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2010年1月31日 (日)

特別礼拝

本日は小笠原孝師を招いての特別礼拝の為、原稿が用意できませんでした。

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2010年1月24日 (日)

キリストの福音      ヨハネ14:1,6

日本人は「いわしの頭も信心から」と言われているように、信じる対象よりも、信心そのものが大切だと考えています。しかし、結婚するとき、「男性だったらだれでも良い」とか「女性だったらだれでも良い」という人はいないでしょう。その人が伴侶として相応しいかどうかいろんな面で、調べるのでないでしょうか?神を信じるとは、自分の存在をかけるということであります。人間や動物に似せたもの、あるいは人間の頭で想像した架空の神様を頼っても仕方がないのではないでしょうか?救いを得るためには、信じる対象と信じる内容が大切であります。イエス様はヨハネ14:1「神を信じ、またわたしを信じなさい」と言われました。多くの人たちは、「私は、神様は信じるけど、どうしてイエス・キリストを信じなければならないのか?」と質問します。クリスチャンになっても、「なぜ、キリストを信じなければならないのだろうか?キリストの何を信じるのか?」ということを理解していない人がいます。

1.キリストの神

「神様」と名前のつく神様は世界中に数え切れないほどあります。それぞれの民族や部族が「この方こそ、わしらの神様じゃ」と拝んでいます。日本は「八百万(やおよろず)の神」と言われるように、何でも神様にしてしまいます。キリスト教は、「まことの神様とは聖書が啓示している、宇宙万物を造られた神様である」と主張します。しかし、世界を創造したと考えられる神様は、キリスト教の神様だけではありません。天照大神(あまてらすおおみかみ)だって、この世界を造ったと信じられています。エジプトにもバビロンにも、ギリシャにも世界を造ったという神様がそれぞれいました。「神様!」と呼ぶと、それぞれの人たちが、それぞれの神様を仰ぐのではないでしょうか?しかし、「キリストの神」はおひと方だけです。「キリストの神」って何でしょう?それはイエス・キリストが「父」と呼ばれたお方であります。御子イエスの父こそが、唯一まことの神様なのであります。イエス様はヨハネ14:6「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」と言われました。さらに「わたしを見た者は、父を見たのです」とも言われました。ということは、イエス・キリストを通してでなければまことの神様も分からないし、まことの神様のところへも行けないということです。ですから、「神様を信じるけど、イエス・キリストは信じません」ということはありえないのです。正しい信仰とは何でしょう。それは、イエス・キリストを信じることによって、まことの神様に至ることができるということです。

では、まことの神様に至るためには何が必要なのでしょうか?実は、まことの神様に至るとは、救われるということと置き換えても可能な内容です。イエス・キリストは私たちがまことの神様に至り、救われるため重要なことをしてくださいました。このことが、キリストが唯一の救いであることの証しなのです。イエス・キリストは私たちが救われるために3つのことをしてくださいました。第一に神様からこの地上に遣わされたということです。父なる神のひとり子が、人間の罪の身代わりとなるために、人間として生まれました。これはクリスマスです。罪の身代わりとはどういう意味でしょうか?神様は私たちを愛しています。しかし、人間が持っている罪だけは赦すことができません。神様は愛であると同時に義なるお方ですから、一片の罪も見逃すことはできません。神様が「どんな罪でも赦すよ。良いよ、良いよー」と言ったら、その時点で神様でなくなります。イエス様は罪の身代わりとなるために、父なる神に従順し、罪のない生活を送られました。第二は、本来、人類が負うべき罪をイエス・キリストが負ってくださったということです。イエス様は苦い杯を飲みたくないと願いましたが、最後には父のみこころに従いました。そのため十字架に釘づけされ、殺されました。イエス様は十字架上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか?」と叫ばれました。本来なら、私たちが神から捨てられ、地獄でそのように叫ぶはずでした。しかし、イエス様が私たちの罪を負ったために、神から断罪され、捨てられたのです。イエス様の死は身代わりの死、贖いの死でありました。第三は父なる神様が、御子イエスを死人の中からよみがえらせたということです。死んで贖いが全うされたのに、なぜ、復活が必要なのでしょう?使徒たちは「彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない」という詩篇のみことばを引用して説明しました。それは、全人類の罪をあがなった聖者を、とどめる墓はないということです。死というのは罪の結果、生じたものです。御子イエスが罪を解決したので、死も効力をなくしました。それは同時に、御子イエスを信じる者も、義とされ復活に預かるという保証です。パウロはローマ4:25「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです」と言いました。十字架の死と復活はセットなのです。「十字架で死んだ、十字架で死んだ」だけならお葬式になります。それだけではなく、私たちが義とされ、新しく生きることができるように、キリストは復活したのです。ハレルヤ!

ところで、キリストの福音とは何でしょう?先週は神の国の福音と題して学びました。マルコ1:1「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」と書いてありました。福音のはじめとは、「神の国が近づきました。あなたも入りなさい」という良い知らせでした。バプテスマのヨハネが、福音を宣べ伝えたときから、人々は神の国に入ることができるようになりました。福音のはじめがあれば、福音の完成もあるはずです。マルコによる福音書は「キリストが十字架につけられ、3日目に復活した」ということでぷっつりと終っています。弟子たちはイエス・キリストの復活を信じられませんでした。イエス・キリストは彼らの不信仰を責めた後、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」と命じられました。彼らは何を宣べ伝えたのでしょうか?キリストの十字架と復活を宣べ伝えたのです。キリストの十字架と復活こそが、キリストの福音の中心なのです。ですから、Ⅰコリント15章に、私たちはこのことを伝えますという使信(ケリュグマ)が記されています。Ⅰコリント15:1、3「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。…キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと」。アーメン。福音のはじめである、バプテスマのヨハネの福音とどこが違うのでしょうか?簡単に言うなら、力と勢いが違うのです。十字架と復活によって、神の国が力と勢いをもってこの世に臨んで来たということです。前はこっそり、密かにやってきました。だから、人々はバーゲンセールにでも行くように突進して入りました。しかし、キリストが復活してからは、神の国の門はだれにも分かるように大きく、広く開けられました。犯した罪の大きさ、身分、人種に関係なくだれでも救われるようになったのです。新約聖書に、「だれでも」「だれでも」「だれでも」と書かれているのはそのためです。

キリストの神ということに戻りたいと思います。それはこういうことです。主イエス・キリストというお方がユニークであるということです。ユニークとは比類なき、他に比べることができないと言う意味です。神が人となって、私たちの罪のために死なれ、三日目によみがえられました。そして、父なる神への道を開いてくださったのです。私たちはキリストが流された血しおによって、罪赦され、大胆に神の御座に近づくことができるのです。他の宗教になくて、キリスト教にあるのは罪の赦し、罪の贖いということです。天理教でも父なる神を説きます。「人類みな兄弟、家族」と言うかもしれません。しかし、そこには罪の贖いがありません。罪の贖いがなければ、父なる神には近づくことができないのです。エホバの証人(ものみの塔)も、唯一まことの神、エホバについて言います。しかし、彼らはキリストによってすべての罪が贖われたという信仰がありません。彼らは救いを得るために一生懸命、布教活動や奉仕をしているのです。私たちクリスチャンは、キリストを信じて救われたので、喜びのゆえに宣教や奉仕をするのです。彼らの動機は恐れでありますが、私たちの動機は喜びであり平安です。私たちはイエスというキリストを通して、まことの神様に到達することができるのです。イエス・キリストだけが父なる神の独り子です。だから、イエス・キリストだけが神様を「父」と呼ぶことができました。そして、人がキリストの福音を信じたならば、神の息子、神の娘という身分が与えられます。でも、厳密に言うならば、クリスチャンは養子縁組の子どもです。神学的に、神の子とされるというのをアダプションと言います。これはキリストによって、神様の養子になるということです。キリストが長男であり、キリストのもとで私たちは兄弟姉妹なのです。神の国における相続権は、嫡出子(ちゃくしゅつし)も養子もかわりありません。ローマ8:17「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります」。

