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2010年2月28日 (日)

ディボーション   詩篇1:1-3、マルコ1:29-38

 クリスチャンでさえも、「神さまのみこころが分からない」という人たちがいます。もちろん、私たちの信仰生活でそういうときもあるでしょう。でも、聖書を全く開かないで、「神さまが分からない」というのは問題外であります。神さまが最も、ご自分を表しているのは聖書であります。聖書を通して私たちに語り掛けたいと願っておられます。ですから、私たちが聖書を読むとき、それは神さまの御声に耳を傾けていると同じなのです。現代は様々な情報が飛び交っています。新聞、テレビ、インターネット、アイフォンなどからいろんな情報を手に入れられるでしょう。人々は常に携帯電話でだれかと話したり、メールをしています。それらが悪いとは申しません。でも、私たちが一番に耳を傾けるべきものは、全地全能でいらっしゃる神からのことばではないでしょうか?詩篇119:18「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。」

1.ディボーションとは?

 ディボーションということばのもともとの意味は「捧げる」「献身する」です。この場合は、神様と交わり、個人的な礼拝を捧げるということです。ある人たちはQT「静思の時」とも言います。従来は、ディボーショナルな本を読んでいました。榎本保郎先生の『旧訳聖書一日一章』、ミセス・カウマンの『荒野の泉』、スポルジョンやFBマイヤーの『日々のみことば』のようなものがあります。しかし、それらはだれかが料理したものをいただくということです。その人が恵まれたものを、私たちが追体験するように作られています。ひょっとしたら今の私の生活にピンと来ないかもしれません。私が勧めるディボーションは解説書を読まないで、自分で聖書を読んで、そこから魂の糧を得るということです。たとえて言うなら、自分が材料を買ってきて、調理をするということです。これを帰納法的ディボーションと言います。自分で聖書からみおしえをいただくということです。「いやー、そんなことをしても、間違って解釈するんじゃないだろうか?」と恐れる人がいます。ヨハネ14章、16章には「真理の御霊がすべてのことを教える、すべての真理に導きいれる」と書いてあります。聖書はだれが書いたのでしょうか?聖霊です。その聖霊が、私たちの傍らにいて、聖書の意味を教えてくださるとはなんとすばらしいことでしょうか。ハレルヤ!私たちは人から教えられたものは「ああ、そうですか」と言いながらも、ほとんど残りません。ときには「あんたから教えられたくない」という時もあるでしょう。でも、自分で聖書を調べて、神さまから直接、教えられたものはそう簡単には忘れません。感動と共に、いつまでも心の中に残ります。

 では、ディボーションにおいて、聖書をどのように読むのでしょうか?読むというのは、食べると置き換えても良いことばです。マタイ44「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る1つ1つのことばによる」と書いてあります。ここでいう「ことば」とは、ギリシャ語でレーマであり、「神さまが今、私に語っていることば」という意味です。私たちは、肉体の食物だけではなく、魂のために「生ける神さまのことば」が必要だということです。イスラエルの民は荒野で毎日マナを集めました(出エジプト記16章)。6日間、マナは降りましたが、7日目だけはありませんでした。7日は今日の聖日礼拝に当たります。今、みなさんはマナをいただいています。でも、1週間のうち日曜日30分しか、みことばをいただかないとしたら、それは霊的栄養失調になってしまうでしょう。私たちは毎日、マナを集める必要があります。イスラエルの人たちはどのくらい集めたのでしょう。各々、自分の食べる分だけです。多く食べる人は多く集め、小食の人は少なく集めました。きょう集めた分は、明日までには持ちません。明日は新たに集めなければなりません。それは、ちょうど私たちが聖書からディボーションするのと同じです。読む量は人によって異なります。しいていえば、10-15節が適量です。ある人は1章ぐらいでしょう。あまり多く読む必要はありません。大切なのはマナのように、毎日読むことです。聖書を読むとは、魂の糧を得ているということなのです。みなさんは忙しいでしょうか。忙しいとは心が滅びると書きます。忙しいからこそ、神様の前に静まる時をもたないと、この世に流され、一生懸命動き回っているわりには実がないということがあります。

 では、ディボーションの中心とは何でしょう?それはみことばを瞑想(黙想)するということです。詩篇1:1には「口ずさむ」と訳されています。また詩篇119篇では「思いを潜める」「思い巡らす」と訳されています。また、英語の聖書ではmeditate「瞑想(黙想)する」になっています。東洋の宗教も瞑想します。ヨガとか禅は心を無にして、宇宙の大霊みたいなものと一体になろうとします。そこには人格のある神さまがいません。また、心を無にする、空っぽにすることはとても危険です。なぜなら、悪霊に扉を開くことになるからです。神様は私たちの意思を心の門番にしていますので、心を空っぽにしてはいけません。そうではなく、みことばを通して、私たちを愛しておられる全能の神さまと交わるのです。これが本当の瞑想(黙想)であります。実は、瞑想するとは、牛や羊が草を反芻するということと同じ意味があります。聖書で牛や羊がきよい動物とみられているのは、食べ物を反芻するからかもしれません。彼らには胃袋が複数あって、消化にくい草を、いつも噛んでいます。ですから、私たちもみことばを丸呑みしないで、牛や羊のように反芻するということです。エディ・レオ師が日本に来たとき、ピーナッツの話をしてくれました。ピーナッツを噛まないでそのまま食べたらどうなるでしょう。胃袋はピーナッツでいっぱいです。寝返りを打つと、お腹のピーナッツはそちら側に移動します。こっちに寝返りを打つと、こっちに移動します。朝、トイレでどうなるでしょうか?「ぱぱぱぱぱーん」とそのまま出てくるでしょう。ちょっと汚い感じがしますが、「聖書を読めばいいのだろう!」と丸呑みすると同じようになります。ぜんぜん、残りません。ですから、私たちは詩篇の記者たちのように、みことばを慕い求め、みことばを瞑想するのです。詩篇119:14-16「私は、あなたのさとしの道を、どんな宝よりも、楽しんでいます。私は、あなたの戒めに思いを潜め、あなたの道に私の目を留めます。私は、あなたのおきてを喜びとし、あなたのことばを忘れません。」

2.イエス様のディボーション

 イエス様は毎日、どのように父なる神様とディボーションを持っておられたのでしょうか。イエス様はサラリーマン以上に忙しかったようです。まず、イエス様が24時間をどのように過ごされたか、マルコによる福音書からご一緒に調べて行きたいと思います。安息日の午前中、イエス様は何をしていらしたでしょうか。マルコ121以降を見ると、会堂で教えました。会堂に悪霊につかれた男性がいたので、悪霊を追い出しました。午後は何をなされたのでしょうか。29節を見ますと、シモンとアンデレの家を訪問しました。シモンのしゅうとめが熱病のために床についていました。イエス様は彼女の手をとって、病気を癒してあげました。夕方になりました。32節「夕方になった。日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた人をみな、イエスのもとに連れて来た。」夕方になって安息日があけたので、人々は長距離を移動できるようになったのです。そして病人や悪霊につかれた人を大勢イエス様のもとへ連れて来ました。イエス様は彼らを癒してあげました。翌朝はどうだったでしょうか?35-37節、さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間は、イエスを追って来て、彼を見つけ、「みんながあなたを捜しております」と言った。イエス様は朝早くから御父と交わりをしていました。早朝にもかかわらず、弟子たちが迎えに来ました。すると、イエス様はどうされたでしょう。38節、イエスは彼らに言われた。「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」皆さん。ちょっとおかしいとお思いになりませんか。昨晩の人たちがイエス様を捜しているというのに、「さあ、近くの別の村里へ行こう」とおっしゃったのです。

