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2009年11月 8日 (日)

妻と夫に告ぐ    エペソ5:22-27

 きょうの聖書箇所は結婚式の式文の中にも引用されている有名な箇所です。しかし、近年、ウーマンリブ運動がおこり、教会以外の式場ではあまり語られなかったのではないかと思います。なぜなら、「夫に従え」とか、「夫は妻のかしらである」とか言うならば、反発を食らうからです。「古い、時代遅れだ」とか「何という女性蔑視だ」と言われかねません。しかし、本当でしょうか?これは神様が与えた秩序であり、原則です。どの時代にあっても通用するものです。ローマの時代、「妻を愛せよ、自分のからだのように愛せよ」ということは全くなかったからです。かつての、日本や韓国でも、女性の人権ははなはだ低かったでしょう。今もイスラム圏やインドなどでは、夫の所有物みたいなところがあります。それに比べたら、聖書ははるかに、女性の味方であります。何が違うのでしょう?身分が違うのではなく、機能が違うのです。きょうは、夫と妻のそれぞれの機能、働きについて学びたいと思います。

1.妻に対する教え

 まず、最初に、「妻は夫に従え」と書いてあります。「妻は夫に従いなさい」「妻は夫に従いなさい」。気持ち良いですね。では、なぜ、妻は夫に従うべきなのでしょうか?23節「なぜなら、キリストは教会のかしらであるように、・・・夫は妻のかしらである」と書かれています。教会はキリストのからだであると聖書で言われています。からだなる教会のかしらはキリストです。同じように、人間で言うなら、夫が頭の部分で、妻が体であるということです。みなさん、頭と体、どっちが偉いのでしょうか?頭は体なしでは何もすることができません。体は頭の司令がなければ正しく動くことができません。つまり、どちらが偉いかではなく、機能の違いだということです。頭は体の上にあると、大変、機能的であります。頭が足の膝のところにあったら不便です。頭が体の上にあるから、色んなものが見えたりするのです。また、「かしら」には、源という意味があります。源がきよければ、下の部分もきよいのです。源が汚れるならば、下の部分も汚れるのです。また、「かしら」はリーダーシップを意味します。かしらは司令も出すけれど、同時に責任も取るということです。体に対して、「ノー」という時も必要なのです。旧訳聖書を見ると、夫がかしらとしての役目を果たさなかったことが何度かあります。まず、エバが食べてはならない木から取って食べた時、アダムは「ノー」と言いませんでした。エバがヘビに誘惑されているのをそばでだまって見ていました。そして、エバがくれた木の実を自分も食べました。もう1つの出来事は、アブラハムは子どもが与えられると約束をいただいていました。しかし、サラが「私はもう年なので、そばめに入ってください」と提案しました。アブラハムはそのとき、「ノー」と言うべきだったのですが、「ああ、そうか、そんなに言うなら」と従いました。それで、アラブの子孫であるイシュマエルが生まれたのです。これは、からだとかしらが逆転してしまった悪い例です。

 パウロは24節で「教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです」と命じました。教会はキリスト様をあがめ、キリスト様に仕え、キリスト様に従っています。そのように、妻も夫に従えというのです。すばらしいですね。アーメン。そうしてください。でも、どうでしょうか?「教会がキリストに従うように、妻が夫に従う」とはどういうことでしょうか?教会の長い歴史を見たとき、教会は完全にキリスト様に従ってきたでしょうか?はなはだ不従順だったこともしばしばあります。キリストの権威を教皇や組織が横取りしました。そのため、中世の時代はむちゃくちゃ堕落しました。今の時代でも、クリスチャンである私たちがイエス・キリストに100%従っているかというとそうでもありません。従いたい気持ちはもちろんありますが、そうできないときもたくさんあります。ということはどうでしょう?「教会がキリストに従うように、妻が夫に従え」とは、そういうところも加味されているということです。従えない罪の傾向性や弱さもあっても良いとは言わないけれど、従えないときもあるということです。そうしますと、なんとなくほっとします。でも、妻たちは「私はイエス様に従うけれど、夫には従いません」とは言えないのです。イエス様に従うように、夫にも従う努力をすべきなのです。でも、夫が未信者であったならばどうすべきでしょうか?全く、聖書的でないことを命じたりするかもしれません。また、妻の信仰を認めないばかりか、迫害するかもしれません。そうすると、妻の方は「聖書の真理が全くわからないんだから」とだんだん、軽蔑するようになるでしょう。妻の信仰が篤ければ篤いほど、夫との間に溝ができてくるでしょう。

