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2010年1月17日 (日)

神の国の福音      マルコ1:14:15、マタイ11:12

世の人々は「神の国」という概念がありません。また、ユダヤ人は神の御名をみだりにとなえないために神の国を天国と読み替えました。そのため人々は、天国を「天にある国」ととらえ、人が死んだ後に行く、極楽みたいなところと考えています。日本においても、だれかが死ぬと「天国に行った」と普通に言います。残念ですが、だれでも天国に行けるわけではありません。また、クリスチャンでも、「神の国」あるいは「天国」を精神的なものとしか捉えていない人がいます。そのため、神の国は何かということを理解することはとても重要です。きょうは、神の国の福音と題してメッセージさせていただきます。

1.福音とは何か?

まず、福音とは何でしょうか?福音とは良い知らせ、グッド・ニュースです。でも、もとになっているギリシャ語はちょっと違います。福音はギリシャ語でエゥワンゲリオンと言いますが、これはどんなときに用いられたのでしょうか?ギリシャ時代は近隣諸国との戦争が常にありました。戦争で負けたら町は略奪され、殺されるか奴隷になるしかありません。しかし、勝つと領土も広がり、戦利品を分け合うことができます。町に残っている人たちは、戦争の勝ち負けの知らせを待ち望んでいました。もし、わが軍が負けたならば、敵が襲ってくる前に、逃げなければならないからです。そのとき、戦地から伝令者が持ってくる勝利の知らせこそが、エゥワンゲリオン(良い知らせ)という意味なのであります。昔、マラトンの戦いというギリシャとペルシャとの戦争がありました。アテネではこのとき、抗戦派と降伏派とが争い、一触即発の大変な危機にありました。そのとき、ひとりの伝令者が戦地から息を切らして走ってきました。「私たちは勝利した!」と告げた後、彼は絶命しました。彼が走った距離が約41キロメートルであり、これが現在のマラソンの由来になりました。戦争に勝ったという「良い知らせ」が、キリスト教会で何故、福音と呼ばれるのでしょうか?

マルコ1:1 「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」。マルコ1:14「ヨハネが捕らえられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。『時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。』」イエス・キリストの中心的な教えは、神の国でした。「神の国はどのようなものなのか?」「神の国に入るにはどうしたら良いのか?」「神の国はどのように来るのか?」「神の国の律法とは何か?」つまり、イエス・キリストは単なる福音を伝えたのではなく、神の国の福音を伝えたのです。ここでまた問題になるのが「神の国とは何か?」ということです。ギリシャ語で神の国はバシレイアと言いますが、国というよりも、王権、支配、統治という意味合いがあります。クリスチャンになるとは、神様のご支配のもとに来るということです。そして、神の国の王様は、イエス・キリストです。ですから、福音を信じるとは、王なるキリストのご支配のもとに来るということなんであります。問題は、神の国が一体どこにあるかということです。残念ながら、神の国は現在、見ることができません。王国に必要なものが3つあります。まず、王様による支配です。その次は民(臣民)、そして領土が必要です。王、民、領土、この3つが揃っていなければ王国とは言えません。では、「福音のはじめ」とは何でしょうか?キリストによって王的な支配がやって来たということです。しかし、そこに住むべき民がいません。それで、神様はキリストの贖いを受けて、王国の民になるように招いておられるのです。では、領土はどうでしょうか?今は見えませんが、やがてこの世が終るときに、御国が訪れます。それは1000年王国とも呼ばれています。キリストにあって死んだ者たちが、復活し、地上のすべてのものが回復されます。イザヤ35章に「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う」とあります。その後、新しい天と新しい地がやってきます。そこで、とても重要なことが1つあります。未来の神の国という領域に入るためには、人は今この世において、完全な信頼をもって神の支配に自分をゆだねなくてはならないのです。神の国とは神の支配です。救いとは、神の支配に自分の身をゆだねるということなのです。そうするなら、あなたは神の国籍を持つ者となり、神の国の民として永遠に住まうことができるのです。ハレルヤ!