平行記事のルカ福音書にはこう書いてあります。ルカ442-43朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた。群衆は、イエスを捜し回って、みもとに来ると、イエスが自分たちから離れて行かないよう引き止めておこうとした。しかしイエスは、彼らにこう言われた。「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」群集はイエス様が自分たちから離れて行かないように引き止めておこうとしました。もし、私だったら「ここにはたくさんの必要があるから腰を落ち着けよう」と、伝道所でも開設したかもしれません。でも、イエス様は群衆の言いなりにはなりませんでした。なぜでしょう。イエス様は朝早く起きて、父なる神様と親しく交わりました。そこで、父なる神様のみ旨を聞きながら、一日のスケジュールをお立てになったのです。イエス様は群衆の必要にではなく、父なる神様のみ旨に従い、福音を宣べ伝えるため別の村に行こうとしたのです。このところに、ディボーションの重要性が表わされています。イエス様は父なる神様と親しく交わることによって、その日のみ旨を知りました。それから、一日の行動をされたのです。つまり、イエス様は、人々の必要で動いたのではなく、御父のみこころに従って生活したのです。もし、私たちが忙しいからと言って、神様の前に静かな時間を割くことができなければ、どうなるでしょうか。人々や環境があなたを支配するでしょう。人々や環境に引っ張りまわされて、忙しく動いたわりには、実のない一日になってしまうでしょう。皆さん。神の子イエス様ですら、御父と交わりなしで、一日の働きができなかったのに、私たちはイエス様以上の者でしょうか。私たちも神様の子供として、父なる神様のみ旨を知り、力に満たされるために、個人的に神様と出会うことが必要なのです。三位一体の神様が私たちと個人的に会ってくださり、語って下さるとはなんと幸いでしょうか。イエス様のように、神様のみ旨を知り、力を得るために、神様と個人的な時間を持たれるようにお勧めいたします。

3.ディボーションの方法

まず、時間と場所を決める必要があります。日本のように家屋の狭いところでは、静かで、ひとりになれる場所というのは簡単に取ることができないでしょう。朝、早起きするとか、テレビを見る時間を削るとか、あるいはお昼休み、あるいは夜寝る前に取るしかありません。これは神さまとのデートなので、「ディボーションしなくは」と律法的にならないようにしましょう。ディボーションが身につくまでは大変ですが、一旦身についたら、すばらしい時になります。信仰の人、ジョージ・ミュラーは「私にとって、ディボーションしない日は、失われた日のようだった」と言いました。そして、第一の作業は内容観察です。その日の箇所をゆっくり数回、注意深く読みます。長さが10節から15節ですから、あわてることはありません。何回か読んでいくうちに、物語の背景や情況が浮かんできます。論述的な箇所のときは、繰り返しがあったり、言い直しがあったりします。特にパウロの手紙は同じことを、別なことばに置き換えています。そういう法則を見つけると楽しいです。この内容観察では、気づいたことを書き留めたり、内容を簡単にまとめます。内容観察では解釈をしないで、客観的な事実を調べるだけにします。聖書を何度もじっくり読むと、「へえ、こんなことが書いてあったんだ」と新しいことを発見して、感動することがよくあります。

第二は、教え(教訓)です。そこには従うべき模範があったり、約束や慰めがあります。また、避けるべき行動や従うべき命令があるでしょう。それまではなんとなく、読んでいたので分からなかったかもしれません。でも、聖書を良く見ると、「○○しなさい」という命令調のものがあります。でも、これが、人から押し付けられたものならあまり面白くありません。しかし、神さまがあなたに命じておられるのです。アーメンと従うしかありません。それから、「神さまは○○です、○まるします」と約束であったり、慰めであったりします。それはだれでもなく、あなたにそう語っているのです。嬉しいじゃないでしょうか。そのことばを信仰によって受け止めるのです。旧約聖書などを読むと、イスラエルは様々な罪を犯して罰を受けています。もし、自分が旧約時代に生きていたら、命がいくつあっても足りないでしょう。そういう場合は、イエス様の十字架の贖いを通してみます。そうすると、「イエス様の贖いがあるので、ああー、赦されているんだ。主の恵みを感謝します」となります。そして、旧訳聖書の出来事を1つの教訓として受け止めるのです。教えられたことを、1つから3つくらい書き留めます。そうそう、ディボーションをノートに記入することをお勧めいたします。ノートに書くと考えがまとまりますし、眠気防止にもなります。教えは、「○○すべきである」「○○のようになる」あるいは「信仰によって○○が与えられる」と書きます。最初は、時間がかりますが、だんだんと聖書から教えをいただくことができるようになります。赴任して半年くらいのある先生は「へりくだりなさい」とディボーションで教えられました。そのときは、「私は十分へりくだっているから自分には関係ない」と思いました。ところが、3日後、その教会の婦人会から猛烈な批判を浴びたそうです。そのときに、3日前の教えが思い出され、批判を甘んじて受けたそうです。後日、婦人たちの方から「言い過ぎました」と、謝ってきたそうです。神さまは前もって、みことばのワクチン与えてくださっていたのです。ハレルヤ!

第三は、適用です。その日に教えられたことを、自分の生活にどう適用するか考えます。これが難しい作業です。本からのディボーションはただ教えられた、恵まれたで終わりになってしまいます。しかし、この帰納法的ディボーションは教えられたことを自分の生活にどのように適用するかまで行かなければなりません。例えば、健康診断を受けてコレステロールの数値が高いと出たとします。ケーキとか肉類を避けるとか健康管理をしないと、診断の意味がありません。私は牧師ですから「教え」までは聖書から簡単に引き出すことはできます。しかし、一番疎かになりやすいのは、適用と実践であります。教えられても実行しないと不従順の罪を犯していることになります。また、クリスチャンは生活が変わらないのは、「教え」をいっぱい頂いているにも関わらず、実行していないからであります。それでは、信仰と生活がバラバラなわけです。私たちは本来、「信仰生活」であるべきで、「信仰と生活」であってはなりません。「と」は不要で、「信仰生活」と一気に行くべきです。イエス様はマタイ724「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます」。とんで、26、27「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」とあります。両者ともみことばを聞いたのですが、片方は行なわなかったのです。

 第四は、祈りです。これまでは、ディボーションで神様の声を聞いたのですから、最後にこちらから神様に話しかけます。でも、これは単なる祈りではありません。ディボーションをして神様の約束をつかまえましたので、祈りには力があります。慰めや励ましをいただいた場合は感謝と賛美をささげます。罪を示された場合は悔い改め、命令を受けた場合は「そうします!」と祈ります。「そうしたい」ではダメです。「愛したい」「信じたい」「やめたい」という鯛ではよくありません。鯛よりも鱒が良いのです。「愛します」「信じます」「やめます」と、そのように宣言するのです。イエス様はご自分がこの地上に来られたとき「主の恵みの年を告げ知らせるために」とおっしゃいました。主の恵みの年とは、旧訳聖書のヨベルの年です。これは、人々が奴隷から解放され、病が癒され、借金が棒引きされることです。ですから、最後の祈りは、ぜひ、口に出して宣言してください。「もぐもぐ」と終ってはいけません。「人々を祝福するために、私を用いてください」と祈るのです。どうぞ、そのとき未信者の人たち、そして牧師や兄弟姉妹のためにもお祈りください。恵みの年を宣言する、これはとても重要です。このような祈りをすると、日

中、あった人にも恵みをほどこすチャンスが訪れます。神さまはあなたを祝福をもたらす人として用いたいと願っておられるからです。

 最初慣れないディボーションをして、1時間も2時間もかかるときがあるでしょう。さっぱり恵まれない日もあるでしょう。でも、それをやり続けていくうちに、自分で聖書から教えと恵みを受けられるようになります。ときには涙がノートににじむときがあるかもしれません。そして、神様と1対1でいるときが、密のような甘い時となるでしょう。世の人々はテレビや音楽、携帯電話で静かな時を持つことを恐れているかのようです。それではこの世に流されて意味のない毎日を過ごすことになります。どうぞ、私たちはイエス様のように神様と静かな時を持ちましょう。 詩篇1:3にはそういう人がいかに祝福されるか書いてあります。「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」アーメン。聖書が書かれたパレスチナの地は荒野ですから、木や植物にとっては厳しい土地です。でも、水路に植わった木だけは別です。その根っこが水を吸い上げて生き生きしています。この世はまさに罪と死の荒野です。でも、聖書に親しみ、神様と交わる人にはすばらしい祝福が与えられます。「時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は何をしても栄える」であります。

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2010年2月21日 (日)

