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2009年11月29日 (日)

人にではなく       エペソ6:5-9 

 ギリシャやローマ時代にはたくさんの奴隷がいました。まず、戦争で敗れた場合は、殺されるか、奴隷になるしかありませんでした。また、奴隷の家で、奴隷として生まれた人もいました。彼らには自由がなく、物のように売買されていました。ある場合は、差別されながらも家族の一員としてみなされていました。奴隷たちは何をしたかと言うと、農業、手工業、鉱山で働いたり、商売を任されたり、家事をしました。家庭教師をしたり、帳簿をつけたり、能力のある人もいました。聖書の時代、ローマにおいては、30から40%が奴隷だったと言われています。エペソ6:9には「主の御前では、主人も奴隷も神様の前では差別されることがない。平等である」と書かれています。聖書は奴隷制度を認めているのではありません。主人としもべとの精神を私たちに教えています。

1.奴隷に対する教え

 5節には、「真心から地上の主人に仕えなさい」と書かれています。真心とは、シングル・マインド、二心でなく、「一つ心で」ということです。内部告発というのが世の中でよくあります。また、元秘書が、代議士の罪をあばくことがあります。なぜ、そのときに「否」を唱えなかったのか?と言いたくなります。そのときは、「はい」「はい」と仕えておきながら、辞めたあとで「実はこんなことをしていた」というのはどうかな?と思います。二心というのは、一方では「はい」といい、他方では「いいえ」ということです。親がこういうダブル・マインドを使うと、子どもはとても混乱するそうです。「あなたは自由だから、家から出てその仕事をしても良いのよ。でも、あなたが出て行ったらママは淋しいわ」。どうぞ、シングル・マインド、「一つ心で」いきましょう。6節には「うわべではなく、心から仕えなさい」と書かれています。この「心」は、魂からという意味であります。私たちは、おもてと裏が違う場合があります。おもてでは「はい」「はい」と言いながら、本音は「馬鹿らしくてやってられるか!」「ああ、いやだ、いやだ」ということがあります。しかし、この世では営業スマイル、営業ことばというのがあります。セールスマンや接待業はとくに重要であります。でも、何をするのも、「うわべではなく、心から」が重要であります。7節には「善意をもって仕えなさい」です。いろんな人がいます。ぶっきらぼうな人もおれば、高慢な人もいます。私たちは一見で、というか瞬間でその人を判断するところがあります。「なんかぞんざいだなー、むかつく」と思うときもあります。でも、その人が悩み事を抱えていて、ちょうどそのことに思いが集中していたらどうでしょうか?何か悲しい事があったのかもしれません。私たちはどうしても、悪意でとらえてしまいがちです。そうではなく、「ああ、何かご事情でもあるんだろうなー」と善意でとらえるべきであります。

 今、5節から7節、ざっと学びましたが、5節から7節に共通して出てくることばは何でしょうか?もし、これがなければ単なる、接待術とか倫理道徳の世界になります。果たして何が鍵になるのでしょうか?前回学びましたが、英語のas「○○のように」ということばがそれぞれの節に出てきます。もう一度、見てみましょう。5節、「キリストに従うように」as unto Christ.です。6節は、「キリストのしもべとして」as the servants of Christ.です。7節は「主に仕えるように」as to the Lord.です。このことがポイントであります。地上の主人ではなく、人のごきげんとりでなく、人にではなく、主に仕えるように仕えるのであります。この精神は、奴隷制度のない現代社会においても適用できる真理であります。今は、雇用主と労働者の関係があります。昔は労働組合が強かったかもしれませんが、現代は「リストラ」という厳しい時代になりました。上下関係の問題は、公務員の世界にも通用することです。サービス業や商売においても、顧客との関係で適用できるでしょう。

