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2010年3月21日 (日)

父なる神の愛を受ける エペソ6:1-3、ローマ8:14-15

 十戒の5番目は「あなたの父と母を敬え」です。十戒の1から4までが神様に関することです。そして、十戒の5から10番目までが人間に関することです。すると、十戒の5番目の位置はどうなるでしょう?神様と人間の戒めを繋ぐ役割を果たしています。申命記6章には、親の役割が記されています。それは子どもたちに、「心を尽して神様を愛しなさい」ということを教えるということです。特に、父親は子どもたちにとって、神様を示す人であり、また神様の代理でもあります。もし、子どもたちが神様を愛し、父と母を敬うことを学んだならば、人間に関することがうまくいくということです。だからパウロは、「父と母を敬うことは、第一の戒めである」と言っているのです。父と母を敬ったならばどうなるのでしょうか?「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」と約束されています。アーメン。

1.不完全な父

 子どもにとって、努力しないで自然に、父と母を敬うことができたなら幸せなことです。しかし、多くの場合、両親は不完全であります。福音書には、「主の祈り」が記されています。イエス様は「天の父よ」と祈りなさいと教えてくださいました。ですから教会で教えるスタンダードな祈り方は「天のお父様、○○○」と始まります。私たちが「天のお父様」と祈りはじめるときに、どうでしょうか?「ああ、もう一人いたなー」と地上の父を思い出すのではないでしょうか?なぜ、イエス様は「天の父よ」と祈りなさいとおっしゃったのか不思議でたまりません。「イエス様」とか「聖霊様」あるいは「神様」でも良いはずです。でも、「天のお父様」と祈り始めるとき、抵抗感を覚える人がいるのではないでしょうか?クリスチャンであっても、神様を「天のお父様」と呼べない人がかなりいるようです。それはなぜでしょう?自分の父に対する心の傷があるからです。怒りや憎しみ、赦せない思い、いろんなものがくっついているかもしれません。どうしても私たちは地上の父を通して、目に見えない天の父を連想してしまいます。もし、地上の父に対する私たちの心が癒されていなければ、どうしても天の父がゆがんで見えるのではないでしょうか?逆に言うなら、地上の父を赦し、愛し、敬うならば、天の父がもっとすばらしいお方に見えてくるのではないかと思います。お母さんとの関係は来週に回して、きょうは父親だけにポイントを当てたいと思います。

 では、どのような不完全な父がいるのでしょうか?そして、そのもとで育った子どもはどのような心の傷を受けるのでしょうか、代表的なものをリストアップしていきたいと思います。第一番目は独裁的な父親です。リーダーシップがあって良いのですが、妻や子どもたちの意見を全く聞き入れません。威張ってばかりいて、愛がない父親です。明治から昭和のはじめには、こういうお父さんが標準だったのではないでしょうか?何でも、一方的に言われたのでは子供たちはたまりません。心の中に怒りや反抗心がいっぱいたまってきます。これはある家庭の話しです。お母さんと子どもたちはお家で団欒のときを持っていました。お父さんの車の音が聞こえてきました。子どもたちはさっと、自分の部屋に入っていきました。お父さんは「子どもたちはどうしたんだ?出迎えもしないのか?一体、だれのお陰で飯食っていると思っているんだ」と言いました。家の中に緊張感が走ります。今は、こういうお父さんは少なくなったかもしれません。でも、普段はおとなしくても、お酒が入ると強くなる場合もあります。こういう家庭で育った子どもは、神様が恐い存在ではないでしょうか?神様と親しい関係を持つことが、おそらく困難でしょう。第二番目は全く逆なタイプ。弱々しい、優柔不断な父親です。ある女性たちは、優しい男性に惹かれます。今で言う草食系男子でしょうか?でも、結婚してみると、それでは物足りなくなります。そして、妻や娘から、いじめられるようなお父さんです。そういう家庭で育った子どもは、神様をどのように見てしまうでしょうか?きっと、「神様も弱くて、あんまり頼りにならないんじゃないかな?」と思うでしょう。そして、「神様、これしてくださいよ、きっとですよ」と神様に命令するかもしれません。