聖書信仰に立つ   創世記3:1、マタイ4:3-4

この世には聖書を教えているミッションスクールや神学校がたくさんあります。また、本屋さんに行けばキリスト教について解説している書籍がたくさん並んでいます。パソコンのウェブを開くならば、キリスト教についていろんなことを調べることができるでしょう。でも、彼らが言っていることあるいは、書いていることを鵜呑みにしてはいけません。私たちの信仰とはほど遠い、勝手なことも書かれています。では、何が正統的なキリスト教信仰なのでしょうか?それは、聖書をちゃんと信じているかどうかです。その人たちも「私だって聖書を信じていますよ」と答えるでしょう。そうではありません。聖書が創世記から黙示録まで、神の霊感によって書かれたということを信じるかどうかであります。先週学びましたが、聖書のことば一字一句が神の霊感によって書かれたのです。そこには間違いも、無駄なものも存在しません。全部が神からのことばなのです。だからこそ、聖書には権威があるのです。

1.自由主義神学の台頭

 サタンはヘビの口を通して「神は、ほんとうに言われたのですか」とエバを誘惑しました。サタンは神様が言われたことばに対して、疑いをかけたのです。そのためにエバは騙されて堕落しました。また、第二のアダムであるイエス・キリストがこれから公生涯を始めようとしているとき、サタンは同じように誘惑しました。「もし、あなたが神の子なら…しなさい」と言いました。それだけではなく、サタンは神のことばを誤用して誘惑したのです。「もし」ではなくまことの神の子であるイエス様は、神のみことばによって勝利しました。ハレルヤ!17世紀末からヨーロッパでは啓蒙主義思想が台頭しました。啓蒙主義とは人間の理性ですべてのことが認知できるという考えです。逆に言うと理性で理解できないものは切り捨てるということです。ですから、合理主義とも言うことができます。18世紀ドイツにおいて、「聖書も一個の自然物として取り扱うべきではないだろうか?」という考えが出てきました。「モーセ五書と言うけれど、本当にモーセが書いたのだろうか?」「いろんな記述があるが、歴史上、本当に起こったことなのだろうか?」「いくつかの記述に誤りがあるのではないだろうか?」そのような批評学的な研究が発達しました。学者たちは、「聖書は周辺地域の伝承や神話が取り入れられ、ヘーゲルが唱えたように正反合、正反合と発達していったのではないか」と言いました。私たちは、聖書は神から啓示によって与えられたと理解しますが、彼らは「生活の座から自然に生まれて、それが編集されて今の形になったんだ」と進化論的に考えます。それまでは聖書は神からの啓示の書物であり、アンタッチャブル的な存在でありました。しかし、近代批評学者たちは、生物を解剖するように、聖書をバラバラに解体したのであります。その結果どうなったでしょうか?「聖書は人間が書いたものであり、ところどころに神のことばが含まれている」と結論付けました。ということは、聖書には当然、歴史的にも、内容的にも間違いがあるということになります。そのためには、学問的な研究によって、そこから純粋な神のことばだけを取り出すということが必要になってくると言うわけです。しかし、最終的に学者たちは聖書の霊感を完全に否定し、他の書物と同じようにしてしまいました。これを自由主義神学と言います。この考えが、ドイツはもちろん、イギリス、アメリカにまで広がりました。確かに保守的な人たちはいました。でも著名な大学や神学校、そして教団教派がその影響を受けました。

そのとき敢然と現れたのが、ドイツのカール・バルトであります。彼は、19世紀的なあらゆる人間の合理主義的傾向に対して否を唱え「神のことば」としての聖書を強調しました。彼は20世紀初頭の不毛な自由主義に有効な矯正剤を与えたのです。この運動はかつての伝統的な正統主義ではなく、新正統主義と名付けられました。世界の教会は「カール・バルトこそは20世紀の最大の神学者である。私たちを自由主義神学から救った」と賞賛しました。この日本基督教団の先生方は、バルト神学の立場を取るでしょう。しかし、バルト神学はいくつかの弊害も残しました。彼はキリスト論をもって聖書を理解しようとしました。一見、良さそうです。「でも、聖書に多少の誤りがあったとしても、キリストを証言している限りは良いではないか。キリストを信じる信仰が与えられるならば、それは十分目的を果たしている。」こんな簡単に言ったのではありません。バルトの有名な著作、『ローマ人への手紙』を買って読みましたが、日本語で訳されていたにも関わらず、何を言っているのかさっぱりわかりませんでした。彼の説は、私たちの啓示論と決定的に違うところがあります。私たちは「聖書は神の霊感によって書かれたので創世記から黙示録までが神のことばとして権威があるんだ」と理解します。しかし、彼の立場を取る人たちは、「聖書は人間の所産ではあるが、聖霊によって神のことばになる」と主張しました。つまり、聖書の記述が歴史的な事実であるかどうかよりも、それを実存的に理解することが重要なんだということです。要は信仰が与えられれば良いということです。さらに「聖書が書かれた神のことばであるなら、説教は語られる神のことばである」とも言います。彼らは、聖書と説教を同等にしています。私は神のことばである聖書を解説し、神からのメッセージとして取り次いでいます。

もし、「キリストを証していれば良い。信仰が与えられればそれでよい」と考えるなら、聖書はどうなるでしょうか?「嘘も方便」ということになります。また、聖書において、キリストを証している箇所が重要であり、他の記述は重要ではないということになります。残念ですが、新正統主義は、自由主義の「聖書は誤っている。理性的には受け入れられない」というところから始まっています。そして、自由主義神学に妥協して、「キリストを証していれば良い」とか、「聖霊によって神のことばになる」と言いました。すると、聖書を創世記からヨハネ黙示録まで読もうという気が起こらなくなります。なぜなら、聖書は人間が書いたものであり、誤りが含まれていると思われているからです。そこから「聖書には権威があるのであるから従うべきだ」とか、「神のみことばを慕い求めます」という姿勢が起きてくるはずがありません。だれかが唱えた神学に立って、あるいは教会が作った信条や教理問答に立って読むしかなくなります。ある牧師は、教会の礼拝で語られる神のことばによって聖書を理解しなければならないと主張します。ということは、家で勝手に聖書を読んだら、誤って解釈してしまう可能性があるということです。まるで、中世のカトリックの時代のようであります。その当時は、「一般の人たちは、聖書を勝手に読んではいけない、誤って解釈するから」と言われていました。もし、聖書が神からの唯一の啓示の書物ではなく、他の書物と同じだという立場を取るならばどうなるでしょうか?「神を信じている仏教やイスラム教、ヒンズー教にも神の啓示がある」。つまり、「キリスト以外にも、救いに至る道がある」ということになります。彼らは「私たちキリスト教会も、他の宗教と会話すをべきである」と主張します。ヨハネ黙示録には、世の終わりには反キリストによって世界の宗教が1つになるという預言があります。彼らは、喜んでそういう世界的な宗教に加わるのではないでしょうか?私は断固として反対します。使徒4章でペテロがこう言いました。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」アーメン。私たちは「ああ、何と排他的なんだ」と非難されるでしょう。でも、良いのです。イエス様は「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです」とおっしゃいました。ビリーグラハムは20世紀の最大の伝道者です。彼の説教によって250万人以上がイエス・キリストを信じる決意をして、前に進み出たといわれています。ビリーグラハムが聖書を高々と上げて、良く言ったことばがあります。それは、But The Bile sais.「しかし聖書は言う」であります。ビリーグラハムの後、Back to the Bible「聖書に帰れ!」という福音派と呼ばれるグループが起こったのです。私は聖書を全く信じる、福音派の信仰です。

2.聖書信仰の立場

日本の教会は、聖書に関して2つに分けることができます。第一は、聖書の霊感は部分的であるという、自由主義神学の影響を受けている教会(牧師や教師の教会)です。NCCに属している聖公会、バプテスト連盟、そしてルター派、改革・長老教会、日本基督教団です。第二は聖書の霊感は全体的であると信じている福音派の教会です。戦後、日本基督教団から出た教会、あるいは戦後、新しく作られた教会です。保守バプテスト、ホーリネス系、アッセンブリー・ペンテコステ、同盟・アライアンス、福音伝道、福音自由、一部のルター派教会などです。前者は主流派と言われ、後者は諸派であります。日本のミッションスクールのほとんどが主流派の傘下にあります。同志社、関西学院、関東学院、東北学院、青山、立教、ICU、敬和、聖学院、ルーテル、すべてのミッションスクールが、自由主義神学の影響を受けているといっても過言ではありません。なぜ、そんなことを言えるのかと申しますと、私は5年間、教団の教師委員会に属していました。そのとき、いくつかの大学教授をお招きして勉強会を持ちました。そのとき、何度も耳を疑うようなことがありました。つまり、私がそれまで持っていた聖書観、救済観がぐらぐらと揺るがされました。日本基督教団は主流派でありますが、私は諸派と言われる福音派の教会で育ちました。日本基督教団のおそらく95%の先生方は、聖書の霊感は部分的であると信じているでしょう。この教団においては、私は変わり者であり、根本主義とか、純福音、あるいは聖書主義と呼ばれます。教団のほとんどの教会は新共同訳を用います。が、私は新改訳聖書です。この聖書は「聖書は誤りなきことばであると」信じる福音派が訳したものです。私は礼拝説教において、こういうことは一度も話したことがありません。信仰のDNAシリーズだから話すのであります。