2.キリストの契約

なぜ、私たちはキリストを信じる必要があるのか?もう1つ別の角度からお話ししたいと思います。聖書には旧約と新約があります。クリスチャンでも、「なぜ、聖書に旧約聖書があるんだろう。私たちはイエス・キリストが書いてある新約聖書だけで十分じゃないだろうか?重たくてしょうがないよ!」と思っている人たちがいます。そもそも旧約とは何でしょうか?また、新約とは何でしょうか?「約」の約は、契約という意味です。ですから、旧い契約と新しい契約と言ってもさしつかえありません。では、旧い契約にはどのようなものがあるのでしょうか?アダム、ノア、アブラハム、モーセ(シナイ)、レビ、ダビデとの契約があります。しかし、その中で中心的なものは出エジプト19章に記されているシナイ契約です。出エジプト19:5,6「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」まず、契約の対象は、エジプトを出て来たイスラエルであることがわかります。神様はアブラハムの子孫であるイスラエルを選びました。しかし、この契約には条件がありました。この契約の直後に十戒を中心とする律法が記されています。私たちも日常生活で、契約を交わしますが、両者が守るべき決まりごとが小さい文字で書かれています。どちらかがこれを破るならば、契約は解除されます。イスラエルの民は「それらの律法を守り行ないます」と約束しました。しかし、みなさんもご存知のように、イスラエルの歴史は神への反逆の歴史、不信仰の歴史でした。結局、イスラエルは神様から捨てられました。しかし、エレミヤ書やエゼキエル書には、今度は新しい契約を結ぶと預言されています。

新しい契約とは何でしょう。人間と10回契約を結べば10回とも破ってしまうでしょう。100回契約を結べば、100回とも破ってしまうでしょう。それが罪ある人間の限界性です。そのために、神様はすばらしい仲介者を立てることにしました。その方こそが、大祭司なるイエス・キリストであります。ヘブル9:15「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです」。新しい契約の仲介者、イエス・キリストは何をされたでしょうか。ご自分が死んで、三日目に復活し、教会という体をとおして神様の前に立たれました。かしらはイエス・キリストです。そして、体は教会、私たちです。聖書に、教会はキリストのからだであると書いてあります。体の中に、あなたもわたしも含まれているのです。これまでは人間が神様と契約を結びましたが、ことごとく失敗しました。でも、新約では、イエス・キリストが契約の仲介者として、父なる神様と契約を結ばれたのです。人間であれば、何度やっても失敗するでしょう。しかし、イエス・キリストは失敗しません。Jesus never fails.イエス・キリストが父なる神様と契約を結ばれたとき、私たちはどこにいたのでしょうか。そうです、イエス・キリストの体の中にいたのです。ですから、神様はキリストを通して、私たちと契約を結ばれたことになります。新しい契約は、キリストが間におられます。もし、私たちが失敗したら、誰が責任を取るでしょうか。イエス・キリストです。もし、私たちが要求を満たさなかったなら、誰が満たしてくれるでしょうか。イエス・キリストです。もちろん、私たちが個人的に守る義務もあります。でも、私たちがこの契約において、一番、守るべきことは何でしょうか。それは、「キリストにおる」ということです。新約聖書で、「キリストの内に」、「キリストにあって」、「キリストにあるならば」、「キリストにとどまるなら」と口をすっぱく言っているのはそのためです。みなさんは、キリストの体からはみ出してしまうので、悪魔にやられるのです。悪魔は律法を犯した者を罰する力があります。悪魔は神様の前にあなたを訴えるでしょう。でも、あなたがキリストの内にあれば、キリストの血によってガードされるのです。愚かなクリスチャンは、ときどき、キリストの体から飛び出して、痛い目に会います。「キリストの内にとどまる」「キリストのうちに隠れる」。これはキリストを信じて、新しい契約の内に入れられたということです。

 しかし、私たちには契約の内を歩む必要が残されています。そのことによって契約の条件を満たし、豊かな祝福を得ることができるのです。契約の内を歩むとは、みことばを読んで、みことを守り行なうということです。イエス様は、ヨハネ1415「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです」と言われました。それは罰せられるのが怖いからではなく、イエス様を愛しているからです。イスラエルの民は、「律法を守らないと呪われる。それを守らないと救われない」ということで、イヤイヤ従いました。彼らは律法を救いの条件みたいに考えたのです。新約の私たちはそうではありません。新しい契約の仲介者なるイエス様が、律法の条件を全部満たして下さいました。同時に、イエス様は十字架で律法の呪いから解放してくれたのです。救われる前は、律法はキリストのもとに導く養育係りです。律法は「あなたには罪がありますよ。キリストの救いが必要です」と言います。そして、救われた後は、律法は私たちをガードする境界線になります。車で道路を走るとき、センターラインとかガードレールがあります。街中では、車はゆっくり走るので、センターラインとかガードレールがないところもあります。でも、一旦、高速に出たらどうでしょうか。高速道路に、車線とかガードレールがないと、怖くて走ることができません。あなたは、「車線とかガードレールなんかいらない」と言うでしょうか。律法は越えてはいけない、神の戒めです。律法というガードレールを飛び越えたら、命の保証はありません。律法の内側を歩むとき、あなたは安全なのです。そういう意味で、信仰生活において、神様の戒めや教えは必要不可欠なのであります。私たちは神の義を知るために、聖書を読む必要があります。「義」ということばには、はかりとか物差し、基準という意味があります。残念ならが、この世は神様から離れ、人間の基準で生きています。法律も「それをしたら、他の人が害されたり、迷惑を被るので、それをしてはいけない」と、人との関係が基準です。でも、神様の律法は、神の義を教えます。「人を殺してはいけない」というのは、人間が定めた法律ではなく、神が定めた律法なのです。今、多くの若者が親や友人を殺しています。なぜでしょう?人間の道徳や法律が基準になっているからです。結婚もそうです。人間が決めた契約だったら、うまくいかなければ離婚がなりたちます。しかし、結婚は神様が定めた契約です。そうなればすべての違反は、人間ではなく、神様に対して責任があるということです。私たちはこの世で生まれ、この世の教育を受けてきました。キリスト教国でない日本は特にそうです。小学生でクリスチャンになったのならともかく、20代、30代、40代でクリスチャンになった人は、考え方や思想を聖書のものと入れ替えなければならなりません。そのために、私たちは日々、聖書に親しみ、聖書から教えられる必要があります。聖書には神様の基準、神様のみこころが示されているからです。

私たちは、キリストの十字架と復活を信じることによって、新しい契約の内に入れられました。しかし、もう1つ、今度は契約の内を歩む必要があります。それは、キリストの戒めである、みことばを守り行なうということです。旧約の人たちは石に書かれた文字を自分の力で守ろうとしましたが、それはできませんでした。しかし、新約の私たちには、神の御霊が心の板に律法を書いてくださいました。クリスチャンは聖霊によって新しく生まれ変わった存在です。そして、私たちが御霊によって歩むときに、みことばを守り行なうことができるのです。詩篇13「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」。神様の愛は無条件です。でも、神様の祝福は条件付きです。多くの人たちは誤解しています。「神様の愛は条件付きで、神様の祝福は無条件であると」。そうではありません。私たちが祝福を得たいならば、契約の内を歩むということが必要です。そのためには、キリストの戒めであるみことばを守り行なうということです。神の御霊がそのことを実現させてくださいます。ハレルヤ!私たちのもとにキリストの福音が伝えられていることを感謝します。私たちはキリストの十字架と復活によって救いに入れられました。だれも、どんなものもキリストの愛から引き離すことはできません。キリストの福音によって救われた私たちは、キリストのうちにとどまり、契約の内を歩むのです。アーメン。

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2010年1月17日 (日)

神の国の福音      マルコ1:14:15、マタイ11:12

世の人々は「神の国」という概念がありません。また、ユダヤ人は神の御名をみだりにとなえないために神の国を天国と読み替えました。そのため人々は、天国を「天にある国」ととらえ、人が死んだ後に行く、極楽みたいなところと考えています。日本においても、だれかが死ぬと「天国に行った」と普通に言います。残念ですが、だれでも天国に行けるわけではありません。また、クリスチャンでも、「神の国」あるいは「天国」を精神的なものとしか捉えていない人がいます。そのため、神の国は何かということを理解することはとても重要です。きょうは、神の国の福音と題してメッセージさせていただきます。

1.福音とは何か?