2.神の国への招待

最初に神の国の福音を伝えたのはイエス様ではありません。バプテスマのヨハネでした。マタイによる福音書3章を見ますと「バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから』」と書いてあります。いつから、人々は神の国に入ることができるようになったのでしょうか?キリストが十字架で死んで復活してからでしょうか?多くの人たちはそう考えますが、そうではありません。バプテスマのヨハネが神の国の福音を宣べ伝えた時からであります。人々が神の国の福音を聞いて、「ああ、私も神の国に入りたい」と求めたときに、彼らは救われ、神の国に入ることができたのです。マタイ11:12「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」もう一箇所、マタイ21:31,32「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。」アーメン。福音を宣べ伝え始めた頃は、イエス様の死も復活もありませんでした。それでは何が福音だったのでしょうか?それは「神の国は近づきました。神の招きに答えて、あなたもお入りください」ということです。そのとき、「激しく攻める者たち」と人々から揶揄されていた、取税人や遊女たちがいち早く信じて、神の国に入ったのです。まるでバーゲンセールのデバートみたいです。開店と同時に、目指す商品に突進するオバタリアンです。神の国は最も価値のあるバーゲンセールであります。神の国への招待は、最初イスラエル(ユダヤ人)に向けられました。しかし、彼らはそれを拒否しました。イエス様も弟子たちを伝道旅行に遣わしたとき、このように言われました。マタイ10:5-7イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町に入ってはいけません。イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい。行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。」イエス様のご計画は、まず、イスラエルの民が回復されることでした。しかし、彼らは神の国もメシヤも拒絶しました。なぜでしょう?彼らが考えていた神の国ではなかったからです。そして、神の国は彼らから取り上げられ、異邦人へと向けらたです。

 マタイ22章にこのようなたとえ話が記されています。ある王様が王子のために結婚の披露宴を設けました。王様は招待しておいたお客に、しもべたちを遣わしましたが、来たがりませんでした。それで、直前になってもう一度、このように言いなさいと、別のしもべたちを遣わしました。「さあ、食事の用意が何もかも整いました。どうぞ、宴会にお出かけください」。ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまいました。王様は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、町を焼き払いました。このことは、西暦70年、エルサレムがローマによって滅ぼされるという預言です。それから、王様はしもべたちに「宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちはふさわしくなかった。だから大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。これは、救いがイスラエル(ユダヤ人)から異邦人に向けられたことを語っています。宴会場は客でいっぱいになりました。ところが、礼服を着ないで席についている人がいました。王様はしもべたちに、「あれの手足を縛って外の暗やみに放り出せ」と命じました。通りを歩いて呼び止められたのに、むちゃくちゃだなーと思うかもしれませんが、そうではありません。当時は王様と謁見するとき失礼がないように、入り口には礼服が用意されていました。しもべが手渡したにも関わらず、彼はそれを拒否して席に座ったのです。これはどういう意味でしょう?異邦人であっても、神の国に招かれ救われる可能性があります。でも1つの条件として、礼服を着るということです。礼服とは、イエス・キリストがくださる義の衣、贖いの衣であります。このたとえが教えていることは、神の国の招待はイスラエルから取り上げられ、異邦人に向けられたということです。それが今の、教会時代に当たるわけです。しかし、あわれみ深い神様は、異邦人の時が満ちたならば、最後にもう一度、イスラエルを救おうと約束しておられるのです。だから、使徒パウロは私たちにこのように告げています。「私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。…確かに、今は恵みのとき、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:1,2)。