では、簡単に言うと自由主義神学の影響を受けている教会Aと、保守的な福音派の教会Bがどのような信仰を持つ傾向があるのかもう少しお話したいと思います。A教会は聖書が、どれが正しい神のことばなのか批評学的に調べます。なぜなら、部分霊感説に立っているからです。B教会は「聖書は全部、神の霊感で書かれている」と信じているので、そういう研究はしません。多少矛盾するような箇所があっても、聖書は聖書が解釈すると信じています。A教会は「聖書が書かれた時代背景はどうだったのか」ということから読み始めます。創世記はバビロン捕囚から帰ってきたとき荒廃したエルサレムを見て書かれたと言います。あるいはイエス・キリストがガリラヤ湖の嵐を静めた背景には、初代教会の迫害の嵐があったのだと言います。つまり、実存的に解釈するということです。一方、B教会はどうでしょうか?「創世記はまさしく、モーセが神の啓示をうけて世界の始めのことを書いたんだ」と主張します。「ガリラヤ湖の嵐もイエス様が実際に静めたんだ」と奇跡は奇跡として信じるという立場です。またA教会の人たちは進化論を信じています。神様がこの万物を造ったことは信じるが、そのあと、さまざまなかたちに進化したという有神論的進化論です。一方、B教会の人たちのほとんどは創造論を信じています。「神様が種類にしたがって動植物を6日間で造ったんだ」と信じています。日本基督教団の前赤羽教会の深谷先生と親しくさせていただいたことがあります。先生はニュートンの愛読者であり、進化論を信じておられます。あるとき、安海先生が特別伝道集会に招かれた時があったそうです。安海先生は第一礼拝で「人間がサルから進化したと考えるなら、盗みや殺人が、どうして罰せられるのでしょうか。ちょっと発達が遅れているという程度の問題でしょう」とお話したそうです。そこに東大卒の信徒が座っていたそうであります。先生は、第一礼拝後クレームをつけられ、第二礼拝ではそういう話はしないようにお願されたそうです。ニュートンの元編集長、竹内均は『エントロピーの法則2』という進化論を否定する本を訳しています。彼は『科学が証明する旧約聖書の真実』という本を書いているのに、一方では、進化論を支持しています。何故かと言うと、おそらく生活のためでしょう。

自由主義神学の影響を受けている教会Aは、聖書は神の啓示が部分的であると主張します。するとどうなるでしょうか?この世界には様々な宗教があり、彼らはそれぞれの神を仰いでいます。神からの啓示は聖書だけではなく、彼らの宗教にも何らかの神からの啓示があると言います。最終的には、「イエス・キリストだけが救いでない。他にも救いの手立てがある。だから、他の宗教と対話が可能なのだ」と主張するようになりました。WCCが勧めている、エキュメニカル運動(世界教会一致運動)というのがありますが、プロテスタント教会とローマカトリック教会、ギリシャ正教会が1つになるということです。これに対して、B教会、つまり福音派の教会はエキュメニカルには反対し、むしろパラチャーチを勧めています。パラチャーチとは、クリスチャンが主の働きにおいて超教派で協力し、世に対する福音伝道と社会責任の使命を果たしていくということです。黙示録には背教の教会が起こると書いてあります。反キリスト的指導者によって、すべての宗教が統一されることでしょう。世の終わりに際し、私たちは塩気を保っていく必要があります。もう一度、使徒ペテロのことばを引用します。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」十字架で贖いを全うされたイエス・キリストの名前にしか救いはないのです。私はキリストを信じないものは裁かれ、地獄に行くと信じます。私がこの教会に赴任してまもない頃、こういうことが起こりました。役員会が終り、少し歓談のときがありました。そのとき、「地獄は果たしてあるのだろうか?」という質問が出ました。ある人は「愛なる神様は地獄など造らない。人類、みんな救ってくださる」と言いました。私はそのとき、「いや、みんな救われるわけではない。イエス様を信じた人だけが救われ、信じない人は地獄でさばかれます」と反論しました。そして、「みなさんの中で、地獄はないと信じる人はいますか?」と聞いてみました。6人中、「地獄はないと思う」と2人が手をあげました。私は「え、これでも役員さん?」と、びっくりしました。そのとき、役員ではありませんでしたが、オブザーバーであった山崎長老さんがこのように言いました。「聖書に書いてあるから、地獄はあると思う」。そのとき、私はとても感動しました。「聖書に書いてあるから」なんとすばらしい信仰でしょうか。完全な神の啓示である聖書を離れると、「キリスト以外にも救いがある」とか「地獄はない」と信仰がおかしくなります。そうすると、一生懸命、伝道しようという気も起こらなくなります。何のため、命をかけで宣教するのでしょうか?キリスト以外に救いはないからです。

私は福音派の教会で育ちました。その当時の山崎長老さんはじめ、役員さん方は、「日本基督教団の牧師ではなく、他の血を入れたい」と私を招いたのです。私と家内は正直、日本基督教団の教会に行くつもりはありませんでした。「神学校で、あの教団には信仰がない」と教えられていたからです。教師委員会は「無任所の教師が6人もいるのに、どこの馬の骨か分からない若造を招くのか?」と反対したそうです。山崎長老さんはあの手、この手を使って努力しました。幸いというか、当時の東京教区は分裂状態にあり、統制があまりとれていませんでした。それで、東支区にゆだねられ「教団から3名の推薦を受ければ良いだろう」ということになりました。教師転入試験は合格しましたが、そのあとの正教師試験が大変でした。過去問を研究しましたが、見たことも、聞いたこともない用語がいっぱいありました。そちらの立場の本をたくさん買って勉強しました。とっても高いんです。一冊、5000円くらいします。教文館9階で行なわれていた夜間神学校も2年間通いました。東京神学大の先生が教えてくれました。3年後、試験は見事に合格しました。しかし、学んだことはほとんど役にたちませんでした。まるで哲学を学んでいるようでした。あんまり言うと悪口になるのでもう言いません。毛利佐保姉がフルタイムの献身をしたいので勉強したいと3年くらい前に私のところに来ました。日本基督教団の教師になると言ったら、東京神学大学か日本聖書神学校に決まっています。しかし、私は福音派の神学校に行くように勧めました。それで彼女はアッセンブリーの中央聖書神学校に行きました。神学校の教授たちは「え?日本基督教団から学びに来た人はあなたが初めてです」とびっくり仰天したそうです。それでまた、私は「教団を離脱として独立の教会を」と昨年の総会にかけました。決議は来年の4月に延期されることになりましたが、一番の原因は聖書観であります。この教会に赴任して24年目になろうとしていますが、密かに聖書信仰を根付かせてきました。このようなテーマについて話すのは今日初めてです。私はカミングアウトさせていただいたのです。

何故、聖書信仰なのか?なぜ、「聖書が創世記からヨハネ黙示録まで、全部、霊感された誤りのない神のことばである」と信じるのでしょうか?その理由は2つあります。第一は、聖書から信仰が生み出されてくるからです。私たちがどの箇所も誤りなき神のことばであると信じて読むとき、みことばが開かれ、私たちの信仰になるのです。私たちが聖書を真摯な態度で、読むとき、みことばが開かれるのです。逆に、私たちの理性を尺度として、聖書を読むならば信仰は与えられません。神のことばである聖書から、癒しや奇跡を起す信仰のみことばが与えられるのです。第二は、聖書こそ教会形成の土台、権威のよりどころだからです。イエス様ご自身が聖書の権威を認めおられます。マタイ518「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」これは、神のことばは永遠であるということです。私たちは時代が変わっても、永遠に変わらない神のことばに信仰を置くべきです。パウロはエペソ220「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です」と言いました。使徒たちが言ったことば、預言者たちが言ったことばに神の権威があるということです。それはイコール、聖書に権威があるということです。教会は、私たちは、この聖書の上に土台するならば、世の嵐にも耐えることができるのです。フランスの詩人・ボードレールは、「あと一〇〇年もすれば、聖書など紙屑かごに捨てられる」と言いました。しかし、皮肉なことに彼が死んだ後、彼の家が聖書の印刷工場になったということです。聖書は永遠のベストセラーと言われています。どうぞ、私たちは聖書のみことばに親しみ、聖書のみことばの権威を重んじ、聖書のみことばから信仰を得、聖書のみことばに従う者となりたいと思います。

