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2009年12月27日 (日)

神の武具取れ       エペソ6:13-17

 23日は、すばらしいクリスマス・ゴスペルコンサートでありました。主の祝福と助けのもとで力の限り賛美することができました。ハレルヤ!です。1つ気づいたことがありますが、ゴスペルのディレクターも曲の合間にメッセージを入れるところがあるということです。良い悪いは別として、曲の説明とともに、「どうしても分かち合いたい神様のメッセージがあるんだなー」と思いました。改めて思うのですが、プロテスタント教会は儀式というよりも、神のことばを語ることに重点が置かれています。この礼拝においても、賛美と祈りそして、聖書からのメッセージであります。牧師がこのようにメッセージを語るものですから、おのずとゴスペルのディレクターも語りたくなる。そういうDNAが入っているんだなーと思いました。6月からエペソ人への手紙から学んできましたが、本日と1月3日で終了します。来年は信仰のDNAに関する主題説教をさせていただきたいと思います。どうぞご期待ください。本日は、「神の武具を取れ」と題して、6つの武具を1つずつ説明したいと思います。使徒パウロは当時のローマ兵が身につけていた武具を比ゆ的に用いています。

1.真理の帯

エペソ1:14「腰には真理の帯を締め」とあります。真理の帯とは、神のことばをはっきり理解することを表しています。兵士の帯(ベルト)は、剣などの武具をしっかりととどめておくためにあります。だいたい腰のベルトのところに、剣とか拳銃が収められています。仮面ラーダーはこのベルトの中央に変身のための装置がついていました。ベルトがないと変身できないのであります。それはともかく、真理のベルトは他の武具をとどめておくためにも重要です。つまり、あなたの腰に、神のことばという真理のベルトを締める必要があるのです。なぜなら、神のことばがあなたの内にとどまっていなければ、祈りにおいてあなたはうまくいくことはないからです。ヨハネ15:7「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」とあります。真理の帯を締めるとは、神のみことばにとどまるということです。私たちは、自分の意見とか考えではなく、聖書が言う真理に留まる必要があります。聖書が「それは罪である」といえば罪なのです。現代は、同性愛は性同一障害のゆえであるとみなされています。障害であるならば罪ではありません。でも、聖書は「同性愛は罪である」とはっきり述べています。聖書が罪であるというならば、私たちも罪であると言わなければならないのです。現代の教会が何故弱いのでしょうか?それは罪を罪としていないからです。Ⅰコリント13:8「わたしたちは、真理に逆らっては何をする力もなく、真理にしたがえば力があるのです」(口語訳)。アーメン。どうぞ、腰に、真理のベルトを締めましょう!アーメン。私たちが立つべき真理は、みことばのうちにあります。そして、そのみことばに私たちは留まるのです。

2.正義の胸当て

エペソ1:14後半「胸には正義の胸当てをつけ」とあります。胸当てとは、大切な心臓を守る大事な武具であります。ゲームでファイナルファンタジーというのがあります。私はやったことがありませんが、そこには様々なアーマー(防具)があります。皮製、胴、銀、金、ダイヤなど様々な胸当てがあるようです。彼らはそれによって、毒、炎、冷気、稲妻などから身を守るのです。私たちが身につける胸当てとはどんなものでしょう?それは、正義の胸当てであり、良心に罪がないということです。サタンは私たちの罪を責めてきます。私たちの良心に「お前はそれでもクリスチャンか?何べん同じ罪を犯しているんだ。神はもうお前のことを見捨ててしまったぞ」と、私たちを責めるのです。良心に罪責感がある場合どうしたら良いのでしょうか?Ⅰヨハネ1:9「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」アーメン。私たちが罪を言い表すならば、キリストの血によって私たちの罪が清められるのです。正義の胸当てをつけるとはどういう意味でしょうか?それは、私たちの失敗に対して、絶えず父なる神様から赦しを受けるということです。イエス・キリストの血は、すべての罪から私たちをきよめてくださいます。サタンがキリストの血に弱いというのはどういう意味でしょうか?それは、キリストの血を見たら、私たちの罪を責めることができないからです。「私はキリストにあって罪赦された者です。私には罪がありません」。このように、私たちは正義の胸当てをつけるべきであります。礼拝の賛美で、「きよい手を上げ」という歌詞が出てきます。そのとき、みなさんは手を上げられるでしょうか?「ああ、私なんか清くないから・・・」と手を上げないかもしれません。そうではありません。私たちはキリストの血しおによって、きよい者とさせられているのです。キリストの血によって、良心から咎めが去り、私たちはきよい手を上げることができるのです。どうぞ、きよい手を上げてみましょう。ハレルヤ!私たちは主の血しおによって、すでにきよいのです。これが正義の胸当てをつけるということです。