 聖書には「信仰のない夫に対しても従え」と書いてあります。コロサイ3:18「妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい」とあります。つまり、主イエス様が第一であり、神様のみこころに反することであるならば、従わなくても良いということです。また、Ⅰペテロ3:1には「妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。」とあります。そのふるまいが、だんだん、夫に影響を与えていくということです。松戸に岡野先生がいらっしゃいます。岡野先生は一度、教会を潰したという経験から、180度変えられました。今までは集会第一、伝道第一、奉仕第一でした。しかし、それ以来、夫や妻、子ども、家族を大事にするように勧めています。名前が○○教会ではなく、「グレイス・ホーム」にしています。たとえば、ご婦人が勉強会などでイエス様を信じて救われました。でも、ご主人が未信者なので、日曜日の礼拝には来られない。ではどうするか?今までだったら、礼拝厳守と言っていましたが、そうではありません。このように答えているそうです。「月曜日とか水曜日でも良いです。日曜礼拝が守れなくてもぜんぜんかまいません。みことばにあるように、夫に従い、仕えることです」と勧めます。その姉妹はこれまで、仕事から帰ると疲れて、夕食も遅くなるし、適当になっていました。しかし、夫のために美味しい夕食を作ってあげました。それまでだったら、給料安いとかブツブツ言っていたけど、夫に感謝するようになった。数ヶ月後、そのご主人さんから電話があったそうです。「うちの女房が教会へ行ってから変わりました。妻がどんな神様を信じているか知りたいので、こんど伺ってもよろしいですか?」という電話だったそうです。こういう証が、グレイス・ホームにはたくさんあります。常磐牧師セルで集まりを持っていますが、岡野先生ご夫妻にこういう話題が回ると止まらないんです。「ああ、またか」と思いますが、「すごいもんだなー」といつも驚きます。

 私たちは家族の伝道が難しいと思います。でも、聖書の原則を守るということはとても大事なことです。33節でも「妻もまた自分の夫を敬いなさい」と言われています。と言われながらも、なかなか夫を敬えない。「敬えるような夫だったら敬う」と言うかもしれません。でも、男は神様から、かしらとして造られているのです。かしらの役目をうとんじられて、ゲシゲシと足蹴にされたらどうでしょうか?男は「ああ、それだったら良いよ」と、ふぬけになるのです。このところに「人は父と母を離れ」とあります。ある家庭は、妻とそのお母さんが、婿に対して力をふるっています。そのお婿さんは、ギャンブルやキャバクラに行ったりするそうです。もちろん、その男性にも問題がありますが、妻とそのお母さんが組んで、圧力をかけたならば男は形無しであります。もちろん、そういうケースはまれかもしれませんが、かしらとからだが逆転していることは結構あるかもしれません。傘でたとえるとどうでしょうか?普通、傘は広がったところが上で、柄の方が下です。これは夫がかしらとしてリーダーシップを取っている姿です。妻や子どもは安心して暮らすことができます。しかし、夫がかしらとしての責任を果たしていないとどうなるでしょうか?傘に穴が開いた状態です。雨がどんどん落ちてくる。妻や子どもがひどい状況になります。では、逆に妻が夫に代わってリーダーシップを取ったらどうなるでしょう?それは、傘が逆さまになった状態です。柄の方が上で、広がったところが下です。それでは、雨はたまるし、傘の役目を果たすことができません。男は本来、かしらになるように造られているのです。おだてが半分でも良いから、妻から敬われると、その気になるのです。賢い妻は95%まで、ほとんど決めていても、最後の5%の決断を夫に任せます。もうだれが見ても結論は出ている。しかし、夫を立てて、最後の決断を任せる。夫は「よっしゃー」と決断をします。すると、夫は責任を取ろうとするのです。男は単純です。どうぞ、夫をほめてやってください。そうすれば、妻に命を与えます。

