« 2009年10月 | トップページ | 2009年12月 »

2009年11月29日 (日)

人にではなく       エペソ6:5-9 

 ギリシャやローマ時代にはたくさんの奴隷がいました。まず、戦争で敗れた場合は、殺されるか、奴隷になるしかありませんでした。また、奴隷の家で、奴隷として生まれた人もいました。彼らには自由がなく、物のように売買されていました。ある場合は、差別されながらも家族の一員としてみなされていました。奴隷たちは何をしたかと言うと、農業、手工業、鉱山で働いたり、商売を任されたり、家事をしました。家庭教師をしたり、帳簿をつけたり、能力のある人もいました。聖書の時代、ローマにおいては、30から40%が奴隷だったと言われています。エペソ6:9には「主の御前では、主人も奴隷も神様の前では差別されることがない。平等である」と書かれています。聖書は奴隷制度を認めているのではありません。主人としもべとの精神を私たちに教えています。

1.奴隷に対する教え

 5節には、「真心から地上の主人に仕えなさい」と書かれています。真心とは、シングル・マインド、二心でなく、「一つ心で」ということです。内部告発というのが世の中でよくあります。また、元秘書が、代議士の罪をあばくことがあります。なぜ、そのときに「否」を唱えなかったのか?と言いたくなります。そのときは、「はい」「はい」と仕えておきながら、辞めたあとで「実はこんなことをしていた」というのはどうかな?と思います。二心というのは、一方では「はい」といい、他方では「いいえ」ということです。親がこういうダブル・マインドを使うと、子どもはとても混乱するそうです。「あなたは自由だから、家から出てその仕事をしても良いのよ。でも、あなたが出て行ったらママは淋しいわ」。どうぞ、シングル・マインド、「一つ心で」いきましょう。6節には「うわべではなく、心から仕えなさい」と書かれています。この「心」は、魂からという意味であります。私たちは、おもてと裏が違う場合があります。おもてでは「はい」「はい」と言いながら、本音は「馬鹿らしくてやってられるか!」「ああ、いやだ、いやだ」ということがあります。しかし、この世では営業スマイル、営業ことばというのがあります。セールスマンや接待業はとくに重要であります。でも、何をするのも、「うわべではなく、心から」が重要であります。7節には「善意をもって仕えなさい」です。いろんな人がいます。ぶっきらぼうな人もおれば、高慢な人もいます。私たちは一見で、というか瞬間でその人を判断するところがあります。「なんかぞんざいだなー、むかつく」と思うときもあります。でも、その人が悩み事を抱えていて、ちょうどそのことに思いが集中していたらどうでしょうか?何か悲しい事があったのかもしれません。私たちはどうしても、悪意でとらえてしまいがちです。そうではなく、「ああ、何かご事情でもあるんだろうなー」と善意でとらえるべきであります。

 今、5節から7節、ざっと学びましたが、5節から7節に共通して出てくることばは何でしょうか?もし、これがなければ単なる、接待術とか倫理道徳の世界になります。果たして何が鍵になるのでしょうか?前回学びましたが、英語のas「○○のように」ということばがそれぞれの節に出てきます。もう一度、見てみましょう。5節、「キリストに従うように」as unto Christ.です。6節は、「キリストのしもべとして」as the servants of Christ.です。7節は「主に仕えるように」as to the Lord.です。このことがポイントであります。地上の主人ではなく、人のごきげんとりでなく、人にではなく、主に仕えるように仕えるのであります。この精神は、奴隷制度のない現代社会においても適用できる真理であります。今は、雇用主と労働者の関係があります。昔は労働組合が強かったかもしれませんが、現代は「リストラ」という厳しい時代になりました。上下関係の問題は、公務員の世界にも通用することです。サービス業や商売においても、顧客との関係で適用できるでしょう。

私は民間で7年間、教会で8年間、主人のもとで仕えたことがあります。主人というのは、会社の所長や主任、上司、あるいは社長や部長であります。教会では主任牧師や副牧師のもとで、奉仕していた時のことです。主人という表現は正しくないかもしれませんが、こちらは仕える立場でありました。職種や立場は違っても、みなさんも同じような経験を持っておられるのではないでしょうか?学生だったら、先生とか部活の先輩と言えるかもしれません。とにかく、こちらの方が立場的に下であるという場合です。少し考えてみてください。従いやすい人と、従いにくい人がいるのではないでしょうか?たとえば、「どういう社長や上司であったら、仕えるのがイヤだなー」と思うでしょうか?まず、独裁的で横暴な人がいます。身勝手で、こちらを物か機械のように思っている人です。こちらは、まるで、奴隷です。アルバイトや派遣社員という立場は、かなり弱いと思いますが、どうでしょうか?それから、下の人をぜんぜん面倒見ない上司がいます。成功は自分のもので、失敗は部下のものです。上には「はいはい」と言い、下には厳しいと言う人です。こういうのは、いやですねー。上司でイヤなのは、神経質であら捜しする人です。やたら細かくて、いちいち指図する。人に任せてくれない人です。他には、能力のない人とか、だらしない人がいるかもしれません。では、どういう社長や上司が良い人でしょうか?これは第二のポイントと重複しますので、簡単に話します。自分たちのことを良く思ってくれる人であります。ちゃんと任せてくれて、責任を取ってくれる人。「君たちの成功は、私の成功」と、チームワーク意識があると良いですね。

でも、みなさん、5節から7節は、「社長や上司がこうであったら」と条件は書いておりません。社長や上司がどのような人であったにせよ、こちらはこのような義務を果たしなさいということなのです。「キリストに従うように」「キリストのしもべとして」「主に仕えるように」仕えるということです。みなさん、世の中にこのような人が他にいるでしょうか?さきほどの例に上げたように、嫌なというか、ひどい上司がいるものです。そういう人には、こちらもそのように応答してしまいます。我慢して、いやいやながら仕えます。そうでないと食っていけないからです。そうすると、ストレスがたまって爆発するか、燃え尽きるか、やめるかであります。しかし、人ではなく、キリストに仕えるように仕える。何と幸いでしょうか?日本人は、常に人であります。人に支配されています。職場の問題も、仕事の良し悪しもありますが、人間関係、上司との関係であります。私が2年4ヶ月郵便局のアルバイトをして学んだことがあります。それは、環境というのは、人が作るもんだということです。その人の持っている性格や行動の仕方というものがあります。ずうずうしい人もいれば、上品な人もいます。無口で冷たい人もしれば、誠実な人もいます。口ばっかりで行動の伴わない人もいます。私たちはそういう人が目の前にいると、自分も影響されて、その人にあった言動をしがちであります。誠実な人には、こちらも誠実で対応しようとします。ずうずうしくて乱暴な人には、「こちらも負けじ」と対応しようとします。つくづく、環境というのは自分で作っているんだなーと思いました。

では、こちらが人ではなく、キリストに仕えるように仕えるならばどうなるでしょうか?すぐに気がつくかどうかは分かりませんが、「珍しい人だなー」と思われるでしょう。いや、「便利な人だなー」と利用されるかもしれません。でも、聖書は何と言っているでしょうか?6:8「良いことを行えば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。」ハレルヤ!主が報いてくださる。主の報いを信じる。ここが生命線であります。多くの人たちは、特に、日本人は「人」であります。人を見て生きています。もちろん、人も重要ですが、人の向こうにいらっしゃる主を見て、仕えるのであります。そうすると、不平不満も半減します。「なんでこんだけやっているのに!」と言いたくなることがたくさんあります。でも、「主がご存知で、主が報いてくださる。アーメン」。そうすると心が落ち着くのであります。マタイ5章には「1マイル行けと強いるような者とは、一緒に2マイル行きなさい」と書いてあります。1マイルでも「まいる」のに、2マイル行ったら「二倍まいる」でしょう。でも、そういう意味ではありません。これはイヤイヤ、強いられてではなく、自分の意思で決めてそうするということです。「やれ!」と言われて、仕方なくやるのは、プラスマイナス・ゼロであります。そうではなく、自分の意思で私がそれを決めて行なう。受身ではなく、能動的になるとぜんぜん違います。私たちは自分の魂の主人なのであります。いくら、外部から力で「あれをしろ」「これをしないとクビだぞ」と言われても、私たちの魂が強ければびくともしません。決定するのは、私自身なのであります。人ではなく、主を見上げて生きるとはそういうことなのであります。人は仕事をやめさせたり、左遷させたり、いやなことをするかもしれません。しかし、イエス様は「肉体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな!」と言われました。私たちは主にあって、人を恐れないで、神様だけを恐れる。こういう魂のあり方が大切なのであります。

2.主人に対する教え

エペソ6:9「主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから」。「奴隷に対して同じようにふるまう」とは、どういう意味でしょうか?リビングバイブルでは「奴隷にたちに勧めたのと同じ態度で、奴隷を正しく扱いなさい」と訳しています。奴隷たちの態度とはどういう態度だったでしょうか?5節では「真実、つまりシングル・マインドで行きましょう」ということでした。主人である人も、一つ心が必要なのであります。政治家のように、二枚舌ではだめです。一枚舌でなければなりません。あっちではこう言い、こっちでは別なことを言う。「真実は1つしかない」とよく言われます。真実で生きるのが一番強いのです。6節には「うわべではなく、心から」とあります。上の人は、人を操作するために演技をすることがあります。それは偽善者であります。外では良さそうに見えても、心の中で何を考えているか分からない。でも、主を恐れる人はそうであってはなりません。7節には「善意をもって」とありました。人は権力を持つと、横暴になります。気に食わない人に対して、意地悪をしがちであります。だれに対しても、善意をもって対応することが必要です。もし、クリスチャンの社長がいたら、壁にかけておきたいですね。「主にあって真実に、うわべではなく心から、善意をもって」。そうしたならば、主がその人に豊かな報いを与えてくださると信じます。

ところで今日で言う、主人とはどういう意味でしょうか?主人とは何らかの権威を持っている人であります。会社の経営者も権威をもっています。部長や課長もある程度の権威をもっています。教育委員会とどっちが上か分かりませんが、学校の校長先生も権威をもっています。牧師も霊的な権威をもっています。でも、権威とは何なのでしょうか?それはリーダーシップと言い換えても良いことばであります。権威、あるいはリーダーシップとはどこから来るのでしょうか?ローマ13:1、2「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。」とあります。ここでいう権威とは、政府とか警察、国家権力のことであります。しかし、会社の社長とか学校の校長、親や牧師も1つの権威であります。もし、権威が正しく用いられているならばどうでしょうか?そして、その権威に従うならばどうなるでしょうか?権威とは人を守り、導き、正すためにあります。もし、下の者がその権威に従うならば、守りと導きが与えられ、豊かな生活をすることができます。しかし、「世の中の権威というものはいらないんだ。私は権威に逆らって生きる!」としたらどうなるでしょう。その人から、守りがなくなるということです。上の人が持っているものを、受けられなくなるということです。権威を持っている人は、何らかのものを持っているのです。もし、意味もなくそういう人に逆らうならば、好意や恵みが行かなくなるということです。どういう意味かというと、神様はそういう権威を許されたのであります。

