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2009年12月27日 (日)

神の武具取れ       エペソ6:13-17

 23日は、すばらしいクリスマス・ゴスペルコンサートでありました。主の祝福と助けのもとで力の限り賛美することができました。ハレルヤ!です。1つ気づいたことがありますが、ゴスペルのディレクターも曲の合間にメッセージを入れるところがあるということです。良い悪いは別として、曲の説明とともに、「どうしても分かち合いたい神様のメッセージがあるんだなー」と思いました。改めて思うのですが、プロテスタント教会は儀式というよりも、神のことばを語ることに重点が置かれています。この礼拝においても、賛美と祈りそして、聖書からのメッセージであります。牧師がこのようにメッセージを語るものですから、おのずとゴスペルのディレクターも語りたくなる。そういうDNAが入っているんだなーと思いました。6月からエペソ人への手紙から学んできましたが、本日と1月3日で終了します。来年は信仰のDNAに関する主題説教をさせていただきたいと思います。どうぞご期待ください。本日は、「神の武具を取れ」と題して、6つの武具を1つずつ説明したいと思います。使徒パウロは当時のローマ兵が身につけていた武具を比ゆ的に用いています。

1.真理の帯

エペソ1:14「腰には真理の帯を締め」とあります。真理の帯とは、神のことばをはっきり理解することを表しています。兵士の帯(ベルト)は、剣などの武具をしっかりととどめておくためにあります。だいたい腰のベルトのところに、剣とか拳銃が収められています。仮面ラーダーはこのベルトの中央に変身のための装置がついていました。ベルトがないと変身できないのであります。それはともかく、真理のベルトは他の武具をとどめておくためにも重要です。つまり、あなたの腰に、神のことばという真理のベルトを締める必要があるのです。なぜなら、神のことばがあなたの内にとどまっていなければ、祈りにおいてあなたはうまくいくことはないからです。ヨハネ15:7「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」とあります。真理の帯を締めるとは、神のみことばにとどまるということです。私たちは、自分の意見とか考えではなく、聖書が言う真理に留まる必要があります。聖書が「それは罪である」といえば罪なのです。現代は、同性愛は性同一障害のゆえであるとみなされています。障害であるならば罪ではありません。でも、聖書は「同性愛は罪である」とはっきり述べています。聖書が罪であるというならば、私たちも罪であると言わなければならないのです。現代の教会が何故弱いのでしょうか?それは罪を罪としていないからです。Ⅰコリント13:8「わたしたちは、真理に逆らっては何をする力もなく、真理にしたがえば力があるのです」(口語訳)。アーメン。どうぞ、腰に、真理のベルトを締めましょう!アーメン。私たちが立つべき真理は、みことばのうちにあります。そして、そのみことばに私たちは留まるのです。

2.正義の胸当て

エペソ1:14後半「胸には正義の胸当てをつけ」とあります。胸当てとは、大切な心臓を守る大事な武具であります。ゲームでファイナルファンタジーというのがあります。私はやったことがありませんが、そこには様々なアーマー(防具)があります。皮製、胴、銀、金、ダイヤなど様々な胸当てがあるようです。彼らはそれによって、毒、炎、冷気、稲妻などから身を守るのです。私たちが身につける胸当てとはどんなものでしょう?それは、正義の胸当てであり、良心に罪がないということです。サタンは私たちの罪を責めてきます。私たちの良心に「お前はそれでもクリスチャンか?何べん同じ罪を犯しているんだ。神はもうお前のことを見捨ててしまったぞ」と、私たちを責めるのです。良心に罪責感がある場合どうしたら良いのでしょうか?Ⅰヨハネ1:9「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」アーメン。私たちが罪を言い表すならば、キリストの血によって私たちの罪が清められるのです。正義の胸当てをつけるとはどういう意味でしょうか?それは、私たちの失敗に対して、絶えず父なる神様から赦しを受けるということです。イエス・キリストの血は、すべての罪から私たちをきよめてくださいます。サタンがキリストの血に弱いというのはどういう意味でしょうか?それは、キリストの血を見たら、私たちの罪を責めることができないからです。「私はキリストにあって罪赦された者です。私には罪がありません」。このように、私たちは正義の胸当てをつけるべきであります。礼拝の賛美で、「きよい手を上げ」という歌詞が出てきます。そのとき、みなさんは手を上げられるでしょうか?「ああ、私なんか清くないから・・・」と手を上げないかもしれません。そうではありません。私たちはキリストの血しおによって、きよい者とさせられているのです。キリストの血によって、良心から咎めが去り、私たちはきよい手を上げることができるのです。どうぞ、きよい手を上げてみましょう。ハレルヤ!私たちは主の血しおによって、すでにきよいのです。これが正義の胸当てをつけるということです。

3.平和の靴

エペソ6:15「足には平和の福音の備えをはきなさい」。このところで、重要なのは平和なのか、それとも福音なのかということです。全体のバランスから見ると、平和の方に重点があると思います。備えというのは、靴と言い換えても大丈夫なことばであります。ですから、「平和の靴」の方が分かり易いと思います。でも、なぜ、悪魔の策略に対して、「平和の靴」なのでしょうか?ローマ3:15「彼らの足は血を流すのに速く」とあります。神から離れた人間は、人と争い、傷つけ合うことが多いということです。悪魔は人間が持っている敵意とか殺意を助長させ、実際に暴力や殺人が起こるようにさせます。「戦争は悪魔のリバイバルである」とある人が言いましたが、その通りだと思います。今年ももうすぐ終わりですが、1年間にどのくらいの犯罪が起きているのでしょうか?日本で一番多い犯罪は傷害で年間30,000件位あります。そして、殺人は年間1,200件以上あるようです。十戒では「人を殺してはならない」と命じられていますが、罪のない人がたくさん血を流しています?私たちの内側には、「人と争い、傷つけたい」という種があるのかもしれません。それはカインが犯した罪であります。カインは罪のない弟アベルを打って殺しました。そして、カインの子孫の罪は、拡大して行ったのであります。私たちはイエス・キリストによって新しく生まれ変わった者です。キリストは、私たちの平和であり、隔ての壁を打ちこわし、敵意を廃棄されました。ですから、私たちはできるだけ争いが生じないような平和の道を求めなければなりません。私たちが、怒りたくなるときどういうことが起きるでしょうか?悪魔は「今、やらなけりゃ、どうなる!」と誘惑してきます。悪魔は刹那的で、その後の責任は取りません。もし、私たちは悪魔がけしかけるままに、怒りを爆発されたなら、残るのは爆風に飛ばされた残骸ばかりです。破壊されたものを修復するためには、ものすごく時間がかかります。私は今年一年間、振り返ると、いろんなことがありました。しかし、主の恵みによって、「よく、怒りを爆発せずにやってこれたなー」と思います。悪魔は「さあ怒れ、さあ怒れ!」と誘惑してきます。でも、私たちはそれを払いのけて、平和の道を選択すべきです。ローマ12:18-19「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』」と書いてあります。私たちは、怒りや復讐心を主にゆだね、平和の道を選択すべきであります。神様は争いではなく、平和の神であります。そして、私たちは平和の子、平和をもたらす神の子どもであります。

4.信仰の大盾

エペソ6:16「これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。」当時のローマの大盾は長方形だったようです。兵士たちは大盾を並べながら隊列を作ります。前の兵士たちは前面に並べました。二番目以降の兵士は真上に据えました。左右の兵士たちは真横に盾を構えました。敵が矢を雨のように降らせてきても、彼らはその大盾によって守られています。そのように盾を構えながら、兵士たちはザクザク、ザクと敵に近付いて行くのです。悪魔も私たちクリスチャンに、疑いの火矢を浴びせてきます。あるクリスチャンは疑いの火矢が突き刺さったために、躓き倒れたまま起き上がれません。また、悪魔は恐れの火矢を放ってきます。旧訳聖書のヨブも、サタンが放った恐れの火矢でやられてしまいました。「もし、こんなことが起こったならどうしよう。もし、あんなことが起こったならどうなるだろう」と悪魔が恐れの火矢を放ちます。2週間位前、小学生の有悟が新型インフルエンザにかかりました。家内は「あなたは、他の場所で寝た方が良いわよ」と言いました。以前も「あなたがインフルエンザなったら、礼拝の説教だれがやるの?」と言われたことがありました。私も一瞬、「ああ、クリスマス礼拝と洗礼式、クワイヤー、イブ礼拝があるなー。みんなの前で話したら、菌をばらまくことになるなー」と思いました。しかし、「何を言うんだ。俺はインフルエンザには、ならないんだ!」と恐れの火矢を退けました。ハレルヤ!アーメン。ケネス・ヘゲーンはこのように教えています。「あなたが祈っている間、悪魔はあらゆる種類の火矢をあなたの頭の中に送り、あなたの注意をそらして、あなたが信仰の内にとどまらないようにします。あなたは神のことばを信じる信仰という盾をもって、悪魔の火矢を1つ1つ消さなければなりません。また、あなたが祈っている間だけでなく、毎日の生活で信仰の内にとどまる必要があります。絶えず、信仰の思いを抱き、信仰のことばを話す必要があります」と書いてありました。どうぞ、信仰の大盾を取って、悪魔が放つ火矢を消しましょう。アーメン。