まず、福音とは何でしょうか?福音とは良い知らせ、グッド・ニュースです。でも、もとになっているギリシャ語はちょっと違います。福音はギリシャ語でエゥワンゲリオンと言いますが、これはどんなときに用いられたのでしょうか?ギリシャ時代は近隣諸国との戦争が常にありました。戦争で負けたら町は略奪され、殺されるか奴隷になるしかありません。しかし、勝つと領土も広がり、戦利品を分け合うことができます。町に残っている人たちは、戦争の勝ち負けの知らせを待ち望んでいました。もし、わが軍が負けたならば、敵が襲ってくる前に、逃げなければならないからです。そのとき、戦地から伝令者が持ってくる勝利の知らせこそが、エゥワンゲリオン(良い知らせ)という意味なのであります。昔、マラトンの戦いというギリシャとペルシャとの戦争がありました。アテネではこのとき、抗戦派と降伏派とが争い、一触即発の大変な危機にありました。そのとき、ひとりの伝令者が戦地から息を切らして走ってきました。「私たちは勝利した!」と告げた後、彼は絶命しました。彼が走った距離が約41キロメートルであり、これが現在のマラソンの由来になりました。戦争に勝ったという「良い知らせ」が、キリスト教会で何故、福音と呼ばれるのでしょうか?

マルコ1:1 「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」。マルコ1:14「ヨハネが捕らえられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。『時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。』」イエス・キリストの中心的な教えは、神の国でした。「神の国はどのようなものなのか?」「神の国に入るにはどうしたら良いのか?」「神の国はどのように来るのか?」「神の国の律法とは何か?」つまり、イエス・キリストは単なる福音を伝えたのではなく、神の国の福音を伝えたのです。ここでまた問題になるのが「神の国とは何か?」ということです。ギリシャ語で神の国はバシレイアと言いますが、国というよりも、王権、支配、統治という意味合いがあります。クリスチャンになるとは、神様のご支配のもとに来るということです。そして、神の国の王様は、イエス・キリストです。ですから、福音を信じるとは、王なるキリストのご支配のもとに来るということなんであります。問題は、神の国が一体どこにあるかということです。残念ながら、神の国は現在、見ることができません。王国に必要なものが3つあります。まず、王様による支配です。その次は民(臣民)、そして領土が必要です。王、民、領土、この3つが揃っていなければ王国とは言えません。では、「福音のはじめ」とは何でしょうか?キリストによって王的な支配がやって来たということです。しかし、そこに住むべき民がいません。それで、神様はキリストの贖いを受けて、王国の民になるように招いておられるのです。では、領土はどうでしょうか?今は見えませんが、やがてこの世が終るときに、御国が訪れます。それは1000年王国とも呼ばれています。キリストにあって死んだ者たちが、復活し、地上のすべてのものが回復されます。イザヤ35章に「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う」とあります。その後、新しい天と新しい地がやってきます。そこで、とても重要なことが1つあります。未来の神の国という領域に入るためには、人は今この世において、完全な信頼をもって神の支配に自分をゆだねなくてはならないのです。神の国とは神の支配です。救いとは、神の支配に自分の身をゆだねるということなのです。そうするなら、あなたは神の国籍を持つ者となり、神の国の民として永遠に住まうことができるのです。ハレルヤ!

2.神の国への招待

最初に神の国の福音を伝えたのはイエス様ではありません。バプテスマのヨハネでした。マタイによる福音書3章を見ますと「バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから』」と書いてあります。いつから、人々は神の国に入ることができるようになったのでしょうか?キリストが十字架で死んで復活してからでしょうか?多くの人たちはそう考えますが、そうではありません。バプテスマのヨハネが神の国の福音を宣べ伝えた時からであります。人々が神の国の福音を聞いて、「ああ、私も神の国に入りたい」と求めたときに、彼らは救われ、神の国に入ることができたのです。マタイ11:12「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」もう一箇所、マタイ21:31,32「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。」アーメン。福音を宣べ伝え始めた頃は、イエス様の死も復活もありませんでした。それでは何が福音だったのでしょうか?それは「神の国は近づきました。神の招きに答えて、あなたもお入りください」ということです。そのとき、「激しく攻める者たち」と人々から揶揄されていた、取税人や遊女たちがいち早く信じて、神の国に入ったのです。まるでバーゲンセールのデバートみたいです。開店と同時に、目指す商品に突進するオバタリアンです。神の国は最も価値のあるバーゲンセールであります。神の国への招待は、最初イスラエル(ユダヤ人)に向けられました。しかし、彼らはそれを拒否しました。イエス様も弟子たちを伝道旅行に遣わしたとき、このように言われました。マタイ10:5-7イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町に入ってはいけません。イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい。行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。」イエス様のご計画は、まず、イスラエルの民が回復されることでした。しかし、彼らは神の国もメシヤも拒絶しました。なぜでしょう?彼らが考えていた神の国ではなかったからです。そして、神の国は彼らから取り上げられ、異邦人へと向けらたです。

 マタイ22章にこのようなたとえ話が記されています。ある王様が王子のために結婚の披露宴を設けました。王様は招待しておいたお客に、しもべたちを遣わしましたが、来たがりませんでした。それで、直前になってもう一度、このように言いなさいと、別のしもべたちを遣わしました。「さあ、食事の用意が何もかも整いました。どうぞ、宴会にお出かけください」。ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまいました。王様は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、町を焼き払いました。このことは、西暦70年、エルサレムがローマによって滅ぼされるという預言です。それから、王様はしもべたちに「宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちはふさわしくなかった。だから大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。これは、救いがイスラエル(ユダヤ人)から異邦人に向けられたことを語っています。宴会場は客でいっぱいになりました。ところが、礼服を着ないで席についている人がいました。王様はしもべたちに、「あれの手足を縛って外の暗やみに放り出せ」と命じました。通りを歩いて呼び止められたのに、むちゃくちゃだなーと思うかもしれませんが、そうではありません。当時は王様と謁見するとき失礼がないように、入り口には礼服が用意されていました。しもべが手渡したにも関わらず、彼はそれを拒否して席に座ったのです。これはどういう意味でしょう?異邦人であっても、神の国に招かれ救われる可能性があります。でも1つの条件として、礼服を着るということです。礼服とは、イエス・キリストがくださる義の衣、贖いの衣であります。このたとえが教えていることは、神の国の招待はイスラエルから取り上げられ、異邦人に向けられたということです。それが今の、教会時代に当たるわけです。しかし、あわれみ深い神様は、異邦人の時が満ちたならば、最後にもう一度、イスラエルを救おうと約束しておられるのです。だから、使徒パウロは私たちにこのように告げています。「私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。…確かに、今は恵みのとき、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:1,2)。

