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2009年11月15日 (日)

父と母を敬え       エペソ6:1-4

 本日は子ども祝福式がありますので、来週の説教箇所を本日、話させていただきます。パウロは、夫と妻の関係を教えた後に、子どもと両親との関係について教えています。人間関係は、両親との関係が基礎になります。両親との関係が、あらゆる人間関係に影響を与えます。今日、ひきこもりの人たちが大勢いますが、一番は、両親と絆が乏しいかったことが原因しているようであります。「人を本当に信頼できるだろうか?」「いや、信頼することはできない」。彼らは、両親から信頼することを体験的に学ぶことができませんでした。しかし、その両親も親たちから、様々な傷を受けて来た被害者たちでもあります。だから、子どもに対して辛く当たり、愛することができなかったのです。この世には、そういう負の連鎖があります。クリスチャンである私たちの代から、それを良い連鎖、祝福の連鎖に変えることができたら何と幸いでしょうか。

1.子どもに対する父親の責任

 エペソ6:4「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」日本では、「子育ては、母親がやるもんだ」みたいに思われていますが、父親にも重要な役割があります。父親や祭司として、妻や子どもたちのために祈り、とりなし、仕えます。また父親は預言者として、子どもたちに神の律法を教えます。そして、父親は王として、家庭を正しく治めるのです。つまり、父親は神様の代理であり、子どもたちは父親を通して神様を知るのです。しかし、地上の父親は不完全です。ある父親は、独裁者的で妻や子どもに暴力をふるいます。それまで家族はなごやかでした。しかし、お父さんの車の音が聞こえると、子どもたちはそれぞれの部屋に入ります。また、小言を言われるからです。また、ある父親は業績志向で、子どもたちが良い成績を取るようにあおります。良い成績を取らなければ、受け入れないのです。また、ある父親は無口で非常に弱々しい。何も言わない。存在感のない父親です。また、ある父親はギャンブル好きで、仕事もろくにしない。いい加減な父親です。また、ある父親は家庭にいません。朝早く仕事に出かけ、夜遅くに帰ってきます。長い間、出張して家を空ける父親もいます。また、離婚や死別のため、父親がいないという家庭もあります。

 母親と子どもは、一体であります。0歳から1歳くらいまでは母親の養育が必要です。でも、それ以上になると、父親も必要です。父親は第三者、社会の代表であります。父親が自分を受け入れてくれるなら、子どもは「ああ、世の中は安全だ!」と思うでしょう。しかし、父親が自分と関わってくれないならば、「世の中は大丈夫だろうか?」と不安になります。つまり、子どもは父親によって自分とはだれなのか、アイディンテティを持つことができるのです。また、神様は「天のお父様」と呼ばれています。私たちが「天のお父様」と呼ぶときに、「ああ、もう一人いたなー」と地上の父を思い出します。もし、地上の父が独裁者的で恐かったならば、天の父も独裁的で恐い神様だと思うでしょう。もし、地上の父が業績思考であったならば、天の父も一生懸命がんばらなければ愛してくれないと思うでしょう。また、地上の父が無口で弱かったならば、神様とお祈りするのが難しいでしょう。また、地上の父がいい加減であったならば、神様には頼ろうとは思わないでしょう。また、地上の父がいなかったならばどうでしょう?ある牧師のお父さんは自分が6歳のとき亡くなったそうです。先生がクリスチャンになって「天のお父様」と呼びかけても天国が空っぽであったということです。二人の息子ともずーっと会話ができず、親子の関係が非常に悪かったということです。このように、父親が子どもに与える影響は非常に大きいのです。

2.両親に対する子どもの責任

 エペソ6:2「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。「しあわせになり、地上で長生きする」とは、聖書における祝福の表現です。しかし、どうして、ここに「父と母を敬うことが第一の戒めである」と書かれているのでしょうか?十戒は第一から第四番目は神様に対する戒めです。そして、第五番目から十番目までは人間に対する戒めです。そして、十戒の五番目にあたるのが「父と母を敬え」であります。つまり、第一の戒めと言う意味は、人間関係における第一の戒めであるということです。もし、父と母を敬うことをしっかり覚えるならば、第六から第十の戒めも守ることができるということです。みなさん、両親との関係が悪かった子どもたちが犯罪を起すケースが高いというデーターが出ています。彼らは世の中の人たちを憎んでいます。何故、憎んでいるのでしょうか?彼らはその前に、両親を憎んでいるのです。彼らが両親を敬い、両親に従っているならば、最悪に陥るところまでは行かないのであります。両親との関係が悪かったならば、子どもにどのような影響を与えるのでしょうか?さっき申し上げましたが、両親を否定したならば、自分がだれか分からないということです。両親はいわば自分のルーツであります。「あんなクソ親父いなければ良かった」。母親に対して「どうして、私を生んだんだ。頼みもしないのに」と言うならどうでしょうか?それは、自分を見下げ、自分を否定していることと同じなのです。特に父親を否定したならば、自分のアイディンテティ、自分がだれか知ることが難しいということです。

