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2009年11月 1日 (日)

御霊に満たされなさい   エペソ5:15-21

 私ごとですが、家内と私が結婚したのは、1981年11月1日でした。ですからきょうで、満28年になりました。私にとっては、人生の半分が独身で、半分が結婚生活ということになります。このあと28年あるかどうかは分かりません。もうすでに、かなり記憶が飛ぶことがあるので、ちょっとだけ心配です。たとえどんなことがあっても、イエス様の方は私のことをお忘れにはならないので安心です。きょうは、エペソ人への手紙の中でも最も有名な箇所を学びたいと思います。

1.機会を十分に生かして用いなさい

 エペソ5:16「機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。」「機会」という言葉は、英語の聖書にはtime(時間)と、opportunity(機会)と2種類に訳されています。新共同訳は「時」と訳しています。おそらく、両方の意味が含まれているのではないかと思います。興味深いことに、原文のギリシャ語では、「時を贖いなさい」となっています。これを丁寧に訳しますと、「悪いことに用いられている、今の時間を買い戻して、善いことに用いなさい」ということになります。エペソ5章の前半で、世の人々はどういうことをしていると書いてあったでしょうか?不品行、汚れ、むさぼりをしていました。また、みだらなこと、愚かな話、下品な冗談を言っていました。つまりそれらは暗やみのわざであります。愚かな人たちは、もっぱら、そういうことに時間を費やしているのであります。一方、私たち光の子は、そういう悪い時代の中にあって、時間や機会を有効に使いなさいということです。有効に使うとは、主のみこころは何かをよく悟って、そのことのために、時間を使うということであります。

 私たちは時間や機会を正しく管理できたらすばらしいと思います。クリスチャンはイエス様を信じたので既に永遠の命が与えられています。私たちは、片足をこの世につけていますが、もう片方の足は永遠の御国に突っ込んでします。いずれは、この世とおさらばして、永遠の御国に住まうのであります。永遠と比べたら、この地上の生活は、一瞬であり、瞬き程度のものであります。だからこそ、私たちはこの地上での時間を大切に用いるべきなのです。聖書をよく見ますと、この地上でどのように生きたかが、1000年王国、御国でどのように生きるか左右されると書いてあります。ミナのたとえや、タラントのたとえでは、私たちに任せられたものに対して忠実であったかが問われます。もし、私たちは小さなものに忠実であったなら、向こうでは大きなものを任せられるというのです。救われて永遠のいのちが与えられたんだから、鼻をほじくって、のんびり暮らせるということではありません。私たちに任せられているものの中で、時間は非常に大切であります。貧しい人にも大金持ちの人にも、平等に1日、24時間与えられています。秒すると、一日は、86,400秒であります。1秒を1円とするならば、86,400円であります。1日に86,400円もらっているとしたら、とってもリッチな気分になります。あなたの銀行の口座に毎日、86,400円が振り込まれるのです。あなたはそれをどのように使うでしょうか?その時間というお金は、人にあげることもできないし、また、明日に持ち越すこともできません。あなたが一日で、86,400円を使わなければならないのです。もちろん、何もしないで捨てることもできます。世の中には、暇をもてあましている人たちがたくさんいます。でも、その86,400円を有効に使うこともできます。もし、私がこれから先20年生きるとしたら、どれくらいの金額になるでしょう?一年を365日にして計算すると20年では、6億3,072万円になります。ハレルヤ!私はこの先、6億3,072万円振り込まれることになっています。いやー、すごいですね。