しかし、その権威を、私のものだから自由に使って良いんだと思ったならどうなるでしょう?世界の歴史を見ると、どの国においても王様でも政治家でも独裁者がおりました。会社でも、家庭でも、教会でも独裁的なリーダーが立つ場合があります。その下にいる者たちはたまったもんではありません。お隣の北朝鮮はそうであります。ある人が言いました。魚が頭から腐るように、国も指導者から腐る。もし、指導者が変えようとせず、そのままにしていたなら、下から革命が起こる。英語では「腐る」「革命」ということばが似ているので、格言みたいになっています。とにかく、上に立つ人によって、下の人たちは影響を受けるということです。ところで、独裁者とはどういう意味でしょうか?独裁者というのは自分がそれが好きだから、そういう決断をします。独裁者は、組織にとって何が最も良いことか、あるいは人々にとって何が一番良いことかということを考えるのではなく、自分の好みによって決断するのです。真の指導者は、自分の好き嫌いではなく、組織の益を考える人であります。また、真の指導者は人間的な感傷ではなく、非情になっても決断をしなければならない時があります。アジアとか日本は、人間のしがらみというのがあります。血縁関係、学閥、元上司だった。天下りもそういうことが原因しています。親族や兄弟で会社を経営している場合は、決断が鈍ります。長い歴史のあるお店、老舗と呼ばれているところもそうでしょう。あっちを立てれば、こっちが立たずということがあります。実は、教会もそうであります。みんなに良いというのは、結局、みんなに悪いということもあるのです。ですから、リーダーの務めは決断をするということです。良い決断を下すということです。そして、決断をしないで先延ばしにするのが最も悪いということです。さもないと、下から革命、クーデターが起こります。

先週は2泊3日で、掛川で開かれたJCGIのセミナーに行ってまいりました。全国から300人近くの牧師たちが集まっていました。昔は日本教会成長研修所と言いましたが、「教会成長」という言葉が躓きになるというので、英語にしただけであります。いろんな先生、あるいは講師の先生を通して2つのことを確認させられました。第一はビジョンが大切だということです。指導者は神様からビジョンをいただく、そしてそのビジョンを共に担うように導くということです。神様は教会の指導者である牧師にビジョンを与えます。これは聖書の原理です。神様は族長アブラハム、イサク、ヤコブに語られました。モーセ、ダビデ王、エレミヤ、ダニエルもそうです。教会も牧師がビジョンを神様からいただく、そのビジョンを教会員が自分のものとしていくということです。埼玉に片柳福音自由教会というのがあります。3代目の牧師のとき、タラッパンという韓国系の弟子訓練にやられてみんな傷つきました。そのあと、4代目の牧師がそこに招かれました。みんな傷ついている状況です。あるとき、近くの施設から大勢の知的障害者が来ました。一人二人ではありません。10人以上やってくる。教会の雰囲気ががらっと変わります。しかし、ビジョンが与えられ、神様がどんな弱い人たちでも歓迎しておられる。そういう人たちを招き、病院から社会に復帰できる、家を建てました。そして彼らに仕えました。それまで古い今でも壊れそうな会堂でした。5回チャレンジしてもダメ。会堂が建ちません。あるとき、ライオンズクラブで、知的障害者のことを話したら、ある不動産の社長さんが涙を流して感動しました。そして「何かお役に立てることはありませんか?」と言われて、会堂の問題を話しました。すると、通りに面した200坪の土地を格安で購入できました。問題は、上物です。30年間で、4000万円の資金しか貯えがありませんでした。しかし、確か、建物2億円の予算です。不思議なことに、期日までなんとか与えられ。銀行がびっくりしたそうです。ある人たちは障害者が教会に来ることで反対しましたが、牧師は神様から与えられたビジョンのとおり進みました。これが大事なのです。指導者はビジョンの人でなければなりません。ビジョンはみんなで会議することで決まるのではなく、神様からやって来るものです。

もう1つ教えられたことは、「リーダーは次の世代とさらにその次世代にバトンタッチするように準備せよ」と言われました。つまり「バトンを渡す」ということであります。次の人に「あなたが60歳になるまでリーダーになるのを待て!」というのは、おかしいということです。私もこの教会のバトンタッチをするために人々を育てる。今、いる人たちばかりではなく、孫の代までちゃんと考えるということが大事です。今度のクリスマス、小学生が3名洗礼を受けたいと願っております。もちろん役員会にかけますが、おそらく、3名受けるのではないでしょうか?ですから、今の小学生が大人になって「ああ、この教会で良かった。自分たちでこの教会を担っていくだ」と言える環境を今から作らなければならないと思いました。このように、(1)リーダーはそれが神様から与えられたものだとへりくだること。(2)組織のために良い決断をすること。(3)リーダーはビジョンの人であることでした。では、人々に仕える人はどうだったでしょうか?(1)主に仕えるようにということです。(2)その心構えは「真実に、うわべではなく心から、善意をもって仕える」ということです。つまり、仕える人も、リーダーも主を見上げて行きましょう。主にあっては、主人も奴隷もないからです。

|

2009年11月22日 (日)

結婚の奥義       エペソ5:28-33

 ソクラテスの妻は世界の三大悪妻として知られています。ソクラテスの弟子が悩んで質問しました。「先生、私は結婚したら良いでしょうか?」ソクラテスが答えました。「もし、結婚したら、『ああ、結婚しなければ良かった』と後悔するだろう。また、もし、結婚しなかったなら、『ああ、結婚すればよかった』と後悔するだろう。結婚して後悔するか、結婚しないで後悔するか、どちらも同じじゃよ」と答えたそうです。使徒パウロがⅠコリント7章でこのように教えています。Ⅰコリント7:7「私の願うところは、すべての人が私のようであることです。しかし、ひとりひとり神から与えられたそれぞれの賜物を持っているので、人それぞれに行き方があります。」使徒パウロは一生涯独身でした。パウロは「私のように独身であれば、神様に最大限に仕えることがきる。それが理想的だ。でも、それぞれ神様から与えられた召命と賜物がある。私のように独身の賜物が与えられているなら、それで良し。でも、結婚するように召されているなら、それでも良し」と教えました。なんと、きょうは、11月22日、「いい夫婦の日」であります。

1.結婚の奥義

 エペソ5:32「この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」パウロは、キリストと教会の関係は、結婚の奥義であると教えています。そして、パウロは自分の妻を自分のからだのように愛しなさいと言われました。妻を愛するとは、「養い、育てる、かわいがる」ということです。そのように自分の妻をケアーしたならなんと幸いでしょうか。ところで、日本人ほど体の健康管理に気をくばっている国民もいないかもしれません。ある年齢になると、いろんなサプリメントを飲みます。さまざまなビタミン剤、骨や脳に良いものを補充します。男性はあまりしませんが、スキンケアーというのもあります。それから、適度な運動、食事のバランス、ダイエット・・・。具合が悪くなるとお薬を飲んだり、お医者さんのところへ行きます。でも、どうでしょうか?結婚生活に問題が起こっても、すぐお医者さんのところへは行きません。海外では結婚前後の学び、結婚カウンセラー、子育てクラス・・・いろいろあります。日本の場合はそういうところをパスして、家庭裁判所や弁護士に行きます。人に相談する頃は修復不可能なくらい、ひどい状況であります。そうではなく、体のように、「ちょっと具合が悪いなー」というとき、第三者のところへ行ってアドバイスをいただく。あるいは勉強をしたり、癒しのセミナーを受ける。それはとても重要であります。丸屋真也先生は、「カップルの結婚へのコミットメントレベル」ということをおっしゃいます。二人が結婚生活にどのくらい献身的かというレベルです。レベル1「コミットメントがあり、愛もあるが、問題がある」。たとえ献身度がレベル1であっても、「愛もあるが、問題がある」。なんだか安心します。問題のない夫婦はいないということです。レベル2「コミットメントがあるが、積極的な愛はなく、問題がある」。愛するという意思はあるのでしょうが、感情面が追いついていかない状態です。レベル3「コミットメントも積極的な愛もないが、解決しようとはしている」。まだ、この辺だと、カウンセリングを受けに来ても大丈夫、希望があります。レベル4「コミットメントも積極的な愛も、かつ解決しようともしない」。これは最悪な状態です。物理的に別居しているか、心の中で既に別居している状態。もう、離婚を考えているかもしれません。近年、日本も韓国でも離婚率が非常に高くなりました。では、それまでは大丈夫だったのか、というとそうでもありません。昔は世間体などで、我慢していたんでしょう。でも、現代は我慢するよりは離婚をして新しい生活を始めたい。また、女性に経済力がついたので、夫がいなくても生きていけるということでしょうか?でも、離婚は心も体も、そして霊的にも大きな傷を残します。できれば、お互いに修復して健全な結婚生活へと、回復させていただく方が望ましいでしょう。でも、聖書の結婚に対する教えは、命令であります。招待状ではありません。「夫はキリストが教会を愛されたように、自分の妻を愛しなさい」と命令形です。神様の命令を命令として受け止めない限りは、結婚の土台はかなり危ないと捉えるべきでしょう。

結婚に関するもう1つの奥義とは何でしょう。エペソ5:31 「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」そして、32節、「この奥義は偉大です」と続くからです。このみことばは、イエス様がたびたび引用した、結婚に関する教えであります。このみことばのもとは、どこにあるのでしょうか?それは、創世記2章であります。創世記2:24「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」この教えは、神様がアダムとエバを創造した直後に与えられたものです。アダムとエバは神様のもとで結婚し、神様のもとで結ばれたのです。だから、「人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった」と書いてあります。この意味は肉体的な意味だけではなく、心の面においてもそうであったということです。お互いに透明な関係、何も隠し立てのない関係でした。ところが、罪を犯して堕落してからはどうでしょうか?「いちじくの葉をつづり合わせて、腰のおおいを作った」とあります。エデンの園にはたった二人しかいないのに、もう、お互いを隠していたのです。主はエバに言われました。創世記3:16「あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる」と言われました。妻は夫を慕おうとるすが、夫は妻をコントロールする。こっちが下手に出れば、むこうがのぼせ上がる。だから、妻は喜んで夫には従えないのです。堕落後には、このように夫婦間に軋轢が生じてしまいました。では、堕落前に与えられた、結婚に対する神様のみことばは無効になったのでしょうか?そうではありません、イエス様も使徒パウロもそのまま引用しています。