 第二は世の中の権威ある人に従うことが困難です。学校の先生、警察官、会社の上司、そして教会の牧師です。その人は父親から権威に従うということを学んで来なかったのです。むしろ、父親を軽蔑し、反抗心を持って生きてきました。そういう人がどうして、世の中の権威ある人たちを敬うことができるでしょうか。「上司とうまくいきません。上司は私を認めてくれません。私も快く上司に従うことができません」という人がいます。多くの場合、その人は父親との関係が良くなかったことが原因しています。上司が父親と二重写しになり、こちらも父親に対する同じ感情を抱くからであります。私は牧師になって、こういう原理を知りませんでした。何人かの姉妹から、つっかかれました。もちろん、私が牧師らしくなというところもあるでしょう。でも、私のせいだけではありません。彼女たちの多くは、父親との関係が良くないのです。父親が浮気して家を出てしまった。父親がお酒を飲んでお母さんをいじめた。子どもはそういう父を憎み、尊敬できません。教会で牧師が何かを言うと、命令調に聞こえて快く従えない。そして、どうしても対立的になる。結構、父親との関係が原因しているのではないでしょうか。

 第三は部下や自分の子どもに対してです。部下が自分のライバルに思えるのです。子どもに対しても同じで、「10年早い」と言いたくなります。なぜでしょう?自分に父の心がないからです。父の心がないので、人をあわれんだり、心から世話しようとは思わないのです。父の心を持ったならば、後輩や子どもの成功は自分の成功であります。むしろ、自分を乗り越えていったほうが、喜びなのです。でも、自分が大人になりきっていないので、他の人をほめることさえできないのです。

 第四は伴侶に対してです。自分の妻を正しく愛せないという夫がいます。あるいは自分の夫に従うことができないという妻がいます。たとえば自分が子どもの頃、父親が酒乱で母親をなぐっていた。それを見ていた自分は「あんな父親にはなりたくない」と誓ったとします。しかし、どうでしょうか?自分が大人になり結婚してから、妻に対して無性に手を上げたくなります。なぜでしょう?子どものときに誓った「内なる誓い」のせいであります。「内なる誓い」が逆の方に働き、父親と同じことをしてしまうのです。また、女性の場合も同じです。ひどいお父さんを見て育った人が結婚します。その夫をどうしても敬うことができない。どうしても対立し、夫のリーダーシップを侮ってしまう。なぜでしょう?お父さんとご主人が二重写しになっているのです。私も家内がうるさいことを言うと、「やかましい」とどなったことがあります。私の母が口うるさかったからです。家内が母のようになり、私が小さなこどものようになります。子どもの私が「うるさい、やかましい」と反抗するのです。

 第五は神様のイメージに影響を与えます。これは先ほど申し上げました。私の父は業績をあおり立てる人でした。学校で良い成績を取っても、ぜんぜんほめてくれない。長男や長女の通知表を出してきて、「兄や姉の方がもっと良かった」というのです。私は牧師になって、一生懸命、教会を大きくしょうと思いました。そのとき、天のお父様をどう思っていたでしょうか?「使徒パウロはあれだけがんばった。なのに、お前は何故もっと伝道できないんだ。歯がゆいぞ!」汗をかいて必死になっている自分がいました。自分の父親から受け入れられた経験がないので、父なる神様もそうなんだと思っていたのです。父や母がすばらしくて、子どもに傷を与えないならば何と幸いでしょう。しかし、多くの場合、彼らの父や母が正しく愛してくれなかったので、自分の子どもに辛く当たるケースが多いのです。親たちも愛された経験がないので、どうしても自分の子どもを愛せない。先祖が犯した咎を代々、受けついでいるのです。咎とは曲がっているという意味ですが、その曲がりが世代間連鎖しているのです。だれかが、それを修正し、食い止める必要があります。