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2010年2月14日 (日)

聖書の権威    Ⅱテモテ3:15-17、Ⅱペテロ1:21

 キリスト教の信仰とは何かと聞かれたら、私は「聖書の信仰である」と答えるでしょう。世界にはたくさんの宗教がありますが、それぞれが経典を持っています。経典というのは彼らの教えの土台であります。イスラム教においてはマホメットの教えであるコーランが経典です。仏教にもいくつかの経典があるでしょう。ユダヤ教においてはトーラーという私たちと同じような律法の教えがあります。しかし、タルムードという解説書も同等の権威があります。では、聖書は「キリスト教の経典なのか?」というと厳密にはそうではありません。なぜなら、旧訳聖書はイスラム教やユダヤ教において経典の一部となっているからです。私たち保守的なキリスト教会は、旧新約聖書を他の宗教と相対的な経典であるとは理解はしていません。聖書は、他と比べることができない、神からの唯一の啓示の書物であると信じています。つまり、聖書が啓示している神がまことの神であり、聖書が啓示しているキリストこそがまことの救いの道であると信じているのです。

1.聖書のなりたち

ヘブル11-2「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」このみことばは聖書のなりたちを教えているすばらしい箇所です。父祖たちとは、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨブなどです。預言者とはモーセ、サムエル、イザヤとかエレミヤです。預言者ではありませんが、ダビデ王やソロモン王も聖書を書きました。新約聖書になると、使徒であるマタイやヨハネが福音書を書いています。マルコやルカはイエス様の直接の弟子ではありませんでしたが、背後に使徒ペテロや初代教会の証人たちがいます。ヘブル書は「多くの部分に分け、また、いろんな方法で語られた」と書いてあります。聖書は66巻ありますが、完成するまでに1600年かかったと言われています。それぞれの時代の人たちが、それぞれの場所で、何の打ち合わせもなしに聖書を書いたのです。多くの部分をまとめたものを、私たちは旧新約聖書として、今ここに持っています。これは奇跡であります。1600年間、それぞれの時代の人が勝手に書いて、それをまとめても果たして一冊の本になりうるでしょうか?歴史において大作という本があるかもしれません。ホメロスも長大な叙事詩でありますが、聖書には及びません。シェークス・ピアもすばらしい文学作品を多数残しましたが、聖書にはかないません。では、1600年間、40人以上の人が何の打ち合わせもしないで書いた聖書に矛盾はないのでしょうか?確かに、矛盾と思われるような箇所もあります。だから、後代、啓蒙主義思想によって攻撃されることになるのです。でも、私はこのように信じています。私と言っても、保守的な神学の立場の一人として言うのですが、それは矛盾ではなく多様性です。聖書の書物は、それぞれ個性を主張しています。しかし、キリストを証言していることにおいては一致しています。これを「多様性における統一」と呼んでいます。

さらに、ヘルブ11には「いろいろな方法で語られました」とあります。このことばと、関係していることばが以下のことばです。Ⅱペテロ1:21「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです」。 そうです。聖書はいろんな人たちが、いろんな方法で語ったものをまとめたものです。なぜ、文書にしたかと言うと、後代に残すためであります。口で伝えた伝承であるなら、消えるか、だんだん変質してしまうでしょう。しかし、文書に残すと失われることはありません。ですから、祭司たちは羊皮紙やパピルスに一点一画ミスのないように書き写していったのであります。原典というものは残されていませんが、現代私たちが持っている聖書は、おそらく99%原典に近いものであると思います。でも、Ⅱペテロ1章にあるように、聖書の筆者たちは自分の意思で勝手に書いたのでもありません。では、ロボットのように神様が操縦したように口や手を動かしたのかというとそうでもありません。「神・は・こ・う・い・わ・れ・ま・す」ではありません。「聖霊に動かされる」とは、「風によって帆船が動かされる」という意味があります。つまり、聖霊がその人の持っている語彙や知識、調べた資料さえも用いて、ご自分のことばを書かせたということです。ですから、聖書の一巻、一巻はとても個性的であります。たとえばマルコ福音書は「すぐに、すぐに」と行動的なイエス様を描いています。逆にヨハネ福音書は「あなたがわたしに、わたしがあなたに」と、とても瞑想的です。パウロの手紙は「ああだ、こうだ」と論理的です。ヤコブの手紙は「行ないがなければ死んだものだ」と実践的です。「神様は、その人が持っている知識や性格、考え方すらも用いているんだなー」と感動します。なぜ、4つの福音書があるのでしょうか?それは、4つの方向からイエス・キリストを描写したなら、より良く分かるからです。最近の映画は3D(ディメンション)で見ることができるようになりました。しかし、福音書は4つの方向、4Dだったんですね。ハレルヤ!

でも、1600年間、40人以上の人が何の打ち合わせもしないで書いた聖書が、誤りが生じないように聖霊様が働かれました。それを霊感と言います。そのみことばがⅡテモテ316です。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」アーメン。「神の霊感によるもので」というのは、英語の聖書にはインスパイヤーされたとなっています。これは「神の息が吹きかけられた」という意味です。神の息吹こそが、霊感、インスピレーションであります。一般に、インスピレーションと言うと、「ああ、何か、ピカッと来た」。発明や発見、作曲、何かのアイディアが浮かんだ時も使います。「そんなふうに使うな!」とは申しませんが、聖書が言っている、インスピレーション、霊感というものは特別な聖霊な働きという意味です。1600年間、40人以上の人が場所や時代を超えて書いたとき、彼らが誤りなく、神のみこころを書けるように聖霊が働きました。その聖霊の働きを霊感というのであります。確かに語彙や表現に幅があります。でも、神のみこころを間違いなく伝えるように、聖霊がすべての誤りから彼らを守ったのであります。神学者たちは、無謬説とか無誤説、あるいは逐語霊感説とかいろいろ言います。でも、そういう神学的なカテゴリーの中に入れてしまうと、かえっておかしくなります。私たちの理性では、「神の霊感とはこうなんだ、聖霊はこのように働いたんだ」ということを明確化するのは不可能なのです。ですから、このくらいの説明で良いのです。難しい、神学用語を持ってくるとかえって、自分の首を絞めることになります。とにかく、聖書が完成するまで、記者たちに働いた聖霊の働きを霊感と言います。ヨハネ黙示録で聖書は完成していますから、霊感という聖霊の働きも終ったのであります。私が「おお、神の霊によって、もう1巻聖書を書きます」と言ったなら、それは異端になります。しかし、「聖書は誤りなき神のことばである」と主張しているなら、正しいのです。聖書は何故、権威があるのでしょうか?それは神が人を通して書いたからです。表現を代えますと、神の霊感によって書かれたので権威があるのです。神の霊感は聖書66巻、創世記からヨハネ黙示録まで、一貫して働いています。聖書には、もちろん悪魔が言ったことばもあります。人間が語ったことばもあります。でも、それらも含めて、神の霊感によって、神様がご自分のみこころを知らせるために、聖書を書かせたのです。私たちが聖書を「神のことば」と言うとき、それは「神の霊感によって書かれた誤りのない神のことばである」という意味なのです。キリスト教会が、誤りなき聖書のことばに立っているから大丈夫なのです。なぜなら、聖書こそが私たちの信仰の土台だからです。

