓し、日本の教会を指導したのです。当然、教えられた私たちも、西洋の世界観、西洋のメガネで聖書を解釈してしまいます。冒頭で、Ⅰコリント13章をお読みしました。実はⅠコリント12章と14章は聖霊の賜物について書かれている箇所です。その12章と14章の間に、13章の内容が記されています。西洋の世界観でこの聖書を見るなら、13章の愛だけが最も重要であり、12章と14章は付随的なもの、あまり大事なものでないと思われてしまいます。今から20年前に、いのちのことば社から「注解・索引付、チェーン式聖書」が発行されました。ページの下の段に、簡単な解説が載っています。Ⅰコリント13:11をこのように解説しています。「キリストが再臨していない、現在の不完全な時代には、成長の段階がある。キリスト教会の発達当時は、まだ未成熟の時代であり、教会の成長と各章のために、目を見張るような、御霊の賜物による働きが必要であった。しかし、新約聖書が完成した今は、そのような賜物の必要は消えた」と書いてあります。だれが書いたか分かりませんが、これはかなりの問題発言です。これはディスペーショナリズムという時代を区分的に分ける神学から来ています。聖書が完成したので、聖霊の賜物、異言や預言、癒しも終ったという考えです。

1966年から奥山実先生がこの様な神学で、インドネシアに宣教にでかけました。当時、インドネシアではリバイバルが起こっており、悪霊追い出しや奇跡が日常茶飯事でした。「悪霊などいない」と神学校で教わってきたのにとんでもない。「使徒の働き」は現在も続いているとはっきりわかったそうです。そうです。福音派の教会は、聖書は神の霊感によるもので誤りがないと信じています。しかし、西洋の世界観で、聖書を読んでいるので、「奇跡はもうない。病の癒しもない。聖霊の賜物も終った」というのです。少し前まで、福音派の教会はペンテコステ・カリスマを毛嫌いしてきましたが、もうそうは言っておられません。アジアやアフリカ、南米の教会はペンテコステ・カリスマの教会がほとんどです。もちろん、バランスは大切です。でも、聖書の読み方において、私たちは西洋の世界観という色めがねをはずして、「霊の世界はあるんだ」という、見方をしていかなければなりません。では、Ⅰコリント12,13,14章のバランスのとれた理解とはどのようなものでしょうか?「御霊の賜物はキリスト教会に与えられた、いわばからだの器官のようなものです。ですから、各々クリスチャンが与えられた御霊の賜物を用いるべきです。異言、預言、知識、信仰、知恵、様々な賜物があります。しかし、愛がなければ全く役には立ちません。コリントの教会のように、愛を忘れ、賜物を競うならば、高慢と分裂のもとになるでしょう。そうではなく、愛をもってそれらの御霊の賜物を用いるとき、御国の働きをこの世に向かって推し進めることができるのです。やがてイエス様が戻ってこられます。私たちが持っている預言や知識や知恵は一部分です。完全なイエス様が来られたら、それらのものはすたれるでしょう。だから、自分の賜物には限界があることを認め、キリストの器官として、互いに補い合いましょう。いつまでも残るものは、信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」ハレルヤ!私たちは聖書が神の霊感によって書かれた誤りなき神のことばとして信じます。と同時に、私たちはイエス様の世界観、聖書の世界観をもって、聖書を読んで行きたいと思います。

|

« 2010年2月 | トップページ | 2010年4月 »