3.平和の靴

エペソ6:15「足には平和の福音の備えをはきなさい」。このところで、重要なのは平和なのか、それとも福音なのかということです。全体のバランスから見ると、平和の方に重点があると思います。備えというのは、靴と言い換えても大丈夫なことばであります。ですから、「平和の靴」の方が分かり易いと思います。でも、なぜ、悪魔の策略に対して、「平和の靴」なのでしょうか?ローマ3:15「彼らの足は血を流すのに速く」とあります。神から離れた人間は、人と争い、傷つけ合うことが多いということです。悪魔は人間が持っている敵意とか殺意を助長させ、実際に暴力や殺人が起こるようにさせます。「戦争は悪魔のリバイバルである」とある人が言いましたが、その通りだと思います。今年ももうすぐ終わりですが、1年間にどのくらいの犯罪が起きているのでしょうか?日本で一番多い犯罪は傷害で年間30,000件位あります。そして、殺人は年間1,200件以上あるようです。十戒では「人を殺してはならない」と命じられていますが、罪のない人がたくさん血を流しています?私たちの内側には、「人と争い、傷つけたい」という種があるのかもしれません。それはカインが犯した罪であります。カインは罪のない弟アベルを打って殺しました。そして、カインの子孫の罪は、拡大して行ったのであります。私たちはイエス・キリストによって新しく生まれ変わった者です。キリストは、私たちの平和であり、隔ての壁を打ちこわし、敵意を廃棄されました。ですから、私たちはできるだけ争いが生じないような平和の道を求めなければなりません。私たちが、怒りたくなるときどういうことが起きるでしょうか?悪魔は「今、やらなけりゃ、どうなる!」と誘惑してきます。悪魔は刹那的で、その後の責任は取りません。もし、私たちは悪魔がけしかけるままに、怒りを爆発されたなら、残るのは爆風に飛ばされた残骸ばかりです。破壊されたものを修復するためには、ものすごく時間がかかります。私は今年一年間、振り返ると、いろんなことがありました。しかし、主の恵みによって、「よく、怒りを爆発せずにやってこれたなー」と思います。悪魔は「さあ怒れ、さあ怒れ!」と誘惑してきます。でも、私たちはそれを払いのけて、平和の道を選択すべきです。ローマ12:18-19「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』」と書いてあります。私たちは、怒りや復讐心を主にゆだね、平和の道を選択すべきであります。神様は争いではなく、平和の神であります。そして、私たちは平和の子、平和をもたらす神の子どもであります。