2.夫に対する教え

 エペソ5:25「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」パウロは、妻たちには「夫に従え」と命じています。そして、夫たちには、「妻を愛せよ」と命じています。果たして、どちらが難しいのでしょうか?実は、妻を愛する方がより大変なのです。なぜなら、「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、自分の妻を愛せよ」となっているからです。愛するとは、ギリシャ語で「アガパオー」ですから、自分を捨てる愛であります。イエス様は私たち教会のために、十字架で命を捨ててくださいました。ここに愛があるのです。夫が、イエス様が教会を愛したように愛するとは、そういうことなのです。一方、「教会がキリストに従うように、妻が夫に従う」とはいい加減さも、入っているのです。でも、キリストの愛には、「適当とか、だいたい、まあまあ」というところがありません。本当に自分を犠牲にする愛であります。夫は、そのように妻を愛さなければならないということです。しかし、何故、「夫に愛せよ」と命じて、「妻にも愛せよ」となっていないのでしょうか?では、妻は夫を愛さなくても良いのでしょうか?そんなことはありません。妻も夫を愛すべきであります。これは、イニシアチブの問題です。イニシアチブとは、「率先する」という意味です。ローマ5:8「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」とあります。イエス様は私たちが正しくなってから、死なれたのではありません。私たちがまだ罪人であったときであります。キリストの愛とは、無条件であります。「こっちが罪を悔い改めたなら」とか、「正しくなってから」ではありません。「まだ、罪の真中にいたときに」であります。ですから、夫が妻を愛するとは、妻が自分を愛していないときでも、自分の方から愛するということです。また、何か悪いことを謝るときもイニシアチブを取るべきです。「お前が謝ったらあやまる」「あなたが謝ったらあやまる」。これでは、らちがあきません。こういうときも、夫の方から謝るのです。「神様はご自分は悪くないのに、私たちに和解の手をさしのべている」とⅡコリント5章に書いてあります。夫、男性は、そういう役目、そういう任務を神様から負っているのです。あるご夫婦がふとんに入りました。すると、天上の蛍光灯がつきっぱなしでした。妻が「あなた消してよ」と言いました。「いや、もう寝たところだからお前、消せよ」。「私だっていやだわ、あなた消してよ」。それで大きな喧嘩に発展したということです。どっちがおりるか、夫がおりて、スイッチを消したら丸くおさまるのです。これが愛のイニシアチブです。家でも、寝ているとき、家内が横から「あなた玄関のドア、鍵かけた?」と言います。「子どもが帰ってくるだろう」と私が答える。すると、「鍵持っているから、鍵かけてきて」と言うんですね。私は「なんだよー」と言いながら、階段を降りて行って鍵を閉めます。これが愛のイニシアチブです。

 26節以降には、夫が妻を愛するとは具体的にはどのようなことなのか、もっと詳しく書かれています。キリスト様が教会を愛した愛は、どのようなものだったのでしょうか?かしらなるキリストは、からだなる教会をこのようにして愛しました。26節には、「みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとする」と書いてあります。教会は妻のことですから、夫は妻を聖なるものとするということです。これはすごいことであります。結婚したての頃の若くてきれいな妻を聖なるものとすることはたやすいことかもしれません。でも、一緒に生活して、何十年もたつと、「意外と聖くない」という面がいっぱい見えてきます。独身男性は、独身女性を身も心も聖いものと思っています。でも、結婚すると、それは幻想だったのでしょうか?そうではありません。夫は、「みことばにより、水の洗い」つまり、キリストの贖いを通して、妻を聖いものとして見ていくのであります。イエス様は教会の私たちを聖徒、セイントとしてごらんになっておられます。すると、私たちは主のご期待にそって、より聖くなっていくのです。夫たちよ、どんなことがあっても、妻を聖いものと見てください。そうすると、信仰によって、恵みによって聖くなっていくのです。アーメン。もう1つは、27節です。「ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」聖書で教会はキリストの花嫁にたとえられています。イエス様は教会をやがて、このように聖めてくださるのです。しかし、ここに、「しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会」と書いてあります。もちろん、これは再臨の時の教会であります。でも、これが夫に対する妻の愛というように、考えたならばどうなるでしょうか?妻も年を取れば、しみや、しわ、いろんなところが出てくるでしょう。腰が曲がったりして、どこかに障害が起こるかもしれません。でも、「しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会、栄光の妻」。どういう意味なんでしょう?これは、外側ではなく、内面のことであります。Ⅱコリントに「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。・・・たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」とあります。夫たちよ、外側を見てはいけません。魂を内なる人を見ていくのです。外なる人には、「しみや、しわやたるみがあるなー」と思っても、内なる人は、つやつやで、栄光に輝いているのです。天国で会うときには、まさしく栄光の姿であります。私たちは内なる人を見る鏡を持ちたいものであります。