私は民間で7年間、教会で8年間、主人のもとで仕えたことがあります。主人というのは、会社の所長や主任、上司、あるいは社長や部長であります。教会では主任牧師や副牧師のもとで、奉仕していた時のことです。主人という表現は正しくないかもしれませんが、こちらは仕える立場でありました。職種や立場は違っても、みなさんも同じような経験を持っておられるのではないでしょうか?学生だったら、先生とか部活の先輩と言えるかもしれません。とにかく、こちらの方が立場的に下であるという場合です。少し考えてみてください。従いやすい人と、従いにくい人がいるのではないでしょうか?たとえば、「どういう社長や上司であったら、仕えるのがイヤだなー」と思うでしょうか?まず、独裁的で横暴な人がいます。身勝手で、こちらを物か機械のように思っている人です。こちらは、まるで、奴隷です。アルバイトや派遣社員という立場は、かなり弱いと思いますが、どうでしょうか?それから、下の人をぜんぜん面倒見ない上司がいます。成功は自分のもので、失敗は部下のものです。上には「はいはい」と言い、下には厳しいと言う人です。こういうのは、いやですねー。上司でイヤなのは、神経質であら捜しする人です。やたら細かくて、いちいち指図する。人に任せてくれない人です。他には、能力のない人とか、だらしない人がいるかもしれません。では、どういう社長や上司が良い人でしょうか?これは第二のポイントと重複しますので、簡単に話します。自分たちのことを良く思ってくれる人であります。ちゃんと任せてくれて、責任を取ってくれる人。「君たちの成功は、私の成功」と、チームワーク意識があると良いですね。

でも、みなさん、5節から7節は、「社長や上司がこうであったら」と条件は書いておりません。社長や上司がどのような人であったにせよ、こちらはこのような義務を果たしなさいということなのです。「キリストに従うように」「キリストのしもべとして」「主に仕えるように」仕えるということです。みなさん、世の中にこのような人が他にいるでしょうか?さきほどの例に上げたように、嫌なというか、ひどい上司がいるものです。そういう人には、こちらもそのように応答してしまいます。我慢して、いやいやながら仕えます。そうでないと食っていけないからです。そうすると、ストレスがたまって爆発するか、燃え尽きるか、やめるかであります。しかし、人ではなく、キリストに仕えるように仕える。何と幸いでしょうか?日本人は、常に人であります。人に支配されています。職場の問題も、仕事の良し悪しもありますが、人間関係、上司との関係であります。私が2年4ヶ月郵便局のアルバイトをして学んだことがあります。それは、環境というのは、人が作るもんだということです。その人の持っている性格や行動の仕方というものがあります。ずうずうしい人もいれば、上品な人もいます。無口で冷たい人もしれば、誠実な人もいます。口ばっかりで行動の伴わない人もいます。私たちはそういう人が目の前にいると、自分も影響されて、その人にあった言動をしがちであります。誠実な人には、こちらも誠実で対応しようとします。ずうずうしくて乱暴な人には、「こちらも負けじ」と対応しようとします。つくづく、環境というのは自分で作っているんだなーと思いました。

では、こちらが人ではなく、キリストに仕えるように仕えるならばどうなるでしょうか?すぐに気がつくかどうかは分かりませんが、「珍しい人だなー」と思われるでしょう。いや、「便利な人だなー」と利用されるかもしれません。でも、聖書は何と言っているでしょうか?6:8「良いことを行えば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。」ハレルヤ!主が報いてくださる。主の報いを信じる。ここが生命線であります。多くの人たちは、特に、日本人は「人」であります。人を見て生きています。もちろん、人も重要ですが、人の向こうにいらっしゃる主を見て、仕えるのであります。そうすると、不平不満も半減します。「なんでこんだけやっているのに!」と言いたくなることがたくさんあります。でも、「主がご存知で、主が報いてくださる。アーメン」。そうすると心が落ち着くのであります。マタイ5章には「1マイル行けと強いるような者とは、一緒に2マイル行きなさい」と書いてあります。1マイルでも「まいる」のに、2マイル行ったら「二倍まいる」でしょう。でも、そういう意味ではありません。これはイヤイヤ、強いられてではなく、自分の意思で決めてそうするということです。「やれ!」と言われて、仕方なくやるのは、プラスマイナス・ゼロであります。そうではなく、自分の意思で私がそれを決めて行なう。受身ではなく、能動的になるとぜんぜん違います。私たちは自分の魂の主人なのであります。いくら、外部から力で「あれをしろ」「これをしないとクビだぞ」と言われても、私たちの魂が強ければびくともしません。決定するのは、私自身なのであります。人ではなく、主を見上げて生きるとはそういうことなのであります。人は仕事をやめさせたり、左遷させたり、いやなことをするかもしれません。しかし、イエス様は「肉体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな!」と言われました。私たちは主にあって、人を恐れないで、神様だけを恐れる。こういう魂のあり方が大切なのであります。