3.神の国に入る条件

神の国に入る条件とは何でしょうか?先週は「キリストを信じるだけで救われる」というメッセージをしました。確かに、このことは真理ですが2つの誤解を引き起こします。第一は「私が信じてやった」という、自分が神様よりも上かのように思うことです。第二は「天国へ行ければそれで良い。あとは地上で面白おかしく生活しよう」ということです。たとえば、イエス様を信じて洗礼を受けました。「ハレルヤ!おめでとうございます!」しかし、もうそれっきり教会に来なくなってしまった。「洗礼を受けて、天国行きの切符をゲットしたので、もうイイヤ!」そういう人もいないわけではありません。洗礼を受けた人たちの半分は3年以内にいなくなるという統計が出ているそうです。確かに教会のフォローアップが足りなかったせいもあるでしょうが、伝えた福音に問題があるのかもしれません。なぜでしょう?何が問題なのでしょうか?キリストを信じるというのは、救い主としてだけではなく、人生の主として王様として信じる必要があるということです。救い主とは自分の罪を赦し天国に入れてくださる方です。そして、自分が困ったときに助けてくれる、そういうお方です。でも、それだけだと行き詰ります。相変わらず、人生の王様が自分だからです。イエス様は救い主だけではなく、自分が従うべき主人であり王様だということです。ヨハネ黙示録3:20は救いの時によく用いられるみことばです。イエス様が心の外でドアをたたいている。「そうですか?どうぞ私の心にお入りください」と願います。イエス様を受け入れる、すなわち信じることであります。でも、心の中のどこに座らせるのでしょうか。自分が王座に着いていて、イエス様を床に座らせるのでしょうか?本当はそうではなりません。イエス様をお客さんとしてではなく、私の王様としてお迎えし、自分の心の王座に座っていただくのです。そして、自分が王なるイエス様に従うのです。それが本当の信じ方なのです。

神の国とはどういう意味でしょうか?神の国とは、神の支配と言う意味でした。その国はイエス・キリストが王様として君臨するところです。その国の民となるとは、王なるキリストに従うということが条件付けられているのです。私たちは神の王国の民になるのですから、王様に従うのが当たり前なのです。コインには裏表があります。救いのコインがあるとしたら表面は「信じる」と書いてあります。そして、コインの裏側には「従う」と書いてあります。そうです、信じたら、従うのです。これはセットなのです。「信じますけど、従いません」という人は、神の国に住まうことはできません。福音書を見ますと、そういうお話がたくさん記されています。たとえば、取税人ザアカイはいつ救われたのでしょうか?イエス様が木の上に隠れていたザアカイに言いました。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」。ちょっとむちゃくちゃな話ではないでしょうか?ザアカイにだって都合があるでしょう?ザアカイはポケットから手帳を出して、「えーと、きょうは無理ですね。突然、お客さんを連れて行くと家内に叱られますから。えーと、火曜日は予定があるので、そうですねー、木曜日の午後でしたら空いていますよ。」このように答えたらどうなるでしょうか?イエス様は通り過ぎて、他のところに行ってしまいます。ザアカイは王なるイエス様の呼びかけに、「はい」と従って、木から下りたのです。そして、自分の家にイエス様をお招きしました。そのとき、ザアカイは救われたのです。イエス様の命令に従って、自分の家に招き入れた時に、彼は救われたのです。これが神の国に入るということなのです。

しかし、イエス様の招きに従わなかった人もいます。それは、富める青年です。彼はとっても真面目でした。彼は「何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受け取ることができるでしょうか?」とイエス様に聞きました。これは表現を変えると「何をしたら、神の国に入れますか?」ということなんです。イエス様は言われました「戒めはあなたもよく知っているはずです。姦淫するな、殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え」。すると若者は「そのようなことは、小さい時から守っております」と答えました。するとイエス様は言われました。「あなたには、まだ1つだけ欠けたところがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分け与えてやりなさい。…その上で私について来なさい」。すると彼は、これを聞いて非常に悲しんで、去って行ったと書いてあります。この後、イエス様は弟子たちに「裕福な者が神の国に入ることは、なんとむずかしいことでしょう」と言われました。もし、私が弟子のひとりだったなら、青年を追いかけて、このように言うかもしれません。「ちょっと、お待ちください。イエス様はあのようにおっしゃったけど、全部が無理であれば十分の一からでも良いんじゃないでしょうか?そのうち、信仰が増してきたら徐々に増やしていけばいいんじゃないでしょうか」。教会もお金持ちが来ると、教会の会計が潤うために、そのような態度を取るかもしれません。しかし、イエス様は後を追いかけませんでした。イエス様はご存知だったのです。彼は私よりも、財産(お金)を信頼しているということを。イエス様がそのとき、「私について来なさい」と言われました。そのとき、彼は従いませんでした。神の国とはこのようなものなのです。神様の招きに対して、「はい」と決断して従うものだけが入ることができるのです。厳密に言いますと、神の国は単なる招きではなく、命令であります。

4.神の国に生きる

2008年の秋、JCGI(教会成長研修所)が、インドネシアからエディレオ師を講師としてお招きしました。「現代の教会は何故、そんなに弱いのか?」ということをお話しました。それは教会が天国の福音しか伝えていないからだとおしゃいました。天国の福音とは、イエス様を信じたら天国に行けるという福音です。「ああ、私は救われた。もう天国行きが決まっているんだから、この先何をしても良いや!」と人々は勘違いします。教会は、救いとは天国に行くことだと教えています。もし、救いが天国に入ることだとしたらどうでしょうか?教会の半分は浸礼による洗礼です。水の中にどっぷり沈めるわけです。天国へ行ける一番良い方法は何でしょうか?「イエス様を信じますか?」「はい」と答えたら、5分くらいそのまま沈めておけば良いのです。目がさめたら、即天国です。ある人たちは「キリストを信じて天国に行ける」、これが救いだと思っています。確かにそれは救いではありますが、救いの全部ではありません。救いとは神の国に入ることであり、神の国の住民として生活するということです。そのとき重要なのは、イエス・キリストは救い主だけではなく、主であり王様であるということです。そのことが分からないと、私たちは自分勝手な生き方をして、罪の生活に逆戻りすることになります。ですから、私たちは神の国の福音を信じ、そして神の国で生きる必要があります。

では、私たちはどのようにして、神の国に生きるのでしょうか?イエス様は「悔い改めなさい、神の国は近づいたから」の直後にこのようなメッセージを語られました。マタイ419イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」「わたしについて来なさい」。これが神の国に生きるということです。「わたしについて来なさい」。王様について行く。毎日、毎日、ついて行く。神の国に生きるとは、イエス様について行くことなのです。私はこのことばは、12弟子たちに言っていることばだと思っていました。そうではありません。ルカ923イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」イエス様は「毎月ごとについて来なさい」と言われたのでしょうか?あるいはイエス様は「週ごとについて来なさい」と言われのでしょうか?「日々」です。日々とはどういうことでしょうか?24時間ということです。24時間、イエス様について行くのです。これが神の国で生きること人の行き方です。24時間、イエス様について行くというのは、単なる救いではありません。ライフスタイル、生き方であります。「主イエスと共に、歩きましょう、どこまでも。主イエスと共に、歩きましょう いつも」。神の国とはライフスタイル、イエス様に従っていく生活です。救われるとは、神の国に入るということです。しかし、それは概念ではなく、ライフスタイル、生き方です。私の人生の主であり、王であるイエス・キリストに従う、これが神の国の福音です。初代のクリスチャンはなぜ力があったのでしょうか?それはキリストを信じる、イコール、キリストに従うことであると理解していたからです。本日のメッセージをひとことでまとめたいと思います。救われるとは、神の国、神のご支配のもとに来るということです。そのためには、私たちは救い主キリストを信じるとともに、王なるキリストに従う必要があるのです。もし、あなたがそのようにして神の国の住民となるならば、神様はあなたに身分と権利を保証してくださいます。

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2010年1月10日 (日)

信じるだけで救われる    ヨハネ19:30、エペソ2:8

本日より48回かけて、「信仰の12のDNA」についてお話したいと思います。12のDNAで48回話すということは、1つのDNAに関して、4回ずつ話すということです。4×12=48です。ところで、DNA(デオキシリボ核酸)とは、細胞の核の中にある遺伝子であります。DNAは生命の設計図のようなもので、その中に、次の世代に伝えるためのあらゆる情報が記録されています。DNAは生命にとっても大事なものです。このDNAが正しくないと、癌など様々な病気にかかってしまいます。では、「信仰のDNA」とは何でしょうか?当亀有教会の教会員が持つべき、また次の世代に伝えるべき信仰の核となるものであります。だれが選んだのか?牧師である私が選んだものであります。一見、独断にも取れますが?神の教会に属している私たちへの、聖霊の導きであると捉えていただければ幸いです。12のうちの、第一のDNAは「救い」に関することであります。救いとは、何なのかということをお話したいと思います。きょうは、その中の「信じるだけで救われる」というテーマでメッセージさせていただきます。ちなみに、参考図書は高木慶太著の『信じるだけで救われる』です。