 最後に、エペソ5:28,29「 そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。」これも、夫が妻に対する愛のかたちであります。夫は妻を自分のからだのように愛さなければなりません。私たちは自分のからだをどうするでしょうか?自分のからだを労わるでしょう。ここに「養い育てる」と書いてありますが、どういう意味でしょう?英語の聖書は、「養い、かわいがる」と訳されています。Cherishということばです。それはまるで、鉢植えの花を育てるように、「養い、かわいがる」のであります。土に養分を与え、水を与え、日光に当てます。すると、葉っぱが開き、花を咲かせます。完成した切花はお花屋さんに売っています。今が見ごろとばかり、立派に咲いています。でも、根がないのでまもなく枯れます。でも、鉢植えの花はどうでしょうか?最初は小さいかもしれません。でも、だんだん成長します。そして花が咲きます。花が散っても大丈夫です。また次の年になれば花が咲くんです。もっと、数多くの花が咲くのです。こういうふうに、夫が妻を「養い育てる」ならなんと幸いでしょうか?「妻が愛を感じるのはどういうときでしょうか?」と、男性たちに質問したそうです。男性としては、「それは経済的な必要ではないか?」と言います。ある男性が妻にこういいました。車に乗りながら、「立派な車だろう。マンションだっておれが働いて買ったんだ。必要なものは何でもそろえてあげた。一体、何が不満なんだ!」と言いました。妻はあなたの愛がほしいのと答えたそうです。これは単純な男性にはわからないことであります。女性は、「細やかな配慮」が一番、愛を感じるということであります。それは、目に見える物ではなく、心の問題であり、優しいことばだそうです。そうでしょうか?私は、ここで語る資格はありませんが、あえて説教者として、講壇から語らさせていただいております。

 アムステルダムは堤防に囲まれた国であります。彼らは昔から、堤防を築き、堤防を管理していました。堤防やダムで、一番、気をつけるべきことは小さな穴であります。ねずみとかモグラが穴をあけます。最初はちょろちょろしていて、見逃してしまいます。でも、そのままにしておいたら、堤防が決壊し、大洪水になるでしょう。さきほど「しみや、しわ、傷がないように」、また「花のように養い育てる」と申し上げました。結構、こういうことは小さい問題であります。夫は経済的な必要を満たすこと、金を稼いでくること。もちろん、大切なことであります。でも、多くの男性は、細やかなことに対する愛の配慮がたりなくて、堤防が決壊してしまいます。たとい、大喧嘩はしなくても、小さな針でチクリ、小さな針でチクリと刺す。たわいもない皮肉や批判、あらさがしなど、これが積もり積もって堤防を決壊させてしまうのです。私もそうですが、ちょっとした言い方一つで、随分と違います。私なんか「めんどうくさい!」とやってきました。でも、妻を愛する、妻を労わること、これは自分の体を愛することと同じなんだということです。

私が座間教会にいたころ、高橋みおさんというおばあちゃんがいました。教会が大好きな人で、よく教会のお掃除も一緒にしました。ところが、未信者のご主人がみおさんをいつも迫害していました。みおさんは「大川先生のお嫁さんになって、教会に住みたい」と言っていました。ある日、おばあちゃんがお風呂場で倒れ、そのまま召されてしまいました。お葬儀をすることになり、ご主人の高橋さんが教会に初めてお見えになりました。「ああ、この人がそうか!」と心の中でさばきました。高橋さんは「聖書のあることばを発見した」と私たちスタッフに告げました。「聖書に、自分の妻を愛する者は自分を愛しているのですと書いてある。わしゃー、妻をちっとも愛さなかった。ということは、自分を愛していなかったんじゃ。ああ、妻を自分のからだのように愛するべきだった」。高橋さんは、心から悔い改め洗礼を受けました。その後、長男ご夫妻とお嬢さんが、イエス様を信じて洗礼を受けました。高橋さんは、若かった私たちに、「私のような失敗を犯さないように」と忠告してくださったのです。ですから、この箇所を読むたびに、今は天に召された高橋さんのことを思い出します。「自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです」。なんというすばらしいことばでしょうか。お祈りいたしましょう。

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