 第三番目は無口で無関心な父親です。いるかいないか分からない、存在感の薄い父親です。どちらかと言うと家では、母親の方がよくしゃべる。母親が無口な父親の代わりになって、家庭のコミュニケーションを計るというタイプです。父親の父親(おじいちゃん)も、おそらくそういう人だったのかもしれません。自分が父親とほとんど話したことがないので、子供たちとどう接して良いか分からない。「うん」とか「ああ」で、あとは新聞を見ている。「お父さん、運動会で1位だったよ!」「うん」。「お父さん、学校の成績上がったよ」「うん」。会社では部下に対して、よくしゃべることができるのに、家に帰ると口からことばが出て来ない。そういう父親を持つ子どもは、どうなるでしょう?「天のお父様」と祈り始めても、あとが続かない。「天のお父様」「うん」。3分も祈れない。第四番目はいい加減な父です。本来、父親は家庭を守らなければならないのにそうではない。飲んだり、ギャンブルをして働いたお金を家庭に入れない。代わりにお母さんが一生懸命に働いている。子どもたちもアルバイトをする。子どもたちが社会人になると、お父さんが「おこずかいくれ」とねだる。こういう家庭で育った子どもはどうなるでしょうか?「天のお父様」と祈ることは祈るかもしれません。でも、心の中では、「祈っただけではダメで、やっぱり私がやらなくちゃ」と思うでしょう。つまり、神様をあまりあてにしていない。父親がそうだったので、神様を心から頼ることができないのです。

 第五番目はいない父です。自分が幼少の時、亡くなった場合です。そのため、お父さんの記憶が全くないという人もいます。あるいは、子どものときに離婚して、父親が家庭にいなかった。さらには、いたにはいたのですが父親が不在であった。出張とか仕事が急がし過ぎて、ほとんど家庭にいない。父親が出稼ぎでいなかったという場合もあります。母親が父親の役割を果たすかもしれません。もし、長男や長女が欠けた父親の役割を果たすと、アダルトチルドレンになる可能性もあります。とにかく、父親が家庭にいないということは、いろんな面でダメージを与えるでしょう。そういう人が「天のお父様」と祈っても、天のお父様がわかりません。子どものとき父親をなくした、ある牧師の証を聞いたことがあります。「天のお父様」と祈っても、「天は空っぽであった」とおっしゃっていました。このように、地上の父親は、神様のイメージに大きな影響を与えるということです。

2.人間関係に与える影響

 父親との関係で傷のある人が最も問題を感じるのは、権威ある人との関係です。父親というのは、いわば権威の象徴であります。自分の父親に対して、いろんな悪い感情を抱いているとします。「自分を守ってくれなかった」「そんなんじゃダメだと、業績をあおった」「ただしく治めてくれなかった。不公平であった」「酒乱でひどい虐待を受けた」「怠け者で働かなかった」「私を認めてくれなかった、拒絶された」「冷たかった、私を愛してくれなかった」…いろいろあると思います。心の中に、様々な怒りや憎しみ、尊敬できないものがあるわけです。そういう人はこの世の中の権威ある人を敬うことができません。心から従うことができないのです。たとえば、学校の先生に対してはどうでしょうか?私は学校の先生から本当によく叱られました。落ち着きがない私にも原因があったかもしれません。しかし、私の父が家庭を正しく治めてくれなかったので、私の中に不安定さがあったのです。心の強さとか守りがなかったので、叱られ易いタイプだったのかもしれません。会社の上司との関係はどうでしょうか?「コピーとってくれ、お茶入れてくれ」と言われると、なんだか命令されているような気がする。「お茶ぐらい自分で入れたらどうだ。私はお茶汲みをするために会社にはいったんじゃない」。あるいは、「あの上司はどうして私にだけ厳しいんだろう?他の人だってかなりいい加減じゃないか?」不公平だなーと思う。そして、牧師との関係はどうでしょうか?牧師というのはある意味で、怨念晴らしの対象であります。特に姉妹方にその傾向があります。父親との関係が悪い人は、牧師にそのことが投影するようです。「ああしてくれない」「これが足りない」「これはひどい」…いろんな注文があるでしょう。牧師が何か言うと命令調に聞こえる。心の中に何とも言えない反抗心を感じる。私も牧師として、いたらないことはたくさんあります。でも、「それだけでもないなー」と分かるようになりました。どういうことかと言うと、自分が父親から受けられなかったものを、牧師から受けようとする。しかし、それが叶わないとき、怒りを覚える。そして「なんとかしてよ!」と訴える。あるいは、「どうしようもない」と諦めて遠ざかる。そういう意味で、牧師は自分の父親との関係を計る試金石であります。

