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2009年11月22日 (日)

結婚の奥義       エペソ5:28-33

 ソクラテスの妻は世界の三大悪妻として知られています。ソクラテスの弟子が悩んで質問しました。「先生、私は結婚したら良いでしょうか?」ソクラテスが答えました。「もし、結婚したら、『ああ、結婚しなければ良かった』と後悔するだろう。また、もし、結婚しなかったなら、『ああ、結婚すればよかった』と後悔するだろう。結婚して後悔するか、結婚しないで後悔するか、どちらも同じじゃよ」と答えたそうです。使徒パウロがⅠコリント7章でこのように教えています。Ⅰコリント7:7「私の願うところは、すべての人が私のようであることです。しかし、ひとりひとり神から与えられたそれぞれの賜物を持っているので、人それぞれに行き方があります。」使徒パウロは一生涯独身でした。パウロは「私のように独身であれば、神様に最大限に仕えることがきる。それが理想的だ。でも、それぞれ神様から与えられた召命と賜物がある。私のように独身の賜物が与えられているなら、それで良し。でも、結婚するように召されているなら、それでも良し」と教えました。なんと、きょうは、11月22日、「いい夫婦の日」であります。

1.結婚の奥義

 エペソ5:32「この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」パウロは、キリストと教会の関係は、結婚の奥義であると教えています。そして、パウロは自分の妻を自分のからだのように愛しなさいと言われました。妻を愛するとは、「養い、育てる、かわいがる」ということです。そのように自分の妻をケアーしたならなんと幸いでしょうか。ところで、日本人ほど体の健康管理に気をくばっている国民もいないかもしれません。ある年齢になると、いろんなサプリメントを飲みます。さまざまなビタミン剤、骨や脳に良いものを補充します。男性はあまりしませんが、スキンケアーというのもあります。それから、適度な運動、食事のバランス、ダイエット・・・。具合が悪くなるとお薬を飲んだり、お医者さんのところへ行きます。でも、どうでしょうか?結婚生活に問題が起こっても、すぐお医者さんのところへは行きません。海外では結婚前後の学び、結婚カウンセラー、子育てクラス・・・いろいろあります。日本の場合はそういうところをパスして、家庭裁判所や弁護士に行きます。人に相談する頃は修復不可能なくらい、ひどい状況であります。そうではなく、体のように、「ちょっと具合が悪いなー」というとき、第三者のところへ行ってアドバイスをいただく。あるいは勉強をしたり、癒しのセミナーを受ける。それはとても重要であります。丸屋真也先生は、「カップルの結婚へのコミットメントレベル」ということをおっしゃいます。二人が結婚生活にどのくらい献身的かというレベルです。レベル1「コミットメントがあり、愛もあるが、問題がある」。たとえ献身度がレベル1であっても、「愛もあるが、問題がある」。なんだか安心します。問題のない夫婦はいないということです。レベル2「コミットメントがあるが、積極的な愛はなく、問題がある」。愛するという意思はあるのでしょうが、感情面が追いついていかない状態です。レベル3「コミットメントも積極的な愛もないが、解決しようとはしている」。まだ、この辺だと、カウンセリングを受けに来ても大丈夫、希望があります。レベル4「コミットメントも積極的な愛も、かつ解決しようともしない」。これは最悪な状態です。物理的に別居しているか、心の中で既に別居している状態。もう、離婚を考えているかもしれません。近年、日本も韓国でも離婚率が非常に高くなりました。では、それまでは大丈夫だったのか、というとそうでもありません。昔は世間体などで、我慢していたんでしょう。でも、現代は我慢するよりは離婚をして新しい生活を始めたい。また、女性に経済力がついたので、夫がいなくても生きていけるということでしょうか?でも、離婚は心も体も、そして霊的にも大きな傷を残します。できれば、お互いに修復して健全な結婚生活へと、回復させていただく方が望ましいでしょう。でも、聖書の結婚に対する教えは、命令であります。招待状ではありません。「夫はキリストが教会を愛されたように、自分の妻を愛しなさい」と命令形です。神様の命令を命令として受け止めない限りは、結婚の土台はかなり危ないと捉えるべきでしょう。