3.神の国に入る条件

神の国に入る条件とは何でしょうか?先週は「キリストを信じるだけで救われる」というメッセージをしました。確かに、このことは真理ですが2つの誤解を引き起こします。第一は「私が信じてやった」という、自分が神様よりも上かのように思うことです。第二は「天国へ行ければそれで良い。あとは地上で面白おかしく生活しよう」ということです。たとえば、イエス様を信じて洗礼を受けました。「ハレルヤ!おめでとうございます!」しかし、もうそれっきり教会に来なくなってしまった。「洗礼を受けて、天国行きの切符をゲットしたので、もうイイヤ!」そういう人もいないわけではありません。洗礼を受けた人たちの半分は3年以内にいなくなるという統計が出ているそうです。確かに教会のフォローアップが足りなかったせいもあるでしょうが、伝えた福音に問題があるのかもしれません。なぜでしょう?何が問題なのでしょうか?キリストを信じるというのは、救い主としてだけではなく、人生の主として王様として信じる必要があるということです。救い主とは自分の罪を赦し天国に入れてくださる方です。そして、自分が困ったときに助けてくれる、そういうお方です。でも、それだけだと行き詰ります。相変わらず、人生の王様が自分だからです。イエス様は救い主だけではなく、自分が従うべき主人であり王様だということです。ヨハネ黙示録3:20は救いの時によく用いられるみことばです。イエス様が心の外でドアをたたいている。「そうですか?どうぞ私の心にお入りください」と願います。イエス様を受け入れる、すなわち信じることであります。でも、心の中のどこに座らせるのでしょうか。自分が王座に着いていて、イエス様を床に座らせるのでしょうか?本当はそうではなりません。イエス様をお客さんとしてではなく、私の王様としてお迎えし、自分の心の王座に座っていただくのです。そして、自分が王なるイエス様に従うのです。それが本当の信じ方なのです。

神の国とはどういう意味でしょうか?神の国とは、神の支配と言う意味でした。その国はイエス・キリストが王様として君臨するところです。その国の民となるとは、王なるキリストに従うということが条件付けられているのです。私たちは神の王国の民になるのですから、王様に従うのが当たり前なのです。コインには裏表があります。救いのコインがあるとしたら表面は「信じる」と書いてあります。そして、コインの裏側には「従う」と書いてあります。そうです、信じたら、従うのです。これはセットなのです。「信じますけど、従いません」という人は、神の国に住まうことはできません。福音書を見ますと、そういうお話がたくさん記されています。たとえば、取税人ザアカイはいつ救われたのでしょうか?イエス様が木の上に隠れていたザアカイに言いました。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」。ちょっとむちゃくちゃな話ではないでしょうか?ザアカイにだって都合があるでしょう?ザアカイはポケットから手帳を出して、「えーと、きょうは無理ですね。突然、お客さんを連れて行くと家内に叱られますから。えーと、火曜日は予定があるので、そうですねー、木曜日の午後でしたら空いていますよ。」このように答えたらどうなるでしょうか?イエス様は通り過ぎて、他のところに行ってしまいます。ザアカイは王なるイエス様の呼びかけに、「はい」と従って、木から下りたのです。そして、自分の家にイエス様をお招きしました。そのとき、ザアカイは救われたのです。イエス様の命令に従って、自分の家に招き入れた時に、彼は救われたのです。これが神の国に入るということなのです。