2.主人に対する教え

エペソ6:9「主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから」。「奴隷に対して同じようにふるまう」とは、どういう意味でしょうか?リビングバイブルでは「奴隷にたちに勧めたのと同じ態度で、奴隷を正しく扱いなさい」と訳しています。奴隷たちの態度とはどういう態度だったでしょうか?5節では「真実、つまりシングル・マインドで行きましょう」ということでした。主人である人も、一つ心が必要なのであります。政治家のように、二枚舌ではだめです。一枚舌でなければなりません。あっちではこう言い、こっちでは別なことを言う。「真実は1つしかない」とよく言われます。真実で生きるのが一番強いのです。6節には「うわべではなく、心から」とあります。上の人は、人を操作するために演技をすることがあります。それは偽善者であります。外では良さそうに見えても、心の中で何を考えているか分からない。でも、主を恐れる人はそうであってはなりません。7節には「善意をもって」とありました。人は権力を持つと、横暴になります。気に食わない人に対して、意地悪をしがちであります。だれに対しても、善意をもって対応することが必要です。もし、クリスチャンの社長がいたら、壁にかけておきたいですね。「主にあって真実に、うわべではなく心から、善意をもって」。そうしたならば、主がその人に豊かな報いを与えてくださると信じます。

ところで今日で言う、主人とはどういう意味でしょうか?主人とは何らかの権威を持っている人であります。会社の経営者も権威をもっています。部長や課長もある程度の権威をもっています。教育委員会とどっちが上か分かりませんが、学校の校長先生も権威をもっています。牧師も霊的な権威をもっています。でも、権威とは何なのでしょうか?それはリーダーシップと言い換えても良いことばであります。権威、あるいはリーダーシップとはどこから来るのでしょうか?ローマ13:1、2「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。」とあります。ここでいう権威とは、政府とか警察、国家権力のことであります。しかし、会社の社長とか学校の校長、親や牧師も1つの権威であります。もし、権威が正しく用いられているならばどうでしょうか?そして、その権威に従うならばどうなるでしょうか?権威とは人を守り、導き、正すためにあります。もし、下の者がその権威に従うならば、守りと導きが与えられ、豊かな生活をすることができます。しかし、「世の中の権威というものはいらないんだ。私は権威に逆らって生きる!」としたらどうなるでしょう。その人から、守りがなくなるということです。上の人が持っているものを、受けられなくなるということです。権威を持っている人は、何らかのものを持っているのです。もし、意味もなくそういう人に逆らうならば、好意や恵みが行かなくなるということです。どういう意味かというと、神様はそういう権威を許されたのであります。

しかし、その権威を、私のものだから自由に使って良いんだと思ったならどうなるでしょう?世界の歴史を見ると、どの国においても王様でも政治家でも独裁者がおりました。会社でも、家庭でも、教会でも独裁的なリーダーが立つ場合があります。その下にいる者たちはたまったもんではありません。お隣の北朝鮮はそうであります。ある人が言いました。魚が頭から腐るように、国も指導者から腐る。もし、指導者が変えようとせず、そのままにしていたなら、下から革命が起こる。英語では「腐る」「革命」ということばが似ているので、格言みたいになっています。とにかく、上に立つ人によって、下の人たちは影響を受けるということです。ところで、独裁者とはどういう意味でしょうか?独裁者というのは自分がそれが好きだから、そういう決断をします。独裁者は、組織にとって何が最も良いことか、あるいは人々にとって何が一番良いことかということを考えるのではなく、自分の好みによって決断するのです。真の指導者は、自分の好き嫌いではなく、組織の益を考える人であります。また、真の指導者は人間的な感傷ではなく、非情になっても決断をしなければならない時があります。アジアとか日本は、人間のしがらみというのがあります。血縁関係、学閥、元上司だった。天下りもそういうことが原因しています。親族や兄弟で会社を経営している場合は、決断が鈍ります。長い歴史のあるお店、老舗と呼ばれているところもそうでしょう。あっちを立てれば、こっちが立たずということがあります。実は、教会もそうであります。みんなに良いというのは、結局、みんなに悪いということもあるのです。ですから、リーダーの務めは決断をするということです。良い決断を下すということです。そして、決断をしないで先延ばしにするのが最も悪いということです。さもないと、下から革命、クーデターが起こります。