1.私たちの生まれつきの状態

 私たちには罪があります。それは、アダムによって負わされた罪です。アダムが罪を犯したとき、彼は全人類の代表として行動していました。アダムが神に逆らって罪を犯したために、その罪が全人類に及んだのです。ローマ518,19「ひとりの人の違反によってすべての人が罪に定められた。ひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされた」と書いてあります。「なんで私が罪人に加えられたのか?」と文句を言いたくなるでしょう?それはたとえて言うと、連帯責任であります。アダムは人類の長であったので、アダムが犯した罪を、全人類が負うはめになったのです。アダムによって、罪が入り、死が入りました。水源に死の毒が入れられたため、その下流にいるものも死の毒によってやられるのと同じです。私たちは生まれながらにして、罪を犯す種を宿しているのです。これを原罪と言います。三浦綾子さんが『氷点』という小説を書き、大ヒットしましたが、原罪がテーマであります。私は氷点よりも、笑点が好きなのであります。そして、もう1つは私たちが実際に犯す個々の罪があります。確かに私たちは罪の性質を宿していますが、それを自分の意思と選択によって、罪を犯すのです。もちろん、過失もありますし、知らないで犯す罪もあります。私たちは日々、死ぬまで、罪を犯して生きているのです。ローマ323「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない」と書いてあります。ですから、私たちは神様に受け入れられる義(正しさ)がありません。たとえば、一生のうちで1つも罪を犯したことがないという人がいたとします。その人は人間の義(ただしさ)があると言って良いでしょう。でも、神の義と人間の義は、太陽の光と月の光ほどの違いがあります。アダムから生まれた者は、だれ一人として神の義に達することができないのです。

高木慶太先生は、「生まれつきの私たちは罪の奴隷市場に売られている存在である」と言っています。ギリシャやローマの時代は奴隷が物のように売り買いされていました。鉄格子の中に入られ、手には手かせ、足には足かせが掛けられています。「何を言うんだ、俺は罪の奴隷じゃない!」と反対する人に伺いたいと思います。あなたは自分の思ったとおり生きることができるでしょうか?「正しいと思うことを行ない、悪いと思うことはしない」ということがおできになるでしょうか?たとえば、たばこのパッケージに「健康を害することがあります」とはっきり明記されています。たばこを吸うと肺がんや脳卒中などになる確率が4,5倍上がるそうです。なのに、ある人たちはやめられません。たばこだけではありません。ゲームやギャンブル、アルコール、買い物中毒があります。また、悪いことば、憎しみ、怒り、妬み、汚れた思い、これはみんな罪ですが、自分でコントロールできるでしょうか?「いや、私はいたって真面目です。そんなことはしませんよ」と言う人がいるかもしれません。使徒パウロという人はとっても真面目な人でした。神様の戒めを厳格に守るパリサイ派の学者でした。でも、彼は自分の内面をこのように描写しています。ローマ715「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。」私たちは、本来なら隣人を愛すべきなのに愛することができないことが良くあります。明らかなに良くないのに、集団の利益のためには、嘘や不正にも目をつぶります。特に日本人は、個人の場合は「人が見ているから」と道徳的なことを行なうようにします。しかし、会社とか政治など、何らかの組織になると良心が麻痺してしまいます。「まあ、人間のやることだからしょうがない。迷惑をかけなければ…」とそれでも言い逃れする人がいるかもしれません。でも、すべての罪は創造主なる神様のもとでなされているのです。私たちは神様の前で、すべての罪に対して、申し開きをしなければなりません。聖書には「罪の報酬は死(永遠の死とさばき)である」とはっきり書いています。義なる神様は、決して罪と妥協したり、罪を大目に見たりすることはなさいません。すべての人は罪の中にあります。だれが、一体、罪に対するさばきから、逃れることができるでしょうか?

2.神様のみわざ

 奴隷を自由放免にすることができるのは自由人だけです。ところが、イエス・キリストだけは、その資格をもった唯一の方でした。なぜなら、キリストのみが奴隷市場の外に生まれた人間だったからです。キリストは聖霊によっておとめマリヤから生まれました。そのため、アダムから負わされていた罪も罪の性質も持っておられませんでした。さらにその生涯において、一度も罪を犯されたことがなく、父なる神様に完全に従われました。だから、イエス・キリストだけが、人類の身代わりになる唯一の資格を持った方でした。今、「身代わり」と言いましたが、父なる神様は、人類の罪を御子イエスに負わせ、御子イエスを代わりに罰したのです。歴史的にはイエス・キリストはローマに反逆したかどで、十字架に付けられたことになっています。しかし、聖書には、イエス・キリストが十字架に付けられたのは、私たちの罪のためであったと書いてあります。本来、私たちが自分の犯した罪によってさばかれて地獄に落とされるのが運命でした。しかし、御子イエス様が私たちの罪を負ってくださり、私たちの代わりに裁かれ、地獄に落とされたのです。このことを神学的なことばでは「贖い」と言います。「贖う」はギリシャ語ではアゴラゾーと言いますが、「買う」とか「代価を払う」という意味があります。しかし、正確なニュアンスは、「奴隷市場の中で、奴隷の代価を払う」というのが本当です。さきほどの話に戻りますが、私たちは生まれたときから、罪の奴隷市場に売られていた存在でした。本来、私たちは神様から創造されたものであり、神の子としての生き方ができるのですが、私たちの正しい身分をだれも教えてくれませんでした。罪の中にいた私たちを、サタンがだまし、恐れさせ、命を奪おうとしていたのです。しかし、イエス・キリストは私たちを解放するために、ご自分の命を投げ出してくださいました。イエス様はご自分の命によって、私たちを買い戻してくださったのです。イエス様は十字架の上で「すべてが完了した(テテレスタイ)」と叫ばれました。テテレスタイはギリシャ語で「すべてを完済した、すべてを支払った」という商業用語です。まさしく、イエス様は、まだ罪の奴隷市場の中にいるすべての人々のために、代価を払ってくださったのです。

 奴隷市場から出るにはどうしたら良いのでしょうか?キリストがすべての人の罪の代価を支払われたといっても、すべての人が奴隷市場から自由にされたわけではありません。キリストを救い主として信じて受け入れて初めて、人は救われるのです。でも、私たちが信じて救われる前に、もう1つ重要なことがあります。それは「和解」ということばです。和解とはギリシャ語でカタラッソーですが、「取り替える」とか「変わる」という意味があります。神様は決して変わらないお方ですが、神様の罪人に対する見方を変えたのです。イエス・キリストが人類の罪の代価を支払うためにご自分の命を捨てました。そのとき、神様が持っておられた義の要求と律法の要求が満たされたのです。つまり、それまでは神様が持っておられた人類に対する怒りがなだめられたのです。キリストの十字架のゆえに、神様はもう怒ってはおられません。その代わりに、和解の手を差し伸べておられるのです。神様はキリストの十字架によって、神の前における人間の立場を変えてくださいました。私たちはキリストにあってもはや、呪いのもとにあるアダムの末裔ではないのです。Ⅱコリント5:14,17「ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。…だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」アーメン。キリストを通して人々を見るとき、その人たちは単なる罪人ではありません。キリストがすでに代価を払ったので、その人も救いの候補者であるということです。パウロはこのように述べています。Ⅱコリント5:19,20「 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。…ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」神様がパウロを通して、「どうかキリストを信じてください」と、懇願しているのです。あの神様が、「どうか、信じて救われてください」と和解の手を差し伸べて懇願しているのです。なんということでしょうか!

