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2009年12月 6日 (日)

悪魔の策略        エペソ6:10-12

 有名なクリスマス・ソングの中に讃美歌112「もろびとこぞりて」があります。その2節目が、「悪魔のひとやを打ち砕きて、捕虜を放つとを、主はきませり、主はきませり」です。私はこの歌詞が大好きです。イエス・キリストがこの地に来られたのは、私たちの罪を十字架で贖い、悪魔の捕虜であった人間を解放するためであります。使徒パウロはエペソ6:10「終わりに」と書いていますが、これは「ついでに」という意味ではありません。「これから、最も大事なことをひとこと言いますよ」ということであります。

1.悪魔のキャリア(経歴)

聖書は悪魔を「この世の神」と言っています。使徒パウロはエペソ2章で「空中の権威をもつ支配者」とも言っています。また、悪魔は別名、サタンとも呼ばれていますが、それは「神に敵対する者」という意味です。では、悪魔あるいはサタンはどこからやって来たのでしょうか?聖書は悪魔のキャリア(経歴)については沈黙していますが、暗示する箇所がいくつかあります。悪魔は天使長の一人で、とても力があったようです。エゼキエル書28章には「全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった」と記されています。彼は霊的被造物であり、神に近い存在だったようです。それでどうなったのでしょうか?イザヤ書14章にはこのように書いています。「あなたは心の中で言った。私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう」。「神の星々」とは御使いたちのことでしょう。彼は自分の美しさに高ぶり、頂に上り、神のようになろうとしました。それでどうなったでしょう?「しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる」とあります。彼は堕落しましたが、そのとき3分の1の御使いを引き連れて反逆したのではないかと思います。その中のある御使いたちは、大いなるさばきのために、暗やみの下に閉じこめられています。しかし、ある御使いたちは悪魔(サタン)の手下となって、空中を支配しています。空中とは、神様がおられる天よりは低いけれど、地上の私たちよりは上という意味であります。

エペソ6:12「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊」とありますが、これは悪魔の組織階級ではないかと言われています。同じような表現が、エペソ1:21、コロサイ2:15にもあります。一番高いところにいるのが悪魔(サタン)であり、その下に、諸州を治めている位の高い悪霊がおり、その下には個人個人に悪さをする悪霊がいるのではないかと思います。Ⅰヨハネ5:19には「世全体は悪い者の支配下にある」と書いてあります。ヨハネが「この世」と言うとき、それは単なる世界という意味ではありません。神から離れて堕落した世界という意味であります。本来、この世界は神様が人間のために創造したものでした。神様はアダムに「すべてのものを支配するように」命じました。ところがアダムは食べてはならない木から食べて、堕落してしまいました。その木から取って食べるとは、自分が神のようになって善悪を決めるということです。これは神への反逆であります。そのため、アダムとエバはエデンから追放されました。同時にこの世を治める権威も失ってしまいました。そして、サタンがアダムに代わって、この世を支配する者となったのです。神様が与えたというよりは、サタンが横取りしたということです。そして、サタンは罪ある人間を自分のもの、捕虜としたのです。サタンには国があり、多くのものを持っています。ルカ4章に書いてありますが、悪魔がイエス様をこのように誘惑しました。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです」と言いました。これに対してイエス様は何と答えたでしょう?「馬鹿こけ、悪魔よ。これは神様のものだ」とはおしゃいませんでした。その代わり「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい」と言われました。イエス様は、この世がだれのものなのかは、言及されませんでした。何故、この世に戦争がとだえず、悪がはびこり、不正がなされているのでしょうか?それはこの世が悪魔によって支配されているからです。神様が悪魔をさばくとしたら、罪ある人間も一緒に滅ぼさなければならなくなります。