結婚に関するもう1つの奥義とは何でしょう。エペソ5:31 「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」そして、32節、「この奥義は偉大です」と続くからです。このみことばは、イエス様がたびたび引用した、結婚に関する教えであります。このみことばのもとは、どこにあるのでしょうか?それは、創世記2章であります。創世記2:24「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」この教えは、神様がアダムとエバを創造した直後に与えられたものです。アダムとエバは神様のもとで結婚し、神様のもとで結ばれたのです。だから、「人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった」と書いてあります。この意味は肉体的な意味だけではなく、心の面においてもそうであったということです。お互いに透明な関係、何も隠し立てのない関係でした。ところが、罪を犯して堕落してからはどうでしょうか?「いちじくの葉をつづり合わせて、腰のおおいを作った」とあります。エデンの園にはたった二人しかいないのに、もう、お互いを隠していたのです。主はエバに言われました。創世記3:16「あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる」と言われました。妻は夫を慕おうとるすが、夫は妻をコントロールする。こっちが下手に出れば、むこうがのぼせ上がる。だから、妻は喜んで夫には従えないのです。堕落後には、このように夫婦間に軋轢が生じてしまいました。では、堕落前に与えられた、結婚に対する神様のみことばは無効になったのでしょうか?そうではありません、イエス様も使徒パウロもそのまま引用しています。

つまり、これはどういう意味でしょうか?結婚とは神様が創造したものだということです。人間が「社会的に都合が良いから作った」とか、愛する男女が自然にそうなったということではありません。人間を創造された神様が、結婚という制度を造ったのであります。なぜでしょう?創世記1:26,27「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。・・・神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」神様は、父、子、聖霊の三位一体の神様です。神様はお一人であられながら、3つの人格があり、互いに愛し合っている共同体です。その神様に似せて、男と女が造られたのです。つまり、結婚のもとは、三位一体の神様ご自身だったのです。「神様が愛の共同体であられるように、私たちも男と女とで愛の共同体を作るように」。これが、神様のご計画であり、ご命令なのです。もし、夫と妻が互いに愛し合うならば、神様はとても喜ばれます。「ああ、私もその中に住みたい」と願うでしょう。なぜなら、神様は共同体の神様だからです。ご自分の性質に合う、愛の共同体であるならば、そこに住みたいと願うのです。神様がそこに住まわれる結婚とはどういうものでしょうか?プレローマ、すべてが満たされるのです。物質的にも精神的にも、あらゆる面で満たされるのです。これこそが、結婚の奥義です。

イエス様が公生涯で最初に行なわれた奇跡とは何でしょう?カナンの結婚式で、ぶどう酒が尽きてしまいました。ぶどう酒とは喜びの象徴です。その大事なぶどう酒が、まだ結婚式なのに尽きてしまったのです。イエス様は「水がめに水を満たしなさい」と命じました。その次に、「今、くんで、宴会の世話役のところに持って行きなさい」と命じました。そうしたら、何の変哲もない水が、良いぶどう酒に変わっていたのです。イエス様が最初に奇跡を行なわれたのが、結婚式であります。ということは、イエス様は結婚生活に関心があるということです。そして、家庭を結婚生活を良いぶどう酒に変えたいと願っているということです。また、結婚生活においては、水をくむごとく、イエス様の命令に従うことが大切だということです。