3.癒し

 Ⅰヨハネ2章に子どもたちに対する、すばらしいみことばがあります。子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。・・・小さい者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが御父を知ったからです。」霊的に子どもであるクリスチャンに対して2つの必要があります。第一は、キリストによって罪が赦されたということです。ほとんどのクリスチャンは自分の罪が赦されたということは知っています。しかし、もう1つについてはどうでしょうか?第二は御父を知る、つまり神様を父として知るということです。知るとは、知的に知るのではなく、体験的に「神様は私のお父さんなんだ」と知るということです。父なる神様はどうやって分かるのでしょうか?イエス様はヨハネ14章で、私を見たものは父を見たのであると言われました。つまり、イエス様を良く知るならば、父なる神様のことが分かってくるということです。イエス様が私たちを無条件に愛しておられる。つまり、父なる神様も私たちのことを無条件に愛しておられるということです。イエス様が私たちの心を癒してくださることによって、父なる神様が正しく見えてくるということです。イエス様は私たちの過去のあの暗いときも、お近くにおられたのです。イエス様が「君が愛されたかったことを、私も気の毒に思うよ」と子どもの自分を抱きしめてくださるのです。あるところに、とっても乱暴で怒りっぽい男性がいました。牧師が彼のために祈ってあげました。牧師は祈りながら、「何か見えますか」と男性に尋ねました。彼は「5,6歳頃のときの、家の中が見えます。お父さんがその夜も酒を飲んであばれていました。子供の私は怖くて泣いていました。ああ、お台所の窓ガラスが割れて、大きな穴があいているのが見えます。窓の穴から見える外は真っ暗です。」と言いました。だいたい、こういう家庭は、しょっちゅう窓ガラスが割れるので、何日間か、そのままにしておくのが多いのです。突然、男性は涙を流しはじめました。どうしたのですか、と聞くと。「あのときは気付かなかったのですが、窓ガラスの穴から、イエス様がお家の中を眺めています。イエス様はとっても悲しい顔をしています」。そのとき、男性は、イエス様から「私も気の毒に思ったよ」と慰めのことばをいただきました。それで、彼は大声で泣きました。それから、彼は怒りから解放されたそうです。イエス様は永遠の神様ですから、あなたの過去の出来事をご存知であり、深い慰めを与えてくださるのです。イエス様の愛を受けると、自分の父もしくは母を赦すことができます。私にひどいことをした父を赦します。私にひどいことを言った母を赦します。赦しとは怒りを手放すことです。イエス様は「私に免じて、赦しておくれ!」と懇願しておられます。私たちは「それだったら、赦します!」従うべきです。赦しは力です。

 次に必要なのは、「内なる誓い」を主の御名によって破棄することです。「あんな親父みたいになるもんか!」「あんな母親になるもんか?」「お父さんのような男性とは結婚しない。」「お母さんのような女性とは結婚しない。」「父や母のように、みたいにがみがみ言わないぞ!」「お酒は飲まないぞ!」「だらしない生き方はしないぞ!」あなたは、子どもながらこぶしを握って、何かを誓ったかもしれません。その誓いをイエス・キリストの御名によって赦していただき、それを破棄するのです。裁くものは裁かれるのです。あなたが赦したら、あなたも赦されるのです。また、怒りの構造とか、敬えない心、そういう悪いものを十字架につけて死なせます。わかっちゃいるけどやめられない、なおせないもの。それは、あなたの性格の一部になっているのです。どうぞ、古い構造を十字架につけて死なせましょう。最後に新しい命をいただきましょう。愛とあわれみをいただきましょう。それは同時に、父の心をいただくということです。そのことによってあなたは人々を思いやり、無条件に愛し、受け入れることができるようになります。

