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2010年2月21日 (日)

聖書信仰に立つ   創世記3:1、マタイ4:3-4

この世には聖書を教えているミッションスクールや神学校がたくさんあります。また、本屋さんに行けばキリスト教について解説している書籍がたくさん並んでいます。パソコンのウェブを開くならば、キリスト教についていろんなことを調べることができるでしょう。でも、彼らが言っていることあるいは、書いていることを鵜呑みにしてはいけません。私たちの信仰とはほど遠い、勝手なことも書かれています。では、何が正統的なキリスト教信仰なのでしょうか?それは、聖書をちゃんと信じているかどうかです。その人たちも「私だって聖書を信じていますよ」と答えるでしょう。そうではありません。聖書が創世記から黙示録まで、神の霊感によって書かれたということを信じるかどうかであります。先週学びましたが、聖書のことば一字一句が神の霊感によって書かれたのです。そこには間違いも、無駄なものも存在しません。全部が神からのことばなのです。だからこそ、聖書には権威があるのです。

1.自由主義神学の台頭

 サタンはヘビの口を通して「神は、ほんとうに言われたのですか」とエバを誘惑しました。サタンは神様が言われたことばに対して、疑いをかけたのです。そのためにエバは騙されて堕落しました。また、第二のアダムであるイエス・キリストがこれから公生涯を始めようとしているとき、サタンは同じように誘惑しました。「もし、あなたが神の子なら…しなさい」と言いました。それだけではなく、サタンは神のことばを誤用して誘惑したのです。「もし」ではなくまことの神の子であるイエス様は、神のみことばによって勝利しました。ハレルヤ!17世紀末からヨーロッパでは啓蒙主義思想が台頭しました。啓蒙主義とは人間の理性ですべてのことが認知できるという考えです。逆に言うと理性で理解できないものは切り捨てるということです。ですから、合理主義とも言うことができます。18世紀ドイツにおいて、「聖書も一個の自然物として取り扱うべきではないだろうか?」という考えが出てきました。「モーセ五書と言うけれど、本当にモーセが書いたのだろうか?」「いろんな記述があるが、歴史上、本当に起こったことなのだろうか?」「いくつかの記述に誤りがあるのではないだろうか?」そのような批評学的な研究が発達しました。学者たちは、「聖書は周辺地域の伝承や神話が取り入れられ、ヘーゲルが唱えたように正反合、正反合と発達していったのではないか」と言いました。私たちは、聖書は神から啓示によって与えられたと理解しますが、彼らは「生活の座から自然に生まれて、それが編集されて今の形になったんだ」と進化論的に考えます。それまでは聖書は神からの啓示の書物であり、アンタッチャブル的な存在でありました。しかし、近代批評学者たちは、生物を解剖するように、聖書をバラバラに解体したのであります。その結果どうなったでしょうか?「聖書は人間が書いたものであり、ところどころに神のことばが含まれている」と結論付けました。ということは、聖書には当然、歴史的にも、内容的にも間違いがあるということになります。そのためには、学問的な研究によって、そこから純粋な神のことばだけを取り出すということが必要になってくると言うわけです。しかし、最終的に学者たちは聖書の霊感を完全に否定し、他の書物と同じようにしてしまいました。これを自由主義神学と言います。この考えが、ドイツはもちろん、イギリス、アメリカにまで広がりました。確かに保守的な人たちはいました。でも著名な大学や神学校、そして教団教派がその影響を受けました。

そのとき敢然と現れたのが、ドイツのカール・バルトであります。彼は、19世紀的なあらゆる人間の合理主義的傾向に対して否を唱え「神のことば」としての聖書を強調しました。彼は20世紀初頭の不毛な自由主義に有効な矯正剤を与えたのです。この運動はかつての伝統的な正統主義ではなく、新正統主義と名付けられました。世界の教会は「カール・バルトこそは20世紀の最大の神学者である。私たちを自由主義神学から救った」と賞賛しました。この日本基督教団の先生方は、バルト神学の立場を取るでしょう。しかし、バルト神学はいくつかの弊害も残しました。彼はキリスト論をもって聖書を理解しようとしました。一見、良さそうです。「でも、聖書に多少の誤りがあったとしても、キリストを証言している限りは良いではないか。キリストを信じる信仰が与えられるならば、それは十分目的を果たしている。」こんな簡単に言ったのではありません。バルトの有名な著作、『ローマ人への手紙』を買って読みましたが、日本語で訳されていたにも関わらず、何を言っているのかさっぱりわかりませんでした。彼の説は、私たちの啓示論と決定的に違うところがあります。私たちは「聖書は神の霊感によって書かれたので創世記から黙示録までが神のことばとして権威があるんだ」と理解します。しかし、彼の立場を取る人たちは、「聖書は人間の所産ではあるが、聖霊によって神のことばになる」と主張しました。つまり、聖書の記述が歴史的な事実であるかどうかよりも、それを実存的に理解することが重要なんだということです。要は信仰が与えられれば良いということです。さらに「聖書が書かれた神のことばであるなら、説教は語られる神のことばである」とも言います。彼らは、聖書と説教を同等にしています。私は神のことばである聖書を解説し、神からのメッセージとして取り次いでいます。