 それだけではありません。自分よりも目下の人、あるいは子どもたち、そして伴侶にも影響を与えます。自分に父の心がないので、他の人がみんなライバルに見えます。部下や後輩に対して「10年早い」と言いたくなります。「はい」と素直に聞く人には面倒を見るけど、反抗的な人に対しては軽んじるか無視します。父の心があれば、たとえ追い抜かれても、それを自分のことのように喜ぶことができます。子どもが自分を乗り越えるのは喜びだからです。でも、父の心がないので、それができないのです。子どもたちに対してはどうでしょうか?自分が受けたように、子どもにしてしまいます。特に男性がそうであります。世代間連鎖と言いますが、「あんな親父にはなりなくない」と否定しても、そのようになるのです。我が家でもそうでした。「酒乱の父にはなりたくない」と兄弟たちはみんな思います。ところが、家庭を持つと、同じようなことをしてしまいます。私も結婚し立ての頃は、家内や子どもたちを殴ってやろうかと、内側から湧き上がってくるものがありました。独裁的な父は嫌いだったと子どものときは思いました。しかし、いざ家庭を持つと、子どもに対して命令調になります。聞く耳を持たないという感じです。無意識に父親と同じことをしているわけです。では、伴侶との関係はどうでしょうか?これは男性の場合は妻に対して、女性の場合は夫に対してであります。本来、父親は模範的で良い夫であるべきです。しかし、多くの場合、悪い模範です。そうするとどうなるか?やっぱり、自分の妻を虐待したり、妻の話を聞こうとしません。父親が母を見下げたように、今度は妻を見下げてしまいます。女性の場合は、父親に対して抱いていた怒りや満たされなかった欲求を夫にぶっつけます。「あなたこうしてよ、ああしてよ」「ああしてくれない、こうしてくれない」。それらは、自分の父親から受けられなかったという傷から来ています。いくら夫が妻の言うことを聞いても、解決することはありません。なぜなら、過去の問題が解決していないからです。最後は、自分自身のアイディンテティと関係してきます。父親を否定するということは、自分のどこか一部を否定することになります。私たちは父親を通して生まれてきました。その性格や能力の一部、良いところも悪いところも受け継いでいます。もし、父親を否定するなら、父親から受け継いだ良いところも否定しなくてはならなくなるでしょう。

このように、父親というのは、子どもたちに多大な影響を与えているということです。もし、敬えるような父親であるならば、幸いが来るのですが、そうでない場合は、呪いとなります。旧訳聖書の最後、マラキ書にはこのようなみことばがあります。マラキ4:5,6「見よ。わたしは主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」近年、キリスト教会において、「家庭での父親の回復」あるいは「父親との関係の癒し」など、さまざまなミニストリーが行なわれています。

3.父なる神の愛を受ける

 いよいよ、第三ポイントは癒しに関してであります。かなり前に台湾で開かれた聖会で、私が「父の愛」に関してメッセージしました。最後に、大勢の女性たちが、泣きながら前に進み出ました。「アジアの女性たちは、身分的に認められず、傷が深いんだなー」と思いました。エディ・レオ師がたびたび、ロシアに行くそうです。メンズ・ミニストリーなのに、司会者も賛美もみんな女性だそうです。先生が「父の愛」に関するメッセージをすると、みんなが泣いて、癒しと解放を得るそうです。何故かというと、ロシアでは父親がウォッカを飲み、妻や子どもたちを殴るそうです。さらには、妻や子どもを捨てて、家を出て行くそうです。ロシアの離婚率は世界一です。ですから、家庭には父親がいないのです。そのため、女性たちが男代わりになるしかありません。でも、それで欠けを満たすことはできません。日本ではどうでしょうか?みなさんの家庭ではどうだったでしょうか?父なる神様の愛と恵みは、豊かな湖のようにいっぱいに溢れています。しかし、自分のところに流れてくるのはほんの数滴です。なぜでしょう?川が丸太やゴミでせき止められているからです。だから、自分のところに流れてこないのです。妨げになっているのは、地上の父に対する赦せない心、内なる誓いではないでしょうか?ある人たちは、「もう過ぎたことだ。父もあのときはしょうがなかったんだ!」と、言って済ませるかもしれません。問題は、あなたが幼いとき、どう思ったかです。怒りにまかせ、どんなことを誓ったかです。それが苦い根として、あなたの心の中に今なお生きているのです。そこを解決しなければ、いろんな悪い実が出てきて、現在のあなたを苦しめるでしょう。