5.救いのかぶと

救いのかぶととは、頭にかぶるヘルメットであります。救いを疑わせるものが、この頭の知性と思いにやってきます。だから、私たちは救いのヘルメットで知性と思いを守らなければなりません。私たちはキリストによってあがなわれており、この救いは絶対に失うことはありません。神の子としての立場は確固たるものであり、そこに絶対的な平安を持つことができます。ハレルヤ!それでも悪魔は私たちの知性と思いに攻撃をしかけてきます。私たちのこの頭は戦場であります。地上にいる限りはこの戦いに終わりはありません。パウロはエペソ1章で「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように」と祈っています。私たちの知性と思いをどこに求めるべきでしょうか?それは、「知恵と啓示の御霊に」であります。自分の知性に頼ってはいけません、たえず神の霊から求めるべきであります。救いのヘルメットで悪魔からの思いを遮断し、神の霊にチューニングを合わせるのです。チューニングってご存知でしょうか?私は中学生や高校生の頃、ラジオを聴いていました。FM東京の「ジェットストリーム」を聞いていました。「ロンリー・アイミスターロンリー」であります。オールナイト日本とか、日野トラック提供の「走れデンリク?」というのもありました。深夜にチューナーを回すと中国や韓国、わけの分からないところからも電波も入ってきます。私たちも霊的な存在なので、頭の中に、人間の思い、悪魔の思い、そして神の思いが入ってきます。ですから、私たちの頭に雑音が入らないようにヘルメットをかぶります。そして、チューナーをたえず、神の霊に合わせるのです。イエス様はヨハネ10章で「羊はその声を聞き分けます」とあります。ハレルヤ!

6.御霊の剣

エペソ6:17後半、「また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」とあります。武具はどれも防護用ですが、1つだけ例外があります。それは、御霊の剣です。御霊の剣、神のことばこそ、あなたがサタンと戦いを交える際に使う唯一の武器なのです。あなたはかぶとによってサタンと戦うのではありません。それはあなたを守るものです。あなたは信仰の盾によってサタンと戦うのではありません。それはあなたを守るものです。あなたは真理の帯によってサタンと戦うのではありません。それはあなたを守るものです。あなたは義の胸当てや平和の靴によってサタンと戦うのではありません。それらはあなたを守るものです。あなたがサタンと戦うのは、神のことば、御霊の剣によってです。それこそが、聖書が述べている唯一の攻撃用の武器なのです。イエス様は悪魔と霊的戦闘をするために、どのようにされたでしょうか?イエス様は霊的戦闘をするために悪魔を探しに出かけたことはありません。ある人たちは、霊的地図を書いて、神社とか山の頂上にでかけて祈ります。イエス様も使徒パウロもそういうことはしていません。また、イエス様はサタンを要塞から引き下ろそうとされたこともありません。イエス様は真理と義によって守られていたので、ご自分の立場に立って、御霊の剣、神のことばを用いただけでした。イエス様はどういう状況でも、「聖書にこう書いてある」と言われました。イエス様ご自身が、神のことばを引用して悪魔に対して、みことばを剣として用いられたのです。イエス様は他のどんな方法でも悪魔と戦うことはしませんでした。そして、悪魔は敗北しました。イエス様がみことばを用いて悪魔と格闘したのならば、私たちもそのようにして悪魔に対処すべきであります。

しかし、みなさん、剣の使い方というのもあります。ちゃんと使い慣れていないと、自分の足を切ったりします。騎士たちが日々、訓練するように、私たちも訓練が必要です。また、剣を手入れをしていないとさび付いて、いざ使いたいときに抜けないということもありえます。ですから、日ごろ、聖書と親しみ、みことばを心に蓄えておく必要があります。すると、誘惑や問題が来たとき、「ぴゃ」と出てきます。ある人たちは聖書を読んでいないので、いざとなって、昔のことわざとか、格言や信念が出てきます。「二兎追うものは一兎も得ず」とか「現実は厳しいよな、やっぱり」。これでは困ります。「人にはできないが神にはできる。私を強くしてくださる方によって何でもできる。アーメン」。この間の、クワイヤー、本当に大変でした。年のせいか、歌詞が全然、覚えられない。一番前で歌うので、ごまかしがきかない。しかし、主は逃れの道を与え(カンペ)、なんとか全うすることができました。すばらしいゴスペルコンサートだったと思います。とにかく、私たちは日ごろから、聖書と親しみ、みことばを蓄えておく必要があります。そうすると、困難や誘惑が来たとき、聖霊が、私たちの内にある、みことばを取り出して、私たちの思いに与えてくれます。直ちに、私たちはそのみことばを宣言するのです。すると、そのみことばが剣となって、悪魔の誘惑を断ち切ることができるのです。ハレルヤ!

結論:

使徒パウロは、エペソの人たちに「真理の帯、正義の胸当て、平和の靴、救いのかぶと、信仰の大盾、御霊の剣と6つの武具を身につけるように教えました」。不思議なことに6つ全部が、聖書のみことばと関連しています。聖書が土台となっています。ところで、使徒パウロはローマに旅立つ前に、エペソの長老たちに告別(お別れ)のことばを送りました。使徒20章にそのことが書いてあります。使徒20:29「私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。」とんで、使徒20:32「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。」使徒パウロは、エペソの人たちを神と神の恵みのみことばにゆだねました。そして、みことばにはそのような力があると言っています。やっぱり私たちの信仰の土台は、神のみことばであることを改めてお伝えしたいと思います。悪魔の方が私たちよりもずっと、ずっと賢いのです。私たちの知性や理性では、まったく太刀打ちできません。私たちは神のみことば聖書に親しみ、聖書からいつも教えられる必要があります。きょうは52週目の聖日礼拝です。いろんな事情や健康の問題がありますので、精勤賞は無理かもしれませんが、80%以上は出席できたという兄姉がおられると思います。板橋姉もその一人だと思います。板橋姉のお兄さん、山崎政彦兄は聖日礼拝を本当に大切にした人でした。だから、他の兄姉にも「礼拝を休まないように」とよく言っていました。大川牧師は毎回「聖日礼拝厳守」とおっしゃっています。私は律法主義になるのがイヤなのであまりそういうことは言いません。でも、みなさん、聖日礼拝で聖書からメッセージを聞く、そして祈りと賛美をささげる。これは、私たちを霊的戦いにおいて、とても重要なことだと思います。私たちは自分でも気づかないうちに、神様から守っていただいているのではないでしょうか?聖書からのメッセージは今、神様が私たちに語られる生きたことばであると信じます。個人で聖書を学ぶことも大切ですが、神様が教会という共同体に語ってくださるメッセージを共に聞くことはもっと大切です。私たちはメッセージを聞き、三位一体の神様を礼拝することによって、神の武具で身を固めているのではないでしょうか?聖日礼拝を捧げられることは、本当に主の恵みであると思います。この1年間守られたことを感謝します。

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2009年12月20日 (日)

神を明かされた方      ヨハネ1:12-18

 クリスマスおめでとうございます。きょうは洗礼式もありますので、おめでたいことが重なっています。ふだんはキリスト教会に縁のない方でも、このシーズンだけは教会に来るという方がいるかもしれません。それでも、大歓迎いたします。3日後の23日は、亀有ゴスペルクワイヤーのコンサートもあります。毎年、1年に一度はそのコンサートに来るという方もおられるかもしれません。リピーターと言うのでしょうか?リピーターが、いつしかキリストに捕らえられ、教会に「入りびたり」、イリピーターになることを希望いたします。