もし、「キリストを証していれば良い。信仰が与えられればそれでよい」と考えるなら、聖書はどうなるでしょうか?「嘘も方便」ということになります。また、聖書において、キリストを証している箇所が重要であり、他の記述は重要ではないということになります。残念ですが、新正統主義は、自由主義の「聖書は誤っている。理性的には受け入れられない」というところから始まっています。そして、自由主義神学に妥協して、「キリストを証していれば良い」とか、「聖霊によって神のことばになる」と言いました。すると、聖書を創世記からヨハネ黙示録まで読もうという気が起こらなくなります。なぜなら、聖書は人間が書いたものであり、誤りが含まれていると思われているからです。そこから「聖書には権威があるのであるから従うべきだ」とか、「神のみことばを慕い求めます」という姿勢が起きてくるはずがありません。だれかが唱えた神学に立って、あるいは教会が作った信条や教理問答に立って読むしかなくなります。ある牧師は、教会の礼拝で語られる神のことばによって聖書を理解しなければならないと主張します。ということは、家で勝手に聖書を読んだら、誤って解釈してしまう可能性があるということです。まるで、中世のカトリックの時代のようであります。その当時は、「一般の人たちは、聖書を勝手に読んではいけない、誤って解釈するから」と言われていました。もし、聖書が神からの唯一の啓示の書物ではなく、他の書物と同じだという立場を取るならばどうなるでしょうか?「神を信じている仏教やイスラム教、ヒンズー教にも神の啓示がある」。つまり、「キリスト以外にも、救いに至る道がある」ということになります。彼らは「私たちキリスト教会も、他の宗教と会話すをべきである」と主張します。ヨハネ黙示録には、世の終わりには反キリストによって世界の宗教が1つになるという預言があります。彼らは、喜んでそういう世界的な宗教に加わるのではないでしょうか?私は断固として反対します。使徒4章でペテロがこう言いました。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」アーメン。私たちは「ああ、何と排他的なんだ」と非難されるでしょう。でも、良いのです。イエス様は「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです」とおっしゃいました。ビリーグラハムは20世紀の最大の伝道者です。彼の説教によって250万人以上がイエス・キリストを信じる決意をして、前に進み出たといわれています。ビリーグラハムが聖書を高々と上げて、良く言ったことばがあります。それは、But The Bile sais.「しかし聖書は言う」であります。ビリーグラハムの後、Back to the Bible「聖書に帰れ!」という福音派と呼ばれるグループが起こったのです。私は聖書を全く信じる、福音派の信仰です。

2.聖書信仰の立場

日本の教会は、聖書に関して2つに分けることができます。第一は、聖書の霊感は部分的であるという、自由主義神学の影響を受けている教会(牧師や教師の教会)です。NCCに属している聖公会、バプテスト連盟、そしてルター派、改革・長老教会、日本基督教団です。第二は聖書の霊感は全体的であると信じている福音派の教会です。戦後、日本基督教団から出た教会、あるいは戦後、新しく作られた教会です。保守バプテスト、ホーリネス系、アッセンブリー・ペンテコステ、同盟・アライアンス、福音伝道、福音自由、一部のルター派教会などです。前者は主流派と言われ、後者は諸派であります。日本のミッションスクールのほとんどが主流派の傘下にあります。同志社、関西学院、関東学院、東北学院、青山、立教、ICU、敬和、聖学院、ルーテル、すべてのミッションスクールが、自由主義神学の影響を受けているといっても過言ではありません。なぜ、そんなことを言えるのかと申しますと、私は5年間、教団の教師委員会に属していました。そのとき、いくつかの大学教授をお招きして勉強会を持ちました。そのとき、何度も耳を疑うようなことがありました。つまり、私がそれまで持っていた聖書観、救済観がぐらぐらと揺るがされました。日本基督教団は主流派でありますが、私は諸派と言われる福音派の教会で育ちました。日本基督教団のおそらく95%の先生方は、聖書の霊感は部分的であると信じているでしょう。この教団においては、私は変わり者であり、根本主義とか、純福音、あるいは聖書主義と呼ばれます。教団のほとんどの教会は新共同訳を用います。が、私は新改訳聖書です。この聖書は「聖書は誤りなきことばであると」信じる福音派が訳したものです。私は礼拝説教において、こういうことは一度も話したことがありません。信仰のDNAシリーズだから話すのであります。