つまり、これはどういう意味でしょうか?結婚とは神様が創造したものだということです。人間が「社会的に都合が良いから作った」とか、愛する男女が自然にそうなったということではありません。人間を創造された神様が、結婚という制度を造ったのであります。なぜでしょう?創世記1:26,27「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。・・・神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」神様は、父、子、聖霊の三位一体の神様です。神様はお一人であられながら、3つの人格があり、互いに愛し合っている共同体です。その神様に似せて、男と女が造られたのです。つまり、結婚のもとは、三位一体の神様ご自身だったのです。「神様が愛の共同体であられるように、私たちも男と女とで愛の共同体を作るように」。これが、神様のご計画であり、ご命令なのです。もし、夫と妻が互いに愛し合うならば、神様はとても喜ばれます。「ああ、私もその中に住みたい」と願うでしょう。なぜなら、神様は共同体の神様だからです。ご自分の性質に合う、愛の共同体であるならば、そこに住みたいと願うのです。神様がそこに住まわれる結婚とはどういうものでしょうか?プレローマ、すべてが満たされるのです。物質的にも精神的にも、あらゆる面で満たされるのです。これこそが、結婚の奥義です。

イエス様が公生涯で最初に行なわれた奇跡とは何でしょう?カナンの結婚式で、ぶどう酒が尽きてしまいました。ぶどう酒とは喜びの象徴です。その大事なぶどう酒が、まだ結婚式なのに尽きてしまったのです。イエス様は「水がめに水を満たしなさい」と命じました。その次に、「今、くんで、宴会の世話役のところに持って行きなさい」と命じました。そうしたら、何の変哲もない水が、良いぶどう酒に変わっていたのです。イエス様が最初に奇跡を行なわれたのが、結婚式であります。ということは、イエス様は結婚生活に関心があるということです。そして、家庭を結婚生活を良いぶどう酒に変えたいと願っているということです。また、結婚生活においては、水をくむごとく、イエス様の命令に従うことが大切だということです。

2.結婚の実際

結婚して始めて気づくことがあります。それは、「お互いがこんなに違っているのか!」ということです。男性と女性の頭の中を映し出した絵を見たことがあります。男性の頭の中には何があるのでしょうか?「セックス」「セックス」と、セックスが広いエリヤを支配しています。聞くという能力はゴマ粒ほどであります。女性の頭はどうでしょうか?頭の中央部に、「頭痛発生装置」があります。それから「買い物の衝動」「おしゃべり」「靴」があります。ほとんどないのが、「車の運転技術」と「欲しいものと必要な物を区別する能力」です。とにかく複雑です。香港からベン・ウォン師がコーチングのため何度も来てくださいました。その中で、必ず奥さんとのやり取りが語られます。ベン・ウォン師は、奥さんと20年たっても同じことで喧嘩をするそうです。一緒に、外食に行くときがあります。ベンが奥さん「どこに行きたい」と聞きます。彼女は「あなたが決めて」と言います。ベンは「いや、君が決めなさい。君が決めたところへ行くよ」と答える。すると奥さんは「いいえ、あなたが決めてよ」と言う。ベンは「私は君のことを尊敬しているんだ。君は大事な人なんだ。君の行きたいところへ私が行くよ」と言う。「いいえ、あなたが決めて」。「私は何でも大丈夫、何でも食べられるから。君が食べるものは何でも食べられるから」。「いいえ、あなたが決めてよ」。「じゃあ、マクドナルドに行こうか」と言うと、「えー?マクドナルド、信じられない」。「だって何でも食べると言ったじゃないか」。そこで、ベンは「ああ、女はどうして複雑な被造物なんだろう!」と思います。あるとき、「神様にあなたがた女性を造られたのですから、どうぞ、知恵を与えてください」と祈りました。あるとき、突然、トゥイーン。なぜ、妻が「あなたが決めてよ」というのが分った。「私の妻が知りたかったことは、私をどこへ連れて行ってくれるか、自分の夫は考えてくれているかどうか知りたかった。しかし、実際のところ、そんなことはぜんぜん考えていなかった。しかし、それを簡単にごまかすために、何も考えていないということを隠すため、『どこへ行きたいの?』と聞いていたんだ。もし、重要な人と食事に行くんだったら、前もって、決めておくはずである。だから、彼女は私にとって重要な人ではなかった。彼女のことを考えていなかった。」そこで先生は時間を作ることにしました。1日の中で、立ち止まって自分の妻のことを考えるときを持ちました。つまり、口先だけではなく、実際の行動で愛するということです。

Ⅰテモテ2章には男性と女性について教えられています。週報の裏面に印刷されていますのでご覧ください。Ⅰテモテ2:8-15「2:8ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。2:9同じように女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によってではなく、2:10 むしろ、神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行いを自分の飾りとしなさい。2:11 女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。2:12 私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。2:13 アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。2:14 また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。2:15 しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。」Ⅰテモテ2:8-15まで、何節が女性のために用いられているでしょうか?また、何節が男性のために用いられているでしょうか?男性については8節の1節だけです。しかし、女性については、9節から15節までです。合計7節女性について語られています。神様は7節も使って、女性に語っています。女性をちゃんとさせるために、なぜ7節も使わなければならないのでしょうか。それは、女性は複雑な被造物だからです。だが、神様が男性に語るときには、たった1節しか必要ではありません。なぜ、男性には1節なのでしょうか?男性は単純だからです。しかし、男性はこの1節を守ったなら夫として成功できるということです。「男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい」。かなり前ですが、私はこのみことばを牧師室に貼っていたことがあります。2年間くらい貼っていました。今は、もうありません。怒りから解放されたからです。男性は怒らないで、むしろ、きよい手をあげて祈るということです。教会の祈祷会に、集まるのがほとんど女性です。男性は来ません。なぜでしょう。祈りが退屈だからです。女性が祈ることも確かに良いです。しかし、男性が祈るとまた違うんです。家のかしらとして、手をあげて祈るときどのようなことが起こるでしょうか?自分に家長としての権威が与えられます。そして、祈った人たちと親密さが与えられます。妻のために祈ると妻と親密になり、子どもたちのために祈ると子どもたちと親密になります。男性は、「怒らないで、祈る!」これがとても重要な鍵です。

最後にコミュニケーション、会話の問題があります。男性は、結婚前はよく話します。しかし、結婚するとあまり話さなくなります。レストランに行くと良くわかります。楽しそうにおしゃべりしているカップルはまだ結婚前です。でも、むっつりとして新聞や雑誌を見ているなら、「ああ、結婚10年目かな?」と想像できます。私が成田から青砥に帰って来たときです。斜め向かいに初老のご夫婦が座っていました。たぶんご主人は退職しているお年かなと思いました。お二人は大きなケースを持っていましたので旅行帰りなのでしょう。成田から青砥まで1時間ありますが、その間、二人はほとんど会話がありませんでした。ご主人はむすーっと、苦虫をつぶした顔をしていました。奥さんは無表情でした。恐らく、心の中では「女友達と来た方が楽しかった」と思っているのかもしれません。真実は全くわかりません。でも、二人の会話がほとんどなかったということです。チェコスロバキアである調査をしました。この調査によれば、男性は普通、7000から8000の言葉を一日に発するそうです。しかし、女性は平均で、15,000語、一日に話します。また、この統計によれば、姑の方がもっと話します。義理のお母さんは19,000語、一日に話すということです。奥さんは15,000語、必要である。では、どういうことが起きるでしょうか?もし、夫が聞く耳を持たないならば、妻はイライラしてきます。女性はもっと話さなければなりません。特に、家の中で主婦をしているなら、特にそうです。しかし、夫は会社で5000語ぐらい話しています。営業をしている人は7000語使いきっています。だから、家に帰ったら、これ以上、しゃべりたくありません。夫が家に帰ると妻は、「待ってました」とばかり、15,000語を出さなければなりません。女性は「あなた、きょう何があったの?」と細かく聞きます。男性は答えが短い。新聞で言うと男性は見出しで、女性はその下の記事です。男性はだんだん腹が立ってきます。そして、テレビの前に座ります。「あなた、きょう何があったの?」「ああ、ああ」(リモコンを押しながら、答える)。聞こえているけど、聴いていない。聞く(hear聞こえる)と聴く(listen耳を傾ける)とでは違います。

丸屋先生がおっしゃっています。奥さんは子どものこと、近所のこと、親戚のこと、話したいことがいっぱいあるかもしれせん。だけど、ご主人が家に帰るなり、いっぺんに話さないことです。体は家に着いているかもしれないけど、心はまだ会社の途中かもしれません。まずは、ゆっくり夕ごはんを食べさてあげましょう。食べ終わった後、「お茶でもどうですか?」と言いながら、ゆっくり話す。奥様にも知恵が必要です。一方、ご主人はどうでしょうか?女性は自分の話を聞いてくれることによって愛を感じるそうです。「ああ、私のことを親身に聞いてくれている」。そうすると、愛を感じるそうです。男性の頭の構造には、聞くという能力がゴマ粒ほどであると先ほど話しました。本当に、私たち男性には訓練が必要です。でも、最近、わかったことですが、女性にも聞くということに対して忍耐がいるようです。私は世の中をできるだけ明るくするために、家内にも話しかけます。我が家では家内は余り話しません。おそらく7000語ぐらいなのかもしれません。そして、私がこういうことがあったと面白そうなエピソードを話します。すると家内は「前も聞いた」と言うんですね。私としては何度か言わないと脳の中が満足しないのです。しかし、「前も聞いた。何度も言わないで」と言われるとカチンと来ます。家内は老人ホームで看護師として日中、働いています。それで私が言います。「あなたねー、ご老人といつも一緒にいるでしょう。ご老人は何べんも同じことを言うだろう。なのに、あなたがねー『前も聞いた』と言ってごらん。どうなる?おじいしゃん、おばあちゃんに『前も聞いた』と言えるかい?」こんなたわいもないような会話をします。つまり、私たちにはコミュニケーション技術が必要であります。丸屋先生は著書の中で、コミュニケーションの障害になるものをいくつか上げています。相手とのコミュニケーションの障害となるものは何でしょうか?(1)さばく、(2)きめつけ、(3)批判、(4)診断、(5)アドバイスなどです。男性は理性的にものごとを考えがちなので「それは親子関係に問題があるなー」とか「君はこうしたら良いんだよ」と教えたりします。女性にとって、これが結構、良くないらしいんですね。女性はアドバイスが欲しくて言っているんじゃなくて、聞いてもらいたいから話すということなんです。いやー、複雑です。そして、コミュニケーションの助けとなるものは何でしょうか?それは信頼関係を築くコミュニケーションです。(1)相手を尊重する態度、(2)オープンな態度(何でも話せる雰囲気)、(3)本物の態度、優しい態度を取っても、それが本物でないとどうなるでしょう。何かあると怒りを爆発させたり、不機嫌になったりします。(4)共感する態度、(5)傾聴する態度。わー、態度が問題なのですね。