4.信仰の大盾

エペソ6:16「これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。」当時のローマの大盾は長方形だったようです。兵士たちは大盾を並べながら隊列を作ります。前の兵士たちは前面に並べました。二番目以降の兵士は真上に据えました。左右の兵士たちは真横に盾を構えました。敵が矢を雨のように降らせてきても、彼らはその大盾によって守られています。そのように盾を構えながら、兵士たちはザクザク、ザクと敵に近付いて行くのです。悪魔も私たちクリスチャンに、疑いの火矢を浴びせてきます。あるクリスチャンは疑いの火矢が突き刺さったために、躓き倒れたまま起き上がれません。また、悪魔は恐れの火矢を放ってきます。旧訳聖書のヨブも、サタンが放った恐れの火矢でやられてしまいました。「もし、こんなことが起こったならどうしよう。もし、あんなことが起こったならどうなるだろう」と悪魔が恐れの火矢を放ちます。2週間位前、小学生の有悟が新型インフルエンザにかかりました。家内は「あなたは、他の場所で寝た方が良いわよ」と言いました。以前も「あなたがインフルエンザなったら、礼拝の説教だれがやるの?」と言われたことがありました。私も一瞬、「ああ、クリスマス礼拝と洗礼式、クワイヤー、イブ礼拝があるなー。みんなの前で話したら、菌をばらまくことになるなー」と思いました。しかし、「何を言うんだ。俺はインフルエンザには、ならないんだ!」と恐れの火矢を退けました。ハレルヤ!アーメン。ケネス・ヘゲーンはこのように教えています。「あなたが祈っている間、悪魔はあらゆる種類の火矢をあなたの頭の中に送り、あなたの注意をそらして、あなたが信仰の内にとどまらないようにします。あなたは神のことばを信じる信仰という盾をもって、悪魔の火矢を1つ1つ消さなければなりません。また、あなたが祈っている間だけでなく、毎日の生活で信仰の内にとどまる必要があります。絶えず、信仰の思いを抱き、信仰のことばを話す必要があります」と書いてありました。どうぞ、信仰の大盾を取って、悪魔が放つ火矢を消しましょう。アーメン。

5.救いのかぶと

救いのかぶととは、頭にかぶるヘルメットであります。救いを疑わせるものが、この頭の知性と思いにやってきます。だから、私たちは救いのヘルメットで知性と思いを守らなければなりません。私たちはキリストによってあがなわれており、この救いは絶対に失うことはありません。神の子としての立場は確固たるものであり、そこに絶対的な平安を持つことができます。ハレルヤ!それでも悪魔は私たちの知性と思いに攻撃をしかけてきます。私たちのこの頭は戦場であります。地上にいる限りはこの戦いに終わりはありません。パウロはエペソ1章で「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように」と祈っています。私たちの知性と思いをどこに求めるべきでしょうか?それは、「知恵と啓示の御霊に」であります。自分の知性に頼ってはいけません、たえず神の霊から求めるべきであります。救いのヘルメットで悪魔からの思いを遮断し、神の霊にチューニングを合わせるのです。チューニングってご存知でしょうか?私は中学生や高校生の頃、ラジオを聴いていました。FM東京の「ジェットストリーム」を聞いていました。「ロンリー・アイミスターロンリー」であります。オールナイト日本とか、日野トラック提供の「走れデンリク?」というのもありました。深夜にチューナーを回すと中国や韓国、わけの分からないところからも電波も入ってきます。私たちも霊的な存在なので、頭の中に、人間の思い、悪魔の思い、そして神の思いが入ってきます。ですから、私たちの頭に雑音が入らないようにヘルメットをかぶります。そして、チューナーをたえず、神の霊に合わせるのです。イエス様はヨハネ10章で「羊はその声を聞き分けます」とあります。ハレルヤ!

6.御霊の剣

エペソ6:17後半、「また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」とあります。武具はどれも防護用ですが、1つだけ例外があります。それは、御霊の剣です。御霊の剣、神のことばこそ、あなたがサタンと戦いを交える際に使う唯一の武器なのです。あなたはかぶとによってサタンと戦うのではありません。それはあなたを守るものです。あなたは信仰の盾によってサタンと戦うのではありません。それはあなたを守るものです。あなたは真理の帯によってサタンと戦うのではありません。それはあなたを守るものです。あなたは義の胸当てや平和の靴によってサタンと戦うのではありません。それらはあなたを守るものです。あなたがサタンと戦うのは、神のことば、御霊の剣によってです。それこそが、聖書が述べている唯一の攻撃用の武器なのです。イエス様は悪魔と霊的戦闘をするために、どのようにされたでしょうか?イエス様は霊的戦闘をするために悪魔を探しに出かけたことはありません。ある人たちは、霊的地図を書いて、神社とか山の頂上にでかけて祈ります。イエス様も使徒パウロもそういうことはしていません。また、イエス様はサタンを要塞から引き下ろそうとされたこともありません。イエス様は真理と義によって守られていたので、ご自分の立場に立って、御霊の剣、神のことばを用いただけでした。イエス様はどういう状況でも、「聖書にこう書いてある」と言われました。イエス様ご自身が、神のことばを引用して悪魔に対して、みことばを剣として用いられたのです。イエス様は他のどんな方法でも悪魔と戦うことはしませんでした。そして、悪魔は敗北しました。イエス様がみことばを用いて悪魔と格闘したのならば、私たちもそのようにして悪魔に対処すべきであります。