 丸屋真也先生が最近お書きになった『タイム・マネージメント・スキル』本があります。日本語でいうと、「時間を管理する方法」であります。ちょっと本から引用したいと思います。まず、時間を管理していない生き方があります。それは、時間に追われるような生活をしている人です。サラリーマン、OL、子育て中の主婦、医師や看護師等の専門職、さらに個人事業主などは典型的な時間に追われる生活と言って良いでしょう。毎日しなければならないことがたくさんあり、その責任を果たすことにひたすら邁進しているのです。その結果、時間が飛ぶように流れる中、たくさんの仕事をこなしているのです。そのような時間の流れから逃れる手段は、自分の手の中にはなく、終電の時間がくるとか、体力や精神力の限界から病気を患うことによって、やむなく追われている時間をとめることができるのです。そのような生き方ですと当然タイム・マネージメントはできません。もう1つの極端な生き方は、時間を気にしない生き方です。そういう人は、一日をその日のことだけ考えて生活するのです。明日どうするかを考えたり、計画したりすることをしません。こういう人も、正しく時間を管理していない人です。では、私たちはどのように時間を管理することができるのでしょうか?①時間の制限を前提として生きる。私たちは水道を出しっぱなしにすると「もったいな」と言って、止めるでしょう。時間は放っておくと、どんどん流れていきますから、能動的に使わなければならないのです。②時間の使い方に意思を働かせる。限られた時間をどのように過ごしたいのか、自分の意思が反映した時間の使い方を考える。まず、一日の午前中は何をするか、午後は何をするか考える。次は、一週間単位で考える。たとえば、何曜日はお花の稽古をするとか。さらには1ヶ月単位、3ヶ月単位、半年単位。○○の資格を取るとか、○○級を目指すとかです。さらには1年、3年ぐらいまでの長期的な展望に立つということです。③同時に2つの計画を進行させる。主婦の場合、パソコンだけではなく、同時に語学を学ぶ。④時間の連続性を考える。一日一日の時間、つまりその時間の中でしたことが、次につながって、後には1つの結果を生むのです。結論的に、時間をコントロールするということは、生活をコントロールしていう感覚を持つことができます。それは、時間に追われていると感じるのとは逆の状態です。

 旧訳聖書のレビ記11章にはきよい動物ときよくない動物について書かれています。「海や川でも、水の中にいるもので、ひれとうろこを持つものは」きよいので食べても良いと書いてあります。しかし、ひれやうろこのないものはすべて忌むべきものです。なぜでしょう?ひれとうろこを持つ魚は、流れに逆らって進むことができます。しかし、うなぎとかどじょうは、その場所に留まり、泥の中で生活しています。そういう魚はきよくないのです。アジとかスズキは、ひれとうろこを持ち、流れに逆らって進むことができます。だからスズキはきよいのです。この世の人たちは、時の流れに身を任せています。着るものでも、持ち物でも流行を追っています。特に日本人は、みんなと合わせる傾向があります。みな、同じような文化や価値観を持っています。日本人の多くは、まことの神様を信じていません。目に見えるもの、手で触れるものしか信じません。まるで、この世の流れに乗るのが、最高の生き方のように思っています。でも、私たちは神様の計画を知り、聖霊の流れに沿って生きるべきであります。神様はアルファーでありオメガなるお方、初めであり終わりなるお方です。このお方のタイムスケジュールにのっとって生きるのが、もっとも賢い生き方であります。もう、歴史の総論は決まっているのです。この世はやがて終わり、御国がやってくるのです。総論は決まっていますが、各論と申しましょうか、個人個人の生き方がそこに組み込まれる必要があります。神様は、みなさん一人ひとりにも、ご計画をもっていらっしゃいます。ですから、神様にどのように生きるべきか、聞いてください。前回も申し上げましたが、人間には3つの生き方があります。第一は生存するためだけに生きる。食べて飲んで着るという動物的な生き方です。第二は自分が好きなように生きる生き方です。少しは知的かもしれませんが、自己中心的な生き方です。第三は神と人々に投資する生き方です。永遠の報いを期待して生きる最高の生き方です。時間も大切な財産です。時間の使い方は生活そのものです。どうぞ、神様と人々に時間を投資しましょう。神様から与えられた時間を有意義に用いましょう。