1.神を明かされた方

ヨハネ1:18「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」ところが、出エジプト記24章には「モーセとイスラエルの長老たちが、神を仰ぎ見た」と書いてあります。イザヤも「万軍の主を見た」と言っております。というと、ヨハネが言っていることはどうなんでしょうか?たぶん、旧約の人たちは神様の栄光を見た、あるいは神様の一部を見たのではないかと思います。顔と顔を合わせて見た、と言うことではないと思います。しかし、ひとり子なる神、イエス様はそうではありません。完全なお姿を見て、知っておられたということです。そして、今度はイエス様が、神様がどういう方なのか説き明かされたのです。イエス・キリストはことばにおいて、またご自身の行ないによって、父なる神様がどのようかお方なのか啓示されました。啓示とは、隠されているもののベールを剥がすという意味です。私たちはこの自然界を見るとき、「神様がおられるのではないだろうか?」と思います。これを一般啓示と言います。「輝く日を仰ぐ時、月星ながめるとき、いかずち鳴り渡るとき」、「さかまく大海、山々を見るとき」・・・「一体だれが造ったんだろう?」と畏敬の念を抱かずにはおられません。美しい花、雪の結晶、生命の神秘、原子の構造・・・これらが偶然でできたと思うでしょうか?良心に正直な科学者であるなら、「背後に知恵のあるだれかがおられるとしか思えない」と言うでしょう。伝道者の書3章には「神は人の心に永遠を思う思いを授けられた」(口語訳)と書いてあります。さらに神様は私たちにご自身のことを明かされました。それは、神のことば聖書であります。私たちは聖書を読むときに、神様のご人格やみこころを知ることができます。聖書の神様は正義を貫き、愛であり善なるお方である。これは自然界を見ても分からないことであります。これは特別な啓示であります。多くの人たちは聖書抜きで、「神とは何ぞや?」と論じています。それは愚かなことです。聖書こそは、神様が私たちに与えた、ご自身のための啓示の書であります。私たちは聖書を読むときに、神様ご自身とみこころが分かるのです。

もう1つ、世の終わり、神様ご自身を現すお方が来られました。それがイエス・キリストであります。クリスマス、いろんな意味がありますが、神様を知らせにやって来られた方のことです。ヘブル1:1-3「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」ヘブル書を見ますと、「終わりの時には、預言者ではなく、御子イエスが語られた」と書いてあります。しかし、それだけではありません。「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れ」とあります。これはどういうことかと申しますと、御子イエスを見るときに、神様のことが分かるということです。イエス様はことばだけではなく、人格そのものが神様を現していたということです。これはすばらしいことではないでしょうか?神様が分からないという人に対する、神様からの大サービスです。イエス様の12弟子の中に、やっぱり神様が分からないので、神様を見せてほしいと願った弟子がいました。イエス様は何と答えられたでしょう?「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。」(ヨハネ14:9)。ピリポはイエス様がガリラヤ湖の嵐を静められた奇跡をその目で見たでしょう。死んだ人が3人も生き返りました。イエス様は海を歩いたり、わずかなパンで大勢の人を養いました。また、その教えはどこにも聞いたことのない権威ある教えでした。その知恵に律法学者やパリサイ人たちは答えることができませんでした。また、イエス様が愛した愛は、人間以上の愛でした。こういうことをたくさん体験したのに、ピリポは分からなかったのです。なぜでしょう?

啓示の世界は、肉眼で見るのとは違うのであります。もし、私たちが2000年前のイエス様の時代に行って、イエス様を見たら「ああ、この方は神の子イエスだ」と分かるでしょうか?おそらく分からないでしょう。なぜなら、当時、イエス様を見た人は弟子たちのほか、何千人、何万人もいたでしょう。彼らは肉眼でイエス様を見て、あるいは声を聞いて、どのように思ったでしょうか?「あのお方は、神の御子イエス、救い主イエス様だ!」と信じた人はわずかだったと思います。Ⅰコリント15章には「500人以上の兄弟たち」とあります。なぜ、彼らはイエス・キリストを肉眼で見たのに、分からなかったのでしょうか?それは、啓示とは聖霊の助けなしには分からないということです。私たちは肉の目は確かに開いてはいますが、霊の目は盲目であります。そこに聖霊様が私たちの霊の目を開け、啓示の光を当ててくださるとき、父なる神様のこと、そしてイエス様のことが分かるのです。ペテロが「あなたは、生ける神の子キリストです」と告白しました。そのとき、イエス様は「このことをあなたに明らかにしたのは人間ではなく、天にいます私の父です」とおっしゃいました。また、パウロは「聖霊によるのでなければ、だれもイエスは主です」と言うことはできないと言いました。ということは、私たちが神様を知るためには二重のことが必要だということです。1つは自然界や神のことば、イエス・キリストご自身という啓示です。もう1つは、それらの啓示を悟ることができる神の霊、聖霊であります。極端に言えば、聖書を10回も読み、私の話を52回(日曜日は1年で52回)聞いても、聖霊の助けなしには分からないということです。

きょうは小学生がなんと3名の洗礼を受けられます。麻里ちゃんは小学校3年生です。教会の規定では10歳からとなっていますが、ちょっと早いのであります。ほかの子どもたちもそうですが、本当に神様のことが分かるのでしょうか?では、大人になってちゃんと聖書を学んだら分かるのでしょうか?マタイ11章でイエス様はこのようなことをおっしゃいました。マタイ11:25移行、「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。・・・すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。」わあー、イエス様の許しがなければ、だれも父なる神様を知ることができないともあります。そして、神様は賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現すとも書いてあります。これは1種の呪いであります。人間の知恵や知識では、神様のことが分からないということです。逆に、そういう知恵や知識がなくても、神様の助けがあれば分かるということです。私たちは日本や世界にある神学校を閉鎖しなければなりません。彼らは単純で分かり易い神の真理を、複雑でかつ難しくしています。イエス様や使徒パウロよりも難しく語っています。当時、イエス様のところに来なかった人たちとはどういう人たちだったでしょうか?聖書を専門に学び、研究していた人たちです。彼らはメシヤがベツレヘムに生まれるということを預言書から言い当てました。しかし、会いに行こうとは思いませんでした。行ったのは、占星術者たちでした。神学的に危ない人たちが、遠路はるばる、救い主に会いに来たのです。聖書を隅々まで知っている人たちがイエス様のもとに来ないで、罪人や遊女、取税人、そして幼子たちが御元に来たのです。なんという皮肉でしょう。クリスマス、私たち教会は神様を現す方法が知性一辺倒であることを悔い改めなければなりません。ヨハネはイエス様のことを何と言ったでしょうか?Ⅰヨハネ1:1、2「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、──このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。」アーメン。私たちが生身の人間にイエス様を伝えたいなら、このように伝えなければならないと思います。いのちのことばを、聞かせて、見せて、手で触らせることです。そうするならば、聖霊様が啓示の霊をもって、生けるキリストを現してくださるでしょう。

2.恵みとまことに満ちておられた方

 一般的に「恵み」とはどういう意味でしょうか?恵みとは、自分の行ないや努力ではなくて、一方的に与えられるものです。私たちはよく、才能に恵まれているとか、運動神経に恵まれているというふうに使います。他に海の幸に恵まれているとか、山の幸に恵まれている。家庭環境に恵まれているとか、経済的に恵まれているというふうに使います。どれもこれも、その人が勝ち取ったものではなく、生まれつき、あるいは自然にだれかの恩恵によって賜ったものです。恵みに対抗するものは何でしょうか?これは努力であり、勉強、練磨であります。自分の努力や行ないによって勝ち取るものであります。日本人はこれが大好きなのであります。勤勉さとか努力、真面目さがとっても尊ばれます。極端な話で申し訳ありませんが、恵みと努力、どちらが上でしょうか?恵みと努力、どちらが勝るでしょうか?これは、恵みの方が勝るのであります。日本は地下資源の乏しい国です。だいたい国土が狭いですね。日本に比べ、アメリカ、ロシア、ヨーロッパ、オーストラリア、中国・・・向こうの方が、地下資源が豊富です。しかし、日本人は勤勉であり、努力家であり、加工貿易によってがんばっています。でも、残念ですが向こうの方が国土において恵まれています。恵みと努力、恵みの方が勝るのではないでしょうか?もう1つ極端な話をします。先日、鳩山首相の政治献金のことでいろいろ取りざたされました。お母さんから毎月、1500千万円の政治献金が何年間に渡ってあったようです。また、鳩山首相はブリジストンの株主でもあり、毎日20数万円の配当があるそうです。鳩山首相の個人の財産は200億円ぐらいあるとテレビで報道されていました。鳩山首相は鳩山一郎総理大臣の孫ですから、本当に恵まれている方だと思います。私は、生まれつき恵まれた人っているもんだなーと思いました。でもそれは今日はじまったことではありません。イエス様の時代から、中世までは、生まれがすべてでありました。奴隷で生まれたら奴隷、平民で生まれたなら平民、貴族で生まれたなら貴族、王家で生まれたなら王家でありました。もちろん、歴史の中にはただの人が、皇帝になったり、大富豪になった人たちはいます。でも、多くの場合、生まれや血筋などの恵みには叶いません。努力や勤勉さでは叶わないのです。