では、簡単に言うと自由主義神学の影響を受けている教会Aと、保守的な福音派の教会Bがどのような信仰を持つ傾向があるのかもう少しお話したいと思います。A教会は聖書が、どれが正しい神のことばなのか批評学的に調べます。なぜなら、部分霊感説に立っているからです。B教会は「聖書は全部、神の霊感で書かれている」と信じているので、そういう研究はしません。多少矛盾するような箇所があっても、聖書は聖書が解釈すると信じています。A教会は「聖書が書かれた時代背景はどうだったのか」ということから読み始めます。創世記はバビロン捕囚から帰ってきたとき荒廃したエルサレムを見て書かれたと言います。あるいはイエス・キリストがガリラヤ湖の嵐を静めた背景には、初代教会の迫害の嵐があったのだと言います。つまり、実存的に解釈するということです。一方、B教会はどうでしょうか?「創世記はまさしく、モーセが神の啓示をうけて世界の始めのことを書いたんだ」と主張します。「ガリラヤ湖の嵐もイエス様が実際に静めたんだ」と奇跡は奇跡として信じるという立場です。またA教会の人たちは進化論を信じています。神様がこの万物を造ったことは信じるが、そのあと、さまざまなかたちに進化したという有神論的進化論です。一方、B教会の人たちのほとんどは創造論を信じています。「神様が種類にしたがって動植物を6日間で造ったんだ」と信じています。日本基督教団の前赤羽教会の深谷先生と親しくさせていただいたことがあります。先生はニュートンの愛読者であり、進化論を信じておられます。あるとき、安海先生が特別伝道集会に招かれた時があったそうです。安海先生は第一礼拝で「人間がサルから進化したと考えるなら、盗みや殺人が、どうして罰せられるのでしょうか。ちょっと発達が遅れているという程度の問題でしょう」とお話したそうです。そこに東大卒の信徒が座っていたそうであります。先生は、第一礼拝後クレームをつけられ、第二礼拝ではそういう話はしないようにお願されたそうです。ニュートンの元編集長、竹内均は『エントロピーの法則2』という進化論を否定する本を訳しています。彼は『科学が証明する旧約聖書の真実』という本を書いているのに、一方では、進化論を支持しています。何故かと言うと、おそらく生活のためでしょう。

自由主義神学の影響を受けている教会Aは、聖書は神の啓示が部分的であると主張します。するとどうなるでしょうか?この世界には様々な宗教があり、彼らはそれぞれの神を仰いでいます。神からの啓示は聖書だけではなく、彼らの宗教にも何らかの神からの啓示があると言います。最終的には、「イエス・キリストだけが救いでない。他にも救いの手立てがある。だから、他の宗教と対話が可能なのだ」と主張するようになりました。WCCが勧めている、エキュメニカル運動(世界教会一致運動)というのがありますが、プロテスタント教会とローマカトリック教会、ギリシャ正教会が1つになるということです。これに対して、B教会、つまり福音派の教会はエキュメニカルには反対し、むしろパラチャーチを勧めています。パラチャーチとは、クリスチャンが主の働きにおいて超教派で協力し、世に対する福音伝道と社会責任の使命を果たしていくということです。黙示録には背教の教会が起こると書いてあります。反キリスト的指導者によって、すべての宗教が統一されることでしょう。世の終わりに際し、私たちは塩気を保っていく必要があります。もう一度、使徒ペテロのことばを引用します。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」十字架で贖いを全うされたイエス・キリストの名前にしか救いはないのです。私はキリストを信じないものは裁かれ、地獄に行くと信じます。私がこの教会に赴任してまもない頃、こういうことが起こりました。役員会が終り、少し歓談のときがありました。そのとき、「地獄は果たしてあるのだろうか?」という質問が出ました。ある人は「愛なる神様は地獄など造らない。人類、みんな救ってくださる」と言いました。私はそのとき、「いや、みんな救われるわけではない。イエス様を信じた人だけが救われ、信じない人は地獄でさばかれます」と反論しました。そして、「みなさんの中で、地獄はないと信じる人はいますか?」と聞いてみました。6人中、「地獄はないと思う」と2人が手をあげました。私は「え、これでも役員さん?」と、びっくりしました。そのとき、役員ではありませんでしたが、オブザーバーであった山崎長老さんがこのように言いました。「聖書に書いてあるから、地獄はあると思う」。そのとき、私はとても感動しました。「聖書に書いてあるから」なんとすばらしい信仰でしょうか。完全な神の啓示である聖書を離れると、「キリスト以外にも救いがある」とか「地獄はない」と信仰がおかしくなります。そうすると、一生懸命、伝道しようという気も起こらなくなります。何のため、命をかけで宣教するのでしょうか?キリスト以外に救いはないからです。