2.聖書の主題

聖書はいろんな見方があります。ある人は「聖書はすばらしい文学書だ」と言います。ヨブ記はおそらくどの時代よりも古い文学作品でしょう。詩篇や雅歌書も他の文学に負けないくらい巧みです。また、ある人は「聖書は歴史的にも価値がある」と言います。確かに聖書は歴史的に見ても耐えることができるでしょう。ルカという人物は「すべてのことを初めから綿密に調べて、順序を立てて書いた」と言っています。また、ある人は「聖書は科学の書物である」と言います。「創世記から生命の起源を知ることができる」と言います。また、ある人は「聖書は預言書であり、未来のことを預言している」と言います。また、ある人は「聖書は語学を学ぶためにとても良い」と言います。確かに聖書の英語は大変、整えられています。また、ある人は「聖書は難しくて、眠る前に読むととても良い。なぜなら、すぐ眠くなるから」と言います。確かに、聖書は文学的にも科学的にも歴史的にも耐えられる書物であると信じます。しかし、聖書の主題、聖書の目的はそういうものではありません。では、聖書の主題、目的とはひとことで言うとどうなのでしょうか?それは「キリストによる救い」です。「どのようにしたら人間は救われるのか?」これが聖書のテーマです。いろんな見方、用い方があることを否定はしません。でも、聖書の主題は「キリストによる救い」を書いているのです。このところを外れると、当時の律法学者やパリサイ人のようになります。彼らは聖書を一生懸命研究し、だれよりも聖書のみことばを守ろうとした真面目な人たちでした。しかし、聖書の主題が何かということを知りませんでした。イエス様は彼らにこのように語りました。ヨハネ539-40「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」そして、ヨハネ2031「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」アーメンです。私たちが聖書を読むときに、そこに啓示されている救い主イエス・キリストに出会うのです。そして罪から悔い改め、イエス・キリストを信じます。そうすると人は救われるのです。刑に服して独房にいる人も、この聖書を読んで救われることが可能です。あるいは、ラジオ放送から、聖書のみことばを聞いて救われる人もいます。ブラック・ゴスペルを歌って、ジーザスを受け入れる人もいます。でも、元は聖書、イエス・キリストを啓示している聖書であります。

しかし、聖書は人が救われるという一点だけのために私たちに与えられているのではありません。罪赦され救われてから、その救いが全うされるまでも必要なのであります。Ⅱテモテ316-17「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」私たちはこの世に生まれ、この世で育ってきたので、神のみこころからはずれた考えや行動の仕方を持っています。聖書はそういう私たちを教え、戒め、矯正し、義の訓練を与えるために必要なのです。そして、どうなるのでしょうか?「神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです」アーメン。私たちクリスチャンは神の人であります。でも、そのままだと不十分であって良い働きができません。そのため、神のことばによって教えられ、戒められ、矯正され、義の訓練を受ける必要があるのです。うぁー、これを聞くとイヤになるかもしれません。もう、「年齢的に大人なのにまた勉強か?何を直さなければいけないんだ!」と反発したくなるかもしれません。私たちは確かに霊的に救われました。でも、親やこの世の教育、会社での仕事の価値観、物質的な社会、マスコミ…聖書の真理とは必ずしも一致していません。この世でバリバリ働いている課長や部長が教会の役員になると問題が噴出します。彼らは会社の組織を教会に持ってきます。また、進化論的な能力主義、物質中心の価値観を持ってくるでしょう。会堂建築になると、そういう人たちは「信仰よりも現実を見なければならない。お金はどこから来るのだ」と主張します。ですから、この世で高度な学問を受け、社会的経験を積んだとしても、聖書の世界と相反するものがいっぱいあるということです。ですから、一度、子どものようになって、どれが聖書的で、どれが聖書的でないのか一から学び直す必要があります。建築でリフォームということばがあります。リフォームというのはカルバンの改革主義と同じ語源であります。彼らはカトリックからリフォームドしましたが、過去の1回だけではダメなのです。私たちは日々、みことばから教えられ、戒めを受け、矯正され、義の訓練を受ける必要があるのです。

聖霊は神のことばを人を介して書かせました。これを霊感と言います。でも、それだけではありません。聖霊は私たちが聖書を読むとき、これはこういう意味ですと悟らせ、そして私たちの生活にどう適用したら良いか教えてくださいます。この聖霊の働きを照明とか解明というふうに呼びます。私たちは人から「ああしろ、こうしろ」と言われるとむかっときます。でも、聖霊があなたの心の中に静かに語りかけてくださいます。聖書に聖霊は助け主であり、真理の御霊であると書かれています。ヨハネ1426「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」ヨハネ1613「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。」アーメン。イエス様は天の御国にお帰りになられました。その代わり、イエス様はご自分の御霊、聖霊を遣わしてくださったのです。私たちはこのお方に導かれるとき、教えられ、戒めを受け、矯正され、義の訓練を受けるのです。でも、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師も必要です。この人たちは、聖書全体をバランスよく教え、みなさんを整えるように召された人たちなのであります。神様は聖霊と神の指導者を用いて、聖書を教え、戒め、矯正し、義の訓練を与えるようにしているのです。ですから私も礼拝の説教だけではなく、人々を整える働きもしなければならないのです。みなさんは、「鈴木先生こそ整えられるべきでしょう!」とおっしゃるかもしれません。「アーメンです。私もみことばの前にはへりくだって、学びます。どうぞ、みなさんもそうしてください」。

聖書のみことばは、いろんなものにたとえられています。そして、みことばがもたらす祝福がどういうものか教えています。Ⅰペテロ22「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。」みことばが乳(ミルク)にたとえられています。ですから、信仰をもったクリスチャンはみことばをミルクのように飲む必要があります。また、ほかのところでは、みことばはいのちのパンであるとも書かれています。聖書はたましいの食物です。このみことばを食べないと霊的にやせ細ってしまいます。詩篇1910「それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。」みことばが、金よりも純金よりも高価であるということです。みなさんそう思っていらっしゃいますか?「やっぱりお金だよなー」じゃだめなんです。みことばは、お金を生み出す信仰を与えてくれます。また、信仰・希望・愛というお金以上のものも与えてくれます。この世の中では、お金があっても、愛のない家庭がいっぱいあるのではないでしょうか?詩篇119105「みことばは、私の足のともしび、私の道の光です」アーメン。私たちは明日のことが分かりません。みんな手探りで生きています。しかし、みことばは足のともしび、私の道の光です。エレミヤ2329「わたしのことばは火のようではないか。また、岩を砕く金槌のようではないか」。すごいねー、みことばは火のように私たちの心の中に情熱を与えてくれます。火はパワーを象徴しています。また、みことばは岩を砕く金槌(ハンマー)であります。私たちこの世で生きているといろんな困難や問題に出くわします。「ああーどうしよう、もうだめだ」という時がよくあります。しかし、ディボーションしていると聖書からみことばが飛び出してきます。そのみことばが金槌(ハンマー)のようになって、問題を打ち砕いてくれるのです。アーメン。エペソ617「また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」みことばは、剣のように罪の縄目を断ち切ります。悪魔を打ち破る剣はみことばです。私たちの考えや力では無理です。神のみことばこそが力があるのです。Ⅰペテロ123「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」みことばは種です。私たちはこの神のみことばによって救われたのです。同じように、私たちは神のことばを人々の心に蒔くならばどうでしょうか?人々の中にも救いが生まれてくるのです。使徒パウロは、「時がよくても悪くても、みことばを宣べ伝えなさい」と命じました。そうすると後の日になって、刈り取ることができるからです。詩篇1265「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう」です。私たちは完成した神のことば聖書を持っています。中世の頃は自国語で聖書を読むことができませんでした。ウィリアム・テンダルは「命のパン」を一人でも多くの人に与えたいと、英語に聖書を訳しました。しかし、それは当時の法律に反する行為で、彼は死刑になりました。アメリカの大統領、エイブラハム・リンカーンはこういいました。「聖書は神が人間に賜った最もすばらしい賜物である。人間の幸福にとって望ましいものはすべて聖書の中に含まれている」。また啓蒙主義のゲーテはこういいました。「私が獄につながれ、ただ一冊の本を持ち込むことを許されるとしたら、私は聖書を選ぶ」。どうぞ、聖書を読みましょう。神のみことばを慕い求めましょう。そうするなら、あなたは神のみこころのうちを歩むことができるようになり、あなたは何をしても栄えるのです。

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2010年2月 7日 (日)