イエス様は「自分を愛するように隣人を愛せよ」と言われました。人とのコミュニケーション、人間関係、結構複雑です。いろいろ訓練も必要でしょう。でも、基本は何でしょうか?自分の声に耳を傾けるということです。セルフトーク、自分の声に耳を傾けるということです。しかし、それだけでは不十分です。神様との会話、イエス様が私に何と語りかけているかを聞くということも重要です。そして、イエス様に何でも語る。どんなことでも打ち明ける。そして、また自分の声に耳を傾ける。「ああ、そうだなー」と納得する。そのように自分を愛する。自分が神様から受け入れられていることを自覚する。そのことが土台となって伴侶や隣人とコミュニケーションをもてるようになると思います。主にあって自分を受け入れる。そして、主にあって隣人を受け入れる。こういう作業がいつも必要だと思います。

|

2009年11月15日 (日)

父と母を敬え       エペソ6:1-4

 本日は子ども祝福式がありますので、来週の説教箇所を本日、話させていただきます。パウロは、夫と妻の関係を教えた後に、子どもと両親との関係について教えています。人間関係は、両親との関係が基礎になります。両親との関係が、あらゆる人間関係に影響を与えます。今日、ひきこもりの人たちが大勢いますが、一番は、両親と絆が乏しいかったことが原因しているようであります。「人を本当に信頼できるだろうか?」「いや、信頼することはできない」。彼らは、両親から信頼することを体験的に学ぶことができませんでした。しかし、その両親も親たちから、様々な傷を受けて来た被害者たちでもあります。だから、子どもに対して辛く当たり、愛することができなかったのです。この世には、そういう負の連鎖があります。クリスチャンである私たちの代から、それを良い連鎖、祝福の連鎖に変えることができたら何と幸いでしょうか。

1.子どもに対する父親の責任

 エペソ6:4「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」日本では、「子育ては、母親がやるもんだ」みたいに思われていますが、父親にも重要な役割があります。父親や祭司として、妻や子どもたちのために祈り、とりなし、仕えます。また父親は預言者として、子どもたちに神の律法を教えます。そして、父親は王として、家庭を正しく治めるのです。つまり、父親は神様の代理であり、子どもたちは父親を通して神様を知るのです。しかし、地上の父親は不完全です。ある父親は、独裁者的で妻や子どもに暴力をふるいます。それまで家族はなごやかでした。しかし、お父さんの車の音が聞こえると、子どもたちはそれぞれの部屋に入ります。また、小言を言われるからです。また、ある父親は業績志向で、子どもたちが良い成績を取るようにあおります。良い成績を取らなければ、受け入れないのです。また、ある父親は無口で非常に弱々しい。何も言わない。存在感のない父親です。また、ある父親はギャンブル好きで、仕事もろくにしない。いい加減な父親です。また、ある父親は家庭にいません。朝早く仕事に出かけ、夜遅くに帰ってきます。長い間、出張して家を空ける父親もいます。また、離婚や死別のため、父親がいないという家庭もあります。

 母親と子どもは、一体であります。0歳から1歳くらいまでは母親の養育が必要です。でも、それ以上になると、父親も必要です。父親は第三者、社会の代表であります。父親が自分を受け入れてくれるなら、子どもは「ああ、世の中は安全だ!」と思うでしょう。しかし、父親が自分と関わってくれないならば、「世の中は大丈夫だろうか?」と不安になります。つまり、子どもは父親によって自分とはだれなのか、アイディンテティを持つことができるのです。また、神様は「天のお父様」と呼ばれています。私たちが「天のお父様」と呼ぶときに、「ああ、もう一人いたなー」と地上の父を思い出します。もし、地上の父が独裁者的で恐かったならば、天の父も独裁的で恐い神様だと思うでしょう。もし、地上の父が業績思考であったならば、天の父も一生懸命がんばらなければ愛してくれないと思うでしょう。また、地上の父が無口で弱かったならば、神様とお祈りするのが難しいでしょう。また、地上の父がいい加減であったならば、神様には頼ろうとは思わないでしょう。また、地上の父がいなかったならばどうでしょう?ある牧師のお父さんは自分が6歳のとき亡くなったそうです。先生がクリスチャンになって「天のお父様」と呼びかけても天国が空っぽであったということです。二人の息子ともずーっと会話ができず、親子の関係が非常に悪かったということです。このように、父親が子どもに与える影響は非常に大きいのです。

2.両親に対する子どもの責任

 エペソ6:2「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。「しあわせになり、地上で長生きする」とは、聖書における祝福の表現です。しかし、どうして、ここに「父と母を敬うことが第一の戒めである」と書かれているのでしょうか?十戒は第一から第四番目は神様に対する戒めです。そして、第五番目から十番目までは人間に対する戒めです。そして、十戒の五番目にあたるのが「父と母を敬え」であります。つまり、第一の戒めと言う意味は、人間関係における第一の戒めであるということです。もし、父と母を敬うことをしっかり覚えるならば、第六から第十の戒めも守ることができるということです。みなさん、両親との関係が悪かった子どもたちが犯罪を起すケースが高いというデーターが出ています。彼らは世の中の人たちを憎んでいます。何故、憎んでいるのでしょうか?彼らはその前に、両親を憎んでいるのです。彼らが両親を敬い、両親に従っているならば、最悪に陥るところまでは行かないのであります。両親との関係が悪かったならば、子どもにどのような影響を与えるのでしょうか?さっき申し上げましたが、両親を否定したならば、自分がだれか分からないということです。両親はいわば自分のルーツであります。「あんなクソ親父いなければ良かった」。母親に対して「どうして、私を生んだんだ。頼みもしないのに」と言うならどうでしょうか?それは、自分を見下げ、自分を否定していることと同じなのです。特に父親を否定したならば、自分のアイディンテティ、自分がだれか知ることが難しいということです。

 第二は世の中の権威ある人に従うことが困難です。学校の先生、警察官、会社の上司、そして教会の牧師です。その人は父親から権威に従うということを学んで来なかったのです。むしろ、父親を軽蔑し、反抗心を持って生きてきました。そういう人がどうして、世の中の権威ある人たちを敬うことができるでしょうか。「上司とうまくいきません。上司は私を認めてくれません。私も快く上司に従うことができません」という人がいます。多くの場合、その人は父親との関係が良くなかったことが原因しています。上司が父親と二重写しになり、こちらも父親に対する同じ感情を抱くからであります。私は牧師になって、こういう原理を知りませんでした。何人かの姉妹から、つっかかれました。もちろん、私が牧師らしくなというところもあるでしょう。でも、私のせいだけではありません。彼女たちの多くは、父親との関係が良くないのです。父親が浮気して家を出てしまった。父親がお酒を飲んでお母さんをいじめた。子どもはそういう父を憎み、尊敬できません。教会で牧師が何かを言うと、命令調に聞こえて快く従えない。そして、どうしても対立的になる。結構、父親との関係が原因しているのではないでしょうか。

 第三は部下や自分の子どもに対してです。部下が自分のライバルに思えるのです。子どもに対しても同じで、「10年早い」と言いたくなります。なぜでしょう?自分に父の心がないからです。父の心がないので、人をあわれんだり、心から世話しようとは思わないのです。父の心を持ったならば、後輩や子どもの成功は自分の成功であります。むしろ、自分を乗り越えていったほうが、喜びなのです。でも、自分が大人になりきっていないので、他の人をほめることさえできないのです。

 第四は伴侶に対してです。自分の妻を正しく愛せないという夫がいます。あるいは自分の夫に従うことができないという妻がいます。たとえば自分が子どもの頃、父親が酒乱で母親をなぐっていた。それを見ていた自分は「あんな父親にはなりたくない」と誓ったとします。しかし、どうでしょうか?自分が大人になり結婚してから、妻に対して無性に手を上げたくなります。なぜでしょう?子どものときに誓った「内なる誓い」のせいであります。「内なる誓い」が逆の方に働き、父親と同じことをしてしまうのです。また、女性の場合も同じです。ひどいお父さんを見て育った人が結婚します。その夫をどうしても敬うことができない。どうしても対立し、夫のリーダーシップを侮ってしまう。なぜでしょう?お父さんとご主人が二重写しになっているのです。私も家内がうるさいことを言うと、「やかましい」とどなったことがあります。私の母が口うるさかったからです。家内が母のようになり、私が小さなこどものようになります。子どもの私が「うるさい、やかましい」と反抗するのです。

 第五は神様のイメージに影響を与えます。これは先ほど申し上げました。私の父は業績をあおり立てる人でした。学校で良い成績を取っても、ぜんぜんほめてくれない。長男や長女の通知表を出してきて、「兄や姉の方がもっと良かった」というのです。私は牧師になって、一生懸命、教会を大きくしょうと思いました。そのとき、天のお父様をどう思っていたでしょうか?「使徒パウロはあれだけがんばった。なのに、お前は何故もっと伝道できないんだ。歯がゆいぞ!」汗をかいて必死になっている自分がいました。自分の父親から受け入れられた経験がないので、父なる神様もそうなんだと思っていたのです。父や母がすばらしくて、子どもに傷を与えないならば何と幸いでしょう。しかし、多くの場合、彼らの父や母が正しく愛してくれなかったので、自分の子どもに辛く当たるケースが多いのです。親たちも愛された経験がないので、どうしても自分の子どもを愛せない。先祖が犯した咎を代々、受けついでいるのです。咎とは曲がっているという意味ですが、その曲がりが世代間連鎖しているのです。だれかが、それを修正し、食い止める必要があります。