しかし、イエス様の招きに従わなかった人もいます。それは、富める青年です。彼はとっても真面目でした。彼は「何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受け取ることができるでしょうか?」とイエス様に聞きました。これは表現を変えると「何をしたら、神の国に入れますか?」ということなんです。イエス様は言われました「戒めはあなたもよく知っているはずです。姦淫するな、殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え」。すると若者は「そのようなことは、小さい時から守っております」と答えました。するとイエス様は言われました。「あなたには、まだ1つだけ欠けたところがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分け与えてやりなさい。…その上で私について来なさい」。すると彼は、これを聞いて非常に悲しんで、去って行ったと書いてあります。この後、イエス様は弟子たちに「裕福な者が神の国に入ることは、なんとむずかしいことでしょう」と言われました。もし、私が弟子のひとりだったなら、青年を追いかけて、このように言うかもしれません。「ちょっと、お待ちください。イエス様はあのようにおっしゃったけど、全部が無理であれば十分の一からでも良いんじゃないでしょうか?そのうち、信仰が増してきたら徐々に増やしていけばいいんじゃないでしょうか」。教会もお金持ちが来ると、教会の会計が潤うために、そのような態度を取るかもしれません。しかし、イエス様は後を追いかけませんでした。イエス様はご存知だったのです。彼は私よりも、財産(お金)を信頼しているということを。イエス様がそのとき、「私について来なさい」と言われました。そのとき、彼は従いませんでした。神の国とはこのようなものなのです。神様の招きに対して、「はい」と決断して従うものだけが入ることができるのです。厳密に言いますと、神の国は単なる招きではなく、命令であります。

4.神の国に生きる

2008年の秋、JCGI(教会成長研修所)が、インドネシアからエディレオ師を講師としてお招きしました。「現代の教会は何故、そんなに弱いのか?」ということをお話しました。それは教会が天国の福音しか伝えていないからだとおしゃいました。天国の福音とは、イエス様を信じたら天国に行けるという福音です。「ああ、私は救われた。もう天国行きが決まっているんだから、この先何をしても良いや!」と人々は勘違いします。教会は、救いとは天国に行くことだと教えています。もし、救いが天国に入ることだとしたらどうでしょうか?教会の半分は浸礼による洗礼です。水の中にどっぷり沈めるわけです。天国へ行ける一番良い方法は何でしょうか?「イエス様を信じますか?」「はい」と答えたら、5分くらいそのまま沈めておけば良いのです。目がさめたら、即天国です。ある人たちは「キリストを信じて天国に行ける」、これが救いだと思っています。確かにそれは救いではありますが、救いの全部ではありません。救いとは神の国に入ることであり、神の国の住民として生活するということです。そのとき重要なのは、イエス・キリストは救い主だけではなく、主であり王様であるということです。そのことが分からないと、私たちは自分勝手な生き方をして、罪の生活に逆戻りすることになります。ですから、私たちは神の国の福音を信じ、そして神の国で生きる必要があります。

では、私たちはどのようにして、神の国に生きるのでしょうか?イエス様は「悔い改めなさい、神の国は近づいたから」の直後にこのようなメッセージを語られました。マタイ419イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」「わたしについて来なさい」。これが神の国に生きるということです。「わたしについて来なさい」。王様について行く。毎日、毎日、ついて行く。神の国に生きるとは、イエス様について行くことなのです。私はこのことばは、12弟子たちに言っていることばだと思っていました。そうではありません。ルカ923イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」イエス様は「毎月ごとについて来なさい」と言われたのでしょうか?あるいはイエス様は「週ごとについて来なさい」と言われのでしょうか?「日々」です。日々とはどういうことでしょうか?24時間ということです。24時間、イエス様について行くのです。これが神の国で生きること人の行き方です。24時間、イエス様について行くというのは、単なる救いではありません。ライフスタイル、生き方であります。「主イエスと共に、歩きましょう、どこまでも。主イエスと共に、歩きましょう いつも」。神の国とはライフスタイル、イエス様に従っていく生活です。救われるとは、神の国に入るということです。しかし、それは概念ではなく、ライフスタイル、生き方です。私の人生の主であり、王であるイエス・キリストに従う、これが神の国の福音です。初代のクリスチャンはなぜ力があったのでしょうか?それはキリストを信じる、イコール、キリストに従うことであると理解していたからです。本日のメッセージをひとことでまとめたいと思います。救われるとは、神の国、神のご支配のもとに来るということです。そのためには、私たちは救い主キリストを信じるとともに、王なるキリストに従う必要があるのです。もし、あなたがそのようにして神の国の住民となるならば、神様はあなたに身分と権利を保証してくださいます。

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