 でも、みなさんこの世の恵みとは違う、神の恵み、キリストによる恵みというものがあります。この恵みは私たちの運命を変え、人生を根底からひっくり返し、大逆転を与えるものであります。私はこの恵みと出会ったとき、腹の底から喜びが溢れ、それが嗚咽になりました。「こんなことがあるんだ!what on earth、一体全体どうしたんだ」であります。ヨハネ1:12,13「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」このところには、人が神のこどもとされるのには、血筋とか生まれ、そして努力や意欲さえも関係ないと書いてあります。これが神の恵みであります。この地上において恵みが乏しくても、関係ないということです。また、神のこどもとされる、つまり救いを得るのも人間の努力や行ない、真面目さも関係ないということです。逆にこの世において恵まれている人、また真面目で正しい人が神の恵みを得られないということもあるのです。福音書で青年役員が「どうしたら永遠の命が得られるのですか?」とイエス様のところに来ました。彼は子どもの頃から十戒を守っていました。また、生まれたときからお金と財産があり、恵まれている人でした。でも、どうでしょうか?彼は悲しい顔をして、イエス様のもとを去って行きました。行ないにも、生まれや育ちにも自信があったのですが、神の国に入ることができませんでした。使徒パウロは、ローマ3:23「すべての人は罪を犯したので神の栄誉を受けることができない」と言いました。英語では、fall short of the glory of God.神の栄光に達しない、短いということです。神様が私たちに求めるのは義であり、それは100%の正しさであります。誰も、その神の義に達することはできません。99でもダメなのです。そこで神様は、イエス・キリストを信じる者に、ご自分の義を与えることにしました。ローマ3:24「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」アーメン。救いとは、私たちがイエス・キリストを信じるときに与えられる神の恵みなのであります。神の恵みと別な道があります。それは行ないの道であります。神の律法を守り行なうことによって、神の義を得ようとするものです。しかし、先ほど申しましたように、私たちには神の律法をすべて落ち度なく、守ることは不可能なのです。テトス3:5「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。」アーメンです。救いは恵みであり、あわれみであります。だれも、誇ることはできません。

 では、みなさんにもう1つお聞きします。救いは恵みでしょうが、救われてからは自分の努力や真面目さで生きるのでしょうか?ある人たちは、「いいえ、恵みです」と言いながらも、自分の頑張りや真面目さを第一にしている人がいます。私は不真面目よりも真面目な方が良いと思います。努力しないで怠けているよりも、努力家の方が好きです。でも、そこの落とし穴があります。自分が頑張り屋で真面目な人というのは、そうでない人を裁きやすいということです。聖書に出てくる、律法学者やパリサイ人のようになって、律法を守れない人をさばくということです。メルボンドという伝道者が日本に何度も来られています。キリスト教会において。日本だけではありませんが、世界にもいて最も問題なのは何か?イエス様はメルボンドに「律法主義こそがキリスト教会において最も悪しきものであり、これを避けなければならない」と言ったそうです。そうです。私たちは救われてからも、神の恵み、キリストの恵みによって生きるのです。正しい行いも、奉仕も、祈りも伝道も、すべてキリストの恵みによって可能なのです。私たちはクリスチャンになって、自分の力の源をキリスト様に全部ささげ、そこから使用するべきであります。自分の力が100の人も、20の人も、無限大にもっておられるキリストのもとにささげましょう。そうすると、100の人も無限大、20の人も無限大であります。ない人よりも、なまじっか持っている人が危ないのです。最初の方で、この世の恵みとは、才能だとか生まれであると申しました。生まれつき頭の良い人、手先の器用な人、芸術性のある人がいます。たしかに努力やがんばりでは勝つことができません。しかし、神様は私たちに恵みを賜るお方であります。恵みをギリシャ語でカリスと言いますが、聖霊の賜物もカリス、恵みであります。神様はご自身の働きを行なわせるために、聖霊の賜物を一人ひとりに与えておられます。もれなく、であります。どうぞ、これを発見して、神様の栄光のために用いましょう。もちろん、生まれつきの恵みも一緒に使ったらなお効果的だと思います。

 私は8人兄弟の7番目に生まれました。四男であります。ところが隣の時雄君は長男でした。隣の長男の時雄君をうらやましく思いました。彼は勉強机を買ってもらいました。いろんな持ち物もおニューです。高校生のときはバイクを買ってもらいました。私はたまに乗らせてもらいました。また、20歳くらいのときは彼はロータリークーペを買いました。恐らく両親から買ってもらったのでしょう。もう、彼とは小学校の時からライバルで、しょっちゅう喧嘩をしていました。あちらは長男、こっちは四男ですから、家を出て働きに行くしかありません。でも、20年ぶりに帰ったときは精神科に通っていました。そして、数年前、帰ったときに会えませんでしたが、人工肛門をしていると聞きました。彼は家を守るため農業をやっていました。さらに年老いたお父さんやお母さんの世話もしなければなりませんでした。どっちが勝ちとか負けとは言いませんが、私はキリストに出会って、神様の恵みをいただいて本当に良かったなーと思います。8人兄弟の7番目、財産もお金も、才能もないし、頭も良くない、学歴もない。あるのは「くそー」という意地ばっかり。でも、イエス様を信じられて本当に良かったなーと思います。神の子の身分と永遠の御国をただきました。そればかりではありません。神様はご自分の栄光を現すために、私を用いておられます。牧師職を与え、神のことばを取り次ぐ者にしてくださいました。私が元来、理屈っぽく、へそ曲がりで、やかましい「安っぽいヤス」です。でも、不思議です。私が聖書を瞑想するとき、神様は「これとこれを語りなさい」と示してくださいます。この世の基準でどうかは分かりませんが、神様は私に英知を与え、メッセージを語らせてくださいます。これ子度、神の恵みであり、あわれみであります。

 私たちは生まれつきの環境、生まれつきの性格、心の傷、両親の影響、プラスよりもマイナス面が多いかもしれません。でも、キリストに出会い、キリストに人生を捧げていくならば、すべてのものが益になります。心の傷も、性格の悪ささえも、逆転勝利につながります。オセロ・ゲームというのがあります。真っ黒で「あれーだめかなー」と思いきや、パラパラ、パラと白にひっくり返る。キリストの恵みによって、黒が白になるような逆転勝利があるのです。たとい、この世で恵まれていなくても、神の恵みがあれば大丈夫です。しかし、その基本はイエス・キリストを信じて救われるという神の恵みをいただくことです。自分の行ないや努力に頼るのではなく、イエス・キリストの十字架の贖いを信じることです。救いは行ないによるのではありません。キリストを信じる信仰です。そして、父なる神様はご自分の息子、娘に、イエス・キリストによって豊かに恵みを与えてくださいます。

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2009年12月13日 (日)

この世に来られた方      ヨハネ1:1-13

 クリスマスが何かという本質的なことがわかると、よけいなものは不要だなーと思います。もちろん、飾りつけとかは、ないよりはあった方が良いです。今年も、いろいろありがとうございました。でも、心の中にクリスマスの喜びがあるというのは本当にすばらしいことです。小さなケーキでも満足します。そして、教会でお祝いするときは、もっと感動があります。ホテルのクリスマス・ディナー・パーティも良いと思いますが、救い主キリストの出会いと比べたら「月とすっぽん」であります。教会としては、このクリスマスシーズン、ひとりでも多くの方が、「私のために来られたイエス・キリスト」を信じていただきたいと思います。