では、救いとはどういう意味なのでしょうか?イエス・キリストは、私たちの罪を贖うために、十字架で死なれ、三日目によみがえりました。私たちがこのお方を救い主として信じるときに、罪赦され、神の子とされます。しかし、救いはそれだけではありません。使徒26章にこのように書かれています。「彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせる」とあります。また、コロサイ1:13「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました」。アーメン。つまり、私たちは以前、サタンの支配下にあったということです。しかし、キリストを信じたときに、神様は私たちをサタンの支配から、御子の支配の中に移してくださったということです。私たちはサタンの国で捕虜となっていたのに、イエス・キリストによってそこから解放され、今、御子の支配、神の国に住んでいるということです。神様は悪魔を滅ぼす前に、一人でも多くの人をご自分の国に移したいと願っているのです。この真理はとても重要です。ルカ11章でイエス様は1つのたとえ話しをされました。ルカ11:21、22「強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物は安全です。しかし、もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。」このところで言われている「強い人」とはだれでしょう?悪魔、サタンです。彼は十分に武装していました。彼の武器は人間の罪を訴えるということです。人間はサタンの持ち物、虜になっていました。ところが「もっと強い者が襲って彼に打ち勝つ」とあります。もっと強い者とはイエス・キリストであります。「サタンに打ち勝ち、サタンの頼みにしていた武具を奪い」とあります。これはイエス・キリストが十字架によって罪を贖い、サタンの頭を打ち砕いたということです。これで、サタンは武装を解除され、神様のところへ人々の罪を訴えに行くことができなくなりました。そして、「分捕り品を分ける」とは、人々をサタンのもとから自由にする、解放するということです。私たちはイエス・キリストを信じたときに、罪が赦されたと同時に、サタンのもとから神様のもとに移された存在なのです。ハレルヤ!

何ごともそうですが、バランスを取って考えるということがとても重要です。ある人たちは、何でも悪霊のせいにします。ある兄弟から「この間、悪霊によって攻撃を受けた。こんなことがあった。あんなことがあった。鈴木先生も気をつけてください」と電話が何度もありました。「私は大丈夫ですよ」と思いながら、「ちょっとあの兄弟は変だなー」と思いました。彼はイエス様ではなく、悪霊のことだけに関心が行っています。もちろん、悪霊はいるし、今も活動してます。だからと言って、私たちはイエス様よりも、悪霊を注目してはいけません。私たちは神様のみこころは何かということに焦点を合わせ、イエス様に従っていくことに集中すべきです。また、ある人たちは「霊的地図」というのを作って、山に登って祈ったり、神社の前に立って祈ります。聖書に「霊的地図を書きなさい」と教えていません。パウロはエペソという偶像の町で伝道しました。しかし、女神アルテミス神殿の前で、悪霊を縛ったとは書いていません。パウロはみことばを宣べ伝え、病を癒し、悪霊を追い出しました。私たちが福音を宣べ伝えるとき、悪魔が妨害するでしょう。そのとき、私たちは祈って戦い、失われた魂を主のもとに勝ち取るのです。また、ある人たちは、「悪魔は悪の象徴であって、現実にはいない」と言う人たちもいます。それもまた行き過ぎであります。私たちは両脇の溝にはまらないで、道の真中、バランスを取って進むべきであります。キリストにあって私たちはどういう存在でしょうか?エペソ2章には「神様は、私たちをキリストと共によみがえらされ、共に天の所にすわらせてくだった」とあります。肉体は地上にありますが、霊的には悪魔よりも上、神様の御座の隣にいるのです。そして、キリストは天においても地においてもいっさいの力(権威)を私に与えてくださったのです。私たちはキリストによってすでに、勝利のうちにあるのです。このことを私たちは忘れてはいけません。

2.悪魔の策略

エペソ6:11「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい」。神の武具については、次回に学びたいと思いますが、悪魔の策略とは何でしょうか?策略とは、「人を迷いに導く悪巧み、悪知恵」という意味です。一番、これに最初にやられたのが、エバとアダムであります。悪魔の策略の常套手段は「神のことば」に疑いをかけるということです。悪魔はエバに「神はほんとうに言われたのですか?」と誘惑しました。エバは「それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ、と仰せになりました」と答えました。神様は「触れてもいけない」とか、「死ぬといけないからだ」ともおっしゃいません。「必ず死ぬ」とおっしゃったのです。しかし、エバのどこかにみことばに対する水増しがありました。悪魔は「あはーん、エバはアダムから正しく聞いていないな?」ということを見破りました。そして「あなたは決して死にません」と覆しました。悪魔のイエス様に対する誘惑はどうだったでしょうか?マタイ4章を見ると、日本語ではよく分かりませんが、英語の聖書では「もし、あなたが神の子なら○○」と書いてあります。イエス様は事実、神の子なのです。しかし、悪魔は「もしあなたが神の子なら、このようなことが当然できるでしょう」と誘惑したのです。悪魔はさらに、神のことばの一部を用いて、誘惑しました。悪魔も聖書を用いるのです!キリスト教の異端が聖書を用いるように、悪魔も聖書を用います。でも、イエス様は正しく神のみことばを引用し、悪魔に勝利しました。ですから、悪魔の策略に対抗する第一の点は、神のみことばを正しく知り、みことばに立つということです。神のことばに、「もしも」とか「本当に?」と言うことはありません。自由主義神学は、理性に合わない聖書の箇所は全部切り捨てました。神話だとか、嘘も方便みたいにしたのです。挙句の果、悪魔の存在すらも否定しました。悪魔は人格をもった霊的存在であり、偽りの父です。世界に偽りをばらまき、福音の光を見えなくしています。偽預言者、偽キリスト、異端といわれるキリスト教の背後には必ず悪魔が働いています。私たちは聖書のみことばを正しく学び、みことばによって武装していくしかありません。