三拍子の祝福   創世記3:6-7、Ⅲヨハネ2 

 明治時代、日本の福音は内村鑑三に代表されるインテリ層に届きました。教会は精神面を強調し、経済的な問題や病気の癒しに対してはあまり関知を払いませんでした。そのせいもあってか、現世の御利益を説く新興宗教がたくさん興りました。彼らは信徒の力をフルに活用し、一般民衆に向かって、彼らの救いを具体的にかつ分かりやすく説きました。1975年くらいから、韓国のチョー・ヨンギ牧師は、三拍子の祝福をもって、一般民衆に向かって福音を語りました。病の癒しが起り、生活面でも祝され、教会を通して国が栄えて行ったのです。チョー師は20数年間も続けて日本に足を運びました。しかし、日本の教会のある指導者たちは、チョー師が韓国人であったせいもあり、「あれは御利益宗教だから危ない」と、信徒が集会に出かけることを禁じました。日本の多くの教会はドイツ神学の影響を受け、信仰を観念的ものにしてしまいました。だから、日本は新興宗教が栄え、本物と言われるキリスト教会が低迷したのではないかと思います。

1.魂が恵まれる

口語訳聖書は、Ⅲヨハネ2「愛する者よ。あなたのたましいがいつも恵まれていると同じく、あなたがすべてのことに恵まれ、またすこやかであるようにと、わたしは祈っている」となっています。たましい、すべての点、健康、この順番が大切なのです。私たちはまず、魂が恵まれていなければなりません。もともと、罪の始まりは何でしょうか?それは、アダムが食べてはらなないという木から食べたことです。善悪を知る知識の木は神の主権を象徴していました。その木から取って食べるということは、私が神になって善悪を判断するということです。それは神の主権を侵すことであり、反逆の罪です。その直後、「ふたりの目が開かれた」とあります。これは、霊が死んで、その代わり魂が異常に発達したということです。アダムが罪を犯す前は、神様と親しく交わり、神様の御声に従って歩んでいました。ところが、木の実を食べてからは神様ではなく、自分の思いで生きるようになったのです。これこそが罪のはじまりであります。神様から離れてからどうなったでしょうか?「自分たちが裸であることを知った」とありますように、恥意識がやってきました。その後、二人は主の御声を避けて園の木の間に身を隠しました。不安と恐れやってきたのです。さらに、彼らは自分の罪を認めず、責任を転嫁しました。夫婦間に軋轢が生じ、妻は夫を恋い慕うけれども、夫は妻を支配するようになりました。アダムとエバの子どもカインは怒りにまかせて弟アベルを殺しました。カインの子孫には敵意と殺意が拡大していったことがわかります。このように、人間が神様を離れ、自分中心に歩むようになってから、心の中に恥と不安と恐れが入りました。さらには夫婦間の軋轢、人間同士の怒り、敵意がやってきました。この世は「人が教育を受け、経済的に満たされたなら幸福になる」と言うでしょう。今の政府もそのようなマニフェストを上げています。しかし、私たちがすべきことは、まず、神様と和解し、魂の問題を解決しなければなりません。魂が壊れていては、教育も経済も全く役に立ちません。

イエス・キリストは、まず、魂の問題を解決するためにこの地上に、人として来られました。イエス・キリストは第二のアダムとして、父なる神様に完全に従順されました。イエス様ご自身も神様でありましたから、父なる神に聞かなくても、自分の力で何でもできたはずです。しかし、ヨハネ5章で「私は自分からは何事も行なうことができません」と言われました。イエス様は父なる神様の前に完全な人として生活しました。それは私たちの贖い主となるためであり、また私たちの模範となるためです。イエス・キリストは神の小羊として、その尊い血を流し、私たちの罪を贖ってくださったのです。贖いのために重要なのは、キリストの血であります。レビ記には「血を流すことなしには罪の贖いはありえない。なぜなら、肉の命はその血そのものであるからだ」と書いています。現代の教会はキリストの血をあまり強調しなくなりました。血なまぐさいのは気持ち悪いので、スマートな救いを伝えてきました。でも、私たちの魂の救いのためには、キリストの血が必要です。ヘブル9:14「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」アーメン。私たちがイエス・キリストを救い主として受け入れるとき、私たちの霊が目覚めます。でも、霊の外側に魂があります。神様は私たちの魂を取り扱わなければなりません。キリストの血は、私たちの心の罪責感を洗い流し、その良心をきよめてくださいます。私たちは主イエス・キリストを受け入れると、恥、不安や恐れ、軋轢、怒り、敵意が去っていきます。その代わり、喜び、平安、愛がやってきます。

しかし、救いはそれで終るのではありません。神様は自己中心的な魂を砕かなければなりません。私たちの魂は救われてからも、相変わらず神の御霊に逆らい、自分勝手に生きようという性質が宿っています。その性質を聖書では肉と呼びます。神様は私たちをとっても愛しておられるので、いろんな試練を通して、私たちの魂を砕き、神中心の信仰にしようと訓練してくださいます。チョー先生は「神様はぶどう酒を造る過程のように、器を移し換えながら、魂の中の粕を取り除かれる」とおっしゃっています。この器とは、私たちが生きていく間に出会う、色々な逆境のことです。第一に「誤解の器」という色のついた器に入れられます。弁解をやめ、黙って神様に祈って待つしかありません。第二は「鍛錬の器」という真っ黒で首が長く、底が丸い土器に入れられます。真っ暗な世界でも、約束のみことばをしっかり握ることによって解放されます。第三は「献身の器」は浅く広い器で、ふた型のような器です。多くの人たちが見て、自分を批判するでしょう。聖霊に満たされることにより、終始一貫して喜ばれる生活をすることができるのです。第四番目に移される器は、らせん状の「摂理に導かれる器」です。自分の一生と、心と、身体と、生活のすべてを主に委ねるべきです。主のみ旨のままに聖霊に導かれて生きていくときに、驚くべき奇跡のみわざが起るでしょう。良き父なる神様は、イエス様の血の代価を支払って買い取られた私たちに、奇跡的な生活をさせ、神様のみ旨によって、ご計画され備えられた、神様の子としての恵まれた生活を、私たちにプレゼントなさりたいために、私たちの魂を砕かれるのです。アブラハムは25年、ヤコブは20年、モーセは40年かかりました。神様はご自分の栄光のために用いるために、愛する者の訓練(魂を砕き死なせること)をなさいます。霊的な人になった時、はじめて神様はその人をお用いになるのです。アーメン。

2.すべてに恵まれる

神様がこの世界を創造されたとき、「すべてが良かった」と言われました。何もかもできた後に、人間が創造されたのです。人間は神により頼みながら生活していましたので、すべてが満たされていました。ところが、神に逆らって堕落してからどうなったのでしょうか?創世記1:17-19「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。」そうです。土地が呪われ、いばらとあざみが生えるようになりました。この汗は、骨折りの結果生ずる呪いのシンボルです。その証拠に、男性が仕事に没頭することによって家庭が崩壊し、自らもワークホリックになります。本来、人間は神の代理者として、この地を治める者として造られました。しかし、神に反逆したために、サタンがその支配権を横取りしたのです。それ以来、人間は、物質の世界でも祝福を受けることができなくなりました。確かに物質的に裕福であった億万長者は何人もいます。しかし、その多くの人たちは、その富のゆえに悲惨な生活を送ってしまいます。チョー先生は本の中でこのように語っています。「人間はあらゆる物質を所有しても満足がなく、快楽を追求し、自由を得ても満足がなく、権力によって世の中を意のままにしても、満足のない放蕩息子のような人生を生きています。個人の問題だけではなく、世界には、ききん、核戦争の恐れ、大量生産と大量消費による副産物である公害問題があります。もっと恐ろしいのは、精神的ききん、精神的枯渇、精神的葛藤などの、現代における人類の内面的問題です。そこで、私たちを『すべてが誤った状態』から解き放ち、恵まれた状態に引き戻すためには、どうしても仲立ちになって下さる方が必要になってくるのです。」アーメン。