3.信じる

 キリストは十字架によって人間の罪の問題を解決してくださいました。神様は、私たちをもう罪人として取り扱っていません。「どうか、信じて救われてください」と和解の手を差し伸べて懇願しています。私たちはどうすれば良いのでしょうか?キリストが代価を支払われたにも関わらず、ずっと奴隷市場の中にいることも可能です。サタンは「あんなの嘘っぱちさ。あんなの作り話だよ。この中で、飲んで、食べて、楽しく暮らそう。死んだら何もなくなるんだ。もしかしたら、別のものに生まれ変わるかもしれない。日本人には日本人の宗教があるんだ。お前だけ外国の宗教を信じたら村八分だぞ!家族や親戚からも捨てられるぞ」と言います。ヨハネ10:10 「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」。サタンは、盗み、殺し、滅ぼすだけですが、イエス・キリストは羊がいのちを得、またそれを豊かに与えることのできるお方です。私たちは決断しなければなりません。もう一度、言います。罪の問題はキリストの十字架で解決済みです。人間に必要なのは「罪をどうするかではなく、救い主をどうするか」ということです。神様から和解の手が私たちに差し伸べられています。「どうか、信じて救われてください」と和解の手を差し伸べて懇願しておられるのです。私たちは手を払いながら、「いいえ結構です。そんなの、いりません」と断ることもできます。あるいは「ありがとうございます。イエス・キリストを救い主として信じます」と神からの和解を受け入れることもできます。ヨハネ3:18「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」とあります。このみことばからも分かるように、罪を負われた救い主を信じるか信じないかが、最終的に永遠の滅びに至るか、あるいは永遠のいのちに至るかを決めるのです。

 信じるということを神学的に説明するとかえってわかりにくくなります。「信じるとは何か。何を信じるのか?」と、詳しい説明をうけてから信じた人は稀でしょう。信じたあとで、「信じるとはこういうことなんですよ」と説明を受けたのではないでしょうか?でも、きょうは少しだけ「信じるとはどういうことなのか」説明したいと思います。信じるということにはいつつかの要素が重なっています。第一は知的に同意するということです。「神様はおられる?私たちは生まれつき罪人である。キリストが十字架で私のために死なれたんだ」ということを知的に同意しなければなりません。第二はそのことを受け取ることが必要です。救いに関することはすべて完了しています。神様はその救いを私たちに与えたいと願っておられます。私たちがすべきことは、救いという神様からのプレゼントを受け取るということです。幼子のようになって「はい、いただきます」ともらえば良いのです。救いはただなんです。イエス様は「飲みなさい」とか「食べなさい」と言われました。だから、それを受け取れば良いのです。第三は、信じるというのはキリストを受け入れるということです。ヨハネ1:12「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」このみことばにも、受け入れることが、信じるということと同意語になっています。救い主キリストを心の中に受け入れる、これが信じるということです。第四は信頼する、身をゆだねるということです。知的にだけではなく、自分の全存在をかけるということです。みなさんは、今、自分の体の体重をその椅子にかけています。椅子は壊れないと信じているからです。同じように、信じるとはイエス・キリストは信頼に値するお方であり、この方に私の人生をゆだねますということなのです。

昔、曲芸師がナイヤガラにロープを張ってその上を渡ったそうです。両岸にいる人たちはみんな賞賛しました。その次に、60キログラムの荷物を背負って渡りました。みんな「すごい!」と賞賛しました。曲芸師はみんなに「私が60キロの荷物を背負って渡れたのですから、人間を背負って渡ることができるでしょうか?」と聞きました。みんなは「それはできるだろう!」と言いました。曲芸師はできると言った人たちに「じゃあ、あなたを背負って渡りましょう!」と言ったら、「いえ、結構です」とみんな断ったそうです。一人の少年が前に進み出て「私が乗りましょう」と言ったそうです。曲芸師はその少年を背負って、向こう岸へと渡りました。みなさん、これが信仰です。イエス様は私たちが信じるに値するお方です。私たちの信仰が「どうかな?」という部分があったとしても、イエス様の信仰、イエス様の真実が私たちを救うのです。

4.信じるだけで救われる

でも、最後に申し上げたいことがあります。それは「信じるだけで救われる」ということです。「今さら何を?」と言われるでしょうか?でも、キリスト教会は聖書がそういっているにも関わらず、いろんなものをプラスしてきました。つまり、神様が完成した救いに対して、よけいなものを付け加えて、福音を台無しにしてしまったということです。でも、悪気でやっているのではありません。「良かれ」と思ってしてきたことです。では、キリスト教会は信仰の他に何を加えたのでしょうか?「今まで行なってきた罪を1つ1つ悔い改めなさい。罪の悔い改めをしなければ救いを得ることはできません」と言います。ある教会では牧師の前で罪を告白するところもあるようです。しかし、救いに関する、「悔い改め」とは「これまで神様にそむいてきましたが、これからは神様の方に向きを変えます」ということなのです。イエス様を信じない人生から、イエス様を信じる人生へと方向転換するということです。もちろん、個々の罪を悔い改めることも重要です。しかし、それは救われて罪が何なのかわかったクリスチャンに対しての命令であります。Ⅰヨハネ1:9「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」と言う有名なみことがあります。ある教会は、これを救いのみことばにしています。私は小学生のキャンプで、5年生のカウンセリングをしたことがあります。彼はクリスチャンホームの子どもで、イエス様を信じていました。でも、その教会の日曜学校の先生は何と言ったでしょう。「あの子は、まだ悔い改めが徹底していない」と言いました。私はびっくりしました。そして、キャンプファイヤーの前で、多くの子どもたちが、「私はⅠヨハネ1:9のみことばで救われました」と証をしていました。しかし、ヨハネ第一の手紙は、救われてクリスチャンになった人たちに対する手紙です。罪を悔い改めるのは、新しく生まれて、罪が本当に分かった後に可能なのです。救われるときの悔い改めは、「私は神様の前で罪人でした。救いを得るために、救い主キリストが必要です」と方向転換することなのです。罪の悔い改めは救いの条件ではありません。人は信じるだけで救われるのです。

他に、「罪を犯したところに行って謝ってきなさい。キセルをしたことがあるなら、駅に行ってお金を払ってきなさい。盗んだものは返しなさい」と言う教会もあります。確かに、罪を償ったり、弁償することは大切です。でも、それは救いの条件ではありません。救われた結果、「そうすべきだ」と神様から示されたらそうすれば良いのです。ザアカイもイエス様から言われたそうしたのではなく、救われた喜びのゆえに「4倍にして返します」と言ったのです。あるいは、「今まで犯した罪から離れなさい。それらの罪を捨て去りなさい。酒もタバコもやめなさい」という教会もあります。私たちは罪を犯したまま、罪があるままでも救われるのです。十字架の片方の犯罪人がそうでした。彼は両手両足を釘づけされ何もできない状態でした。でも、イエス様を信じてその場で救われました。罪から離れることは、救われて霊的に生まれ変わった後、神の恵みによって可能なのです。あるいは、「聖書を全巻読み、教理問答書を学びましょう」という教会もあります。洗礼準備会で教理や聖書の学びをするのは良いことだと思います。でも、聖書を勉強することを救いの条件にしてはいけません。聖書を読んだことのない3歳の子どもでも、イエス様を信じることは可能です。あるいは、「父も母も富も捨てて、キリストの弟子にならなければなりません」という教会もあります。アッシジのフランチェスコがそうでした。聖書の「富める若者」のように、それらが救いを得るために妨げになるのであれば捨てるべきです。でも、父も母も富も捨てなければ救われないということはありません。何よりも、人が救われて新しく生まれかわることが先決です。罪を捨てる、悔い改めの実を結ぶ、聖書を勉強する、キリストの弟子として献身する、これらのことは、キリストを信じてから、神の恵みによって可能になるのです。人が救われるのは信仰のみによるのです。行ないを、キリストを信じる条件に何1つ加えてはいけません。エペソ2:8,9「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」

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2010年1月 3日 (日)