しかし、みなさん、剣の使い方というのもあります。ちゃんと使い慣れていないと、自分の足を切ったりします。騎士たちが日々、訓練するように、私たちも訓練が必要です。また、剣を手入れをしていないとさび付いて、いざ使いたいときに抜けないということもありえます。ですから、日ごろ、聖書と親しみ、みことばを心に蓄えておく必要があります。すると、誘惑や問題が来たとき、「ぴゃ」と出てきます。ある人たちは聖書を読んでいないので、いざとなって、昔のことわざとか、格言や信念が出てきます。「二兎追うものは一兎も得ず」とか「現実は厳しいよな、やっぱり」。これでは困ります。「人にはできないが神にはできる。私を強くしてくださる方によって何でもできる。アーメン」。この間の、クワイヤー、本当に大変でした。年のせいか、歌詞が全然、覚えられない。一番前で歌うので、ごまかしがきかない。しかし、主は逃れの道を与え(カンペ)、なんとか全うすることができました。すばらしいゴスペルコンサートだったと思います。とにかく、私たちは日ごろから、聖書と親しみ、みことばを蓄えておく必要があります。そうすると、困難や誘惑が来たとき、聖霊が、私たちの内にある、みことばを取り出して、私たちの思いに与えてくれます。直ちに、私たちはそのみことばを宣言するのです。すると、そのみことばが剣となって、悪魔の誘惑を断ち切ることができるのです。ハレルヤ!

結論:

使徒パウロは、エペソの人たちに「真理の帯、正義の胸当て、平和の靴、救いのかぶと、信仰の大盾、御霊の剣と6つの武具を身につけるように教えました」。不思議なことに6つ全部が、聖書のみことばと関連しています。聖書が土台となっています。ところで、使徒パウロはローマに旅立つ前に、エペソの長老たちに告別(お別れ)のことばを送りました。使徒20章にそのことが書いてあります。使徒20:29「私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。」とんで、使徒20:32「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。」使徒パウロは、エペソの人たちを神と神の恵みのみことばにゆだねました。そして、みことばにはそのような力があると言っています。やっぱり私たちの信仰の土台は、神のみことばであることを改めてお伝えしたいと思います。悪魔の方が私たちよりもずっと、ずっと賢いのです。私たちの知性や理性では、まったく太刀打ちできません。私たちは神のみことば聖書に親しみ、聖書からいつも教えられる必要があります。きょうは52週目の聖日礼拝です。いろんな事情や健康の問題がありますので、精勤賞は無理かもしれませんが、80%以上は出席できたという兄姉がおられると思います。板橋姉もその一人だと思います。板橋姉のお兄さん、山崎政彦兄は聖日礼拝を本当に大切にした人でした。だから、他の兄姉にも「礼拝を休まないように」とよく言っていました。大川牧師は毎回「聖日礼拝厳守」とおっしゃっています。私は律法主義になるのがイヤなのであまりそういうことは言いません。でも、みなさん、聖日礼拝で聖書からメッセージを聞く、そして祈りと賛美をささげる。これは、私たちを霊的戦いにおいて、とても重要なことだと思います。私たちは自分でも気づかないうちに、神様から守っていただいているのではないでしょうか?聖書からのメッセージは今、神様が私たちに語られる生きたことばであると信じます。個人で聖書を学ぶことも大切ですが、神様が教会という共同体に語ってくださるメッセージを共に聞くことはもっと大切です。私たちはメッセージを聞き、三位一体の神様を礼拝することによって、神の武具で身を固めているのではないでしょうか?聖日礼拝を捧げられることは、本当に主の恵みであると思います。この1年間守られたことを感謝します。

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