私は福音派の教会で育ちました。その当時の山崎長老さんはじめ、役員さん方は、「日本基督教団の牧師ではなく、他の血を入れたい」と私を招いたのです。私と家内は正直、日本基督教団の教会に行くつもりはありませんでした。「神学校で、あの教団には信仰がない」と教えられていたからです。教師委員会は「無任所の教師が6人もいるのに、どこの馬の骨か分からない若造を招くのか?」と反対したそうです。山崎長老さんはあの手、この手を使って努力しました。幸いというか、当時の東京教区は分裂状態にあり、統制があまりとれていませんでした。それで、東支区にゆだねられ「教団から3名の推薦を受ければ良いだろう」ということになりました。教師転入試験は合格しましたが、そのあとの正教師試験が大変でした。過去問を研究しましたが、見たことも、聞いたこともない用語がいっぱいありました。そちらの立場の本をたくさん買って勉強しました。とっても高いんです。一冊、5000円くらいします。教文館9階で行なわれていた夜間神学校も2年間通いました。東京神学大の先生が教えてくれました。3年後、試験は見事に合格しました。しかし、学んだことはほとんど役にたちませんでした。まるで哲学を学んでいるようでした。あんまり言うと悪口になるのでもう言いません。毛利佐保姉がフルタイムの献身をしたいので勉強したいと3年くらい前に私のところに来ました。日本基督教団の教師になると言ったら、東京神学大学か日本聖書神学校に決まっています。しかし、私は福音派の神学校に行くように勧めました。それで彼女はアッセンブリーの中央聖書神学校に行きました。神学校の教授たちは「え?日本基督教団から学びに来た人はあなたが初めてです」とびっくり仰天したそうです。それでまた、私は「教団を離脱として独立の教会を」と昨年の総会にかけました。決議は来年の4月に延期されることになりましたが、一番の原因は聖書観であります。この教会に赴任して24年目になろうとしていますが、密かに聖書信仰を根付かせてきました。このようなテーマについて話すのは今日初めてです。私はカミングアウトさせていただいたのです。

何故、聖書信仰なのか?なぜ、「聖書が創世記からヨハネ黙示録まで、全部、霊感された誤りのない神のことばである」と信じるのでしょうか?その理由は2つあります。第一は、聖書から信仰が生み出されてくるからです。私たちがどの箇所も誤りなき神のことばであると信じて読むとき、みことばが開かれ、私たちの信仰になるのです。私たちが聖書を真摯な態度で、読むとき、みことばが開かれるのです。逆に、私たちの理性を尺度として、聖書を読むならば信仰は与えられません。神のことばである聖書から、癒しや奇跡を起す信仰のみことばが与えられるのです。第二は、聖書こそ教会形成の土台、権威のよりどころだからです。イエス様ご自身が聖書の権威を認めおられます。マタイ518「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」これは、神のことばは永遠であるということです。私たちは時代が変わっても、永遠に変わらない神のことばに信仰を置くべきです。パウロはエペソ220「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です」と言いました。使徒たちが言ったことば、預言者たちが言ったことばに神の権威があるということです。それはイコール、聖書に権威があるということです。教会は、私たちは、この聖書の上に土台するならば、世の嵐にも耐えることができるのです。フランスの詩人・ボードレールは、「あと一〇〇年もすれば、聖書など紙屑かごに捨てられる」と言いました。しかし、皮肉なことに彼が死んだ後、彼の家が聖書の印刷工場になったということです。聖書は永遠のベストセラーと言われています。どうぞ、私たちは聖書のみことばに親しみ、聖書のみことばの権威を重んじ、聖書のみことばから信仰を得、聖書のみことばに従う者となりたいと思います。

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