御霊の祈り      エペソ6:18-24

 新年おめでとうございます。多くの人たちがこの三が日、偶像の神様に祈り求めていると思います。しかし、その祈りは残念ながらまことの神様には届きません。なぜ届かないのでしょうか?3つの理由があります。第一は祈りの対象です。祈りは父なる神様に祈るということです。この世の人たちは、どの神様なのか分からないで祈っています。私たちが祈るべき対象は、天と地を作られた父なる神様であります。第二は祈りの仲介者です。父なる神様は罪人の祈りを聞く理由はありません。私たちの罪を贖われたイエス・キリストの御名だけが父なる神様に届けることができるのです。イエス様のお名前は、小切手のサインみたいなものであります。父なる神様は、御子イエスのサインを見て、「OK!与えましょう」と言われるのです。第三は祈りの導き手です。多くの人たちは自分の思いや欲望が満たされるために祈ります。でも、御霊によって祈るとは、御霊が導いてくださるように祈るということです。御霊は「あなたはこれを神様に求めなさい」と私たちに教えてくださるからです。エペソ6:18「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい」と書いてあります。日本語の聖書を見ますと、すべての祈りのほかに、御霊の祈りがあるかのように書いています。しかし、原文はそうではありません。「すべての祈りと願いを御霊によって祈りなさい」というのが本当です。つまり、どんな祈りでも、御霊に導かれ、御霊の助けをいただきながら祈りなさいということなのです。ここに「すべての(あらゆる)祈り」と書いてありますが、どのような祈りがあるのでしょうか?今朝は、1つ1つ取り上げながら学びたいと思います。

1.交わりの祈り

 祈りとは父なる神様と交わることです。子どもがお父さんに話しかけるように、私たちは天の父に話しかけことができます。これは、義務ではなく、すばらしい特権であります。祈りは「お勤め」ではありません。新興宗教の人たちが「お勤め」と言ったならば、祈ることであります。彼らは朝早くから何時間も祈ります。私たちよりも熱心かもしれません。でも、「お勤め」であったならば、「イヤイヤながら義務的に」という感じがします。たとえば私が父なる神様に1時間に祈ったとします。そのとき「ああ、やったなー。私は頑張って、神様に一時間も祈ることができた。ハレルヤ!」と言ったとします。しかし、それはどこかが間違っています。たとえば、私たちが好きな人(恋人)と会話をするとき、義務的にそれをするのでしょうか?「私は頑張って、あなたと1時間も話すことができました。たいしたもんでしょう」と言ったとします。その人はどう答えるでしょうか?「あなたは私とお話することが、それほど苦痛なのですか?さようなら」と言われるでしょう。Ⅰテサロニケ5:17「絶えず祈りなさい」と書いてあります。「絶えず」とはどういう意味でしょうか?「休まないで」と言う意味であります。絶えず、休まないで祈る方法があるでしょうか?もし、私たちが椅子に座って、目をつぶりお祈りするならば、他に何もできません。仕事もしなければならないし、人と話したり、買い物や家事もあるでしょう。それでは。絶えず、休まないで祈ることはできません。しかし、交わりの祈りは車を運転しながらも可能です。人と会話をしながら「ああ、主よ、この人の問題は何でしょうか?」と祈ることができます。勉強しているときも「ああ、私に理解力を与えてください。これはどういう意味なのでしょう?」と祈ることができます。交わりの祈りは、声を出しても良いし、心の中でも可能です。自分の思いを神様に告げ、そして、「神様、あなたはどうお考えでしょうか?」と尋ねます。おそらく、神様はあなたの心の中に「○○ですよ」とお語りくださるでしょう。もちろん、びしっとした姿勢をとって祈りをささげるときも必要です。でも、そればかりが祈りではありません。何かをしながら、あるいは何かの合間にでも、神様と交わることは可能です。どうぞ、この交わりの祈りを身につけましょう。

2.嘆願の祈り

 エペソ6:18「すべての祈りと願いを用いて」あります。「願い」とは、嘆願であり、求める祈りです。マタイ7:7「求めなさい。そうすれば与えられます」と書いてあります。また、ヨハネ14:14「あなたがたが、私の名によって何かを私に求めるなら、私はそれをしましょう」とあります。P.Cネルソンは、有名なギリシャ語の学者ですが、イエス様が言われたギリシャ語の直訳はこうであると言われました。「もしあなたが私の名によって何かを求めて、私がそれを持っていないとしたら、私はあなたのためにそれを作りましょう」。しかも、この14節の「求める」は「要求する」と訳しても可能な言葉です。私たちは「神様にそんなことを求めて良いのだろか?」と遠慮してしまいます。しかし、子どもが父親に願う願いというのは、どのくらい丁寧でしょうか?「パパ、これ買って」であります。ものすごくぶっきらぼうです。ま、相手が神様ですから、それほどぶっきらぼうでは困りますが、大胆に求めても良いのではないでしょうか?イエス様から「私の名によって何かを求めて、私がそれを持っていないとしたら、私はあなたのためにそれを作りましょう」と言われたとしたら、すごいことです。イエス様は、結婚前の兄弟姉妹に、お婿さんもお嫁さんも作ってくれるでしょう。ただし、多くのクリスチャンは嘆願の祈りを誤解しています。「あなたのみこころならば」という言葉を付け加えたりします。「みこころならば、どうぞ癒してください」「みこころならば、どうぞ与えてください」。これは一見、敬虔そうな祈りですが、本当は不信仰の祈りです。祈りは叶えられるという確信を持って祈らなければなりません。みこころが分からなければ、みこころが分かるまで祈るのです。そして、一旦、求める祈りをするならば、与えられたと信じて祈るのです。それ以外の祈りはきかれません。また、ただ漠然と求める祈りもきかれません。お父さんと子どもがおもちゃ屋に行ったとします。子どもは「おもちゃ買って!」と願ったとします。お父さんは「どのおもちゃを買って欲しいの?」と聞くでしょう。そのとき、子どもが「パパ、知っているでしょう?あれよ、あれ!」と目配せしたらどうなるでしょうか?「ああ、あまり欲しくないんだな。帰ろう」と言うでしょう。父なる神様は、はっきりと具体的に求めてもらいたいのです。そして、あなたが喜ぶ顔を見たいのです。

3.とりなしの祈り

 エペソ6:18後半、19「そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽し、また祈りなさい。また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。」これはとりなしの祈りの要請です。使徒パウロは、「すべての聖徒たちのため、そして私のために祈ってくれ」とお願しています。なぜ、とりなしの祈りが必要なのでしょうか?1つはその人が祈っていないか、祈れない状態にあるときです。私たちがその人の代わりに信仰をもって神様に祈るということです。大体、未信者は神様に祈りません。すると、私たちは未信者の家族や友人のために祈る必要があります。また、霊的戦いのために、祈りの援護をする必要があります。その人が主の働きをしていて、とても困難な状況にあるとします。御霊は私たちに「今、あの人が困難に会っているので祈れ!」と命じられることがあります。とりなしの祈りを専門にしている人は、夜中の2時でも3時でも起きて、「はい」とお祈りするそうです。私はこの点、ちょっと弱いなーと思います。でも、祈りの課題が示されたら祈るようにはしています。創世記18章で、主はアブラハムに「ソドムとゴモラの罪はきわめて重い」と告げました。そのとき、アブラハムはその町の中に50人の正しい人がいたら滅ぼさないでくださいと願いました。しかし、だんだん不安になり、45人、30人、20人、いや、正しい人が10人いたら滅ぼさないでくださいと食い下がりました。残念ながら、ソドムとゴモラは硫黄の火によって滅ぼされました。しかし、主はアブラハムの祈りをきかれ、ロトとその家族を救い出そうとされました。神様は「私のためにだれかとりなしてくれるだろうか?」と探しておられます。モーセも、うなじのこわいイスラエルの民のために、身を呈して度々、祈りました。とりなしの祈りは、霊的戦いのためにとても重要です。前回は、神の武具が6つあるとお話しました。ところが、もう1つ神の秘密兵器がありました。それは祈りであります。祈りは、悪魔の要塞を破壊する、誘導ミサイルであります。あるおばあちゃんが「私はお掃除も、奉仕もできません。ただ、祈ることしかできません」と言ったそうです。それは「私には拳銃も機関銃もありません。ただ、ミサイルしかありません」と言っていることと同じなのです。悪魔が最も恐がるのは、聖徒の祈りです。祈りこそが、悪魔の策略を妨げ、また要塞を破壊する最も大きな力なのです。