3.癒し

 Ⅰヨハネ2章に子どもたちに対する、すばらしいみことばがあります。子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。・・・小さい者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが御父を知ったからです。」霊的に子どもであるクリスチャンに対して2つの必要があります。第一は、キリストによって罪が赦されたということです。ほとんどのクリスチャンは自分の罪が赦されたということは知っています。しかし、もう1つについてはどうでしょうか?第二は御父を知る、つまり神様を父として知るということです。知るとは、知的に知るのではなく、体験的に「神様は私のお父さんなんだ」と知るということです。父なる神様はどうやって分かるのでしょうか?イエス様はヨハネ14章で、私を見たものは父を見たのであると言われました。つまり、イエス様を良く知るならば、父なる神様のことが分かってくるということです。イエス様が私たちを無条件に愛しておられる。つまり、父なる神様も私たちのことを無条件に愛しておられるということです。イエス様が私たちの心を癒してくださることによって、父なる神様が正しく見えてくるということです。イエス様は私たちの過去のあの暗いときも、お近くにおられたのです。イエス様が「君が愛されたかったことを、私も気の毒に思うよ」と子どもの自分を抱きしめてくださるのです。あるところに、とっても乱暴で怒りっぽい男性がいました。牧師が彼のために祈ってあげました。牧師は祈りながら、「何か見えますか」と男性に尋ねました。彼は「5,6歳頃のときの、家の中が見えます。お父さんがその夜も酒を飲んであばれていました。子供の私は怖くて泣いていました。ああ、お台所の窓ガラスが割れて、大きな穴があいているのが見えます。窓の穴から見える外は真っ暗です。」と言いました。だいたい、こういう家庭は、しょっちゅう窓ガラスが割れるので、何日間か、そのままにしておくのが多いのです。突然、男性は涙を流しはじめました。どうしたのですか、と聞くと。「あのときは気付かなかったのですが、窓ガラスの穴から、イエス様がお家の中を眺めています。イエス様はとっても悲しい顔をしています」。そのとき、男性は、イエス様から「私も気の毒に思ったよ」と慰めのことばをいただきました。それで、彼は大声で泣きました。それから、彼は怒りから解放されたそうです。イエス様は永遠の神様ですから、あなたの過去の出来事をご存知であり、深い慰めを与えてくださるのです。イエス様の愛を受けると、自分の父もしくは母を赦すことができます。私にひどいことをした父を赦します。私にひどいことを言った母を赦します。赦しとは怒りを手放すことです。イエス様は「私に免じて、赦しておくれ!」と懇願しておられます。私たちは「それだったら、赦します!」従うべきです。赦しは力です。

 次に必要なのは、「内なる誓い」を主の御名によって破棄することです。「あんな親父みたいになるもんか!」「あんな母親になるもんか?」「お父さんのような男性とは結婚しない。」「お母さんのような女性とは結婚しない。」「父や母のように、みたいにがみがみ言わないぞ!」「お酒は飲まないぞ!」「だらしない生き方はしないぞ!」あなたは、子どもながらこぶしを握って、何かを誓ったかもしれません。その誓いをイエス・キリストの御名によって赦していただき、それを破棄するのです。裁くものは裁かれるのです。あなたが赦したら、あなたも赦されるのです。また、怒りの構造とか、敬えない心、そういう悪いものを十字架につけて死なせます。わかっちゃいるけどやめられない、なおせないもの。それは、あなたの性格の一部になっているのです。どうぞ、古い構造を十字架につけて死なせましょう。最後に新しい命をいただきましょう。愛とあわれみをいただきましょう。それは同時に、父の心をいただくということです。そのことによってあなたは人々を思いやり、無条件に愛し、受け入れることができるようになります。

4.私の証し

私は牧師として、父母を敬わなかったために、悪いものを刈り取っていました。私には父の心がありませんでした。ルカ15章に100匹のうち、1匹がいなくなったという物語があります。羊飼いは失われた羊を探しに野山をかきわけ出かけます。私の正直な思いはどうだったでしょう。「あの一匹は弱いくせに反発したんだから仕方がない。ま、99匹いるから良いか」と後を追いかけようとしません。少しは追いかけても、「見つけ出すまでは」という愛がありません。何故でしょう?自分はそうされなかったからです。「俺は大事にされなかった、放っておかれた!」という思いがあったからです。本当に私は父の心がありませんでした。ところがちょうど10年前、子ども(有悟)が突然生まれました。すぐ上の子どもとは11歳も違うんです。家内と私は「え?これから子育て」と思いました。10年前の、11月8日のことです。帝王切開で生まれました。一番、最初にだっこしたのは家内ではなく私です。なんとその赤ちゃん、眉間にしわが寄っていました。私も眉間に皺があり、家内から「神経質に見えるわよ、伸ばしなさい」とよく注意されました。私は思ったんです。「私の眉間のしわもきっと生まれつきだったんだ!」と。同時に、私が7番目として生まれたときに、親はどう思ったんだろう。たしかに、「年よりの子どもで大変だなー」と思ったことでしょう。でも、やっぱり、「可愛い」と思ったに違いありません。その子は1か月目に風邪を引いて、病院に入院して点滴を受けました。男の子は弱いですね。私はそこでまた思いました。私も病気のとき、看病されたんだろうと…。私は4番目の子どもが与えられて、自分自身が癒されました。一人の魂の価値を知ることを教えられました。ですから、牧師として、少しずつですが、「父の心」が与えられました。ただ、頭数を数えるだけではなく、一人一人の魂の健康を気遣う心が与えられました。

 同じ、10年くらい前ですが、友人の若木先生は燃え尽きとうつ病になりました。主任牧師から捨てられたような形になり、神様に怒りを持ち、祈ることさえもしていませんでした。そのとき、先生が名古屋のキャンプに参加し、エディ・レオ師と会ったそうです。エディ・レオ師が無条件の愛について教えられ、若木先生をハグしてくれました。そのとき、お腹の中につっかえていたものが取れたそうです。それから、だんだんと回復していったのであります。その後、若木先生がエディ・レオ先生を紹介してくださいました。先生は、アバラブ・ミニストリーのために日本に何度も来てくださいました。アバラブというは、父の愛という意味です。インドネシアの教会で、父の愛ということが開かれてから、教会が全く変えられたそうです。ある年、セル教会のサミットがあり、インドネシアを訪れました。そのとき、エディ・レオ師はハワイで行なわれたトライアスロンのレースをビデオで私たちに見せてくれました。あるお父さんが、口もきけず手足を動かすこともできない自分の息子とそのレースに参加しました。最初は水泳、3キロも泳がなければなりません。息子をボートに乗せ、お父さんがボートをひっぱりながら泳ぎました。その次は、自転車で130キロも走ります。お父さんが自転車の前にかごを取り付け、そこに息子を乗せて走りました。最後は30キロのマラソンです。お父さんは息子を車椅子に乗せ、後ろから押しながら走りました。すべての人がゴールしました。それから8時間後、真夜中になって親子の姿が見えました。お父さんは、最後のゴールでは、ほとんど死にかけていました。息子がにっこりと笑いながらゴールしたのが印象的でした。その後、エディ・レオ師が言いました。「私たちも霊的にはハンディを負ったような者です。私たちは自分の力でレースを走り抜くことができません。しかし、天の父が私たちを最後まで運んでくださいます。彼は良い父親です。今、父のもとに来てください。父の心を持ちたい人は、今、近くの人からハグして祈ってもらいましょう」と言われました。私はマレーシアから来られた聖公会の牧師にハグしてもらいました。お腹がぐっと熱くなり、3つの咳がでました。それが何か分かりませんが、つっかえていたものが取れて、本当に軽くなりました。自分の父から受けられなかった愛と慈しみを神様から受けることができました。

 父なる神様の愛は、無条件の愛です。この愛を男性も女性も必要としています。大人も子ども必要としています。まず、私たちクリスチャンが癒しを受けましょう。そして、私たちの世代で負の連鎖をストップさせましょう。先祖から受け継いだ咎を悔い改め、私たちの代から祝福に満ちたものにしましょう。この世の多くの人たちは、本当の父親、本当の母親を探しています。多くの犯罪が起こるのは本当の父親、本当の母親がいないからです。私たちが天の父の心を持ちましょう。そして、天の父の心によって愛していきましょう。神様は私たちを通して、ご自身の愛を現わしたいのです。お祈りいたしましょう。

|

2009年11月 8日 (日)

妻と夫に告ぐ    エペソ5:22-27

 きょうの聖書箇所は結婚式の式文の中にも引用されている有名な箇所です。しかし、近年、ウーマンリブ運動がおこり、教会以外の式場ではあまり語られなかったのではないかと思います。なぜなら、「夫に従え」とか、「夫は妻のかしらである」とか言うならば、反発を食らうからです。「古い、時代遅れだ」とか「何という女性蔑視だ」と言われかねません。しかし、本当でしょうか?これは神様が与えた秩序であり、原則です。どの時代にあっても通用するものです。ローマの時代、「妻を愛せよ、自分のからだのように愛せよ」ということは全くなかったからです。かつての、日本や韓国でも、女性の人権ははなはだ低かったでしょう。今もイスラム圏やインドなどでは、夫の所有物みたいなところがあります。それに比べたら、聖書ははるかに、女性の味方であります。何が違うのでしょう?身分が違うのではなく、機能が違うのです。きょうは、夫と妻のそれぞれの機能、働きについて学びたいと思います。

1.妻に対する教え

 まず、最初に、「妻は夫に従え」と書いてあります。「妻は夫に従いなさい」「妻は夫に従いなさい」。気持ち良いですね。では、なぜ、妻は夫に従うべきなのでしょうか?23節「なぜなら、キリストは教会のかしらであるように、・・・夫は妻のかしらである」と書かれています。教会はキリストのからだであると聖書で言われています。からだなる教会のかしらはキリストです。同じように、人間で言うなら、夫が頭の部分で、妻が体であるということです。みなさん、頭と体、どっちが偉いのでしょうか?頭は体なしでは何もすることができません。体は頭の司令がなければ正しく動くことができません。つまり、どちらが偉いかではなく、機能の違いだということです。頭は体の上にあると、大変、機能的であります。頭が足の膝のところにあったら不便です。頭が体の上にあるから、色んなものが見えたりするのです。また、「かしら」には、源という意味があります。源がきよければ、下の部分もきよいのです。源が汚れるならば、下の部分も汚れるのです。また、「かしら」はリーダーシップを意味します。かしらは司令も出すけれど、同時に責任も取るということです。体に対して、「ノー」という時も必要なのです。旧訳聖書を見ると、夫がかしらとしての役目を果たさなかったことが何度かあります。まず、エバが食べてはならない木から取って食べた時、アダムは「ノー」と言いませんでした。エバがヘビに誘惑されているのをそばでだまって見ていました。そして、エバがくれた木の実を自分も食べました。もう1つの出来事は、アブラハムは子どもが与えられると約束をいただいていました。しかし、サラが「私はもう年なので、そばめに入ってください」と提案しました。アブラハムはそのとき、「ノー」と言うべきだったのですが、「ああ、そうか、そんなに言うなら」と従いました。それで、アラブの子孫であるイシュマエルが生まれたのです。これは、からだとかしらが逆転してしまった悪い例です。