さらに悪魔、サタンの策略とは何でしょうか?イギリスのロイドジョンズという人が「キリスト者の戦い」という本を書いています。もう古典かもしれませんが、とても良い本です。その本にこのように書かれています。「悪魔の招く野望は、神のみわざを打ち砕き、混沌を生み出すという一事に尽きる。最大の野心は、人間を神から引き離し、その力の及ぶ限り、人間が神を礼拝し、神に従い、神の栄光を現す生活を妨げることである」。みなさん、人間は神様の最高の被造物です。だから、悪魔は神様を攻撃しない代わりに、私たちを攻撃するのです。世の終わりに悪魔は火の池に投げ込まれることが決まっています。しかし、悪魔は神に造られた人間どもも、一緒に地獄へと引きずり込もうとしているのです。人間を人質に取って、彼らと一緒に滅ぶことになるので、もしかしたら、神は考えを変えるかもしれないと思っているのです。人間はもはや自由ではありません。罪と悪魔の奴隷であります。エペソ2:2「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいた」の、とおりであります。でも、クリスチャンはイエス様を信じて、神様のものとなりました。では、悪魔は「しょうがないなー」とあきらめたでしょうか?残念ながら、あきらめていません。Ⅰペテロ5:8「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」。クリスチャンでさえも、もたもたしたら、サタンにやられてしまうということです。どのようにサタンは私たちを攻撃するのでしょうか?イエス様はヨハネ10章でこのように語られました。ヨハネ10:10「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」サタンがすべきことは、盗み、殺し、滅ぼすことであります。私たちの持っている神の子という身分を盗み、私たちの魂と肉体を殺し、滅ぼすことであります。

一番の問題は、「一度、救われた魂をサタンが奪うことができるかどうか?」であります。イエス様はヨハネ10:28で「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません」と言われました。私たちはキリストによって永遠のいのちが与えられています。表現を変えるならば、霊的に救われているということです。ですから、いくら悪魔が私たちを攻撃しても、霊の命、救いは失われることがないということです。でも、肉体的にあるいは心の分野が、悪魔や悪霊にやられることはあるということです。だから、パウロは「悪魔に場所を与えるな!」と言ったのです。私たちが罪を犯し続けた場合、悪魔がそこに足場を設けて、攻撃してくるということです。足場になるのは、怒り、憎しみ、高慢、不品行、汚れ、盗み、むさぼり、さまざまな中毒、偶像崇拝の罪です。これらの罪を告白し、キリストの血によってきよめていただく必要があります。また、悪魔はエバやイエス様にやったように私たちを誘惑し、神から離そうとします。耳もとで、いろいろささやくのです。そして、疑いや汚れた思い、破壊的な思いをたえずあなたに入れようとします。イエス様も誘惑を受けました。誘惑を受けること自体が罪ではありません。それを、自分の中に取り入れ、それを喜ぶことが罪なのです。私たちは、頭の上を飛ぶ鳥の通行を妨げることはできません。ここは私の領空だとは言えないのです。しかし、その鳥が頭に止まって、髪の毛で巣を作ろうとしたら「やめろ!」と言って阻止することは可能です。同じように、悪魔も思いの中に、いろんな思いや映像を与えて誘惑します。しかし、それを自分の中に取り入れてはいけません。「悪い思いよ、悪い映像よ、イエスの御名によって去れ!」と命じるのです。その代わりに「ハレルヤ!イエス様、あなたを礼拝します。おー、ハレルヤ!」と礼拝に置き換えるのです。しかし、悪魔の誘惑を心の中に受け入れた場合、それはあなたの中に留まります。一度、留まるとなかなか排除するのが困難になります。