1.はじめにことばあり

新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、「はじめ」を「アルケー」と言います。ギリシャの哲人たちは、「世界のはじめに何があったんだ。何からできたのか。そのアルケーとなったものは何なのか?」ということを考えました。彼らは「はじめに何があるけー」と考えたわけです。ある人は「それは水だ」、ある人は「火だ」、またある人は「土、水、火、空気である」と言いました。アーティストに、アース・ウインド・アンド・ファイヤーというグループがいますが、そこから取られたのかもしれません。ヨハネが福音書を「アルケー」ということばで書き始めたので、その当時の人たちは、「おっ?アルケー?はじめに何があったんだ?何からできたんだ?」と興味を持ったに違いありません。しかし、私は、ヨハネはもう1つのことも考えていたのではないかと思います。それは旧訳聖書の創世記も「はじめに」という書き出しで始まるからです。すると、新約聖書も「はじめに」という書き出しの方が、重なり合って良いのではないだろうか?そのような考えもヨハネにあったのではないかと思います。本の書き出しというのは、とても重要です。まず、書き出しで、人のこころをつかまえることができたら良い作品です。しかし、ヨハネはそれだけではなく、ロゴスというギリシャ語も用いました。ヨハネは「アルケーにロゴスがあった。ロゴスからみんなできたんだ」と言いました。ギリシャ人にとってロゴスも哲学的な意味のあることばでした。哲学者ヘラクレイトスは「ロゴスとは世界原理である」と言いました。後のストア派の哲学者はロゴスとは、「世界の神的な論理」あるいは「世界を定める理」であると言いました。つまりこういうことです。アルケーと考えられる火とか水や空気は流動的であります。その流動的なものをつなぐもの、根幹にあたるものがロゴスなのです。

何か古代ギリシャ哲学を学んだような気がして、何かあてられた感じがします。「そんな気が遠くなるような話はやめてくれ!」と言いたいでしょう。でも、ヨハネは当時の哲学界に、大胆に切り込んでいったのです。みなさんヨハネのもとの職業をご存知でしょうか?彼はペテロと同じ、ガリラヤの漁師でした。「漁師がこんな高度なことを書けるだろうか?書けるわけがない」と自由主義神学者たちは言うでしょう。でも、神の霊がヨハネに啓示を与えたのです。啓示とは哲学にまさるものです。哲学は人間の理性によって真理をきわめようとします。一方、啓示は盲目である私たちに神が真理を開示してくださるのです。ハレルヤ!ヨハネは冒頭で何を言いたかったのでしょうか?はじめに何があったのか?はじめにロゴスなるお方がおられた。神とともにおられ、この世界、万物を創造したのだということです。では、ロゴスとはだれか?ギリシャ哲学は、「世界原理」「神的な論理」だと言いましたが、ヨハネは父なる神のひとり子、イエス・キリストであると証言しました。キリストが言葉、ロゴスであるとしたら、創世記1章のどこいらへんに出ているのでしょうか?神様が「光があれ」と仰せられました。すると光がありました。このように、神様がことばを発すると、聖霊がそのものを生み出したのではないかと思います。神様が発したことばにたるのが、ロゴスなるキリストであると信じます。なぜなら、コロサイ1章にこのように書いてあります。「万物は御子にあって造られた。御子によって造られた」とあります。イエス・キリストが、永遠の昔、天地万物を造られた、三位一体の神様のお一人であるということを知ることはとても重要なことです。

ところがクリスマスはどのようなイメージがあるでしょうか?母マリヤにいだかれた幼子イエスであります。カトリック教会に行きますと、母マリヤの方が偉大で、イエス・キリストは赤ん坊のままです。赤ん坊のままのイエス・キリストを信じても、果たしてどうなるのでしょうか?私たちは天地万物を創造された御子イエスが、栄光を捨てて、御座から降りてこられた。しかも、小さな人間に納まった。私たちはこういうことを知るべきであります。たとえて言うなら、私たち人間が、蟻になるようなものであります。今の季節はいませんが、夏には1階のロビーで行列を作っていました。箴言には「蟻から学べ」と書いてありますので、多少、尊敬していました。しかし、あんまりうっとおしいので掃除機で全部吸い取りました。すると、またどこからかやってきます。私はそれを知らないで足で踏んでいました。蟻としては、床を歩くのは、命がけであります。みなさん、天地万物を造られたイエス様が一人の人間、しかも赤ん坊になられました。これは、気の遠くなるような話です。また、ギリシャの話になりますが、当時のギリシャ人は、肉体は悪であり、魂は良いものだと考えていました。いわゆる二元論であります。哲学者たちは「魂が肉体という牢獄に閉じ込められている」と主張しました。するとどうなるでしょうか?2つに分かれました。1つはこの肉体の欲望を抑えて魂を高める禁欲主義が生まれました。もう1つは、「どうせ肉体は悪なのだから、徹底的に楽しめば良いじゃないか」という快楽主義が生まれました。しかし、ヨハネは何と言ったでしょうか?ヨハネ1:14「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」と言いました。人とは原文では、サルクス、肉体であります。「え、ロゴスなる神が、肉体を取った、そんな馬鹿なことがあるか?」とギリシャ人たちは躓きました。「肉体は元来、悪いものなのに、神様が人間になった?ありえなーい!」これが当時のキリスト教に対する見方であります。「いやいや、キリストは肉体を取っていたように見えただけであった」というキリスト教の異端がいくつか生まれました。

私たちはこのクリスマス、イエス様がなぜ、小さくなられたのか知るべきであります。また、イエス様がなぜ、当時、悪と思われていた肉体をお取りになったのか知るべきであります。では、お聞きします。「宇宙万物を造られたイエス様はなぜ、小さくなったのでしょうか?そして、なぜ、肉体を取ってお生まれになられたのでしょうか?」。それはひとことで言うならば、私たちを救うためであります。ある宣教師が、山奥に一人こもって、修行しているヒンズー教の青年に伝道しました。その宣教師は神が人になられた、イエス様のことを伝えました。青年は「神が人になるなんてナンセンスだ、そんなのありえない」と笑飛ばしました。ある時、青年が山地を開墾しながら、畑を作っていました。桑が蟻塚を壊してしまいました。蟻は巣が壊されたのでパニックになり、どーっと近くの水辺になだれ込みました。「馬鹿だなー、そっちに行ったらおぼれ死んじゃうよ」と桑でなんとかしようと試みましたがダメでした。「ああ、そうか、蟻を救おうと思うなら、私が蟻になって蟻のことばを話して伝えなくちゃだめだなー」と思いました。彼はそのとき、神が人間となったことを悟ったのです。イエス様が肉体と取ったもう1つの理由とは何でしょう?それは、肉体をもっている私たちを救うためであります。アダムが罪を犯して堕落してから、人間には死が入りました。だれ一人、この死の毒に対して勝てる者はいません。お釈迦様もマホメットもみんな死んで墓があります。哲学者たちも真理を探究しながら死んでいきました。どうしたら良いでしょう?イエス・キリストは自ら死に飛び込んで、死を打ち破る必要があったのです。ヘブル2:14「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし」とあります。イエス・キリストはご自分の死によって、死を滅ぼしたのです。キリスト教の救いは魂だけではありません。この死んで朽ち果てる肉体が救われてこそ、贖いが完成するのです。残念ながら、贖いが完成するのは、世の終わり、イエス・キリストが再び来られる時です。でも、イエス・キリストが初穂として復活されたのですから、後に続く私たちも復活するのです。ハレルヤ!