2.結婚の実際

結婚して始めて気づくことがあります。それは、「お互いがこんなに違っているのか!」ということです。男性と女性の頭の中を映し出した絵を見たことがあります。男性の頭の中には何があるのでしょうか?「セックス」「セックス」と、セックスが広いエリヤを支配しています。聞くという能力はゴマ粒ほどであります。女性の頭はどうでしょうか?頭の中央部に、「頭痛発生装置」があります。それから「買い物の衝動」「おしゃべり」「靴」があります。ほとんどないのが、「車の運転技術」と「欲しいものと必要な物を区別する能力」です。とにかく複雑です。香港からベン・ウォン師がコーチングのため何度も来てくださいました。その中で、必ず奥さんとのやり取りが語られます。ベン・ウォン師は、奥さんと20年たっても同じことで喧嘩をするそうです。一緒に、外食に行くときがあります。ベンが奥さん「どこに行きたい」と聞きます。彼女は「あなたが決めて」と言います。ベンは「いや、君が決めなさい。君が決めたところへ行くよ」と答える。すると奥さんは「いいえ、あなたが決めてよ」と言う。ベンは「私は君のことを尊敬しているんだ。君は大事な人なんだ。君の行きたいところへ私が行くよ」と言う。「いいえ、あなたが決めて」。「私は何でも大丈夫、何でも食べられるから。君が食べるものは何でも食べられるから」。「いいえ、あなたが決めてよ」。「じゃあ、マクドナルドに行こうか」と言うと、「えー?マクドナルド、信じられない」。「だって何でも食べると言ったじゃないか」。そこで、ベンは「ああ、女はどうして複雑な被造物なんだろう!」と思います。あるとき、「神様にあなたがた女性を造られたのですから、どうぞ、知恵を与えてください」と祈りました。あるとき、突然、トゥイーン。なぜ、妻が「あなたが決めてよ」というのが分った。「私の妻が知りたかったことは、私をどこへ連れて行ってくれるか、自分の夫は考えてくれているかどうか知りたかった。しかし、実際のところ、そんなことはぜんぜん考えていなかった。しかし、それを簡単にごまかすために、何も考えていないということを隠すため、『どこへ行きたいの?』と聞いていたんだ。もし、重要な人と食事に行くんだったら、前もって、決めておくはずである。だから、彼女は私にとって重要な人ではなかった。彼女のことを考えていなかった。」そこで先生は時間を作ることにしました。1日の中で、立ち止まって自分の妻のことを考えるときを持ちました。つまり、口先だけではなく、実際の行動で愛するということです。

Ⅰテモテ2章には男性と女性について教えられています。週報の裏面に印刷されていますのでご覧ください。Ⅰテモテ2:8-15「2:8ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。2:9同じように女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によってではなく、2:10 むしろ、神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行いを自分の飾りとしなさい。2:11 女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。2:12 私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。2:13 アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。2:14 また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。2:15 しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。」Ⅰテモテ2:8-15まで、何節が女性のために用いられているでしょうか?また、何節が男性のために用いられているでしょうか?男性については8節の1節だけです。しかし、女性については、9節から15節までです。合計7節女性について語られています。神様は7節も使って、女性に語っています。女性をちゃんとさせるために、なぜ7節も使わなければならないのでしょうか。それは、女性は複雑な被造物だからです。だが、神様が男性に語るときには、たった1節しか必要ではありません。なぜ、男性には1節なのでしょうか?男性は単純だからです。しかし、男性はこの1節を守ったなら夫として成功できるということです。「男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい」。かなり前ですが、私はこのみことばを牧師室に貼っていたことがあります。2年間くらい貼っていました。今は、もうありません。怒りから解放されたからです。男性は怒らないで、むしろ、きよい手をあげて祈るということです。教会の祈祷会に、集まるのがほとんど女性です。男性は来ません。なぜでしょう。祈りが退屈だからです。女性が祈ることも確かに良いです。しかし、男性が祈るとまた違うんです。家のかしらとして、手をあげて祈るときどのようなことが起こるでしょうか?自分に家長としての権威が与えられます。そして、祈った人たちと親密さが与えられます。妻のために祈ると妻と親密になり、子どもたちのために祈ると子どもたちと親密になります。男性は、「怒らないで、祈る!」これがとても重要な鍵です。

最後にコミュニケーション、会話の問題があります。男性は、結婚前はよく話します。しかし、結婚するとあまり話さなくなります。レストランに行くと良くわかります。楽しそうにおしゃべりしているカップルはまだ結婚前です。でも、むっつりとして新聞や雑誌を見ているなら、「ああ、結婚10年目かな?」と想像できます。私が成田から青砥に帰って来たときです。斜め向かいに初老のご夫婦が座っていました。たぶんご主人は退職しているお年かなと思いました。お二人は大きなケースを持っていましたので旅行帰りなのでしょう。成田から青砥まで1時間ありますが、その間、二人はほとんど会話がありませんでした。ご主人はむすーっと、苦虫をつぶした顔をしていました。奥さんは無表情でした。恐らく、心の中では「女友達と来た方が楽しかった」と思っているのかもしれません。真実は全くわかりません。でも、二人の会話がほとんどなかったということです。チェコスロバキアである調査をしました。この調査によれば、男性は普通、7000から8000の言葉を一日に発するそうです。しかし、女性は平均で、15,000語、一日に話します。また、この統計によれば、姑の方がもっと話します。義理のお母さんは19,000語、一日に話すということです。奥さんは15,000語、必要である。では、どういうことが起きるでしょうか?もし、夫が聞く耳を持たないならば、妻はイライラしてきます。女性はもっと話さなければなりません。特に、家の中で主婦をしているなら、特にそうです。しかし、夫は会社で5000語ぐらい話しています。営業をしている人は7000語使いきっています。だから、家に帰ったら、これ以上、しゃべりたくありません。夫が家に帰ると妻は、「待ってました」とばかり、15,000語を出さなければなりません。女性は「あなた、きょう何があったの?」と細かく聞きます。男性は答えが短い。新聞で言うと男性は見出しで、女性はその下の記事です。男性はだんだん腹が立ってきます。そして、テレビの前に座ります。「あなた、きょう何があったの?」「ああ、ああ」(リモコンを押しながら、答える)。聞こえているけど、聴いていない。聞く(hear聞こえる)と聴く(listen耳を傾ける)とでは違います。