2.御霊に満たされなさい

 エペソ5:17,18「ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」まず、最初に申し上げたいことがあります。イエス様を信じてクリスチャンになりますと、もれなく、聖霊が与えられています。つまり、キリストの霊であられる、御霊が住んでおられます。このことは旧約時代にはなかったことです。新約の時代は、神様が聖霊によって、内にいてくださるということが実現したのです。昔は幕屋とか神殿に神様はおられました。しかし、キリスト様が死んでよみがえり、天に昇られた後はどうなったでしょう?その10日後のペンテコステに、聖霊が降ってこられました。イエス様とバトンタッチしてこの地上に来てくださったのです。2000年前のペンテコステ以来、イエス様を信じる者はだれでも、聖霊がその人の内に住んでくださっているのです。クリスチャンであるならば、もれなく聖霊がお住みになっているのです。使徒パウロは、「この奥義とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の望みのことです」(コロサイ1:27)と言われました。私たちは内におられる聖霊様を認め、心から感謝すべきであります。しかし、もう1つのことがこのところで命じられています。どんなことでしょうか?「御霊に満たされなさい」と命じられています。これは命令です。しかし、聖書の命令は不可能なものではなく、可能だから、そう言っているのであります。つまり、だれでも、聖霊に満たされることができるのです。いいえ、神様はあなたが望む以上に、あなたを聖霊で満たしたいのです。なぜなら、聖霊に満たされるならば、神様が求める多くのことが可能になるからです。韓国の牧師がこういうことをおっしゃっていました。ある人が「家には味噌がありません。醤油もありません。お米もないんです」と言いました。あれもない、これもない。何があれば良いのでしょうか?お金があれば、お味噌も、醤油も、お米も買うことができるでしょう。同じように、聖霊によって満たされたならば、健康も、賜物も、聖さも与えられるようになるのです。ハレルヤ!

 では、御霊に満たされるとはどういうことでしょうか?使徒パウロはお酒に酔うのと、御霊に満たされるのを比較しています。お酒に酔うとは、お酒に支配されるということです。自分の理性がなくなり、お酒にコントロールされてしまうということです。人がお酒に酔うとどうなるでしょうか?まず、ふだん弱くておとなしい人が、大胆になり雄弁になります。「部長がなんだ!女房がなんだ!丸めてただんでポイだ!バカヤロー」なんて言ったりします。それから、陽気になり歌い出します。「知らぬ同士が小皿たたいて、ちゃんちきおけさーあぁ」。今はそのまま、カラオケに行くかもしれません。もっと、酔うとどうなるでしょうか?まっすぐ歩けなくなります。あっちにふらふら、こっちにふらふらと行きます。それは、お酒にコントロールされているからです。自分がわからなくなり、朝、起きたらふとんの中。どうやって、帰ってきたのかさっぱり記憶がありません。でも、ちゃんとお家に帰ってきているんです。それでは、御霊に満たされるとはどういうことでしょうか?それは、御霊によってコントロールされるということです。どうなるでしょうか?お酒と同じように、大胆になります。使徒の働きを見ますと、以前の弟子たちは迫害を恐れて、部屋に閉じこもって隠れていました。しかし、ペンテコステ以来、彼らは大胆にキリストを宣べ伝えました。牢獄に捕られ、打ち叩かれても、キリストを宣べ伝えました。それから、御霊に満たされるとどうなるでしょう?賛美します。ある人は踊るかもしれません。私たちはクリスチャンはお酒なしでも、歌うことができます。また、自分の考えや好みではなく、聖霊によって導かれて生きるのです。自分の意思がないわけではありません。御霊に聞いて、行動するのです。御霊に導かれる生き方こそ、聖霊に満たされた人の特徴であります。

 エペソ人への手紙を見ますと、「御霊に満たされたらどうなるのか」「御霊に満たされた生活とはどういうものなのか」が記されています。それは、このあとのエペソ5:19「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」ふつうは、「御霊に満たされなさい」で終ってしまいます。しかし、聖書を文脈から読んでいくと、「聖霊に満たされた人はこういう生活が特徴的にあるのですよ」と言わんばかりです。では、御霊に満たされた生活とはどういうものなのでしょうか?第一には、賛美です。御霊に満たされたら賛美するのです。ある人は御霊に満たされるため賛美するかもしれませんが、その逆もありです。御霊に満たされたら賛美したくなるのです。しかし、このところを見るといくつかの賛美があることに気がつきます。詩とは、英語の聖書は詩篇となっています。おそら、当時は詩篇を抑揚をつけて朗読したのかもしれません。不思議なことに、詩篇は歌の歌詞のように整っています。現代では詩篇をそのまま歌にした曲もたくさんあります。2つ目は、賛美です。英語の聖書にはhymnsとなっています。いわゆる賛美歌や聖歌であります。しかし、本当のhymnsは時代に合わせて作られた賛美だと思います。保守的すぎる教会は、礼拝で賛美歌や聖歌しか歌いません。しかし、その当時は世の中の歌の歌詞だけを変えて、作ったものも多くあります。マルチンルターなどは、当時の流行歌を賛美歌にしました。また、リバイバルが起こったとき多くの新しい歌がうまれました。ですから、私たちは古い賛美歌にこだわる必要はなく、どんどん新しい歌を歌っていけば良いのです。詩篇にも「新しい歌を歌え!」と書いてあります。3つ目は「霊の歌」であります。英語の聖書はspiritual songsとなっています。「霊の歌」とあるので、アッセンブリーやペンテコステ系は、異言で賛美します。「霊の歌」とは異言の賛美だと解釈しているのかもしれません。そういう解釈を否定はしませんが、私はこのような公の集会では小声でやってくださるようにお願いいたします。なぜなら、コリント人への手紙には、「新しい人が入って来たら躓くから」と書いてあるからです。小グループの集会では大いにやって結構です。