あの偉大な神様が、小さな人間になってこの世に降りて来てくださいました。私たちは蟻よりは少しましかもしれないけど、遅かれ早かれ、この地上を去る身であります。どんな有名な人であっても、死んで1000年もたてば、忘れ去られます。いや、100年で忘れられるかもしれません。パスカルは言いました。「イエス・キリストは哲学者の神様ではない。アブラハムの神、ヤコブの神、イサクの神は私の神である。キリスト、キリスト、キリスト!」と歓喜しつつ叫びました。つまり、神様は概念とか思想ではなく、今も生きておられる神様だということです。そうです。イエス・キリストはあなたを救うために、この世に来られたのです。あなたを救うためです。

2.いのちの光

ヨハネはイエス・キリストのことをさらにこのように述べています。ヨハネ1:4-5「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」まず、いのちとは何でしょうか?ヨハネが「いのち」というときは、ギリシャ語の「ゾーエー」という言葉を用いました。ゾーエーというのは単なるいのちではなく、神の命・永遠の命という意味です。「イエス・キリストがいのちである」と言うとき、それは「イエス・キリストが神のいのち、永遠のいのちを持っている」ということです。一方、人間の命は「プシュケー」という言葉が用いられます。これは魂とも訳せますが、肉体的ないのちという意味です。動物も人間も肉体的ないのちをもっています。そして、喜怒哀楽の心も持っています。でも、残念ながら、「ゾーエー」という神の命・永遠の命は持ってはいません。イエス・キリストがこの地上に来られたとき、全世界の中で、「ゾーエー」の命を持っている人はお一人でした。イエス・キリストしか、神の命・永遠の命を持っていなかったのです。イエス様は私たちと同じ、肉体の命を持っていましたが、同時に神の命・永遠の命も持っておられたのです。私たちは「人間は死ぬのが当たり前だ」ということを知的にも経験においても知っています。イエス様はヨハネ6章で「私はいのちのパンです。だれでも、このパンを食べるなら、永遠に生きます」と何度もおっしゃいました。すると人々は、「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか」と躓いてしまいました。

私たちの肉体的ないのちは、刻々と死に向かっています。もし、死なないで永遠のいのちを持つことが出来たら何と幸いでしょう。人類は、不老不死の薬を求めてきました。現代もバイオテクノロジーで何とかならないものかと研究しているでしょう。でも、それは不可能です。なぜなら、私たちの肉体は、肉体のいのちには限りがあるからです。Ⅰコリント15章には「血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。・・・天上のからだを持つ必要がある」と書いてあります。神様は私たちが永遠に生きられるように、2つのことをしなければなりませんでした。1つは霊的ないのちを与えるということです。それはイエス様が持っておられる神の命・永遠の命です。もう1つは、二度と死なない栄光のからだであります。これはイエス・キリストが死から復活したときに持っておられました。2つのことをどのように私たちのうちになすことができるのでしょうか?1つは永遠のいのちです。もう1つは死なない栄光のからだです。イエス様はヨハネ6章で「私はいのちのパンです。だれでも、このパンを食べるなら、永遠に生きます」と言われました。食べるとはどういう意味でしょうか?食べるとは自分の中に取り込み、それと一体になるということです。もし、その食べ物が毒であったならば死にます。しかし、イエス・キリストは神の命・永遠の命を持っておられました。いのちのパンを食べるということは、イエス・キリストを受け入れる、信じるということであります。これは大変なことであります。もしかしたら洗脳されたり、頭がおかしくなるかもしれません。クリスチャンは、思い切って、イエス・キリストを受け入れ、信じた人たちであります。どうでしょうか?死んだり、頭がおかしくなったりしたでしょうか?ちょっとおかしくなったかもしれません。「ハレルヤ!私は救われました。死ぬのが怖くありません」とか言うからです。先週、高柳姉妹が老人ホームのクリスマス会で「招き」をしたそうです。「イエス様を信じたら、永遠の命が与えられ天国にいけるのです!信じる人は手をあげてください!」。すると、3人のおじいちゃん、おばあちゃんが手を上げたそうです。ハレルヤ!です。

もう1つヨハネが言っていることは、「光」であります。「光」もヨハネ福音書、あるいは第一ヨハネにも出てきます。光とは何でしょう?光は真理とか正義、きよさを象徴しています。どうでしょう?曇って雨が降っている日と、雲ひとつない快晴の日どちらが良いでしょうか?日が差していると気持ちが良いですね?では、光に相対するものは何でしょう?「やみ」であります。やみとは、悪魔の力、悪、罪を象徴しています。光とやみが同等、同じ力なのでしょうか?そうではありません。ヨハネ1:5「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」アーメン。ある人たちは、神様と悪魔が同等、同じ力であると思っています。しかし、そうじゃありません。では、イエス・キリストはどうなのでしょうか?イエス・キリストもやみである悪魔よりも強いのです。この世にもやみがありますが、私たちの中にもやみがあるかもしれません。先ず、個人の中にあるやみに対しては、どのように打ち勝つのでしょうか?どうしたら心のやみがなくなるのでしょうか?あなたが夕方6時頃、帰宅しました。部屋は真っ暗です。どうするでしょう?そうです。電燈のスイッチを入れます。ピカピカピカー。どうですか?やみは追い払われます。あなたの心の中も同じです。どうしたら心の暗やみを追い出すことができるでしょう?光なるイエス・キリストを心の中にお迎えするのです。すると、やみは追い払われます。クリスチャンになっても、たまに罪を犯します。するとある部分がやみになります。どうしたら良いでしょう?Ⅰヨハネ1:7「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」私たちが罪を告白するときに、御子イエスの血が私たちの罪をきよめてくださる。そのようにして、私たちは光の中を歩み続けることができるのです。

また、イエス・キリストはやみの力、悪魔の力を滅ぼしてくださいました。悪魔はまだ生きていますが、十字架によって、イエス様は圧倒的な勝利を収めてくださいました。このことは先週、学んだばかりなので省略します。クリスマスではいろんな賛美をしますが、キリストの勝利を賛美しているものがたくさんあります。「あめにはさかえ」という賛美があります。三節目は「朝日のごとく 輝き昇り み光をもて 暗きを照らし 土よりいでし 人を活かしめ つきぬ命を 与うるために いまぞ生まれし 君をたたえよ」であります。この曲はチャールズ・ウェスレーが作ったものですが、元の詩がとってもラディカルであります。「我らの内でヘビの頭を打ち砕きたまえ、今こそ御身が秘めたる力をふるい、荒廃した自然を取り戻させよ」であります。つまり、イエス・キリストはこの世のやみの力、サタンの頭を打ち砕くために来られたのです。イエス・キリストがこの地上に来られたとき、すでに、その幼子を亡き者にしようとしたものがいました。それはヘロデ大王であります。彼は博士たちに「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」と言いました。しかし、それは嘘です。博士たちが戻って来ないので、ヘロデは怒り、その近辺の2歳以下の男の子を一人残らず殺させました。そのとき、幼子イエスは、ヨセフとマリヤに連れられて、エジプトに逃れていました。それから、サタンはイエス様を何度も誘惑し、攻撃しました。イエス様が十字架の死と復活を弟子たちに予告しました。そのとき、一番弟子のペテロの口を通して「そんなことが、あなたに起こるはずはありません」と言いました。こだま・ひびき風で言うと「そんな奴おれへんやろ~」であります。またあるときは、人々がイエス様を崖の上から突き落とそうとしたときもあります。サタンは、弟子の一人ユダを通して働きました。イエス様が十字架につけられていたとき、人々は「十字架から降りてもらおうか、そうしたら信じる」と言いました。イエス様は最後の最後まで、攻撃を受けましたが勝利したのです。イエス様が十字架で「すべてが完了した」と叫ばれましたが、それは勝利の叫びであります。イエス様はやみに打ち勝つ力を私たちにも与えたいと願っておられるのです。ヨハネ16:33「世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」、Ⅰヨハネ5:5「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか」アーメン。

 まとめるとこういうことになります。主イエス・キリストは死に打ち勝って命を与え、闇に打ち勝って光を与えてくださったのです。この世には「勝ち組と負け組み」という言い方があります。職業において勝ち組と負け組みがあるようです。また、容姿、服装、学歴、趣味、結婚などにも使うようです。聖書における勝ち組とはだれのことでしょうか?死と悪魔に勝たれた、イエス・キリストに属する者であります。負け組みとはイエス・キリストを信じないで死と悪魔のもとに留まっている人たちです。この地上では、勝ったり、負けたり、負けたり、負けたりすることがあります。でも、たとえこの地上で負けていても、キリストの内にあるなら、まるごと勝利の中にあるのです。なぜなら、やがて御国に入るならば、すべてものが回復されるからです。あなたが失ったもの、手に入れられなかったもの、愛、幸い、望み、健康、そして正しいさばき、報い・・・すべて主のもとにあるからです。では、この地上では、ただ忍耐するしかないのでしょうか?そうではありません。いのちであり、光なるイエス・キリストがあなたの内に、あなたと共におられるのです。御国の100%とはいえなくても、3割、4割は当たり前ではないでしょうか?どうぞ御国の恵みを先取りして、どんな中でも、いのちと光を楽しみましょう。いのちと光を喜びましょう。

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2009年12月 6日 (日)