丸屋先生がおっしゃっています。奥さんは子どものこと、近所のこと、親戚のこと、話したいことがいっぱいあるかもしれせん。だけど、ご主人が家に帰るなり、いっぺんに話さないことです。体は家に着いているかもしれないけど、心はまだ会社の途中かもしれません。まずは、ゆっくり夕ごはんを食べさてあげましょう。食べ終わった後、「お茶でもどうですか?」と言いながら、ゆっくり話す。奥様にも知恵が必要です。一方、ご主人はどうでしょうか?女性は自分の話を聞いてくれることによって愛を感じるそうです。「ああ、私のことを親身に聞いてくれている」。そうすると、愛を感じるそうです。男性の頭の構造には、聞くという能力がゴマ粒ほどであると先ほど話しました。本当に、私たち男性には訓練が必要です。でも、最近、わかったことですが、女性にも聞くということに対して忍耐がいるようです。私は世の中をできるだけ明るくするために、家内にも話しかけます。我が家では家内は余り話しません。おそらく7000語ぐらいなのかもしれません。そして、私がこういうことがあったと面白そうなエピソードを話します。すると家内は「前も聞いた」と言うんですね。私としては何度か言わないと脳の中が満足しないのです。しかし、「前も聞いた。何度も言わないで」と言われるとカチンと来ます。家内は老人ホームで看護師として日中、働いています。それで私が言います。「あなたねー、ご老人といつも一緒にいるでしょう。ご老人は何べんも同じことを言うだろう。なのに、あなたがねー『前も聞いた』と言ってごらん。どうなる?おじいしゃん、おばあちゃんに『前も聞いた』と言えるかい?」こんなたわいもないような会話をします。つまり、私たちにはコミュニケーション技術が必要であります。丸屋先生は著書の中で、コミュニケーションの障害になるものをいくつか上げています。相手とのコミュニケーションの障害となるものは何でしょうか?(1)さばく、(2)きめつけ、(3)批判、(4)診断、(5)アドバイスなどです。男性は理性的にものごとを考えがちなので「それは親子関係に問題があるなー」とか「君はこうしたら良いんだよ」と教えたりします。女性にとって、これが結構、良くないらしいんですね。女性はアドバイスが欲しくて言っているんじゃなくて、聞いてもらいたいから話すということなんです。いやー、複雑です。そして、コミュニケーションの助けとなるものは何でしょうか?それは信頼関係を築くコミュニケーションです。(1)相手を尊重する態度、(2)オープンな態度(何でも話せる雰囲気)、(3)本物の態度、優しい態度を取っても、それが本物でないとどうなるでしょう。何かあると怒りを爆発させたり、不機嫌になったりします。(4)共感する態度、(5)傾聴する態度。わー、態度が問題なのですね。

イエス様は「自分を愛するように隣人を愛せよ」と言われました。人とのコミュニケーション、人間関係、結構複雑です。いろいろ訓練も必要でしょう。でも、基本は何でしょうか?自分の声に耳を傾けるということです。セルフトーク、自分の声に耳を傾けるということです。しかし、それだけでは不十分です。神様との会話、イエス様が私に何と語りかけているかを聞くということも重要です。そして、イエス様に何でも語る。どんなことでも打ち明ける。そして、また自分の声に耳を傾ける。「ああ、そうだなー」と納得する。そのように自分を愛する。自分が神様から受け入れられていることを自覚する。そのことが土台となって伴侶や隣人とコミュニケーションをもてるようになると思います。主にあって自分を受け入れる。そして、主にあって隣人を受け入れる。こういう作業がいつも必要だと思います。

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