 パウロは24節で「教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです」と命じました。教会はキリスト様をあがめ、キリスト様に仕え、キリスト様に従っています。そのように、妻も夫に従えというのです。すばらしいですね。アーメン。そうしてください。でも、どうでしょうか?「教会がキリストに従うように、妻が夫に従う」とはどういうことでしょうか?教会の長い歴史を見たとき、教会は完全にキリスト様に従ってきたでしょうか?はなはだ不従順だったこともしばしばあります。キリストの権威を教皇や組織が横取りしました。そのため、中世の時代はむちゃくちゃ堕落しました。今の時代でも、クリスチャンである私たちがイエス・キリストに100%従っているかというとそうでもありません。従いたい気持ちはもちろんありますが、そうできないときもたくさんあります。ということはどうでしょう?「教会がキリストに従うように、妻が夫に従え」とは、そういうところも加味されているということです。従えない罪の傾向性や弱さもあっても良いとは言わないけれど、従えないときもあるということです。そうしますと、なんとなくほっとします。でも、妻たちは「私はイエス様に従うけれど、夫には従いません」とは言えないのです。イエス様に従うように、夫にも従う努力をすべきなのです。でも、夫が未信者であったならばどうすべきでしょうか?全く、聖書的でないことを命じたりするかもしれません。また、妻の信仰を認めないばかりか、迫害するかもしれません。そうすると、妻の方は「聖書の真理が全くわからないんだから」とだんだん、軽蔑するようになるでしょう。妻の信仰が篤ければ篤いほど、夫との間に溝ができてくるでしょう。

 聖書には「信仰のない夫に対しても従え」と書いてあります。コロサイ3:18「妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい」とあります。つまり、主イエス様が第一であり、神様のみこころに反することであるならば、従わなくても良いということです。また、Ⅰペテロ3:1には「妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。」とあります。そのふるまいが、だんだん、夫に影響を与えていくということです。松戸に岡野先生がいらっしゃいます。岡野先生は一度、教会を潰したという経験から、180度変えられました。今までは集会第一、伝道第一、奉仕第一でした。しかし、それ以来、夫や妻、子ども、家族を大事にするように勧めています。名前が○○教会ではなく、「グレイス・ホーム」にしています。たとえば、ご婦人が勉強会などでイエス様を信じて救われました。でも、ご主人が未信者なので、日曜日の礼拝には来られない。ではどうするか?今までだったら、礼拝厳守と言っていましたが、そうではありません。このように答えているそうです。「月曜日とか水曜日でも良いです。日曜礼拝が守れなくてもぜんぜんかまいません。みことばにあるように、夫に従い、仕えることです」と勧めます。その姉妹はこれまで、仕事から帰ると疲れて、夕食も遅くなるし、適当になっていました。しかし、夫のために美味しい夕食を作ってあげました。それまでだったら、給料安いとかブツブツ言っていたけど、夫に感謝するようになった。数ヶ月後、そのご主人さんから電話があったそうです。「うちの女房が教会へ行ってから変わりました。妻がどんな神様を信じているか知りたいので、こんど伺ってもよろしいですか?」という電話だったそうです。こういう証が、グレイス・ホームにはたくさんあります。常磐牧師セルで集まりを持っていますが、岡野先生ご夫妻にこういう話題が回ると止まらないんです。「ああ、またか」と思いますが、「すごいもんだなー」といつも驚きます。

 私たちは家族の伝道が難しいと思います。でも、聖書の原則を守るということはとても大事なことです。33節でも「妻もまた自分の夫を敬いなさい」と言われています。と言われながらも、なかなか夫を敬えない。「敬えるような夫だったら敬う」と言うかもしれません。でも、男は神様から、かしらとして造られているのです。かしらの役目をうとんじられて、ゲシゲシと足蹴にされたらどうでしょうか?男は「ああ、それだったら良いよ」と、ふぬけになるのです。このところに「人は父と母を離れ」とあります。ある家庭は、妻とそのお母さんが、婿に対して力をふるっています。そのお婿さんは、ギャンブルやキャバクラに行ったりするそうです。もちろん、その男性にも問題がありますが、妻とそのお母さんが組んで、圧力をかけたならば男は形無しであります。もちろん、そういうケースはまれかもしれませんが、かしらとからだが逆転していることは結構あるかもしれません。傘でたとえるとどうでしょうか?普通、傘は広がったところが上で、柄の方が下です。これは夫がかしらとしてリーダーシップを取っている姿です。妻や子どもは安心して暮らすことができます。しかし、夫がかしらとしての責任を果たしていないとどうなるでしょうか?傘に穴が開いた状態です。雨がどんどん落ちてくる。妻や子どもがひどい状況になります。では、逆に妻が夫に代わってリーダーシップを取ったらどうなるでしょう?それは、傘が逆さまになった状態です。柄の方が上で、広がったところが下です。それでは、雨はたまるし、傘の役目を果たすことができません。男は本来、かしらになるように造られているのです。おだてが半分でも良いから、妻から敬われると、その気になるのです。賢い妻は95%まで、ほとんど決めていても、最後の5%の決断を夫に任せます。もうだれが見ても結論は出ている。しかし、夫を立てて、最後の決断を任せる。夫は「よっしゃー」と決断をします。すると、夫は責任を取ろうとするのです。男は単純です。どうぞ、夫をほめてやってください。そうすれば、妻に命を与えます。

2.夫に対する教え

 エペソ5:25「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」パウロは、妻たちには「夫に従え」と命じています。そして、夫たちには、「妻を愛せよ」と命じています。果たして、どちらが難しいのでしょうか?実は、妻を愛する方がより大変なのです。なぜなら、「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、自分の妻を愛せよ」となっているからです。愛するとは、ギリシャ語で「アガパオー」ですから、自分を捨てる愛であります。イエス様は私たち教会のために、十字架で命を捨ててくださいました。ここに愛があるのです。夫が、イエス様が教会を愛したように愛するとは、そういうことなのです。一方、「教会がキリストに従うように、妻が夫に従う」とはいい加減さも、入っているのです。でも、キリストの愛には、「適当とか、だいたい、まあまあ」というところがありません。本当に自分を犠牲にする愛であります。夫は、そのように妻を愛さなければならないということです。しかし、何故、「夫に愛せよ」と命じて、「妻にも愛せよ」となっていないのでしょうか?では、妻は夫を愛さなくても良いのでしょうか?そんなことはありません。妻も夫を愛すべきであります。これは、イニシアチブの問題です。イニシアチブとは、「率先する」という意味です。ローマ5:8「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」とあります。イエス様は私たちが正しくなってから、死なれたのではありません。私たちがまだ罪人であったときであります。キリストの愛とは、無条件であります。「こっちが罪を悔い改めたなら」とか、「正しくなってから」ではありません。「まだ、罪の真中にいたときに」であります。ですから、夫が妻を愛するとは、妻が自分を愛していないときでも、自分の方から愛するということです。また、何か悪いことを謝るときもイニシアチブを取るべきです。「お前が謝ったらあやまる」「あなたが謝ったらあやまる」。これでは、らちがあきません。こういうときも、夫の方から謝るのです。「神様はご自分は悪くないのに、私たちに和解の手をさしのべている」とⅡコリント5章に書いてあります。夫、男性は、そういう役目、そういう任務を神様から負っているのです。あるご夫婦がふとんに入りました。すると、天上の蛍光灯がつきっぱなしでした。妻が「あなた消してよ」と言いました。「いや、もう寝たところだからお前、消せよ」。「私だっていやだわ、あなた消してよ」。それで大きな喧嘩に発展したということです。どっちがおりるか、夫がおりて、スイッチを消したら丸くおさまるのです。これが愛のイニシアチブです。家でも、寝ているとき、家内が横から「あなた玄関のドア、鍵かけた?」と言います。「子どもが帰ってくるだろう」と私が答える。すると、「鍵持っているから、鍵かけてきて」と言うんですね。私は「なんだよー」と言いながら、階段を降りて行って鍵を閉めます。これが愛のイニシアチブです。

 26節以降には、夫が妻を愛するとは具体的にはどのようなことなのか、もっと詳しく書かれています。キリスト様が教会を愛した愛は、どのようなものだったのでしょうか?かしらなるキリストは、からだなる教会をこのようにして愛しました。26節には、「みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとする」と書いてあります。教会は妻のことですから、夫は妻を聖なるものとするということです。これはすごいことであります。結婚したての頃の若くてきれいな妻を聖なるものとすることはたやすいことかもしれません。でも、一緒に生活して、何十年もたつと、「意外と聖くない」という面がいっぱい見えてきます。独身男性は、独身女性を身も心も聖いものと思っています。でも、結婚すると、それは幻想だったのでしょうか?そうではありません。夫は、「みことばにより、水の洗い」つまり、キリストの贖いを通して、妻を聖いものとして見ていくのであります。イエス様は教会の私たちを聖徒、セイントとしてごらんになっておられます。すると、私たちは主のご期待にそって、より聖くなっていくのです。夫たちよ、どんなことがあっても、妻を聖いものと見てください。そうすると、信仰によって、恵みによって聖くなっていくのです。アーメン。もう1つは、27節です。「ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」聖書で教会はキリストの花嫁にたとえられています。イエス様は教会をやがて、このように聖めてくださるのです。しかし、ここに、「しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会」と書いてあります。もちろん、これは再臨の時の教会であります。でも、これが夫に対する妻の愛というように、考えたならばどうなるでしょうか?妻も年を取れば、しみや、しわ、いろんなところが出てくるでしょう。腰が曲がったりして、どこかに障害が起こるかもしれません。でも、「しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会、栄光の妻」。どういう意味なんでしょう?これは、外側ではなく、内面のことであります。Ⅱコリントに「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。・・・たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」とあります。夫たちよ、外側を見てはいけません。魂を内なる人を見ていくのです。外なる人には、「しみや、しわやたるみがあるなー」と思っても、内なる人は、つやつやで、栄光に輝いているのです。天国で会うときには、まさしく栄光の姿であります。私たちは内なる人を見る鏡を持ちたいものであります。