先週は2泊3日で、掛川で開かれたJCGIのセミナーに行ってまいりました。全国から300人近くの牧師たちが集まっていました。昔は日本教会成長研修所と言いましたが、「教会成長」という言葉が躓きになるというので、英語にしただけであります。いろんな先生、あるいは講師の先生を通して2つのことを確認させられました。第一はビジョンが大切だということです。指導者は神様からビジョンをいただく、そしてそのビジョンを共に担うように導くということです。神様は教会の指導者である牧師にビジョンを与えます。これは聖書の原理です。神様は族長アブラハム、イサク、ヤコブに語られました。モーセ、ダビデ王、エレミヤ、ダニエルもそうです。教会も牧師がビジョンを神様からいただく、そのビジョンを教会員が自分のものとしていくということです。埼玉に片柳福音自由教会というのがあります。3代目の牧師のとき、タラッパンという韓国系の弟子訓練にやられてみんな傷つきました。そのあと、4代目の牧師がそこに招かれました。みんな傷ついている状況です。あるとき、近くの施設から大勢の知的障害者が来ました。一人二人ではありません。10人以上やってくる。教会の雰囲気ががらっと変わります。しかし、ビジョンが与えられ、神様がどんな弱い人たちでも歓迎しておられる。そういう人たちを招き、病院から社会に復帰できる、家を建てました。そして彼らに仕えました。それまで古い今でも壊れそうな会堂でした。5回チャレンジしてもダメ。会堂が建ちません。あるとき、ライオンズクラブで、知的障害者のことを話したら、ある不動産の社長さんが涙を流して感動しました。そして「何かお役に立てることはありませんか?」と言われて、会堂の問題を話しました。すると、通りに面した200坪の土地を格安で購入できました。問題は、上物です。30年間で、4000万円の資金しか貯えがありませんでした。しかし、確か、建物2億円の予算です。不思議なことに、期日までなんとか与えられ。銀行がびっくりしたそうです。ある人たちは障害者が教会に来ることで反対しましたが、牧師は神様から与えられたビジョンのとおり進みました。これが大事なのです。指導者はビジョンの人でなければなりません。ビジョンはみんなで会議することで決まるのではなく、神様からやって来るものです。

もう1つ教えられたことは、「リーダーは次の世代とさらにその次世代にバトンタッチするように準備せよ」と言われました。つまり「バトンを渡す」ということであります。次の人に「あなたが60歳になるまでリーダーになるのを待て!」というのは、おかしいということです。私もこの教会のバトンタッチをするために人々を育てる。今、いる人たちばかりではなく、孫の代までちゃんと考えるということが大事です。今度のクリスマス、小学生が3名洗礼を受けたいと願っております。もちろん役員会にかけますが、おそらく、3名受けるのではないでしょうか?ですから、今の小学生が大人になって「ああ、この教会で良かった。自分たちでこの教会を担っていくだ」と言える環境を今から作らなければならないと思いました。このように、(1)リーダーはそれが神様から与えられたものだとへりくだること。(2)組織のために良い決断をすること。(3)リーダーはビジョンの人であることでした。では、人々に仕える人はどうだったでしょうか?(1)主に仕えるようにということです。(2)その心構えは「真実に、うわべではなく心から、善意をもって仕える」ということです。つまり、仕える人も、リーダーも主を見上げて行きましょう。主にあっては、主人も奴隷もないからです。

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