悪魔の策略        エペソ6:10-12

 有名なクリスマス・ソングの中に讃美歌112「もろびとこぞりて」があります。その2節目が、「悪魔のひとやを打ち砕きて、捕虜を放つとを、主はきませり、主はきませり」です。私はこの歌詞が大好きです。イエス・キリストがこの地に来られたのは、私たちの罪を十字架で贖い、悪魔の捕虜であった人間を解放するためであります。使徒パウロはエペソ6:10「終わりに」と書いていますが、これは「ついでに」という意味ではありません。「これから、最も大事なことをひとこと言いますよ」ということであります。

1.悪魔のキャリア(経歴)

聖書は悪魔を「この世の神」と言っています。使徒パウロはエペソ2章で「空中の権威をもつ支配者」とも言っています。また、悪魔は別名、サタンとも呼ばれていますが、それは「神に敵対する者」という意味です。では、悪魔あるいはサタンはどこからやって来たのでしょうか?聖書は悪魔のキャリア(経歴)については沈黙していますが、暗示する箇所がいくつかあります。悪魔は天使長の一人で、とても力があったようです。エゼキエル書28章には「全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった」と記されています。彼は霊的被造物であり、神に近い存在だったようです。それでどうなったのでしょうか?イザヤ書14章にはこのように書いています。「あなたは心の中で言った。私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう」。「神の星々」とは御使いたちのことでしょう。彼は自分の美しさに高ぶり、頂に上り、神のようになろうとしました。それでどうなったでしょう?「しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる」とあります。彼は堕落しましたが、そのとき3分の1の御使いを引き連れて反逆したのではないかと思います。その中のある御使いたちは、大いなるさばきのために、暗やみの下に閉じこめられています。しかし、ある御使いたちは悪魔(サタン)の手下となって、空中を支配しています。空中とは、神様がおられる天よりは低いけれど、地上の私たちよりは上という意味であります。

エペソ6:12「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊」とありますが、これは悪魔の組織階級ではないかと言われています。同じような表現が、エペソ1:21、コロサイ2:15にもあります。一番高いところにいるのが悪魔(サタン)であり、その下に、諸州を治めている位の高い悪霊がおり、その下には個人個人に悪さをする悪霊がいるのではないかと思います。Ⅰヨハネ5:19には「世全体は悪い者の支配下にある」と書いてあります。ヨハネが「この世」と言うとき、それは単なる世界という意味ではありません。神から離れて堕落した世界という意味であります。本来、この世界は神様が人間のために創造したものでした。神様はアダムに「すべてのものを支配するように」命じました。ところがアダムは食べてはならない木から食べて、堕落してしまいました。その木から取って食べるとは、自分が神のようになって善悪を決めるということです。これは神への反逆であります。そのため、アダムとエバはエデンから追放されました。同時にこの世を治める権威も失ってしまいました。そして、サタンがアダムに代わって、この世を支配する者となったのです。神様が与えたというよりは、サタンが横取りしたということです。そして、サタンは罪ある人間を自分のもの、捕虜としたのです。サタンには国があり、多くのものを持っています。ルカ4章に書いてありますが、悪魔がイエス様をこのように誘惑しました。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです」と言いました。これに対してイエス様は何と答えたでしょう?「馬鹿こけ、悪魔よ。これは神様のものだ」とはおしゃいませんでした。その代わり「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい」と言われました。イエス様は、この世がだれのものなのかは、言及されませんでした。何故、この世に戦争がとだえず、悪がはびこり、不正がなされているのでしょうか?それはこの世が悪魔によって支配されているからです。神様が悪魔をさばくとしたら、罪ある人間も一緒に滅ぼさなければならなくなります。

では、救いとはどういう意味なのでしょうか?イエス・キリストは、私たちの罪を贖うために、十字架で死なれ、三日目によみがえりました。私たちがこのお方を救い主として信じるときに、罪赦され、神の子とされます。しかし、救いはそれだけではありません。使徒26章にこのように書かれています。「彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせる」とあります。また、コロサイ1:13「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました」。アーメン。つまり、私たちは以前、サタンの支配下にあったということです。しかし、キリストを信じたときに、神様は私たちをサタンの支配から、御子の支配の中に移してくださったということです。私たちはサタンの国で捕虜となっていたのに、イエス・キリストによってそこから解放され、今、御子の支配、神の国に住んでいるということです。神様は悪魔を滅ぼす前に、一人でも多くの人をご自分の国に移したいと願っているのです。この真理はとても重要です。ルカ11章でイエス様は1つのたとえ話しをされました。ルカ11:21、22「強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物は安全です。しかし、もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。」このところで言われている「強い人」とはだれでしょう?悪魔、サタンです。彼は十分に武装していました。彼の武器は人間の罪を訴えるということです。人間はサタンの持ち物、虜になっていました。ところが「もっと強い者が襲って彼に打ち勝つ」とあります。もっと強い者とはイエス・キリストであります。「サタンに打ち勝ち、サタンの頼みにしていた武具を奪い」とあります。これはイエス・キリストが十字架によって罪を贖い、サタンの頭を打ち砕いたということです。これで、サタンは武装を解除され、神様のところへ人々の罪を訴えに行くことができなくなりました。そして、「分捕り品を分ける」とは、人々をサタンのもとから自由にする、解放するということです。私たちはイエス・キリストを信じたときに、罪が赦されたと同時に、サタンのもとから神様のもとに移された存在なのです。ハレルヤ!

何ごともそうですが、バランスを取って考えるということがとても重要です。ある人たちは、何でも悪霊のせいにします。ある兄弟から「この間、悪霊によって攻撃を受けた。こんなことがあった。あんなことがあった。鈴木先生も気をつけてください」と電話が何度もありました。「私は大丈夫ですよ」と思いながら、「ちょっとあの兄弟は変だなー」と思いました。彼はイエス様ではなく、悪霊のことだけに関心が行っています。もちろん、悪霊はいるし、今も活動してます。だからと言って、私たちはイエス様よりも、悪霊を注目してはいけません。私たちは神様のみこころは何かということに焦点を合わせ、イエス様に従っていくことに集中すべきです。また、ある人たちは「霊的地図」というのを作って、山に登って祈ったり、神社の前に立って祈ります。聖書に「霊的地図を書きなさい」と教えていません。パウロはエペソという偶像の町で伝道しました。しかし、女神アルテミス神殿の前で、悪霊を縛ったとは書いていません。パウロはみことばを宣べ伝え、病を癒し、悪霊を追い出しました。私たちが福音を宣べ伝えるとき、悪魔が妨害するでしょう。そのとき、私たちは祈って戦い、失われた魂を主のもとに勝ち取るのです。また、ある人たちは、「悪魔は悪の象徴であって、現実にはいない」と言う人たちもいます。それもまた行き過ぎであります。私たちは両脇の溝にはまらないで、道の真中、バランスを取って進むべきであります。キリストにあって私たちはどういう存在でしょうか?エペソ2章には「神様は、私たちをキリストと共によみがえらされ、共に天の所にすわらせてくだった」とあります。肉体は地上にありますが、霊的には悪魔よりも上、神様の御座の隣にいるのです。そして、キリストは天においても地においてもいっさいの力(権威)を私に与えてくださったのです。私たちはキリストによってすでに、勝利のうちにあるのです。このことを私たちは忘れてはいけません。

2.悪魔の策略

エペソ6:11「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい」。神の武具については、次回に学びたいと思いますが、悪魔の策略とは何でしょうか?策略とは、「人を迷いに導く悪巧み、悪知恵」という意味です。一番、これに最初にやられたのが、エバとアダムであります。悪魔の策略の常套手段は「神のことば」に疑いをかけるということです。悪魔はエバに「神はほんとうに言われたのですか?」と誘惑しました。エバは「それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ、と仰せになりました」と答えました。神様は「触れてもいけない」とか、「死ぬといけないからだ」ともおっしゃいません。「必ず死ぬ」とおっしゃったのです。しかし、エバのどこかにみことばに対する水増しがありました。悪魔は「あはーん、エバはアダムから正しく聞いていないな?」ということを見破りました。そして「あなたは決して死にません」と覆しました。悪魔のイエス様に対する誘惑はどうだったでしょうか?マタイ4章を見ると、日本語ではよく分かりませんが、英語の聖書では「もし、あなたが神の子なら○○」と書いてあります。イエス様は事実、神の子なのです。しかし、悪魔は「もしあなたが神の子なら、このようなことが当然できるでしょう」と誘惑したのです。悪魔はさらに、神のことばの一部を用いて、誘惑しました。悪魔も聖書を用いるのです!キリスト教の異端が聖書を用いるように、悪魔も聖書を用います。でも、イエス様は正しく神のみことばを引用し、悪魔に勝利しました。ですから、悪魔の策略に対抗する第一の点は、神のみことばを正しく知り、みことばに立つということです。神のことばに、「もしも」とか「本当に?」と言うことはありません。自由主義神学は、理性に合わない聖書の箇所は全部切り捨てました。神話だとか、嘘も方便みたいにしたのです。挙句の果、悪魔の存在すらも否定しました。悪魔は人格をもった霊的存在であり、偽りの父です。世界に偽りをばらまき、福音の光を見えなくしています。偽預言者、偽キリスト、異端といわれるキリスト教の背後には必ず悪魔が働いています。私たちは聖書のみことばを正しく学び、みことばによって武装していくしかありません。