 賛美の次に来るのが、感謝です。「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい」とあります。良いことが起こったときはだれでも感謝ができます。しかし、ここでは「いつでも、すべてのことについて」と書いてあります。みなさん、究極の祈りをご存知でしょうか?究極の祈りとは、感謝であります。私たちがどんな状況の中でも、「ああ、神様がこのところでも働いておられるんだ。万事を益にしてくださる神様、ありがとうございます」。そのように感謝するなら、神様は喜んでかなえてくださるのです。どうぞ、苦しみの真中で感謝をささげてください。痛みの真中で感謝をささげてください。絶望の真中で感謝をささげてください。神様がすばらしい臨在をもって、あなたを救ってくださいます。感謝には本当に力があります。私はクリスチャンになるまで、いやクリスチャンになってからも感謝が少なかったです。感謝ではなく、つぶやき、不平不満が多かったんです。「なんでだよー」と今でも言います。でも、すぐ切り替えます。「神様、感謝します。イエス様、ありがとうございます」。マタイ8:17「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った」とあります。イエス様がイザヤ書53章の預言を成就されました。ここに「わずらい」とありますが、別の訳は弱さとなっています。魂や肉体の虚弱、脆弱さであります。イエス様は私たちの罪を背負ってくださったばかりではなく、弱さや病気も背負ってくださったのです。背負ってくださるとは、取り去ってくださたという意味です。これはいつかとか、将来ではありません。ギリシャ語で「背負った」は、アオリスト形です。これは過去に起きた一回の出来事が、その先までずっと影響をおよぼしているという意味です。つまり、2000年前、イエス・キリストが十字架についたとき、罪も弱さも病も背負って解決してくださったという意味です。私たちは「ああ、イエス様は私たちの罪を負ってくださったんだ。だから私は赦されて天国に行ける」と信じています。しかし、私たちの弱さとか病気の場合は、将来のものとしてとらえています。そうではありません。罪と同じように、私たちの弱さや病をも、イエス様は取り去ってくださったのです。ハレルヤ!だから、私たちは単純に「ああ、そうですか、ありがとうございます」と感謝すれば良いのです。感謝は究極の祈りです。そして、感謝こそが主の御手を動かす強力な力であります。

 賛美と感謝の次に来るのが「従う」ということです。5:21「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい」アーメン。キリストを尊んで神様に対して、お互いに従うのであります。神様に対して従順になる。これが御霊によって満たされた人の生き方です。御霊に満たされると奇跡や癒しや不思議を行なうことができる。だから、「御霊に満たしてください!」と力を求めることは悪いことではありません。奇跡や力も必要ですが、もっと大切なしるしは、賛美と感謝と従順さであります。逆に言うなら、御霊に満たされている人の特徴は、賛美と感謝と従順さのある人であります。なにか、このように聖書から理解すると、御霊に満たされるということは別に特別なことではないように思えてきます。そうです。御霊に満たされるとは、特別なことではありません。これはクリスチャンにとって標準的なことなのです。どうぞ、御霊に、聖霊に満たされましょう。そして、この地上であっても、天国のような恵まれた生活をさせていただきましょう。なぜなら、御霊に満たされることが、祝福された、勝利ある信仰生活の秘訣だからです。

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