4.合同の祈り

 これは心を合わせる祈りです。祈りは個人的に神様に捧げるものですが、イエス様は、「心を合わせて祈りなさい」とも教えられました。マタイ18:19「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」アーメン。教会において兄弟姉妹が、あるいは家庭において夫婦が心を一つにして祈るならば、神様はどんなことでもかなえてくださると約束しておられます。なんとすごいことでしょう。私たちはこれを額面通りとらえて、共に祈るべきであります。ある夫婦が早天祈祷会に出かけ、それぞれ、熱心に1時間祈りました。しかし、家庭では夫婦の意見が合わず、しょっちゅう喧嘩をしていたそうです。子どものことや信仰のことでさえも喧嘩をしていました。牧師が、そのご夫婦に「あなたがたは心を合わせて祈っていますか?」と聞いたそうです。「いいえ、私たちはそれぞれディボーションを守って、早天祈祷会でも祈っていますよ」と答えました。「そういうことじゃなくて、一緒に祈っていますか?」と聞いたら、「いいえ、祈っていません」と答えたそうです。先生は、「では、一日、10分でも良いですから一緒に祈ってごらんなさい」と言いました。二人がそれを実行すると、とても仲良くなったそうです。また、初代教会ではしばしば、ともに集まり合同の祈りをささげました。使徒4章に書いてありますが、教会に対して大きな迫害が起こりました。そのとき、彼らは心を合わせて祈りました。使徒4:29-31「『主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください。』彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。」アーメン。おそらく、彼らは声を出して、「わー」と同じ課題について祈ったと思います。すると、の集まっていた場所が震い動き、同は聖霊に満たされたのです。すごいですねー。こういう経験をしたいですね。礼拝の中でも共に祈るときがあります。どうぞ、そのときには、黙祷ではなく、言葉に出して祈りましょう。隣の人の声がうるさくて集中できなければ、もっと大きな声を出して祈りましょう。あなたがもっと大きな声を出すなら、隣の人の声がかき消すことができるからです。すると隣の人は、あなたの声がじゃまになるので、もっと大きな声で祈るでしょう。すると、あなたも負けじと、もっと大きな声で祈れば良いのです。私は、祈りは上品な祈りでなくて良いと思います。祈りは本心をまるごと、神様にぶつける行為です。周りの人を気にせず、ヤコブのように「祝福してくださらなければ離しません!」と求めるのです。神様は耳が聞こえないのではありません。私たちの祈りが、心からの真剣な祈りなのかどうか知りたいのです。

5.異言の祈り

 ペンテコステ・カリスマの人たちは、御霊の祈りとは異言で祈ることだと主張します。その根拠はどこにあるのでしょうか?ローマ8:26「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」御霊こそが神のみこころを最もよくご存知です。ですから、私たちの知性で祈ることが出来ない場合、御霊自ら深いうめきをもってとりなしてくださる、それが異言だということです。使徒パウロもⅠコリント14章で、「私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう」と言っています。そして、異言の祈りは、個人の徳が高められるとも書いてあります。私はよくこのたとえで説明します。私たちは電話で多くのことをやりとりできます。でも、複雑な地図とか表を電話では説明できません。そのとき、ファックスがあればもっと便利です。「ヒュー、ヒョロヒョロヒョロヒュー」と音がして、相手先にデーターを送ることができます。私たちは知性でどう祈ったら良いか分からない場合がたくさんあります。ことばでは何と言ったら良いか分からないのです。そのとき、異言で神様に祈るのです。そうすると自分ではよく分からなくても、御霊ご自身が神様に一番的確な祈りをしてくださるのです。私は寝ているとき、異言で祈っている場合があります。途中、目をさまして、しばらく続けます。でも、意識がはっきりしてくると異言も止んでしまいます。私の中に、まだ、異言の賜物が開かれていないのではないかと思います。なぜなら、私は、異言をオプション(自由選択)にしているからかもしれません。もっと、異言のすばらしさを体験したならば、みなさんにも「ぜひ、求めてください」と強調するかもしれません。でも、みなさん、父なる神様に心を開いてください。神様は良き神様です。くれるという霊的賜物があるならば、なんでも喜んでいただきましょう。異言の祈りも、神様と交わるすばらしい祈りです。なぜなら、それによって自分の徳が高まって、キリストに似た者となることができるからです。でも、このような公けの礼拝のときは、お控え遊ばしてください。ぜひ、個人で、あるいはセル・グループでなさるようにお勧めいたします。

6.礼拝の祈り

 最後は礼拝の祈りです。これは神様をあがめる祈りですから、賛美の祈り、感謝の祈りと言っても良いかもしれません。もし、私たちが神様に自分の願いを求めるためだけに祈るとしたならば、なんと悲しいでしょうか?もし、人と会ったり、人から電話がくるとき、願い事ばかり聞かされたらイヤになるんじゃないでしょうか?そのとき、「あのときはありがとうございました。おかげてこのようになりました。感謝します」と言われたら嬉しくなるでしょう。神からの被造物であり、神から贖われた者がしなければならないことは、神への礼拝であります。礼拝と言っても、このような公なものばかりが礼拝ではありません。個人的に、神様に感謝をささげたり、神様をほめたたえること、これが礼拝であります。私は毎朝、散歩をしていますが、そのとき、「ああ、神様、あなたにあってとても平安です。私を救ってくださって本当にありがとうございます。イエス様を信じて人生が変わりました。ハレルヤ!本当に良かったです!」。このような短い、祈りを一日、何度でも捧げることができます。パウロはエペソ5章で、「御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」と命じています。私たちが御霊に満たされることと、賛美したり、主をあがめることと深い関係があるようです。賛美したら聖霊に満たされるのか?それとも聖霊に満たされた結果、賛美するのか?私は「両方あり」だと思います。みなさん賛美とはどういう意味でしょうか?英語には賛美というといろんな言葉があります。「高める」「拡大する」「価値あるものとする」という意味のことばもあります。私たちが神様を賛美し、礼拝するとは、神様を高めるということなんです。そうすると私たちはどうなるんでしょうか?私たちも神様と一緒に高くなるのです。私たちが主の御名を拡大するとどうなるでしょうか?すると、主の御名が、私たちが住む地上において拡大していくのです。主の働きが拡大され、御国(領土)が広がるのです。その結果、私たちの地境も一緒に広がるとしたらどうでしょうか?神様を非常に価値のあるものとして認めるならば、どうなるでしょうか?私たちも一緒にプレシャス、価値あるものとみなされるということです。ですから、賛美と感謝と礼拝は、私たちがささげる祈りの中では最高のものだということです。私はこの祈りを交わりの祈りのとき、嘆願の祈りのとき、とりなしの祈りのとき、合同の祈りのとき、異言の祈りのときも加えるべきであります。この礼拝の祈りは単独というよりも、どのような種類の祈りの中にも加えることが可能であり、また加えるべきなのです。自分が病気のときも礼拝の祈りをささげましょう。困難の真中にいるときも礼拝の祈りをささげましょう。もちろん、幸福の中にいるときも礼拝の祈りをささげましょう。そして、この世を去るとき、最後の一息しかできないときも、「ハレルヤ!感謝します」と礼拝の祈りをささげましょう。礼拝の祈りこそが、悪魔の策略を妨げ、困難な問題を解決し、さまざまな病の癒しを与える大きな力なのです。だから、ダビデは詩篇でたくさんそのような祈りをささげているのです。「わが魂よ、主をほめよ!ハレルヤ!主の御名をほめたたえよ」と。アーメン。

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