 最後に、エペソ5:28,29「 そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。」これも、夫が妻に対する愛のかたちであります。夫は妻を自分のからだのように愛さなければなりません。私たちは自分のからだをどうするでしょうか?自分のからだを労わるでしょう。ここに「養い育てる」と書いてありますが、どういう意味でしょう?英語の聖書は、「養い、かわいがる」と訳されています。Cherishということばです。それはまるで、鉢植えの花を育てるように、「養い、かわいがる」のであります。土に養分を与え、水を与え、日光に当てます。すると、葉っぱが開き、花を咲かせます。完成した切花はお花屋さんに売っています。今が見ごろとばかり、立派に咲いています。でも、根がないのでまもなく枯れます。でも、鉢植えの花はどうでしょうか?最初は小さいかもしれません。でも、だんだん成長します。そして花が咲きます。花が散っても大丈夫です。また次の年になれば花が咲くんです。もっと、数多くの花が咲くのです。こういうふうに、夫が妻を「養い育てる」ならなんと幸いでしょうか?「妻が愛を感じるのはどういうときでしょうか?」と、男性たちに質問したそうです。男性としては、「それは経済的な必要ではないか?」と言います。ある男性が妻にこういいました。車に乗りながら、「立派な車だろう。マンションだっておれが働いて買ったんだ。必要なものは何でもそろえてあげた。一体、何が不満なんだ!」と言いました。妻はあなたの愛がほしいのと答えたそうです。これは単純な男性にはわからないことであります。女性は、「細やかな配慮」が一番、愛を感じるということであります。それは、目に見える物ではなく、心の問題であり、優しいことばだそうです。そうでしょうか?私は、ここで語る資格はありませんが、あえて説教者として、講壇から語らさせていただいております。

 アムステルダムは堤防に囲まれた国であります。彼らは昔から、堤防を築き、堤防を管理していました。堤防やダムで、一番、気をつけるべきことは小さな穴であります。ねずみとかモグラが穴をあけます。最初はちょろちょろしていて、見逃してしまいます。でも、そのままにしておいたら、堤防が決壊し、大洪水になるでしょう。さきほど「しみや、しわ、傷がないように」、また「花のように養い育てる」と申し上げました。結構、こういうことは小さい問題であります。夫は経済的な必要を満たすこと、金を稼いでくること。もちろん、大切なことであります。でも、多くの男性は、細やかなことに対する愛の配慮がたりなくて、堤防が決壊してしまいます。たとい、大喧嘩はしなくても、小さな針でチクリ、小さな針でチクリと刺す。たわいもない皮肉や批判、あらさがしなど、これが積もり積もって堤防を決壊させてしまうのです。私もそうですが、ちょっとした言い方一つで、随分と違います。私なんか「めんどうくさい!」とやってきました。でも、妻を愛する、妻を労わること、これは自分の体を愛することと同じなんだということです。

私が座間教会にいたころ、高橋みおさんというおばあちゃんがいました。教会が大好きな人で、よく教会のお掃除も一緒にしました。ところが、未信者のご主人がみおさんをいつも迫害していました。みおさんは「大川先生のお嫁さんになって、教会に住みたい」と言っていました。ある日、おばあちゃんがお風呂場で倒れ、そのまま召されてしまいました。お葬儀をすることになり、ご主人の高橋さんが教会に初めてお見えになりました。「ああ、この人がそうか!」と心の中でさばきました。高橋さんは「聖書のあることばを発見した」と私たちスタッフに告げました。「聖書に、自分の妻を愛する者は自分を愛しているのですと書いてある。わしゃー、妻をちっとも愛さなかった。ということは、自分を愛していなかったんじゃ。ああ、妻を自分のからだのように愛するべきだった」。高橋さんは、心から悔い改め洗礼を受けました。その後、長男ご夫妻とお嬢さんが、イエス様を信じて洗礼を受けました。高橋さんは、若かった私たちに、「私のような失敗を犯さないように」と忠告してくださったのです。ですから、この箇所を読むたびに、今は天に召された高橋さんのことを思い出します。「自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです」。なんというすばらしいことばでしょうか。お祈りいたしましょう。

|

2009年11月 1日 (日)

御霊に満たされなさい   エペソ5:15-21

 私ごとですが、家内と私が結婚したのは、1981年11月1日でした。ですからきょうで、満28年になりました。私にとっては、人生の半分が独身で、半分が結婚生活ということになります。このあと28年あるかどうかは分かりません。もうすでに、かなり記憶が飛ぶことがあるので、ちょっとだけ心配です。たとえどんなことがあっても、イエス様の方は私のことをお忘れにはならないので安心です。きょうは、エペソ人への手紙の中でも最も有名な箇所を学びたいと思います。

1.機会を十分に生かして用いなさい

 エペソ5:16「機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。」「機会」という言葉は、英語の聖書にはtime(時間)と、opportunity(機会)と2種類に訳されています。新共同訳は「時」と訳しています。おそらく、両方の意味が含まれているのではないかと思います。興味深いことに、原文のギリシャ語では、「時を贖いなさい」となっています。これを丁寧に訳しますと、「悪いことに用いられている、今の時間を買い戻して、善いことに用いなさい」ということになります。エペソ5章の前半で、世の人々はどういうことをしていると書いてあったでしょうか?不品行、汚れ、むさぼりをしていました。また、みだらなこと、愚かな話、下品な冗談を言っていました。つまりそれらは暗やみのわざであります。愚かな人たちは、もっぱら、そういうことに時間を費やしているのであります。一方、私たち光の子は、そういう悪い時代の中にあって、時間や機会を有効に使いなさいということです。有効に使うとは、主のみこころは何かをよく悟って、そのことのために、時間を使うということであります。

 私たちは時間や機会を正しく管理できたらすばらしいと思います。クリスチャンはイエス様を信じたので既に永遠の命が与えられています。私たちは、片足をこの世につけていますが、もう片方の足は永遠の御国に突っ込んでします。いずれは、この世とおさらばして、永遠の御国に住まうのであります。永遠と比べたら、この地上の生活は、一瞬であり、瞬き程度のものであります。だからこそ、私たちはこの地上での時間を大切に用いるべきなのです。聖書をよく見ますと、この地上でどのように生きたかが、1000年王国、御国でどのように生きるか左右されると書いてあります。ミナのたとえや、タラントのたとえでは、私たちに任せられたものに対して忠実であったかが問われます。もし、私たちは小さなものに忠実であったなら、向こうでは大きなものを任せられるというのです。救われて永遠のいのちが与えられたんだから、鼻をほじくって、のんびり暮らせるということではありません。私たちに任せられているものの中で、時間は非常に大切であります。貧しい人にも大金持ちの人にも、平等に1日、24時間与えられています。秒すると、一日は、86,400秒であります。1秒を1円とするならば、86,400円であります。1日に86,400円もらっているとしたら、とってもリッチな気分になります。あなたの銀行の口座に毎日、86,400円が振り込まれるのです。あなたはそれをどのように使うでしょうか?その時間というお金は、人にあげることもできないし、また、明日に持ち越すこともできません。あなたが一日で、86,400円を使わなければならないのです。もちろん、何もしないで捨てることもできます。世の中には、暇をもてあましている人たちがたくさんいます。でも、その86,400円を有効に使うこともできます。もし、私がこれから先20年生きるとしたら、どれくらいの金額になるでしょう?一年を365日にして計算すると20年では、6億3,072万円になります。ハレルヤ!私はこの先、6億3,072万円振り込まれることになっています。いやー、すごいですね。

 丸屋真也先生が最近お書きになった『タイム・マネージメント・スキル』本があります。日本語でいうと、「時間を管理する方法」であります。ちょっと本から引用したいと思います。まず、時間を管理していない生き方があります。それは、時間に追われるような生活をしている人です。サラリーマン、OL、子育て中の主婦、医師や看護師等の専門職、さらに個人事業主などは典型的な時間に追われる生活と言って良いでしょう。毎日しなければならないことがたくさんあり、その責任を果たすことにひたすら邁進しているのです。その結果、時間が飛ぶように流れる中、たくさんの仕事をこなしているのです。そのような時間の流れから逃れる手段は、自分の手の中にはなく、終電の時間がくるとか、体力や精神力の限界から病気を患うことによって、やむなく追われている時間をとめることができるのです。そのような生き方ですと当然タイム・マネージメントはできません。もう1つの極端な生き方は、時間を気にしない生き方です。そういう人は、一日をその日のことだけ考えて生活するのです。明日どうするかを考えたり、計画したりすることをしません。こういう人も、正しく時間を管理していない人です。では、私たちはどのように時間を管理することができるのでしょうか?①時間の制限を前提として生きる。私たちは水道を出しっぱなしにすると「もったいな」と言って、止めるでしょう。時間は放っておくと、どんどん流れていきますから、能動的に使わなければならないのです。②時間の使い方に意思を働かせる。限られた時間をどのように過ごしたいのか、自分の意思が反映した時間の使い方を考える。まず、一日の午前中は何をするか、午後は何をするか考える。次は、一週間単位で考える。たとえば、何曜日はお花の稽古をするとか。さらには1ヶ月単位、3ヶ月単位、半年単位。○○の資格を取るとか、○○級を目指すとかです。さらには1年、3年ぐらいまでの長期的な展望に立つということです。③同時に2つの計画を進行させる。主婦の場合、パソコンだけではなく、同時に語学を学ぶ。④時間の連続性を考える。一日一日の時間、つまりその時間の中でしたことが、次につながって、後には1つの結果を生むのです。結論的に、時間をコントロールするということは、生活をコントロールしていう感覚を持つことができます。それは、時間に追われていると感じるのとは逆の状態です。