ケネス・ヘーゲンの本に書いてありました。悪魔がある牧師夫人を誘惑しました。彼女はとても美しく、歌が上手でした。牧師夫人でなければ、歌手になりたいと思っていました。小さな猿のような悪魔が彼女に言いました。「あなたは美しい女性です。あなたは人生で奪い取られてきたのです。あなたはだまされています。この世で、あなたは名声も、幸運も、人気も得られたはずです」。彼女はそれらの思いは悪魔が自分に語りかけているのだと知ってしました。それで彼女は「サタンよ、退け」と言いました。小さな悪魔は彼女の肩から飛び降りて、走り去りました。また、この悪霊が彼女のところにやってきました。また、彼女の肩の上に座り、彼女の耳にささやき始めました。「あなたは美しい女性です。あなたは人生で奪い取られてきたのです。この世で、あなたは名声も、幸運も、人気も得られたはずです」と同じことを言いました。しかし、今度は、彼女はサタンの思いを抱くようになりました。「私は美しいのよ。私は人生でだまされてきたんだわ」と思い始めました。彼女は自分の思いを主にとどめておかずに、サタンの思いにふけり、それを楽しむようになったのです。彼女が悪魔の思いを抱き始めた時、彼女はプライドによって傲慢になりました。彼女はそういう思いにつきまとわれるようになり、そういう思いを抱くことが好きになったのです。ケネス・ヘーゲンが幻で見ました。そのとき、彼女のからだがガラスのように透明になりました。そして、彼女の頭に50セント硬貨ほどの大きさの黒い点が見えました。彼女は夫と別れ、別の男性と一緒になりました。それから彼女は、その男から、さらに別の男のもとに移りました。ついに彼女は5人の別々の男と関係し、その誰とも結婚しませんでした。彼らと一緒に住んだだけでした。あるとき、教団の指導者が、彼女と男性が泊まっていたホテルに行きました。その指導者は彼女を神に立ち返らせて、彼女を夫のもとに帰らせるためでした。彼女が言いました。「でも、イエス・キリストのことなら、あなたに言いたいわ。イエスと一緒に地獄へ行きなさい」。その指導者の前でドアをぴしゃりと閉めました。ケネス・ヘーゲンがまた幻で見ました。彼女の頭の中の50セント硬貨くらいの大きさのあの黒い点が、彼女の頭から内側に入って行き、彼女の心臓の中に入り、彼女の霊の中に下るのが見えました。イエス様がケネス・ヘーゲンに言われました。「今、彼女はあの悪魔にとりつかれ(占有)されました。あの悪魔は、今、彼女をコントロールしていますが、それはただ彼女が許したことによってです」。ケネス・ヘーゲンは、彼女が救いを失って、火の池で叫んでいる幻を見ました。

悪霊に所有されて信仰を失うというケースは本当に稀です。でも、自らの意思で、キリストを捨てるという背信の罪もありえます。私たちは悪魔と悪霊の存在を知って、その策略に勝利しなければなりません。キリストは確かに十字架で勝利されました。だからと言って、私たちがすべての誘惑に自動的に勝利できるということではありません。イエス様は私たちに悪魔と悪霊に打ち勝つ権威を与えました。私たちはイエス・キリストの御名という権威を用いて、「サタンよ、退け!悪魔よ、去れ!」と命じなければなりません。主の権威を行使するのは、私たちの責任なのです。また、悪魔と論じてはいけません。あちらは、この世が造られる前から存在し、私たちよりもはるかに知恵があります。私たちはイエス様が「みことばにそう書かれてあるから」とおっしゃったように、みことばに立って「ノー」と言わなければならないのです。最後にヤコブ書4章を引用します。ヤコブ4:7「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」。このみことばはどういう意味でしょうか?それは、私たちが神様に従えば従うほど、悪魔に立ち向かう権威が増し加わるということです。もし、罪があるならば、ただちに告白して、悔い改めましょう。悪魔は罪を餌とします。私たちが罪を捨てて神様に従うときに、悪魔に勝利し、光の内を歩むことができるのです。

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