仲立ちとは、私たちのために地上に来てくださった、イエス・キリストであります。イエス様は天のみくらを捨てて、馬小屋にお生まれになりました。父ヨセフの大工の仕事を受け継ぎ、ナザレで過ごされました。兄弟も多く、その生活は決して楽でなかったと思います。なぜなら、たとえ話に、継ぎはぎのたとえとか、無くしたコインを一生懸命さがす婦人のたとえがあるからです。30歳から公生涯に入りましたが、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕するところもない」という生活をしました。「宮の税金を納めろ!」と言われたときは、釣った魚の口から払いました。死なれたときは、他人の墓を借りました。なぜ、イエス様は貧しい生活をなさられたのでしょうか?使徒パウロはこう言っています。Ⅱコリント8:9「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」イエス様は、十字架につけられるとき、呪いの象徴であるいばらの冠をかぶせられました。イエス様は、私たちの呪いをお受けになり、その結果、私たちは律法の呪いからあがなわれたのです。律法の呪いとは何でしょう?申命記28章には、主の御声に聞き従うなら、すべての祝福が臨むと記されています。しかし、主のすべての命令とおきてを守り行なわなかったらどうでしょう?「あなたは町にあっても呪われ、野にあっても呪われる。あなたのかごも、こね鉢も呪われる。あなたの身から生まれる者も、地の産物も、群れのうちの子牛も…」と、呪いのリストが延々と続きます。しかし、イエス・キリストは律法を全うし、律法の呪いをその身に受けられたのです。その結果どうなったのでしょうか?ガラテヤ3:13,14「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」アーメン。

アブラハムの祝福とはどんなものだったのでしょうか?アブラハムは信仰の父と呼ばれています。その子どもはイサク、その子どもはヤコブです。これらの族長たちは、みんな豊かでした。なぜなら、神様が彼らを祝福したからです。他に旧約聖書に出てくる人たち、ヨブは東の人々の中で一番の富豪だったと記されています。ダビデ王もソロモン王も富んでいました。ダビデは詩篇23篇で「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません」と言いました。神様は良き神様であり、私たちを豊かに祝福したいのです。しかし、アダムが犯した罪と呪いのゆえに、私たちのところに届きませんでした。イエス・キリストは律法の呪いを身に受けてくださったので、アブラハムの祝福が異邦人である私たちにも及ぶようになったのです。それでもある人たちは、「クリスチャンとは清貧に甘んじるべきだ。貧しいことはきよいことである」とも言いました。しかし、貧しいのにどうして教会堂を建てることができるのでしょう?牧師給も支払えないし、宣教師を送ることもできません。やはり、神様から手のわざが祝され、献金をもって主をあがめることが、主のみこころではないでしょうか?同時に、お金と富には落とし穴があることも確かです。イエス様は「あなたがたは神にも仕え、富にも使えることはできません」と言われました。Ⅰテモテ6:10「金銭を愛することが、あらゆる悪の根である」とも記されています。私たちは富やお金の主人にはなっても、奴隷になってはいけません。そのためには10分の1献金を喜んでささげる必要があります。10分の1献金の意味は何でしょう。それは、「金銭は私の神ではありません。あなたがすべての必要を満たしてくださる神様です」という信仰の表明であります。ジョン・ウェスレーは、「できるだけ多く稼ぎ、できるだけ多く蓄え、できるだけ多く捧げなさい」と言いました。アーメン。

3.健やかであるように

教会でもある人たちは、手を置いて病の癒をすることを拒絶します。どこかの新興宗教と同じことをしていると批判します。でも、どちらが本物でしょうか?マタイ9:35「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒された」とあります。イエス・キリストは公生涯において、3つのことをおもになさいました。第一は教えです。第二は福音宣教。第三は病の癒しです。イエス様の働きの三分の一が、病の癒しでした。それだけではなく、弟子たちにもそうしなさいと命じられました。彼らには「病人をいやし、死人を生き返らせ、らい病人(ツァラト)をきよめ、悪霊を追い出しなさい」と命じました。イエス様が天にお帰りになる寸前も、彼らにこのように命じておられます。マルコ16:17、18「私の名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り…病人に手を置けば病人はいやされます。」もし、教会が、クリスチャンが病いの癒しをしないとしたら、それはイエス様のご命令に反することになります。そもそもどうして、イエス様が病を癒したり、悪霊を追い出されたのでしょうか?第一の理由は、神の国がやって来たというしるしでした。人々は病が癒されたときどのように思ったでしょう?「ああ、神の国、天国には死も病もないんだ」ということを体験的に知ることができました。人々や病の癒しを受けることにより、私もイエス様を信じて天国に入りたいという信仰に導かれたのです。つまり、病の癒しが天国に入る門となったのです。第二の理由はメシアであるイエス様の心です。イエス様はご自分がメシアであることを証するためにそうされたと考えられていますが、それだけではありません。メシアであるイエス様は彼らを深くあわれまれました。罪の結果、病気で死んでいく人たちを可愛そうに思ったのです。それは、親が自分の子どもが健康であることを願うことと同じです。ですから、教会も病の癒しが起こって人々が集まり、教会が大きくなるようにということを第一に願ってはいけません。それは結果です。動機はいつも愛でなければなりません。10人癒されても、戻って来るのが一人の場合もあるのです。

イザヤ書53章を見ると、「病の癒しは贖いの一部ではないだろうか」と考えることができます。イザヤ53:4「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」このみことばは、キリストの十字架の預言であります。イエス・キリストは、「私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」さらに、「彼のうち傷によって、私たちは癒された」と書いてあります。まさしく、イエス様は私たちの罪や咎だけではなく、病をも負ってくださったのです。使徒ペテロもこの箇所を自分の手紙に引用しています。多くの人たちは、このみことばを瞑想すると、癒しの信仰が与えられます。「イエス・キリストは私の罪だけではなく、病をも負ってくださった。だから、私はこの病を負う必要はない。私の病の癒しは2000年前、キリストの十字架で解決されたんだ。ハレルヤ!アーメン、信じます。あなたのくださる病の癒しをいただきます。アーメン」。このようにして、多くの人たちが癒されるのです。どうぞ、みなさんも信じましょう。「キリストは私の罪だけではなく、病をも負ってくださった。私は病の中にいる必要はない。神様、あなたの健康をいただきます。神様の健康をいただきます」。チョー先生は、一人ひとりの上に手をおいて祈るということはあまりありません。先生が、人々にみことばを語ると、彼らは「今、神様は私に語ってくださった。癒しのことばをありがとうございます」と信じるのです。彼ら自身の信仰によって癒される方がはるかに多いのです。ある人たちは、病は神様からの試練であると言います。しかし、それはめったにありません。親が自分の子どもが病気になれば良いと思うでしょうか?ましてや、良き神様である私たちの天の父は、私たちが健康になることを願っています。だから、ヨハネの手紙にも「健康であるように祈ります」と書いてあるのです。健康は神のみこころです。みこころですから、あなたは大胆に求めて良いのです。

チョー・ヨンギ師が開拓伝道を始めた頃、一件、一件、近所の家を訪問しました。あるお家のドアをノックすると一人のご婦人が青白い顔をして出てきました。チョー先生は「イエス様を信じると天国に行けますよ。でも、イエス様を信じないと地獄に行きます」と言いました。そのご婦人は吐き出すように「うちは今、地獄だよ」と言いました。「え、どうしてですか?」と聞くと、「私は心臓病で、今にも死にそうです。夫はアルコールとギャンブル中毒で働いたお金を全部使ってしまいます。子どもたちはお金がないので万引きをしています」と答えました。チョー先生「ああ、言葉だけではだめだなー、天国を見せてあげなければならない」と思いました。そして、三拍子の祝福を聖書から発見しました。再び、前回のご婦人のところを訪問しました。「イエス様を信じると、この地上でも天国のような暮らしができますよ。ぜひ、うちの教会に来てください」と言いました。彼女はチョー先生と一緒に教会に来ましたらびっくりしました。おんぼろのテントで、雨漏りがしていました。ご婦人は、「えー?何が天国の暮らしよ。まず、自分の教会を何とかしてよ」とカンラカンラと笑ったそうです。それでも、彼女はイエス様を信じて救われました。そして、三拍子の祝福を信じました。その後、この家族はどうなったでしょう。彼女の心臓病が癒されました。ご主人は別人になって教会の長老になりました。子どもたちは勉強してアメリカに留学に行ったということです。事実、三拍子の祝福を信じて、この地上で天国を体験したのです。三拍子の祝福とは、全人格的な救い、ホーリスティクな救いです。神様は、私たちが霊的に救われるだけではなく、私たちの魂、経済、そして健康も恵まれるように願っておられるのです。

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