 旧訳聖書のレビ記11章にはきよい動物ときよくない動物について書かれています。「海や川でも、水の中にいるもので、ひれとうろこを持つものは」きよいので食べても良いと書いてあります。しかし、ひれやうろこのないものはすべて忌むべきものです。なぜでしょう?ひれとうろこを持つ魚は、流れに逆らって進むことができます。しかし、うなぎとかどじょうは、その場所に留まり、泥の中で生活しています。そういう魚はきよくないのです。アジとかスズキは、ひれとうろこを持ち、流れに逆らって進むことができます。だからスズキはきよいのです。この世の人たちは、時の流れに身を任せています。着るものでも、持ち物でも流行を追っています。特に日本人は、みんなと合わせる傾向があります。みな、同じような文化や価値観を持っています。日本人の多くは、まことの神様を信じていません。目に見えるもの、手で触れるものしか信じません。まるで、この世の流れに乗るのが、最高の生き方のように思っています。でも、私たちは神様の計画を知り、聖霊の流れに沿って生きるべきであります。神様はアルファーでありオメガなるお方、初めであり終わりなるお方です。このお方のタイムスケジュールにのっとって生きるのが、もっとも賢い生き方であります。もう、歴史の総論は決まっているのです。この世はやがて終わり、御国がやってくるのです。総論は決まっていますが、各論と申しましょうか、個人個人の生き方がそこに組み込まれる必要があります。神様は、みなさん一人ひとりにも、ご計画をもっていらっしゃいます。ですから、神様にどのように生きるべきか、聞いてください。前回も申し上げましたが、人間には3つの生き方があります。第一は生存するためだけに生きる。食べて飲んで着るという動物的な生き方です。第二は自分が好きなように生きる生き方です。少しは知的かもしれませんが、自己中心的な生き方です。第三は神と人々に投資する生き方です。永遠の報いを期待して生きる最高の生き方です。時間も大切な財産です。時間の使い方は生活そのものです。どうぞ、神様と人々に時間を投資しましょう。神様から与えられた時間を有意義に用いましょう。

2.御霊に満たされなさい

 エペソ5:17,18「ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」まず、最初に申し上げたいことがあります。イエス様を信じてクリスチャンになりますと、もれなく、聖霊が与えられています。つまり、キリストの霊であられる、御霊が住んでおられます。このことは旧約時代にはなかったことです。新約の時代は、神様が聖霊によって、内にいてくださるということが実現したのです。昔は幕屋とか神殿に神様はおられました。しかし、キリスト様が死んでよみがえり、天に昇られた後はどうなったでしょう?その10日後のペンテコステに、聖霊が降ってこられました。イエス様とバトンタッチしてこの地上に来てくださったのです。2000年前のペンテコステ以来、イエス様を信じる者はだれでも、聖霊がその人の内に住んでくださっているのです。クリスチャンであるならば、もれなく聖霊がお住みになっているのです。使徒パウロは、「この奥義とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の望みのことです」(コロサイ1:27)と言われました。私たちは内におられる聖霊様を認め、心から感謝すべきであります。しかし、もう1つのことがこのところで命じられています。どんなことでしょうか?「御霊に満たされなさい」と命じられています。これは命令です。しかし、聖書の命令は不可能なものではなく、可能だから、そう言っているのであります。つまり、だれでも、聖霊に満たされることができるのです。いいえ、神様はあなたが望む以上に、あなたを聖霊で満たしたいのです。なぜなら、聖霊に満たされるならば、神様が求める多くのことが可能になるからです。韓国の牧師がこういうことをおっしゃっていました。ある人が「家には味噌がありません。醤油もありません。お米もないんです」と言いました。あれもない、これもない。何があれば良いのでしょうか?お金があれば、お味噌も、醤油も、お米も買うことができるでしょう。同じように、聖霊によって満たされたならば、健康も、賜物も、聖さも与えられるようになるのです。ハレルヤ!

 では、御霊に満たされるとはどういうことでしょうか?使徒パウロはお酒に酔うのと、御霊に満たされるのを比較しています。お酒に酔うとは、お酒に支配されるということです。自分の理性がなくなり、お酒にコントロールされてしまうということです。人がお酒に酔うとどうなるでしょうか?まず、ふだん弱くておとなしい人が、大胆になり雄弁になります。「部長がなんだ!女房がなんだ!丸めてただんでポイだ!バカヤロー」なんて言ったりします。それから、陽気になり歌い出します。「知らぬ同士が小皿たたいて、ちゃんちきおけさーあぁ」。今はそのまま、カラオケに行くかもしれません。もっと、酔うとどうなるでしょうか?まっすぐ歩けなくなります。あっちにふらふら、こっちにふらふらと行きます。それは、お酒にコントロールされているからです。自分がわからなくなり、朝、起きたらふとんの中。どうやって、帰ってきたのかさっぱり記憶がありません。でも、ちゃんとお家に帰ってきているんです。それでは、御霊に満たされるとはどういうことでしょうか?それは、御霊によってコントロールされるということです。どうなるでしょうか?お酒と同じように、大胆になります。使徒の働きを見ますと、以前の弟子たちは迫害を恐れて、部屋に閉じこもって隠れていました。しかし、ペンテコステ以来、彼らは大胆にキリストを宣べ伝えました。牢獄に捕られ、打ち叩かれても、キリストを宣べ伝えました。それから、御霊に満たされるとどうなるでしょう?賛美します。ある人は踊るかもしれません。私たちはクリスチャンはお酒なしでも、歌うことができます。また、自分の考えや好みではなく、聖霊によって導かれて生きるのです。自分の意思がないわけではありません。御霊に聞いて、行動するのです。御霊に導かれる生き方こそ、聖霊に満たされた人の特徴であります。

 エペソ人への手紙を見ますと、「御霊に満たされたらどうなるのか」「御霊に満たされた生活とはどういうものなのか」が記されています。それは、このあとのエペソ5:19「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」ふつうは、「御霊に満たされなさい」で終ってしまいます。しかし、聖書を文脈から読んでいくと、「聖霊に満たされた人はこういう生活が特徴的にあるのですよ」と言わんばかりです。では、御霊に満たされた生活とはどういうものなのでしょうか?第一には、賛美です。御霊に満たされたら賛美するのです。ある人は御霊に満たされるため賛美するかもしれませんが、その逆もありです。御霊に満たされたら賛美したくなるのです。しかし、このところを見るといくつかの賛美があることに気がつきます。詩とは、英語の聖書は詩篇となっています。おそら、当時は詩篇を抑揚をつけて朗読したのかもしれません。不思議なことに、詩篇は歌の歌詞のように整っています。現代では詩篇をそのまま歌にした曲もたくさんあります。2つ目は、賛美です。英語の聖書にはhymnsとなっています。いわゆる賛美歌や聖歌であります。しかし、本当のhymnsは時代に合わせて作られた賛美だと思います。保守的すぎる教会は、礼拝で賛美歌や聖歌しか歌いません。しかし、その当時は世の中の歌の歌詞だけを変えて、作ったものも多くあります。マルチンルターなどは、当時の流行歌を賛美歌にしました。また、リバイバルが起こったとき多くの新しい歌がうまれました。ですから、私たちは古い賛美歌にこだわる必要はなく、どんどん新しい歌を歌っていけば良いのです。詩篇にも「新しい歌を歌え!」と書いてあります。3つ目は「霊の歌」であります。英語の聖書はspiritual songsとなっています。「霊の歌」とあるので、アッセンブリーやペンテコステ系は、異言で賛美します。「霊の歌」とは異言の賛美だと解釈しているのかもしれません。そういう解釈を否定はしませんが、私はこのような公の集会では小声でやってくださるようにお願いいたします。なぜなら、コリント人への手紙には、「新しい人が入って来たら躓くから」と書いてあるからです。小グループの集会では大いにやって結構です。

 賛美の次に来るのが、感謝です。「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい」とあります。良いことが起こったときはだれでも感謝ができます。しかし、ここでは「いつでも、すべてのことについて」と書いてあります。みなさん、究極の祈りをご存知でしょうか?究極の祈りとは、感謝であります。私たちがどんな状況の中でも、「ああ、神様がこのところでも働いておられるんだ。万事を益にしてくださる神様、ありがとうございます」。そのように感謝するなら、神様は喜んでかなえてくださるのです。どうぞ、苦しみの真中で感謝をささげてください。痛みの真中で感謝をささげてください。絶望の真中で感謝をささげてください。神様がすばらしい臨在をもって、あなたを救ってくださいます。感謝には本当に力があります。私はクリスチャンになるまで、いやクリスチャンになってからも感謝が少なかったです。感謝ではなく、つぶやき、不平不満が多かったんです。「なんでだよー」と今でも言います。でも、すぐ切り替えます。「神様、感謝します。イエス様、ありがとうございます」。マタイ8:17「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った」とあります。イエス様がイザヤ書53章の預言を成就されました。ここに「わずらい」とありますが、別の訳は弱さとなっています。魂や肉体の虚弱、脆弱さであります。イエス様は私たちの罪を背負ってくださったばかりではなく、弱さや病気も背負ってくださったのです。背負ってくださるとは、取り去ってくださたという意味です。これはいつかとか、将来ではありません。ギリシャ語で「背負った」は、アオリスト形です。これは過去に起きた一回の出来事が、その先までずっと影響をおよぼしているという意味です。つまり、2000年前、イエス・キリストが十字架についたとき、罪も弱さも病も背負って解決してくださったという意味です。私たちは「ああ、イエス様は私たちの罪を負ってくださったんだ。だから私は赦されて天国に行ける」と信じています。しかし、私たちの弱さとか病気の場合は、将来のものとしてとらえています。そうではありません。罪と同じように、私たちの弱さや病をも、イエス様は取り去ってくださったのです。ハレルヤ!だから、私たちは単純に「ああ、そうですか、ありがとうございます」と感謝すれば良いのです。感謝は究極の祈りです。そして、感謝こそが主の御手を動かす強力な力であります。

 賛美と感謝の次に来るのが「従う」ということです。5:21「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい」アーメン。キリストを尊んで神様に対して、お互いに従うのであります。神様に対して従順になる。これが御霊によって満たされた人の生き方です。御霊に満たされると奇跡や癒しや不思議を行なうことができる。だから、「御霊に満たしてください!」と力を求めることは悪いことではありません。奇跡や力も必要ですが、もっと大切なしるしは、賛美と感謝と従順さであります。逆に言うなら、御霊に満たされている人の特徴は、賛美と感謝と従順さのある人であります。なにか、このように聖書から理解すると、御霊に満たされるということは別に特別なことではないように思えてきます。そうです。御霊に満たされるとは、特別なことではありません。これはクリスチャンにとって標準的なことなのです。どうぞ、御霊に、聖霊に満たされましょう。そして、この地上であっても、天国のような恵まれた生活をさせていただきましょう。なぜなら、御霊に満たされることが、祝福された、勝利ある信仰生活の秘訣だからです。

|

« 2009年10月 | トップページ | 2009年12月 »