4.私の証し

私は牧師として、父母を敬わなかったために、悪いものを刈り取っていました。私には父の心がありませんでした。ルカ15章に100匹のうち、1匹がいなくなったという物語があります。羊飼いは失われた羊を探しに野山をかきわけ出かけます。私の正直な思いはどうだったでしょう。「あの一匹は弱いくせに反発したんだから仕方がない。ま、99匹いるから良いか」と後を追いかけようとしません。少しは追いかけても、「見つけ出すまでは」という愛がありません。何故でしょう?自分はそうされなかったからです。「俺は大事にされなかった、放っておかれた!」という思いがあったからです。本当に私は父の心がありませんでした。ところがちょうど10年前、子ども(有悟)が突然生まれました。すぐ上の子どもとは11歳も違うんです。家内と私は「え?これから子育て」と思いました。10年前の、11月8日のことです。帝王切開で生まれました。一番、最初にだっこしたのは家内ではなく私です。なんとその赤ちゃん、眉間にしわが寄っていました。私も眉間に皺があり、家内から「神経質に見えるわよ、伸ばしなさい」とよく注意されました。私は思ったんです。「私の眉間のしわもきっと生まれつきだったんだ!」と。同時に、私が7番目として生まれたときに、親はどう思ったんだろう。たしかに、「年よりの子どもで大変だなー」と思ったことでしょう。でも、やっぱり、「可愛い」と思ったに違いありません。その子は1か月目に風邪を引いて、病院に入院して点滴を受けました。男の子は弱いですね。私はそこでまた思いました。私も病気のとき、看病されたんだろうと…。私は4番目の子どもが与えられて、自分自身が癒されました。一人の魂の価値を知ることを教えられました。ですから、牧師として、少しずつですが、「父の心」が与えられました。ただ、頭数を数えるだけではなく、一人一人の魂の健康を気遣う心が与えられました。

 同じ、10年くらい前ですが、友人の若木先生は燃え尽きとうつ病になりました。主任牧師から捨てられたような形になり、神様に怒りを持ち、祈ることさえもしていませんでした。そのとき、先生が名古屋のキャンプに参加し、エディ・レオ師と会ったそうです。エディ・レオ師が無条件の愛について教えられ、若木先生をハグしてくれました。そのとき、お腹の中につっかえていたものが取れたそうです。それから、だんだんと回復していったのであります。その後、若木先生がエディ・レオ先生を紹介してくださいました。先生は、アバラブ・ミニストリーのために日本に何度も来てくださいました。アバラブというは、父の愛という意味です。インドネシアの教会で、父の愛ということが開かれてから、教会が全く変えられたそうです。ある年、セル教会のサミットがあり、インドネシアを訪れました。そのとき、エディ・レオ師はハワイで行なわれたトライアスロンのレースをビデオで私たちに見せてくれました。あるお父さんが、口もきけず手足を動かすこともできない自分の息子とそのレースに参加しました。最初は水泳、3キロも泳がなければなりません。息子をボートに乗せ、お父さんがボートをひっぱりながら泳ぎました。その次は、自転車で130キロも走ります。お父さんが自転車の前にかごを取り付け、そこに息子を乗せて走りました。最後は30キロのマラソンです。お父さんは息子を車椅子に乗せ、後ろから押しながら走りました。すべての人がゴールしました。それから8時間後、真夜中になって親子の姿が見えました。お父さんは、最後のゴールでは、ほとんど死にかけていました。息子がにっこりと笑いながらゴールしたのが印象的でした。その後、エディ・レオ師が言いました。「私たちも霊的にはハンディを負ったような者です。私たちは自分の力でレースを走り抜くことができません。しかし、天の父が私たちを最後まで運んでくださいます。彼は良い父親です。今、父のもとに来てください。父の心を持ちたい人は、今、近くの人からハグして祈ってもらいましょう」と言われました。私はマレーシアから来られた聖公会の牧師にハグしてもらいました。お腹がぐっと熱くなり、3つの咳がでました。それが何か分かりませんが、つっかえていたものが取れて、本当に軽くなりました。自分の父から受けられなかった愛と慈しみを神様から受けることができました。

 父なる神様の愛は、無条件の愛です。この愛を男性も女性も必要としています。大人も子ども必要としています。まず、私たちクリスチャンが癒しを受けましょう。そして、私たちの世代で負の連鎖をストップさせましょう。先祖から受け継いだ咎を悔い改め、私たちの代から祝福に満ちたものにしましょう。この世の多くの人たちは、本当の父親、本当の母親を探しています。多くの犯罪が起こるのは本当の父親、本当の母親がいないからです。私たちが天の父の心を持ちましょう。そして、天の父の心によって愛していきましょう。神様は私たちを通して、ご自身の愛を現わしたいのです。お祈りいたしましょう。

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