さらに悪魔、サタンの策略とは何でしょうか?イギリスのロイドジョンズという人が「キリスト者の戦い」という本を書いています。もう古典かもしれませんが、とても良い本です。その本にこのように書かれています。「悪魔の招く野望は、神のみわざを打ち砕き、混沌を生み出すという一事に尽きる。最大の野心は、人間を神から引き離し、その力の及ぶ限り、人間が神を礼拝し、神に従い、神の栄光を現す生活を妨げることである」。みなさん、人間は神様の最高の被造物です。だから、悪魔は神様を攻撃しない代わりに、私たちを攻撃するのです。世の終わりに悪魔は火の池に投げ込まれることが決まっています。しかし、悪魔は神に造られた人間どもも、一緒に地獄へと引きずり込もうとしているのです。人間を人質に取って、彼らと一緒に滅ぶことになるので、もしかしたら、神は考えを変えるかもしれないと思っているのです。人間はもはや自由ではありません。罪と悪魔の奴隷であります。エペソ2:2「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいた」の、とおりであります。でも、クリスチャンはイエス様を信じて、神様のものとなりました。では、悪魔は「しょうがないなー」とあきらめたでしょうか?残念ながら、あきらめていません。Ⅰペテロ5:8「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」。クリスチャンでさえも、もたもたしたら、サタンにやられてしまうということです。どのようにサタンは私たちを攻撃するのでしょうか?イエス様はヨハネ10章でこのように語られました。ヨハネ10:10「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」サタンがすべきことは、盗み、殺し、滅ぼすことであります。私たちの持っている神の子という身分を盗み、私たちの魂と肉体を殺し、滅ぼすことであります。

一番の問題は、「一度、救われた魂をサタンが奪うことができるかどうか?」であります。イエス様はヨハネ10:28で「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません」と言われました。私たちはキリストによって永遠のいのちが与えられています。表現を変えるならば、霊的に救われているということです。ですから、いくら悪魔が私たちを攻撃しても、霊の命、救いは失われることがないということです。でも、肉体的にあるいは心の分野が、悪魔や悪霊にやられることはあるということです。だから、パウロは「悪魔に場所を与えるな!」と言ったのです。私たちが罪を犯し続けた場合、悪魔がそこに足場を設けて、攻撃してくるということです。足場になるのは、怒り、憎しみ、高慢、不品行、汚れ、盗み、むさぼり、さまざまな中毒、偶像崇拝の罪です。これらの罪を告白し、キリストの血によってきよめていただく必要があります。また、悪魔はエバやイエス様にやったように私たちを誘惑し、神から離そうとします。耳もとで、いろいろささやくのです。そして、疑いや汚れた思い、破壊的な思いをたえずあなたに入れようとします。イエス様も誘惑を受けました。誘惑を受けること自体が罪ではありません。それを、自分の中に取り入れ、それを喜ぶことが罪なのです。私たちは、頭の上を飛ぶ鳥の通行を妨げることはできません。ここは私の領空だとは言えないのです。しかし、その鳥が頭に止まって、髪の毛で巣を作ろうとしたら「やめろ!」と言って阻止することは可能です。同じように、悪魔も思いの中に、いろんな思いや映像を与えて誘惑します。しかし、それを自分の中に取り入れてはいけません。「悪い思いよ、悪い映像よ、イエスの御名によって去れ!」と命じるのです。その代わりに「ハレルヤ!イエス様、あなたを礼拝します。おー、ハレルヤ!」と礼拝に置き換えるのです。しかし、悪魔の誘惑を心の中に受け入れた場合、それはあなたの中に留まります。一度、留まるとなかなか排除するのが困難になります。

ケネス・ヘーゲンの本に書いてありました。悪魔がある牧師夫人を誘惑しました。彼女はとても美しく、歌が上手でした。牧師夫人でなければ、歌手になりたいと思っていました。小さな猿のような悪魔が彼女に言いました。「あなたは美しい女性です。あなたは人生で奪い取られてきたのです。あなたはだまされています。この世で、あなたは名声も、幸運も、人気も得られたはずです」。彼女はそれらの思いは悪魔が自分に語りかけているのだと知ってしました。それで彼女は「サタンよ、退け」と言いました。小さな悪魔は彼女の肩から飛び降りて、走り去りました。また、この悪霊が彼女のところにやってきました。また、彼女の肩の上に座り、彼女の耳にささやき始めました。「あなたは美しい女性です。あなたは人生で奪い取られてきたのです。この世で、あなたは名声も、幸運も、人気も得られたはずです」と同じことを言いました。しかし、今度は、彼女はサタンの思いを抱くようになりました。「私は美しいのよ。私は人生でだまされてきたんだわ」と思い始めました。彼女は自分の思いを主にとどめておかずに、サタンの思いにふけり、それを楽しむようになったのです。彼女が悪魔の思いを抱き始めた時、彼女はプライドによって傲慢になりました。彼女はそういう思いにつきまとわれるようになり、そういう思いを抱くことが好きになったのです。ケネス・ヘーゲンが幻で見ました。そのとき、彼女のからだがガラスのように透明になりました。そして、彼女の頭に50セント硬貨ほどの大きさの黒い点が見えました。彼女は夫と別れ、別の男性と一緒になりました。それから彼女は、その男から、さらに別の男のもとに移りました。ついに彼女は5人の別々の男と関係し、その誰とも結婚しませんでした。彼らと一緒に住んだだけでした。あるとき、教団の指導者が、彼女と男性が泊まっていたホテルに行きました。その指導者は彼女を神に立ち返らせて、彼女を夫のもとに帰らせるためでした。彼女が言いました。「でも、イエス・キリストのことなら、あなたに言いたいわ。イエスと一緒に地獄へ行きなさい」。その指導者の前でドアをぴしゃりと閉めました。ケネス・ヘーゲンがまた幻で見ました。彼女の頭の中の50セント硬貨くらいの大きさのあの黒い点が、彼女の頭から内側に入って行き、彼女の心臓の中に入り、彼女の霊の中に下るのが見えました。イエス様がケネス・ヘーゲンに言われました。「今、彼女はあの悪魔にとりつかれ(占有)されました。あの悪魔は、今、彼女をコントロールしていますが、それはただ彼女が許したことによってです」。ケネス・ヘーゲンは、彼女が救いを失って、火の池で叫んでいる幻を見ました。

悪霊に所有されて信仰を失うというケースは本当に稀です。でも、自らの意思で、キリストを捨てるという背信の罪もありえます。私たちは悪魔と悪霊の存在を知って、その策略に勝利しなければなりません。キリストは確かに十字架で勝利されました。だからと言って、私たちがすべての誘惑に自動的に勝利できるということではありません。イエス様は私たちに悪魔と悪霊に打ち勝つ権威を与えました。私たちはイエス・キリストの御名という権威を用いて、「サタンよ、退け!悪魔よ、去れ!」と命じなければなりません。主の権威を行使するのは、私たちの責任なのです。また、悪魔と論じてはいけません。あちらは、この世が造られる前から存在し、私たちよりもはるかに知恵があります。私たちはイエス様が「みことばにそう書かれてあるから」とおっしゃったように、みことばに立って「ノー」と言わなければならないのです。最後にヤコブ書4章を引用します。ヤコブ4:7「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」。このみことばはどういう意味でしょうか?それは、私たちが神様に従えば従うほど、悪魔に立ち向かう権威が増し加わるということです。もし、罪があるならば、ただちに告白して、悔い改めましょう。悪魔は罪を餌とします。私たちが罪を捨てて神様に従うときに、悪魔に勝利し、光の内を歩むことができるのです。

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