 では、どうしたら良いのでしょうか?それは、父なる神の愛と出会うことです。別な言い方をすると、父換えをすることです。あなたを産んだのは父と母かもしれません。しかし、あなたを創造したのは、父なる神様です。ローマ8:15あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。アーメン。私たちは、イエス様の恵みによって、神様を「アバ、父」と呼ぶことができます。「アバ」とは、「おとうちゃん」というものすごく親しい呼び方です。ルカ15章には「放蕩息子の父」が記されています。私たちの天の父は、無条件の愛で私たちを愛してくださるお方です。父なる神様が、あなたに地上のお父さんを与えました。残念ながら不完全な地上の父はいません。でも、父なる神様が深いご計画のもとで、あなたに与えたのです。ですから、私たちは神様が私に与えたという一点において、地上の父に感謝し、そして敬う必要があるのです。赦すためには、「私に○○をしてくれなかった」あるいは「私にこういうことをした」父を赦しますと具体的に言わなければなりません。また、「父のような人にはならない」「父のような人とは結婚しない」とか、誓った「内なる誓い」をキリストの御名によって取り消しましょう。そして、地上の父を恨んだことや呪ったことを悔い改めましょう。最後に、父なる神様の愛を豊かにいただくのです。神様は教会に「天の父」に代わる人たちを用意しておられます。その人があなたをハグして、代わりに謝ってくれます。そして、「あなたを愛します。受け入れます。誇りに思うよ」と言ってくれるでしょう。私はインドネシアに何度か行ったことがあります。エディ・レオ師が「父なる神の愛」というメッセージをしてくださいました。その後、私はシンガポールから来ていた聖公会の牧師にハグして祈ってもらいました。その時、腹の底から嗚咽が出てきて、何かつっかえている物が出て、その代わり、父の心がすとんと入ってきたような体験をしました。それ以来、私の中に「父の心」が芽生えてきたのです。

先日もテレビで、ハンディキャップのある息子と一緒にトライアスロンのレースに出たお父さんのことが放映されていました。あるとき息子が手話で「お父さん、ボクには夢があるんです。ボクはトライアスロンのレースに参加したいんです」と伝えました。トライアスロンは、最初は水泳で3キロ、次は自転車で130キロ、最後は30キロを走らなければならない最も過酷なレースです。お父さんは、そのために何年もかけて準備をしました。ある日、ハワイでトライアスロンのレースがありました。委員会の人たちは、「どうやってハンディを負っている人が、このレースに参加できるんですか?そんなの、とても参加させられませんよ」と言いました。だが、お父さんは説明しました。「私の息子は泳ぐことができません。でも、私は息子をボートに乗せ、そのボートを引っ張りながら泳ぎます。私の息子は自転車に乗れません。でも、この自転車の前に椅子を取り付けて、彼をそこに乗せます。そして私がその自転車を運転します。私の息子は走れません。でも、私は彼を車椅子に乗せて彼を押します」。委員会の人たちは、それを聞いて感動して許可を与えました。その日、多くの参加者がありました。いよいよレースが始まりました。みんな水泳と、自転車と、マラソンをしました。やがて、みんながゴールしました。暗くなっても、人々は家に帰ろうとしませんでした。このお父さんと息子さんが最後のゴールまで達するまで待っていました。8時間たち真っ暗になりましたが、遠くの方から人が来るのが分かりました。お父さんが車椅子を押していました。最後のゴールでは、ほとんど死にかけていました。ゴールで、彼の息子がにっこり笑っていました。これが父なる神の心です。皆さんや私はこの息子さんのようにハンディを負った人のようです。私たちは自分のレースを最後まで走り抜くことができません。私たちはみんな罪人です。私たちは霊的に麻痺しています。私たちは人生の競争を走りぬくことができません。しかし、私たちの天の父が、私たちを最後まで運んでくださるのです。天の父は良い父親です。今、父のもとに行きましょう。まだ父の愛を体験したことがない人に、単に頭にだけ神様を信じている人に、今、神様は、あなたに触れたいのです。父なる神の愛を体験しましょう。無条件の愛をいただきましょう。そして、父の心を持つ者となりましょう。

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